2023年5月25日 (木)

古代ギリシアと太陰太陽暦―元嘉暦は「メトン周期」を用いたのか?―

古代ギリシアと太陰太陽暦
元嘉暦は「メトン周期」を用いたのか?―[]

 元嘉暦は19年間に7閏を置く「章法」なので「メトン周期」を用いていると思っていましたが、それは早合点であることがわかりましたので報告します。 

古代ギリシアで発見された太陽と月の周期の比例関係

周期名(誕生時期)

発見・考案者

特徴や改良点

メトン周期
(B.C. 432
)

B.C.5世紀のアテナイの人

19年=235朔望月=6,940とする。19年に7閏月を入れれば1年と1ヶ月が合うとする(「章法」)。

カリポス周期
(B.C. 370
年ころ)

アテナイで活動した
キュジコス生まれの人

1太陽年を365.25日として19年=6939.75日。これを4倍した76年27,759日でメトン周期の4倍より1日減る。235月も4倍して940月27,759日とした。

1太陽年=27,759日÷76年=365.25日

1朔望月=27,759日÷940月≒29.530851日

ヒッパルコス周期
(B.C.330
年採用)

B.C.2世紀ころの

ニケヤの天文学者

カリポス周期をさらに4倍して1日を引き、

3043,760111,035とした。

1太陽年≒365.24671日、1朔望月≒29.530585日

《実際》

 

太陽年=365.2422日、朔望月=29.53059

 

太陰太陽暦の太陽と月の周期の比例関係


暦名


採用時期・選者編者


周期の調整メソッド


古六暦(こりくれき)
(古四分暦)


漢代以前

不明


「章法」:1章= 19年に7閏月を置く= 235
1
太陽年= 3651/4日(四分暦)= 365.25日と見られている。
朔望月は詳細が不明です。


後漢四分暦
(ごかんしぶんれき)


後漢 元和二年(85)
編訢、李梵


1蔀= 76年940月27,759日
1太陽年= 1461(周天)÷ 4(日法)365.25日3651/4
1
朔望月= 27,759(蔀日940(蔀月)29.530851日


元嘉暦
(げんかれき)


宋 元嘉廿二年(445)
何承天


1太陽年= 222,070(紀日)÷ 608(紀法)365.24671日

1朔望月= 22,207(通数)÷ 752(日法)29.530585


《実際》


 


太陽年=365.2422日、朔望月=29.53059

 元嘉暦の朔望月は、太陽と月の周期が合う(整数になる)最小公倍数と見られる222,070(分子)と一日の長さと見られる7,520(分子)が10で約されていると思われます(邪推です)。

 

元嘉暦が用いた周期はメトン周期ではなかった

 『宋書』卷十三 志第三 律曆下「元嘉曆法」には、常数(定数)が次のようにあります(下線部分彩色部分の八ヶ所だけをご覧ください)。
…………………………………………………………………………………………………………………………
,十九。
紀法,六百八。
章月,二百三十五。
紀月,七千五百二十
章閏,七。
紀日,二十二萬二千七十。
度分,七十五。
度法,三百四。
氣法,二十四。
餘數,一千五百九十五。
歲中,十二。
日法,七百五十二。
沒餘,一百九十六。
通數,二萬二千二百七。
通法,四十七。
沒法,三百一十九。
月周,四千六十四。
周天,十一萬一千三十五。
通周,二萬七百二十一。
周日日餘,四百一十七。
周虛,三百三十五。
會數,一百六十。
交限數,八百五十九。
會月,九百三十九。
朔望合數,八十。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 次は東京天文台の暦Wiki元嘉暦 (げんかれき) / 建元暦†から抜粋しました。
…………………………………………………………………………………………………………………………
1太陽年= 222070(紀日608(紀法)365.24671日
1朔望月= 22207(通数752(日法)29.530585日
…………………………………………………………………………………………………………………………

 「元嘉暦」の下線部分は「章法」ですが、「章法」は閏月の置き方で使っているだけで、太陽と月の周期を合わせるために用いていたのはメトン周期(19年=235朔望月)ではなく、メトン周期を32倍し、太陽年は608年222,070日とし、朔望月は7,520ヶ月の数値を用いて計算していました(この半分がヒッパルコス周期304年3,760月111,035日です)。すなわち、元嘉暦が用いていたのは「ヒッパルコス周期」だったのです。

 これと同じように「後漢四分暦」が用いていたのは「カリポス周期」だったのです。

2023年5月17日 (水)

朔望月と月朔―太陰太陽暦の日付―

朔望月と月朔
太陰太陽暦の日付[]

 前回の暦カテゴリー記事 回帰年と日干支―太陰太陽暦の日干支―では、麟徳甲子元暦(麟徳暦)を例にとって、太陰太陽暦はどのように日干支を求めているかを説明しました。説明のもとにした資料は、臺北市鼎文書局(底本:清懼盈齋刻本)(後晉)劉昫撰;楊家駱主編『舊唐書』志第十三曆二「麟德甲子元曆」の次の箇所です。
…………………………………………………………………………………………………………………………

麟德甲子元曆
上元甲子,距今大唐,歲積二十六萬九千八百八十算。
推法:一千三百四十。
期實:四十八萬九千四百二十八。
旬周:六十。

    推氣序術
置入甲子元積算距今所求年,以期乘之,為期總。滿法得一為積日,不滿為小餘。旬去積日,不盡為大餘。命大餘起甲子算外,即所求年天正中氣冬至恆日及大小餘。天正建子,律氣所由,故陰陽發斂,皆從其時為自。

〖意訳〗
「上元」の日干支は甲子で、麟德元年甲子年〔西暦664年〕から259,880年遡った年〔西暦-269,216年〕である。
「推法」〔一日の長さ、『新唐書』は「總法」と呼ぶ〕は1,340
「期實」〔回帰年、冬至から月の冬至までの長さ〕は489,428
「旬周」〔六十干支が一巡する干支の数〕は60

    「氣」〔二十四節気〕の序〔並びの最初〕の求め方
甲子元〔甲子年の上元〕から今所求年〔暦をつくる年〕まで年数〔積年〕を置き、それに期〔期實、回帰年の日数〕を乗じて期總〔積年の長さ〕とする。
法〔推法・總法〕を満たすと一つとして〔数えて、その数を〕「積日」とし、〔推法・總法を〕滿たさなければ〔その余りを〕「小餘」とする。「積日」から「旬」〔旬周〕去り〔引けるだけ引き去って〕って不盡〔その余り〕を大餘〔六十干支の余り〕とする。
すなわち求める年の天正中氣冬至恆日〔平気法(平均太陽年)による天正冬至の積日〕とその大餘〔日干支を特定する数値〕・小餘〔その時刻を示す数値〕である。
天正〔冬至のある月〕を子〔子月〕に建てる〔月の名称十二支で呼ぶ。〕。氣を律する〔判断基準とする〕所由〔ゆえん〕は、つまり陰陽〔月・太陽〕・四季の日の長短が皆自然とその時〔二十四氣の時〕に従うからである。
…………………………………………………………………………………………………………………………

前回のおさらい

 前回は、暦をつくる年を西暦697(倭国の持統十一年・文武元年)と仮定して、その天正冬至(暦をつくる年の前年の冬至)の日干支の求め方を示しました。

 上元(西暦-269,216)から天正冬至(暦をつくる年の前年(696)の冬至)までの年数(積年)269,913年に太陽年の日数をかけて、上元からの経過日数(天正積日) 98,584,313日を求めて、天正積日から干支が一巡する数60を引けるだけ(1,643,071回、98,584,260 日)引くと53日余る(98,584,313日-98,584,260 日=53日)。上元の日干支は甲子なのでこれは甲子日から53日経った日が天正冬至ということになります。天正冬至の日干支は干支表から「丁巳」と求まりました。以上は前回の「おさらい」です。 

 ちなみにExcel元嘉暦では、697年(丁酉年)の前年696(丙申年)の冬至は1119日(日干支「丁巳」、JDN 1,975,624)となっています。暦法が違っても696年の冬至(697年の天正冬至)はこの日(日干支「丁巳」、JDN 1,975,624)の近辺になるでしょう(暦の冬至が実際の冬至と大きくずれたら使い物になりません)。なお、元嘉暦では「上元」の中気が「雨水」なので、積年(上元からの経過年数)に一年の平均日数を乗じた日数(積日)だけ経過した日は「雨水」ですので、当年(丁酉年)の「雨水」は、正月21日(戊午、JD 1,975,685 )となっています。

元嘉暦における697年の前年(696年)の冬至
Photo_20230517180001
 

太陰太陽暦の日付の決め方

 太陰太陽暦は月の満ち欠けの周期を一月(ひとつき)としていて、新月(朔)となる日をその月の第一日(ついたち)とします。月の満ち欠けの周期(その日数を「朔望月」という)には凡そ29.27日~29.83日の幅があり、これを平均した平均朔望月は 約29.530589 日です。満ち欠けの周期が約25.53日なので暦(こよみ)の一日にぴったりとは合わず、満ち欠けが一巡りする度に新月となる時刻が約半日づつ移動していきます。したがって、太陰太陽暦のでは一月(ひとつき)29日の月(小月)30日の月(大月)が生じることになります(これはとてもやっかいです)

 今回は、太陰太陽暦はどのように朔(月の第一日=新月となる時刻を含む日)を求めているかを説明したいと思います。前回も言いましたが、「他人に説明するのがもっと良い理解を深める方法だ」というのが説明する動機です。ということなので、知っている方はスルーしてください。 

 麟徳甲子元暦では、平朔法(平均朔望月によって朔の日を求める仕方)によって朔の日(日干支)を次のように求めるとしています。
…………………………………………………………………………………………………………………………

    求恆次氣術

因冬至大小餘,加大餘十五、小餘二百九十二、小分六之五。小分滿,從小餘;小餘滿總法之,從大餘一。大餘滿旬周之。以次轉加,而命各得其所求。他皆放此。凡氣餘朔大餘為日,小餘為辰也。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 さて、日干支は積年と太陽年(回帰年)から天正積日を求めて、干支が何巡かした余りで求まりましたが、朔を求めるには月の満ち欠けの周期日数(朔望月)が必要です。

麟徳甲子元暦は、一日の周期を1,340として、月の満ち欠けの平均周期(恆朔實)を39,571としています。すなわち、平均朔望月は(恆朔實)39,571÷1,340(推法)29日 + 711/1,340 29.530597となっています。 

 まず、上元から天正冬至までの日数である天正積日98,584,313日は平均朔望月で何ヶ月になるかを求めます。

臺北市鼎文書局(底本:清懼盈齋刻本)(後晉)劉昫撰;楊家駱主編『舊唐書』志第十三曆二「麟德甲子元曆」には上掲に続いて次のようにあります。
…………………………………………………………………………………………………………………………

    求恆次氣術

因冬至大小餘,加大餘十五、小餘二百九十二、小分六之五。小分滿,從小餘;小餘滿總法之,從大餘一。大餘滿旬周之。以次轉加,而命各得其所求。他皆放此。凡氣餘朔大餘為日,小餘為辰也。
〔求土王(土用を求める)と求沒日術(沒日の求め方)を飛ばして〕

    推朔端

列期總,以恆朔實除之為積月,不滿為閏餘。滿總法為閏日,不滿為閏辰。以閏日減冬至大餘,辰減小餘,即所求年天正月恆朔大小餘。命大餘以甲子算外,即其日也。天正者,日南至之月也。恆朔者,不朒不盈之常數也。(中略)以天正恆朔小餘加閏餘,以減期總,餘為總實。

〖意訳〗
    朔からの端数を計算する
期總〔積年に期實を乗じた長さの数値〕を,恆朔實〔月の満ち欠けの周期の長さ〕で除して積月〔上元からの経過月数(整数値)〕とし、〔恆朔實に〕滿たない〔期總の余りを〕閏餘とする。〔閏餘が〕總法を滿たせば〔その満たした数値(整数)を〕閏日とし,滿たさない〔閏餘の〕余りを閏辰とする。〔天正〕冬至の大餘〔日数〕から閏日を減じ、〔天正冬至の〕小餘から辰〔閏辰〕を減じれば、求める年の〔前年の〕天正月恆朔〔冬至のある月の平均朔望月(平朔法)による朔日〕の大餘と小餘が求まる。甲子から大餘を数えればその日が天正冬至なのだ。天正とは、日南至之月〔太陽が最も南(低い位置)にある月=冬至のある月〕である。恆朔とは、不朒不盈之常數〔伸びも縮みもない定数、つまり満ち欠けの周期を平均した定数〕である。(中略)天正恆朔小餘を閏餘に加えたものを期總から減じて,餘を總實とする。
…………………………………………………………………………………………………………………………

天正冬至と天正月朔
Photo_20230517180002

「期總(きそう)(新唐書は「朞總」とある)は積年(上元から天正冬年までの年数)269,913年に太陽年の周期 489,428を乗じたもので、計算すると132,102,979,764 になります。これを月の満ち欠けの周期(恆朔實)39,571 で割った商が積月3,338,378で、余りが23,926 「閏餘」、これを一日の周期(推法、総法)1,340で割った商17日が「閏日」、その余り1,146が「閏辰」とあります。ここで注意しなければならないのは閏日17日の余りが1,146ありますので、17日以上つまり18日目に天正冬至があるということです。

上元は朔(新月)なのでそれから満ち欠けが3,338,378周した朔から数えて18日目が天正冬至になり、つまり天正冬至から数えて18遡った日が朔です(すなわち天正冬至の干支番号から18引いた番号が朔の日干支になります)。つまり「丁巳」(番号53、甲子=0)から18引いた干支番号35己亥(つちのとのい)が朔のある日(すなわち月の第1日、ついたち)となります。

 天正月とは冬至のある月のことで、建子とある(天正月を子月とする)ので、寅月を正始(正月)とする夏正では、天正月(子月)は11月に当たります。

天正平朔日11月1日が干支番号35己亥(つちのとのい)とわかったので、天正平朔日の大餘・小餘に朔望月の大餘29日と小餘711/1340 を次々に加えれば次々と月朔が求まります。小餘の積み重なりで29日の月か30日の月かが決まります。

697年麟徳暦平朔(儀鳳暦)の月朔
697
 ちなみに697年8月朔の日干支は「甲子」(JDN 1,975,871 )となっています。元嘉暦では697年8月朔の日干支は乙丑(JDN 1,975,872)となっています。

2023年5月11日 (木)

回帰年と日干支―太陰太陽暦の日干支―

回帰年と日干支―太陰太陽暦の日干支―[]

 太陰太陽暦の「回帰年」(季節が一巡する周期)は「冬至」から次の「冬至」までの日数(端数込み)となっています。厳密には現在の「太陽年」(春分から次の春分までの日数(端数込み))とは異なりますが、太陰太陽暦は、はるか遠くに「上元」(暦の元期)をとっているので太陽年と同等なものと考えてよいでしょう。

 今回は、太陰太陽暦がどのように暦の日干支を求めているのかを説明したいと思います。説明する動機は、「他人に説明するのがもっと良い理解を深める方法だ」という言葉があるからです。ということなので、知っている方はスルーしてください。 

 その前に「時間」をどのように表すか、という問題をクリアにしておかねばなりません。現在は、一日を24時間、一時間を60分、1分を60秒、つまり一日を、「セシウム原子のマイクロ波の振動を9,192,631,770回数えたときを1秒と定義」した86,400秒として時間を表しています。

 では、古代の天文観測において天体の周期をどう表せばよいでしょうか。一日を単位として用いればよいでしょうか。1太陽年は約365.24219日ですが、一方平均朔望月は約29.530589日です。太陰太陽暦では、一太陽年が何ヶ月かということも計算しなければなりませんから、太陽年・平均朔望月・1太陽年の月数、これらを全て分数で表しておかねばならないのです。つまり、時間を軸にして計算しようとすると大変なことになる(というよりも、やってられない)のです。

 そこで、古代の賢人は「章法」(倭国も採用した「元嘉暦」は最後の「章法暦」です)という時間を軸にしている暦法(19年を一章とする)を捨てて「破章法」という暦法を考えだしました。

 破章法の肝は、「一日(の時間)を適当な数値で表して、天体の周期をその数値を軸にして表す」というものです。古代の支那では小数点を使わず分数を使っています。分数を使うことで「有効桁数を小数点第何位までにするか」と悩む必要が無くなります(端数も分数のまま表しておく方が正確です)。

 

戊寅元暦(戊寅暦)】(唐・武徳二年(619)~麟徳元年(664)までの46年間)

太陽の周期数=3,456,675

地球の自転周期数=9,464

太陽年=3,456,675÷9,464365日 + 2,315/9,464(=365.244611日)

月の周期数=384,075

朔望月を計算するための地球の自転周期数=13,006

朔望月= 384,075÷13,006==29日 + 29/13,006(=29.530601日)

 

麟徳甲子元暦(麟徳暦)】(唐・麟徳二年(665)~開元十六年(728)64年間)

太陽の周期数=489,428

地球の自転周期数=1,340

太陽年= 489,428 ÷ 1,340365 328/1,340(=365.24478日)

月の周期数=39,571

地球の自転周期数=1,340

朔望月= 39,571 ÷ 1,34029 711/1,340(=29.530597日)

 最初の破章法暦である「戊寅元暦」は、太陽年と朔望月とで、割る数値が9,46413,006と異なっています。麟徳暦は徹底して同じ1,340を用いています。これらの数値はそれぞれに意味があるのではなく、実際の観測数値に合う分子と分母を探し出したのではないかと思われます(もしかすると、うまい方法があった(例えば連分数展開とか)のかもしれません)。

 

 日干支をどのように求めるかという本題に戻ります。

 麟徳暦を例にとりましょう。
Photo_20230511155301
 麟徳暦の上元は、麟德元年(664年、甲子)から遡ること269,880年前(西暦-268,216年、甲子)となっています。

 今、西暦697年の暦をつくると仮定します。

積年は 269,913年(=(上元までの歳積 269.880年-麟徳元年 664年)+ 西暦 697年)。

これに太陽の周期数 489,428 を乗じると積年の太陽の周期数は 132,102,979,764 です。

これを地球の自転周期数(一日) 1,340 で割ると上元から暦をつくる前年の冬至までの日数 98,584,313日 + 344/1,340 がでます。日干支の話なので、この一日に満たない端数 344/1,340 は忘れておきましょう。

上元の日干支は甲子なので、上元から暦をつくる前年の冬至(これを「天正冬至」といいます)までの日数 98,584,313日から干支の数 60 を引けるだけ引きます( 1,643,071回 引けます)。
干支数 60×1,643,071回= 98,584,260 なので余りは 53(日) です。
上元の甲子日から60干支が 1,643,071循 して余ったのが 53日 なのですから、天正冬至の直前の甲子日からこの日数だけ天正冬至の日が離れていることになります。
つまり、甲子の干支番号を1とするならば干支番号54の干支「丁巳」が、甲子の干支番号を0とするならば干支番号53の干支「丁巳」が天正冬至の日の日干支なのです。

 前年の冬至の日の日干支が求まれば当然に暦をつくる年の冬至の日の日干支も求まります。当然その間の24節気の日干支も求まります。太陰太陽暦の日干支はこのようにして求めています。

 暦カテゴリーの次回は、太陰太陽暦における月の第一日(ついたち)の求め方を予定しています。

 

2023年5月10日 (水)

月の満ち欠け―上弦の月と下弦の月―

月の満ち欠け
上弦の月下弦の月[]

 「太陰太陽暦」は、地球の衛星である「月」がどのように見えるか(満ち欠けの状態)によって日付(何日か)を決めています(つまり、日付の決め方は太陰暦法です)。

 また、月々の第一日(ついたち)は「朔(さく)」(新月)となる時刻を含む日を朔(ついたち)としていますが、それ以外にも「上弦」(「上弦の月」の時刻を含む日)・「望」(「満月」の時刻を含む日)・「下弦」(「下弦の月」の時刻を含む日)も表示しています。

 月の満ち欠けは、途中(三日月など)を省きますが、新月→上弦の月→満月→下弦の月→新月と変遷することは知ってはいるのですが、どちらも半月である「上弦の月」と「下弦の月」が実際にどう違うのかを知らなかったので、調べてみました(知ってる方はスルーしてください)。

 半月を弓に見立てて明暗の境目の線を「弓の弦(つる)」とし、上向きを「上弦」、下向きを「下弦」というのだろうくらいに高をくくっていたのですが、そんな曖昧な理解では半月を見ても判別できませんでした。

 次図は地球の公転面を北極側から見た概念図です。太陽の光線は上側からが注いでいるとして描いてあります。

月の満ち欠け図
Photo_20230510155201
 北極側から見て地球は反時計周りに(つまり西から東へと)自転しています。すなわち、天球は東から西へと回転しています。

 朝・昼・夕・夜と記されている矢印は、その時刻に「南中」(天体が子午線上に来る)月が見えることを示しています。つまり、矢印の先にあるのは南中時刻に見える月の形を表しています。

 「朔(さく)」の月は昼に南中します。すなわち、朝に昇り夕に没します(新月なので日蝕の時以外見えません)。

 「上弦」の月は夕に南中します。すなわち、昼に昇り夜に没します。

 「望」(満月)の月は夜に南中します。すなわち、夕に昇り朝に没します。

 「下弦」の月は朝に南中します。すなわち、夜に昇り昼に没します。

 

 上弦の月と下弦の月の違いをまとめてみます。

 昼に東から昇り、夕方に南中して、夜に西に没するのが上弦の月です。

 夜に東から昇り、朝方に南中して、昼に西に没するのが下弦の月です。

 月は天空が暗い方がよく見えることを考慮すれば、夕方から深夜にかけて西に没していくのが上元の月で、深夜から朝方にかけて東から昇ってくるのが下弦の月と言えるでしょう。

 時刻だけでみれば、夕方から深夜に見えるのが上弦の月で、深夜から朝方に見えるのが下弦の月です。

 方角だけで見れば、西に没するのが上弦の月で、東から昇るのが下弦の月です。

2022年5月 6日 (金)

岩波本『日本書紀』の間違った頭注―権威だけではだめ―

岩波本『日本書紀』の間違った頭注
権威だけではだめ[]

 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野 晋 校注 『日本書紀 下』(岩波書店、岩波古典文学大系68196575日 第1刷発行、1984910日 第21刷発行)の一〇八頁に欽明天皇十五年(五五四)正月丙申条が次のようにあり、強調下線(山田による)の「閏月」に頭注番号(一三)が振られています。
…………………………………………………………………………………………………………………………

丙申(九日)に、百濟、中部木州施德文次(ちゅうほうもくらせとくもんし)・前部施德曰佐分屋等(ぜんほうせとくをさぶんをくら)を筑紫に遣(まだ)して、内臣・佐伯連等に諮(まう)して曰(まう)さく、「德率次酒(とくそちししゅ)・杆率塞敦等(かんそちそくとんら)去年(いにしとし)閏月(のちのつきの)四日を以て到來(いた)りしに云ひしく、『臣等、臣等は内臣を謂ふぞ。來年(こむとし)の正月を以て到らむ』といひき。如此(かく)(い)へども未審(いぶか)し。來(きた)るや不(いな)や。又軍(いくさ)の數幾何(いくばく)ぞ。願はくは若干(そこら)と聞(うけたまは)りて、預(あらかじ)め營壁(いほりそこ)を治(つく)らしめむ」とまうす。別(こと)に諮(まう)さく、「方(まさ)に聞く、可畏(かしこ)き天皇の詔を奉(うけたまは)りて、筑紫に來詣(まう)でて、賜へる軍を看送らむといふことを。之を聞りて歡喜(よろこ)ぶること、能比者(たぐひ)無し。此年(ことし)の役(えだち)、甚だ前(さき)より危(あやふ)し。願はくは賜へる軍を遣(つかは)して、正月に逮(およ)ばしめたまへ」とまうす。是に、内臣、勅を奉りて答報(かへりこと)して曰はく、「即ち助(たすけ)の軍の數一千・馬一百匹・船卌隻を遣(や)らしめむ」といふ。

〖原文〗(一〇九頁)
〇丙申、百濟遣中部木州施德文次・前部施德曰佐分屋等於筑紫、諮内臣・佐伯連等曰、德率次酒・杆率塞敦等、以去年閏月四日到來云、臣等、〈臣等者謂内臣也。〉以來年正月到。如此噵而未審。來不也。又軍數幾何。願聞若干、預治營壁。別諮、方聞、奉可畏天皇之詔、來詣筑紫、看送賜軍。聞之歡喜、無能比者。此年之役、甚危於前。願遣賜軍、使逮正月。於是、内臣奉勅而答報曰、即令遣助軍數一千・馬一百匹・船卌隻。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 頭注一三には「去年の閏月は十一月」とあります。何を根拠に「閏十一月」というのでしょう。
岩波本『日本書紀 下』一〇九頁の「頭注一三」(左一〇九頁の頭注、右一〇八頁の訓読文)
Photo_20220506101102
 Photo_20220506101101

 元嘉暦の上元(計算の起点)は、元嘉二十年(西暦四四三年)5,703年前の午前0時の瞬間に朔(新月)で雨水(二十四節気の一つ)になった日(日干支は甲子)です(その年を0年として数えると元嘉二十年が5,703年になるということです)。季節の周期の1太陽年= 222,070(紀日)÷ 608(紀法)365.24671日、月の盈虧(満ち欠け)の周期1朔望月= 22,207(通数)÷ 752(日法)29.530585日となっています。

 欽明天皇十五年において「去年」というのは欽明天皇十四年(癸酉五五三)です。 

 『宋書』「元嘉暦法」は閏年を次のようにして決めると定めています。
…………………………………………………………………………………………………………………………
推積月術:置入紀年數算外,以章月乘之,如章為積月,不盡為閏餘。閏餘十二以上,其年閏。

「積月」の推算方法:「入紀年数」に「章月 (235ヶ月)」を乗じ、「章歳 (19ヶ年)」で割って「積月」とする。端数(余り)を「閏餘」とする。「閏餘」が十二以上ならその年が「閏年」である。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 元嘉暦は1章の年数(章歳)を19年とし、32章を1紀(32×19年=608年)とし、6紀を1元(6×608年=3,648年)としています、

 欽明天皇十四年(癸酉五五三)を計算してみます。

積年(上元から553年まで)=5,703年-443(元嘉二十年)553年(欽明天皇十四年)=5,813  

入紀年数(入紀積年)5,813(積年)÷608年(1紀の年数)=9紀(商)…余り341(入紀年数)

積月(入紀積月)341(入紀年数)×235ヶ月(章月)÷19ヶ年(章歳)4,217ヶ月(積月)…余り12/19

 

余り12/19 が良く分からないと思いますので、説明します。 

341(入紀年数)×235ヶ月(章月)80,135ヶ月です。

4,217ヶ月(積月)×19ヶ年(章歳)80,123ヶ月です。

この差80,135ヶ月-80,123ヶ月=12ヶ月が「閏餘」です。つまり、この閏餘が12以上なので、西暦553年(欽明天皇十四年)は「閏年」(13ヶ月の年)にあたります。

 

 『宋書』「元嘉暦法」は閏月を次のようにして決めると定めています。
…………………………………………………………………………………………………………………………
推閏月法:以閏餘減章,餘以中乘之,滿章閏得一,數從正月起,閏所在也。閏有進退,以無中氣御之。

「閏月」の推算方法:「章歳(19)」から「閏餘」を減じ、余りに「歳中(12ヶ月)」を乗じ、「章閏(7ヶ月)」を満たして1を得る〔いくつ得られるか〕。正月より起算した数〔に当たる月〕が「閏月」である。閏〔閏年と閏月〕は進退(変動)があり、「中気」が無い月を「閏月」とする。
…………………………………………………………………………………………………………………………

19(章歳)12(西暦553年の閏餘)=7

7×12(歳中)=84

84÷7(章閏)=12(正月から起算して12か月目が閏月)⇒ 閏11月

頭注一三去年の閏月は十一月」は合っているじゃないか、ですか?

いや、違います。この正月から数えて12ヶ月目には29日(丁巳)に中気「大寒」があるのです。

欽明天皇十四年の暦
Photo_20220506101401

「元嘉暦法」に「閏有進退,以無中氣御之。」と明確に書いてあります。そして「閏有進退,以無中氣御之。」がされていることは『宋書』本紀の暦日に登場するすべての閏月について確認しました。

 『宋書』本紀にある閏月の一例(宋・孝武帝劉駿 大明二年 の閏月)を示します。
…………………………………………………………………………………………………………………………
〔前略〕

十二月己亥,諸王及妃主庶姓位從公者,喪事聽設凶門,餘悉斷。

閏月庚子,詔曰:「夫山處巖居,不以魚鼈為禮。頃歲多虞,軍調繁切,違方設賦,本濟一時,而主者玩習,遂為常典。杶檊瑤琨,任土作貢,積羽羣輕,終致深弊。永言弘革,無替朕心。凡寰衞貢職,山淵採捕,皆當詳辨產殖,考順歲時,勿使牽課虛懸,睽忤氣序。庶簡約之風,有孚於品性;惠敏之訓,無漏於幽仄。」庚申,上於華林園聽訟。壬戌,林邑國遣使獻方物。

是冬,索虜寇青州,刺史顏師伯頻大破之。

三年春正月丁亥,割豫州梁郡屬徐州。己丑,以驃騎將軍、領軍將軍柳元景為尚書令,尚書右僕射劉遵考為領軍將軍。丙申,婆皇國遣使獻方物。

〔後略〕
…………………………………………………………………………………………………………………………

 宋・大明二年西暦 四五八年です(『日本書紀』では、雄略天皇二年(皇紀一一一八年)に当たる)。この閏月(閏十二月)は、十二月己亥三年春正月丁亥丙申に挟まれ、閏月中に庚子庚申壬戌があります。

 

計算してみます。

積年(上元から458年まで)=5,703年-443(元嘉二十年)458年(宋・大明二年)=5,718年

入紀年数=5,718(積年)÷608年(1紀の年数)=9紀(商)…余り246年(入紀年数)

積月=246(入紀年数)×235ヶ月(章月)÷19ヶ年(章歳)3,042ヶ月(積月)…余り12/19

余り1219の説明です。

246(入紀年数)×235ヶ月(章月)57,810ヶ月です。

3,042ヶ月(積月)×19ヶ年(章歳)57,798ヶ月です。

この差57,810ヶ月-57,798ヶ月=12ヶ月が「閏餘」です。つまり、この閏餘が12以上なので、西暦458年(宋・大明二年)は「閏年」(13ヶ月の年)にあたります。

 次が、「元嘉暦」の閏月を決める計算です。

19(章歳)12(西暦458年の閏餘)=7

7×12(歳中)=84

84÷7(章閏)=12(正月から起算して12ヶ月目が閏月)⇒閏11月←計算だけで決めてはだめ。

閏有進退,以無中氣御之。」を無視してはいけません。

宋・大明二年(戊戌四五八)の暦
Photo_20220506101601

 元嘉暦法による西暦458年の暦では、12ヶ月目(12月)には己亥(29日)に中気「大寒(中)」があるので閏月に該当しません。このように計算だけでは「閏11月」になるのですが、「元嘉暦法」の「閏有進退,以無中氣御之。」に従えば、中気が無いのは13ヶ月目の「閏12月」が正しく、『宋書』本紀の大明二年も「閏十二月」になっています。

  問題はどこにあったかといえば、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野 晋 校注 『日本書紀 下』の一〇九頁の「頭注一三」の「去年の閏月は十一月には、根拠が示されてなかったところ(権威主義)にあったのです。

2022年4月25日 (月)

Excel「元嘉暦」2022【改訂版】の配布―『宋書』『日本書紀』対応版―

Excel「元嘉暦」2022【改訂版】の配布
『宋書』『日本書紀』対応版[暦]

 以前(202171())、当ブログ記事Excel版「元嘉暦」の配布―倭国の暦―で、Microsoft EXCELで作成した長暦(暦のシミュレーション)を無償配布しましたが、古賀達也の洛中洛外日記 第2711話 2022/04/03 柿本人麻呂系図の紹介 (8) ―石見国益田家の「柿本朝臣系図」― の暦日を確認していたところ、『日本書紀』の閏月との不一致が発見されました。

『日本書紀』と合わなかった原因その1

 その原因を調べたら次のことが判明しました。

(1)Excel「元嘉暦」2021(初回配布版)は、「二十四気[1]」の「中気[2]」のある月が「閏月[3]」となっている場合がある。

(2)Excel「元嘉暦」2021(初回配布版)は、『宋書』(卷十三 志第三 律曆下 「元嘉曆法」)にある「閏有進退,以無中氣御之。」(閏は変動あり、中気の無い月を閏月とする。)」に基づいていない。

 次が、『宋書』の「元嘉暦法」に記されている閏年・閏月の決め方です(下線は山田による)
………………………………………………………………………………………………………………………………
〖原文〗
推積月術:置入紀年數算外,以章月乘之,如章為積月,不盡為閏餘。閏餘十二以上,其年閏。
〖私の意訳〗「積月[4]」の推算方法:「入紀年数[5]」に「章月[6](235ヶ月)」を乗じ、「章歳[7](19ヶ年)」で割って「積月[8]」とする。端数(余り)[9]を「閏餘[10]」とする。「閏餘」が十二以上ならその年が「閏年[11]」である。 

推閏月法:以閏餘減章,餘以中乘之,滿章閏得一,數從正月起,閏所在也。閏有進退,以無中氣御之。
〖私の意訳〗「閏月」の推算方法:「章歳[7]」から「閏餘[10]」を減じ、余りに「歳中[12](12ヶ月)」を乗じ、「章閏[13](7ヶ月)」を満たして1を得る〔いくつ得られるか〕。正月より起算した数〔に当たる月〕が「閏月[3]」である。〔閏年と閏月〕は進退(変動)があり、「中気[2]」が無い月を「閏月[3]」とする。
………………………………………………………………………………………………………………………………

 初回配布版は、紀元前433年にギリシャの数学者メトンが発見した「メトン周期」(19 太陽年がは365.242194 ✕ 19 = 6939.601686 日で、これが235 朔望月(29.530589 ✕ 235 = 6939.688415 日)とほぼ等しいという19年の周期)に依った「章法」という太陰太陽暦の造暦メソッド(太陽年19年間に7閏月を置く手法)に基づいて、19年分のカレンダーがあれば繰り返し使えると間違った(閏年に関してだけなら正しい)解釈をしていました。その解釈に基づいて、章年次(元嘉暦では雨水が元旦になる年が章首)によって定まる(変動しない)「閏月表」を参照して閏月を決めていました。それが『日本書紀』の閏月と一致しない一つの原因でした。

 そこで、『宋書』の元嘉暦法の「推閏月法」の計算によって「閏月」を決めてみましたが、それでも『日本書紀』の閏月とは一致しませんでした。
………………………………………………………………………………………………………………………………
581年 敏達天皇十年 春潤二月(閏二月)。(「推閏月法」の計算:閏一月。)
673年 天武天皇二年 閏六月 乙酉朔 庚寅(閏六月)。(「推閏月法」の計算:閏五月。)
684年 天武天皇十三年 閏四月 壬午朔 丙戌(閏四月)。(「推閏月法」の計算:閏三月。)
695年 持統天皇九年 閏二月 己卯朔 丙戌(閏二月)。閏一月。(「推閏月法」の計算:閏一月。)
………………………………………………………………………………………………………………………………

『日本書紀』と合わなかった原因その2

 もしかすると『日本書紀』の元嘉暦は『宋書』(卷十三 志第三 律曆下 「元嘉曆法」)とは異なっているのではないか、という疑いが起きました。そこで『宋書』の本紀(卷五 本紀第五 文帝 ~卷十 本紀第十 順帝)に登場する閏月を悉皆調査して、その閏月と照合してみました。ところが、『日本書紀』だけではなく『宋書』とも一致しませんでした。

………………………………………………………………………………………………………………………………
448年 宋・元嘉二十五年 閏月 己酉 二月庚寅と三月庚辰に挟まれている(閏二月)(「推閏月法」の計算:閏一月。)
461年 宋・大明 五年 閏月 戊子 九月甲寅朔,日有食之。丁卯,甲戌と冬十月甲寅に挟まれて、月中に丙申,壬寅あり(閏九月)(「推閏月法」の計算:閏八月。)
………………………………………………………………………………………………………………………………

 こうなると、『日本書紀』は『宋書』の元嘉暦法に従っているが、Excel「元嘉暦」2022β版(「推閏月法」計算に従ったもの)の方に誤りがある、と考えられました。『宋書』「元嘉暦法」を何度か読み直していると次の一文が気に懸かりだしました。
………………………………………………………………………………………………………………………………
推閏月法:〔中略〕閏有進退,以無中氣御之。
………………………………………………………………………………………………………………………………

 先に掲げた〖私の意訳〗では「〔閏年と閏月〕は進退(変動)があり、「中気」が無い月を閏月とする。」としていますが、これは最終的に達した理解であって、当初は「推閏月法の計算によって決まる閏月は中気が無い月になるんだな。」という程度に思っていたのです。やがて「」という漢字があることに遅まきならがら気づきました。「」という漢字は「コントロールする」という意味です。すなわち「閏は〔月だけではなく年も〕進退のある〔変動する〕ものなので、中気が無いように〔コントロール〕しなさい。」という意味が「閏有進退,以無中氣御之。」という一文なのでした。つまり、「(計算通りに閏月を決めると中気が入っている場合があるので)閏月はそれを進退させて中気の無い月に決めなさい。」という意味だったのです(閏年も章歳の中で一定せず動いていますので中気を含まない月(閏月)がある年が閏年です)。

 実際に、先に掲げた年(448年・461年・581年・673年・684年・695年)は推閏月法の計算式だけでは『宋書』や『日本書紀』の閏月と一致しません(詳しくはダウンロードしたExcel「元嘉暦」2022【改訂版】のシート「資料1」をご覧ください)。

 資料1のように一月ずれてしまうのは、ひと月を大の月(30日)と小の月(29日)にすることで月の満ち欠けの周期(約29.5日)に合わせているため、中気が一個だけ月末(30日)あたりにある場合、月の大(30日)(29日)によって、中気が当月(大月の場合)になったり翌月(小月の場合)になったり前後するためです。そのことを「元嘉暦法」は「閏有進退」と言っているのです。前段の計算法だけでは「閏有進退」に対応できていないのです。ということは、「章法」暦といえども、(こよみ)が19年分あっても繰り返し使えるのではない、ということなのです。言い換えれば、「推閏月法の計算だけでは閏月を決定できず、「二十四節気」を決めてからその月に中気があるかないかを確かめて、計算で求めた閏月に中気が有る場合には、中気が無い月が前月なのか翌月なのか調べてから閏月を決定しなければならないのです。つまり、暦本(その年の暦(カレンダー))を造る作業をしなければ閏月は決められない(「暦書[14]」だけでは閏月は決まらない)のです(古代にはコンピュータが無いからです)。


Excel
「元嘉暦」2022【改訂版】の検証

 今回のバグフィックス版( Excel「元嘉暦」2022【改訂版】)を配布するにあたり、『宋書』(「本紀」の閏月のみ)『日本書紀』(閏月のみ)と一致することを確認しましたが、それだけでは私が『宋書』『日本書紀』と一致するように作成した可能性もあるわけです(笑)。

 そんな皆様の不安を解消するために、「暦」や「位置天文学(天文学暦部)」のexpertの方々の下記論文にある暦日と照合して検証した結果も以下に掲載しておきます。【改訂版】 の値と論文中の値とを確認する必要がある箇所において、それぞれのスクリーンショットを掲げてあります。なお、全ての分岐条件について網羅的にテストしてはいませんので、「バグ(不具合)が全くない」という保証はないことにご留意ください。

落合敦子, 渡辺瑞穂子 (國學院大學),相馬 充, 上田暁俊,谷川清隆(国立天文台)「元嘉暦による皇極天皇二年の月食の観測可能性」https://www2.nao.ac.jp/~mitsurusoma/gendai3/100-105Ochiai.pdf


元嘉暦の計算法の説明

 上記論文に「本論文では、元嘉暦の計算法をわかりやすく解説する。」とした解説がありましたので、そのまま引用させていただきます(下線強調は山田による)。
…………………………………………………………………………………………………………
2.元嘉暦による推算

2-1.元嘉暦の特徴

景初暦 日付は平気平朔、食予測は平気定朔 (中国で西暦237年-444年に行用)

元嘉暦 景初暦と同じく日付は平気平朔、食予測は平気定朔だが、観測に基づき二十四気の日付が約3日遅れていたのを正すなどした (中国で西暦445年-509年に行用)

麟徳暦 日本では儀鳳暦と呼ばれる。日付は平気定朔、食予測は定気定朔 (中国で西暦665年-728年に行用)

ここで

平気とは太陽の平均的な動きに基づく二十四節気のこと。

平朔とは月と太陽の平均的な動きに基づく朔のこと。

定気とは太陽の動きの遅速を取り入れた二十四節気のこと。

定朔とは月の動きの遅速を取り入れた朔のこと。

2-2.元嘉暦の採用定数

太陽年=222070日/608 =365.2467105…日 (現在値は365.24219…日)

朔望月=222070日/7520=29.53058510…日 (現在値は29.530589…日)

近点月= 20721日/752 =27.55452127…日 (現在値は27.554550…日)

交点月/朔望月=939×2/(939×2+160)より

交点月=27.21218784…日 (現在値は27.212221…日)

朔望月の長さが精密で、太陽年の長さがやや不正確であるには理由がある。これは朔望月の長さを決めて19年7閏法を守ると一年の長さは不正確になるからである。

29.53058510…日×235=6939.6875日、365.2467105…日×19 =6939.6875日

2-3.平気平朔の計算

ここでは元嘉暦で皇極天皇二年の暦を計算する。

元嘉暦は、元嘉二十年(中国の年号で、これは西暦443年に当たる)の5703年前上元になる。上元は甲子の日で0時の瞬間に雨水で同時に朔になるときである。その年を0年として元嘉二十年が5703年になるということである。
…………………………………………………………………………………………………………
 太陽や月は、その周期は一定であっても楕円軌道なので一周する間に速くなったり遅くなったりしています(「遅速」とか「遅疾」とかいいます)。「平均的な動き」とは、それを真円軌道上を等速で動いているとみなすことを意味します。
 「近点月」とは、月が近地点(月の公転軌道上、地球に最も近い点)から再び近地点にくるまでの周期(この現在値は平均27.554 5505日=27日13時18分33.16秒)です(元嘉暦の定数は27日 417/752(≒ 27.55452127…日) で現在値とは異なります)。
 「交点月」とは、月が黄道(天球上における太陽の見かけ上の通り道)に対する昇交点を通過してから再び昇交点を通過するまでの周期(現在値は27.212221…日)です(元嘉暦の定数は27日325,194/1,532,576(≒ 27.21218784…日) で現在値とは異なります)。

 上元の日は、ほとんどの太陰太陽暦が「甲子夜半朔旦冬至(かっしやはんさくたんとうじ)」(日干支が甲子で、その日の夜半(午前0時)に朔(新月)(二十四節気の)冬至)となっていますが、元嘉暦は例外で、上元の日の二十四節気が「雨水」、すなわち「甲子夜半朔旦雨水」となっています。「天正月(てんしょうつき)」(冬至のある月のこと)が「子(ね)月」なので、「夏正(寅月正始)」の暦(寅月を正月とする暦)の場合は、「天正月」が前年十一月で、その2ヶ月後が「1月(正月)」です(子月(11月),丑月(12月),寅月(正始月=正月))。つまり「積年」(上元から何年経過しているか)の計算において、上元が「朔旦冬至」なら前年11月までの年数、「朔旦雨水」なら「当年正月」までの年数という違いが出るわけです。

※ 干支番号について 以下、論文は「甲子」=1 ですが、excel「元嘉暦」は「甲子」=0 としていますので、この違いにご留意ください。


平朔法による朔弦望の計算

 皇極天皇二年(西暦643)は上元から数えて5,903年(「積年」)。

皇極天皇二年正月朔日の干支の計算(excel元嘉暦)
Excel

表1 平朔法による皇極天皇二年の朔弦望の計算
Photo_20220425164901

平朔法による皇極天皇二年の朔弦望(excel元嘉暦)
Excel_20220425165101


平気法による二十四気の計算

表2 平気法による皇極天皇二年の二十四気の計算
Photo_20220425165601
皇極天皇二年の各月朔(excel元嘉暦)
Excel_20220425165801

平朔平気による暦

 Excel「元嘉暦」2022【改訂版】は、暦に弦と望を入れ込んでいません(「朔弦望表」は当然ありますが)。正月直前の前年の3か月から翌年の正月まで(各月毎に日干支・二十四気・JDNのみ)を表示します。

表3 平朔平気による皇極天皇二年の暦
Photo_20220425165901
Excel元嘉暦の皇極天皇二年の暦1(正月から4月まで)
Excel_20220425170001
Excel
元嘉暦の皇極天皇二年の暦2(5月から閏7月まで)
Excel_20220425170101


平気定朔による月食予測

 Excel「元嘉暦」は、平気定朔による月食予測も計算しています。
 皇極天皇二年五月の月食の存否を判定する「去交分」の値は 930 です。

月蝕の存否
Photo_20220425170201

皇極天皇二年五月望の去交分は930
930


定朔法による月の近点通過後の日数の計算

 皇極天皇二年五月の月食時の月の近点からの日数は21737.5分となっています。

皇極天皇二年五月望のときの月の近点からの日数
Photo_20220425170601

 

定朔法による日蝕月蝕の予測計算(正月朔日を例)

真の望の日時の計算
Photo_20220425170701
定朔法による日蝕月蝕の予測計算1
1_20220425171001
定朔法による日蝕月蝕の予測計算2
2_20220425171001

以上のように、検証して一致することを確認しました。 

このExcel「元嘉暦」2022【改訂版】のダウンロードは下記リンクからどうぞ。アップロードにあたってウイルスチェックは行っておりますが、ダウンロード後にもお手元でウイルスチェックをなされることを推奨いたします。シート「説明と履歴」にある《著作権と使用許諾に関して》は必ずお読みください。もし、使用許可条件に従えないならば、ダウンロードしたファイルを削除してください。

ダウンロードの際、ファイル名は Excel「元嘉暦」2022【改訂版】 に変更して保存願います。

ダウンロード - excele3808ce58583e59889e69aa6e3808d2022e38090e694b9e8a882e78988e38091.xlsx

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

[1] 二十四気 一年を二十四等分して、12の「節気」と12の「中気」を交互に配して季節を表示する「太陽暦」です

[2] 中気 「二十四気」のなかの、季節の節目の「節気」と次の「節気」の間にある気なので「中気」と呼ばれます。

[3] 閏月 太陰暦は月の盈虧(満ち欠け)の周期(=朔望月:約29.5日)をひと月としているので、季節の周期である1年(太陽年=グレゴリオ暦では365.2425日)とは一致しません(「章法」暦の1(平均)127/19ヶ月≒12.368421朔望月)。そこで太陰太陽暦(太陽暦と太陰暦を統合した暦法)では、13ヶ月を1年とする閏年を19年間に7回設けて一致させる「章法」という手法があります。
太陰太陽暦19年の日数=19年の月数(19年×12ヶ月+7ヶ月)=235月×29.5/月=6,932.5
太陽暦(G暦)19年の日数=1年の日数365.2425日×19年=6,939.6075
その差は、太陽暦の日数6,939.6075日-太陰太陽暦の日数6,932.5日=7.1075ですが、
元嘉暦19年の日数は、ひと月(1朔望悦月)の日数を22,207(通数)÷ 752(日法)29日+399/752日=29.530585…日 としていますので、22,207/752×235月=6,939.6875日であり、また、太陽年19年の日数は、1年の日数を222070(紀日)÷ 608(紀法)365+75/304日 としていますので、(365+75/304日)×19年=111,035/304(日/年)×19年=3639.6875日となり、19年で太陽暦と太陰暦が一致するわけです。しかし、これは朔望月(観測値)から「章法」によって太陽年を逆算したからであり、「章法」では季節が実際の季節と19年間で、3639.6875日-6,939.6075日=0.08日(1.92時間=約1時間55分)暦面が遅れる(実際の季節が先にくる)ことになります。この累積した遅れを元嘉暦の編者 何承天 は冬至の日を3日早めて調整したわけです。それでも「章法」というメソッドを採る限り暦面の遅れは免れませんので、以後の暦は「章法」を採らない暦になっていくわけです(元嘉暦は最後の「章法」暦となりました)。

[4] 積月 「上元」(元嘉暦は「紀首」から)からの経過月数。

[5] 入紀年數 元嘉暦は19太陽年(=章歳)を1章、32章を1紀(608=32章×19/章)、6紀を1元としています。元嘉暦では上元(元嘉二十年(443)5,703年前(=-5,260年)の甲子夜半朔旦雨水の日(=JD200,089))から当年(暦を造る年)までの経過年数(「積年」)を1紀の年数608(「紀法」)で割った商の翌年を「紀首」として、その「紀首」から起算した当年までの経過年数を「入紀年数」としています。すなわち、「積年」を「紀法(608)」で割った余りの年数のことです。

[6] 章月 1章(章歳19年)の月数(朔望月数)です。「章法」は「19太陽年に7閏を置く」のですから、235ヶ月(=19年×12月+7閏月)です。

[7] 章歳 1章の年数(太陽年数)です。「章法」では19年です。

[8] 積月 太陰太陽暦では一般に「積月」と言えば「上元」から「天正中気」までの経過月数をいい、「上元の気」が冬至の場合(「甲子夜半朔旦冬至」の場合)には「天正冬至」(前年11月の冬至)までの経過月数です。しかし、「元嘉暦」では「入紀年数」をもとに計算しますので「入紀年数」(入紀積年)から「天正雨水」(当年の雨水)までの経過月数(入紀積月)をいいます。「入紀年数」に章年平均月数(「章法」での1章中の年平均月数=章月235ヶ月/章歳19年≒12.368421ヶ月)を乗じたものです。

[9] 端数余り) 暦法は分数で計算しますので「推積月術:置入紀年數算外,以章月乘之,如章歲為積月,不盡為閏餘。閏餘十二以上,其年閏。」の「閏餘」は分数の分子であり、その分母は割った「章歳」の数19です。すなわち「閏餘十二以上」というのは、「入紀年數に章月を乗じて章歳で割って出た積月の端数(小数部)が12/19以上」と言う意味になります。

[10] 閏餘(じゅんよ) 「閏餘」をググると、「1年間の実際の日時が、暦の上の1年より余分にあること。」とあります。「閏餘」の意味を知らない人には分からない説明であり、これでは説明したことにはならないと思います。
 『宋書』「元嘉暦法」には「閏餘」が「推積月術:置入紀年數算外,以章月乘之,如章為積月,不盡為閏餘。閏餘十二以上,其年閏。と定義されています。これは次のことを言っています。
 「入紀年数」(入紀積年)に「章月(235ヶ月)」を乗じて「章歳(19)」で割って(すなわち、「章法」暦(太陰太陽暦)での1年の平均月数を乗じて)「積月(入紀積月)」を求め(紀首から当年まで、平均月数で何ヶ月あったかを求め)、割った「章歳」(=分母19に満たなかった余り(=分子)が「閏餘」だ、と言っています。
 わかるように説明すると、「入紀年数」(入紀積年)が何ヶ月(朔望月で)あったか計算して、1章における年平均月数(朔望月数)で割ることにより、陰暦なら何年に相当するかを計算して、その余り(つまり当年に割り当てられる朔望月数)が12以上なら、(平年の月数は12だから)当年は閏年(13ヶ月)である、ということです。つまり、「閏餘」とは「ある時点からの経過朔望月数を太陰暦1年の平均朔望月数で割った余りを分数で表したときの分子の数」で、分母は平均朔望月数を算出する際に割る数として用いた数です。
よって「閏餘」とは次のような説明になります。
………………………………………………………………………………………………………………………………
 上元(元嘉暦は「紀首」)から当年までの経過朔望月数(「積月」、元嘉暦は「(入紀)積月」)を陰暦1章中の1年の平均朔望月数(帯分数で表される)で割った余り(帯分数の分子)。「閏餘」は経過朔望月数のうちの当年の暦に属する朔望月数を表す。
………………………………………………………………………………………………………………………………
 「1年間の実際の日時が、暦の上の1年より余分にあること。」と元嘉暦法の「閏餘」は全然意味が違うと思うのは私だけでしょうか?
 そもそも、「1年間の実際の日時」というのはその年の回帰年(太陽年)であり、暦の上の1年」(グレゴリオ暦の365.2425日)より長い場合(秒単位か分単位か)を「閏餘」という意味が、グレゴリオ暦においてどこにあるというのでしょうか?私にはわかりませんでした。

[11] 閏年 太陰太陽暦で1年が13ヶ月(朔望月)ある年(閏月のある年)のこと。

[12] 歳中 平年の月数(12ヶ月)のことです。

[13] 章閏 1章(章歳19年間)中の閏の数(閏月の数=閏年の数)のこと(「章法」は7閏)です。

[14] 暦書 暦(こよみ)を造る計算などの方法を記したものです。暦(こよみ)自体は「暦本」といいます。

 

2021年11月28日 (日)

わが国のカレンダーに残る太陰太陽暦―日曜日の位置―

わが国のカレンダーに残る太陰太陽暦
日曜日の位置[][]

 わが国で現在用いられているカレンダー※1は太陽暦で、グレゴリオ暦※2という名称で分かる通り、キリスト教に由来します。
※1 日本では1872年(ほぼ明治5年に当たる)に採用され、明治5年12月2日(旧暦)の翌日を、明治6年1月1日(新暦)(グレゴリオ暦の1873年1月1日)とした。
※2 ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日金曜日から行用されている暦法
※1,2ともWikipedia「グレゴリオ暦」より抜粋)

 西欧のカレンダーでは、日曜日は次のお話をもとにして7番目の曜日となっています。
※3 旧約聖書の『創世記』で啓典の神が天地創造の7日目に休息を取ったことに由来し、何も行ってはならないと定められた日とされている。Wikipedia「安息日」より抜粋)

【西欧のカレンダーの曜日の順序】
Monday(月)  Tuesday(火)  Wednesday(水)  Thursday(木)  Friday(金)  Saturday(土)  Sunday()
 他の曜日は別として、Monday()は月(Moon)Sunday()は太陽(Sun)なので、和訳が間違っているわけではありません。

 ところが、わが国のカレンダーでの曜日の順序は次の通り、日曜日から表示されています。
【わが国のカレンダーの曜日の順序】
日曜日 月曜日 火曜日 水曜日 木曜日 金曜日 土曜日 
Windows10

 これは「日・月」の運行から「太陰太陽暦」を創った古代中国の造暦法の影響が残っているのです(当たり前ですが、地球への影響を反映していて、旧約聖書の『創世記』より“科学的”です()。)。

《参考》
【中国暦法での惑星の記述順序】

“古六暦”(黄帝暦・顓頊暦・夏暦・殷暦・周暦・魯暦)は五星の運行を取り入れていません。

『漢書』卷二十一下 「律曆志」第一下 五歩 では、五星は次の順序で記されています。
木、金、土、火、水

『後漢書』志第三 律曆下 曆法 では、五星は次の順序で記されています。
木、火、土、金、水

『晋書』巻十八 志第八 律暦下 推五星術 では、五星は次の順序で記されています。
木(歳星),火(熒惑星),土(填星/鎮星),金(太白星),水(辰星)

 木、火、土、金、水の順になるのは陰陽五行思想の「五行相生」※4の影響ようです。また、外惑星(木・火・土)を先に、内惑星(金・水)を後にしている、とも見えます。

※4「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ず」という関係を『五行相生』という。〔中略〕水は火に勝(剋)ち、火は金に勝ち、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝つ」という関係を『五行相剋』という。Wikipedia「陰陽五行思想」より抜粋)

 惑星の読み方は、次の通りです。

歳星(サイセイ)、太白(タイハク)、鎮星(チンセイ)、熒惑(ケイコク※5)、辰星(シンセイ)

※5 「惑」を「コク」と読むのは「漢音」(隋・唐などの北方民族の音)です。

 

 

 

2021年11月14日 (日)

わが国の暦法の沿革―ざっと拾ってみました―

わが国の暦法の沿革
ざっと拾ってみました[]

朱字で()内に年代が記してあるのは他の暦と併用されたものです(正式には採用されていません)。

元嘉暦 ?696((倭年号)大化二年)

〇“儀鳳暦”(麟徳甲子元暦(平朔法) (690年(朱雀五年) 併用~)697(大化三年)763(天平宝字七年八月)

開元大衍暦 764年(天平宝字八年)862年(貞観四年)

宝応五紀暦 (858年(天安二年) 併用~861年(貞観三年))

長慶宣明暦 862年(貞観四年)1685年(貞享二年)

貞享暦 1685年(貞享二年11日、西暦24日)~1755年(宝暦五年) 日本人 渋川春海の編纂(命名「大和暦」)。以後「和暦」です。

寶曆甲戌元暦(ほうりゃくこうじゅつげんれき) 1755年(宝暦五年)1798年216(寛政九年1230)
 この甲戌元暦は、1763年(宝暦十三年)九月朔(グレゴリオ暦1763107日)の日蝕予報に失敗したため、1764年(明和元年)に幕府は補暦を命じ、1771年(明和八年)から幕府天文方が補正した修正寶曆暦が用いられました。なお、年号は「寶曆(ほうれき、1751年~1764)」((ほうりゃく)とも)ですが、暦は「寶曆暦(ほうりゃくれき)」の方が呼び易いようです。※寶曆暦は貞享暦より出来が悪いという評価でした。

寛政暦 1798年216(寛政十年11)1844年217(天保十四年1229) 高橋至時(よしとき)らの編纂。

天保(壬寅元)(てんぽう(じんいんげん)れき) 1844年218(天保十五年11)1872年(明治五年)12月2日(=新暦の(明治五年)1231日)

明治5119日・西暦1872129日、明治政府が太政官布告337号(改暦ノ布告)を公布した。

この布告によって、明治5年12月2日西暦1872年12月31日をもって太陰太陽暦(天保暦)を廃止し、その翌日からグレゴリオ暦に移行、1873年(明治6年)11日となることとしたため、明治5年は12月3日から12月30日までの28日間が存在しない

明治5年は12月3日~12月30日までの28日間が存在しない」のは「西暦1872年12月31日をもって太陰太陽暦(天保暦)を廃止」したからである。「西暦18721231日をもって」とあり、「1231」は存在している。

中国「北斉」(551年~577年)に同名「天保暦」が存在するため、「(壬寅元)」をつけて呼ぶことがある。

グレゴリオ暦 187311(明治611) 

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

【参考文献】

“儀鳳暦”(麟徳甲子元暦(平朔法)(『日本書紀』)
《持統四年(六九〇)十一月》甲申〔11日〕、奉勅始行元嘉暦與儀鳳暦
 なお、『日本書紀』の持統四年(六九〇)十一月以降が“儀鳳暦”であるとは断言できません。『日本書紀』は、持統紀も含めて「元嘉暦」で記されていると解釈する方が自然です。

開元大衍暦『続日本紀』
《天平七年(七三五)四月》〇辛亥〔26日〕。入唐留学生従八位下下道朝臣真備、献唐礼一百卅巻。太衍暦経一巻、太衍暦立成十二巻。測影鉄尺一枚。銅律管一部。鉄如方響写律管声十二条。楽書要録十巻。絃纒漆角弓一張。馬上飲水漆角弓一張。露面漆四節角弓一張。射甲箭廿隻。平射箭十隻。

※一般的に、「暦本」(こよみ、カレンダー)の作り方を解説した「暦書」は、①「暦儀」(その暦法の「沿革」)、②「暦経(れききょう)」(置閏法などの「計算方法」)③「立成(りっせい)」(計算時に使用する「数表」)3種の書物で構成されています。

《天平宝字元年(七五七)十一月乙亥朔》 十一月癸未〔9日〕。勅曰。如聞。頃年、諸国博士・医師。多非其才。託請得選。非唯損政。亦無益民。自今已後。不得更然。其須講、経生者、三経。伝生者、三史。医生者、大素。甲乙。脈経。本草。針生者。素問。針経。明堂。脈決。天文生者。天官書。漢晋天文志。三色薄讃。韓楊要集。陰陽生者周易。新撰陰陽書。黄帝金匱。五行大義。暦算生者、漢晋律暦志。大衍暦議。九章。六章。周髀。定天論。並応任用。被任之後。所給公廨一年之分。必応令送本受業師。如此、則有尊師之道終行。教資之業永継。国家良政、莫要於茲。宜告所司早令施行。
※「九章」とあるのは『九章算術』、「周髀」とあるのは『周髀算経』。大学寮算科の教科書 (算経) は、養老学令算経条に『孫子』、『五曹』、『九章』、『海島』、『六章』、『綴術』、『三開重差』、『周髀』および『九司』と規定されてます。

《天平宝字七年(七六三)八月》〇戊子〔18日〕。山陽。南海等道諸国旱。停両道節度使。」儀鳳暦、始用大衍暦」丹後国飢。賑給之。

 

【改暦ノ布告】
明治五年太政官布告第三百三十七号

明治五年太政官布告第三百三十七号改暦ノ布告

今般改暦ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰出候条此旨相達候事
(別紙)

詔書写

朕惟フニ我邦通行ノ暦タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス置閏ノ前後時ニ季候ノ早晩アリ終ニ推歩ノ差ヲ生スルニ至ル殊ニ中下段ニ掲ル所ノ如キハ率子妄誕無稽ニ属シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス盖シ太陽暦ハ太陽ノ躔度ニ従テ月ヲ立ツ日子多少ノ異アリト雖モ季候早晩ノ変ナク四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス之ヲ太陰暦ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固リ論ヲ俟タサルナリ依テ自今旧暦ヲ廃シ太陽暦ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン百官有司其レ斯旨ヲ体セヨ
   明治五年壬申十一月九日

      〇
一 今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事 但新暦鏤板出来次第頒布候事
一 一ケ年三百六十五日十二ケ月ニ分チ四年毎ニ一日ノ閏ヲ置候事
一 時刻ノ儀是迄昼夜長短ニ随ヒ十二時ニ相分チ候処今後改テ時辰儀時刻昼夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ午前幾時ト称シ午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト称候事
一 時鐘ノ儀来ル一月一日ヨリ右時刻ニ可改事 但是迄時辰儀時刻ヲ何字ト唱来候処以後何時ト可称事
一 諸祭典等旧暦月日ヲ新暦月日ニ相当シ施行可致事
太陽暦 一年三百六十五日 閏年三百六十六日四年毎ニ置之〔後略〕

2021年9月 2日 (木)

「那須直韋提の碑文」の「永昌元年」について―シンプルな解釈―

「那須直韋提の碑文」の「永昌元年」について
シンプルな解釈[][古田史学]

【間違いのお知らせ】
 服部静尚さまから、次のご指摘があり、確認したところその通りであり、この記事の主張は間違っていることを認め、古田先生の解釈が妥当と考えま
すので、全面的に撤回させていただきます。
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

『日本書紀』の用法で「賜う」ものは、爵位・姓・モノですが、評督は官職名であって、これに該当しません。
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
なお、この記事は「前車の轍」としてそのままにしておきます。 【間違いのお知らせ 終わり】  

 

 従来説で「那須国造碑」とされているものは、本来「那須直韋提評督碑」と呼ぶべきものだと思います。そう主張する理由は、この碑文は「評督」を賜ったと誇るものだからです。

 「那須国造追大壱那須直韋提」が「評督」を賜ったと読む従来の解釈に対して、古田武彦氏はその逆に「評督」であった「韋提」が「那須国造追大壹那須直」を「賜った」として解釈しています。

 古田説に対する批判は、James Mac氏のブログ 古田史学とMe の次の記事に尽くされています。古田説に対する批判については、James Mac 氏の意見に私は完全に同意します。

「那須直韋提の碑文」について(一)

 上記の記事でJames Mac氏が引用されている碑文は、次の通りです(氏が「/」で表された改行を実際に改行してあります)。この記事末にWikipediaが掲げている銘文と釈文を転載しておきます(下線強調・彩色は山田によります)。

…………………………………………………………………………………………………………………………

永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追

大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月二

壬子辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓仰

惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貳照

一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以曾

子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之子

不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香助

坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固

…………………………………………………………………………………………………………………………

 前提として、碑文には改竄が無く当初からこの文面であった、とします。 

 まず、この碑文にある暦日は「元嘉暦」によるものである、とします。

 碑文の冒頭にある「永昌元年己丑四月」は、「(唐の年号)永昌元年己丑(689)4月(癸未朔)」となります(「癸未朔」は「元嘉暦」によっています。以下同様)。「庚子年正月二壬子」は、「庚子(700)年正月(辛亥朔)()壬子」となります。(確かめたい方は、Excel版「元嘉暦」の配布―倭国の暦―からダウンロードできますのでご確認ください。)

 

 さて、私が従来説(「那須国造追大壱那須直韋提」が「評督」を賜ったと読む)を支持する理由は、次のような簡単な理屈からです。

(1)「評督」を賜った「(唐の年号)永昌元年己丑(689)4月(癸未朔)」の時点は、「郡評論争」の決着(700年以前は「評」、701年から「郡」)で明らかになった通り、「郡制」ではなく「評制」の時代です。すなわち、「評督」という官職があった時代です。

(2)この碑を立てた「庚子(700)年正月(辛亥朔)()壬子」の時点も、(1)と同様、まだ「評制」の時代であり、「評督」という官職を誇れる時代です。

(3)上記((1)(2))と異なり、「国造」という呼称は「評制」の施行(7世紀半ば頃か)以前から存在しました。

 よって、この碑文が誇っているのは、「国造」であった者が「評督」という官職・称号を賜った、ということになります。

………………………………………………………………………………………………………………………

Wikipedia「那須国造碑」より転載

永昌元年■(己)丑四月飛鳥浄御■■■■■(原宮那須国)造

追大壹■(那)■(須)■(直)韋提評■(督)被賜■(歳)次■(庚)子年■(正)月

二壬子日辰■■(節殄)故意斯麻■■(呂等)立■(碑)銘偲云尓

仰惟■(殞)公廣■■■■(氏尊胤国)家棟■(梁)一世之中重被■(貳)

■(照)一命之期連見再甦■(砕)骨挑髄■(豈)報前恩是以

曾子之家无有■(嬌)子仲■(尼)之門无有罵者行孝之

子不改其語銘夏尭心澄神■■(照乾)六月童子意香

助■(坤)作■(徒)之大合言■(喩)字故無翼長飛无根更固

永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原大宮に、那須国造で追大壹の那須直韋提は、評督を賜はれり。

歳は庚子に次る年の正月二壬子の日辰節に殄れり。故に意斯麻呂ら、碑銘を立て、偲びて尓か云ふ。

仰ぎ惟るに殞公は、廣氏の尊胤にして、国家の棟梁なり。一世之中に重ねて貳照せられ

一命之期に連ねて再甦せらる。砕骨挑髄するも、豈に前恩に報いん。是を以て

曾子の家に嬌子有ること无く、仲尼の門に罵者有ること无し。行孝の子は

其の語を改めず、銘夏尭心、澄神照乾。六月童子、意香

助坤。作徒之大、合言喩字。故に、翼無くして長飛し、根无くして更に固まんと。

永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原朝に、那須国造で追大壹の那須直韋提は、那須評督に任じられた。

歳は庚子に次る年の正月二壬子の日辰節に亡くなった。そこで意斯麻呂ら、碑銘を立て、故人を偲んで以下のように云ふ。

仰ぎ惟るに故人は、那須國造一族の嫡承継主で、朝廷の片腕でもあった。一世之中に重ねて貳照せられ

一命之期に連ねて再甦せらる。斯様な一族の中興の英主の恩に、どうやっても報いたい。

そこで儒教の教えに従って、父親への孝心をあらわすべく、

また仏神の御教えも受けて、ここに一文を草す。故人の遺志が長く広く、地に根付かんことを。

2021年7月 1日 (木)

Excel版「元嘉暦」の配布―倭国の暦―

Excel版「元嘉暦」の配布
倭国の暦[][古田史学]

 倭国(九州王朝)の暦である「元嘉暦」の「長暦」(長期に渡り遡って暦日を復元・集成した暦のこと)をシミュレーションする表計算ソフト『Excel版「元嘉暦」』をお分け致します。この『Excel版「元嘉暦」』は「元嘉暦」の全ての機能を実現したものではありません。実現しているのは、平朔法(平均朔望月)による①暦日(暦法による年月日)とその干支、②二十四節気の暦日、③朔・上弦・望・下弦の暦日と日干支、④二十四節気入り暦(カレンダー)(以上が「平朔法」)、定朔法(月行遅疾を考慮、「元嘉暦」は平朔法ですが、蝕の予測は定朔法)による⑤日蝕・月蝕の予測計算(五星(水星・金星・火星・木星・土星)の合については実現していません。)「元嘉暦」に無いが付け加えたものとしては、⑥ユリウス日(JD)とユリウス日番号(JDN)、⑦推算月齢があります。表計算ソフトですので、定数や算式の破壊を防止するため、ワークシートに保護を設定してありますが、各セルの算式は参照することが可能です。算式から暦法が何を行っているかを理解することができるでしょう。これを機会に「太陰太陽暦」に興味を持っていただけたら幸いです。

「元嘉暦」の暦法の詳しい解説はこちらから→『日本書紀』皇極天皇二年五月十六日の日食記事と元嘉暦

皇極天皇二年(643年)五月乙丑(16日)の月蝕計算の一部分の画像
64316j

Excel版「元嘉暦」』のダウンロードはこちらからダウンロード - 20210701.xlsx

 ダウンロードした場合は、下記【使用許諾条件】に同意したものとします。ダウンロード後に下記【使用許諾条件】に同意できなくなった場合は、ダウンロードした『Excel版「元嘉暦」』を削除してください。
…………………………………………………………………………………………………………………………

使用許諾条件
1.この計算表は、ダウンロードした状態のまま、複製や改変を行わないで、使用するものとします。
2.複製して頒布または第三者に配付することは認めません。ただし、ダウンロード元を紹介することは妨げません。
3.いかなる理由であれ、利益を得る目的でこの計算表を用いることは認めません。
4.著作権者は、計算結果の正しさをある程度は検査しましたが、計算結果の正しさを保証するものではありません。
5.使用者は、自己責任においてこの計算表を使用するものとします。使用することにより生じたいかなる事態にも、著作権者は責任を一切負いません。
6.著作権者は、この計算表の使用に必要な一切のサポートは行いません。
7.この計算表に含まれる一切の不具合について、著作権者はその不具合を解決する義務を負いません。
8.著作権者は、この計算表を改良した場合、以前の版をダウンロードした者に通知する義務を負いません。
…………………………………………………………………………………………………………………………
なお、再現可能な不具合のご報告をいただいた場合は、上記の第7項に関わらず、ご協力に感謝するとともに不具合の解決のために努力を致す所存です(義務としてではなく)。

より以前の記事一覧

2024年7月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

古田史学先輩の追っかけ

無料ブログはココログ