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2023年5月

2023年5月25日 (木)

古代ギリシアと太陰太陽暦―元嘉暦は「メトン周期」を用いたのか?―

古代ギリシアと太陰太陽暦
元嘉暦は「メトン周期」を用いたのか?―[]

 元嘉暦は19年間に7閏を置く「章法」なので「メトン周期」を用いていると思っていましたが、それは早合点であることがわかりましたので報告します。 

古代ギリシアで発見された太陽と月の周期の比例関係

周期名(誕生時期)

発見・考案者

特徴や改良点

メトン周期
(B.C. 432
)

B.C.5世紀のアテナイの人

19年=235朔望月=6,940とする。19年に7閏月を入れれば1年と1ヶ月が合うとする(「章法」)。

カリポス周期
(B.C. 370
年ころ)

アテナイで活動した
キュジコス生まれの人

1太陽年を365.25日として19年=6939.75日。これを4倍した76年27,759日でメトン周期の4倍より1日減る。235月も4倍して940月27,759日とした。

1太陽年=27,759日÷76年=365.25日

1朔望月=27,759日÷940月≒29.530851日

ヒッパルコス周期
(B.C.330
年採用)

B.C.2世紀ころの

ニケヤの天文学者

カリポス周期をさらに4倍して1日を引き、

3043,760111,035とした。

1太陽年≒365.24671日、1朔望月≒29.530585日

《実際》

 

太陽年=365.2422日、朔望月=29.53059

 

太陰太陽暦の太陽と月の周期の比例関係


暦名


採用時期・選者編者


周期の調整メソッド


古六暦(こりくれき)
(古四分暦)


漢代以前

不明


「章法」:1章= 19年に7閏月を置く= 235
1
太陽年= 3651/4日(四分暦)= 365.25日と見られている。
朔望月は詳細が不明です。


後漢四分暦
(ごかんしぶんれき)


後漢 元和二年(85)
編訢、李梵


1蔀= 76年940月27,759日
1太陽年= 1461(周天)÷ 4(日法)365.25日3651/4
1
朔望月= 27,759(蔀日940(蔀月)29.530851日


元嘉暦
(げんかれき)


宋 元嘉廿二年(445)
何承天


1太陽年= 222,070(紀日)÷ 608(紀法)365.24671日

1朔望月= 22,207(通数)÷ 752(日法)29.530585


《実際》


 


太陽年=365.2422日、朔望月=29.53059

 元嘉暦の朔望月は、太陽と月の周期が合う(整数になる)最小公倍数と見られる222,070(分子)と一日の長さと見られる7,520(分子)が10で約されていると思われます(邪推です)。

 

元嘉暦が用いた周期はメトン周期ではなかった

 『宋書』卷十三 志第三 律曆下「元嘉曆法」には、常数(定数)が次のようにあります(下線部分彩色部分の八ヶ所だけをご覧ください)。
…………………………………………………………………………………………………………………………
,十九。
紀法,六百八。
章月,二百三十五。
紀月,七千五百二十
章閏,七。
紀日,二十二萬二千七十。
度分,七十五。
度法,三百四。
氣法,二十四。
餘數,一千五百九十五。
歲中,十二。
日法,七百五十二。
沒餘,一百九十六。
通數,二萬二千二百七。
通法,四十七。
沒法,三百一十九。
月周,四千六十四。
周天,十一萬一千三十五。
通周,二萬七百二十一。
周日日餘,四百一十七。
周虛,三百三十五。
會數,一百六十。
交限數,八百五十九。
會月,九百三十九。
朔望合數,八十。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 次は東京天文台の暦Wiki元嘉暦 (げんかれき) / 建元暦†から抜粋しました。
…………………………………………………………………………………………………………………………
1太陽年= 222070(紀日608(紀法)365.24671日
1朔望月= 22207(通数752(日法)29.530585日
…………………………………………………………………………………………………………………………

 「元嘉暦」の下線部分は「章法」ですが、「章法」は閏月の置き方で使っているだけで、太陽と月の周期を合わせるために用いていたのはメトン周期(19年=235朔望月)ではなく、メトン周期を32倍し、太陽年は608年222,070日とし、朔望月は7,520ヶ月の数値を用いて計算していました(この半分がヒッパルコス周期304年3,760月111,035日です)。すなわち、元嘉暦が用いていたのは「ヒッパルコス周期」だったのです。

 これと同じように「後漢四分暦」が用いていたのは「カリポス周期」だったのです。

2023年5月17日 (水)

朔望月と月朔―太陰太陽暦の日付―

朔望月と月朔
太陰太陽暦の日付[]

 前回の暦カテゴリー記事 回帰年と日干支―太陰太陽暦の日干支―では、麟徳甲子元暦(麟徳暦)を例にとって、太陰太陽暦はどのように日干支を求めているかを説明しました。説明のもとにした資料は、臺北市鼎文書局(底本:清懼盈齋刻本)(後晉)劉昫撰;楊家駱主編『舊唐書』志第十三曆二「麟德甲子元曆」の次の箇所です。
…………………………………………………………………………………………………………………………

麟德甲子元曆
上元甲子,距今大唐,歲積二十六萬九千八百八十算。
推法:一千三百四十。
期實:四十八萬九千四百二十八。
旬周:六十。

    推氣序術
置入甲子元積算距今所求年,以期乘之,為期總。滿法得一為積日,不滿為小餘。旬去積日,不盡為大餘。命大餘起甲子算外,即所求年天正中氣冬至恆日及大小餘。天正建子,律氣所由,故陰陽發斂,皆從其時為自。

〖意訳〗
「上元」の日干支は甲子で、麟德元年甲子年〔西暦664年〕から259,880年遡った年〔西暦-269,216年〕である。
「推法」〔一日の長さ、『新唐書』は「總法」と呼ぶ〕は1,340
「期實」〔回帰年、冬至から月の冬至までの長さ〕は489,428
「旬周」〔六十干支が一巡する干支の数〕は60

    「氣」〔二十四節気〕の序〔並びの最初〕の求め方
甲子元〔甲子年の上元〕から今所求年〔暦をつくる年〕まで年数〔積年〕を置き、それに期〔期實、回帰年の日数〕を乗じて期總〔積年の長さ〕とする。
法〔推法・總法〕を満たすと一つとして〔数えて、その数を〕「積日」とし、〔推法・總法を〕滿たさなければ〔その余りを〕「小餘」とする。「積日」から「旬」〔旬周〕去り〔引けるだけ引き去って〕って不盡〔その余り〕を大餘〔六十干支の余り〕とする。
すなわち求める年の天正中氣冬至恆日〔平気法(平均太陽年)による天正冬至の積日〕とその大餘〔日干支を特定する数値〕・小餘〔その時刻を示す数値〕である。
天正〔冬至のある月〕を子〔子月〕に建てる〔月の名称十二支で呼ぶ。〕。氣を律する〔判断基準とする〕所由〔ゆえん〕は、つまり陰陽〔月・太陽〕・四季の日の長短が皆自然とその時〔二十四氣の時〕に従うからである。
…………………………………………………………………………………………………………………………

前回のおさらい

 前回は、暦をつくる年を西暦697(倭国の持統十一年・文武元年)と仮定して、その天正冬至(暦をつくる年の前年の冬至)の日干支の求め方を示しました。

 上元(西暦-269,216)から天正冬至(暦をつくる年の前年(696)の冬至)までの年数(積年)269,913年に太陽年の日数をかけて、上元からの経過日数(天正積日) 98,584,313日を求めて、天正積日から干支が一巡する数60を引けるだけ(1,643,071回、98,584,260 日)引くと53日余る(98,584,313日-98,584,260 日=53日)。上元の日干支は甲子なのでこれは甲子日から53日経った日が天正冬至ということになります。天正冬至の日干支は干支表から「丁巳」と求まりました。以上は前回の「おさらい」です。 

 ちなみにExcel元嘉暦では、697年(丁酉年)の前年696(丙申年)の冬至は1119日(日干支「丁巳」、JDN 1,975,624)となっています。暦法が違っても696年の冬至(697年の天正冬至)はこの日(日干支「丁巳」、JDN 1,975,624)の近辺になるでしょう(暦の冬至が実際の冬至と大きくずれたら使い物になりません)。なお、元嘉暦では「上元」の中気が「雨水」なので、積年(上元からの経過年数)に一年の平均日数を乗じた日数(積日)だけ経過した日は「雨水」ですので、当年(丁酉年)の「雨水」は、正月21日(戊午、JD 1,975,685 )となっています。

元嘉暦における697年の前年(696年)の冬至
Photo_20230517180001
 

太陰太陽暦の日付の決め方

 太陰太陽暦は月の満ち欠けの周期を一月(ひとつき)としていて、新月(朔)となる日をその月の第一日(ついたち)とします。月の満ち欠けの周期(その日数を「朔望月」という)には凡そ29.27日~29.83日の幅があり、これを平均した平均朔望月は 約29.530589 日です。満ち欠けの周期が約25.53日なので暦(こよみ)の一日にぴったりとは合わず、満ち欠けが一巡りする度に新月となる時刻が約半日づつ移動していきます。したがって、太陰太陽暦のでは一月(ひとつき)29日の月(小月)30日の月(大月)が生じることになります(これはとてもやっかいです)

 今回は、太陰太陽暦はどのように朔(月の第一日=新月となる時刻を含む日)を求めているかを説明したいと思います。前回も言いましたが、「他人に説明するのがもっと良い理解を深める方法だ」というのが説明する動機です。ということなので、知っている方はスルーしてください。 

 麟徳甲子元暦では、平朔法(平均朔望月によって朔の日を求める仕方)によって朔の日(日干支)を次のように求めるとしています。
…………………………………………………………………………………………………………………………

    求恆次氣術

因冬至大小餘,加大餘十五、小餘二百九十二、小分六之五。小分滿,從小餘;小餘滿總法之,從大餘一。大餘滿旬周之。以次轉加,而命各得其所求。他皆放此。凡氣餘朔大餘為日,小餘為辰也。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 さて、日干支は積年と太陽年(回帰年)から天正積日を求めて、干支が何巡かした余りで求まりましたが、朔を求めるには月の満ち欠けの周期日数(朔望月)が必要です。

麟徳甲子元暦は、一日の周期を1,340として、月の満ち欠けの平均周期(恆朔實)を39,571としています。すなわち、平均朔望月は(恆朔實)39,571÷1,340(推法)29日 + 711/1,340 29.530597となっています。 

 まず、上元から天正冬至までの日数である天正積日98,584,313日は平均朔望月で何ヶ月になるかを求めます。

臺北市鼎文書局(底本:清懼盈齋刻本)(後晉)劉昫撰;楊家駱主編『舊唐書』志第十三曆二「麟德甲子元曆」には上掲に続いて次のようにあります。
…………………………………………………………………………………………………………………………

    求恆次氣術

因冬至大小餘,加大餘十五、小餘二百九十二、小分六之五。小分滿,從小餘;小餘滿總法之,從大餘一。大餘滿旬周之。以次轉加,而命各得其所求。他皆放此。凡氣餘朔大餘為日,小餘為辰也。
〔求土王(土用を求める)と求沒日術(沒日の求め方)を飛ばして〕

    推朔端

列期總,以恆朔實除之為積月,不滿為閏餘。滿總法為閏日,不滿為閏辰。以閏日減冬至大餘,辰減小餘,即所求年天正月恆朔大小餘。命大餘以甲子算外,即其日也。天正者,日南至之月也。恆朔者,不朒不盈之常數也。(中略)以天正恆朔小餘加閏餘,以減期總,餘為總實。

〖意訳〗
    朔からの端数を計算する
期總〔積年に期實を乗じた長さの数値〕を,恆朔實〔月の満ち欠けの周期の長さ〕で除して積月〔上元からの経過月数(整数値)〕とし、〔恆朔實に〕滿たない〔期總の余りを〕閏餘とする。〔閏餘が〕總法を滿たせば〔その満たした数値(整数)を〕閏日とし,滿たさない〔閏餘の〕余りを閏辰とする。〔天正〕冬至の大餘〔日数〕から閏日を減じ、〔天正冬至の〕小餘から辰〔閏辰〕を減じれば、求める年の〔前年の〕天正月恆朔〔冬至のある月の平均朔望月(平朔法)による朔日〕の大餘と小餘が求まる。甲子から大餘を数えればその日が天正冬至なのだ。天正とは、日南至之月〔太陽が最も南(低い位置)にある月=冬至のある月〕である。恆朔とは、不朒不盈之常數〔伸びも縮みもない定数、つまり満ち欠けの周期を平均した定数〕である。(中略)天正恆朔小餘を閏餘に加えたものを期總から減じて,餘を總實とする。
…………………………………………………………………………………………………………………………

天正冬至と天正月朔
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「期總(きそう)(新唐書は「朞總」とある)は積年(上元から天正冬年までの年数)269,913年に太陽年の周期 489,428を乗じたもので、計算すると132,102,979,764 になります。これを月の満ち欠けの周期(恆朔實)39,571 で割った商が積月3,338,378で、余りが23,926 「閏餘」、これを一日の周期(推法、総法)1,340で割った商17日が「閏日」、その余り1,146が「閏辰」とあります。ここで注意しなければならないのは閏日17日の余りが1,146ありますので、17日以上つまり18日目に天正冬至があるということです。

上元は朔(新月)なのでそれから満ち欠けが3,338,378周した朔から数えて18日目が天正冬至になり、つまり天正冬至から数えて18遡った日が朔です(すなわち天正冬至の干支番号から18引いた番号が朔の日干支になります)。つまり「丁巳」(番号53、甲子=0)から18引いた干支番号35己亥(つちのとのい)が朔のある日(すなわち月の第1日、ついたち)となります。

 天正月とは冬至のある月のことで、建子とある(天正月を子月とする)ので、寅月を正始(正月)とする夏正では、天正月(子月)は11月に当たります。

天正平朔日11月1日が干支番号35己亥(つちのとのい)とわかったので、天正平朔日の大餘・小餘に朔望月の大餘29日と小餘711/1340 を次々に加えれば次々と月朔が求まります。小餘の積み重なりで29日の月か30日の月かが決まります。

697年麟徳暦平朔(儀鳳暦)の月朔
697
 ちなみに697年8月朔の日干支は「甲子」(JDN 1,975,871 )となっています。元嘉暦では697年8月朔の日干支は乙丑(JDN 1,975,872)となっています。

2023年5月14日 (日)

干支に番号を振る―『長慶宣明暦』では―

干支に番号を振る
『長慶宣明暦』では[]

 これは「暦」というよりも、「算数」に関することがらなので、カテゴリーは「雑」としました。

 何の話かというと、六十干支の各干支に番号を振る場合、甲子から始まるから甲子の番号を1とするのが良いかどうか、という話です。

 コンピュータ処理には甲子0~癸亥59と振る方が便利なので、私のExcel版「元嘉暦」も甲子の番号を0としています。

 コンピュータを使わなくても計算するには0~59と振る方が良いと考えた人は昔からいるようで、唐の徐昻という人が編纂して、わが国にも伝わって貞観四年(862)~貞享元年(1684)823年間行用された「長慶宣明暦」も甲子を0として計算していました。安藤有益著『長慶宣明暦算法』には「甲子」の上に付された番号が「空」(0)となっています。

国文学研究資料館の『長慶宣明暦算法』
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 徐昻の『長慶宣明暦』そのものが甲子を「空」としていたことも確認できました。
京都大学貴重資料デジタルアーカイブの『長慶宣明暦』
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2023年5月13日 (土)

「京都橘高校」グルーピー105―59回定期演奏会 メイキング映像―

「京都橘高校」グルーピー105
59回定期演奏会 メイキング映像[「京都橘高校」グルーピー]

 臨場感あふれる映像をお楽しみください。 コメントに中文がたくさんあることにも台湾双十節出演の反響が大きかったことがうかがえます。

【舞台裏に密着】京都橘高校吹奏楽部第59回定期演奏会 メイキング映像
投稿者コメント
2023
年3月25,26日に行われた第59回定期演奏会の裏側を収めた映像です!
映像協力:日本パルス

2023年5月11日 (木)

回帰年と日干支―太陰太陽暦の日干支―

回帰年と日干支―太陰太陽暦の日干支―[]

 太陰太陽暦の「回帰年」(季節が一巡する周期)は「冬至」から次の「冬至」までの日数(端数込み)となっています。厳密には現在の「太陽年」(春分から次の春分までの日数(端数込み))とは異なりますが、太陰太陽暦は、はるか遠くに「上元」(暦の元期)をとっているので太陽年と同等なものと考えてよいでしょう。

 今回は、太陰太陽暦がどのように暦の日干支を求めているのかを説明したいと思います。説明する動機は、「他人に説明するのがもっと良い理解を深める方法だ」という言葉があるからです。ということなので、知っている方はスルーしてください。 

 その前に「時間」をどのように表すか、という問題をクリアにしておかねばなりません。現在は、一日を24時間、一時間を60分、1分を60秒、つまり一日を、「セシウム原子のマイクロ波の振動を9,192,631,770回数えたときを1秒と定義」した86,400秒として時間を表しています。

 では、古代の天文観測において天体の周期をどう表せばよいでしょうか。一日を単位として用いればよいでしょうか。1太陽年は約365.24219日ですが、一方平均朔望月は約29.530589日です。太陰太陽暦では、一太陽年が何ヶ月かということも計算しなければなりませんから、太陽年・平均朔望月・1太陽年の月数、これらを全て分数で表しておかねばならないのです。つまり、時間を軸にして計算しようとすると大変なことになる(というよりも、やってられない)のです。

 そこで、古代の賢人は「章法」(倭国も採用した「元嘉暦」は最後の「章法暦」です)という時間を軸にしている暦法(19年を一章とする)を捨てて「破章法」という暦法を考えだしました。

 破章法の肝は、「一日(の時間)を適当な数値で表して、天体の周期をその数値を軸にして表す」というものです。古代の支那では小数点を使わず分数を使っています。分数を使うことで「有効桁数を小数点第何位までにするか」と悩む必要が無くなります(端数も分数のまま表しておく方が正確です)。

 

戊寅元暦(戊寅暦)】(唐・武徳二年(619)~麟徳元年(664)までの46年間)

太陽の周期数=3,456,675

地球の自転周期数=9,464

太陽年=3,456,675÷9,464365日 + 2,315/9,464(=365.244611日)

月の周期数=384,075

朔望月を計算するための地球の自転周期数=13,006

朔望月= 384,075÷13,006==29日 + 29/13,006(=29.530601日)

 

麟徳甲子元暦(麟徳暦)】(唐・麟徳二年(665)~開元十六年(728)64年間)

太陽の周期数=489,428

地球の自転周期数=1,340

太陽年= 489,428 ÷ 1,340365 328/1,340(=365.24478日)

月の周期数=39,571

地球の自転周期数=1,340

朔望月= 39,571 ÷ 1,34029 711/1,340(=29.530597日)

 最初の破章法暦である「戊寅元暦」は、太陽年と朔望月とで、割る数値が9,46413,006と異なっています。麟徳暦は徹底して同じ1,340を用いています。これらの数値はそれぞれに意味があるのではなく、実際の観測数値に合う分子と分母を探し出したのではないかと思われます(もしかすると、うまい方法があった(例えば連分数展開とか)のかもしれません)。

 

 日干支をどのように求めるかという本題に戻ります。

 麟徳暦を例にとりましょう。
Photo_20230511155301
 麟徳暦の上元は、麟德元年(664年、甲子)から遡ること269,880年前(西暦-268,216年、甲子)となっています。

 今、西暦697年の暦をつくると仮定します。

積年は 269,913年(=(上元までの歳積 269.880年-麟徳元年 664年)+ 西暦 697年)。

これに太陽の周期数 489,428 を乗じると積年の太陽の周期数は 132,102,979,764 です。

これを地球の自転周期数(一日) 1,340 で割ると上元から暦をつくる前年の冬至までの日数 98,584,313日 + 344/1,340 がでます。日干支の話なので、この一日に満たない端数 344/1,340 は忘れておきましょう。

上元の日干支は甲子なので、上元から暦をつくる前年の冬至(これを「天正冬至」といいます)までの日数 98,584,313日から干支の数 60 を引けるだけ引きます( 1,643,071回 引けます)。
干支数 60×1,643,071回= 98,584,260 なので余りは 53(日) です。
上元の甲子日から60干支が 1,643,071循 して余ったのが 53日 なのですから、天正冬至の直前の甲子日からこの日数だけ天正冬至の日が離れていることになります。
つまり、甲子の干支番号を1とするならば干支番号54の干支「丁巳」が、甲子の干支番号を0とするならば干支番号53の干支「丁巳」が天正冬至の日の日干支なのです。

 前年の冬至の日の日干支が求まれば当然に暦をつくる年の冬至の日の日干支も求まります。当然その間の24節気の日干支も求まります。太陰太陽暦の日干支はこのようにして求めています。

 暦カテゴリーの次回は、太陰太陽暦における月の第一日(ついたち)の求め方を予定しています。

 

2023年5月10日 (水)

月の満ち欠け―上弦の月と下弦の月―

月の満ち欠け
上弦の月下弦の月[]

 「太陰太陽暦」は、地球の衛星である「月」がどのように見えるか(満ち欠けの状態)によって日付(何日か)を決めています(つまり、日付の決め方は太陰暦法です)。

 また、月々の第一日(ついたち)は「朔(さく)」(新月)となる時刻を含む日を朔(ついたち)としていますが、それ以外にも「上弦」(「上弦の月」の時刻を含む日)・「望」(「満月」の時刻を含む日)・「下弦」(「下弦の月」の時刻を含む日)も表示しています。

 月の満ち欠けは、途中(三日月など)を省きますが、新月→上弦の月→満月→下弦の月→新月と変遷することは知ってはいるのですが、どちらも半月である「上弦の月」と「下弦の月」が実際にどう違うのかを知らなかったので、調べてみました(知ってる方はスルーしてください)。

 半月を弓に見立てて明暗の境目の線を「弓の弦(つる)」とし、上向きを「上弦」、下向きを「下弦」というのだろうくらいに高をくくっていたのですが、そんな曖昧な理解では半月を見ても判別できませんでした。

 次図は地球の公転面を北極側から見た概念図です。太陽の光線は上側からが注いでいるとして描いてあります。

月の満ち欠け図
Photo_20230510155201
 北極側から見て地球は反時計周りに(つまり西から東へと)自転しています。すなわち、天球は東から西へと回転しています。

 朝・昼・夕・夜と記されている矢印は、その時刻に「南中」(天体が子午線上に来る)月が見えることを示しています。つまり、矢印の先にあるのは南中時刻に見える月の形を表しています。

 「朔(さく)」の月は昼に南中します。すなわち、朝に昇り夕に没します(新月なので日蝕の時以外見えません)。

 「上弦」の月は夕に南中します。すなわち、昼に昇り夜に没します。

 「望」(満月)の月は夜に南中します。すなわち、夕に昇り朝に没します。

 「下弦」の月は朝に南中します。すなわち、夜に昇り昼に没します。

 

 上弦の月と下弦の月の違いをまとめてみます。

 昼に東から昇り、夕方に南中して、夜に西に没するのが上弦の月です。

 夜に東から昇り、朝方に南中して、昼に西に没するのが下弦の月です。

 月は天空が暗い方がよく見えることを考慮すれば、夕方から深夜にかけて西に没していくのが上元の月で、深夜から朝方にかけて東から昇ってくるのが下弦の月と言えるでしょう。

 時刻だけでみれば、夕方から深夜に見えるのが上弦の月で、深夜から朝方に見えるのが下弦の月です。

 方角だけで見れば、西に没するのが上弦の月で、東から昇るのが下弦の月です。

2023年5月 9日 (火)

「京都橘高校」グルーピー104―(another)海の中道海浜公園にて―

「京都橘高校」グルーピー104
(another)海の中道海浜公園にて―[「京都橘高校」グルーピー]

グルーピー102とは別の方の投稿動画です。

パレード
京都橘高校吹奏楽部 / 海の中道公園パレード(May 5, 2023)
投稿者コメント
2023
年5月5日 海の中道海浜公園にて

コンサートステージ
京都橘高校吹奏楽部 / となりのトトロメドレー 宝島(May 5, 2023)
投稿者コメント
2023
年5月5日 海の中道海浜公園にて

マーチングステージ
京都橘高校吹奏楽部 / 海の中道海浜公園 マーチングステージ(May 5, 2023)
投稿者コメント
2023
年5月5日 海の中道海浜公園にて
※強風による風雑音のため、聴き苦しい場面が多々ございます。申し訳ございません・・・

「京都橘高校」グルーピー103―第62回博多どんたく パレード―

「京都橘高校」グルーピー103
第62回博多どんたく パレード[「京都橘高校」グルーピー] 

グルーピー101とは別の方の投稿動画です。演奏曲にチャプターを入れてくれています。

コメントに曲名が入ってます。
京都橘高校吹奏楽部 / 第62回博多どんたく パレード SCENE1(May 4, 2023)
投稿者コメント
2023年5月4日 第62回博多どんたく港まつり パレード
※見ずらい箇所が多々ございます。
-- Playlist --
00:48 Down by the Riverside

02:56 We Are Confidence Man (Confidence Man JP Theme)
04:31 Be Our Guest (Beauty and the Beast)
05:10 We're All in this Together (High School Musical)
06:09 Les Champs-Élysées a.k.a. Waterloo Road (Mike Wilsh, Mike Deighan)
07:14 Mambo No. 5 (Damaso Prado Perez)
08:22 Heigh-Ho (Snow White and the Seven Dwarfs)
09:36 American Patrol (Frank White Meacham)
10:43 Smoke on the Water (Deep Purple)
11:49 When You Wish Upon A Star (Pinocchio, Leigh Harline and Ned Washington)
13:39 Tristeza (Haroldo Lobo, Niltinho)
16:37 Down by the Riverside
18:45 We Are Confidence Man (Confidence Man JP Theme)
20:21 Be Our Guest (Beauty and the Beast)
20:59 We're All in this Together (High School Musical)
21:59 Les Champs-Élysées a.k.a. Waterloo Road (Mike Wilsh, Mike Deighan)
23:04 Mambo No. 5 (Damaso Prado Perez)
24:13 Heigh-Ho (Snow White and the Seven Dwarfs)

 複数カメラ編集版
京都橘高校吹奏楽部 / 第62回博多どんたく パレード SCENE2(May 4, 2023)
投稿者コメント
2023
年5月4日 第62回博多どんたく港まつり パレード
複数カメラ編集版です。
・慶次郎前田
・HIROさん
・SUNAMEさん
・Tsubame Planningさん

 

 

 

 

2023年5月 7日 (日)

「京都橘高校」グルーピー102―海の中道海浜公園にて―

「京都橘高校」グルーピー102
海の中道海浜公園にて―[「京都橘高校」グルーピー]

海の中道海浜公園の位置(Google Earth より)
Google-earth_20230507104301

パレードです。
京都橘高校吹奏楽部 / 海の中道海浜公園 / parade / Multi-camera edit / Kyoto Tachibana SHS Band / May 5, 2023「4k」
投稿者コメント
京都橘高校吹奏楽部 / Uminonakamichi Seaside Park / 2023年5月5日 / マルチカメラ編集 / 海の中道海浜公園での京都橘高校吹奏楽部の皆様のパレードからの動画です。
撮影者
st.taketo
慶次郎前田さん
Belle-raphonさん
uncle parさん
8809masaさん
◎お願い◎
当コメント欄にて以下のコメントを禁止し、該当する場合は管理者権限において警告無く当該コメントの削除を行わせていただきます。他、動画の無断転載は固くお断り致します。 1.個人を特定する書き込み(本名・あだ名・出身校・勤務先など)
2.いわれのない誹謗中傷や差別的侮辱的な表現
3.管理者が不適切と感じたコメント及びコメントを見た方が気分を害すると思われるコメント
以上、上記の件宜しくお願い致します。
追記 最後まで読んで頂きありがとうございます。
動画楽しく観てもらえれば幸いです。

#京都橘 #Tachibana #海の中道海浜公園

 

座奏です。
京都橘高校吹奏楽部 / 海の中道海浜公園 / 大芝生広場コンサートステージ / Kyoto Tachibana SHS Band / May 5, 2023「4k」
投稿者コメント
京都橘高校吹奏楽部 / Uminonakamichi Seaside Park / 2023年5月5日 / 海の中道海浜公園、大芝生広場での京都橘高校吹奏楽部の皆様のコンサートステージからの動画です。
♬ となりのトトロメドレー
♬ 宝島
◎お願い◎」以下、上記と同文にて割愛しています。

「京都橘高校」グルーピー101―第62回博多どんたく―

「京都橘高校」グルーピー101
第62回博多どんたく[「京都橘高校」グルーピー]

 

パレードのシングルカメラバージョンです。
京都橘高校吹奏楽部 / 第62回博多どんたく パレード / 1 camera version / Kyoto Tachibana SHS Band / May 4, 2023「4k」
投稿者コメント
京都橘高校吹奏楽部 / 博多どんたくパレード / 2023年5月4日 
第62回博多どんたくパレードでの京都橘高校吹奏楽部の皆様のパレードからの動画です。 1 camera version
◎お願い◎
当コメント欄にて以下のコメントを禁止し、該当する場合は管理者権限において警告無く当該コメントの削除を行わせていただきます。他、動画の無断転載は固くお断り致します。
1.個人を特定する書き込み(本名・あだ名・出身校・勤務先など)
2.いわれのない誹謗中傷や差別的侮辱的な表現
3.管理者が不適切と感じたコメント及びコメントを見た方が気分を害すると思われるコメント

以上、偉そうな事を言いますが、上記の件宜しくお願い致します。
追記 最後まで読んで頂きありがとうございます。
動画楽しく観てもらえれば幸いです
#京都橘 #Tachibana #どんたくパレード

 

パレードのマルチカメラ編集バージョンです。
京都橘高校吹奏楽部 / 第62回博多どんたく パレード / Multi-camera version / Kyoto Tachibana SHS Band / May 4, 2023「4k」
投稿者コメント
京都橘高校吹奏楽部 / 博多どんたくパレード / 2023年5月4日 / マルチカメラ編集バージョン。 
第62回博多どんたくパレードでの京都橘高校吹奏楽部の皆様のパレードからの動画です。 撮影者 st.taketo Belle-raphonさん uncle parさん 8809masaさん
◎お願い◎」以下は上記と同文にて割愛しています。

 

ステージマーチングです。
京都橘高校吹奏楽部 / 第23回どんたく花のマーチングフェスティバル / Kyoto Tachibana SHS Band / May 4, 2023「4k」
投稿者コメント
京都橘高校吹奏楽部 / 2023年5月4日 /
第23回どんたく花のマーチングフェスティバルでの京都橘高校吹奏楽部の皆様のステージマーチングからの動画です。

◎お願い◎」以下同文

2023年5月 2日 (火)

「磐井の乱」と「蕨手文様」―東京古田会ニュース・令和五年4月号掲載論考-

「磐井の乱」と「蕨手文様」東京古田会ニュース・令和五年4月号掲載論考-[コラム]

 2023/04/26、吉村八洲男さまよりご寄稿いただいたのですが、私事で手付かずになって掲載が遅れてしましました。申し訳ありません。なお、本文中へのリンクの貼り付けは山田が独断で行っています。
………………………………………………………………………………………………………………………

「磐井の乱」と「蕨手文様」(東京古田会ニュース・R5・4)

上田市 吉村八洲男

1.初めに

 先月号掲載の新保高之氏による『磐井の乱 架空説を考える』を拝読し、力をいただいた。新保氏はこの論考で、『「日本書紀」編者が、九州王朝内で起こった権力闘争事件に関わる史料を悪盗用し、九州王朝の権力者を近畿天皇家が討滅した記事に仕立て上げたのではないか』と主張された。「磐井の乱」への新見解と思えた。

 この「磐井の乱」について、古田先生がその解釈に関し大きく論考を変えられた事は周知の事であろう。先生は最初の頃(「失われた九州王朝」「古代は輝いていた」などで)、「磐井の乱」とは『大和王朝「継体」のクーデター、「継体の乱」であった』と断言され、さらに「磐井の君」がなした業績(「九州年号」制定や律令の施行など)を推論し、改めて「九州王朝」の存在を主張されたのである。多元視点からのこれら新解釈に接した時の感銘は、今でも私には鮮明だ。

 だが、後の著作「古田武彦の古代史百問百答」に至り、「乱」への解釈は一変する。『「磐井の乱」は、「日本書紀」の作り事、架空の出来事だった』とされ、「磐井の乱・架空説・造作説」とも言える論理を展開されたのである。「磐井の乱」自体が「日本書紀」作成者による「机の上の作文」だとされたのだ。解釈を大きく転換されたと私には思えた。

 先生のこの変化に私は戸惑った。一時は「磐井の君」が消えた、九州王朝説にも疑問が出たとさえ思った位だ。

 これ以後、この問題に正面から取りくみ論考した「多元論者」は少ないようだ(だから「磐井の乱」解釈には「一元歴史観による解釈」が大手を振っている)。

 それに対し、新保氏の論考は新鮮であった。まず古田武彦氏の主張の変化やそれへの論考を丁寧に掬い取り、整理説明されたのだ。そしてそれらを比較・検討され、冒頭での新解釈に至ったと私には判断された。

 だから説得力を持っていると思え賛意を表するのだが、同時に古田氏「磐井の乱・架空説」への新たな追求・論考を我々に促しているとも思えた。

 

2.「架空説・造作説」と「考古」

 古田先生は最終的には「乱・造作説」に至ったのだが、変化に至った論拠は明白だった。主たる理由は、「考古的な裏付けがない」事だったのだ。

 「磐井の乱」があったなら、舞台となる「北九州」の「考古」には明白な変化が残っている筈だ、とされたのだ。考古からの「証拠」が残るとされたのである。ところが「土器の形式やデザイン」「神護石」などには全く変化がなく、「鶴見山古墳」の「石人・石馬」へも別解釈が可能であった。だからこれらの「考古」判断から、体制には大きな変化はなかったと推論され、『「考古」に裏付けられない「磐井の乱・実在論」はあり得ない』と結論されたのである。結果、前論を翻したような論考に至ったと思える。

 しかし私は思う。本当に「考古(資料)」がなかったのだろうか、と。「土器・神護石・石人石馬」だけが「考古(資料)」ではないだろう。他にも「考古(資料)」はあるのだ。だから再度の「乱」見解の際、先生が結論を急がれてしまったようにも見えたのだ。

 私は九州には、変化を証明する別・「考古(資料)」がある、と判断する。そしてその九州「考古(資料)」は主張する。『「磐井の乱」は「継体の乱」ではない、そして「架空の事件」でもない』と。

 「乱」について再確認しよう。「日本書紀」からの定説では、「磐井の乱」とは「北九州勢力」と「近畿王朝」とが争った事件とする。そしてこの二大勢力が争ったのだから、「土器・神護石」などの「考古」には当然変化が出た筈だ、と先生は予想されたのであろう。

 だが、実はもう一つの解釈が許されると思う。それは『「磐井の乱」とは「九州王朝」内の権力争いだった』とする解釈だ。

 体制内の「別・九州勢力」による「磐井の君・殺害事件」・「磐井体制へのクーデター」と解釈するのである。そしてこの「磐井事件」を近畿王朝が利用したと考えるのだ。「近畿王朝」がこの「事件」を「磐井の乱」と名付け、「日本書紀」で漢籍を使った勇壮な物語にした、とするのだ(これらの推論が、新保氏見解と同じなのだ)。

 「磐井の乱」を「磐井殺害事件」と解釈するのだが、留意すべきは、この新解釈をしても『九州「考古」には瞠目すべき「変化」がなかった』事で、新解釈にもやはり不利な点と思える。

 「近畿勢」との対立を想定した時でも、北九州には「考古の変化」はなかったのだ。それを「九州王朝内の争い」とすると、「九州」という狭い範囲が舞台だから「考古(資料)変化」は一段と見出だしにくくなると思える。もし見出せなければ再び「乱・架空説」に戻るのだ。だから新解釈を試みる時、「考古(資料)」の提示は必須の条件となろう。

 繰り返すが、「変化」を主張する「別・考古資料」が実在すると私は推定する。気づかなかっただけ、と思う。そしてその「考古」への推定から、『「磐井の君殺害事件」は「九州王朝」内の権力争い、実在の事件だった』と結論されるのだ。

 

3.「磐井事件」への「考古」アプローチ

 きっかけは、「James Mac(阿部周一)」氏のブログ「古田史学とMe」上の論考(2018・5・31)阿蘇溶結凝灰岩」の使用停止と「蕨手文古墳」の発生と終焉を知ったからである。

 James Mac氏はそこで、二つの「考古資料(判断材料)」を提示された。タイトル名にある「阿蘇溶結凝灰岩」と「蕨手文古墳」である。詳細はブログ記事をお読み頂ければと思うのだが、簡潔にここで紹介させて頂く(文責は吉村です)。

 「阿蘇溶結凝灰岩(灰色岩)」を使った「石棺」は、5世紀中ごろから近畿地方を中心とした古墳に残されていた。使われた原料石は、熊本県(「氷川」・「菊池川」が中心)産出と判断されていた。

 それがある時期(6世紀前半から6世紀終末)、「近畿」で見られなくなる。中断する。

 この中断期間を挟み、7世紀になり、同じ「原料石」を使った「石棺」の利用が再開される。

 これは考古学では著名な一連の出来事であり、研究者はその変化(中断・再開)の理由を様々に解釈して来た。結局は、「不明」と結論されるのだが・・・

 さて九州には「蕨手文様」「壁画」を持った古墳がありその特徴も認められていた。

 「600」もの「装飾古墳」中、「蕨手文様」古墳はわずかに「8個」、しかも「終末期」のみの出現であった。「7個」が「水縄山山地周辺」・「筑後川」流域にあり「肥後(熊本県)」にないのも不審に思われていた(所在地の偏在)。そして「蕨手文古墳」の出現は、6世紀初期「日ノ岡古墳」からで6世紀末の「重定古墳」が最後であった。

 これは前述した近畿地方での「石棺」利用(石材産地を含め)とは対称的と思える事績だ。ここに着目したJames Mac氏は、「阿蘇溶結凝灰岩」と「蕨手文古墳」という二つの「考古資料」を「磐井の乱」と関連付け、瞠目すべき秀逸な論考を展開したのである。

 『「阿蘇溶結凝灰岩灰色」を使用した石棺が、近畿で造られない「6世紀前半」から「6世紀終末」までの「約六十年間」は、「筑後」において「蕨手文古墳」が出現し、そして造られる「60年間」と重なる。そしてそれは、「磐井の乱」が起きた時代とほぼ同時期の出来事だ』と考察したのである。驚嘆すべき指摘であった。

 熊本産「石棺」利用勢力と、筑後「蕨手文様」利用勢力とを対比させたのである。「蕨手文」を持った勢力により、「阿蘇溶結凝灰岩(灰色)石棺」勢力が追われた期間があり、それが「磐井事件」からの期間と重なっている、と推定したのである。

 私は、「蕨手文様」勢力が「石棺」利用勢力を追放し、王権を奪った、と推量した。「体制内権力争い」の「痕跡」を「考古資料」から指摘したものと思えた。著名な数々の「考古資料」が明らかな「考古の変化」を示している、それがJames Mac氏の論考を裏付けているとも思えた。『「磐井事件」の実在』が証明されたと感じたのだ。 
Photo_20230502164101
「王塚古墳・蕨手文」
 さらにJames Mac氏は、文献からもこの推定を裏付けた。

 「磐井殺害事件」により、連綿と続いて来た「倭国王権一族」は「九州王朝王者(の座)」から追われ「雌伏」させられるのだが、その痕跡が「日本書紀」に残るとされたのだ。

 「推古紀」」の以下の記事が根拠であった。

 「(推古)十五年(607年)春二月庚申朔。(中略)戊子。詔曰。朕聞之。曩者我皇祖天皇等宰世也。跼天蹐地。敦禮神祇。周祠山川。幽通乾坤。是以陰陽開和造化共調。今富朕世。祭祀神祇。豈有怠乎。故群臣共為竭心宜拝神祇。

 文章の大意は、『「昔(曩者)は」「吾が皇祖天皇は天下を治めていた(宰世也)」。そして今、自分がそのような立場に立った(今富朕世)。・・・』と思われる。この「推古」の言葉から、「昔」と「今」の間に「宰相」ではなかった時期があったと読み解いたのである。

 確かにそう書かれている。

 更に、「推古天皇」が述べた「昔(の時代)」をこう推定した。「日本書紀」、「垂仁天皇廿五年(丙申前五)」の記述からである。

 「(前略)我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇。(中略)今富朕世。祭祀神祇。豈得有怠乎。」と書かれていた文章の後半には『「推古天皇」の言葉と同一』と言える部分もあった。だからこの「垂仁天皇」の言葉を意識して「推古」が「詔」を発したと推定したのである。

 James Mac氏は、「垂仁天皇」から「推古天皇」の間、「倭国王権・一族」が「雌伏していた(させられていた)」とした。この期間が「王権」を追われた期間であろう、「推古」がそう言っている、と主張したのである。

 さらにこの「事件」を引き起こした「首謀者(一族)」も推定する。

 「壁画」に見られる「蕨手・盾・靫・太刀文様」は、「戦闘」を宗(むね)とした一族にふさわしい「文様」であろう。そう考えた時「蕨手古墳」の近くには、戦闘集団と言われている「物部一族」が依拠した「浮羽町」がある事に気づく。

 James Mac氏は、「物部一族」がこの事件の首謀者であろうと推定した。彼らが「磐井の君」を殺害し、「九州王朝」の実権を握ったとした。「蕨手文・古墳」は彼らが築造した古墳で、それを築造する権力を持った事が、体制内で権力が移動した「証拠」だとしたのである。「倭国王権・一族」は「蕨手古墳」が築造されていた間、「雌伏」させられたとしたのだ。

 「ない」とされて来た「考古(資料)」は実在する。それこそが『「磐井の乱」はなかった。が、「磐井事件」があった』事を証明している、こうJames Mac氏は主張したのだ。

 

4.「蕨手文様」と上田(又は

  James Mac氏の論考は革新的だった。氏の「論証」は実在する「考古(資料)」で組み立てられていた。謎とされた「磐井の乱」も、この「多元的新解釈」で解明されると思えた。

 実は、このJames Mac氏論考で取り上げられた「蕨手文様」が、「科野・上田地域」には存在していた。「蕨手文」の「軒丸瓦」があったのだ(「6個」が確認されていた)。「蕨手文」は、上田だけに「考古(資料)」として残っていたのである。日本中探しても、その密集は「九州」と「上田」にしかない。だから、その関連は当たり前であろう。

 私はJames Mac氏の論考に教示され、第一回「古代史セミナー」で、『「上田・蕨手文様軒丸瓦」と「磐井の乱」』についての論考を試みた。この文様を「手慰み・思いつきによる文様」としてきた「定説」には大きな不審があり、改めて九州との関連を見直すべきだ、と主張した(ただ残念ながら反応は全くなかった)。

だがJames Mac氏論考が発表されてから数年を経た一昨年、その「論考の正しさ」を証明する出来事に遭遇した。私自身が「蕨手文・軒丸瓦」「軒先瓦」「男瓦」を含む「8点の瓦」を発見したのである。
Photo_20230502164701
「蕨手文・軒丸瓦」

 そしてそれを調べれば調べるほど、James Mac氏論考を裏付ける推定が次々と生まれた。推定通りだったのだ。これには驚ろかされた。

 James Mac氏論考は、発表後に出土した「考古資料」からの推定を「予言した」ものと思えた。この事実が氏の主張の正しさを物語る、そう私は判断した。

 James Mac氏の論考した「磐井事件・解釈」が正しいと私は改めて思ったのだ。

 

5.終わりに

 追及の結果、「上田地域」からは重要な「蕨手関連考古(資料)」がいくつか確認された。「蕨手文」についても、その意味・来歴への新たな推定が可能となった。そこからは、「上田地域」には「蕨手文様考古(資料)」があふれているとも判断された。

 古代からと思える「物部氏」関連の「地名」もいくつか確認出来た。彼らが信仰した「高良社」の密集も確認できた(上田だけで6社!)。そして、発見「瓦」への推測からは、「寺(仏教)」への貴重な試論が生まれてくる。

 最大の収穫は、「物部氏」に加担し協力した、ある「一族」への推定が生まれた事だ。そしてそれが「なぜ蕨手文様だったのか」への推定とも繋がる・・・

 私の推論は、独りよがりになりつつある。求められれば、発見「瓦」を持ち込み説明したい。それへの「鑑定」・他を通し是非とも皆様のご批判をお聞きしたいのである。

(終)

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