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2023年9月 2日 (土)

「多元」月例会(令和5年7月)―青木村「蕨手文瓦」の証言―

「多元」月例会(令和5年7月)―青木村「蕨手文瓦」の証言[コラム]

 吉村八洲男さまから届いていた「多元の会」の令和5年7月例会の論稿を遅ればせながら掲載いたします。複合蕨手文を古墳に使った一族が上田へ進出した説明がされる次号が待ち遠しいですね。

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多元」月例会(R5・7)

青木村「蕨手文瓦」の証言

上田市 吉村八洲男

 *「瓦・8点」の内、「蕨手文軒丸瓦・軒先瓦・丸瓦・女瓦」を持参しました。私論考をご理解される時、どうか参考にしてください。

 

1.初めに

 「多元誌」7月号(No.176)で、上田市に隣接する青木村「子檀嶺(こまゆみね)神社」での「蕨手文瓦(瓦当)を含む8点瓦の確認」を報告(注1)しました。「瓦8点」(注2)が示す重大さ・『8世紀「信濃国分寺」の補修用に焼成された瓦ではなく、「東山道」経由で関西(?)から搬入された瓦でもない』・に改めて気が付きます。

 

2.「青木瓦8点」の詳細

① 「瓦8点」が神社へ至るまでの由来

 宮司・「宮原満」氏から説明を受けました。古来からの歴史を持つ地域の名社である事、「神社(里宮)」の位置が変遷を重ねた事、「社宝」が多く「土器」なども多く寄贈されていた、などでした。そして「8点」瓦の詳細ないきさつが昭和17年作成の「神社昇格祈願書」に書かれている、と言われました。

 私は「神社昇格書」を調査しました。そこには『9点の「瓦」が「農民」から寄贈された』と明記されていたのです。その際の写真も添付されていました。写真には今回確認された8点中「4点の瓦」が写っていました(もう1枚は紛失したという)。「瓦」に書かれた「9」という数字の意味が分かりました。「9点の瓦」が寄贈されたから、と判断されました。「8」「9」と「瓦」へ記して「瓦の数」を主張・確認したのです。だが、神社の所有中にそのうちの1点が紛失したようです。だから私が確認した時には「8点の瓦」となっていたのです。

 さらに「昇格書」には、「中挾(なかばさみ)」地区での神社所有地が複数記載されていました。広大な「農地」が点在していたのです。現在(江戸期古地図でも)、「中挟地区」には「こまゆみ」という「字(あざ)名」が残っています。「この地に神社があった」事は確実と思えました。「往時、そこに「神宮寺」を持っていた」という宮司の記憶・伝承が裏付けられたのです。「子檀嶺神社は、「中挟地区」に神宮寺を持っていた」のです。「農民」により、そこから「瓦」が出土したのです。「瓦」表面に書かれた「中○」とは、「中挾」ではないかと予想されました。「画数」が多いため、判読不明になっているのです(「赤外線調査」が必要です)。

不明と思える「数字・漢字」ですが、追及すると逆に「瓦」の真実、資料性が証明されます。「8点瓦の資料性」は確定的と思えました。この「瓦」は、『「中挾」地にあった「神宮寺跡」から「農民」により「9点」同時に発見され、そして「鑑定」後に「子檀嶺神社」に奉納された(返された)』のです。「神社昇格祈願書」はそう断言します。

② 8点瓦への「岩石分析」

 私は8点瓦を「岩石分析」する事としました。「真田での鉄滓」発見時にお世話になった地質学者「山辺邦彦」氏に依頼しました(氏については紹介済です)この論考では「蕨手文瓦」・「軒前(先)瓦」の「分析表」を提示します。残る「分析表・解説」などは、このブログ内に添付しますので、ご参照ください。
Photo_20230902134401
 特徴的な「文様」を持つ2点の瓦だが「分析」からも驚くべき差異が見られた。「軒先瓦」(右)が異常で特殊な成分を持っていたのである。それが「火山ガラス」成分で、しかも少なからず含まれていたのだ。この成分は他の7点瓦には含まれない「特別な成分」だった。川辺氏は言った。

 『私の長年の研究生活でも、この成分を持つ粘土(「瓦」の成分)には遭遇した事がない。少なくも上田(長野県下でも)では見ていない。これを除く7点瓦は、多少の差異はあっても「流紋岩・そこからの由来土」と推定されるから、この「火山ガラス」成分の異常さが際立つ。シラス台地(又は類似地)の粘土由来が想像される。火山灰・火砕流が含まれやすいからだ、その候補としては「九州」が予想されるかも』。

 どうやら8点瓦中でも「軒先瓦」は特別な意味を持つ瓦と言ってよいようだ。「文様」だけでなく「成分」も特殊なのである。留意すべき「瓦」と思えた。

 続いて、氏は貴重な感想を述べられた。

 『「8点瓦」はすべて「須恵器」と言っていいほどに焼き固められている。瓦表面の「黒色」からは「1200度」前後の高温で焼かれた瓦と想像される。これは「須恵器」焼成温度でもある(「平窯」の内の「穴窯」で焼成された?「ダルマ窯」なら8~900度)。

 また、「成分分析」からは、「原料土」に「水簸(すいひ・みずぶるい)」を行い、「瓦用」に改良したかと思える例があった。長石・石英(を含む土・成分)の極端な偏在がそれを示す、そこからは「須恵器」作成に習熟した人々がこれらの「瓦」を造ったと想像される。

 そして「原料粘土」出土地が特定される瓦では、「立科町芦田坂山付近・土」使用が確認される』。

 そこは「千曲川流域」ではなく山間部である。予想外の場所だった。「信濃国分寺」創建以前の「瓦」(「須恵器的な瓦」も含め)の存在はまだこの地では確認されていない。貴重な資料となると思えた。そしてそれは、「初期仏教・初期瓦」へのある予想・推定へと繋がっていく・・・「青木8点瓦」分析からは、驚くべき推定が生まれたのだ。

③ 観察

 青木「瓦」で奇妙な事が確認された。「8点」中「4点」の瓦に「組み合わせ」があると思えたのだ。偶然からの「8点の瓦」ではないと予想された。確認が必要であろう。
Photo_20230902134701
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 両者の「接合」は、疑われてよいと思える。全国でも貴重な例と思えた。

 「信濃国分寺」関連論考をまとめた「信濃国分寺・発掘50年誌(国分寺資料館発行)」中に、発掘された「蕨手文瓦」の接合技法を予想した図が載せられている。次図だ。
Photo_20230902134801
 「丸瓦」部分と推定される「瓦」が未発見のため「予測図」としたと思えるが、青木のケースと似ている事に驚く。

 青木「8点瓦」中では、「「蕨手文瓦」と「丸瓦」」に「接合」関係を認めてよいと思えた。両者には「接合・組み合わせ」があったのである。

 参考までに確認した8点瓦中、「蕨手文瓦」と「丸瓦」を重ねてみた。下図である。
Photo_20230902134901
 下に置かれる黒色の瓦が「蕨手文瓦」で、その上に「丸瓦」を重ねた。ほぼ重なっていると見て取れよう。

 それぞれの「瓦」が持つ本義からも、「丸瓦」の先端に「蕨手文瓦」が接合されていたと思える。「瓦定説」に貴重な例として取り上げられてよいと思えた。

 青木「蕨手文瓦」にはさらに驚きの事実がある。

 「瓦」直径が「19.2」cmある事で、上田・坂城での既出土瓦の直径(5枚共に「17.8cm」)を大きく上回る。日本中に「7枚」しかないのだからその中での最長となる。「瓦定説」では、「直径大の瓦」⇒「直径小の瓦」(注3)が言われている。そこからは、青木「瓦」の古さが疑われてよいのである。上田「蕨手文瓦」よりは古いのではないだろうか。

 さらに「回転台(ろくろ)」を使用してこの「蕨手文瓦」が造られたか、とも観察された。これも貴重な例と思える。

 さて、もう一組の「瓦組み合わせ」を推測してみたい。
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 観察の結果、「軒先瓦」と「女瓦(平瓦)」のカーブが一致したのである。「まさか」と私は思った。再三確認したが間違い・誤解はなかった。『両者は「接合」されていた』と思えた。「軒先瓦」に残る「上部のざらつき(破断面)」もその結論を支持していた。

 驚くことに青木では、この二つは、別々の「瓦」である、でも「接合されていた」と観察されるのだ・・・「まさか!」。

 「瓦定説」は、そう言っていない。

 「宇瓦(吉村註・軒先(前)瓦のこと)は日本で独自に考案されたもので、それ以前は軒先にも女瓦が葺かれていたと考えられる」「(・前略・)斑鳩寺ではこの時、はじめて文様をもつ宇瓦を採用する。ここで用いられた宇瓦は、瓦当文様を笵押しするのではなく、一つひとつ手彫りする」(「古瓦の考古学」有吉重蔵編 ニューサイエンス社 2018 から)

 つまり、「女瓦」の先端部から「軒先瓦」が派生・生成するとし、最古の「宇瓦」は「斑鳩寺」(法隆寺)だと言うのだ(下図の「宇瓦」例を参考に)。
Photo_20230902135301

 青木の瓦はどうなるのだ!

 誰がどう見ても、「軒先瓦(宇瓦)」は「女瓦」とは別個に存在している。そして観察からは、「軒先瓦文様」が「笵押し」されたとも推測されるのである。「手彫り」ではないのだ。

 「瓦定説」からは、青木瓦はどう説明されるのだ?

 青木瓦は、「斑鳩寺」創建より「古い時代」に造られた、と私は推量する。勿論「信濃国分寺」創建(8世紀)より遥かに古くなる(「多元」誌の私論考(注4)をご覧ください)。

「瓦定説」への見直しも必須となる。それとも青木瓦は「定説」の範疇に入らない特殊な瓦だと言うのだろうか。

 最後に既・出土の上田「蕨手文瓦」と青木「蕨手文瓦」との関係について追述する。

 両者の関係は、『「蕨手文軒先瓦」が、「丸瓦」とどう接合されていたか』で簡略に判断できると思える。そこで、上田・坂城「蕨手文瓦」の裏面「接合部」を示す。Photo_20230902135501
 既に示した青木「蕨手文様瓦」「裏面接合部」と比較してほしい。目視でも「瓦の厚さ」が均一でないと解る(しかも凸凹している)。さらに、「接合部分」が広すぎたり、狭すぎたりしているとも解る。均等に「瓦裏面」に設置されていない。「瓦」とその「接合部分」の観察から、上田「瓦」の「作成技術の未熟さ」が読み取れるのだ。

 青木「瓦」が上田「蕨手文瓦」を生んだ、と断定してよいだろう。上田・坂城「蕨手文軒丸瓦」は、青木「瓦」から技術的な影響を受けたと思える。

 

3.終わりに

 「謎の瓦」と言われてきた上田「蕨手文瓦」だが、正しい作成時代はいつだろう。

 青木「瓦」は『8世紀「信濃国分寺」築造』どころかそれ以前の「瓦」か、と推定して来た。だがこれ以上の論議は「水掛け論」になりかねないとも思える。

 私は「瓦」に残る「蕨手文様」への追及が解決の「鍵」となると思っている。上田の「蕨手文」は、九州「王塚古墳・壁画」との緊密な関連を主張すると思っているからだ。

 「王塚古墳壁画」の「蕨手文」は、日本でも「王塚」にしかない独自な「複合蕨手文様」、と「考古学」からは言われている。もしそれが「上田」にあったなら・・・

 『古墳を築造した一族・「蕨手文」を使った一族が、上田・「科野」へ進出した』、のではないだろうか(次号で説明します)。そして「蕨手文一族」の進出が証明された時、『果たして「磐井の乱」があったのか』が次の大問題となるのだ。

 上田・「科野」での「60もの考古資料」は言っている。『上田へ「蕨手文一族」が進出して来た』、『「磐井の乱」はなかった、「磐井事件」があったのだ』と。

(終)

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注1 青木村「子檀嶺(こまゆみね)神社」での「蕨手文瓦(瓦当)を含む8点瓦の確認」を報告‥‥‥ 次のブログ記事をご覧ください。
科野からの便り(32)―「蕨手(わらびて)文様瓦の発見」編―2021年919()
なお、「初期瓦」と「仮設寺」2022124()でも論及しています。

注2 「瓦8点」 ‥‥‥ 詳細は次のブログ記事をご覧ください。
「初期瓦」と「仮設寺」2022年124()

注3 「直径大の瓦」⇒「直径小の瓦」 ‥‥‥ 瓦の大きさの変遷において、左側(大きい方)が右側(小さい方)より古いことを表すためにこの論稿では記号「⇒」を用いている。

注4 「多元」誌の私論考 ‥‥‥ 当ブログ(sanmaoの暦歴徒然草)の右欄にあるカテゴリーcategory 中の上から7番目にある「コラム」を選択すると吉村さんの寄稿論文を掲載したブログ記事が抽出表示されます。そのうち多元的古代研究会会誌「多元」に掲載されたものは次の通りです(掲載日の新しい順)。
「蕨手文瓦」の証言―「磐井の乱」はなかった―2023年829()
神科条里と「番匠」②―条里と「国府寺」(「多元No.174 Mar.2023」掲載)―2023年37()

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コメント

遠江国分寺の軒平瓦も蕨紋であって、科野の特別な紋様ではありません。

九州も科野の蕨手紋も大陸を通じて、古代ギリシャ文明の影響を受けた可能性が大いにあると思われ、この地域のオリジナルの紋様を判定するのは、稚拙なると言わざるを得ないと考える。

日本ニッケル日丹線さま
閲覧とコメント、ありがとうございます。

吉村さまもコメントをご覧になってらっしゃると思いますが、
この論稿にコメントを頂いていることをメールにてお知らせいたします。
今後ともよろしくご教導ください。

日本ニッケル日丹線さま

当該ブログ掲載の論稿にコメントをいただき有難うございました。
吉村さまにコメント頂いた旨を連絡しましたら、メールで私事などの他に次のようなご意見を頂き、掲載依頼されましたので、私(山田)の代筆にてコメントの返信を入れさせていただきます。

『貴重なご意見をいただき、ありがとうございます。私の論考は、長野県上田地域になぜか「蕨手文」が多出する。これは「Mac氏」論考を裏付けるのではないか、という主張が主眼です。「蕨手文瓦」の所在地についての論考ではありません。その点、ご承知ください。
ご指摘のように「遠江国分寺」にも「蕨手文瓦」があります(よくご存じですね、感心しまし
た)しかし、それについては次の別論考での主張となります。
 「蕨手文」は、古代・しかも世界史規模から発生・進展を考えなくてはならない、とのご指摘もその通りです。これについては、別論考を造り論述する予定です。それをお読みいただき、またご意見を下さい。
 ご返事になるか心配ですが、大いに参考にさせていただきます。ありがとうございました。
   吉村八洲男 』

なお、メールは9日に頂いておりましたが、私の都合で掲載が遅れましたこと、お詫び申し上げます。
以上、今後ともよろしくお願い致します。

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