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2023年2月

2023年2月25日 (土)

倭国一の寺院「元興寺」(妄想編)―詔と創建順―

倭国一の寺院「元興寺」(妄想編)
詔と創建順[妄想][論理の赴くところ][神社・寺院]

 今回は、ある仮定に基づいて、「元興寺」「法興寺」「法隆寺」の創建順を論理的に求めてみます。

 「ある仮定」とは、次の詔に関することです。

…………………………………………………………………………………………………………………………

《推古天皇二年(五九四)》
二年春二月丙寅朔、詔皇太子及大臣、令興癃三寶。是時、諸臣連等、各爲君親之恩、競造佛舎。即是謂焉。
………………………………………………………………………………………………………………………… 

 

《仮定(妄想)》

 この詔は「九州王朝(倭国)」の天子が出した

 

《仮定の拠り所(妄想)》

 この記事にある「」という語は、欽明天皇十三年(五五二)冬十月条(注①)で既に使われています(初出)。『日本書紀』にはこの記事以外に「佛舎」という語はありません(すなわち「詔」には「佛舎」とあった)。この条で「佛舎。即是謂寺焉」との説明が入るのは、この詔にしたがって諸国が(当然その「国府」に)競って建てた「佛舎」は朝庭が「~」と統一して呼ぶことに決めた(ここで初めて「寺」という語が「佛殿」を意味することになった)ために、「」の説明(「即是謂焉。」)が必要になった。とすれば「寺」が初出する欽明天皇十三年(五五二)十月条は、例えば「神武天皇」の「天皇」のように、遡って使われていると考えられる。さもなくば、推古二年二月条の記事は、時代が繰り下げられているのかもしれません。

 

 さて、推古天皇二年(五九四)》二月丙寅朔の詔が、倭国(九州王朝)の天子が出したとすれば、論理的に次のようになります。

(1)「三寶をせしめよ」との詔に従えば、倭国「第一(No.1)」(「」)の寺院は当然「元興寺」を名乗る。
(2)次の(「第二」)の寺院は興寺」は名乗れないので、仏する意味の「寺」を名乗る。
(3)さらに次の(「第三」)の寺院は元興寺」も「法興寺」も名乗れないので、「()寺」を名乗る。

 この順序を入れ替えると「(漢風)寺号」の説明がつかなくなります。
80_20230225152901※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

注① 欽明天皇十三年(五五二)冬十月条 ‥‥‥ 岩波古典文学大系『日本書紀 下』原文は次の通り。

《欽明天皇十三年(壬申五五二)十月》
冬十月、百濟聖明王〈更名聖王。〉遣西部姫氏達率怒唎唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干巻。別表、讃流通・禮拜功德云、是法於諸法中、最爲殊勝。難解難入。周公・孔子、尚不能知。此法能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提。譬如人懐随意寶、逐所須用、盡依[忄靑]、此妙法寶亦復然。祈願依[忄靑]、無所乏。且夫遠自天竺、爰洎三韓、依教奉持、無不尊敬。由是、百濟王臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉傳帝國、流通畿内。果佛所記我法東流。是日、天皇聞已、歡喜踊躍、詔使者云、朕從昔來、未曾得聞如是微妙之法。然朕不自決。乃歴問群臣曰、西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾有。可禮以不。蘇我大臣稻目宿禰奏曰、西蕃諸國、一皆禮之。豐秋日本、豈獨背也。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同奏曰、我國家之、王天下者、恆以天地社稷百八十神、春夏秋冬、祭拜爲事。方今改拜蕃神、恐致國神之怒。天皇曰、宜付[忄靑]願人稻目宿禰、試令禮拜。大臣跪受而忻悦。安置小墾田家。懃修出世業、爲因。淨捨向原家爲。於後、國行疫氣、民致夭殘。久而愈多。不能治療。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同奏曰、昔日不須臣計、致斯病死。今不遠而復、必當有慶。宜早投棄、懃求後福。天皇曰、依奏。有司乃以佛像、流棄難波堀江。復縦火於伽藍。焼燼更無餘。於是、天無風雲、忽炎大殿。

2023年2月24日 (金)

PCの送信メールトラブル復旧

PCの送信メールトラブル復旧のお知らせ[おしらせ]

PCメールが送信だけできなかった(受信はできた)状態が復旧しました。
それによって、作成して「送信」ボタンをクリックしたが送信できていなかったメール(いくつか溜まっていた)が送信されてしまいました。
ご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんが、私から突然、思いもよらぬ過去の件に関するメールが届くかもしれませんが、作成タイムスタンプでご判断ください。
なお、送信メールトラブルの原因は、送信サーバーアドレスの一文字打ち間違いによるものでした(よく確認しない間抜けです)。

2023年2月22日 (水)

「出雲商業高校」グルーピー53―令和4年度 ふれあいコンサート―

「出雲商業高校」グルーピー53
令和4年度 ふれあいコンサート[「出雲商業高校」グルーピー] 

2023.02.12 島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部/令和4年度 ふれあいコンサート
投稿者コメント
2023年2月12日
島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部
令和4年度 ふれあいコンサート
♪魔法にかけられて
♪It Don't Mean A Thing
※字幕のミスと、音声編集の不良があったため、再編集・再アップロードしております。ご迷惑をおかけして申し訳ございません。

※本公演で撮影された写真・動画をSNS・動画サイトでのアップは禁止されておりますが、本動画については出雲商業高校吹奏楽部のご許可をいただいた上でアップしております。二次利用厳禁です。ご理解のほど、よろしくお願いいたします。

2023年2月21日 (火)

“高麗尺”と「令大尺」―「改新の詔」と「南朝大尺」―

“高麗尺”と「令大尺」
「改新の詔」と「南朝大尺」[論理の赴くところ][度量衡]
【末尾に唐大尺(隋開皇官尺)の場合を追加(2023/2/22)
誤計算していた「令大尺29.09㎝~29.70㎝の1.2倍の34.908㎝~34.884㎝を「(奈良時代)令大尺29.39㎝~29.70㎝の1.2倍の35.273㎝~35.636」に訂正しました。(2023/2/26)

 服部静尚さんの「改新の詔は九州王朝が出した」旨のYouTube動画が公開されています。

服部静尚@大化の改新の真実①大化の改新とは~一元史観の見方@和泉市コミュニティセンター@和泉史談会@20230214@29:01@DSCN0737
服部静尚@大化の改新の真実②改新の詔には異なる畿内定義が有る@和泉市コミュニティセンター@和泉史談会@20230214@15:06@DSCN0738
服部静尚@大化の改新の真実③改新の詔は律令政治のはじめ@20230214@29:01@DSCN0740
服部静尚@大化の改新の真実④大化年間の詔の評価@20230214@28:39@DSCN0741

 全部を拝見しておりませんが、その講演③の冒頭で度量衡の変遷について興味深い事実説明があり、仮説を思いつきましたので、述べてみたいと思います。

 改新の詔で「田長30歩、廣12歩を段とする」(一段の面積360歩)とあり、大宝律令(701)では「改めて段積250歩とする」とあり、和銅六年(713)の格で「重ねて復た改めて360歩とする」とあります。

 これは、三つは同じ面積であるが、度の単位を変更したことを言っているのだろうと思います。結局、和銅六年にはもとに戻したようです。 

改新の詔30歩×12歩=360歩
大宝律令25歩×10歩250歩(「25歩×10歩」は段積からの推定 

大宝令による「大尺」には次の二説があるようです。
“高麗尺”というものがあり、「令大尺」は“高麗尺”で、「令小尺」が「唐大尺」であった。
「令大尺」と「唐大尺」は同じで、その長さは曲尺の9寸6分~9寸8分で、奈良時代の物差し(正倉院蔵=“天平尺”)は曲尺の9寸7分~9寸8分

“高麗尺”は無かったので、によると、大尺29.09㎝~29.70㎝となります(曲尺は100033㎝)。奈良時代は29.39㎝~29.70㎝となります。 

 なぜこのような、とてつもない異説()がでるのでしょうか?

 この二説を統合する仮説として、南朝にも「大尺」(仮称「南朝大尺」)が存在した、という仮説を提唱したいと思います(「南朝大尺」との命名は古賀達也氏による)。

つまり、正始弩尺24.3㎝にはその1.2倍の「(仮称)正始大尺」29.16㎝が、晋後尺24.5㎝にはその1.2倍の「(仮称)晋後大尺」29.4㎝が存在した、という仮説です。 

この仮説によれば、一歩(いちぶ)大尺五尺ですので、「正始大尺」なら一歩1.458m、「晋後大尺」なら一歩1.47mですので、改新の詔の360歩(=30歩×12歩)は次のようになります。

【「正始大尺」29.16㎝の場合】
30歩(1.458×30×12歩(1.458×12)=765.27504

「晋後大尺」29.4㎝の場合
30歩(1.47×30×12歩(1.47mm×12)=777.92400  (『大尺』=29.63㎝×1.2=35.556㎝、『大尺』 五尺=1.7778m)

 また、大宝律令はこれを25歩×10歩としている(推定)のですから、「大宝一歩」は「改新一歩」の1.2倍でなければ同じ面積になりません。つまり、「一歩=『大尺』五尺」を守るならばこの『大尺』はいわゆる「唐大尺」=(奈良時代)令大尺29.39㎝~29.70㎝の1.2倍の35.273㎝~35.636㎝になります( 高麗尺はこれを誤認したことになります)。つまり、「一歩=大尺六尺」を「一歩『大尺』五尺」に変更した(「30歩×12歩=360歩」を「25歩×10歩=250歩」に変更した)ために、この『大尺』を高麗尺という寸法単位の尺度と誤認したのが説と考えられます(この『大尺』は寸法「尺」度ではなく「里」程の単位)。これによって統一的であった「尺」が寸法の度「大尺」と里程の度『大尺』に分裂してしまったと思われます(これは不都合でしょう)。なので、のちに元通りに戻されたのだと思われます。

【唐大尺(隋開皇官尺 )29.63㎝の場合】(2023/02/22追加)
30歩(1.4815m×30)×12歩(1.4815mm×12)=790.14321㎡ 
25(1.4815m×1.2×2510(1.4815m ×1.2×10)=790.14321㎡
(『大尺』35.556㎝ (=29.63㎝×1.2)、『一歩 』=『大尺』 五尺=1.7778m、この『一歩 』 が「一間」(「大尺」六尺
に相当)。

2023年2月17日 (金)

「出雲商業高校」グルーピー52―異色!演奏スピード検証動画―

「出雲商業高校」グルーピー52
―異色!演奏スピード検証動画―[「出雲商業高校」グルーピー]

 たまには、こういった趣向ものも「あり」かと()

【出商ブラス】「It Don't Mean A Thing」速度くらべてみました
投稿者コメント
島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部の定番曲「It Don't Mean A Thing」、
今年の部長さんが「爆速」とおっしゃるので、気になって、
演奏スピードをくらべてみました!
同じ曲でも毎年振り付けが変わっている点にもご注目ください!

2023年2月12日 (日)

肥さんの思い出(2)―「無かった」の論理―

肥さんの思い出(2)
「無かった」の論理[古田史学][論理の赴くところ]

 前回(肥さんの思い出(1)―真実に到達する手順―2023年2月12日(日))、肥さんの夢ブログの主 肥沼孝治さん(「古田史学の会」会員)から学んだことの一つとして、中小路駿逸先生の論稿「『日本書紀』の書名の「書」の字について」を紹介していただいたことを述べましたが、それ以前に「『無かった』の論理」も学ばせていただきました(肥さん夢ブログの次の記事です)。いわゆる聖武天皇の“「国分寺建立」の詔”と言われている詔には「「国分寺」という言葉が1つも出てこない」という事実を指摘する記事です。

「国分寺」はなかった!2016年1月30日(土) 

 確かに「七重塔を造れ」ということは書いてありますが、「国分寺」という言葉はありません。すなわち、この「“国分寺建立”の詔」と言われてきた詔は「『七重塔建立』」の詔」だったと肥さんは結論されました(つまり、「既存寺院に『七重塔を建てて』経を納めよとの詔だった」という仮説の提示です)。これで「多元的「国分寺」研究」に弾みがついたのです(詳しくは、左記サークルのブログをご覧ください)。

 また、この「『無かった』の論理」は、史書に寺院の創建記事が無いのは、その史書を編纂した王権の事績ではなかったという仮説の提示へと導きました(「元興寺」も創建記事がありません)。

 「『無かった』の論理」は寺院だけを対象として適用されたのではありません。古代官道にも適用されました。肥さんは上記の「国分寺」はなかった!においても、次のように書かれています(付注は山田)。
…………………………………………………………………………………………………………………………

実はこれと同じような経験をしたことがある。

東山道武蔵路の研究をしていて不思議に思ったのだが,

これについての初出記事は「この道を作った」ではなく,

「771年に,コースを変更した」という記事なのだった。

「全国6300キロにもわたる日本古代ハイウェーを建設した」という記事がないのに,

そのコース変更した記事が初出とは,これは「命じた主体を隠している」と言われても

仕方がないのではないかと思う。

そして,私は日本古代ハイウェーは九州王朝が作った軍用道路か?(注①)を書くことになった。

(拙論の中で,東山道武蔵路を作ったのは,側溝出土の土器から7世紀半ばと考えた)

注① 2012年2月10日 古田史学会報108号掲載、並びに 古田史学の会 編『古代に真実を求めて 古田史学論集第二十一集 発見された倭京――太宰府都城と官道』に再掲。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 この肥沼さんの「日本古代ハイウェーは九州王朝が作った軍用道路か?」に触発されて、「東山道十五国」の比定 西村論文「五畿七道の謎」の例証(2017年4月10日 古田史学会報139号掲載、並びに古田史学の会 『古代に真実を求めて 古田史学論集第二十一集 発見された倭京――太宰府都城と官道』に再掲。)を書くことができました。肥さん、ありがとう。

肥さんの思い出(1)―真実に到達する手順―

肥さんの思い出(1)
真実に到達する手順[古田史学][論理の赴くところ]

 肥さんの夢ブログの主 肥沼孝治さん(「古田史学の会」会員)からは多くのことを学びました。

 まず、第一に挙げなければならないのは、中小路駿逸先生の論稿「『日本書紀』の書名の「書」の字について」を探してご紹介いただいたことです。

肥さんの夢ブログ 『日本書紀』の書名の「書」の字について(中小路駿逸氏)2017年8月19日(土)

 

 この論稿によって「真実なるものに到達するための平凡かつ有効な手順」を知ることができました。私は古田武彦先生の著作を愛読している“一古田ファン”にすぎません(今も)ので、古田先生の研究方法を著書を読んで知っていた(つもりになっていた)のですが、真の意味では「理解できていなかった」のです。

 紹介いただいた論稿を読み、読後感想として要旨をまとめて肥さんに報告しようと思いましたが、コメントで返すには長すぎたので、ブログに掲載して読んでもらったのが次の記事です(なお、当該論文は2017年8月当時はネットで読めましたが、著作権の関係でしょう、現在ではネットでは閲覧できないようです。要旨でよければブログ記事をご覧ください)。

「『日本書紀』の書名の「書」の字について」を読んで中小路駿逸先生の論理の赴くところ―2017年8月19日(土)

 

 論稿のなかで最も印象に残った言葉は、次の所でした(下線強調等は山田による)。
…………………………………………………………………………………………………………………………

一 まず、所与の対象―この場合は史料の文辞―を観察しそこに何があり、何がないかを見きわめ、そこにあるものをそこにあるとし、そこにないものをそこにないとする

二 そして、その対象の示すところのものが真か否かは、右のことののちに考える

これが真実なるものに到達するための平凡かつ有効な手順である。

…………………………………………………………………………………………………………………………

 論稿のなかでも「そこにあるものをそこにあるとし、そこにないものをそこにないとする」「真か否かは、右のことののちに考える」という所に痛く感銘を受けました。この言葉に倣って試みたのが、平城京の大官大寺」シリーズ倭国一の寺院「元興寺」」シリーズなどで行った読解です。『日本書紀』を鵜呑みにするとかしないとかの話ではなく、そこに書かれていることを書かれているとし。書かれていないことを書かれていないとしているのです。

 それ以外については「妄想」と断って述べています。

 ブログ記事「「元興寺」シリーズ」(「平城京の大官大寺」や「倭国一の寺院「元興寺」」)は、肥沼孝治さんに献辞を捧げたい。肥さん、ありがとう。

2023年2月 9日 (木)

「京都橘高校」グルーピー95―ちょっと昔の橘っコ❤集まりまーす!! (Feb 5, 2023)―

「京都橘高校」グルーピー95
ちょっと昔の橘っコ❤集まりまーす!! (Feb 5, 2023)―[「京都橘高校」グルーピー]

 私的には、美空ひばりメドレーが嬉しかったです。信長「であるか。」 

ちょっと昔の橘っコ❤集まりまーす!! コンサート vol.8 Ⅰ (Feb 5, 2023)
投稿者コメント
橘ファミリーバンド(TFB) Tachibana Family BAND ~Special Concert~
2023年2月5日 醍醐交流会館ホール
♥Ⅰ部
00:00♩旧友 / Alte Kameraden by Carl Teike
07:01♩マンダーレンの風景 / Måndalen landscapes by Philip Sparke
14:38♩カーニバルのマーチ / March in Carnival by Koichi Sugimoto
20:53♩ゴールデン・ジュビリー / Golden Jubilee by Alfred Reed
 

ちょっと昔の橘っコ❤集まりまーす!! コンサート vol.8 Ⅱ (Feb 5, 2023)
投稿者コメント
橘ファミリーバンド(TFB) Tachibana Family BAND ~Special Concert~
2023年2月5日 醍醐交流会館ホール
♥Ⅱ部
00:00♩ジャパニーズ・グラフィティXVII 美空ひばりメドレー / Japanese Graffiti XVII ”Hibari Misora” Medley
11:44♩「ハリーポッター」ハイライト / Highlights from Harry Potter arr. Michael Story
17:40♩「ムーン・リバー」TFBバージョン / Moon River by Henry Mancini ( TFB version )
23:58♩ハリウッド・マイルストーンズ / Hollywood Milestones arr. John Higgins
38:33♩見上げてごらん夜の星を / Come raise your eyes to the sky ( Encore )
46:46♩ふるさと / My home village ( Encore )

2023年2月 3日 (金)

倭国一の寺院「元興寺」(番外編)―「法興寺」から「飛鳥寺」へ―

倭国一の寺院「元興寺」(番外編)
「法興寺」から「飛鳥寺」へ[論理の赴くところ][神社・寺院]

 

最後の「法興寺」

 『日本書紀』において、天武天皇元年(六七二)六月己丑29日〕条〔注1〕以後、「飛鳥寺(あすかでら)」という「寺名(てらな)〔注2〕(和風「山号」)では登場するものの、「法興寺(ほうこうじ)」という「寺号(じごう)」は消えてなくなります。次は『日本書紀』で「法興寺」が最後に登場する件(くだり)です。
…………………………………………………………………………………………………………………………
《天智天皇一〇年(六七一)十月甲子朔》
是月、天皇遣使奉袈裟・金鉢・象牙・沈水香・旃檀香、及諸珍財於法興寺佛。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 

壬申の乱以後の寺名

 次は、上記条文以降に登場する個別寺院名(固有名詞)を拾ってみたものです(同一条文中に同一寺院名が複数登場しても一件としています)。呼び方(ひらがな)は現代仮名遣いにしています。
…………………………………………………………………………………………………………………………
《天武天皇元年(六七二)七月庚寅朔》壬子〔23日〕条:大井寺(おおいでら)所在不明
《天武天皇二年(六七三)三月丙戌朔》是月条:川原寺(かわらでら)
《天武天皇二年(六七三)十二月壬午朔》戊戌〔17日〕条:官職名は漢風「造高市大寺司(ぞうたけちだいじし)ですが、寺名は「高市大寺(たけちおおでら)」です。「〈今大官大寺(だいかんだいじ)、是。〉」という割注がついています。
《天武天皇六年(六七七)二月癸巳朔》是月条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇六年(六七七)八月》八月辛卯朔乙巳〔15日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇九年(六八〇)四月乙巳朔》乙卯〔11日〕条:橘寺(たちばなでら)
《天武天皇九年(六八〇)四月》是月条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇九年(六八〇)七月》秋七月甲戌朔条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇九年(六八〇)七月》癸巳〔20日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇九年(六八〇)十一月壬申朔》癸未〔12日〕条:藥師寺(やくしじ)
《天武天皇十年(六八一)九月丁酉朔》庚戌〔14日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十一年(六八二)七月壬辰朔》戊午〔27日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十一年(六八二)八月壬戌朔》庚寅〔29日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《天武天皇十三年(六八四)閏四月壬午朔》乙巳〔24日〕条;飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十四年(六八五)五月》五月丙午朔庚戌〔5日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十四年(六八五)八月》八月甲戌朔乙酉〔12日〕条:淨土寺(じょうどじ)
《天武天皇十四年(六八五)八月》丙戌〔13日〕条:川原寺(かわらでら)
《天武天皇十四年(六八五)九月甲辰朔》丁卯〔24日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)川原寺(かわらでら)飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十四年(六八五)十二月壬申朔》丁亥〔16日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《朱鳥元年(六八六)正月》庚戌〔9日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《朱鳥元年(六八六)四月》壬午〔13日〕条:川原寺(かわらでら)
《朱鳥元年(六八六)五月庚子朔】》癸丑〔14日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《朱鳥元年(六八六)五月》癸亥〔24日〕条:川原寺(かわらでら)
《朱鳥元年(六八六)六月己巳朔》甲申〔16日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《朱鳥元年(六八六)六月》丁亥〔19日〕条:川原寺(かわらでら)
《朱鳥元年(六八六)七月己亥朔》是月条:大官大寺(だいかんだいじ)
《朱鳥元年(六八六)八月己巳朔》己丑〔21日〕条:檜隈寺(ひのくまでら)輕寺(かるでら)大窪寺(おおくぼでら)
《朱鳥元年(六八六)八月》辛卯〔23日〕条:巨勢寺(こせでら)
《朱鳥元年(六八六)四月庚午朔》壬午〔13日〕条:川原寺(かわらでら)
《朱鳥元年(六八六)九月》九月戊戌朔辛丑〔4日〕条:川原寺(かわらでら)
《持統天皇即位前紀朱鳥元年(六八六)十二月》十二月丁卯朔乙酉〔19日〕条:大官(だいかん)飛鳥(あすか)川原(かわら)小墾田豐浦(おはりだとゆら)坂田(さかた)・・・大官(だいかん)以外は「~でら」
《持統元年(六八七)八月壬辰朔》己未〔28日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《持統二年(六八八)正月庚申朔》丁卯〔8日〕条:藥師寺(やくしじ)
《持統二年(六八八)十二月》十二月乙酉朔丙申〔12日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《持統八年(六九四)三月甲申朔》己亥〔16日〕条:益須寺(やすでら)
《持統十年(六九六)十一月》十一月己亥朔戊申〔10日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《持統十一年(六九七)七月》癸亥〔29日〕条:藥師寺(やくしじ)
…………………………………………………………………………………………………………………………
 「寺号」(漢風寺号)で登場するのは、登場順で藥師寺(やくしじ)大官大寺(だいかんだいじ)淨土寺(じょうどじ)の3寺だけで、残りは皆「大字」を冠した寺名(てらな)で、唯一の例外は大字・小字の両方を冠した「小墾田豐浦(おはりだとゆら)」(おはりだとゆらでら)で、これも寺名(てらな)です。

 

寺名(てらな)ではない寺院

 藥師寺(やくしじ)大官大寺(だいかんだいじ)淨土寺(じょうどじ)の3寺が寺名ではありませんが、「藥師」や「浄土」を冠した寺院は、「藥師(如来)」や「(極楽)浄土」が仏教用語なので「(漢風)寺号」のままになっていると思われます。

 仏教用語ではない唯一の例外「大官大寺(だいかんだいじ)」は、「高市大寺(たけちおおでら)」を「大官大寺(だいかんだいじ)」と改名して、所在地「高市(たけち)」(高市郡夜部村『扶桑畧記』、高市郡高市里『日本三代實録』)を冠する寺名(てらな)が消滅したためであると思われます。

《天武天皇二年(六七三)十二月壬午朔》
戊戌〔17日〕、以小紫美濃王・小錦下紀臣訶多麻呂、拜造高市大寺司。〈今大官大寺、是。〉時知事福林僧、由老辭知事。然不聽焉。
『扶桑畧記』によれば、天武六年(677)に「高市大寺」から「大官大寺」へ改称したとあります。

 

漢風寺号が消えたのは

 『日本書紀』には天武天皇が「諸寺の名を定む」(「定諸寺名也」)とあり、これはへそ曲がりな私の読み方かもしれませんが、「諸(もろもろの)寺名(てらな=和風寺号)を定む」とも読めます。すなわち、『日本書紀』の記述からは、「(漢風)寺号」を含め複数ある寺院の呼び名を、「和風寺号」つまり寺名(てらな)に天武天皇が統一したと考えられます。

《天武天皇八年(六七九)四月》
夏四月辛亥朔乙卯〔5日〕、詔曰、商量諸有食封寺所由。而可加々之、可除々之。是日、定諸寺名也

 

寺名(てらな)に統一したわけ

 朱鳥元年七月戊午〔20日〕条に、つぎのような興味深い割注があります。

《朱鳥元年(六八六)七月》
戊午、改元曰朱鳥元年。〈朱鳥、此云阿訶美苔利。〉仍名宮曰飛鳥淨御原宮。 

 年号「朱鳥」は漢字を普通に(通例に従って)読めば「シュチョウ」ですが、「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という年号だというのです。たしかに「朱」は「あか」なので「あかみ」(「み」は接尾辞)と読めます(朱(あけみ)さんもいますし)。しかし、年号を音読する通例を破るとはなかなかのものではないでしょうか(現在でも年号は「令和(れいわ)」と音読みしています)。

 「これほどまでにする理由」は次の二つが考えられます。

(一)天武天皇は「和風が好き」だった。
(二)天武天皇は「漢風が嫌い」だった。

 ハンバーグの話ではなく、政治の世界の話ですから、個人の「そっちよりこっちの方が好き」というような話では断じてありません。すなわち、天武天皇の政権にとって、(一)和風を重んじ(二)漢風を軽んじる方が都合良かった、と言うこと以外には考えられません。

 そんな政治的理由があったのでしょうか。

 ありました。唐の力を借りて近江朝を打倒した「壬申の乱」です。倭国内には反唐勢力も根強く存在し続けたはずです。近江朝を倒した調子に乗って「漢風」を尊重していれば、「奴等は唐の回し者だ」というキャンペーンを張られて、反唐勢力の力が増大していく恐れから、「私たちは唐とは関係ありません」というポーズを取ってそのことを宣伝していく必要があったのです(これは私の解釈にすぎませんが)。 

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注1 天武天皇元年(六七二)六月己丑〔29日〕‥‥‥ 「法興寺」という漢風寺号が消えて「飛鳥寺(あすかでら)」という和風寺号で登場するのは「壬申の乱」からです。
《天武天皇元年(六七二)六月辛酉朔》
己丑、天皇往和蹔、命高市皇子、號令軍衆。天皇亦還于野上而居之。是日、大伴連吹負、密與留守司坂上直熊毛議之、謂一二漢直等曰、我詐稱高市皇子、率數十騎、自飛鳥寺北路、出之臨營。乃汝内應之。既而繕兵於百濟家、自南門出之。先秦造熊、令犢鼻而乘馬馳之、俾唱於寺西營中曰、高市皇子、自不破至。軍衆多從。爰留守司高坂王、及興兵使者穗積臣百足等、據飛鳥寺西槻下爲營。唯百足居小墾田兵庫、運兵於近江。時營中軍衆、聞熊叫聲、悉散走。仍大伴連吹負、率數十騎劇來。則熊毛及諸直等、共與連和。軍士亦從。乃擧高市皇子之命、喚穗積臣百足於小墾田兵庫。爰百足乘馬緩來。逮于飛鳥寺西槻下、有人曰、下馬也。時百足下馬遅之。便取其襟以引墮、射中壹箭。因抜刀斬而殺之。乃禁穗積臣五百枝・物部首日向。俄而赦之置軍中。且喚高坂王・稚狹王、而令從軍焉。既而遣大伴連安麻呂・坂上直老・佐味君宿那麻呂等於不破宮、令奏事状。天皇大喜之。因乃令吹負拜將軍。是時、三輪君高市麻呂・鴨茂君蝦夷等、及群豪傑者、如響悉會將軍麾下。乃規襲近江。撰衆中之英俊、爲別將及軍監。庚寅、初向乃樂。 

注2 「寺名(てらな) ‥‥‥ 私は、寺院の所在を示す漢風寺号「山号」に相当する「邑号」ともいうべき和風寺号を、漢風の「寺号(じごう)」と区別して「寺名(てらな)」と呼んでいます。これは学術用語ではありません。このブログ内で使用しているだけのものとご承知おきください。また、この呼び方に倣えと言うつもりもありません(誤解無き様に)。

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