神科条里と「番匠」②
―条里と「国府寺」(「多元No.174 Mar.2023」掲載)―[コラム]
2023年3月4日、吉村八洲男さまより「多元No.174 Mar.2023」に掲載される論考のご寄稿を頂きました。掲載された「多元」誌が届きましたので掲載したします。これはブログ記事 科野「神科条里」②「条里」と「九州王朝・国府寺」編 を推敲されたものと察しますが、「多元的古代史研究会」の会誌「多元」向けの論稿に相応しく、論理的により洗練されたように感じました。いわば、吉村さんが追及してきた「神科条里」と「科野○○寺」に関する最終結論と言ってもよいものだと思います。論中で拙論を取り上げて頂き、感謝申し上げます。
なお、本文中への〔〕の挿入とリンクの貼り付け及び挿図位置の変更、並びにケアレスミス「日本書紀・聖武天皇の詔」の「続日本紀・聖武天皇の詔」への校正は山田が独断で行っています。ご了承ください。
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神科条里と「番匠」②
『条里と「国府寺」』(多元174、R5・3)
上田市 吉村八洲男
1.初めに
前論〔科野・「神科条里」①「条里」と「番匠」編〕で上田地域・「検地帳・類」に「57例(!)」が残る「番匠」語を紹介した。この上田「番匠」語には「一元的解釈からの定説」が全く成立しなかった。それどころか分析からは、古代起因の使用例として残るかと疑われた。そして正木裕氏が発見された「九州年号」が記載された最古の資料(7世紀・「三嶋神社縁起」)からの語義予測、『「番(かわるがわる)に匠」を集める制度』が正しい理解と結論された。上田「番匠」語は、最古の資料にあった「番匠」語からの解釈と一致する用例として残っていると思えた。
この「番匠」語は「神科条里」・隣接地の「検地帳」に多く残され、発掘による考古からも『「神科条里」は「九州王朝」により作成されたか』と推論される事となる。
『「九州勢」が「神科条里」を造った』。驚きの予測だが「古田史学会報No.136・168」「古田会ニュースNo.192・200」更に再三の「多元」での私主張と連続すると思えた。
2.阿部周一氏の「番匠」論
「阿部周一」氏が「古記と番匠と難波宮」(「古田史学会報No.143」)で重要な推論を展開された。
『「前期難波宮」の造営には多くの「雇民」が動員された、それが「続日本紀」「他資料」から窺える』とされたのである。阿部氏は、「令集解」に登場する数多い注釈書の中から最古の注釈書と言われる「古記」に特に注目された。「古記」は「養老律令」以前の「大宝律令」をも説明する唯一の「注釈書」と言われていたが、それだけでなく「大宝律令」以前の事例にも数多く言及しているとし、その実例もいくつか挙げられたのだ。
そして、『「令集解」の「古記・注釈」中に、「(前期)難波宮」設立に際しての「番匠」の存在を疑わせる記述部分がある』と読解されたのである。
『三嶋神社縁起』で発見された「番匠」語の詳細を、「令集解」中にある「古記」註釈から読み解き説明されたのである。不明であった「番匠」語への重要な指摘であった。
阿部氏は、「番匠」とは「養老律令・賦役令」にある「丁匠(の制度)」がそれに相当すると発見されたのだ。この制度が「大宝令」以前に生まれ、関連する「語」の使用も「孝徳時代から」、とも読解されたのである。
さらに阿部氏の論考は「番匠」制度の運用にも及んだ。その時(「前期難波宮」造営時)、「近国(西方の民)」から「中つ国(瀬戸内周辺国)」・「遠国(近畿地方の国)」へと「匠」の徴発国が変化している、と読解されたのである。各地から交互に「匠」の徴発を行うこの制度は、「交番制」を意味する。そこからも、「番匠」制度がすでに造られ諸国から「匠」集団を徴集していた、と推定したのである(この「近・中・遠国」判断基準から、この制度の創立者が「九州王朝」だとも判断された)。」
細部にまで及んだこれらの論考だが、同時に正木氏の先見的な数々の推論を裏付けるものでもあった。阿部氏は、正木氏の論考の正しさを追証し、支持されたのである。
私も両者の立論には納得させられた。正木氏により「孝徳期に番匠制度が始まった」と推定され(「三島神社縁起」)」、阿部氏により「番匠」の内容・運用までもが確定された(「令集解」から!)のである。「番匠」制度・語は、「九州王朝」が創設したと思えた。そして(だから)、王朝交代後に公式資料から消されていった言葉と思えた。
そして驚くことに、上田「検地帳・類」に残された「番匠」語には、阿部氏の推定を裏付ける「番匠関連地(国)名」が残っていたのである!
3.もう一つの「番匠」の論理
「令集解(古記・註)」には、こう書かれていた。
『「九州」地方(「近国」)からの徴発が最初にありその後「中つ国」として「瀬戸内周辺国」へと移り、最後に「遠国」である「近畿」の人々がその対象となった』
「番匠」の徴集を説明した重要な部分である。徴集に際し、ランダム(思いつくままに)「匠」を集めたのではないと読み取れた。移動の難易度や「匠」の技能特徴などを考慮して「(徴集)国」を決めた、そして徴集に際しては「ブロック化した国々から」と予想されたのだ(だから「番(かわるがわる)の匠」なのだ!)。
そう考えた時、『上田「検地帳・類」』に記載されたある「地名」に思い至る。解釈不明とされていた、それらの「地名」に説明がつくのである。それが「国名」を示した「地名」である。それが、「神科条里」想定地・隣接する村の「検地帳」にはっきり残っているのである。
「笹井村検地帳」には、「はりま(播磨)町・いずみ(和泉)町・するが(駿河)田」、「染谷村検地帳」には「えちご(越後)田」、「新谷村検地帳」には「さぬき(讃岐)田」、「伊勢山村検地帳」には「やまと(大和)町」と記載されているのである。「いせ(伊勢)」名も多く残されていた(合計すると7か国名。さらに「我妻」「びぜん」「たじま」などの国名も離れた他の村から確認される)。
私には、これらが「番匠」が徴集された「国名」である事に間違いはないと思えた。そして驚くべきことにも気づいたのだ。
これらの「国々」が「ブロックを形成している」と思えたのだ。ランダムな選択による地名・国名とは思えなかったのだ。「播磨・和泉・駿河・越後・讃岐・大和・伊勢」、私にはこの国名は「近畿・中部」地区に属する「国名」と判断された。これは阿部氏論考にある『遠国の国名』が該当すると思えた。ブロック形成を示すと思えたのだ!
『「科野・神科条里」で「番匠」と呼ばれた「土地造成の匠」』は、『「遠国(近畿・中部地方)」から徴集された匠たち』であったと推測できるのである。
「神科条里」に残る「国・地名」は、「令集解」からの阿部氏推論の実証例と思えた。上田「検地帳」に残る「国名」は、更なる「番匠語の論理」を示したと思えた。
4.真田町の「番匠」地名
前論発表後、真田町・清水潤氏からご教示を受けた。「まんちう村」と表記された地名(前号資料・「不明 7」)に関することであった。この地名は、清水家に伝来する古文書『真田氏給人知行地検地帳』に記載されていた地名だったからである。
清水氏は、真田の「まんちう(番匠)」とは、一地名ではなく連続する広い地域名ではないか、と指摘されたのである。
下図に、古文書の該当する部分を表示する。
図1:真田「まんちう(番匠)」(・印は吉村による)
やはり「8か所」から「まんちう(中)」地名が確認され、連続しても書かれていた。土地所有者「松尾豊前守」の配下と思える複数の耕作者名(8名)がそこに書かれていた。
指摘された通りであった。『真田「まんちう(番匠)」』とは、一地点名ではなく「地域」を表す地名でもあったのだ。「真田給人知行地検地帳」からは、そう断言されるのである。
小冊子作成時に、これらの連続した「まんちう」地名を一つの地名として扱ってしまったと思えた。
そしてこれはある推測へと繋がる。図2は、現在の「真田町・字(あざ)」図の一部である。そこには「番匠」地名が確認されるのだ(朱線部)。
図2:「真田町・字(あざ)」
現在の地名に、「番匠」語が残っていると思えた!今に残っているのだ!
古代の「番匠」語がそのまま現在の「字(地域)名」となっていると判断された。「まんちう」と書かれた「真田給人検地帳」が両者を繋げていたのだ。
「真田町史」では、『「番匠」地名の命名された理由は全く不明である』とするが、その説明のままではもうすまないだろう。推論(結論)はすでに出たと思えるからである。
そして「真田」以外でも、「神科条里」地名に「番匠」語が「町」名と結びついて残っている例がある(資料 25・26・27)。そこからは『「番匠」地名は、広域地を示す時もあった』と判断して良いと思えた。「多数」の「番匠」たちが生活していたからだと推察されよう。
つまり『「多数の匠」が長期間「科野」の仕事に携わった』と思えた。
そう考えた時、上田地区でこれに該当する事業は一つしかない。それが「神川」を中心とした「治水(灌漑)・土地造成事業」である。「神川」左部で「吉田堰」・水田を造り、右部でも多数の「堰」や「神科条里」を造った一連の事業である。
図3:神科条里 略図(染谷台)
水路造成から豊かな土地を造り生産を確保する、それは進出地支配を完全なものとする事業であろう。「神科条里」は進出者「九州王朝」が作ったと断言できるのである。「番匠」語の論理はそう結論するのである。
5.上田の「国分寺(僧寺・尼寺)」
さて上田市には「国分寺」が至近距離に二つある。定説は、発掘「寺」遺構の大きなものを「信濃国分寺・僧寺」、小さな方を「国分寺・尼寺」と判断し、「聖武天皇」の「国分寺建立の詔」の具体例だとして来た。
だが、「信濃国分寺」創建に関する文献は全くなく、主として「考古学」から寺の持った諸問題が取り組まれてきた。
その結果、「僧寺」の8世紀(760年頃か)建立が証明される。「瓦」への判定・考古が決め手となった。
そして自動的に、左脇の小伽藍は「尼寺」と判断される。それへの議論・検討は全くなかった。「続日本紀・聖武天皇の詔」が、絶対的な判断基準だったからである。一つが「僧寺」なら、もう一つは後の時代に創建された「尼寺」に決まっているのだ!
ところで改めて、「伽藍配置図」を見てほしい。「アレッ?」「なんかオカシイなあ!」子供でもそれに気付くだろう。
図4:伽藍配置(奈良時代の信濃国分寺 僧寺・尼寺の伽藍配置図)
どう見ても「二寺は同方向を向いていない」のである。「伽藍配置の中心(軸)線」が明瞭に異なっているのだ(皆様もぜひご確認ください)。
つい見過ごしてしまうが、これは重要な事である。「伽藍中心線の違い」は、作成者の思想の違い、つまり体制の違いを示すと思えるからである。
確かにおかしい、定説(「僧寺」後に「尼寺」が創建)通りなら、後の時代の「尼寺・伽藍中心線」は「僧寺」の中心線と「平行」な筈であろう。同じ体制下に作られた二寺であり、しかも隣り合わせの二寺である。隣接した「尼寺」を、わざわざと「中心線(方向)」を変えて作る理由など全くないからだ。
しかし、両寺の中心線は確実に異なる。だから疑問がわいても当然と思える。
『「尼寺」が先に創建されたのではないか』。つまり、『九州王朝により「〇〇寺」が先に作られ、後の時代にそれが「尼寺」と呼ばれたのではないだろうか』。
そう疑った時、問題とする「尼寺(〇〇 寺?)中心線」への数多い論考に気づく。
「神科条里」を発見された白井恒文氏は、その著書中で再三にわたり『尼寺の伽藍中心線は、条里線と一致する』(「上田付近の条里遺構の研究」)と主張されていた。
資料・測量などを根拠としたこの推定に対し「信濃国分寺発掘団長・斎藤忠氏」も他国の例を挙げ間違いないとされたようだし、最近では「山田春広氏」が航空図・僧寺参道から同様な推定をされている(ブログ・「sanmaoの暦歴徒然草」〔信濃国分僧寺より「〇〇寺」が先に建てられた〕H18・2・27)。
平成元年発行の「長野県史」にもこの推論は記載されている(「現在版」にはないが)。発見者も、一流歴史家も、在野の研究家も「尼寺中心線は条里線と重なる」と主張したのである。この「一致説」は定説として認められたと言ってもいいであろう。
だがこれは、「〇〇寺」が条里作成時から条里に組み込まれていた、つまり「〇〇寺」が条里と共に創建された事を意味し示していると思える。
永らく「考古学」は、こう断言してきた。『条里線と尼寺伽藍中心線は一致するが、国分寺創建問題はそれとは無関係である』。本当なのだろうか?
「番匠」地名が示した『神科条里は九州王朝によって作られた』結論は、この定説を疑問視、いや否定する。それどころか軽視されてきた「一致説」に脚光が当たるのだ。
『条里は九州王朝により作られた』のだから当然、『「〇〇寺(尼寺)」もその時に作られた』と断言できるのである。つまり条里(区画)線上にあった「尼寺」とは、九州王朝により作られた「○○寺(国府寺)」だったと推定されるのである!
「尼寺」は九州王朝により建立された「〇〇寺)」だった、つまり「王朝交代」後にその寺がリメイク(再利用)され「尼寺」と呼ばれるようになった。だから九州王朝が創建した「〇〇寺」は、今も「尼寺(遺構)」として残っている事になる!
まさに驚天動地の結論となる。だが論理を積み重ねるとそうなるのだ。そしてこう考えると「伽藍中心線の違い」は不思議ではなくなる。「九州王朝が作った寺(〇〇寺)」を否定すべく、次の時代に建立された寺が聖武天皇(大和王朝)の「国分寺・僧寺」となるからである。「中心線の違い」は当然の事となるのだ。
「番匠」語の発見以来、積み重ねてきた論理は指し示すと思える。『「科野の国・神科条里」には、九州王朝「国府寺」があった!』
驚くことにこれは今迄なされてきた「多元」研究者の数々の推定を裏付ける展開であり、具体例なのかも知れない。『「九州王朝・多利思北孤」により「六十六分国」がなされ、そこへ「国府寺」を設置した』と研究者は推定していたからである。
古賀達也氏は一連の「九州年号」研究・「多利思北孤・聖徳太子」研究などから、『二つある「国分寺」への疑問』を指摘し、『告貴元年(594)からの「国分(府)寺」設立』を先駆的に推論されていた。「九州王朝」が、「国府寺」を造っていたと推定したのである。神科条里に見られる「科野・国府寺」の存在はその推論を実証する遺構と思えた(正木裕氏も『九州年号「端正」と多利思北孤の事績』・『盗まれた分国と能楽の祖』などで同様な推論をされている)。
『九州王朝は、上田周辺を「科野の国」とし(分国し)、そこに「国分(府)寺」を建立した』と結論してよいと思えた。資料にしか残存しなかった「九州王朝・国分(府)」が、上田には「考古(遺構・他)」として遺存しているのだ!
6.終りに
「番匠」語からの論証は、思いがけない結論となった。『九州王朝により「神科条里」が造られ、「〇〇寺」も創建された。「信濃国分寺・僧寺」以前に「〇〇寺(尼寺)」が作られていた』のだ。
「論理」の積み重ねによるこれらの推論に対し、「実証」の不足を指摘する諸氏もあろう。既述したように「国分寺」創建関連の文献はほとんどないのだから余計にその指摘が重要となる。それぞれの寺の「創建された時代」への予測・推定には、「考古学」の知見・推測が重要な要素となる。
「〇〇寺」があった「神科条里」への少ない発掘(7回)の「報告書」では、「土器」(「鬼高期末期の土師器が8割」を占める)・「住居跡・祭祀場跡」の「柱穴」痕などから「7世紀(又はそれ以前)」の遺構ではないか、と推測している。そこからも『「神科条里」が「7世紀」に造成された』判断には間違いはないと思える。
残るは「〇〇寺(尼寺)」への考古からの判断となる。「〇〇寺で使われた尺・単位」、「〇〇寺の伽藍配置」、「〇〇寺の瓦」などへの推定が重要となる。次号はこれら「〇〇寺の考古学」に関しいささかの論考を試みたい。
(終)
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