「磐井の乱」と「蕨手文様」―東京古田会ニュース・令和五年4月号掲載論考-[コラム]
2023/04/26、吉村八洲男さまよりご寄稿いただいたのですが、私事で手付かずになって掲載が遅れてしましました。申し訳ありません。なお、本文中へのリンクの貼り付けは山田が独断で行っています。
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「磐井の乱」と「蕨手文様」(東京古田会ニュース・R5・4)
上田市 吉村八洲男
1.初めに
先月号掲載の新保高之氏による『磐井の乱 架空説を考える』を拝読し、力をいただいた。新保氏はこの論考で、『「日本書紀」編者が、九州王朝内で起こった権力闘争事件に関わる史料を悪盗用し、九州王朝の権力者を近畿天皇家が討滅した記事に仕立て上げたのではないか』と主張された。「磐井の乱」への新見解と思えた。
この「磐井の乱」について、古田先生がその解釈に関し大きく論考を変えられた事は周知の事であろう。先生は最初の頃(「失われた九州王朝」「古代は輝いていた」などで)、「磐井の乱」とは『大和王朝「継体」のクーデター、「継体の乱」であった』と断言され、さらに「磐井の君」がなした業績(「九州年号」制定や律令の施行など)を推論し、改めて「九州王朝」の存在を主張されたのである。多元視点からのこれら新解釈に接した時の感銘は、今でも私には鮮明だ。
だが、後の著作「古田武彦の古代史百問百答」に至り、「乱」への解釈は一変する。『「磐井の乱」は、「日本書紀」の作り事、架空の出来事だった』とされ、「磐井の乱・架空説・造作説」とも言える論理を展開されたのである。「磐井の乱」自体が「日本書紀」作成者による「机の上の作文」だとされたのだ。解釈を大きく転換されたと私には思えた。
先生のこの変化に私は戸惑った。一時は「磐井の君」が消えた、九州王朝説にも疑問が出たとさえ思った位だ。
これ以後、この問題に正面から取りくみ論考した「多元論者」は少ないようだ(だから「磐井の乱」解釈には「一元歴史観による解釈」が大手を振っている)。
それに対し、新保氏の論考は新鮮であった。まず古田武彦氏の主張の変化やそれへの論考を丁寧に掬い取り、整理説明されたのだ。そしてそれらを比較・検討され、冒頭での新解釈に至ったと私には判断された。
だから説得力を持っていると思え賛意を表するのだが、同時に古田氏「磐井の乱・架空説」への新たな追求・論考を我々に促しているとも思えた。
2.「架空説・造作説」と「考古」
古田先生は最終的には「乱・造作説」に至ったのだが、変化に至った論拠は明白だった。主たる理由は、「考古的な裏付けがない」事だったのだ。
「磐井の乱」があったなら、舞台となる「北九州」の「考古」には明白な変化が残っている筈だ、とされたのだ。考古からの「証拠」が残るとされたのである。ところが「土器の形式やデザイン」「神護石」などには全く変化がなく、「鶴見山古墳」の「石人・石馬」へも別解釈が可能であった。だからこれらの「考古」判断から、体制には大きな変化はなかったと推論され、『「考古」に裏付けられない「磐井の乱・実在論」はあり得ない』と結論されたのである。結果、前論を翻したような論考に至ったと思える。
しかし私は思う。本当に「考古(資料)」がなかったのだろうか、と。「土器・神護石・石人石馬」だけが「考古(資料)」ではないだろう。他にも「考古(資料)」はあるのだ。だから再度の「乱」見解の際、先生が結論を急がれてしまったようにも見えたのだ。
私は九州には、変化を証明する別・「考古(資料)」がある、と判断する。そしてその九州「考古(資料)」は主張する。『「磐井の乱」は「継体の乱」ではない、そして「架空の事件」でもない』と。
「乱」について再確認しよう。「日本書紀」からの定説では、「磐井の乱」とは「北九州勢力」と「近畿王朝」とが争った事件とする。そしてこの二大勢力が争ったのだから、「土器・神護石」などの「考古」には当然変化が出た筈だ、と先生は予想されたのであろう。
だが、実はもう一つの解釈が許されると思う。それは『「磐井の乱」とは「九州王朝」内の権力争いだった』とする解釈だ。
体制内の「別・九州勢力」による「磐井の君・殺害事件」・「磐井体制へのクーデター」と解釈するのである。そしてこの「磐井事件」を近畿王朝が利用したと考えるのだ。「近畿王朝」がこの「事件」を「磐井の乱」と名付け、「日本書紀」で漢籍を使った勇壮な物語にした、とするのだ(これらの推論が、新保氏見解と同じなのだ)。
「磐井の乱」を「磐井殺害事件」と解釈するのだが、留意すべきは、この新解釈をしても『九州「考古」には瞠目すべき「変化」がなかった』事で、新解釈にもやはり不利な点と思える。
「近畿勢」との対立を想定した時でも、北九州には「考古の変化」はなかったのだ。それを「九州王朝内の争い」とすると、「九州」という狭い範囲が舞台だから「考古(資料)変化」は一段と見出だしにくくなると思える。もし見出せなければ再び「乱・架空説」に戻るのだ。だから新解釈を試みる時、「考古(資料)」の提示は必須の条件となろう。
繰り返すが、「変化」を主張する「別・考古資料」が実在すると私は推定する。気づかなかっただけ、と思う。そしてその「考古」への推定から、『「磐井の君殺害事件」は「九州王朝」内の権力争い、実在の事件だった』と結論されるのだ。
3.「磐井事件」への「考古」アプローチ
きっかけは、「James Mac(阿部周一)」氏のブログ「古田史学とMe」上の論考(2018・5・31)〔「阿蘇溶結凝灰岩」の使用停止と「蕨手文古墳」の発生と終焉〕を知ったからである。
James Mac氏はそこで、二つの「考古資料(判断材料)」を提示された。タイトル名にある「阿蘇溶結凝灰岩」と「蕨手文古墳」である。詳細はブログ記事をお読み頂ければと思うのだが、簡潔にここで紹介させて頂く(文責は吉村です)。
「阿蘇溶結凝灰岩(灰色岩)」を使った「石棺」は、5世紀中ごろから近畿地方を中心とした古墳に残されていた。使われた原料石は、熊本県(「氷川」・「菊池川」が中心)産出と判断されていた。
それがある時期(6世紀前半から6世紀終末)、「近畿」で見られなくなる。中断する。
この中断期間を挟み、7世紀になり、同じ「原料石」を使った「石棺」の利用が再開される。
これは考古学では著名な一連の出来事であり、研究者はその変化(中断・再開)の理由を様々に解釈して来た。結局は、「不明」と結論されるのだが・・・
さて九州には「蕨手文様」「壁画」を持った古墳がありその特徴も認められていた。
「600」もの「装飾古墳」中、「蕨手文様」古墳はわずかに「8個」、しかも「終末期」のみの出現であった。「7個」が「水縄山山地周辺」・「筑後川」流域にあり「肥後(熊本県)」にないのも不審に思われていた(所在地の偏在)。そして「蕨手文古墳」の出現は、6世紀初期「日ノ岡古墳」からで6世紀末の「重定古墳」が最後であった。
これは前述した近畿地方での「石棺」利用(石材産地を含め)とは対称的と思える事績だ。ここに着目したJames Mac氏は、「阿蘇溶結凝灰岩」と「蕨手文古墳」という二つの「考古資料」を「磐井の乱」と関連付け、瞠目すべき秀逸な論考を展開したのである。
『「阿蘇溶結凝灰岩(灰色)」を使用した石棺が、近畿で造られない「6世紀前半」から「6世紀終末」までの「約六十年間」は、「筑後」において「蕨手文古墳」が出現し、そして造られる「60年間」と重なる。そしてそれは、「磐井の乱」が起きた時代とほぼ同時期の出来事だ』と考察したのである。驚嘆すべき指摘であった。
熊本産「石棺」利用勢力と、筑後「蕨手文様」利用勢力とを対比させたのである。「蕨手文」を持った勢力により、「阿蘇溶結凝灰岩(灰色)石棺」勢力が追われた期間があり、それが「磐井事件」からの期間と重なっている、と推定したのである。
私は、「蕨手文様」勢力が「石棺」利用勢力を追放し、王権を奪った、と推量した。「体制内権力争い」の「痕跡」を「考古資料」から指摘したものと思えた。著名な数々の「考古資料」が明らかな「考古の変化」を示している、それがJames Mac氏の論考を裏付けているとも思えた。『「磐井事件」の実在』が証明されたと感じたのだ。
「王塚古墳・蕨手文」
さらにJames Mac氏は、文献からもこの推定を裏付けた。
「磐井殺害事件」により、連綿と続いて来た「倭国王権一族」は「九州王朝王者(の座)」から追われ「雌伏」させられるのだが、その痕跡が「日本書紀」に残るとされたのだ。
「推古紀」」の以下の記事が根拠であった。
「(推古)十五年(607年)春二月庚申朔。(中略)戊子。詔曰。朕聞之。曩者我皇祖天皇等宰世也。跼天蹐地。敦禮神祇。周祠山川。幽通乾坤。是以陰陽開和造化共調。今富朕世。祭祀神祇。豈有怠乎。故群臣共為竭心宜拝神祇。」
文章の大意は、『「昔(曩者)は」「吾が皇祖天皇は天下を治めていた(宰世也)」。そして今、自分がそのような立場に立った(今富朕世)。・・・』と思われる。この「推古」の言葉から、「昔」と「今」の間に「宰相」ではなかった時期があったと読み解いたのである。
確かにそう書かれている。
更に、「推古天皇」が述べた「昔(の時代)」をこう推定した。「日本書紀」、「垂仁天皇廿五年(丙申前五)」の記述からである。
「(前略)我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇。(中略)今富朕世。祭祀神祇。豈得有怠乎。」と書かれていた文章の後半には『「推古天皇」の言葉と同一』と言える部分もあった。だからこの「垂仁天皇」の言葉を意識して「推古」が「詔」を発したと推定したのである。
James Mac氏は、「垂仁天皇」から「推古天皇」の間、「倭国王権・一族」が「雌伏していた(させられていた)」とした。この期間が「王権」を追われた期間であろう、「推古」がそう言っている、と主張したのである。
さらにこの「事件」を引き起こした「首謀者(一族)」も推定する。
「壁画」に見られる「蕨手・盾・靫・太刀文様」は、「戦闘」を宗(むね)とした一族にふさわしい「文様」であろう。そう考えた時「蕨手古墳」の近くには、戦闘集団と言われている「物部一族」が依拠した「浮羽町」がある事に気づく。
James Mac氏は、「物部一族」がこの事件の首謀者であろうと推定した。彼らが「磐井の君」を殺害し、「九州王朝」の実権を握ったとした。「蕨手文・古墳」は彼らが築造した古墳で、それを築造する権力を持った事が、体制内で権力が移動した「証拠」だとしたのである。「倭国王権・一族」は「蕨手古墳」が築造されていた間、「雌伏」させられたとしたのだ。
「ない」とされて来た「考古(資料)」は実在する。それこそが『「磐井の乱」はなかった。が、「磐井事件」があった』事を証明している、こうJames Mac氏は主張したのだ。
4.「蕨手文様」と上田(又は私)
James Mac氏の論考は革新的だった。氏の「論証」は実在する「考古(資料)」で組み立てられていた。謎とされた「磐井の乱」も、この「多元的新解釈」で解明されると思えた。
実は、このJames Mac氏論考で取り上げられた「蕨手文様」が、「科野・上田地域」には存在していた。「蕨手文」の「軒丸瓦」があったのだ(「6個」が確認されていた)。「蕨手文」は、上田だけに「考古(資料)」として残っていたのである。日本中探しても、その密集は「九州」と「上田」にしかない。だから、その関連は当たり前であろう。
私はJames Mac氏の論考に教示され、第一回「古代史セミナー」で、『「上田・蕨手文様軒丸瓦」と「磐井の乱」』についての論考を試みた。この文様を「手慰み・思いつきによる文様」としてきた「定説」には大きな不審があり、改めて九州との関連を見直すべきだ、と主張した(ただ残念ながら反応は全くなかった)。
だがJames Mac氏論考が発表されてから数年を経た一昨年、その「論考の正しさ」を証明する出来事に遭遇した。私自身が「蕨手文・軒丸瓦」「軒先瓦」「男瓦」を含む「8点の瓦」を発見したのである。
「蕨手文・軒丸瓦」
そしてそれを調べれば調べるほど、James Mac氏論考を裏付ける推定が次々と生まれた。推定通りだったのだ。これには驚ろかされた。
James Mac氏論考は、発表後に出土した「考古資料」からの推定を「予言した」ものと思えた。この事実が氏の主張の正しさを物語る、そう私は判断した。
James Mac氏の論考した「磐井事件・解釈」が正しいと私は改めて思ったのだ。
5.終わりに
追及の結果、「上田地域」からは重要な「蕨手関連考古(資料)」がいくつか確認された。「蕨手文」についても、その意味・来歴への新たな推定が可能となった。そこからは、「上田地域」には「蕨手文様考古(資料)」があふれているとも判断された。
古代からと思える「物部氏」関連の「地名」もいくつか確認出来た。彼らが信仰した「高良社」の密集も確認できた(上田だけで6社!)。そして、発見「瓦」への推測からは、「寺(仏教)」への貴重な試論が生まれてくる。
最大の収穫は、「物部氏」に加担し協力した、ある「一族」への推定が生まれた事だ。そしてそれが「なぜ蕨手文様だったのか」への推定とも繋がる・・・
私の推論は、独りよがりになりつつある。求められれば、発見「瓦」を持ち込み説明したい。それへの「鑑定」・他を通し是非とも皆様のご批判をお聞きしたいのである。
(終)
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