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2023年8月

2023年8月29日 (火)

大兄ではなかった中大兄皇子―ただの「中皇子」だった―

大兄ではなかった中大兄皇子
ただの「中皇子」だった[古代史]

 

Wikipediaの説明(以下Wikipediaの説明文の下線は山田によるものです。)

 「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。Wikipedia「天智天皇」より) 

大兄(おおえ、おいね)[1]は、6世紀前期から7世紀中期までの倭国(日本)において、一部の王族が持った呼称・称号である。大兄の称号を持つ皇子は、有力な大王位継承資格者と考えられている。

概要

「大兄」は大王家のみならず、一般豪族にもみられる呼称である。「大兄」の意味について直接説明した同時代的史料はない。ただし、6・7世紀の大王家に集中して「大兄」の呼称がみられるため、現代の歴史学者は「大兄」の名を持つ皇子を比較して帰納的にその意味を探っている。細かな点で異なる諸説があるが、多数の皇子の中で王位を継承する可能性が高い者が持つ称号とみなされている。

当時、治天下大王の地位継承は、大王の一世王にあたる皇子(王子)に優先権が認められており、その中で長兄→次兄→・・・→末弟というように兄弟間で行われ(兄弟継承)、末弟が没した後は、長兄の長男に皇位承継されることが慣例となっていた。当時は一夫多妻であり、大王家に複数の同母兄弟グループが存在していたが、この同母兄弟間の長男が「大兄」という称号を保有していた。従って、大兄が同時期に複数存在したこともあり、「大兄」を称する皇子同士でしばしば皇位継承の紛争が起こった[2]。

しかし、「大兄」は同時期に一人に限られていたとする説もある。これによると、「大兄」は皇太子の先駆ともいえる制度的称号であり、「大兄」の称号を保有する皇子が皇位に即くか、即位以前に死亡するかで「大兄」の地位が移動したという[要出典]。

大兄略史

『日本書紀』の中に「大兄」を付けて呼ばれる皇子は8人いる。5世紀前半に大兄去来穂別皇子(おおえのいざほわけのみこ、履中天皇)が「大兄」として初めて現れているが、制度としては未確立であったと思われる。「大兄」としての実在性が確かな最初の人物は、6世紀前期にいた継体天皇の長子の勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ、安閑天皇)である。安閑天皇には男子がおらず、次兄の宣化天皇が後継したが同様に男子がいなかったため、末弟の欽明天皇が代を継いだと日本書紀は伝えるが、欽明天皇が安閑・宣化を滅ぼしたとする説、さらには欽明朝と安閑・宣化朝が並立していたとする説もある。

その後の「大兄」には欽明天皇の子である箭田珠勝大兄皇子(やたたまかつのおおえのみこ)、欽明天皇を後継した敏達天皇の子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)、敏達天皇の異母兄弟である大兄皇子(おおえのみこ、用明天皇)[3]、用明天皇の子厩戸皇子(推古天皇の「皇太子」・「摂政」)の長子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)、舒明天皇の長子である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)がいるが、これらの大兄のうち大王位に即いた例の方が少ない。さらに推古天皇の死後には、「大兄」の嫡男(田村皇子・後の舒明天皇)と「皇太子」・「摂政」の嫡男である「大兄」(山背大兄王)のどちらが皇位継承に相応しいかで紛争を起こしたケースも存在する。このことは、当時の皇位継承の決定方法が明確に規定されていなかったこと、たとえ「大兄」の称号を保有していても治天下大王を継承できる訳ではなかったことを表している(用明天皇の嫡男であり、推古天皇の最有力後継候補であった厩戸皇子が「大兄」を称していないことにも注意を払うべきであろう)。

大王家において、最後の「大兄」と見られるのが中大兄皇子(なかのおおえのみこ、天智天皇)である[4]。天智天皇の後を継いだ大友皇子(弘文天皇)はもはや「大兄」と呼ばれることはなく、その後も「大兄」の称号は絶えている。すなわち、皇位継承者の決定方法がこの頃に明確に定められたのではないかと考えられる。その皇位継承法とはおそらく、兄弟間の継承を廃し、治天下大王が没したと同時にその長子へ継承する方式だったと推測される。このため、天智天皇の長子である大友皇子が即位することになり、皇位承継の道を閉ざされた大海人皇子(天武天皇)が叛乱(壬申の乱)を起こした一因となったのであろう。Wikipedia「大兄」より)

 

Wikipediaの説明は本当だろうか?

 「大兄」は、「『太子』継承資格」ではなく「『大王位』継承資格」ならば、天皇家なら「皇太子」、そうでなければ「太子」を意味する。以下、この仮説を検討する。 

①大兄去来穂別皇子(履中天皇)、②勾大兄皇子(安閑天皇)、③箭田珠勝大兄皇子(欽明天皇の第一皇子、欽明天皇134月(552年)に「箭田珠勝皇子薨(みう)せぬ」とある。『古事記』では八田王。)、④押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の第一皇子。押坂彦人皇子、麻呂古皇子、太子彦人皇子、忍坂日子人太子、皇祖大兄とも。30 敏達天皇→31 用明天皇→32 崇峻天皇→33 推古天皇と兄弟継承が続いたために継承の機会が失われた。今の皇室は、押坂彦人大兄皇子の男系子孫。)、⑤大兄皇子(用明天皇)、⑥山背大兄王(厩戸皇子の長子)、⑦古人大兄皇子(舒明天皇の第一皇子。古人皇子・古人大市皇子・吉野太子とも。乙巳の変の後、中大兄皇子に攻め殺された。娘は倭姫王(天智天皇の皇后)。)、⑧中大兄皇子(天智天皇) 

さて、この8人を即位事情あるいは即位してない事情を検討してみよう。

⑥山背大兄王は天皇の皇子ではないので除外すると、天皇家の大兄で天皇に即位していないのは、③箭田珠勝大兄皇子、④押坂彦人大兄皇子、⑦古人大兄皇子 の3人である。

③箭田珠勝大兄皇子は即位の機会が訪れる以前に無くなっている。

④押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の第一皇子)は、30 敏達天皇→31 用明天皇→32 崇峻天皇→33 推古天皇と兄弟継承が続いて、即位の機会が無かった。

⑦古人大兄皇子は、⑧中大兄皇子が起こした「乙巳の変」で皇極天皇退位を受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り(と話はなっているが、実際には力ずくで皇位継承を断念させられたということだろう)、吉野に出家したが中大兄皇子に攻め殺された(後顧の憂いを断つためだろう)。

 

天皇家の大兄は皇太子

さあ、これでどうでしょうか?8人の大兄は、

(第1群)天皇に即位している大兄

①大兄去来穂別皇子(履中天皇)、②勾大兄皇子(安閑天皇)、⑤大兄皇子(用明天皇)の3人。

(第2群)即位機会を迎ず死亡している大兄

③箭田珠勝大兄皇子(欽明天皇の第一皇子)と④押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の第一皇子)の2人。

(第3群)天皇家ではない大兄(天皇に即位する資格のない大兄)

⑥山背大兄王(厩戸皇子の長子)1人。

(第4群)殺された大兄と殺した大兄(この2人は「乙巳の変」の当事者)

資格を奪われて殺された⑦古人大兄皇子と資格を奪って殺した⑧中大兄皇子の2人です。

 

結論

 「大兄」の称号は、天皇家ならば「皇太子」の意味である。天皇家でなければ「太子」の意味である。

 天皇家なら「『中』大兄」というのは「中皇太子」となり、そんな「皇位継承資格」は存在しない。また、実際に「中大兄皇子」以外に「中大兄」はいない(称号「大兄」を持つのは8人だけとされている)。つまり「中大兄皇子」は単に「中皇子」だったのを「乙巳の変」後に「大兄」を付加して「中『大兄』皇子」を名乗ったものと推測される。「中大兄皇子」と名乗った理由は、大兄(皇太子)でないものが大兄を武力で退けて皇太子になった(後で天皇になる)ことを繕うためである。

「蕨手文瓦」の証言―「磐井の乱」はなかった―

「蕨手文瓦」の証言「磐井の乱」はなかった[コラム]

 吉村八洲男さまからご寄稿いただきました「多元」令和5年7月号に掲載された論考を掲載いたします。7月号とあります通り、だいぶ前にご寄稿いただいていたのですが、私事の都合でブログ更新を怠り、このように著しく掲載が遅れてしまいました。吉村八洲男さま、並びにその論稿の掲載を楽しみにされていた皆様に心からお詫び申し上げます。掲載が遅れたものは、これ以外にもご寄稿いただいております。順次掲載する予定ですので、よろしくお願いいたします。

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「蕨手文瓦」の証言

「磐井の乱」はなかった(「多元」令和5年/7月)

上田市 吉村八洲男

1.初めに

 「磐井の乱」と「蕨手文」とを結び付けた James Mac(阿部周一)氏の秀逸な論考(注1)「古田会ニュース・209号」で紹介しました。氏は、6世紀中期築造とされる「王塚古墳・壁画」に描かれる「蕨手文」と、6世紀初め「磐井の乱」とを結び付けた驚愕の新見解を主張されました。「乱」とは九州王朝内の権力争いの事で、「磐井の君」を倒し(殺害し)新たに「九州王権」支配者となったのが「物部氏」であるとし、そのシンボル(部族を象徴する印章・神紋)が「蕨手文」だとしたのです。この事件を「近畿王朝勢」「日本書紀」が「磐井の乱」と表現し、最大限利用した、と主張されたのです。

 この論考が発表されて数年後(一昨年)です、私はこの論考の正否を決める「考古資料」を、上田周辺・「科野の国」で確認しました。具体的に言うと「蕨手文軒丸瓦(瓦当)」を含む8点の瓦、地域神社に残る「蕨手文石祀」、関連する「考古資料」です。

 それら「考古資料」がすべてMac氏説を支持している、と私には思えました。『「磐井の乱」はなかった、だが「磐井事件」があったのだ』と断言していると思えたのです。

 これからそのいくつかを紹介します。「科野の国」に現存する「考古資料」と、そこからの推論に是非御理解を頂きたいと思います。これらの「証拠」が、Mac氏説だけでなく、古田先生『「磐井の乱」はなかった』説の正しさを証明すると思えるのです。

 

2.上田の「蕨手文・瓦」

 驚く事に「科野」には、全国にない貴重な「蕨手文」資料がありました。それが「蕨手文軒丸瓦(瓦当)」で、上田周辺で「7枚」確認されています。「信濃国分寺跡(僧寺跡2尼寺跡1窯跡1)」・坂城「込山廃寺跡・土井の入窯跡」・須坂「左願寺跡」で発掘されていました(その内2枚が「信濃国分寺資料館」に展示されています)。Photo_20230829123201

 「考古学」からは、複数の「軒丸瓦」に残る「蕨手文様」が確定されていたのです。

 となると文様考古資料が「複数」存在するのは「王塚古墳・壁画」と「上田周辺・蕨手文瓦」だけとなります。この事実からは、両者の関連が考えられます。日本中探してもこの両地にしかないのですから、それが当然でしょう!

 が残念な事に、上田地域「複数資料(蕨手文瓦)」の存在は全く留意されて来ませんでした。ある決定的な理由(判断)があったからです。

 『「蕨手文瓦」とは、「信濃国分寺」創建以後に焼成された瓦だ!』こう解釈されて来たのです。この地域の仏教文化は「聖武天皇の詔による信濃国分寺創建に始まる」、と無条件で信じ込まれて来たのです。国分寺創建は8世紀です。ですから『上田「蕨手文瓦」は、『「6世紀」に築造された「王塚古墳」とは無関係』と断定されて来ました。

 こうして考古学者は、8世紀創建「信濃国分寺」関連から「蕨手文瓦」解釈を試みます。ただその時、上田のみで発見された事がネックになります。それは「他とは比較・研究が不可能な瓦」を意味するからです。郷土史家が苦しむ原因でした。

 例えば8世紀以降創建された寺院の「軒丸瓦(瓦当)」は、全国ほぼすべてが「蓮華文様」です(「古代瓦様式の定説))。「蕨手文瓦」ではありません。ですからやはり「比較しようのない例外的な文様瓦」となるのです。ただ上田周辺「蕨手文瓦」」すべてが「千曲川左岸」からの出土でしたから「国分寺」と何らかの関連が予想されました。

 しかし確たる結論は出ませんでした。こうしてこの上田周辺「蕨手文様(瓦)」は、「蕨手文に似ているが解釈は不能、全国にない奇妙な文様」とされ、『正式な地位(歴史解釈)が付けられない不審な「瓦」』とする判定・評価だけが確定するのです。

 ですから「蕨手文瓦」へは「珍説・珍解釈」が多出します。地域性が強い(ローカルで)稚拙な文様と推定されます。そして豪族(又は職人)達が、思い付くまま(手慰み)に、「信濃国分寺」「補修」の為焼成した「瓦」とされ、これらが定説となります。

 同時に「信濃国分寺(僧寺が中心)跡」出土「瓦」へは考古学から詳細な研究が進みます。そして「760頃の信濃国分寺創建」が確定します。「東大寺形式の瓦」が大量に出土し「瓦の組み合わせ」も確定した事が要因でした(東大寺瓦形式6235タイプ「軒丸瓦」と6732タイプ「軒先瓦」、「複弁蓮華文」瓦当・「複合唐草文」軒先瓦など)。

 ところが最近寺域に残る「瓦窯跡」にある瓦の分析から、「信濃国分寺創建」と無関係と思える古い様式の「瓦(「7世紀?」)」の混在が確認されました。各種「単(素)弁蓮華文瓦」・各種「軒先瓦」などで、「蕨手文瓦」もその仲間とされます(「尼寺」周囲からも発見された)。「文様・製法」に明らかな違いがあると確認されました。

 矛盾するこの二種「瓦群」の存在を整合させるため、「国分寺(僧寺)」創建に際し「先行建物」が造られたか、と言う推定になります。その建物(寺?)に「創建瓦」より古い形式の各種「瓦」が使われたという推測です(全国の「国分寺創建時の不審」解釈にこの論理が使われます)。そしてこれが新しい定説になりつつあるのが現状なのです。

 疑問が多い「信濃国分寺」創建に関しようやく新しい推定が始まったと私には思えます。それはそれで喜ばしい事なのですが、肝心の上田周辺「蕨手文瓦」への歴史的評価は放置されたままでした。

 

3.青木村での「蕨手文瓦を含む8点瓦」の発見

 一昨年私は、上田市に隣接した青木村・田沢地区・「子檀嶺(こまゆみね)神社」で「蕨手文瓦」を含む「8点の瓦」を確認しました。

 瓦は、「蕨手文軒丸瓦(瓦当)」・「軒平(前)瓦」・「丸瓦(男瓦?)」・「女瓦」、さらに他の瓦が4点、計「8点」ありました。以下です。

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Photo_20230829123302

 この青木「蕨手文瓦を含む8点瓦」への「観察・岩石分析からの推論」は貴重なものでした。「定説」にはない驚きの推論が生まれたからです。列挙してみます。

 「瓦」が神社に至った事情・根拠がはっきりしていて、疑う余地がない。

 地質学者の「瓦・岩石分析」からは「土・瓦・窯」への注目すべき推定が生まれた。特に「8点瓦」中の「軒前瓦」は「九州」由来かと推定された。

 「瓦」観察から「8点」中の「4点」に「組み合わせ」が推定された。そこから『「8点」は同一寺(神宮寺)の瓦で、多数発見の瓦を代表した瓦』、と予想された。

 青木「蕨手文瓦」と既出土上田周辺「蕨手文瓦」とを比較した結果、「青木瓦はより古い時代の瓦」と推定され、青木瓦が上田周辺瓦へ影響を与えたと思える。

 これらの「発見瓦」からの推論は、定説である『東山道からの「蕨手文瓦・搬入説」』を否定するものでした。後ほど、この詳細は発表します(長くなりこの論考頁には収まりません)。

 

4.「蕨手文瓦」が示す時代

 青木村の「蕨手文様(瓦)」発見からは衝撃的な推論が生まれます。

 説明しましょう。青木村は「信濃国分寺」からは10数キロ離れています。そこは「千曲川右岸」であり、標高も高くなります。ですからそれまでの「蕨手文瓦」とは明らかに異なります。左岸にある「信濃国分寺」との関連は推論できません。更に、青木「蕨手文瓦」が上田「蕨手文瓦」より古いとも推定されました。

 これらから「信濃国分寺創建前に仮の建物があった」説は成り立たないのです。

 理由は簡単でしょう。青木村に、上田から10数キロ離れた青木村に、「蕨手文瓦」があったからです。上田と青木に「創建準備の建物」を造る事などあり得ません。

 ですから上田に『「蕨手文」を使った創建準備の建物を造る』筈などないのです。

 これは子供でも解る論理でしょう。

 「蕨手文瓦」は、「信濃国分寺」を「補修」する為「豪族(職人)」が「思い付きで作った瓦」でもありません。「信濃国分寺創建以後の瓦」説も成立しないのです。

 繰り返します。「信濃国分寺創建」と「蕨手文瓦」には関係などないのです。「蕨手文瓦」時代の方が古いのです。「蕨手文瓦」のあった場所に、次の時代「信濃国分寺」が創建されたと考えられるのです。

 そして青木「蕨手文瓦」の発見は、もう一つの推定を生みます。「蕨手文瓦」を「信濃国分寺」と結びつける必要はありませんでした。ですから、上田を中心とした「科野」各地から「蕨手文瓦」が発見されている、と解釈されます。

 再確認して下さい。なんと「科野」各地の「廃寺跡」から「蕨手文瓦」が出土しているのです。須坂「左岸廃寺跡」・坂城「込山廃寺跡」がそうです。青木「神宮寺」からの発見も同じではないでしょうか。

 「蕨手文瓦」のすべては「軒丸瓦」です。ですから当然、「寺」と結びつきます。8世紀「信濃国分寺創建」以前に、「科野」には「仏教」が伝来していたと推論出来るのです。「蕨手文瓦」は、その寺(X寺)に使われた瓦と思えます。

 

5.終わりに

『「蕨手文(瓦)」が示す時代』を具体的に考えなくてはなりません。何時でしょう?

 そしてその「答え」は、「科野(上田が中心)」の「蕨手文考古資料(群)」に残されている、と私は信じています。今回は「蕨手文瓦」について紹介しました。続いて次回は「50点」は残る「蕨手文(神社)石址」に言及します。

 6世紀にしか残らない筈の「蕨手文(「複合蕨手文」)」が、半端ない数で「瓦」や「石祉」に残っているのです。郷土史家は言及していません。だが「王塚古墳」に「蕨手文」を残した一族の『「科野」進出』を推論してよいのではないでしょうか。

 そして思います。「乱」があったならこの進出は不可能だろう、と。「60もの蕨手文」を「科野」に残せないからです。果たして「乱」があったのか、それが疑われる「蕨手文考古資料群」の遺存・分布なのです。「磐井の君」と、「蕨手文一族」とは別勢力ではないか? Mac氏論考は正しいのではないだろうか?

 私は上田地域に「蕨手文」を使った一族は、「6世紀」北九州に「王塚古墳」を築造した一族だと思います。彼らが「科野」に進出し、仏教を広め、「ある寺(X寺)」を創建したと信じています。「磐井の乱」は起きていない、だが「磐井事件があった」とも信じています。「九州勢」同士で王権を争った、と信じているのです。

(終)

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注1 James Mac(阿部周一)氏の秀逸な論考 ‥‥‥ 阿蘇溶結凝灰岩の使用停止と「蕨手文様」を持つ装飾古墳の発生と終焉

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