学問・資格

2023年1月28日 (土)

なんちゃって哲学―「違いがわかる」だけでは―

なんちゃって哲学
「違いがわかる」だけでは[なんちゃってシリーズ][学問・資格]

 かつて「♪ダバダ~ダ~バ~ダバダ~♪」で始まる「違いがわかる男」というキャッチコピーで知られる「ネスカフェ ゴールドブレンド」のCMがありました。

 古賀達也の洛中洛外日記第2926話 2023/01/24 多元史観から見た藤原宮出土「富夲銭」 (2) に、阿部周一氏の「藤原宮」遺跡出土の「富本銭」について 「九州倭国王権」の貨幣として(2020年8月12日 古田史学会報159号 掲載)が要約されて紹介されています。少し長いですが引用します(文字の彩色太字化は山田による。改行は省略しています)。
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(1) 藤原宮大極殿跡出土の富夲銭は鋳上がりも良いとはいえず、線も繊細ではないし、それ以前に発見されていたものは「富」の字であったが、これが「冨」(ワ冠)になっている。
(2) 内画(中心の四角の部分を巡る内側区画)が大きいため、「冨」と「夲」がやや扁平になっており、「冨」の中の横棒がない。
(3) 七曜紋も粒が大きい。
(4) 飛鳥池出土富夲銭の銭文はほぼ左右対称になっているのに対して、藤原宮出土品の場合、「冨」の「ワ冠」がデフォルメされておらず非対称デザインとなっている。
(5) これら意匠は飛鳥池出土品(従来型)と比べて洗練されていないように見え、時期的に先行する可能性がある。この「冨」の字の「ワ冠」について、その書体が「撥ね形」(一画目も二画目も「止め」ではなく「撥ね」になっている)であり、それは主に隋代までの書体に頻出するもので、唐代に入ると急速に見られなくなるという古賀による指摘(注③)との関連を踏まえると、この富夲銭については製造時期が従来型よりかなり遡上するものと推定できる。
(6) 藤原宮出土富夲銭は飛鳥池出土品と同時期あるいはその後期の別の工房の製品とされているようだが、そのように仮定すると、鋳造所ごとに違うデザイン、違う原材料、違う重量であったこととなる。しかし、鋳造に国家的関与があれば、そのような状況は考えにくい。重量は銭貨にとって重要ファクターであり、同時代ならば同重量であるのが当然だからだ。両者の差異は、鋳造の時期と状況が異なることを推定させ、その場合、藤原宮出土の富夲銭は飛鳥池出土品に先行すると考えるのが妥当である。
(7) 地鎮具に封入されるものとして、特別なもの、あるいは希少なものが使用されるのはあり得ることであり、王権内部で代々秘蔵されていたものがここで使用されたと見ることも出来る。
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 これに対する古賀氏の論評が素晴らしく適切でした。次の部分です。
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この阿部稿の指摘の内、(1)~(4)は従来から言われてきたことですが、(5)~(7)が阿部さんによる新説です。なかでも、結論に相当する(7)の「王権内部で代々秘蔵されていたものがここで使用された」という指摘は卓見です。
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 私が何をもって「素晴らしく適切」と言ったのか。「(1)~(4)は従来から言われてきたこと」と指摘している部分です。この古賀氏の言葉から(1)(4)を読み直してみて、「違いがわかる」という冒頭のCMを思い出したのです。

あるものごとAとBが同じであることは「感性」さえあればわかります
あるものごとAとBの違いについては「悟性」を働かせさえすればわかります。 

 上記の従来から言われてきたこと(1)(4)は、備わっている「感性」「悟性」を働かせればできることです。しかし、そこ((1)(4))までなら「学問」の名に値しません。何故なら「何故?」という「問い」もなければ「答え」もないからです。

 「学問」とは「何故?」という「問い」を立ててその「答え」を「知性と「理性を使って追求するものだからです。

 古賀氏は阿部氏が(5)(6)(7)という「答え」を導き出したことを評価しています。特に(7)を「卓見」と評価されています。

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感性」「悟性」「知性」「理性」についてはsanmaoの「なんちゃって哲学」―わかりやすい?わかりにくい?に、1~2分で読める「(なんちゃって)解説」があります。

2021年3月26日 (金)

韓国に対する愛情はない海南長鼓山古墳―真実は愛情に配慮しない―

韓国に対する愛情はない海南長鼓山古墳
真実は愛情に配慮しない[古代史][学問・資格]

 韓国で最大級の方円墳が発掘調査されて、九州・有明地区の前方後円墳と酷似していることが明らかにされ、調査終了後即埋め戻されたそうです。古墳を改造したり埋め戻したり、本当に忙しい彼の国の考古学者です。改変せずに埋め戻すのは「少しは進歩したのかな?」と思わせますが、たぶんC国に見習っているのだと思われます。朝鮮半島に古代倭国の古墳があろうと、日本はそれをもってわが国の領土だとは主張しませんが、それを心配するのは鏡を見て心配しているのでしょうかね。それとも「劣等感」が隠しきれなくなるのを心配しているのでしょうか。自国の文化財を粗末にして、また盗掘する(現代にですよ)などの行いをする。都合が良かろうと悪かろうと「真実・事実を知る」ことこそが「全ての第一歩」になることを知らない(そんな風では前には進めないのに・・・)。 憐れな民族です(同情しませんが)。

 知りたいニュース情報局さんのYouTube動画「韓国の発掘調査団が、前方後円墳を埋める!― 日本の古墳との「酷似性」は、韓国学界の「負担」になる?https://www.youtube.com/watch?v=b0NNbPU02BA)」より転載します。

■ニュースの概要■ 2021年3月18日、ハンギョレ新聞が伝えたところによると、韓国で発見された古代日本様式の前方後円墳が、調査された後すぐに埋め戻されていたことが分かった。この遺跡は、全羅南道記念物第85号に指定されている「海南長鼓山古墳(ヘナム・ちょうこさんこふん)」で、墳丘の形状は前方後円墳、長さは82メートル、高さは10メートルで、韓国で発見された古墳の中で最大級のものである。1980年代、学界に初めて報告された時、この古墳は自然地形による「丘」と見なされた。そして当時、嶺南(ヨンナム)大学のカン・イング教授が発掘許可を申請したところ、韓国・文化財委員会はこの調査を認めなかった。ところが、それから三十数年が経過した昨年2020年10月、突如として韓国の馬韓文化研究院は、公式調査を開始した。この調査結果によると、古墳は古代日本で5~6世紀にかけて造成された九州・有明地区の前方後円墳と酷似していることが分かった。墓石室は平たく加工された石片をぎっしり積み上げた壁で構成されており、入り口には祭祀の跡、天井と壁には赤色の朱塗りの跡が確認された。遺物としては蓋付き皿など10点が確認された。これらの全ての様式は、古代日本の古墳が持つ典型的な特徴を備えていた。チョ・グンウ研究院長は「日本の古墳で確認された祭礼遺物と比較すると、内容物と配置などにおいて類似点は極めて多かった」と説明した。慶北大学・考古人類学科のパク・チョンス教授は「日本の九州の古墳に入った時に感じた印象と全く同じであった」と語った。なお、この古代日本様式の前方後円墳の入り口は、調査が終了した今年2月、ただちに埋め戻された。これには韓国の考古学者たちにも衝撃を与えたが、埋め戻しの事実はメディアに対しては伏せられ、一般に公表されることはなかった。発掘を担当した馬韓文化研究院側は「コロナ防疫のための措置として入り口を塞いだだけだ。今後、追加発掘調査を行った後、一般公開することを検討している」と釈明した。ハンギョレ新聞は、こうした発見は「任那日本府」学説の根拠になるリスクが「憂慮」されることから韓国学界では「動揺」が広がり、大きな「負担」の種になっていると指摘する。また、墓石室が埋め戻された経緯は、発掘調査結果が及ぼす多大な「影響」が考慮された可能性があるとの見解を示した。
引用・参考:
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/987244.html

■ニュースを深堀り■ この報道が大手ポータルサイト・ネイバーに掲載されると、韓国国民から以下のような反応が見られた。「ハンギョレ新聞は何が言いたいんだ? 韓国から古代日本に文化を伝授したことは明らかなことなのに?なぜ、こんな記事を書く必要があるんだ」「逆に考えることはできないのか? 古代日本に韓国の土地があったんだよ!」「何が任那日本府学説だ。韓国の考古学者で今それを信じる者が果たしているとでも思っているのか!」「偉大な百済は、日本の九州にまで影響を及ぼす海洋強国だったんです」「前方後円墳は文化の交流が相互にあったという証である。一方的な関係では決してなかったのだ」「日本の皇室文化は、わが国の文化に影響を受けて成立したのだ。この記事の書き方は全くよくない。まるであまりに恐ろしくて、何かを隠したかのように聞こえるではないか」「私たちの祖先が日本に渡ったんだよ。島国に何の文化があるとでも?日本から影響を受けたという主張は絶対に信じられない」古代日本との文物交流が多かった時代背景を考えると、墓の一つが韓国にあっても全くおかしくないよ。大騷ぎする必要はないんだ」このように、自国に対する過度な愛情が強いせいか、ハンギョレ新聞の記事に対する批判の声は多く、前方後円墳の韓国起源説を信じたい人はかなり多いようだ。その一方で、「いきなり古墳を覆ってしまうのが、いかにも韓国らしいね。彼らは考古学者ではなく、理想主義者である。科学的事実より、自分たちに都合が良い情報だけをかき集めることだけに関心があるようだ」「なんでさっさと埋めたんだ? 最初から結論ありきで進めてはいけない。客観的に調査・研究して、 真実と向き合わなければならない」などと、韓国側の姿勢を非難するコメントも見られた。ソウル大学・韓国史学科のクォン・オヨン教授は、「海南長鼓山古墳は古代日本様式の墳墓構造を持っています。研究においては、主義・思想を排除し、開かれた視点でアプローチしていかなければなりません」と語り、科学的なアプローチの必要性と公正な検証の重要性を強調した。

今回のテーマは「韓国が、前方後円墳を埋める!日本の古墳との酷似性は、韓国学界の大きな負担に...」でした。なお、日本にある前方後円墳は約5000基が知られ、日本列島に広く分布しています。これらは主に3世紀中頃~7世紀初頭にかけて盛んに造られました。一方、韓国の南部地域においては、1980年代に十数基の前方後円墳が発見されましたが、いずれも5世紀前半~6世紀前半の短い間に「突如」として出現したことが判明しています。発見当初、韓国の考古学界では、日本の前方後円墳の「起源」が見つかったと色めき立ったようですが、その後いくら探しても、韓国国内から日本より古い前方後円墳を見つけることは、結局出来ませんでした。すなわち、古代日本の様式が伝播したと考える方が、明らかに自然であると考えられるのです。また、今回調査が行われた韓国の海南長鼓山古墳は、前方後円墳としてだけではなく全てを含めても韓国で最大の古墳ですが、日本最大の前方後円墳である「仁徳天皇陵」と比較すると、面積では1/200、体積では1/800程の大きさしかなく、極めて小さなものなのです。これについても、日本の強大な影響力が、韓国に波及したと考える方が妥当であり、当時の状況を反映したものであると考えられます。過去、日本と韓国の間では、2002年から2010年にかけて2度にわたり「日韓歴史共同研究」〔注1〕が行われたことがありますが、この席で日本側が資料を提示し説明を行うと、韓国側は突然立ち上がって憤怒し「韓国に対する愛情はないのか!」と訴え、科学的な検証を拒否したといいます。またある国では、高速鉄道の衝突・脱線事故が起きると、その事故車両をすぐに埋めてしまったことが話題になりました。今回韓国では、前方後円墳の入り口が埋め戻されてしまいました。いずれも都合の悪い事象を覆い隠そうとする行為に見えます。新しい発見を歓迎せず、むしろ大きな「負担」になるという発想は、到底理解し難いものであり、結論ありきで事を進めていることの表れであると感じられます。またこうした対応の仕方は、真実への探求のアプローチを歪めるものであり、同時に学問の発展を阻害することにもなると考えられます。以上、甘井香織がナビゲートいたしました。みなさんは、どう感じられましたか?

引用・参考:https://news.naver.com/main/read.nhn?m_view=1&includeAllCount=true&mode=LSD&mid=sec&sid1=001&oid=028&aid=0002536739
https://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=032&aid=0000026192
https://ja.wikipedia.org/wiki/
前方後円墳(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8C%E5%86%86%E5%A2%B3

https://ja.wikipedia.org/wiki/古墳(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%A2%B3

https://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮半島南部の前方後円形墳(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E5%8D%97%E9%83%A8%E3%81%AE%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8C%E5%86%86%E5%BD%A2%E5%A2%B3

「諸君!」2006年4月号,文藝春秋,p.69-70

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 下記は、知りたいニュース情報局さんの「■ニュースの概要■」で「引用・参考:」とあるネイバーの記事をgoogle翻訳したもの(機械翻訳なので不自然な箇所が多くありますが、古墳の固有名称の間違い以外は手を入れていません)。
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韓半島で最も大きな古代の墓、熱すぐ覆われた理由は...

登録: 2021-03-18 04:59修正: 2021-03-21 11:46

[ノヒョンソクの時事文化財]

海南長鼓山古墳めぐり考古学ざわめき、日本古墳似た仕組み・法事痕跡議論」を追加発掘後、一般公開」再び埋め。

墓の主人は百済制御された倭人?

仕事右翼任那日本府説基づい三のと懸念
最近発掘調査された全羅南道海南郡ブクイルミョンバンサンリ海南長鼓山古墳石室(石室)の様子。
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死体を置く部屋に入る入口である玄門が正面に見えて平たい板石複数のた床面とケンドルを整然と積んだ石室の壁が見える。 1990年代までに二度盗掘当該内部遺物はほとんど消えた。
Photo_20210326132501
 韓半島で最大の古代の単一の墓が新年早々、最終的に開かれた。考古学者は、5〜6世紀の日本古墳と版に打ち込んだような墓仕組みに驚いたまっすぐ土に覆われて再び埋葬されたことに虚脱していた。1月に国土最南端海南から聞こえてきた墓の発掘とそれに続く覆土ニュースはマスコミに公開されていないが、国内考古学をざわざわこれだった。

 この遺跡は、全羅南道海南ブクイルミョンバンサンリ海南長鼓山古墳である。6世紀前半と推定されるが、墓の外封墳と石室(石室)の内部が、昨年10月から今年2月までに馬韓文化研究院の発掘調査によって1500年ぶりに明らかになった。驚くべきことに墓石室は日本の九州島の外の海岸と有明内海一帯で5〜6世紀造成された倭人貴族石室墓と構造はもちろん、ムドムバン入口を防ぐ前務めた祭祀跡までほぼ同じだった。
海南長鼓山古墳のムドムバン入り口から見た内部空間。 下端部に細長いスラットを置いて上に壊れた石(ハルソク)をきちんきちんと積み重ね壁を造成し、上部の天井に覆い石(蓋石)を置く典型的な古代日本の九州地域の石室墓仕組みを帯びる。 天井と壁には、やはり日本の古代古墳の典型特徴的な赤い光朱漆をした跡が確認される。
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 調査団は、背面封土を掘るムドムバンと通じるノルギル(年度)に入り、内側を調べた。調査の結果、下端部に細長いスラットを置いて上に壊れた石(ハルソク)をきちんきちんと積み重ね壁を作る古代九州の石室墳特有の仕組みが明らかだった。天井と壁にも日本弥生時代以来古墳の典型特徴的な赤い光朱漆痕跡が残っていた。

 出土品は、ほとんど盗掘されたが、墓の主人を言う糸口になる遺物が多く収拾された。ムドムバン入口で発見された蓋付きの皿(ゲベ)10点代表的だ。いくつかのゲベ中では早期など魚の骨や肉などの除数料理と推定される有機物の塊も検出された。「日本古墳で確認された祭礼の遺物のよう内容と配置が注目される」とジョグンオ研究院長は説明した。ムドムバンを直接見バクチョンス慶北大学考古学人類学教授は、「九州の倭人の墓に入ったときと感じ同じだった」と述べた。 
石扉(ドアゼオライト)がオプオジンまま現れた場高峰古墳のムドムバン石室入り口の台形玄門と内部の様子。 内部の石室は長さと幅がそれぞれ4mを超えて天井までの高さは2mにも及ぶ大きな空間である。 下端部に細長いスラットを置いて上部にケンドルをきちんきちんと上げて壁を積む古代西日本九州地域の墓石室と仕組みが同じである。
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墓石室に入る年度(ノルギル通路)の入り口部分の発掘現場。土圧による崩壊危険に備えて上部覆い石の下の金具を支えた。

 海南長鼓山古墳は墳丘の長さ82m(溝を含む)、高さ9mに達する。皇南大塚など新羅のレースの大型古墳よりも大きい国内最大級の墓である。外見は、日本で古代国家が確立された当時の墓様式である前方後円墳(ジャンゴ型墓)形だ。前方後円墳は、墳丘の前方には四角い方形、後ろはまるい円形である特徴にちなんで、日本の学者たちが作った名称である。日本の墓の形式的な前方後円墳が古代の海上で要所である全羅南道・全羅北道の海岸一帯に10ここに存在するという事実は、1980〜1990年代相次い確認された。日本の右派勢力は4〜6世紀の日本が韓半島南部を支配したという「任那日本府説」を裏付ける物的証拠だと主張した。韓日学界で埋め込まれた異議出身地が韓半島のか、なぜなのかをめぐり論議がふくらんだ。
空中から見下ろした海南長鼓山古墳古墳の全景。 前方は四角い方形であり、後ろはまるい円形である前方後円墳の特徴をドドゥラジゲ示す。 後ろ円形封墳駅あ字の一団を掘り石室を表わした発掘空間が見える。
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海南ブクイルミョンバンサンリ海南長鼓山古墳の外観。 前方は四角い方形であり、後ろには円形の封墳形の古代日本特有の墓前方後円墳の典型的な形である。
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 海南長鼓山古墳も議論の中で尚を経験した。80年代初め学界に初めて見た当時は、自然の地形的な丘とみなされた。80年代半ばガンイング前嶺南大教授が発掘許可を申請したが、文化財委員会の不許可に外形実測しかできなかった。1986年全南道記念碑として指定されたが、保存措置が適切にされていない90年代二度盗掘された。国立光州博物館が2000年に盗掘ギャングを確認し、緊急試掘調査で、内部を一部確認したが、公式の発掘は、20年後の昨年秋になってようやく開始した。

 しかし、墓の石室は2月末再び埋葬された。研究員の方は、「コロナ防疫のための措置として、5〜9月の墓手先(溝)の追加発掘後、一般公開を推進する」と明らかにした。しかし、一部では発掘の波長も考慮したという解釈が出ている。調査内容は、韓半島前方後円墳墓の主人議論を再呼び起こす公算が大きい。過去20年間百済政府の統制を受ける倭人官僚・傭兵と説と日本に移住したが、現地の墓文化の影響を受けて帰国したマハンのか百済人と説などいくつかの推測が出てきた。海南長鼓山古墳から九州古墳と板に打ち込んだ仕組みと鉄の鎧彫刻、鏃(やじり)などの武器類が埋め込まれたことが確認されたのは、国内の学界に負担になることもある。日本の右派の学者たちが再び任那日本府説の根拠とすることができるという憂慮まで出ている。
昨年10月から今年2月まで調査した海南長鼓山古墳の主な出土品たち。元付着した副葬品は、ほとんど盗掘あたりましたが、今回蓋付きの土器皿(ゲベ)とかまど枠部分、鉄の鎧と鏃(やじり)の破片などが相当数出て墓の主人を推定する手がかりになると思われる。
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 グォンオヨウンソウルグクサハクグァ教授のアドバイスを刻んで見るに値する。「海南長鼓山古墳は歪計墓の構造を持っているが、埋め込まれ、これを下手断定できません。外形、構造、遺物などを当代情勢と見ています。民族主義を越えて古代の観点まで考えて開かれた視覚的にアプローチする必要があります。 "

ノヒョンソク記者 nuge@hani.co.kr、写真マハン文化研究院提供

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注1 「日韓歴史共同研究」 …… 外務省のサイトにある「日韓歴史共同研究」はこちら

 日韓歴史共同研究(にっかんれきしきょうどうけんきゅう)とは、2002年から2010年まで2回にわたり日本と韓国が共同で行った歴史研究のことである。
 第1回日韓歴史共同研究は、2001年の日韓首脳会談の合意に基づき、2002年から2005年にかけて行われ、2005年6月に報告書が公開された[1]。第2回日韓歴史共同研究は、2005年の日韓首脳会談の合意に基づき、2007年から2010年にかけて行われ、2010年3月に報告書が公開された[2]。
挫折の原因
 合意から実行までの間に1年以上の空白期間があった理由について、日韓両政府とも公式の見解は出していない。ただ当時、日本側の研究委員選定作業において首相官邸を巻き込んだ角逐があり、ときの自民党政権に有利なかたちで政治的要素を持ち込もうとしたことが再開を遅らせた原因ではないか、との見方が関係者の間にはある。事実、先の外相会談において日本側の委員長として「内定」をもらったはずの小此木政夫は、実際には任命されず、代わりに東京大学名誉教授の鳥海靖が選任されている。また、委員を選考する過程は一般公開されておらず、選任された委員自身にすら知らされていない[3]。

 当研究が不成功に終わった主な原因として、委員の1人である木村幹は「政治的意図の介在」「共同研究の制度的不備」「対立を解決する為の手段の準備不足(全会一致か多数決かという基本的なルールさえ存在しなかった)」の3点を挙げている[3]。
日本側研究者が見た韓国側研究者の態度
 この研究委員会に参加した古田博司によると、日韓の意見が対立した時に、日本側が「資料をご覧になってください」と言うと、韓国側は立ち上がって「韓国に対する愛情はないのかーっ!」と怒鳴り、日本側がさらに「資料を見てくれ」と言い返すと、「資料はそうだけれど」とブツブツ呟いて、再び「研究者としての良心はあるのかーっ!」と怒鳴ったという。このような韓国側研究者について古田は、「民族的感情を満足させるストーリーがまずあって、それに都合のいい資料を貼り付けてくるだけなので、それ以外の様々な資料を検討していくと、矛盾、欠落、誤読がいっぱい出てくる」、「要するに『自分が正しい』というところからすべてが始まっており、その本質は何かといえば『自己絶対正義』にほかならず、したがって何をやろうと彼らの『正義』は揺らがない」等々、批判的に評している[4]。
Wikipedia「日韓歴史共同研究」より抜粋引用)

Google翻訳(機械翻訳)したネイバーの原文は以下。
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한반도서 가장 고대 무덤, 열자마자 덮은 까닭은

등록 :2021-03-18 04:59수정 :2021-03-21 11:46

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[노형석의 시사문화재]

장고봉 고분 둘러싸고 고고학계 술렁

일본 고분 닮은 얼개·제사 흔적 논란

“추가 발굴 뒤 일반 공개” 다시 묻어

무덤 주인은 백제 통제 받은 왜인?

일 우익 임나일본부설 근거 삼을라 우려

최근 발굴 조사된 전남 해남군 북일면 방산리 장고봉 고분 내부 돌방(석실)의 모습. 주검을 놓는 방으로 들어가는 입구인 현문이 정면에 보이고 납작한 판석 여러 개를 놓은 바닥면과 깬돌을 정연하게 쌓은 돌방의 벽체가 보인다. 1990년대까지 두 차례 도굴당해 내부 유물들은 대부분 사라졌다.

최근 발굴 조사된 전남 해남군 북일면 방산리 장고봉 고분 내부 돌방(석실)의 모습. 주검을 놓는 방으로 들어가는 입구인 현문이 정면에 보이고 납작한 판석 여러 개를 놓은 바닥면과 깬돌을 정연하게 쌓은 돌방의 벽체가 보인다. 1990년대까지 두 차례 도굴당해 내부 유물들은 대부분 사라졌다.

한반도에서 가장 큰 고대 단일 무덤이 새해 벽두 마침내 열렸다. 고고학자들은 5~6세기 일본 고분과 판에 박은 듯한 무덤 얼개에 놀라워했고 곧장 흙에 덮여 다시 묻힌 것에 허탈해했다. 1월 국토 최남단 해남에서 들려온 무덤 발굴과 뒤이은 복토 소식은 언론에 공개되지 않았지만, 국내 고고학계를 술렁이게 했다.

 이 유적은 전남 해남 북일면 방산리 장고봉 고분이다. 6세기 전반 것으로 추정하는 이 무덤의 바깥 봉분과 돌방(석실) 내부가 지난해 10월부터 지난 2월까지 마한문화연구원의 발굴조사를 통해 1500여년 만에 드러났다. 놀랍게도 무덤 돌방은 일본 규슈섬의 바깥 해안과 아리아케 내해 일대에서 5~6세기 조성된 왜인 귀족 석실 무덤과 구조는 물론 무덤방 입구를 막기 전 지낸 제사 흔적까지 거의 같았다.

장고봉 고분의 무덤방 입구에서 본 내부 공간. 하단부에 길쭉한 판석을 놓고 위쪽에 깨진 돌(할석)을 차곡차곡 쌓아 벽체를 조성하고 위쪽 천장에 덮개돌(개석)을 놓는 전형적인 고대 일본 규슈지역의 석실 무덤 얼개를 띤다. 천장과 벽체에는 역시 일본 고대 고분의 전형적 특징인 빨간빛 주칠을 한 흔적이 확인된다.

장고봉 고분의 무덤방 입구에서 본 내부 공간. 하단부에 길쭉한 판석을 놓고 위쪽에 깨진 돌(할석)을 차곡차곡 쌓아 벽체를 조성하고 위쪽 천장에 덮개돌(개석)을 놓는 전형적인 고대 일본 규슈지역의 석실 무덤 얼개를 띤다. 천장과 벽체에는 역시 일본 고대 고분의 전형적 특징인 빨간빛 주칠을 한 흔적이 확인된다.

조사단은 후면 봉토를 파고 무덤방과 통하는 널길(연도)로 들어가 안쪽을 살폈다. 조사 결과 하단부에 길쭉한 판석을 놓고 위쪽에 깨진 돌(할석)을 차곡차곡 쌓아 벽체를 만드는 고대 규슈의 석실분 특유의 얼개가 뚜렷했다. 천장과 벽체에도 일본 야요이시대 이래 고분의 전형적 특징인 빨간빛 주칠 흔적이 남아 있었다.

출토품은 대부분 도굴됐으나, 무덤 주인을 밝히는 실마리가 될 유물이 상당수 수습됐다. 무덤방 입구에서 발견된 뚜껑 달린 접시(개배) 10점이 대표적이다. 일부 개배 안에선 조기 등 생선뼈와 육류 등 제수 음식으로 추정되는 유기물 덩어리도 검출됐다. “일본 고분에서 확인됐던 제례 유물과 유사한 내용물과 배치가 주목된다”고 조근우 연구원장은 설명했다. 무덤방을 직접 본 박천수 경북대 고고인류학과 교수는 “규슈의 왜인 무덤에 들어갔을 때와 느낌이 똑같았다”고 말했다.

돌문짝(문비석)이 엎어진 채 드러난 장고봉 고분의 무덤방 석실 입구의 사다리꼴 현문과 내부 모습. 내부 석실은 길이와 너비가 각각 4m를 넘고 천장까지의 높이는 2m에 달하는 큰 공간이다. 하단부에 길쭉한 판석을 놓고 위쪽에 깬돌을 차곡차곡 올려 벽체를 쌓는 고대 서일본 규슈지역의 무덤 석실과 얼개가 똑같다.

돌문짝(문비석)이 엎어진 채 드러난 장고봉 고분의 무덤방 석실 입구의 사다리꼴 현문과 내부 모습. 내부 석실은 길이와 너비가 각각 4m를 넘고 천장까지의 높이는 2m에 달하는 큰 공간이다. 하단부에 길쭉한 판석을 놓고 위쪽에 깬돌을 차곡차곡 올려 벽체를 쌓는 고대 서일본 규슈지역의 무덤 석실과 얼개가 똑같다.

무덤 석실로 들어가는 연도(널길 통로)의 들머리 부분 발굴현장. 토압에 따른 붕괴 위험에 대비해 윗부분 덮개돌 아래 금속지지대를 받쳐놓았다.

무덤 석실로 들어가는 연도(널길 통로)의 들머리 부분 발굴현장. 토압에 따른 붕괴 위험에 대비해 윗부분 덮개돌 아래 금속지지대를 받쳐놓았다.

장고봉 고분은 봉분 길이 82m(도랑 포함), 높이 9m에 이른다. 황남대총 등 신라 경주의 대형 고분보다 큰 국내 최대급 무덤이다. 겉모습은 일본에서 고대 국가가 정립될 당시의 무덤 양식인 전방후원분(장고형 무덤) 모양새다. 전방후원분은 봉분의 앞쪽은 네모진 방형, 뒤쪽은 둥그런 원형인 특징을 따서 일본 학자들이 지은 명칭이다. 일본 무덤 형식인 전방후원분이 고대 해상로 길목인 전남북 해안 일대에 10여기 존재한다는 사실은 1980~1990년대 잇따라 확인됐다. 일본 우파 세력은 4~6세기 일본이 한반도 남부를 지배했다는 ‘임나일본부설’을 뒷받침하는 물증이라고 주장했다. 한·일 학계에서 묻힌 이의 출신지가 한반도인지 왜인지를 놓고 논란이 불거졌다.

공중에서 내려다 본 해남 장고봉 고분의 전경. 앞쪽은 네모진 방형이고 뒤쪽은 둥그런 원형인 전방후원분의 특징을 도드라지게 보여준다. 뒤쪽 원형 봉분에 역 ㄱ 자 모양의 갱을 파고 석실을 드러낸 발굴 공간이 보인다.

공중에서 내려다 본 해남 장고봉 고분의 전경. 앞쪽은 네모진 방형이고 뒤쪽은 둥그런 원형인 전방후원분의 특징을 도드라지게 보여준다. 뒤쪽 원형 봉분에 역 ㄱ 자 모양의 갱을 파고 석실을 드러낸 발굴 공간이 보인다.

해남 북일면 방산리 장고봉 고분의 겉모습. 앞쪽은 네모진 방형이고 뒤쪽은 둥근 봉분 모양인 고대 일본 특유의 무덤 전방후원분의 전형적인 모양새다.

해남 북일면 방산리 장고봉 고분의 겉모습. 앞쪽은 네모진 방형이고 뒤쪽은 둥근 봉분 모양인 고대 일본 특유의 무덤 전방후원분의 전형적인 모양새다.

장고봉 고분도 논란 속에 풍상을 겪었다. 80년대 초 학계에 처음 보고됐을 당시엔 자연 지형인 언덕으로 간주했다. 80년대 중반 강인구 전 영남대 교수가 발굴 허가를 신청했으나 문화재위원회의 불허로 외형 실측밖에 할 수 없었다. 1986년 전남도 기념물로 지정됐지만, 보존 조처가 제대로 되지 않아 90년대 두 차례 도굴됐다. 국립광주박물관이 2000년 도굴 갱을 확인하고 긴급 시굴조사로 내부를 일부 확인했지만, 공식 발굴은 20년 뒤인 지난해 가을에야 시작했다.

하지만 무덤 석실은 2월 말 다시 묻혔다. 연구원 쪽은 “코로나 방역을 위한 조처로, 5~9월 무덤 주구(도랑)의 추가 발굴 뒤 일반 공개를 추진하겠다”고 밝혔다. 하지만 일각에선 발굴의 파장도 고려했을 것이란 해석이 나온다. 조사 내용은 한반도 전방후원분 무덤 주인 논란을 다시 불러일으킬 공산이 크다. 지난 20여년간 백제 정부의 통제를 받는 왜인 관료·용병이란 설과 일본에 이주했다가 현지 무덤 문화의 영향을 받고 귀국한 마한인 또는 백제인이란 설 등 여러 추측이 나왔다. 장고봉 고분에서 규슈 고분과 판에 박은 얼개와 철갑옷 조각, 철촉 등 무기류가 묻힌 사실이 확인된 건 국내 학계에 부담이 될 수도 있다. 일본 우파 학자들이 또다시 임나일본부설의 근거로 삼을 수 있다는 우려까지 나온다.

지난해 10월부터 올해 2월까지 조사한 장고봉 고분의 주요 출토품들. 원래 묻은 부장품은 대부분 도굴당했으나 이번에 뚜껑 달린 토기 접시(개배)와 아궁이틀 조각, 철제 갑옷과 철촉의 파편 등이 상당수 나와 무덤 주인을 추정하는 단서가 될 것으로 보인다.

지난해 10월부터 올해 2월까지 조사한 장고봉 고분의 주요 출토품들. 원래 묻은 부장품은 대부분 도굴당했으나 이번에 뚜껑 달린 토기 접시(개배)와 아궁이틀 조각, 철제 갑옷과 철촉의 파편 등이 상당수 나와 무덤 주인을 추정하는 단서가 될 것으로 보인다.

권오영 서울대 국사학과 교수의 조언을 새겨볼 만하다. “장고봉 고분은 왜계 무덤 구조를 갖고 있지만, 묻힌 이를 섣불리 단정하면 안 됩니다. 외형, 구조, 유물 등을 당대 정세와 함께 살펴봐야 해요. 민족주의를 넘어 고대인의 관점까지 생각하며 열린 시각으로 접근해야 합니다.”

노형석 기자 nuge@hani.co.kr, 사진 마한문화연구원 제공

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원문보기:

2020年12月13日 (日)

“古墳時代”はなかった―「一元史観」の思い込み―

“古墳時代”はなかった
「一元史観」の思い込み[著書や論考等の紹介][古田史学][学問・資格]

 「古墳時代」という時代区分が怪しくなってきています。その理由を『「投馬國=済州島」説』を提唱された石田泉城さまが、ブログ泉城の古代日記 コダイアリーで次のように述べられています(引用文中改行省略)。

篠山古墳は、最古級の古墳!(2020-12-12 21:37:16)
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〔前略〕
新聞記事では2世紀末から、大阪府などでは3世紀後半の古墳時代からなどと、100年も時期が違うのは、古墳時代より以前の弥生時代の古墳が続出しているからですね。

つまり、考古学者が決めた古墳時代を区切る時期について、3世紀後半の箸墓古墳からとしたのが間違っていたことと、古墳時代という時代の名称が適切ではなかったからだと私は思います。

それは、古墳は大和から始まったと考える考古学協会の偏向性が問題だったということではないでしょうか。批判殺到の日本学術会議や日弁連の執行部の偏向性と似ていますね。

一般的に、古墳時代は3世紀後半から7世紀末頃までの約400年間を指すことが多いですが、現状と合わなくなっていますので、古墳時代の始まりの時期を前倒しにするか、

若しくは、墳丘墓も古墳であることに変わりはないのですから、古墳時代の名称をやめ、

その変わりに焼き物の区分によって、縄文(土器)時代、弥生(土器)時代に続け、古墳時代を2つに分けて、土師器時代、須恵器時代のようにしてはどうかと思います。
〔後略〕
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 要するに、古墳(形状は問わない墳丘墓)は「弥生時代」から「7世紀末頃」(倭国末)まで造られているのに、❶「大和から始まった」とし、❷「3世紀後半の箸墓古墳から」としたが、❶でも❷でもないことが明らかになると、❸「前方後円墳出現以降にかけて造られた墳墓」と定義しなおして、破綻した時代区分“古墳時代”(「3世紀の後半から7世紀頃」とする時代区分)を維持しようとすることに問題があるわけです。

 そして、石田さんは次のように提案されています。
…………………………………………………………………………………………………………………………

〔前略〕墳丘墓も古墳であることに変わりはないのですから、古墳時代の名称をやめ、

その変わりに焼き物の区分によって、縄文(土器)時代、弥生(土器)時代に続け、古墳時代を2つに分けて、土師器時代、須恵器時代のようにしてはどうかと思います。
〔後略〕
…………………………………………………………………………………………………………………………

 権力による時代区分ができない時代ですから、石田さんの土器による時代区分の提案(古墳時代を土師器時代・須恵器時代の2つに分ける)はとても合理的だと私は思います。

 “古墳時代”という時代区分の「躓きの石」は、❶「大和から始まった」❷「3世紀後半の箸墓古墳から」という学問ではない「思い込み」(或いは、先に結論ありきの「一元史観」という“イデオロギー”)だったのです。

 以前に、私の下記ブログ記事で、古賀達也さまからの問題提起(時代区分見直しの必要性)をご紹介したことを思い出しました。

多元史観・九州王朝説による時代区分―古賀達也さまから試案(たたき台)の提言―

学問は、「間違いは潔く認めて改める」ことが大事だと思います。それができない(しない)のが「一元史観」なのかも知れません。

子曰、過而不改、是謂過矣。〔子(し)(いわ)く、過ちて改めざる、是(こ)れを過ちと謂(い)う。〕

2019年2月18日 (月)

大韓民国は戦勝国なのか

戦争に勝った方が歴史を作ろうとする

大韓民国は戦勝国なのか[学問・資格]

 

 古田武彦講演録201411月8日大学セミナーハウスにて、東京古田会ニュース№166 Jan. 2016--)より抜粋します。原爆投下を正当化するための極東裁判について述べています。〔私は、「原爆投下」とともに1945年3月10日の「東京大空襲」を加えるべきだと考えます。〕

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〔前略〕

【秋田孝季の考え方】

 これは後から言いますが、東日流外三郡誌、秋田孝季の、これから見れば納得がいくんです。東日流外三郡誌の最後の所に素晴らしい文章がある。戦争に勝った方は自分が昔から正しかったという歴史を作ろうとする。そして負けた方の国民にそれを信じさせようとする。しかしどの国だって悪い過去はある。蓮の花だけ見ても、根っこが泥にまみれているように、どの国にも醜い過去はある。それをあたかもなかったかのように戦争に勝った連中はおごりたかぶってやるんだと、私はそういう東日流の歴史を考える。だから東日流外三郡誌を作って、現在は勝った方が支配しているから相手にされない、偽書だ何だと悪口ばかり言われるけど、必ず未来において私の言うことを受け入れる聖者が現れてくることを信じて私は東日流外三郡誌を作った、と書いてある。見事なセリフですよね。〔後略〕

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戦争に勝った方は自分が昔から正しかったという歴史を作ろうとする。そして負けた方の国民にそれを信じさせようとする。

どの国にも醜い過去はある。それをあたかもなかったかのように戦争に勝った連中はおごりたかぶってやる

 

少し日本と韓国に関わる歴史を見てみよう(知名度の低い大統領は省きました)。

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1894、「日清戦争

18954月17日、赤間関市にて「日清講和条約(下関条約)」締結。

18971012日、「李氏朝鮮」(1392年~1910年、朝鮮半島における最後の統一国家、1401年に「明」から冊封を受け、朱元璋から「朝鮮」という国号を下賜された)が「下関条約」により「清」の冊封体制から離脱して「大韓帝国」となる。

19048月22日、第一次日韓協約「韓日外国人顧問傭聘に関する協定書」を締結。

《第一次日韓協約を挟んで「日露戦争」(19042月8日~19059月5日)があった》

19051117日、第二次日韓協約「日韓交渉条約(日韓保護条約)」を締結し、外交権が大日本帝国に接収された。

19077月24日、第三次日韓協約「日韓協約」を締結し、内政権を大日本帝国に移管した。

19108月29日、「韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)」を漢城(ソウル)にて締結して「大韓帝国」は消滅し、朝鮮半島は「大日本帝国」の一部となる(「植民地」ではない)。

1919、「三・一運動」の後、李承晩・呂運亨・金九らが朝鮮独立運動組織大韓民国臨時政府」を中華民国上海市で結成した。だが、第二次世界大戦後、アメリカや他の連合国諸国は、ポーランド亡命政府と同様、大戦で貢献をしていない「大韓民国臨時政府」を国際的に承認しなかった(国際的に承認された国家の政府ではなく、当然「戦勝国(連合国)」でもない)

1941128日、真珠湾攻撃により「大東亜戦争(太平洋戦争)」開始(米国は暗号解読によって事前にこの攻撃を承知していた=攻撃させた)。

19452月4日~11日、ルーズベルトとスターリンの「ヤルタ会談」によって「日ソ中立条約」の一方的破棄(ドイツ降伏後2~3ヶ月経たら参戦する取り決め)が秘密協定ヤルタ協定)として締結された。

19453月10日、米軍は風の強い日と人口密集地域の下町を選んで焼夷弾による絨毯爆撃(「東京大空襲」)を行い、この日だけで死者数10万人以上、罹災者100万人を越えた。

19457月26日、米英中により「ポツダム宣言」が発表される(大日本帝国は無視)。

19458月6日、米軍は世界で初めて広島市(当時推定人口35万人)に核兵器を使用(原爆投下)した。これで9万~16万6千人が被爆から2~4ヶ月以内に死亡したとされる。

19458月9日、米軍は長崎市(当時推定人口24万人)に世界史上二度目となる核兵器を使用(原爆投下)した。これで約7万4千人が死亡し、建物の約36%が全焼または全半壊した。〔上記の東京・広島・長崎の被害状況はWikipedia の記述による。また、Wikipediaは長崎に落とされた原爆を「人類史上実戦で使用された最後の核兵器である。」と書いているが、「人類史上実戦で使用された最後の核兵器」かどうかは誰にも断定できないことである(神を除く)。〕

19458月15日、大日本帝国、連合国に無条件降伏

1946129日、「マッカーサー・ライン」指令(連合国総司令部指令-677)。このラインは国境には無関係であると書かれている。

194611月3日、「日本国憲法公布(「大日本帝国憲法」の改正として)。

19475月3日、「日本国憲法施行☚5月3日が「憲法記念日」

19487月12日、「大韓民国憲法第一共和国憲法、または制憲憲法)」制定。7月20日、李承晩、大統領に就任。

19521月18日、初代大統領李承晩が大統領令(「大韓民国隣接海洋の主権に対する大統領の宣言」)によって、「マッカーサー・ライン」をそのまま「韓国と周辺国との間の水域区分と資源と主権の保護のための海洋境界線(「李承晩ライン」)」として独断で設定した。

195274日、第一次憲法改正(抜粋改憲)。圧倒的賛成多数(賛成163、反対0、棄権3)で可決されて成立。これは、19511130日(朝鮮戦争最中)に改正案を国会提出した際は圧倒的多数(賛成19名、反対143名、棄権1名)で否決されていた。

19541129日、第二次憲法改正(四捨五入改憲)。

19604月19日、「4.19革命」により李承晩が下野、国外へ亡命。

19606月15、第三次憲法改正(第二共和国憲法)。

19601129日、第四次憲法改正。条文の一部を改訂。

1961516日、「516軍事クーデター」(朴正煕などが起こした軍事クーデター)。

19616月16日、軍事政権の国家再建最高会議国家再建非常措置法」制定・公布(憲法の効力停止)。7月2日、朴正煕、国家再建最高会議議長に就任。

1962年3月22日、朴正煕、国家元首(大統領不在につき国家再建最高会議議長)となる

19621226日、第五次憲法改正(第三共和国憲法)。

19641010日~1024日、「第18回オリンピック競技大会(東京オリンピック・東京五輪)」開催。

19656月22日、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)」が締結され、「韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)」は「もはや無効であることが確認される」とされた。この関連条約には、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(日韓請求権並びに経済協力協定)」、「日本国に居住する大韓民国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定(日韓法的地位協定)」、「漁業に関する日本国と大韓民国との間の協定(日韓漁業協定)」、「文化財及び文化協力に関する協定」、「日韓紛争解決交換公文」などがある。外務省のサイトに「日韓基本条約((略称)韓国との基本関係条約)」のPDFがある(そのリンクはこちら)。

19691021日、第六次憲法改正。

19721227日、第七次憲法改正(第四共和国憲法、または維新憲法)。

19738月8日、「金大中事件」発生。のち大統領となる金大中が、韓国中央情報部(KCIA)によって千代田区のホテルグランドパレスから拉致され、船で韓国(ソウル)に連れ去られた。日本国の主権に対する侵害事件である。

19791026日、朴正煕、韓国中央情報部(KCIA)長官・金載圭によって暗殺される

19809月1日、全斗煥、大統領に就任。

19801027日、第八次憲法改正(第五共和国憲法)。

19871029日、第九次憲法改正(第六共和国憲法)。

19871128日、「大韓航空機爆破事件」発生。

19882月25日、盧泰愚(ノ・テウ)、大統領に就任。

19889月17日~10月2日、「ソウル・オリンピック」開催。

1990、韓国、ソビエト社会主義人民共和国連邦(ソ連)と国交樹立

1992、韓国、中華人民共和国国交樹立

19932月25日、金泳三(キム・ヨンサム)、大統領に就任。

1995全斗煥、最高裁判所で無期懲役確定。同じく盧泰愚懲役12確定。

199712月、金泳三、全斗煥・盧泰愚を特赦。

19982月25日、金大中(キム・デジュン)、大統領に就任。

20032月25日、盧武鉉(ノ・ムヒョン)、大統領に就任。

20082月25日、李明博(イ・ミョンバク)、大統領に就任。

20132月25日、朴槿恵(パク・クネ)、韓国史上初の女性大統領に就任。

201612月9日、黄教安(ファン・ギョアン)、大統領に就任。

20175月10日、文在寅(ムン・ジェイン)、大統領に就任。

20184月、朴槿恵1審で懲役24罰金1180億ウォン118億円相当)の有罪判決。

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 この年表において、私が言いたかったのは次のことである。

韓国は、何時(いつ)から自分が昔から正しかったという歴史を作ろうとする戦勝国になったのであろうか。

 韓国は1948年7月12日(「大韓民国憲法(第一共和国憲法、または制憲憲法)」制定)にスタートした国家であるそれ以前は大日本帝国の一部にすぎない。

 わが日本国は、大韓民国のスタートしたその前年(1947年5月3日、「日本国憲法」施行。)に再出発した国家である。韓国の憲法前文に「大韓民国臨時政府」のことが書いてあろうとなかろうと、そんな作文に意味はない。1948年7月12日以前に「大韓民国」など存在していないのだ。1945年8月15日に終結(大日本帝国、連合国に無条件降伏)した「大東亜戦争(太平洋戦争)」の戦勝国になりたくてもなりようがないのだ。韓国の主張する「大韓民国臨時政府」すら連合国に認められていない。戦勝国でもない国が「自分が昔から正しかったという歴史を作ろうとする」のは笑止千万なことだ。

 

 

次は、2019年2月14日付の『ソウル聯合ニュース』である。

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 韓国の文在寅大統領は14日、青瓦台(大統領府)でオーストリアのクルツ首相と会談し、中小企業政策や先端科学産業の発展の方向性について意見を交換した。

 文大統領は、クルツ首相が昨年、オーストリア共和国樹立100周年記念式にホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の生存者を招き、過去の歴史を直視し、オーストリアがナチス・ドイツに加担した責任を認めるまで長い時間がかかったと述べたことに深い共感を示した。

 その上で、「正義と真実の原則の下、不幸な過去の歴史を直視することは未来志向的な発展の土台となると信じている」と強調した。

 今年で大韓民国臨時政府発足から100周年を迎えることに触れながら、「両国が過去100年の歴史を土台に今後も明るい未来を共に築く上で協力することを望む」と述べた。

 また、両国が友邦国として民主主義や人権など普遍的価値を共有しながら協力関係を発展させてきたことを高く評価した。

 クルツ首相は「オーストリアと韓国は小国という共通点があるが、経済的に強国という共通点もある」としながら、今回の訪韓が経済・政治・学問の分野で両国間の交流が拡大される機会になることを願う」と述べた。

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 ここで私が言いたいのは次のことだ。

文在寅大統領は、オーストリアのクルツ首相が述べたことを全く理解していない

 

 1965年に公開されたロバート・ワイズ監督、ジュリー・アンドリュース主演のミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」は韓国では上映されなかったのだろうか(反語)。この映画は史実ではなく「ミュージカル映画」ではあるが、オーストリアの愛国者でありドイツのオーストリア併合に反対するゲオルク・フォン・トラップ大佐の一家が、中立国であるスイスへ亡命するために山を越えるラスト・シーンが印象的で、そこに至るまでに、オーストリアの人々がナチス・ドイツに傾倒していく姿が描かれている。

 もう一度『ソウル聯合ニュース』の記事にあるクルツ首相の言葉を読んでもらえば分かる。クルツ首相は「過去の歴史を直視し、オーストリアがナチス・ドイツに加担した責任を認めるまで長い時間がかかった」と述べたのだ。はっきり言おう。「過去の歴史を直視し、韓国(この国はまだ存在しないので「朝鮮人」)が大日本帝国に加担した責任を認めるまで長い時間がかかった」という意味を含んでいることを理解すべきなのだ。自分たちを常に被害者として考えるという韓国人の思考回路には呆れるほかない。クルツ首相の言葉の主語は「日本国」ではない。

 ただ、この記事によって、法律家である文在寅大統領が“徴用工裁判”に二の足を踏む大法院(最高裁判所)の判事達を入れ替えて出させた判決の理由が理解できた。それは、文在寅大統領は理解力を欠いた法律家であるということなのだ。

 

いつでも反故にできる約束は約束か?

いつでも反故にできる約束は約束か?

矛盾が生じた原因[学問・資格]

 

 先のブログ記事 不審な毎日新聞の社説―「数学的帰納法」を知らない論説委員― において、「命題P(n)n代後の政権は過去の政権の約束を反故にできる。」⇔「いつでも約束は反故にできる」ことを証明した(記号「⇔」は「同値」を意味する)。

 この命題P(n)が、nが全ての自然数において成り立つ限り、これからどんな約束をしても「いつでも約束は反故にできる」ので、どんなに譲歩して約束してもいつでも反故にされ得るのであり、協議して約束することには意味が無い(つまり、話し合って約束を取り交わすのは無意味)、ということだ。

 

 そこで「いつでも反故にできる約束」は「約束」なのだろうかというのが問題で、この答えは「約束であるが約束ではない」というものだ。これは「矛盾」である(「矛盾」とは「A∧¬A」(意味は「Aである」かつ「Aでない」))。

 

 「命題P(n)n代後の政権は過去の政権の約束を反故にできる。」が成り立つという証明の何処に矛盾が含まれていたのだろうか。もう一度、論証プロセスを示そう。

 

・① n0が成り立つ:「現政権は過去の政権の約束を反故にできる。」

・② 「命題P(k)k代後の政権は過去の政権の約束を反故にできる。」が成り立つと仮定する。

・③ K+1代後の政権において、k代後の政権は過去の政権であるから、k代後の政権がした約束を反故にできる。②によってk代後の政権はそれ以前の政権のした約束を反故にできるのであるから、K+1代後の政権はk代後の政権以前の政権がした約束を反故にできる。

・④ これは「命題P(k+1)k+1代後の政権は過去の政権の約束を反故にできる。」が成り立つ、ということだ。

・⑤ よって、nがすべての自然数(1,,,,,n,…)において、命題P(n)=「n代後の政権は過去の政権の約束を反故にできる。」が成り立つ。

 

 ②~⑤は「数学的帰納法」の論法であるから、矛盾のあろうはずがない。すなわち、矛盾は① n0が成り立つ:「現政権は過去の政権の約束を反故にできる。」とするところにあったのだ。

 

以上から、現政権は過去の政権の約束を反故にできる。」という矛盾を含んだ命題が取り除かれない限り、「いつでも約束は反故にできる」ので、どんなに譲歩して約束してもいつでも反故にされ得るのであり、協議して約束することには意味が無い(つまり、話し合って約束を取り交わすのは無意味、ということだ。

 また、わが日本国政府が①の矛盾を放置することは、「約束を反故にした現政権を放置する」ことであり、約束を取り交わした当事者として「怠惰かつ無責任」であるという誹りを国際社会及び国民から受けるであろう。なぜなら「約束は守られるべきもの」なのだから、約束を取り交わした当事者は交わした約束を守る道義的責任があるのだ。通常(社会常識がある)なら訴訟を起こすべき事柄である。

 

2019年2月17日 (日)

不審な毎日新聞の社説

不審な毎日新聞の社説

「数学的帰納法」を知らない論説委員[学問・資格]

 

【数学的帰納法】(Wikipediaより)

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数学的帰納法(すうがくてききのうほう、英: mathematical inductionは自然数に関する命題 P(n) が全ての自然数 n に対して成り立っている事を証明するための、次のような証明手法である[ 1]

 

P(1) が成り立つ事を示す。

任意の自然数 k に対して、「P(k) ⇒ P(k + 1)」が成り立つ事を示す。

以上の議論から任意の自然数 n について P(n) が成り立つ事を結論づける。

上で12から3を結論づける所が数学的帰納法に当たる。自然数に関するペアノの公理の中に、ほぼ等価なものが含まれている。

〔後略〕

[ 1]自然数の定義は 0 を含む流儀とそうでない流儀があるが、ここでは後者を採用した。

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さて、現在話題になっている事柄に数学的帰納法を適用してみよう。

 

命題P(n)n代後の政権は過去の政権の約束を反故にできる。

 

n0が成り立つことを証明する。

P(0)=現政権は過去の政権の約束を反故にできる。☚こういう主張が現になされている。

 

もし、

P(k)k代後の政権は過去の政権の約束を反故にできる、が正しい(論理的に成り立つ)と仮定すれば、

(k+1)代後の政権」にとって「k代後の政権の約束」は過去の政権の約束であるので、仮定「過去の政権の約束は反故にできる」から、「(k+1)代後の政権」は「k代後の政権以前の政権の約束」を反故にできる、となる。つまり「P(k+1)=過去の政権の約束が反故にできるなら、(k+1)代後の政権は過去の政権の約束を反故にできる」が成り立つ。すなわち「P(k) ⇒ P(k + 1)」が成り立った。

 

よって、K0が成り立っているのであるから、任意の自然数1,23,…,n,…について「命題P(n)n代後の政権は過去の政権の約束を反故にできる。」が成り立つ。

 

この意味はいうまでもないであろう。「約束はいつでも反故にできる」ということと同値なのである。

 

さて、次の毎日新聞の社説において、上記論証における「約束」は1965(昭和40)6月22日に締結された「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)」が該当する。下記毎日新聞の社説を書いた論説委員は、数学的帰納法を用いていないので「知性はあっても理性が無い」というしかないであろう。論説委員の資格が問われる。

 これは「右翼」だ「左翼」だなどという政治的な主張ではなく、「論説委員」に「理性が無い(論理的ではない)」という話なのだ。「感情的な対立」と書いているのは不可解な「社説」である。

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社説

不調の日韓外相会談 互いに国益を損ねている

毎日新聞2019217日 東京朝刊

 

 解決の糸口もつかめぬまま時間を浪費してはいないか、憂慮する。

 

 ミュンヘンであった河野太郎外相と韓国の康京和(カンギョンファ)外相の会談は、またも進展がなかった。

 

 日本企業に賠償を命じた元徴用工訴訟をめぐる韓国最高裁判決は、両国の国交正常化の根幹に関わる。河野氏は請求権協定に基づく政府間協議に応じるよう催促したが、康氏は検討中と答えるだけだった。

 

 3月1日には日本統治からの独立運動100周年を控え、当面態度を保留したいのだろう。しかし、問題を先送りしている間にも、訴訟の原告側は日本企業の資産売却の手続きに近く入ると表明した。河野氏がこれに懸念を表明したのは当然だ。韓国政府は早急に対応すべきである。

 

 ただ、日本側が対抗措置を講ずると警告するのは賢明と言えるだろうか。早期の対応を促す必要があるとはいえ、結果的に両国の緊張を高めてしまっている。

 

 また、韓国国会の文喜相(ムンヒサン)議長が慰安婦問題に関し、「首相あるいは天皇が申し訳なかったと言えば解消される」と語った問題で、河野氏は抗議したと日本側は説明した。ところが、韓国側は直接的な言及はなかったと全面的に否定した。

 

 両国関係が、基本的な事実関係すら認識を共有できない深刻な事態に陥っていることを示していよう。これは韓国海軍駆逐艦によるレーダー照射問題と同じ構図で、対立ばかりが深まっている。

 

 日韓関係の悪化が長期化し、米議会の超党派議員は両国の関係改善を促す決議案を上下両院に提出した。月末に予定される米朝首脳会談を前に、3カ国の連携が損なわれかねないと懸念しているようだ。

 

 北朝鮮の非核化実現のためには制裁を維持すべきだという日本に対し、韓国は南北融和を加速させたい考えで、足並みのずれが目立つ。

 

 このままでは北朝鮮問題をはじめ、経済や人的交流にも影響を及ぼしかねない。感情的な対立から、日本は韓国の、韓国は日本の役割を軽視しがちだ。しかし、重要な隣国との関係悪化を放置していては、双方の国益を損ねるだけだ。

 

 国内の世論ばかり重視しては、関係改善はおぼつかない。両国政府に対し、冷静な対応を求めたい。

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2018年9月 3日 (月)

古田史学が学界に無視される理由

古田史学が学界に無視される理由

「真実」は「何よりも真実を愛する者」を愛する[学問・資格]

 

 古田史学の会編『発見された倭京――太宰府都城と官道』(明石書店、古田史学論集『古代に真実を求めて』第二十一集、二〇一八年三月二十五日、ISBN978-4-7503-4649-6)の出版記念講演会に、博多から飛行機で駆けつけてくれた友人に聞かれた。

 

「古田史学が学界で無視される理由は何か?」

(なお、彼は「一元史観」に立っているわけでも「古田史学」に立っているわけでもない。私がみる所では、彼が関心を持つ歴史は、古代ではなく、幕末から現代(特に明治維新・大東亜戦争・今の関係)だと思われる。淵源をたどる必要があって、中世・古代にも関心を払っているようだ。)

 

 厳密にいえば、彼の問いに私は答えられない(無視する(いじめる)理由は無視する(いじめる)側にその理由があるのだから、まず無視する側に聞くべきだと考えるが、その質問すら無視されるだろう)。私の推測でよいなら、その理由は学問的なものではなく、次のような要因が大きいだろう、と答えた(これはあくまでも私の推測です、念のため)。

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古代史学界は、戦後においても津田左右吉のような「一元史観」(厳密には「皇国史観」)が領導してきた(「一元史観」が既に確立した体制establishmentになっている)ため、古代史を専攻する(歴史学で身を立てようとする)者は、「一元史観」の学者に師事するので、師の説が正しいと教わり師の説と異なる説を唱えれば、歴史学で身を立てようとする者にとって一番大切な「立身出世」の道を失うからである(学界に残るにせよ、専攻関連団体に就職するにせよ、狭い世界だから)。

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 これは考古学にもあてはまることで、通常の考古学者は、遺跡や発掘物を『日本書紀』や『続日本紀』に合わせていて、それによって編年もできあがっているので、そこからはずれた見解はとれない。そこからはずれた見解をとれば「編年も知らない不勉強者」扱いをされて、「立身出世」の道を失うことになる。

 こうなるのは、無理もない話なのだ。例えば、現代のマスメディアが政府(省庁官僚)の顔色をうかがうような報道しかしないのは、大企業でも広告宣伝費に多額のお金を使える時代ではなくなったため、大スポンサーの多くが政府系団体になっているので、政府(官僚)の思惑に反することはできなくなっている(「忖度」することが既に確立した体制establishmentになっている)ことと同じです。「原子力村」も同じだったのですから、これは珍しくもない話です。

 つまり、古代史学者(職業歴史家)を志す者なら、「立身出世」を諦めない限り、古田史学には関われないのです。歴史学を志して学んできた者が「立身出世」を諦めるということは、その多くの方々は(潤沢なお金や資産をもった家の生まれでない限り)別の道で飯を食う算段をしなければならなくなる、ということです。歴史学や考古学は「つぶしがきかない学問」の最たるものでしょう(儲けるための現実の世界では役に立ちません)。つまるところ、歴史学を志す限り、「一元史観」の世界に身を置くことだけが「立身出世」の道(飯のタネ)なのです。

 

 職業歴史家(学者)になろうとする者に、そんな世界から足を洗って(失業して)真実の歴史をやりましょう(プロは止めてアマチュアになろう)とすすめることは、私は心苦しくて、できません。立派な志(こころざし)を持たない者は歴史学を志すな(学者になるな)ともいえません。「私自身がそんなことを言えるほどの立派な人間ではない」からです。

 以上のことから、私はこう思っています。

 

 真実の歴史は、アマチュアにしか(職業歴史家には)語れない、と。

 これは職業歴史家を馬鹿にしているのではありません。今の世では無理もないことだと言ったのです(哀れんだのです)。一元史観によってできあがった編年(『日本書紀』や『続日本紀』に合わせて年代を同定した編年)が覆らないように科学的年代測定法の採用を故意に遅らせてきたのです(科学的年代測定法は、先進国中でわが国が一番遅れて採用したし、今も挽回しようともせず遅れ続けたままなのです)。
 古代史が好きで学者になろうとする者は、一元史観に従うしかないのです。だから、真実の歴史は職業歴史家ではない者(アマチュア)にしか語れないのです。
これはわが国の歴史学にとって不幸なことですが事実なのです。

 

 アマチュア歴史家は、プロの歴史家(職業歴史家=学者)には「無知」扱いされるでしょう。彼らは、四六時中、史書や遺跡と格闘し、人生をそれに捧げているのです。知識量は、私のような初学者の知識の何百倍も(いや何千倍・何万倍かも)あるでしょう。では、正しいとされていたことが正しくないとわかった時、その膨大な知識量が「今まで師から正しいと教わってきたことは正くなかった」と言う勇気を湧き立たせるもとになるでしょうか。その膨大な知識量の中には「今まで師から正しいと教わってきた(実は正しくなかった)膨大な知識」を含んでいるのです。その膨大な知識で弟子たちを教えてきたことが、勇気をくじくもとになるかも知れません。彼らは、その知識(一元史観の知識)に人生をからめとられているのです。だから、祟りのある神には触れられないのです(「触らぬ神に祟りなし」)。古田史学は、かれらにとって「祟り神」(忌まわしき存在)なのです。

 

 では、「古田史学」は古代史学界(「一元史観」に凝り固まった職業歴史家の集団)に勝ち目はないのでしょうか?

 

これが「勝負」であり、「古田史学(「多元史観」の集団)」と「古代史学界(「一元史観」の集団)」との勝負であれば、その勝敗は「火を見るよりも明らか」です。

 しかし、これは「団体戦」(団体対団体の戦い)ではありません。「真実」の当て合いなのです。人数の多い方が勝つわけでもなく、現世の権威がある方が勝つわけでもなく、経済力があるほう(お金を多くもっているほう)が勝つわけでもありません。

 

 ギリシア神話ではテミス(この像は最高裁などにある)、ローマ神話ではユースティティア、エジプト神話ではマアト(太陽神ラーの娘)が判定を下します。彼女らの持つ天秤に懸けられるのは両者の学説、判定基準は「どちらが真実か」という単純なもの。

 

 古田史学で良く言われる言葉「真実は頑固である」。真実はどんなに覆い隠そうとしてもどこかにその痕跡を残すもの。

 

 世の中は、二種類の人間に分けられる。「真実は必ず明らかになる」と信じている者そうではない者とに。「真実は必ず明らかになる」と信じている者は真実にたどり着く(少なくとも、その可能性がある)のです。これは公理(証明できないが「真」と考えられる命題)とします。「AとAでないに分けられる(排中律「A∨¬A」)」は当然に公理です(「述語論理」で語っているから)。

 

 世の中は、二種類の人間に分けられる。何よりも真実を愛する者そうではない者とに。

そして、「真実」は「何よりも真実を愛する者」を愛すると私は信じている。

世の中で最も麗しいものは「相思相愛」の関係であると信じるから。これは信仰です。

2018年8月12日 (日)

古式鳥居の柱は転んでいない

古式鳥居の柱は転んでいない

それを知らない先生に教わった生徒[学問・資格]

 

武蔵国分寺の「鳥居」2―「鳥居ではない」という根拠?―

https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2018/07/post-30b6.html

に私はこう書いた。

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彼らの「鳥居よりはむしろ」という言葉は、彼らの頭の中にまず「鳥居」が第一候補として挙がったことが窺われる。そして、「鳥居よりはむしろ」(つまり「鳥居ではない」)と懸命にあげつらった理由(①~④)は、どれもこれも根拠が薄弱というより根拠には全くならないものだから、したがって「鳥居の可能性が高い」と言っているに等しいのだ。

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 私が「彼ら」と呼んだのは国分寺市教育委員会の武蔵国分寺の発掘に携わり、その報告書の作成をした学芸員の方々である。彼らの書いた国分寺市の「Ⅱ.史跡武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡の概要」というPDFファイルに次のようにあるからだ。

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(6)参道口

 府中市栄町3丁目17 番地に所在する。寺院運営上の諸施設を含む寺院地の外に,寺地と

呼ぶ集落が展開する範囲があり,その南限を区切る施設として僧寺金堂跡から南に478

離れた位置で門跡が確認された。

 門跡は3基確認され,いずれも共通した意図で一定期間に建て替えられている様子が判明している。その特徴は,①柱の太さが40 50cm ほどで,柱間と柱径の割合が11 分の1とほぼ一定していること,②柱は全て垂直に近く,内側に転んでいないこと,③東西の柱の上部は繋ぎ材で緊結されていたと思われること,④柱の上部が繋がっていたため柱の深さを調整し,東西同じ高さ,水平に合わせたことが想定されること,などがある。これらの特徴から復元される上部構造は,鳥居よりはむしろ,柱の上部を水平な冠木で貫いた冠木門のような形式の門の可能性が高いと思われる。

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 特に、鳥居ではない論拠として「②柱は全て垂直に近く,内側に転んでいない」と言っている。つまり「鳥居の柱は内側に転んでいる」と言っている事になる。誰から教わったのであろうか。それが間違っていないと信じる根拠はどこにあるのだろうか。「師の説はすべて鵜呑みにしてきた」のだろうか。

 インターネットの時代、鳥居の画像を検索すればいくらでも鳥居を見ることができる。そして、新しい時代と古い時代の鳥居の区別もできるだろう。「廃仏毀釈」にあった寺院と比べれば神社は古い様式を維持できて来たであろう(建て替えても)。社殿だけでなく鳥居も同様だろう。

 私はこのような(「鳥居の柱は内側に転んでいる」というような)「根拠のないことを権威によりかかって正しいかのように吹聴する」態度が一番腹立たしい。だから何度でも記事にする。今回は、皇室が参拝している神社(六社)、「大神(おおみわ)神社」・「石上(いそのかみ)神宮」・「大和(おおやまと)神社」・「熊野本宮大社」・「賀茂別雷(かもわけいかづち)神社」(上賀茂)・「日吉(ひよし)神社(大社)」の一つ、「大神神社の三ツ鳥居」の写真(大神神社提供)である。

Photo
大神神社の三ツ鳥居

2018年7月27日 (金)

下手な考え休むに似たり

下手な考え休むに似たり

後悔先に立たず[学問・資格]

 

 筑紫野市のホームページに「前畑遺跡第13次発掘調査 現地説明会」の資料があった。はじめからWeb検索をすればよかったのだと思った。後悔先に立たずである。

http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/data/open/cnt/3/6900/1/gensetsushiryou_ippan.pdf

ここに、土塁の構造図が載っていた。東西が逆(東が左)になっているが、私の文章だけから推定した想像図も、「当たらずと言えども遠からず」だったようだ。☚負け惜しみ!採点が甘い!

pdfを読み込むのが面倒な方に、土塁の構造図のスクリーンショットを掲げておきます。
Photo
Photo_2
想像図と見比べてください(東西は逆)。

2018年7月23日 (月)

「訓読文」は要注意

「訓読文」は要注意

漢文は奈良時代には音読していた[学問・資格]

 

 奈良時代には音博士(おとはかせ)という官職があり、この漢字はどう発音するか、ということを担当していた。現在でいえば英語と同じ外国語だから当然だ。通訳などはペラペラ当時の中国語を話していた(倭国時代なら南朝語“呉音”、日本国時代なら北朝語“漢音”)。しかし、外国語である中国語を話せない者は、どうしていたか。日本語に訳す順番を示す記号(黒丸、当時の「訓点(テニヲハ)」、現在の「訓点(句読点・返り点・送りがな)」ではない)に従って日本語化して理解したのだ。『日本書紀』などの「訓読文」というのは日本語化されたものに過ぎず、つまり翻訳文なのだ。翻訳は解釈であるから翻訳者の理解である。訓読文を真に受ければ翻訳者の理解に従うことになる。だから、漢文で書かれた史書を読むときは、漢文の読み方(書き下し文=音読+訓点)で読まねばならない。従って漢字の辞書は手放せない。

 多くの「訓読文」は漢語を倭語にしてある(たとえば「防人」を「さきもり」と訓じている)ので、漢文の読み方(書き下し文)ではない。漢文の読み方は、たとえば「防人(ぼうじん)」なら「防」と「人」の意味を調べて、それをつなげたものを「防人」の意味ととるのだ。少なくとも私はそうやって理解している。

 

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