「蕨手文」の証言 ②―上田市周辺の「複合・蕨手文」―
「蕨手文」の証言 ②―上田市周辺の「複合・蕨手文」―[コラム]
吉村八洲男さまから、多元的古代研究会の会誌「多元 No177 SEp.2023」に掲載された論稿をご寄稿いただきましたので掲載いたします。私事にて掲載が遅れましたことをお詫び申し上げます。
なお、多元誌と当ブログでは、段組みや縦横書き等、表示上多くのことが異なります。それに伴って、論稿の原文・写真サイズ等を編集しています。また、ブログでは山田が独断で注記を加えております。それらのことをご承知おきください。
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「蕨手文」の証言 ②
上田市周辺の「複合・蕨手文」
上田市 吉村八洲男
1.初めに
前号(注1)と6月例会(注2)で、全国で上田周辺だけにある『6枚の「蕨手文・瓦」』追及の重要性を指摘した。『「蕨手文・瓦」はいつの時代を示すのか?』
今回は「蕨手文」から推論を試み、九州(「王塚」)と「上田」との密接な関係を論断したい。我々は認識すべきと思われる、『王塚古墳築造の一族が、上田へ進出した!』
2.「蕨手(わらびて)文」について
最大公約数的ではあるが、「蕨手文」を以下のように理解する。
「の」の字形、さらにそこに直線部分を持つ文様の総称で、形状が「蕨(手)」に似る事からこう名称付けられる(日本だけの用語だが)。文様は単独形を基本とし、左右(上下)方向へ「対」に又は「連読」して描かれ、蕨手が同時に左右を向いている「双頭形」としても描かれている。基本とする文様形状の類似から、「葵(き)文」「渦巻文」なども「蕨手文」の範疇に含めて良いと思われる。
この文様は、人類始原期から、東アジア一帯で、身近に使用された文様である(近世にも使用例がある)。日本でも縄文期・弥生期・古墳期を通じ出土する。「土器」「剣の装身具」などに刻まれるが、「剣の柄」の形状を「蕨手」にデザインした例もある。中国では「西周」以後の「瓦の歴史」でも重要な位置・役割を果たしている。「(軒丸)瓦文様」として使用される例が多いからで、中国を代表する「雲文様」も「蕨手文」の変化形・発展形と考えられているようだ。
この文様の発生時期・意味・歴史などについては諸説がありここで言及しきれない。
だが一つの肝要事がある。それは蕨手文様史上ある画期が九州「王塚古墳・蕨手文壁画」に認められる事だ。「王塚古墳・壁画」にしか認められないある重要事があるのだ。
それが、「蕨手文形状(の変化)」である。これが「王塚古墳」を中心とした「6世紀古墳壁画」だけに明瞭に現れる。発見した考古学者はそれに驚き、「王塚古墳」の「蕨手文」を「複合蕨手文」と名称付け、独自な様式と認定し「分類」も試みる。
「の」の字形蕨手文、「対」と思える2種の「蕨手文」を「Aタイプ外向き」と「Bタイプ内向き」とし、計「三分類」としたのだ。
(出典:「描かれた黄泉の世界 王塚古墳」 柳沢一男 新泉社 から)
「それまでにない日本独自の蕨手文様」と判断された理由を説明する。
中国「蕨手文・雲文」などでは、文様は「線」で描かれる。基本形は、一本の線で描かれる(「雲文」瓦は、分割線で区切られた中に基本形・派生した文様を持つ)。
それに対し「王塚・蕨手文様」では、「一つの蕨手文様」作成に「複数の蕨手(線)」が使われる。さらにその「線」を使い「面」も造られているのだ。
それがそれまでの「蕨手文」とは全く異なっていた。「画期」とされる所以なのだ。
「王塚・壁画」の「外向き蕨手文(図3)」で確認してほしい。まず「緑色(線)」で「蕨手」が2個描かれ、さらに「赤色・黄色」を使い「蕨手(面)」が描かれる。
「複数の色による線(面)」から一つの「蕨手文様」が造られているのだ。「蕨手文」が重なっているのである。
この特徴ある文様作成法は、分類された『内向き蕨手文(図2)』、『「の」の字形蕨手文(図1)』でも同じであった(だから「複合蕨手文」と判定されたのだ)。
もう一つ奇妙な事にも気づいた。この「複合蕨手文」は、北九州で「6世紀」築造の「古墳」にしか認められなかったのだ。「外向き複合蕨手文」は「6個」(9個説もある)の「古墳」から、「内向き複合蕨手文」に至っては「王塚古墳」にしか認められなかったのだ(後に「金官伽耶」王墓から「外向き蕨手文」が認められるが)。
だが、それ以上の追及はなされなかった。「複合蕨手文」は「王塚古墳」を中心とした「6個の古墳」にしか残らない貴重な文様とされ、それが定説となっている。
3.真田(上田市)の「蕨手文」
真田町「出早雄(いずはやお)神社」境内にある「5社」と呼ばれる5個の「神社型小石祉」を観察していた時だ。奇妙な文様が「5社」石祉の特定位置に刻まれている事に気がついた。
真田町本原「出速雄神社」内・「5社」 図4 特定位置(斜線部)図5
驚くことに古い苔むした「神社型小石祉」すべてが「神社名」を持ち「神」を持ち崇拝を受けていた。私は当たり前としていたある重要事に再度気づかされた。『「神社型小石祉」は、往時、「神社」だったのだ!』
小石祉となった理由は様々であろう。体制変化による神の変化が最大理由だろうが、建築物の劣化・事故、自然災害による散逸などがすぐに想像された。
「合祀(ごうし)」からは神々の共存が許されたとも思えた。散逸していた神々・神社が「小石祉」となり、再度神社境内に集められ祀られたと思量された。
だから確信したのだ。「石祉」が「神社」だったなら、特定の位置(場所)にある「文様」には「特別な意味」がある筈だ!
その位置は「懸魚(けぎょ)」と呼ばれ、現代神社(建築)でも「最重要」とされる場所である。ここに「神紋」を置き、信仰の姿を示すのが普通と思える。
私は結論した。「神社型小石祉」が神社だった時、「神社神紋」もこの位置にあった。「小石祉文様」は、往時の「神社」の信仰の姿を示している!そして思った。これら多くの「小石祉」に、ある特定する「文様」が認められた時、文様に代表されるある「信仰」を、この神社は持っていた、と。
そして何回か真田町の神社を訪れ気が付いた。「これは『外向きタイプ・複合蕨手文』ではないか?」。調べ廻った真田神社境内の「小石祉」には、「出早雄社」と「類似する文様」が数多く残されていたのである。
共通する特徴が解る。『「対(左右に)」となる蕨手が、外方向へ、複数本描かれている』のである。「外向き・複合蕨手文」の特徴そのままだった。類似の文様も次々と発見された。「真田町・神社境内」の「小石祉」の「定位置(懸魚)」には、多くの「外向き複合蕨手文」がデザインされていたのである。
とにかく私は驚いた。真田町の神社を片っ端から探し回ったものだ。
驚くことに、「真田町・神社」からは「16個」の「外向き複合蕨手文」が確認された。ない筈の「複合蕨手文」が、「真田町(上田)」にはあったのだ!!
「王塚古墳・壁画・外向き複合蕨手文」が「真田町・小石祉・外向き複合蕨手文」へと変化する過程は容易に予想できた。
「王塚古墳・壁画」 図15 「真田町・神社型小石祉」 図16
私は手を広げ上田地域を中心に千曲川中流域を探し廻った。そして、続々と発見したのだ。 「50個(以上)!」、とんでもない合計数だったのだ!
念のため、「上田市」での「外向き複合蕨手文(の一部)」を提示する。
英(はなぶさ)神社 図17 東條建代神社 図18 堀川神社 図19
「50個以上の文様」はすべて「写真採録済」だ。すべてをこの紙上で提示したいのだが、スペースがない。「石祉」所在場所(神社)を、地域地図に落とし込む。
「外向き複合蕨手文」を「懸魚」に持つ石祉(神社)所在略図 図20
図20
4.終わりに
この略地図は様々な教示を与えてくれる。更なる「考古資料」と考え併せると主張とする「ある歴史定説の再考」が暗示されると思えるが、それへの言及は次号となる。
ただ、確定させてほしい。九州以外には認められない「外向き複合蕨手文」が、上田周辺には「50個以上」残っている事実だ。その理由は、説明されるべきであろう。
だが私にとって、上田の「謎の蕨手文・瓦」解明が可能となった事が喜ばしい。
「王塚・壁画」では、「内向き」・「外向き」が対になって表示・使用されていた。上田「謎の蕨手文・瓦」は「内向き蕨手文」である。だとしたら、「50個」の「外向き蕨手文」を「懸魚」に使った人々が、「内向き蕨手文」を「瓦」に使い「蕨手文・瓦」を造ったと推量出来ないだろうか。貴重な「内向き蕨手文」を「瓦・寺」へ使い、進出してきたと思えるのだ。「謎の蕨手瓦」は「6世紀の瓦」と結論される。
(終)
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注1 前号 ‥‥‥ 次のブログ記事として掲載しています。
「蕨手文瓦」の証言―「磐井の乱」はなかった2023年8月29日(火)
注2 6月例会 ‥‥‥ 多元的古代研究会で催された6月例会で、「青木村 「8点瓦の証明」」と題する発表で使ったスライドをご寄稿いただいており、次のブログに掲載しています。吉村さまからこのスライドのご寄稿に際し、「説明記述はありません」とのコメントを頂いております。
「多元の会」6月例会で使った「スライド」―青木村 「8点瓦の証明」―2023年9月13日(水)
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