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2023年9月

2023年9月13日 (水)

「蕨手文」の証言 ②―上田市周辺の「複合・蕨手文」―

 「蕨手文」の証言 ②上田市周辺の「複合・蕨手文」[コラム]

 吉村八洲男さまから、多元的古代研究会の会誌「多元 No177 SEp.2023」に掲載された論稿をご寄稿いただきましたので掲載いたします。私事にて掲載が遅れましたことをお詫び申し上げます。

 なお、多元誌と当ブログでは、段組みや縦横書き等、表示上多くのことが異なります。それに伴って、論稿の原文・写真サイズ等を編集しています。また、ブログでは山田が独断で注記を加えております。それらのことをご承知おきください。

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「蕨手文」の証言 ②

上田市周辺の「複合・蕨手文」

上田市 吉村八洲男

1.初めに

 前号(注1)6月例会(注2)で、全国で上田周辺だけにある『6枚の「蕨手文・瓦」』追及の重要性を指摘した。『「蕨手文・瓦」はいつの時代を示すのか?』

 今回は「蕨手文」から推論を試み、九州(「王塚」)と「上田」との密接な関係を論断したい。我々は認識すべきと思われる、『王塚古墳築造の一族が、上田へ進出した!』

 

2.「蕨手(わらびて)文」について

 最大公約数的ではあるが、「蕨手文」を以下のように理解する。

 「の」の字形、さらにそこに直線部分を持つ文様の総称で、形状が「蕨(手)」に似る事からこう名称付けられる(日本だけの用語だが)。文様は単独形を基本とし、左右(上下)方向へ「対」に又は「連読」して描かれ、蕨手が同時に左右を向いている「双頭形」としても描かれている。基本とする文様形状の類似から、「葵(き)文」「渦巻文」なども「蕨手文」の範疇に含めて良いと思われる。

 この文様は、人類始原期から、東アジア一帯で、身近に使用された文様である(近世にも使用例がある)。日本でも縄文期・弥生期・古墳期を通じ出土する。「土器」「剣の装身具」などに刻まれるが、「剣の柄」の形状を「蕨手」にデザインした例もある。中国では「西周」以後の「瓦の歴史」でも重要な位置・役割を果たしている。「(軒丸)瓦文様」として使用される例が多いからで、中国を代表する「雲文様」も「蕨手文」の変化形・発展形と考えられているようだ。

 この文様の発生時期・意味・歴史などについては諸説がありここで言及しきれない。

 だが一つの肝要事がある。それは蕨手文様史上ある画期が九州「王塚古墳・蕨手文壁画」に認められる事だ。「王塚古墳・壁画」にしか認められないある重要事があるのだ。

 それが、「蕨手文形状(の変化)」である。これが「王塚古墳」を中心とした「6世紀古墳壁画」だけに明瞭に現れる。発見した考古学者はそれに驚き、「王塚古墳」の「蕨手文」を「複合蕨手文」と名称付け、独自な様式と認定し「分類」も試みる。

 「の」の字形蕨手文、「対」と思える2種の「蕨手文」を「Aタイプ外向き」と「Bタイプ内向き」とし、計「三分類」としたのだ。

(出典:「描かれた黄泉の世界 王塚古墳」 柳沢一男 新泉社 から)

① 『複合蕨手文様』 「の」の字形
図1
Photo_20230913144101

②『複合蕨手文』 Bタイプ「内向き蕨手文」
図2
Photo_20230913144201

③『複合蕨手文』 Aタイプ「外向き蕨手文」
図3
Photo_20230913144202

 「それまでにない日本独自の蕨手文様」と判断された理由を説明する。

 中国「蕨手文・雲文」などでは、文様は「線」で描かれる。基本形は、一本の線で描かれる(「雲文」瓦は、分割線で区切られた中に基本形・派生した文様を持つ)。

 それに対し「王塚・蕨手文様」では、「一つの蕨手文様」作成に「複数の蕨手(線)」が使われる。さらにその「線」を使い「面」も造られているのだ。

 それがそれまでの「蕨手文」とは全く異なっていた。「画期」とされる所以なのだ。

 「王塚・壁画」の「外向き蕨手文(図3)」で確認してほしい。まず「緑色(線)」で「蕨手」が2個描かれ、さらに「赤色・黄色」を使い「蕨手(面)」が描かれる。

 「複数の色による線(面)」から一つの「蕨手文様」が造られているのだ。「蕨手文」が重なっているのである。

 この特徴ある文様作成法は、分類された『内向き蕨手文(図2)』、『「の」の字形蕨手文(図1)』でも同じであった(だから「複合蕨手文」と判定されたのだ)。

 もう一つ奇妙な事にも気づいた。この「複合蕨手文」は、北九州で「6世紀」築造の「古墳」にしか認められなかったのだ。「外向き複合蕨手文」は「6個」(9個説もある)の「古墳」から、「内向き複合蕨手文」に至っては「王塚古墳」にしか認められなかったのだ(後に「金官伽耶」王墓から「外向き蕨手文」が認められるが)。

 だが、それ以上の追及はなされなかった。「複合蕨手文」は「王塚古墳」を中心とした「6個の古墳」にしか残らない貴重な文様とされ、それが定説となっている。

 

3.真田(上田市)の「蕨手文」

 真田町「出早雄(いずはやお)神社」境内にある「5社」と呼ばれる5個の「神社型小石祉」を観察していた時だ。奇妙な文様が「5社」石祉の特定位置に刻まれている事に気がついた。

真田町本原「出速雄神社」内・「5社」 図4    特定位置(斜線部)図5Photo_20230913144501

豊受皇大社 図6         金毘羅社 図7     正八幡社 図8Photo_20230913144801

 驚くことに古い苔むした「神社型小石祉」すべてが「神社名」を持ち「神」を持ち崇拝を受けていた。私は当たり前としていたある重要事に再度気づかされた。『「神社型小石祉」は、往時、「神社」だったのだ!』

 小石祉となった理由は様々であろう。体制変化による神の変化が最大理由だろうが、建築物の劣化・事故、自然災害による散逸などがすぐに想像された。

 「合祀(ごうし)」からは神々の共存が許されたとも思えた。散逸していた神々・神社が「小石祉」となり、再度神社境内に集められ祀られたと思量された。

 だから確信したのだ。「石祉」が「神社」だったなら、特定の位置(場所)にある「文様」には「特別な意味」がある筈だ!

 その位置は「懸魚(けぎょ)」と呼ばれ、現代神社(建築)でも「最重要」とされる場所である。ここに「神紋」を置き、信仰の姿を示すのが普通と思える。

 私は結論した。「神社型小石祉」が神社だった時、「神社神紋」もこの位置にあった。「小石祉文様」は、往時の「神社」の信仰の姿を示している!そして思った。これら多くの「小石祉」に、ある特定する「文様」が認められた時、文様に代表されるある「信仰」を、この神社は持っていた、と。

 そして何回か真田町の神社を訪れ気が付いた。「これは『外向きタイプ・複合蕨手文』ではないか?」。調べ廻った真田神社境内の「小石祉」には、「出早雄社」と「類似する文様」が数多く残されていたのである。

横尾社 図9     戸沢社 図10          実相院 図11
Photo_20230913145201

 共通する特徴が解る。『「対(左右に)」となる蕨手が、外方向へ、複数本描かれている』のである。「外向き・複合蕨手文」の特徴そのままだった。類似の文様も次々と発見された。「真田町・神社境内」の「小石祉」の「定位置(懸魚)」には、多くの「外向き複合蕨手文」がデザインされていたのである。

 とにかく私は驚いた。真田町の神社を片っ端から探し回ったものだ。

天満宮 図12        三峰社 図13    誉田足玉神社 図14
Photo_20230913145301

 驚くことに、「真田町・神社」からは「16個」の「外向き複合蕨手文」が確認された。ない筈の「複合蕨手文」が、「真田町(上田)」にはあったのだ!!

 「王塚古墳・壁画・外向き複合蕨手文」が「真田町・小石祉・外向き複合蕨手文」へと変化する過程は容易に予想できた。

「王塚古墳・壁画」 図15    「真田町・神社型小石祉」 図16
Photo_20230913145501

 私は手を広げ上田地域を中心に千曲川中流域を探し廻った。そして、続々と発見したのだ。 「50個(以上)!」、とんでもない合計数だったのだ!

 念のため、「上田市」での「外向き複合蕨手文(の一部)」を提示する。

(はなぶさ)神社 図17 東條建代神社 図18  堀川神社 図19
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 「50個以上の文様」はすべて「写真採録済」だ。すべてをこの紙上で提示したいのだが、スペースがない。「石祉」所在場所(神社)を、地域地図に落とし込む。

「外向き複合蕨手文」を「懸魚」に持つ石祉(神社)所在略図 図20
図20
Photo_20230913145801

 

4.終わりに

 この略地図は様々な教示を与えてくれる。更なる「考古資料」と考え併せると主張とする「ある歴史定説の再考」が暗示されると思えるが、それへの言及は次号となる。

 ただ、確定させてほしい。九州以外には認められない「外向き複合蕨手文」が、上田周辺には「50個以上」残っている事実だ。その理由は、説明されるべきであろう。

 だが私にとって、上田の「謎の蕨手文・瓦」解明が可能となった事が喜ばしい。

 「王塚・壁画」では、「内向き」・「外向き」が対になって表示・使用されていた。上田「謎の蕨手文・瓦」は「内向き蕨手文」である。だとしたら、「50個」の「外向き蕨手文」を「懸魚」に使った人々が、「内向き蕨手文」を「瓦」に使い「蕨手文・瓦」を造ったと推量出来ないだろうか。貴重な「内向き蕨手文」を「瓦・寺」へ使い、進出してきたと思えるのだ。「謎の蕨手瓦」は「6世紀の瓦」と結論される。

(終)

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注1 前号 ‥‥‥ 次のブログ記事として掲載しています。
「蕨手文瓦」の証言―「磐井の乱」はなかった2023年829()

注2 6月例会 ‥‥‥ 多元的古代研究会で催された6月例会で、「青木村 「8点瓦の証明」」と題する発表で使ったスライドをご寄稿いただいており、次のブログに掲載しています。吉村さまからこのスライドのご寄稿に際し、「説明記述はありません」とのコメントを頂いております。
「多元の会」6月例会で使った「スライド」―青木村 「8点瓦の証明」―2023年913()

「多元の会」6月例会で使った「スライド」―青木村 「8点瓦の証明」―

「多元の会」6月例会で使った「スライド」―青木村 「8点瓦の証明」[コラム]

 吉村八洲男さまからこのスライドのご寄稿に際し、「説明記述はありません」とのコメントを頂いております。発表は口頭でなされているため資料の写真が主です。これもブログに掲載した方が良いと判断しました。スライドの画像のスクリーンショットを掲載しています。ご了承ください。

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2023年9月 2日 (土)

「多元」月例会(令和5年7月)―青木村「蕨手文瓦」の証言―

「多元」月例会(令和5年7月)―青木村「蕨手文瓦」の証言[コラム]

 吉村八洲男さまから届いていた「多元の会」の令和5年7月例会の論稿を遅ればせながら掲載いたします。複合蕨手文を古墳に使った一族が上田へ進出した説明がされる次号が待ち遠しいですね。

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多元」月例会(R5・7)

青木村「蕨手文瓦」の証言

上田市 吉村八洲男

 *「瓦・8点」の内、「蕨手文軒丸瓦・軒先瓦・丸瓦・女瓦」を持参しました。私論考をご理解される時、どうか参考にしてください。

 

1.初めに

 「多元誌」7月号(No.176)で、上田市に隣接する青木村「子檀嶺(こまゆみね)神社」での「蕨手文瓦(瓦当)を含む8点瓦の確認」を報告(注1)しました。「瓦8点」(注2)が示す重大さ・『8世紀「信濃国分寺」の補修用に焼成された瓦ではなく、「東山道」経由で関西(?)から搬入された瓦でもない』・に改めて気が付きます。

 

2.「青木瓦8点」の詳細

① 「瓦8点」が神社へ至るまでの由来

 宮司・「宮原満」氏から説明を受けました。古来からの歴史を持つ地域の名社である事、「神社(里宮)」の位置が変遷を重ねた事、「社宝」が多く「土器」なども多く寄贈されていた、などでした。そして「8点」瓦の詳細ないきさつが昭和17年作成の「神社昇格祈願書」に書かれている、と言われました。

 私は「神社昇格書」を調査しました。そこには『9点の「瓦」が「農民」から寄贈された』と明記されていたのです。その際の写真も添付されていました。写真には今回確認された8点中「4点の瓦」が写っていました(もう1枚は紛失したという)。「瓦」に書かれた「9」という数字の意味が分かりました。「9点の瓦」が寄贈されたから、と判断されました。「8」「9」と「瓦」へ記して「瓦の数」を主張・確認したのです。だが、神社の所有中にそのうちの1点が紛失したようです。だから私が確認した時には「8点の瓦」となっていたのです。

 さらに「昇格書」には、「中挾(なかばさみ)」地区での神社所有地が複数記載されていました。広大な「農地」が点在していたのです。現在(江戸期古地図でも)、「中挟地区」には「こまゆみ」という「字(あざ)名」が残っています。「この地に神社があった」事は確実と思えました。「往時、そこに「神宮寺」を持っていた」という宮司の記憶・伝承が裏付けられたのです。「子檀嶺神社は、「中挟地区」に神宮寺を持っていた」のです。「農民」により、そこから「瓦」が出土したのです。「瓦」表面に書かれた「中○」とは、「中挾」ではないかと予想されました。「画数」が多いため、判読不明になっているのです(「赤外線調査」が必要です)。

不明と思える「数字・漢字」ですが、追及すると逆に「瓦」の真実、資料性が証明されます。「8点瓦の資料性」は確定的と思えました。この「瓦」は、『「中挾」地にあった「神宮寺跡」から「農民」により「9点」同時に発見され、そして「鑑定」後に「子檀嶺神社」に奉納された(返された)』のです。「神社昇格祈願書」はそう断言します。

② 8点瓦への「岩石分析」

 私は8点瓦を「岩石分析」する事としました。「真田での鉄滓」発見時にお世話になった地質学者「山辺邦彦」氏に依頼しました(氏については紹介済です)この論考では「蕨手文瓦」・「軒前(先)瓦」の「分析表」を提示します。残る「分析表・解説」などは、このブログ内に添付しますので、ご参照ください。
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 特徴的な「文様」を持つ2点の瓦だが「分析」からも驚くべき差異が見られた。「軒先瓦」(右)が異常で特殊な成分を持っていたのである。それが「火山ガラス」成分で、しかも少なからず含まれていたのだ。この成分は他の7点瓦には含まれない「特別な成分」だった。川辺氏は言った。

 『私の長年の研究生活でも、この成分を持つ粘土(「瓦」の成分)には遭遇した事がない。少なくも上田(長野県下でも)では見ていない。これを除く7点瓦は、多少の差異はあっても「流紋岩・そこからの由来土」と推定されるから、この「火山ガラス」成分の異常さが際立つ。シラス台地(又は類似地)の粘土由来が想像される。火山灰・火砕流が含まれやすいからだ、その候補としては「九州」が予想されるかも』。

 どうやら8点瓦中でも「軒先瓦」は特別な意味を持つ瓦と言ってよいようだ。「文様」だけでなく「成分」も特殊なのである。留意すべき「瓦」と思えた。

 続いて、氏は貴重な感想を述べられた。

 『「8点瓦」はすべて「須恵器」と言っていいほどに焼き固められている。瓦表面の「黒色」からは「1200度」前後の高温で焼かれた瓦と想像される。これは「須恵器」焼成温度でもある(「平窯」の内の「穴窯」で焼成された?「ダルマ窯」なら8~900度)。

 また、「成分分析」からは、「原料土」に「水簸(すいひ・みずぶるい)」を行い、「瓦用」に改良したかと思える例があった。長石・石英(を含む土・成分)の極端な偏在がそれを示す、そこからは「須恵器」作成に習熟した人々がこれらの「瓦」を造ったと想像される。

 そして「原料粘土」出土地が特定される瓦では、「立科町芦田坂山付近・土」使用が確認される』。

 そこは「千曲川流域」ではなく山間部である。予想外の場所だった。「信濃国分寺」創建以前の「瓦」(「須恵器的な瓦」も含め)の存在はまだこの地では確認されていない。貴重な資料となると思えた。そしてそれは、「初期仏教・初期瓦」へのある予想・推定へと繋がっていく・・・「青木8点瓦」分析からは、驚くべき推定が生まれたのだ。

③ 観察

 青木「瓦」で奇妙な事が確認された。「8点」中「4点」の瓦に「組み合わせ」があると思えたのだ。偶然からの「8点の瓦」ではないと予想された。確認が必要であろう。
Photo_20230902134701
Photo_20230902134702

 両者の「接合」は、疑われてよいと思える。全国でも貴重な例と思えた。

 「信濃国分寺」関連論考をまとめた「信濃国分寺・発掘50年誌(国分寺資料館発行)」中に、発掘された「蕨手文瓦」の接合技法を予想した図が載せられている。次図だ。
Photo_20230902134801
 「丸瓦」部分と推定される「瓦」が未発見のため「予測図」としたと思えるが、青木のケースと似ている事に驚く。

 青木「8点瓦」中では、「「蕨手文瓦」と「丸瓦」」に「接合」関係を認めてよいと思えた。両者には「接合・組み合わせ」があったのである。

 参考までに確認した8点瓦中、「蕨手文瓦」と「丸瓦」を重ねてみた。下図である。
Photo_20230902134901
 下に置かれる黒色の瓦が「蕨手文瓦」で、その上に「丸瓦」を重ねた。ほぼ重なっていると見て取れよう。

 それぞれの「瓦」が持つ本義からも、「丸瓦」の先端に「蕨手文瓦」が接合されていたと思える。「瓦定説」に貴重な例として取り上げられてよいと思えた。

 青木「蕨手文瓦」にはさらに驚きの事実がある。

 「瓦」直径が「19.2」cmある事で、上田・坂城での既出土瓦の直径(5枚共に「17.8cm」)を大きく上回る。日本中に「7枚」しかないのだからその中での最長となる。「瓦定説」では、「直径大の瓦」⇒「直径小の瓦」(注3)が言われている。そこからは、青木「瓦」の古さが疑われてよいのである。上田「蕨手文瓦」よりは古いのではないだろうか。

 さらに「回転台(ろくろ)」を使用してこの「蕨手文瓦」が造られたか、とも観察された。これも貴重な例と思える。

 さて、もう一組の「瓦組み合わせ」を推測してみたい。
Photo_20230902135101
 観察の結果、「軒先瓦」と「女瓦(平瓦)」のカーブが一致したのである。「まさか」と私は思った。再三確認したが間違い・誤解はなかった。『両者は「接合」されていた』と思えた。「軒先瓦」に残る「上部のざらつき(破断面)」もその結論を支持していた。

 驚くことに青木では、この二つは、別々の「瓦」である、でも「接合されていた」と観察されるのだ・・・「まさか!」。

 「瓦定説」は、そう言っていない。

 「宇瓦(吉村註・軒先(前)瓦のこと)は日本で独自に考案されたもので、それ以前は軒先にも女瓦が葺かれていたと考えられる」「(・前略・)斑鳩寺ではこの時、はじめて文様をもつ宇瓦を採用する。ここで用いられた宇瓦は、瓦当文様を笵押しするのではなく、一つひとつ手彫りする」(「古瓦の考古学」有吉重蔵編 ニューサイエンス社 2018 から)

 つまり、「女瓦」の先端部から「軒先瓦」が派生・生成するとし、最古の「宇瓦」は「斑鳩寺」(法隆寺)だと言うのだ(下図の「宇瓦」例を参考に)。
Photo_20230902135301

 青木の瓦はどうなるのだ!

 誰がどう見ても、「軒先瓦(宇瓦)」は「女瓦」とは別個に存在している。そして観察からは、「軒先瓦文様」が「笵押し」されたとも推測されるのである。「手彫り」ではないのだ。

 「瓦定説」からは、青木瓦はどう説明されるのだ?

 青木瓦は、「斑鳩寺」創建より「古い時代」に造られた、と私は推量する。勿論「信濃国分寺」創建(8世紀)より遥かに古くなる(「多元」誌の私論考(注4)をご覧ください)。

「瓦定説」への見直しも必須となる。それとも青木瓦は「定説」の範疇に入らない特殊な瓦だと言うのだろうか。

 最後に既・出土の上田「蕨手文瓦」と青木「蕨手文瓦」との関係について追述する。

 両者の関係は、『「蕨手文軒先瓦」が、「丸瓦」とどう接合されていたか』で簡略に判断できると思える。そこで、上田・坂城「蕨手文瓦」の裏面「接合部」を示す。Photo_20230902135501
 既に示した青木「蕨手文様瓦」「裏面接合部」と比較してほしい。目視でも「瓦の厚さ」が均一でないと解る(しかも凸凹している)。さらに、「接合部分」が広すぎたり、狭すぎたりしているとも解る。均等に「瓦裏面」に設置されていない。「瓦」とその「接合部分」の観察から、上田「瓦」の「作成技術の未熟さ」が読み取れるのだ。

 青木「瓦」が上田「蕨手文瓦」を生んだ、と断定してよいだろう。上田・坂城「蕨手文軒丸瓦」は、青木「瓦」から技術的な影響を受けたと思える。

 

3.終わりに

 「謎の瓦」と言われてきた上田「蕨手文瓦」だが、正しい作成時代はいつだろう。

 青木「瓦」は『8世紀「信濃国分寺」築造』どころかそれ以前の「瓦」か、と推定して来た。だがこれ以上の論議は「水掛け論」になりかねないとも思える。

 私は「瓦」に残る「蕨手文様」への追及が解決の「鍵」となると思っている。上田の「蕨手文」は、九州「王塚古墳・壁画」との緊密な関連を主張すると思っているからだ。

 「王塚古墳壁画」の「蕨手文」は、日本でも「王塚」にしかない独自な「複合蕨手文様」、と「考古学」からは言われている。もしそれが「上田」にあったなら・・・

 『古墳を築造した一族・「蕨手文」を使った一族が、上田・「科野」へ進出した』、のではないだろうか(次号で説明します)。そして「蕨手文一族」の進出が証明された時、『果たして「磐井の乱」があったのか』が次の大問題となるのだ。

 上田・「科野」での「60もの考古資料」は言っている。『上田へ「蕨手文一族」が進出して来た』、『「磐井の乱」はなかった、「磐井事件」があったのだ』と。

(終)

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注1 青木村「子檀嶺(こまゆみね)神社」での「蕨手文瓦(瓦当)を含む8点瓦の確認」を報告‥‥‥ 次のブログ記事をご覧ください。
科野からの便り(32)―「蕨手(わらびて)文様瓦の発見」編―2021年919()
なお、「初期瓦」と「仮設寺」2022124()でも論及しています。

注2 「瓦8点」 ‥‥‥ 詳細は次のブログ記事をご覧ください。
「初期瓦」と「仮設寺」2022年124()

注3 「直径大の瓦」⇒「直径小の瓦」 ‥‥‥ 瓦の大きさの変遷において、左側(大きい方)が右側(小さい方)より古いことを表すためにこの論稿では記号「⇒」を用いている。

注4 「多元」誌の私論考 ‥‥‥ 当ブログ(sanmaoの暦歴徒然草)の右欄にあるカテゴリーcategory 中の上から7番目にある「コラム」を選択すると吉村さんの寄稿論文を掲載したブログ記事が抽出表示されます。そのうち多元的古代研究会会誌「多元」に掲載されたものは次の通りです(掲載日の新しい順)。
「蕨手文瓦」の証言―「磐井の乱」はなかった―2023年829()
神科条里と「番匠」②―条里と「国府寺」(「多元No.174 Mar.2023」掲載)―2023年37()

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