倭国一の寺院「元興寺」(番外編)
―「法興寺」から「飛鳥寺」へ―[論理の赴くところ][神社・寺院]
最後の「法興寺」
『日本書紀』において、天武天皇元年(六七二)六月己丑〔29日〕条〔注1〕以後、「飛鳥寺(あすかでら)」という「寺名(てらな)」〔注2〕(和風「山号」)では登場するものの、「法興寺(ほうこうじ)」という「寺号(じごう)」は消えてなくなります。次は『日本書紀』で「法興寺」が最後に登場する件(くだり)です。
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《天智天皇一〇年(六七一)十月甲子朔》
是月、天皇遣使奉袈裟・金鉢・象牙・沈水香・旃檀香、及諸珍財於法興寺佛。
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壬申の乱以後の寺名
次は、上記条文以降に登場する個別寺院名(固有名詞)を拾ってみたものです(同一条文中に同一寺院名が複数登場しても一件としています)。呼び方(ひらがな)は現代仮名遣いにしています。
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《天武天皇元年(六七二)七月庚寅朔》壬子〔23日〕条:大井寺(おおいでら)所在不明
《天武天皇二年(六七三)三月丙戌朔》是月条:川原寺(かわらでら)
《天武天皇二年(六七三)十二月壬午朔》戊戌〔17日〕条:官職名は漢風「造高市大寺司(ぞうたけちだいじし)ですが、寺名は「高市大寺(たけちおおでら)」です。「〈今大官大寺(だいかんだいじ)、是。〉」という割注がついています。
《天武天皇六年(六七七)二月癸巳朔》是月条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇六年(六七七)八月》八月辛卯朔乙巳〔15日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇九年(六八〇)四月乙巳朔》乙卯〔11日〕条:橘寺(たちばなでら)
《天武天皇九年(六八〇)四月》是月条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇九年(六八〇)七月》秋七月甲戌朔条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇九年(六八〇)七月》癸巳〔20日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇九年(六八〇)十一月壬申朔》癸未〔12日〕条:藥師寺(やくしじ)
《天武天皇十年(六八一)九月丁酉朔》庚戌〔14日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十一年(六八二)七月壬辰朔》戊午〔27日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十一年(六八二)八月壬戌朔》庚寅〔29日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《天武天皇十三年(六八四)閏四月壬午朔》乙巳〔24日〕条;飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十四年(六八五)五月》五月丙午朔庚戌〔5日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十四年(六八五)八月》八月甲戌朔乙酉〔12日〕条:淨土寺(じょうどじ)
《天武天皇十四年(六八五)八月》丙戌〔13日〕条:川原寺(かわらでら)
《天武天皇十四年(六八五)九月甲辰朔》丁卯〔24日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)・川原寺(かわらでら)・飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十四年(六八五)十二月壬申朔》丁亥〔16日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《朱鳥元年(六八六)正月》庚戌〔9日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《朱鳥元年(六八六)四月》壬午〔13日〕条:川原寺(かわらでら)
《朱鳥元年(六八六)五月庚子朔】》癸丑〔14日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《朱鳥元年(六八六)五月》癸亥〔24日〕条:川原寺(かわらでら)
《朱鳥元年(六八六)六月己巳朔》甲申〔16日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《朱鳥元年(六八六)六月》丁亥〔19日〕条:川原寺(かわらでら)
《朱鳥元年(六八六)七月己亥朔》是月条:大官大寺(だいかんだいじ)
《朱鳥元年(六八六)八月己巳朔》己丑〔21日〕条:檜隈寺(ひのくまでら)・輕寺(かるでら)・大窪寺(おおくぼでら)
《朱鳥元年(六八六)八月》辛卯〔23日〕条:巨勢寺(こせでら)
《朱鳥元年(六八六)四月庚午朔》壬午〔13日〕条:川原寺(かわらでら)
《朱鳥元年(六八六)九月》九月戊戌朔辛丑〔4日〕条:川原寺(かわらでら)
《持統天皇即位前紀朱鳥元年(六八六)十二月》十二月丁卯朔乙酉〔19日〕条:大官(だいかん)・飛鳥(あすか)・川原(かわら)・小墾田豐浦(おはりだとゆら)・坂田(さかた)・・・大官(だいかん)以外は「~でら」
《持統元年(六八七)八月壬辰朔》己未〔28日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《持統二年(六八八)正月庚申朔》丁卯〔8日〕条:藥師寺(やくしじ)
《持統二年(六八八)十二月》十二月乙酉朔丙申〔12日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《持統八年(六九四)三月甲申朔》己亥〔16日〕条:益須寺(やすでら)
《持統十年(六九六)十一月》十一月己亥朔戊申〔10日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《持統十一年(六九七)七月》癸亥〔29日〕条:藥師寺(やくしじ)
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「寺号」(漢風寺号)で登場するのは、登場順で藥師寺(やくしじ)・大官大寺(だいかんだいじ)・淨土寺(じょうどじ)の3寺だけで、残りは皆「大字」を冠した寺名(てらな)で、唯一の例外は大字・小字の両方を冠した「小墾田豐浦(おはりだとゆら)」(おはりだとゆらでら)で、これも寺名(てらな)です。
寺名(てらな)ではない寺院
藥師寺(やくしじ)・大官大寺(だいかんだいじ)・淨土寺(じょうどじ)の3寺が寺名ではありませんが、「藥師」や「浄土」を冠した寺院は、「藥師(如来)」や「(極楽)浄土」が仏教用語なので「(漢風)寺号」のままになっていると思われます。
仏教用語ではない唯一の例外「大官大寺(だいかんだいじ)」は、「高市大寺(たけちおおでら)」を「大官大寺(だいかんだいじ)」と改名して、所在地「高市(たけち)」(高市郡夜部村『扶桑畧記』、高市郡高市里『日本三代實録』)を冠する寺名(てらな)が消滅したためであると思われます。
《天武天皇二年(六七三)十二月壬午朔》
戊戌〔17日〕、以小紫美濃王・小錦下紀臣訶多麻呂、拜造高市大寺司。〈今大官大寺、是。〉時知事福林僧、由老辭知事。然不聽焉。
『扶桑畧記』によれば、天武六年(677)に「高市大寺」から「大官大寺」へ改称したとあります。
漢風寺号が消えたのは
『日本書紀』には天武天皇が「諸寺の名を定む」(「定諸寺名也」)とあり、これはへそ曲がりな私の読み方かもしれませんが、「諸(もろもろの)寺名(てらな=和風寺号)を定む」とも読めます。すなわち、『日本書紀』の記述からは、「(漢風)寺号」を含め複数ある寺院の呼び名を、「和風寺号」(つまり寺名(てらな))に天武天皇が統一したと考えられます。
《天武天皇八年(六七九)四月》
夏四月辛亥朔乙卯〔5日〕、詔曰、商量諸有食封寺所由。而可加々之、可除々之。是日、定諸寺名也。
寺名(てらな)に統一したわけ
朱鳥元年七月戊午〔20日〕条に、つぎのような興味深い割注があります。
《朱鳥元年(六八六)七月》
戊午、改元曰朱鳥元年。〈朱鳥、此云阿訶美苔利。〉仍名宮曰飛鳥淨御原宮。
年号「朱鳥」は漢字を普通に(通例に従って)読めば「シュチョウ」ですが、「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という年号だというのです。たしかに「朱」は「あか」なので「あかみ」(「み」は接尾辞)と読めます(朱(あけみ)さんもいますし)。しかし、年号を音読する通例を破るとはなかなかのものではないでしょうか(現在でも年号は「令和(れいわ)」と音読みしています)。
「これほどまでにする理由」は次の二つが考えられます。
(一)天武天皇は「和風が好き」だった。
(二)天武天皇は「漢風が嫌い」だった。
ハンバーグの話ではなく、政治の世界の話ですから、個人の「そっちよりこっちの方が好き」というような話では断じてありません。すなわち、天武天皇の政権にとって、(一)和風を重んじ(二)漢風を軽んじる方が都合良かった、と言うこと以外には考えられません。
そんな政治的理由があったのでしょうか。
ありました。唐の力を借りて近江朝を打倒した「壬申の乱」です。倭国内には反唐勢力も根強く存在し続けたはずです。近江朝を倒した調子に乗って「漢風」を尊重していれば、「奴等は唐の回し者だ」というキャンペーンを張られて、反唐勢力の力が増大していく恐れから、「私たちは唐とは関係ありません」というポーズを取ってそのことを宣伝していく必要があったのです(これは私の解釈にすぎませんが)。
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注1 天武天皇元年(六七二)六月己丑〔29日〕条‥‥‥ 「法興寺」という漢風寺号が消えて「飛鳥寺(あすかでら)」という和風寺号で登場するのは「壬申の乱」からです。
《天武天皇元年(六七二)六月辛酉朔》
己丑、天皇往和蹔、命高市皇子、號令軍衆。天皇亦還于野上而居之。是日、大伴連吹負、密與留守司坂上直熊毛議之、謂一二漢直等曰、我詐稱高市皇子、率數十騎、自飛鳥寺北路、出之臨營。乃汝内應之。既而繕兵於百濟家、自南門出之。先秦造熊、令犢鼻而乘馬馳之、俾唱於寺西營中曰、高市皇子、自不破至。軍衆多從。爰留守司高坂王、及興兵使者穗積臣百足等、據飛鳥寺西槻下爲營。唯百足居小墾田兵庫、運兵於近江。時營中軍衆、聞熊叫聲、悉散走。仍大伴連吹負、率數十騎劇來。則熊毛及諸直等、共與連和。軍士亦從。乃擧高市皇子之命、喚穗積臣百足於小墾田兵庫。爰百足乘馬緩來。逮于飛鳥寺西槻下、有人曰、下馬也。時百足下馬遅之。便取其襟以引墮、射中壹箭。因抜刀斬而殺之。乃禁穗積臣五百枝・物部首日向。俄而赦之置軍中。且喚高坂王・稚狹王、而令從軍焉。既而遣大伴連安麻呂・坂上直老・佐味君宿那麻呂等於不破宮、令奏事状。天皇大喜之。因乃令吹負拜將軍。是時、三輪君高市麻呂・鴨茂君蝦夷等、及群豪傑者、如響悉會將軍麾下。乃規襲近江。撰衆中之英俊、爲別將及軍監。庚寅、初向乃樂。
注2 「寺名(てらな)」 ‥‥‥ 私は、寺院の所在を示す漢風寺号「山号」に相当する「邑号」ともいうべき和風寺号を、漢風の「寺号(じごう)」と区別して「寺名(てらな)」と呼んでいます。これは学術用語ではありません。このブログ内で使用しているだけのものとご承知おきください。また、この呼び方に倣えと言うつもりもありません(誤解無き様に)。
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