« 朔望月と月朔―太陰太陽暦の日付― | トップページ | 「蕨手文瓦」の証言―「磐井の乱」はなかった― »

2023年5月25日 (木)

古代ギリシアと太陰太陽暦―元嘉暦は「メトン周期」を用いたのか?―

古代ギリシアと太陰太陽暦
元嘉暦は「メトン周期」を用いたのか?―[]

 元嘉暦は19年間に7閏を置く「章法」なので「メトン周期」を用いていると思っていましたが、それは早合点であることがわかりましたので報告します。 

古代ギリシアで発見された太陽と月の周期の比例関係

周期名(誕生時期)

発見・考案者

特徴や改良点

メトン周期
(B.C. 432
)

B.C.5世紀のアテナイの人

19年=235朔望月=6,940とする。19年に7閏月を入れれば1年と1ヶ月が合うとする(「章法」)。

カリポス周期
(B.C. 370
年ころ)

アテナイで活動した
キュジコス生まれの人

1太陽年を365.25日として19年=6939.75日。これを4倍した76年27,759日でメトン周期の4倍より1日減る。235月も4倍して940月27,759日とした。

1太陽年=27,759日÷76年=365.25日

1朔望月=27,759日÷940月≒29.530851日

ヒッパルコス周期
(B.C.330
年採用)

B.C.2世紀ころの

ニケヤの天文学者

カリポス周期をさらに4倍して1日を引き、

3043,760111,035とした。

1太陽年≒365.24671日、1朔望月≒29.530585日

《実際》

 

太陽年=365.2422日、朔望月=29.53059

 

太陰太陽暦の太陽と月の周期の比例関係


暦名


採用時期・選者編者


周期の調整メソッド


古六暦(こりくれき)
(古四分暦)


漢代以前

不明


「章法」:1章= 19年に7閏月を置く= 235
1
太陽年= 3651/4日(四分暦)= 365.25日と見られている。
朔望月は詳細が不明です。


後漢四分暦
(ごかんしぶんれき)


後漢 元和二年(85)
編訢、李梵


1蔀= 76年940月27,759日
1太陽年= 1461(周天)÷ 4(日法)365.25日3651/4
1
朔望月= 27,759(蔀日940(蔀月)29.530851日


元嘉暦
(げんかれき)


宋 元嘉廿二年(445)
何承天


1太陽年= 222,070(紀日)÷ 608(紀法)365.24671日

1朔望月= 22,207(通数)÷ 752(日法)29.530585


《実際》


 


太陽年=365.2422日、朔望月=29.53059

 元嘉暦の朔望月は、太陽と月の周期が合う(整数になる)最小公倍数と見られる222,070(分子)と一日の長さと見られる7,520(分子)が10で約されていると思われます(邪推です)。

 

元嘉暦が用いた周期はメトン周期ではなかった

 『宋書』卷十三 志第三 律曆下「元嘉曆法」には、常数(定数)が次のようにあります(下線部分彩色部分の八ヶ所だけをご覧ください)。
…………………………………………………………………………………………………………………………
,十九。
紀法,六百八。
章月,二百三十五。
紀月,七千五百二十
章閏,七。
紀日,二十二萬二千七十。
度分,七十五。
度法,三百四。
氣法,二十四。
餘數,一千五百九十五。
歲中,十二。
日法,七百五十二。
沒餘,一百九十六。
通數,二萬二千二百七。
通法,四十七。
沒法,三百一十九。
月周,四千六十四。
周天,十一萬一千三十五。
通周,二萬七百二十一。
周日日餘,四百一十七。
周虛,三百三十五。
會數,一百六十。
交限數,八百五十九。
會月,九百三十九。
朔望合數,八十。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 次は東京天文台の暦Wiki元嘉暦 (げんかれき) / 建元暦†から抜粋しました。
…………………………………………………………………………………………………………………………
1太陽年= 222070(紀日608(紀法)365.24671日
1朔望月= 22207(通数752(日法)29.530585日
…………………………………………………………………………………………………………………………

 「元嘉暦」の下線部分は「章法」ですが、「章法」は閏月の置き方で使っているだけで、太陽と月の周期を合わせるために用いていたのはメトン周期(19年=235朔望月)ではなく、メトン周期を32倍し、太陽年は608年222,070日とし、朔望月は7,520ヶ月の数値を用いて計算していました(この半分がヒッパルコス周期304年3,760月111,035日です)。すなわち、元嘉暦が用いていたのは「ヒッパルコス周期」だったのです。

 これと同じように「後漢四分暦」が用いていたのは「カリポス周期」だったのです。

« 朔望月と月朔―太陰太陽暦の日付― | トップページ | 「蕨手文瓦」の証言―「磐井の乱」はなかった― »

」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

2024年7月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

古田史学先輩の追っかけ

無料ブログはココログ