古代史

2023年8月29日 (火)

大兄ではなかった中大兄皇子―ただの「中皇子」だった―

大兄ではなかった中大兄皇子
ただの「中皇子」だった[古代史]

 

Wikipediaの説明(以下Wikipediaの説明文の下線は山田によるものです。)

 「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。Wikipedia「天智天皇」より) 

大兄(おおえ、おいね)[1]は、6世紀前期から7世紀中期までの倭国(日本)において、一部の王族が持った呼称・称号である。大兄の称号を持つ皇子は、有力な大王位継承資格者と考えられている。

概要

「大兄」は大王家のみならず、一般豪族にもみられる呼称である。「大兄」の意味について直接説明した同時代的史料はない。ただし、6・7世紀の大王家に集中して「大兄」の呼称がみられるため、現代の歴史学者は「大兄」の名を持つ皇子を比較して帰納的にその意味を探っている。細かな点で異なる諸説があるが、多数の皇子の中で王位を継承する可能性が高い者が持つ称号とみなされている。

当時、治天下大王の地位継承は、大王の一世王にあたる皇子(王子)に優先権が認められており、その中で長兄→次兄→・・・→末弟というように兄弟間で行われ(兄弟継承)、末弟が没した後は、長兄の長男に皇位承継されることが慣例となっていた。当時は一夫多妻であり、大王家に複数の同母兄弟グループが存在していたが、この同母兄弟間の長男が「大兄」という称号を保有していた。従って、大兄が同時期に複数存在したこともあり、「大兄」を称する皇子同士でしばしば皇位継承の紛争が起こった[2]。

しかし、「大兄」は同時期に一人に限られていたとする説もある。これによると、「大兄」は皇太子の先駆ともいえる制度的称号であり、「大兄」の称号を保有する皇子が皇位に即くか、即位以前に死亡するかで「大兄」の地位が移動したという[要出典]。

大兄略史

『日本書紀』の中に「大兄」を付けて呼ばれる皇子は8人いる。5世紀前半に大兄去来穂別皇子(おおえのいざほわけのみこ、履中天皇)が「大兄」として初めて現れているが、制度としては未確立であったと思われる。「大兄」としての実在性が確かな最初の人物は、6世紀前期にいた継体天皇の長子の勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ、安閑天皇)である。安閑天皇には男子がおらず、次兄の宣化天皇が後継したが同様に男子がいなかったため、末弟の欽明天皇が代を継いだと日本書紀は伝えるが、欽明天皇が安閑・宣化を滅ぼしたとする説、さらには欽明朝と安閑・宣化朝が並立していたとする説もある。

その後の「大兄」には欽明天皇の子である箭田珠勝大兄皇子(やたたまかつのおおえのみこ)、欽明天皇を後継した敏達天皇の子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)、敏達天皇の異母兄弟である大兄皇子(おおえのみこ、用明天皇)[3]、用明天皇の子厩戸皇子(推古天皇の「皇太子」・「摂政」)の長子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)、舒明天皇の長子である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)がいるが、これらの大兄のうち大王位に即いた例の方が少ない。さらに推古天皇の死後には、「大兄」の嫡男(田村皇子・後の舒明天皇)と「皇太子」・「摂政」の嫡男である「大兄」(山背大兄王)のどちらが皇位継承に相応しいかで紛争を起こしたケースも存在する。このことは、当時の皇位継承の決定方法が明確に規定されていなかったこと、たとえ「大兄」の称号を保有していても治天下大王を継承できる訳ではなかったことを表している(用明天皇の嫡男であり、推古天皇の最有力後継候補であった厩戸皇子が「大兄」を称していないことにも注意を払うべきであろう)。

大王家において、最後の「大兄」と見られるのが中大兄皇子(なかのおおえのみこ、天智天皇)である[4]。天智天皇の後を継いだ大友皇子(弘文天皇)はもはや「大兄」と呼ばれることはなく、その後も「大兄」の称号は絶えている。すなわち、皇位継承者の決定方法がこの頃に明確に定められたのではないかと考えられる。その皇位継承法とはおそらく、兄弟間の継承を廃し、治天下大王が没したと同時にその長子へ継承する方式だったと推測される。このため、天智天皇の長子である大友皇子が即位することになり、皇位承継の道を閉ざされた大海人皇子(天武天皇)が叛乱(壬申の乱)を起こした一因となったのであろう。Wikipedia「大兄」より)

 

Wikipediaの説明は本当だろうか?

 「大兄」は、「『太子』継承資格」ではなく「『大王位』継承資格」ならば、天皇家なら「皇太子」、そうでなければ「太子」を意味する。以下、この仮説を検討する。 

①大兄去来穂別皇子(履中天皇)、②勾大兄皇子(安閑天皇)、③箭田珠勝大兄皇子(欽明天皇の第一皇子、欽明天皇134月(552年)に「箭田珠勝皇子薨(みう)せぬ」とある。『古事記』では八田王。)、④押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の第一皇子。押坂彦人皇子、麻呂古皇子、太子彦人皇子、忍坂日子人太子、皇祖大兄とも。30 敏達天皇→31 用明天皇→32 崇峻天皇→33 推古天皇と兄弟継承が続いたために継承の機会が失われた。今の皇室は、押坂彦人大兄皇子の男系子孫。)、⑤大兄皇子(用明天皇)、⑥山背大兄王(厩戸皇子の長子)、⑦古人大兄皇子(舒明天皇の第一皇子。古人皇子・古人大市皇子・吉野太子とも。乙巳の変の後、中大兄皇子に攻め殺された。娘は倭姫王(天智天皇の皇后)。)、⑧中大兄皇子(天智天皇) 

さて、この8人を即位事情あるいは即位してない事情を検討してみよう。

⑥山背大兄王は天皇の皇子ではないので除外すると、天皇家の大兄で天皇に即位していないのは、③箭田珠勝大兄皇子、④押坂彦人大兄皇子、⑦古人大兄皇子 の3人である。

③箭田珠勝大兄皇子は即位の機会が訪れる以前に無くなっている。

④押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の第一皇子)は、30 敏達天皇→31 用明天皇→32 崇峻天皇→33 推古天皇と兄弟継承が続いて、即位の機会が無かった。

⑦古人大兄皇子は、⑧中大兄皇子が起こした「乙巳の変」で皇極天皇退位を受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り(と話はなっているが、実際には力ずくで皇位継承を断念させられたということだろう)、吉野に出家したが中大兄皇子に攻め殺された(後顧の憂いを断つためだろう)。

 

天皇家の大兄は皇太子

さあ、これでどうでしょうか?8人の大兄は、

(第1群)天皇に即位している大兄

①大兄去来穂別皇子(履中天皇)、②勾大兄皇子(安閑天皇)、⑤大兄皇子(用明天皇)の3人。

(第2群)即位機会を迎ず死亡している大兄

③箭田珠勝大兄皇子(欽明天皇の第一皇子)と④押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の第一皇子)の2人。

(第3群)天皇家ではない大兄(天皇に即位する資格のない大兄)

⑥山背大兄王(厩戸皇子の長子)1人。

(第4群)殺された大兄と殺した大兄(この2人は「乙巳の変」の当事者)

資格を奪われて殺された⑦古人大兄皇子と資格を奪って殺した⑧中大兄皇子の2人です。

 

結論

 「大兄」の称号は、天皇家ならば「皇太子」の意味である。天皇家でなければ「太子」の意味である。

 天皇家なら「『中』大兄」というのは「中皇太子」となり、そんな「皇位継承資格」は存在しない。また、実際に「中大兄皇子」以外に「中大兄」はいない(称号「大兄」を持つのは8人だけとされている)。つまり「中大兄皇子」は単に「中皇子」だったのを「乙巳の変」後に「大兄」を付加して「中『大兄』皇子」を名乗ったものと推測される。「中大兄皇子」と名乗った理由は、大兄(皇太子)でないものが大兄を武力で退けて皇太子になった(後で天皇になる)ことを繕うためである。

2022年4月25日 (月)

Excel「元嘉暦」2022【改訂版】の配布―『宋書』『日本書紀』対応版―

Excel「元嘉暦」2022【改訂版】の配布
『宋書』『日本書紀』対応版[暦]

 以前(202171())、当ブログ記事Excel版「元嘉暦」の配布―倭国の暦―で、Microsoft EXCELで作成した長暦(暦のシミュレーション)を無償配布しましたが、古賀達也の洛中洛外日記 第2711話 2022/04/03 柿本人麻呂系図の紹介 (8) ―石見国益田家の「柿本朝臣系図」― の暦日を確認していたところ、『日本書紀』の閏月との不一致が発見されました。

『日本書紀』と合わなかった原因その1

 その原因を調べたら次のことが判明しました。

(1)Excel「元嘉暦」2021(初回配布版)は、「二十四気[1]」の「中気[2]」のある月が「閏月[3]」となっている場合がある。

(2)Excel「元嘉暦」2021(初回配布版)は、『宋書』(卷十三 志第三 律曆下 「元嘉曆法」)にある「閏有進退,以無中氣御之。」(閏は変動あり、中気の無い月を閏月とする。)」に基づいていない。

 次が、『宋書』の「元嘉暦法」に記されている閏年・閏月の決め方です(下線は山田による)
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〖原文〗
推積月術:置入紀年數算外,以章月乘之,如章為積月,不盡為閏餘。閏餘十二以上,其年閏。
〖私の意訳〗「積月[4]」の推算方法:「入紀年数[5]」に「章月[6](235ヶ月)」を乗じ、「章歳[7](19ヶ年)」で割って「積月[8]」とする。端数(余り)[9]を「閏餘[10]」とする。「閏餘」が十二以上ならその年が「閏年[11]」である。 

推閏月法:以閏餘減章,餘以中乘之,滿章閏得一,數從正月起,閏所在也。閏有進退,以無中氣御之。
〖私の意訳〗「閏月」の推算方法:「章歳[7]」から「閏餘[10]」を減じ、余りに「歳中[12](12ヶ月)」を乗じ、「章閏[13](7ヶ月)」を満たして1を得る〔いくつ得られるか〕。正月より起算した数〔に当たる月〕が「閏月[3]」である。〔閏年と閏月〕は進退(変動)があり、「中気[2]」が無い月を「閏月[3]」とする。
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 初回配布版は、紀元前433年にギリシャの数学者メトンが発見した「メトン周期」(19 太陽年がは365.242194 ✕ 19 = 6939.601686 日で、これが235 朔望月(29.530589 ✕ 235 = 6939.688415 日)とほぼ等しいという19年の周期)に依った「章法」という太陰太陽暦の造暦メソッド(太陽年19年間に7閏月を置く手法)に基づいて、19年分のカレンダーがあれば繰り返し使えると間違った(閏年に関してだけなら正しい)解釈をしていました。その解釈に基づいて、章年次(元嘉暦では雨水が元旦になる年が章首)によって定まる(変動しない)「閏月表」を参照して閏月を決めていました。それが『日本書紀』の閏月と一致しない一つの原因でした。

 そこで、『宋書』の元嘉暦法の「推閏月法」の計算によって「閏月」を決めてみましたが、それでも『日本書紀』の閏月とは一致しませんでした。
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581年 敏達天皇十年 春潤二月(閏二月)。(「推閏月法」の計算:閏一月。)
673年 天武天皇二年 閏六月 乙酉朔 庚寅(閏六月)。(「推閏月法」の計算:閏五月。)
684年 天武天皇十三年 閏四月 壬午朔 丙戌(閏四月)。(「推閏月法」の計算:閏三月。)
695年 持統天皇九年 閏二月 己卯朔 丙戌(閏二月)。閏一月。(「推閏月法」の計算:閏一月。)
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『日本書紀』と合わなかった原因その2

 もしかすると『日本書紀』の元嘉暦は『宋書』(卷十三 志第三 律曆下 「元嘉曆法」)とは異なっているのではないか、という疑いが起きました。そこで『宋書』の本紀(卷五 本紀第五 文帝 ~卷十 本紀第十 順帝)に登場する閏月を悉皆調査して、その閏月と照合してみました。ところが、『日本書紀』だけではなく『宋書』とも一致しませんでした。

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448年 宋・元嘉二十五年 閏月 己酉 二月庚寅と三月庚辰に挟まれている(閏二月)(「推閏月法」の計算:閏一月。)
461年 宋・大明 五年 閏月 戊子 九月甲寅朔,日有食之。丁卯,甲戌と冬十月甲寅に挟まれて、月中に丙申,壬寅あり(閏九月)(「推閏月法」の計算:閏八月。)
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 こうなると、『日本書紀』は『宋書』の元嘉暦法に従っているが、Excel「元嘉暦」2022β版(「推閏月法」計算に従ったもの)の方に誤りがある、と考えられました。『宋書』「元嘉暦法」を何度か読み直していると次の一文が気に懸かりだしました。
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推閏月法:〔中略〕閏有進退,以無中氣御之。
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 先に掲げた〖私の意訳〗では「〔閏年と閏月〕は進退(変動)があり、「中気」が無い月を閏月とする。」としていますが、これは最終的に達した理解であって、当初は「推閏月法の計算によって決まる閏月は中気が無い月になるんだな。」という程度に思っていたのです。やがて「」という漢字があることに遅まきならがら気づきました。「」という漢字は「コントロールする」という意味です。すなわち「閏は〔月だけではなく年も〕進退のある〔変動する〕ものなので、中気が無いように〔コントロール〕しなさい。」という意味が「閏有進退,以無中氣御之。」という一文なのでした。つまり、「(計算通りに閏月を決めると中気が入っている場合があるので)閏月はそれを進退させて中気の無い月に決めなさい。」という意味だったのです(閏年も章歳の中で一定せず動いていますので中気を含まない月(閏月)がある年が閏年です)。

 実際に、先に掲げた年(448年・461年・581年・673年・684年・695年)は推閏月法の計算式だけでは『宋書』や『日本書紀』の閏月と一致しません(詳しくはダウンロードしたExcel「元嘉暦」2022【改訂版】のシート「資料1」をご覧ください)。

 資料1のように一月ずれてしまうのは、ひと月を大の月(30日)と小の月(29日)にすることで月の満ち欠けの周期(約29.5日)に合わせているため、中気が一個だけ月末(30日)あたりにある場合、月の大(30日)(29日)によって、中気が当月(大月の場合)になったり翌月(小月の場合)になったり前後するためです。そのことを「元嘉暦法」は「閏有進退」と言っているのです。前段の計算法だけでは「閏有進退」に対応できていないのです。ということは、「章法」暦といえども、(こよみ)が19年分あっても繰り返し使えるのではない、ということなのです。言い換えれば、「推閏月法の計算だけでは閏月を決定できず、「二十四節気」を決めてからその月に中気があるかないかを確かめて、計算で求めた閏月に中気が有る場合には、中気が無い月が前月なのか翌月なのか調べてから閏月を決定しなければならないのです。つまり、暦本(その年の暦(カレンダー))を造る作業をしなければ閏月は決められない(「暦書[14]」だけでは閏月は決まらない)のです(古代にはコンピュータが無いからです)。


Excel
「元嘉暦」2022【改訂版】の検証

 今回のバグフィックス版( Excel「元嘉暦」2022【改訂版】)を配布するにあたり、『宋書』(「本紀」の閏月のみ)『日本書紀』(閏月のみ)と一致することを確認しましたが、それだけでは私が『宋書』『日本書紀』と一致するように作成した可能性もあるわけです(笑)。

 そんな皆様の不安を解消するために、「暦」や「位置天文学(天文学暦部)」のexpertの方々の下記論文にある暦日と照合して検証した結果も以下に掲載しておきます。【改訂版】 の値と論文中の値とを確認する必要がある箇所において、それぞれのスクリーンショットを掲げてあります。なお、全ての分岐条件について網羅的にテストしてはいませんので、「バグ(不具合)が全くない」という保証はないことにご留意ください。

落合敦子, 渡辺瑞穂子 (國學院大學),相馬 充, 上田暁俊,谷川清隆(国立天文台)「元嘉暦による皇極天皇二年の月食の観測可能性」https://www2.nao.ac.jp/~mitsurusoma/gendai3/100-105Ochiai.pdf


元嘉暦の計算法の説明

 上記論文に「本論文では、元嘉暦の計算法をわかりやすく解説する。」とした解説がありましたので、そのまま引用させていただきます(下線強調は山田による)。
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2.元嘉暦による推算

2-1.元嘉暦の特徴

景初暦 日付は平気平朔、食予測は平気定朔 (中国で西暦237年-444年に行用)

元嘉暦 景初暦と同じく日付は平気平朔、食予測は平気定朔だが、観測に基づき二十四気の日付が約3日遅れていたのを正すなどした (中国で西暦445年-509年に行用)

麟徳暦 日本では儀鳳暦と呼ばれる。日付は平気定朔、食予測は定気定朔 (中国で西暦665年-728年に行用)

ここで

平気とは太陽の平均的な動きに基づく二十四節気のこと。

平朔とは月と太陽の平均的な動きに基づく朔のこと。

定気とは太陽の動きの遅速を取り入れた二十四節気のこと。

定朔とは月の動きの遅速を取り入れた朔のこと。

2-2.元嘉暦の採用定数

太陽年=222070日/608 =365.2467105…日 (現在値は365.24219…日)

朔望月=222070日/7520=29.53058510…日 (現在値は29.530589…日)

近点月= 20721日/752 =27.55452127…日 (現在値は27.554550…日)

交点月/朔望月=939×2/(939×2+160)より

交点月=27.21218784…日 (現在値は27.212221…日)

朔望月の長さが精密で、太陽年の長さがやや不正確であるには理由がある。これは朔望月の長さを決めて19年7閏法を守ると一年の長さは不正確になるからである。

29.53058510…日×235=6939.6875日、365.2467105…日×19 =6939.6875日

2-3.平気平朔の計算

ここでは元嘉暦で皇極天皇二年の暦を計算する。

元嘉暦は、元嘉二十年(中国の年号で、これは西暦443年に当たる)の5703年前上元になる。上元は甲子の日で0時の瞬間に雨水で同時に朔になるときである。その年を0年として元嘉二十年が5703年になるということである。
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 太陽や月は、その周期は一定であっても楕円軌道なので一周する間に速くなったり遅くなったりしています(「遅速」とか「遅疾」とかいいます)。「平均的な動き」とは、それを真円軌道上を等速で動いているとみなすことを意味します。
 「近点月」とは、月が近地点(月の公転軌道上、地球に最も近い点)から再び近地点にくるまでの周期(この現在値は平均27.554 5505日=27日13時18分33.16秒)です(元嘉暦の定数は27日 417/752(≒ 27.55452127…日) で現在値とは異なります)。
 「交点月」とは、月が黄道(天球上における太陽の見かけ上の通り道)に対する昇交点を通過してから再び昇交点を通過するまでの周期(現在値は27.212221…日)です(元嘉暦の定数は27日325,194/1,532,576(≒ 27.21218784…日) で現在値とは異なります)。

 上元の日は、ほとんどの太陰太陽暦が「甲子夜半朔旦冬至(かっしやはんさくたんとうじ)」(日干支が甲子で、その日の夜半(午前0時)に朔(新月)(二十四節気の)冬至)となっていますが、元嘉暦は例外で、上元の日の二十四節気が「雨水」、すなわち「甲子夜半朔旦雨水」となっています。「天正月(てんしょうつき)」(冬至のある月のこと)が「子(ね)月」なので、「夏正(寅月正始)」の暦(寅月を正月とする暦)の場合は、「天正月」が前年十一月で、その2ヶ月後が「1月(正月)」です(子月(11月),丑月(12月),寅月(正始月=正月))。つまり「積年」(上元から何年経過しているか)の計算において、上元が「朔旦冬至」なら前年11月までの年数、「朔旦雨水」なら「当年正月」までの年数という違いが出るわけです。

※ 干支番号について 以下、論文は「甲子」=1 ですが、excel「元嘉暦」は「甲子」=0 としていますので、この違いにご留意ください。


平朔法による朔弦望の計算

 皇極天皇二年(西暦643)は上元から数えて5,903年(「積年」)。

皇極天皇二年正月朔日の干支の計算(excel元嘉暦)
Excel

表1 平朔法による皇極天皇二年の朔弦望の計算
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平朔法による皇極天皇二年の朔弦望(excel元嘉暦)
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平気法による二十四気の計算

表2 平気法による皇極天皇二年の二十四気の計算
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皇極天皇二年の各月朔(excel元嘉暦)
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平朔平気による暦

 Excel「元嘉暦」2022【改訂版】は、暦に弦と望を入れ込んでいません(「朔弦望表」は当然ありますが)。正月直前の前年の3か月から翌年の正月まで(各月毎に日干支・二十四気・JDNのみ)を表示します。

表3 平朔平気による皇極天皇二年の暦
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Excel元嘉暦の皇極天皇二年の暦1(正月から4月まで)
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Excel
元嘉暦の皇極天皇二年の暦2(5月から閏7月まで)
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平気定朔による月食予測

 Excel「元嘉暦」は、平気定朔による月食予測も計算しています。
 皇極天皇二年五月の月食の存否を判定する「去交分」の値は 930 です。

月蝕の存否
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皇極天皇二年五月望の去交分は930
930


定朔法による月の近点通過後の日数の計算

 皇極天皇二年五月の月食時の月の近点からの日数は21737.5分となっています。

皇極天皇二年五月望のときの月の近点からの日数
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定朔法による日蝕月蝕の予測計算(正月朔日を例)

真の望の日時の計算
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定朔法による日蝕月蝕の予測計算1
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定朔法による日蝕月蝕の予測計算2
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以上のように、検証して一致することを確認しました。 

このExcel「元嘉暦」2022【改訂版】のダウンロードは下記リンクからどうぞ。アップロードにあたってウイルスチェックは行っておりますが、ダウンロード後にもお手元でウイルスチェックをなされることを推奨いたします。シート「説明と履歴」にある《著作権と使用許諾に関して》は必ずお読みください。もし、使用許可条件に従えないならば、ダウンロードしたファイルを削除してください。

ダウンロードの際、ファイル名は Excel「元嘉暦」2022【改訂版】 に変更して保存願います。

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[1] 二十四気 一年を二十四等分して、12の「節気」と12の「中気」を交互に配して季節を表示する「太陽暦」です

[2] 中気 「二十四気」のなかの、季節の節目の「節気」と次の「節気」の間にある気なので「中気」と呼ばれます。

[3] 閏月 太陰暦は月の盈虧(満ち欠け)の周期(=朔望月:約29.5日)をひと月としているので、季節の周期である1年(太陽年=グレゴリオ暦では365.2425日)とは一致しません(「章法」暦の1(平均)127/19ヶ月≒12.368421朔望月)。そこで太陰太陽暦(太陽暦と太陰暦を統合した暦法)では、13ヶ月を1年とする閏年を19年間に7回設けて一致させる「章法」という手法があります。
太陰太陽暦19年の日数=19年の月数(19年×12ヶ月+7ヶ月)=235月×29.5/月=6,932.5
太陽暦(G暦)19年の日数=1年の日数365.2425日×19年=6,939.6075
その差は、太陽暦の日数6,939.6075日-太陰太陽暦の日数6,932.5日=7.1075ですが、
元嘉暦19年の日数は、ひと月(1朔望悦月)の日数を22,207(通数)÷ 752(日法)29日+399/752日=29.530585…日 としていますので、22,207/752×235月=6,939.6875日であり、また、太陽年19年の日数は、1年の日数を222070(紀日)÷ 608(紀法)365+75/304日 としていますので、(365+75/304日)×19年=111,035/304(日/年)×19年=3639.6875日となり、19年で太陽暦と太陰暦が一致するわけです。しかし、これは朔望月(観測値)から「章法」によって太陽年を逆算したからであり、「章法」では季節が実際の季節と19年間で、3639.6875日-6,939.6075日=0.08日(1.92時間=約1時間55分)暦面が遅れる(実際の季節が先にくる)ことになります。この累積した遅れを元嘉暦の編者 何承天 は冬至の日を3日早めて調整したわけです。それでも「章法」というメソッドを採る限り暦面の遅れは免れませんので、以後の暦は「章法」を採らない暦になっていくわけです(元嘉暦は最後の「章法」暦となりました)。

[4] 積月 「上元」(元嘉暦は「紀首」から)からの経過月数。

[5] 入紀年數 元嘉暦は19太陽年(=章歳)を1章、32章を1紀(608=32章×19/章)、6紀を1元としています。元嘉暦では上元(元嘉二十年(443)5,703年前(=-5,260年)の甲子夜半朔旦雨水の日(=JD200,089))から当年(暦を造る年)までの経過年数(「積年」)を1紀の年数608(「紀法」)で割った商の翌年を「紀首」として、その「紀首」から起算した当年までの経過年数を「入紀年数」としています。すなわち、「積年」を「紀法(608)」で割った余りの年数のことです。

[6] 章月 1章(章歳19年)の月数(朔望月数)です。「章法」は「19太陽年に7閏を置く」のですから、235ヶ月(=19年×12月+7閏月)です。

[7] 章歳 1章の年数(太陽年数)です。「章法」では19年です。

[8] 積月 太陰太陽暦では一般に「積月」と言えば「上元」から「天正中気」までの経過月数をいい、「上元の気」が冬至の場合(「甲子夜半朔旦冬至」の場合)には「天正冬至」(前年11月の冬至)までの経過月数です。しかし、「元嘉暦」では「入紀年数」をもとに計算しますので「入紀年数」(入紀積年)から「天正雨水」(当年の雨水)までの経過月数(入紀積月)をいいます。「入紀年数」に章年平均月数(「章法」での1章中の年平均月数=章月235ヶ月/章歳19年≒12.368421ヶ月)を乗じたものです。

[9] 端数余り) 暦法は分数で計算しますので「推積月術:置入紀年數算外,以章月乘之,如章歲為積月,不盡為閏餘。閏餘十二以上,其年閏。」の「閏餘」は分数の分子であり、その分母は割った「章歳」の数19です。すなわち「閏餘十二以上」というのは、「入紀年數に章月を乗じて章歳で割って出た積月の端数(小数部)が12/19以上」と言う意味になります。

[10] 閏餘(じゅんよ) 「閏餘」をググると、「1年間の実際の日時が、暦の上の1年より余分にあること。」とあります。「閏餘」の意味を知らない人には分からない説明であり、これでは説明したことにはならないと思います。
 『宋書』「元嘉暦法」には「閏餘」が「推積月術:置入紀年數算外,以章月乘之,如章為積月,不盡為閏餘。閏餘十二以上,其年閏。と定義されています。これは次のことを言っています。
 「入紀年数」(入紀積年)に「章月(235ヶ月)」を乗じて「章歳(19)」で割って(すなわち、「章法」暦(太陰太陽暦)での1年の平均月数を乗じて)「積月(入紀積月)」を求め(紀首から当年まで、平均月数で何ヶ月あったかを求め)、割った「章歳」(=分母19に満たなかった余り(=分子)が「閏餘」だ、と言っています。
 わかるように説明すると、「入紀年数」(入紀積年)が何ヶ月(朔望月で)あったか計算して、1章における年平均月数(朔望月数)で割ることにより、陰暦なら何年に相当するかを計算して、その余り(つまり当年に割り当てられる朔望月数)が12以上なら、(平年の月数は12だから)当年は閏年(13ヶ月)である、ということです。つまり、「閏餘」とは「ある時点からの経過朔望月数を太陰暦1年の平均朔望月数で割った余りを分数で表したときの分子の数」で、分母は平均朔望月数を算出する際に割る数として用いた数です。
よって「閏餘」とは次のような説明になります。
………………………………………………………………………………………………………………………………
 上元(元嘉暦は「紀首」)から当年までの経過朔望月数(「積月」、元嘉暦は「(入紀)積月」)を陰暦1章中の1年の平均朔望月数(帯分数で表される)で割った余り(帯分数の分子)。「閏餘」は経過朔望月数のうちの当年の暦に属する朔望月数を表す。
………………………………………………………………………………………………………………………………
 「1年間の実際の日時が、暦の上の1年より余分にあること。」と元嘉暦法の「閏餘」は全然意味が違うと思うのは私だけでしょうか?
 そもそも、「1年間の実際の日時」というのはその年の回帰年(太陽年)であり、暦の上の1年」(グレゴリオ暦の365.2425日)より長い場合(秒単位か分単位か)を「閏餘」という意味が、グレゴリオ暦においてどこにあるというのでしょうか?私にはわかりませんでした。

[11] 閏年 太陰太陽暦で1年が13ヶ月(朔望月)ある年(閏月のある年)のこと。

[12] 歳中 平年の月数(12ヶ月)のことです。

[13] 章閏 1章(章歳19年間)中の閏の数(閏月の数=閏年の数)のこと(「章法」は7閏)です。

[14] 暦書 暦(こよみ)を造る計算などの方法を記したものです。暦(こよみ)自体は「暦本」といいます。

 

2022年3月27日 (日)

平城京の大官大寺(22)―飛鳥・河内地域の土器編年(服部私案)―

平城京の大官大寺22
飛鳥・河内地域の土器編年(服部私案)―[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学][著書や論考等の紹介]

 前回(平城京の大官大寺(21)―飛鳥土器編年の問題点―)は、服部静尚さまから表Ⅰ 飛鳥地域の土器編年と代表的資料(小田2014)の暦年推測の問題点のご指摘と、それを是正する私案を頂いたのですが、添付資料が来(きた)る4月10日(日)午後の多元の会例会でも発表予定のものでしたので、服部さんが大和古代史研究会での発表のYouTube動画よりその提案資料を転載いたしました。

服部静尚氏の私案《再掲》
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 今回は、その説明を行います。服部さんが発表されたYouTube動画の画面を紹介しながらザックリと解説すると次のごとくです。私の理解不足による説明間違いがあるかも知れませんので、是非YouTube動画をご覧ください(前回にリンクを貼ってあります)。

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 『日本書紀』は六世紀末から七世紀初頭の間、難波宮(645653年)を除いて、飛鳥に都があったとする。
豊浦宮で推古天皇即位(593)。「乙巳の変」(645,甘樫丘)の後、難波宮に遷都する。653年、皇太子は皇祖母・皇后と百官を引き連れて倭飛鳥河辺行宮に移る。655年、斉明天皇が飛鳥板葺宮で即位。斉明六年(660)、皇太子漏刻をつくる(水落遺跡)。ある考古学者はこの間は10年単位で年代が分かるとしている(ほんとうだろうか)。

考古学で編年はどのように行われているの

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「土師器」は古墳時代の野焼き土器をいう(同じ野焼きでも弥生式土器よりも肉薄(半分ほど))。
荘内式・布留式の区別も曖昧。「須恵器」は窯により高温で焼く。陶器と磁器の違いのようなもの。

とくに須恵器の「蓋坏」の形状に、遺跡ごとに違い・変化がみられる
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土器の変遷によって年代を推測する飛鳥編年が作られ
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丸底の坏()→②平底の坏()→③高台付きの坏()の順
 

挙げられた基準遺跡の「坏」は、実は指標通りの変遷ではない
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指標通り(H→G→Bの順に変遷)に編年していない

最近までの追加発掘で、基準遺跡の編年が変わっている
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飛鳥編年の問題点
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瓦と須恵器、3つの提起
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服部静尚氏の提案編年
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 今回は服部静尚さんの提案された河内・飛鳥地域の編年を紹介しました。次回は、服部編年に従うと百済大寺の廃絶時期はどのように推測できるかを検討する予定です。

平城京の大官大寺(21)―飛鳥土器編年の問題点―

平城京の大官大寺21
飛鳥土器編年の問題点[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学] 

 前回(平城京の大官大寺(20)―存続した百済大寺―)で、表Ⅰ 飛鳥地域の土器編年と代表的資料(小田2014)(佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(2)―5―より)を用いて検証しましたが、本日(20220327()8:30頃)、服部静尚さまから次の主旨のメール(私信部分を除く)を頂戴しました。
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「平城京の大官大寺(20)―存続した百済大寺―」で、 飛鳥地域の土器編年と代表的資料(小田2014)を引用されて、 これを暦年判断材料とされておられます。しかし、この暦年推測 には多くの問題点があります。 これを是正する私案の抜粋を添付します。 これによると、彼らが挙げている乙巳の変・天智の漏刻の遺跡などと しているものが、『日本書紀』の年次と全く合わないことが判って いただけると思います。 この私案は大阪歴史学会考古部会で発表したもので、 4月10日(日)午後の多元の会例会でも発表予定のものです。
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 「4月10日(日)午後の多元の会例会で発表予定のもの」とのことですので、メールに添付いただいた資料は4月10日以降、許可をいただいてからブログに掲載したいと思います。

 それに代わるものとして、次のYouTube動画に公開された資料を転載させていただきます。
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220222@県立図書情報館@古代大和史研究会@26:57@DSCN0435
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220222@県立図書情報館@古代大和史研究会@26:57@DSCN0436
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220222@県立図書情報館@古代大和史研究会@10:19@DSCN0437

服部静尚氏「五段階の編年の提案」(上記YouTube DSCN0437 より)
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表Ⅰ 飛鳥地域の土器編年と代表的資料(小田2014)《再掲》
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今回は、ご指摘いただいた土器編年の問題点をとりあえずご報告するだけとし、次回以降にこの問題点を説明していく予定です。

2022年3月12日 (土)

平城京の大官大寺(19)―骨折り損のくたびれ儲け―

平城京の大官大寺19
骨折り損のくたびれ儲け[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学]

 前回(平城京の大官大寺(18)―坪並は「平行式」だったのだろうか―(2022年3月10日(木)))は、「八ノ坪」とある坪地が文字通り「八ノ坪」となる「二十八条三里」の坪並を想定してみました。その作業を通じて、「大官大寺」の寺域(多分)がギヲ山などの丘陵地を避けた位置にあるということに気づきました。

 今回は、予定した通り相原嘉之氏の「高市大寺の史的意義」の章「Ⅳ 文献史料上の検討」項目「4 路東二十六条三里は高市郡か」を見ていきます。 

挙証責任の在処
 相原嘉之氏は「大官大寺を含む路東二十八条三里が、高市郡であることは明確」と述べ、また相原氏が高市大寺の所在地と見る「木之本廃寺を含む路東二十六条三里は、高市郡と十市郡の境界ちかく」であるが「近世以降は、確実に十市郡に属していた」と述べています。ならば、相原氏がなすべきことは「(史料2)『類聚三代格』神護景雲元年(767)一二月一日太政官符の出た時点には高市郡に属していたこと」立証することなのです。

 ところが、相原氏は「郡界ちかくに位置することから、古代においても同様であったかは明確ではない。」と、古代においても十市郡であったことを明確にする必要があるとして、挙証責任を転嫁しています。古代から近世になるまでの間に「木之本廃寺を含む路東二十六条三里」が高市郡から十市郡に属することになる郡境界の変更があったことを立証する責任は相原氏にあるのです。変更が無かったことを証明するのは悪魔の証明(1)」であり、不可能です。変更があったことを相原氏が証明しなければならないのです。 

畝尾都多本神社からわかるか
 相原嘉之氏は(史料5)を挙げて、「畝尾都多本神社は『延喜式』神名式上6 条の大和国十市郡の項に記される式内社」であるが「左京六条三坊の調査成果から考えても、少なくとも藤原京時代には現在地に同神社が存在しなかったことが、遺構の展開状況からみて間違いない。」とし、「「香山の畝尾の大本に坐す」は十市郡に属する」が「神社はしばしば場所を移動することがあり」「その場所は現在位置には特定できない。」とします。「十市郡」の現在地に無かったとしても「高市郡」にあったことにはなりません。

 相原氏は(史料5)を掲げて、「大脇潔氏は「飼」を「餘」の誤写と考え、高市郡側に十市郡が食い込んだ土地を指す用語と考えた(大脇2005)。」と大脇 潔氏の解釈を紹介しています。また、「明治時代の郡界を条里に重ねると、平地部では高市郡路東二十四条一里~三里及び高市郡路東二十四条~二十八条三里となる。前者では横大路が、高市郡と十市郡の境界となっているが、路東二十四条一里が「十市飼条一里」に該当する。」と明治時代の郡界も紹介されています。

 次がその(史料5)です。
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(史料5)「大和国高市郡司幷在地刀禰等解案」(『平安遺文三』1134 号)承保三年(1076)九月一〇日付

 高市郡東廿四五六七条、以一里為女子分。業房朝臣領、東廿四条二里、同廿五条二里同廿五条二里、東廿八条一里・二里・四里、十市飼条一里、同廿六条、同廿九条、高市廿九条一二三四里、同卅条一二三四里、同卅一条一二三里等、処分業房朝臣既了。
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 (史料5)についてはどの解釈が正しいとは断言できません。

 次図は奈良女子大学 古代学学術研究センター 「奈良盆地歴史地理データベース」小字データベース(2)によって、小字の属する郡を調べた結果による郡界です。斜線で塗った場所が、相原嘉之氏の高市大寺比定地です。小字データベースでは高市郡となっていますが、古代がそうであったかどうかは不明です。
十市郡と高市郡の郡界(クリックで拡大できます)
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木之本町周辺図
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 相原氏は「「十市飼(餘)廿六条」という表現は、高市郡に十市郡が食い込むのであり、十市郡に高市郡が食い込むのではない。つまり「高市郡路東二十六条三里」の一部に「十市郡路東餘二十六条三里」が含まれているとみるべきではないだろうか。このことは、本来高市郡である里の一部に十市郡が含まれるのであって、割合的には、その里の中では、高市郡の割合が大きいとみるべきである。」と述べていますが、「割合的には、その里の中では、高市郡の割合が大きい」ということはなくて、十市郡の割合が大きいように見えます(高市郡の割合=(9坪/36)/=25%

 「この郡界については中ッ道の南延長線、あるいは木之本街道を境界とする説もあるが、明確ではない。」とも述べられています。
 また「「郡界は必ずしも固定的なものではないが、調査地に関していえば、十市郡に属することを示す史料はあっても、高市郡に属する史料は皆無である。完全な証明はできないが、8 世紀においても十市郡に属したと考えるべきではなかろうか。」とまとめている(奈文研2017)。」という奈文研の見解もうなずけます。しかし、この件に関してはこれが正しいということは出来ないと思います。つまり、肯定するにせよ否定するにせよ、決定的な根拠にはなり得ないのではないでしょうか。
 今回の項目に無関係ですが、坪並が「千鳥式」である小字名がありました(ピンクの楕円で囲ってある部分)。

(1)「悪魔の証明」とは、論理的に証明することができない「~(事象)は無い。~(事象)は無かった。」のような(存在を否定する)命題の証明を求めること(ex.「幽霊」或いは「神」は存在しないという証明)を指していいます。実証するのが非常に困難な命題の証明を求めることではありません。
(2) 以下は「小字データベース」による解説です。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
小字について
 小字(こあざ)は土地の小区画の名称で、公称地名です。単に字(あざ)とも呼ばれ、筆(ひつ)の上位単位として近現代の土地台帳に記載されています。

 通常は数筆の土地からなりますが、広さはきわめて多様です。奈良盆地では、条里地割が残るため、面積が古代の1町(近世以降の約1.2町、約109m四方)の小字が多く見られます。
 近世以前の文献史料や古地図資料に現れる地名が、現在も小字名として残っている事例があります。そのため、小字は、これらの資料に記載された土地がどこにあるのか、現地比定をするための手がかりとなります。
 また、小字名には「クボ」「フケ」などのように自然環境に由来するもの、「一ノ坪」「二ノ坪」などの条里制のもとでの呼称、藤原宮大極殿の遺構が見つかった小字の「大宮」、古代の幹線道路に由来する「大道」などのように、過去の景観の名残を留めたものがあります。これらは、その土地の景観を復原する際の重要な手がかりになります。
※ 筆・・・田畑・宅地などの一区画(広辞苑第6版)

条里プランについて
 奈良盆地では、条里の地番呼称が比較的多く小字名として残っています。

 条里呼称は奈良県立橿原考古学研究所によって小字名や条里の地番が記載された古文書から復原されています(奈良県立橿原考古学研究所編『大和国条里復原図』1981年)。小字データベースにおいても、この条里呼称を小字に重ねて表示できるようにしました。
 小字データベースの条里呼称データは、機械的に奈良盆地を1辺約109mの正方形に分けて作成されていますので、実際の地割とぴったり合わないところもあります。このような場所があるということは、一斉に同じ規格で条里地割が施工されたわけではなく、いくつかの工事区に分かれていたり、長い期間をかけて工事が行われたりした可能性が高いことを意味します。条里や坪の境界線と地図のずれの大きさが、場所によって異なることも確認して下さい。
 奈良盆地の条里制については、木村芳一ほか編『奈良県史4 条里制』(名書出版、1987年)、奈良県立橿原考古学研究所編『大和国条里復原図』1981年を参考にしています。

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 今回は、項目「4 路東二十六条三里は高市郡か」を検討しましたが、高市郡と十市郡の郡界についての結論は(予想していましたが)得られず、骨折り損のくたびれもうけに終わりました。高市郡か十市郡か云々の議論を多少可視化できたことをよしとして慰めるしかありません。次回は章「Ⅴ 考古学的検討」に移りますので、はっきりした議論ができるのではないかと思っています。 

以下は、今回検討した項目「4 路東二十六条三里は高市郡か」の全文です。
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4 路東二十六条三里は高市郡か

 大官大寺を含む路東二十八条三里が、高市郡であることは明確である。一方、木之本廃寺を含む路東二十六条三里は、高市郡と十市郡の境界ちかくにあたる。近世以降は、確実に十市郡に属していたが、郡界ちかくに位置することから、古代においても同様であったかは明確ではない。藤原京左京六条三坊の発掘調査報告書では、調査成果の考察のなかで、調査地の郡域についても検討をしている。その材料としたのが、畝尾都多本神社と喜殿荘関係史料である。

 畝尾都多本神社は『延喜式』神名式上6 条の大和国十市郡の項に記される式内社で、『古事記』上巻の火神被殺段には、伊邪那岐命が弉諾尊伊邪那美命の死を悲しんで流した涙から「泣沢女神」が生まれ、「香山の畝尾の大本に坐す」という伝承があり、その立地から畝尾都多本神社と考えられている。

 しかし、神社はしばしば場所を移動することがあり、左京六条三坊の調査成果から考えても、少なくとも藤原京時代には現在地に同神社が存在しなかったことが、遺構の展開状況からみて間違いない。「香山の畝尾の大本に坐す」は十市郡に属することはわかるが、その場所は現在位置には特定できない。

 一方、喜殿荘関係史料のうち、承保3 年(1076)9 月10 日付の大和国高市郡司幷在地刀禰等解案(『平安遺文三』1134 号)には、条里坪付が記されている(史料5)。この史料には「同廿五条二里」が2 度登場するなど、明らかな誤写が含まれているが、最も難解なのは「十市飼条一里、同廿六条、同廿九条」である。大脇潔氏は「飼」を「餘」の誤写と考え、高市郡側に十市郡が食い込んだ土地を指す用語と考えた(大脇2005)。明治時代の郡界を条里に重ねると、平地部では高市郡路東二十四条一里~三里及び高市郡路東二十四条~二十八条三里となる。前者では横大路が、高市郡と十市郡の境界となっているが、路東二十四条一里が「十市飼条一里」に該当する。一方、後者では、路東二十六条三里が「同廿六条」に該当し、高市郡側に十市郡が食い込んでいる。『報告書』では「高市郡路東二十六条三里に十市郡が食い込む部分こそ、調査地の所在地に他ならない点は見逃せない。このことは、11 世紀後半段階には調査地が十市郡に属していたことを示す資料的根拠となるのである」。さらに「郡界は必ずしも固定的なものではないが、調査地に関していえば、十市郡に属することを示す史料はあっても、高市郡に属する史料は皆無である。完全な証明はできないが、8 世紀においても十市郡に属したと考えるべきではなかろうか。」とまとめている(奈文研2017)。

 しかし、この史料は高市郡路東二十六条三里に十市郡が食い込むことを示す史料であって、調査地が十市郡に含まれるかは明らかではない。また、「十市飼(餘)廿六条」という表現は、高市郡に十市郡が食い込むのであり、十市郡に高市郡が食い込むのではない。つまり「高市郡路東二十六条三里」の一部に「十市郡路東餘二十六条三里」が含まれているとみるべきではないだろうか。このことは、本来高市郡である里の一部に十市郡が含まれるのであって、割合的には、その里の中では、高市郡の割合が大きいとみるべきである。

 この郡界については中ッ道の南延長線、あるいは木之本街道を境界とする説もあるが、明確ではない。明治期には木之本街道を境界として、一部その東や西にずれている箇所もある。しかし、この場合、里の中で、ほぼ半分の割合となり、主が高市郡なのか、十市郡なのかは不明瞭となる。この三里内には中の川が南北に貫流している。ほぼ直線であることから、地形地物を郡界の基準とみるならば、中の川は有力な郡界ラインとすることができる。この場合、路東二十六条三里の中の川以西は高市郡に含まれる可能性が残されている 1)


1)このように考えると、藤原京左京六条三坊の奈良時代以降の遺構群は、高市郡に含まれないことをもって、「香具山正倉」の可能性を否定されているが(奈文研2017)、高市郡に含まれる可能性があるのでその可能性が浮上する。注1)90頁より移動した)

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【参考】
悪魔の証明(あくまのしょうめい、ラテン語:probatio diabolica、英語:devil's proof)とは、証明することが不可能か非常に困難な事象を悪魔に例えたものをいう。中世ヨーロッパのローマ法の下での法学者らが、土地や物品等の所有権が誰に帰属するのか過去に遡って証明することの困難さを、比喩的に表現した言葉が由来である[1][2]。

悪魔の証明の誤用
「ヘンペルのカラス」および「消極的事実の証明」も参照

 悪魔の証明は証明不可能な事態を指し、単に証明困難な事態を指すのではない[2]。「ない」という消極的事実の証明を求めることは証明不可能で悪魔の証明になるが、「ある」という積極的事実の証明を求めることは単に証明困難なだけで悪魔の証明にならない[2]。Wikipedia「悪魔の証明」より)
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「ヘンペルのカラス」は「全てのカラスは黒い[注釈 1]」という命題を証明する以下のような対偶論法を指す[1]。
 「AならばBである」という命題の真偽は、その対偶「BでないものはAでない」の真偽と必ず同値となる[2][3][4]。全称命題「全てのカラスは黒い」という命題はその対偶「全ての黒くないものはカラスでない」と同値であるので、これを証明すれば良い[2][3]。そして「全ての黒くないものはカラスでない」という命題は、世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つもカラスがないことをチェックすれば証明することができる[3]。
 つまり、カラスを一羽も調べること無く、それが事実に合致することを証明できるのである[2][3]。これは(この論法は)日常的な感覚からすれば奇妙にも見える[2][3]。
 こうした論法が「ヘンペルのカラス」と呼ばれている。Wikipedia「ヘンペルのカラス」より抜粋)
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「全称命題」の対偶は「存在命題の否定」になります。
 ∀xK(x)→B(x) (x=あるもの、∀x=すべてのxは、K():は鴉である、→=ならば、B()=は黒い)

〖意味〗
すべての〔任意の,anyx は鴉である(∀x(x))ならば(→)、そのxは黒い(B(x)

ド・モルガンの定理(上記論理式全体を否定すると記号は逆になります)

∀xK(x)→B(x)x(x) (x) (x)→¬x(x) (x)¬∃xK(x)

〖意味〗
x は黒くない(¬B(x))ならば、鴉である〔と言える〕x(K(x))は〔一つたりとも〕存在しない(¬∃x)。 

 論理というものは、結論よりも「前提が正しければ」という条件の方が大事なのです。すなわち、上記命題「すべてのx は鴉であるならば、そのxは黒い」で言えば「すべてのx が鴉である」のかどうかの方が大事なのです。あくまでも「すべてのx が鴉である(それは鴉である)」ということが真の命題(言明)であるかどうかが一番大事なのです。

 上記Wikipediaに「カラスを一羽も調べること無く、それが事実に合致することを証明できる」とありますが、そんなことはありません。なんとなれば、「世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つもカラスがないことをチェックすれば証明することができる」とあるうちの「世界中の黒くないものを順に調べ」というのは「無限」に調べることですから、「調べ尽くした」ことを証明できません。いつまで経ってもどこまでやっても「調べ尽くした」とは言えません。実際問題としては「カラスを一羽も調べること無く」と言っていますが「世界中の黒くないものを順に調べ」るよりも「カラスを調べる」方が楽でしょうに、こういう詭弁に騙されてはいけません()。どちらにしても調べる気にはなりません。

 大事なのは、実際にどうであるか(実証)よりも先に「前提は真の命題であるか」という点を重視することが「論証を重んじる」ことなのです。

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消極的事実の証明(しょうきょくてきじじつのしょうめい、英語: Evidence of absence / proving non-existence)とは、ある事実が存在しない事実(消極的事実)の証明や証拠を指す。しばしば悪魔の証明の言葉が用いられることもあるが、この場合は特に自ら消極的事実の証明を行なう時というよりは、消極的事実の証明を求められた場合に、その立証困難性を前提として、立証責任を否定するために用いられる[1]。ただし、立証困難なだけで論証自体は論理学上の誤謬ではなく、むしろ反対に厳密には論理的に正しくなくとも消極的事実の証明がなされたと見なす場合もある。
 「証拠が無いことは、無いことの証明にならない(absence of evidence is not evidence of absence、証拠の不在は不在の証拠ではない)」という伝統的な格言の通り、この種の積極的な証明は、証拠が存在するとすれば既に見つかっているか、もしくは未知の証拠が存在する場合とは意味合いが異なる[2][3] 。この点に関して、 Irving Copiは次のように書いている。

 場合によっては、特定の事象が発生した場合、その事実を専門の調査者が確認できる可能性があると問題なく仮定することができる。そのような状況では、その事象が発生していないということの積極的な証明手段として、それが発生した証拠がないと示すのは、完全に合理的である。
— Copi、 Introduction to Logic (1953)、pp.95
Wikipedia「消極的事実の証明」より抜粋)
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2022年3月10日 (木)

平城京の大官大寺(18)―坪並は「平行式」だったのだろうか―

平城京の大官大寺18
坪並は「平行式」だったのだろうか[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学][条坊制と条里制] 
【図の修正のお知らせ(2022/03/11)
 図(坪並と坪地割)がわかりにくいため、修正(「千鳥式」「平行式」を右側に移動) したものに差し替えました。【図の修正のお知らせ 終わり】

 前回(平城京の大官大寺(17「坪名」の証言202239())で、「八ノ坪」「八餘」という坪名があり、小澤 毅氏の「十一坪・十二坪」と比定した高市郡路二十八条三里・四里の坪割とは整合しないという報告をしました。ブログにアップした後で、どうであればその位置が「八ノ坪」となるのか、ということが気にかかって来ました。

 今回は、一つの試案を示して問題提起としたいと思います。

 先ず、前提として「二十八条」という位置は小澤 毅氏の示した通りだとします。そう仮定すると、「八ノ坪」と書かれている位置が「八の坪」に該当する坪並(坪の並び方の順序)は、次のものしかありません(赤で塗りつぶしたところが「十一坪・十二坪」に当たります)。
「八ノ坪」が正しければ(クリックで拡大します)
Photo_20220310140101
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(1)ギヲ山と“溜池”の堺を「二里」と「三里」の堺とする。
(2)坪並(坪の並び方の順序)は「千鳥式」ではなく「平行式」とする。
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 「里」の番号は、中央側から順につけていくはずですから、「八の坪」が正しいと仮定すると、「二里」と「三里」の堺はギヲ山と“溜池”の堺になります。「平行式」と仮定すれば「二十八条」をそのままにできますが、「千鳥式」を仮定すると条の区分まで動かさねばならなくなります。
坪並と坪地割
70
 この図(「八ノ坪」が正しければ)を作成した後で、この「八の坪」を前提にした「二里」と「三里」の堺がギヲ山と“溜池”の堺となっていて、大官大寺の寺域がギヲ山などの丘陵地を避けた位置にあるという点が(偶然なのかどうかわかりませんが)とても気になっています。

 今回は「八ノ坪」とある坪地が文字通り「八ノ坪」となる「二十八条三里」の坪並を想定してみました。 なお、この情報が役に立つものかどうかは全く考えておりません。次回は、相原嘉之氏の「高市大寺の史的意義」に戻る予定です。

2022年3月 9日 (水)

平城京の大官大寺(17)―「坪名」の証言―

 平城京の大官大寺17
「坪名」の証言[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学]

 前回(平城京の大官大寺(16)―自説に都合よい「ふしぎなポッケ」―(2022年3月 8日 (火)))は、「条」「里」の表示が無く「坪」だけ記されている(史料2)『類聚三代格』神護景雲元年(767)一二月一日太政官符 によって、或るは「路東二十八条四里十一・十一十二〕」に、或るは「路東二十八条三里十一・十一〔十二〕」に、また或るは「木之本廃寺を含む路東二十六条三里(十一・十二坪)」に比定している(好きな位置に比定できる)ことを確認しました。

 ところが、とても気になることを見つけました。次図をご覧ください。相原嘉之氏の「高市大寺の史的意義」に書かれている比定地が「十一坪・十二坪」に該当するように高市郡路東二十八条三里を「坪割(千鳥方式)」したものです。ところが、「三十五坪」(㉟)に該当する場所に「八ノ坪」とあるのです。その西隣の「二十六坪」(㉖)に該当する場所に「八餘」(私には「餘」に見えます)とあります。「二十六坪」はほとんど溜池か何かなので「八餘」(八坪の余分)としたのだと考えられます。
高市郡路二十八条三里・四里の坪割(クリックで拡大できます)
Photo_20220309134801
 こうなると、小澤 毅氏の「十一坪・十二坪」と比定したことが間違っているのではないかという疑いが生じます。

 飛鳥・藤原宮発掘調査概報 7(昭和525月)(14650_1_飛鳥・藤原宮発掘調査概報.pdf)の藤原宮第19次の調査(藤原京右京71)(昭和5111月 ~昭和52 2)―7―には次のようにありました(一部抜粋です)。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
藤原京条坊の坪割については,最近の発掘調査の成果から,東西南北とも各1条の小路によって4つの坪に分けていることが明らかになっており,後述するように今回の調査でも7条条間小路にあたる道路を検 出した。しかし,現在のところ藤原京における坊内の坪についてはその呼称が明らかでないいため※ここでは仮に平城京の坪と同じ順序で呼ぶことにする。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

 だいぶ昔のことなので今では条坊については判明しているかも知れません。条坊についてはどちらにせよ、条里内の坪についてはその呼称が明らかでないため、仮に平城京の坪と同じ順序で呼んでいるということではないのでしょうか(平城京でなくても構いませんが)。

 なにが言いたいかと言えば、自説に都合が良ければ保存された地名を取り上げるけれども、自説に都合が悪い地名は無視する、そんなことでなければいいと思った次第です。

 今回は、「『高市大寺』を探せ」としている方々の比定地が、確たる根拠に基づいていないのではないか、という疑いがまた一つ増えたという報告です。

2022年3月 8日 (火)

平城京の大官大寺(16)―自説に都合よい「ふしぎなポッケ」―

平城京の大官大寺16
自説に都合よいふしぎなポッケ」―[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学]
【校訂のお知らせ】
 「高市大寺の史的意義」のpdf自体に誤記と思われる箇所(「路東二十八条四里十一・十一十二」・「路東二十八条三里十一・十一十二」)がありましたので、校訂しました(〔〕で校訂)。【校訂のお知らせ 終わり】

 前回(平城京の大官大寺(15)―万葉集の「屋部坂」―(2022年3月7日(月)))では、匿名の方からご教示いただいた「屋部坂」(万葉集第三巻269番歌の題詞「阿倍女郎屋部坂歌一首」)は、小澤 毅氏が指摘した『日本後紀』にある「野倍能佐賀(野倍の坂)」の「倍」は乙類であるのとは異なって、「夜部村」と同じ甲類の「部」であるが、この坂が高市郡にあるという根拠がないので、「夜部村」の位置を推定する参考にはならないことを明らかにしました。

 今回は、相原嘉之氏の「高市大寺の史的意義」(2021)に戻って、章「Ⅳ 文献史料上の検討」の項目「3 「高市郡高市里」の位置」から批判を続けます。

 相原嘉之氏は、次に掲げる『類聚三代格』(史料2)を根拠にして挙げられた「高市郡高市里」の比定地の妥当性を検討しています。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
(史料2 )『類聚三代格』神護景雲元年(767)一二月一日太政官符
 太政官符
  合田六町
   大和国二町〈一町路東十一橋本田。一町路東十二岡本田。在高市郡高市里専古寺地西辺。〉
    右修理金堂内仏菩薩幷歩廊中門文殊維摩羅漢等像
     (中略)
  以前。被左大臣宣偁。奉勅。件田並永献入於大「寺」安寺
    神護景雲元年十二月一日
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
 神護景雲元年は西暦(ユリウス暦)七六七年です。

❶田村吉永氏の比定地:「大官大寺の東にあたる路東二十八条四里十一・十一十二 坪の小字「中坪」「ニシノフケ」「大安寺」に比定
❷小澤 毅氏の比定地:「路東二十八条三里十一・十一十二 坪に比定
路東二十八条
Photo_20220308153201
❸相原嘉之氏の比定地:「木之本廃寺を含む路東二十六条三里
路東二十六条三里
Photo_20220308153601

 まず、一番に問題としておかなければならないことは、(史料2)にある「路東十一」「路東十二」というのは、「路東十一坪」「路東十二坪」を示しているだけであり、「何条何里」であるかは不明なのです。つまり比定地の「二十八条」「二十六条」というのは自説に都合よく当て嵌めているだけ、のものなのです。

 「当て嵌めているだけ」であることは無視するとしても、❶田村吉永氏の比定地は、(史料2)には「専古寺地西辺」と「寺地の西辺」とあるのに「東辺」なので問題外です。❷小澤 毅氏の比定地は、「大官大寺以前の瓦の出土や平城京大安寺と共通する瓦の出土」とあり、根拠はこれだけと言っても過言ではないでしょう。まず、寺跡であることを証明するには瓦の出土だけではなく、伽藍の基壇などの痕跡が検出されねばなりません。吉備池廃寺では「瓦窯跡」という見解が有力であったり、小澤氏の比定地では瓦の出土だけで伽藍基壇の痕跡も検出されて無いのに(未調査なら「無い」のと同等)寺院跡と見なしていたりして、「ご都合主義」が過ぎています。❸相原嘉之氏の比定地は、条里を自説に都合よく当て嵌めているだけでなく、その比定地が「高市郡」に属することすら証明されていません(「ここが高市郡であったことが前提となる」)。

二十八条三里と大官大寺調査区位置図(第5次)の合成図(山田による)
Photo_20220308154001
調査区位置図(「大官大寺第5次発掘調査現地説明会資料」より)
5_20220308154101

 推論の前提は確かな命題
(()の命題)でなければ(すなわち、偽()の命題を前提にすれば)、どんな結論を導いても真()になります(つまり、正しい推論ではない(=論証ではない))。

命題の真理値表(記号の説明、:ならば。:同値。¬:でない・否定。:または・左右のどちらかが真)
Photo_20220308154301
「→」の真理値表(「P→Q」(PならばQ)と「¬P∨Q」(「Pでない」または「Qである」)は同値です。)

 

 《余談》今回は、上記の比定地を検討しましたが、「ドラえもんのうた」を思い出してしまいました。
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こんなこといいな できたらいいな
あんな夢 こんな夢 いっぱいあるけど
みんなみんなみんな かなえてくれる
ふしぎなポッケで かなえてくれる
空を自由に とびたいな
「ハイ! タケコプター」
アンアンアン
とってもだいすき ドラえもん
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 自説に都合よく希望・願望を語っても真理にはたどり着くことはありません。

 なお、下記は今回俎上に上げた 章「Ⅳ 文献史料上の検討」の項目「3 「高市郡高市里」の位置」の全文です。次回は同章の項目「4 路東二十六条三里は高市郡か」を見ていく予定です。

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3 「高市郡高市里」の位置

 『類聚三代格』(史料2)にみえる大安寺に献入された6 町のうち、専古寺地西辺にある「路東十一橋本田」と「路東十二岡本田」が含まれる「高市郡高市里」とは、どこを指すのであろうか。ここには「専古寺地西辺」とあることから寺域の西辺であることは間違いない。田村吉永氏は、大官大寺の東にあたる路東二十八条四里十一・十一〔十二〕坪の小字「中坪」「ニシノフケ」「大安寺」に比定する。ここは運河(狂心渠)及びその西隣接地にあたるが、西辺ではなく、大官大寺の東辺にあたる(田村1960)。単純に誤記だけでは片付けられない。一方、小澤氏は路東二十八条三里十一・十一〔十二〕坪に比定し、ここに大官大寺以前の瓦の出土や平城京大安寺と共通する瓦の出土から、大官大寺の寺地が西方にも広がっており、ここに高市大寺を想定している。また、「橋本田」(現小字サコツメ)は、近くの飛鳥川に現在も架かる橋があること、「岡本田」(現小字はフケノツボ)は丘陵の裾にあたることに由来する小字名とした(小澤2003)。

 このように、「古寺地西辺」にあたる高市郡高市里に諸説がみられるのは、明確な条里が明記されていないからである。京南条里のうち下ッ道の東に広がる高市郡路東条里の坪番付は記されるが、史料2 では条と里は省略されている。このことが、場所の特定を混乱させる原因であるが、この他に「高市郡高市里」を想定できる場所はないのであろうか。そこでもうひとつの可能性として、木之本廃寺を含む路東二十六条三里をあげる。この西辺の11・12 坪は小字「ユウカイ」・小字「京トノ」「南京トノ」と呼ばれている。香具山からは350 m程離れているが、「岡本田」の由来とも考えられなくもない。一方、「橋本田」の由来になるような河川や橋はみられないが、この場所は藤原宮東面南門にあたり、門をでると外濠が横たわっていたことから、当然橋が架設されていた場所である。東外濠は、幅5.5 ~ 6 mで、「橋本田」の由来になった可能性は否定できないと考える。このように、専古寺地西辺にある路東十一橋本田と路東十二岡本田には二つの候補地が存在し、「高市郡高市里」は路東二十八条三里だけでなく、路東二十六条三里も候補にあがる。ただし、前者は明らかに高市郡に属するものの、後者の場合、ここが高市郡であったことが前提となる
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2022年3月 7日 (月)

平城京の大官大寺(15)―万葉集の「屋部坂」―

平城京の大官大寺15
万葉集の屋部坂」―[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学] 

前回(平城京の大官大寺(14破綻した「夜部村=日高山丘陵近傍」論202236())は、相原嘉之氏が「奈良大学紀要第49号」に発表された論文「高市大寺の史的意義(2021)の「Ⅳ 文献史料上の検討」の「2 高市大寺の位置」において、「小澤氏が指摘するように、夜部村の場所は、『日本後紀』に「大宮に向へる野倍の坂」(史料3)が参考になる。」とし、「ここ〔(史料3)『日本後紀』巻一三 大同元年(806)四月庚子条〕にある「大宮」とは坂の存在から藤原宮と推定され、「野倍の坂」とは宮正面南側にある日高山丘陵を降る朱雀大路の坂に比定するのが妥当である(小澤2003)。よって、夜部村は日高山丘陵を含む地域となる。」とありますが、万葉仮名では「夜部村」の「」は甲類であり、「野倍能佐賀」(「野倍の坂」)の「」は乙類なので、小澤 毅 氏が提示した(史料3)は、「高市郡夜部村」の位置を推定する参考にはならないことを指摘しました。
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 史料4 には百済大寺を高市郡夜部村に移して「高市大官寺」と称したことが記される。先にみたように「高市大官寺」が大官大寺を含むかは別にして、高市大寺が夜部村にあることは間違いない。この夜部村の場所は、『日本後紀』に「大宮に向へる野倍の坂」(史料3)が参考になる。小澤氏が指摘するように、ここにある「大宮」とは坂の存在から藤原宮と推定され、「野倍の坂」とは宮正面南側にある日高山丘陵を降る朱雀大路の坂に比定するのが妥当である(小澤2003)。よって、夜部村は日高山丘陵を含む地域となる。
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 万葉仮名の甲類・乙類の分類によれば、「「野倍の坂」とは宮正面南側にある日高山丘陵を降る朱雀大路の坂に比定するのが妥当」であろうがなかろうが、夜部村は日高山丘陵を含む地域となる。」という推論は成り立たないのです。 

 ところが、匿名の方から、万葉集第三巻269番歌に題詞が「阿倍女郎屋部坂歌一首」とあるとご教示いただきました。次がその歌です。
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人不見者 我袖用手 将隠乎 所焼乍可将有 不服而来来
ひとみずは わがそでもちて かくさむを やけつつかあらむ きずてきにけり
〖訓読〗
人見ずは 我が袖もちて 隠さむを 焼けつつかあらむ 着ずて来にけり
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 たしかに、「屋部坂」の「部」は「夜部村」と同じ「部」で甲類です。「あ段」には甲・乙の別はなく、「也 移 楊 耶 野 八 矢 」は同音で、「矢部村」も「屋部坂」も同音の「やへ」です。

 だがしかし、この「屋部坂」が高市郡にある坂である、という根拠がありません。だからやはり小澤 毅 氏の指摘と同様に高市郡の「矢部村」の位置を推定する参考にはならないのです。さらに言えば、この「屋部坂」は平群郡の「志比坂」に比定する見解もあるのです。
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
 先ず、題詞の「屋部坂」について、『万葉集の旅』(昭和三十九年)には「奈良県の中であろうが所在不明」(上の三○六頁)とあり、諸注は前に引用の『万葉集講義』の大官寺趾の小山あたりとする説に従うのであるが。土屋文明氏は一旦はこれによられていたのであるが(「屋部坂」、『続万葉紀行』昭和二十一年)、「天平十九年の法隆寺資財帳に見える平群郡屋部郷」に注目、
  平群郡の屋部郷は法隆寺、法輪寺の西方、平群川両岸の地で
  あることが知られ、そこから志比坂を越えると河内の八部に
  出ることが知られる。そこで考えれば、その志比坂こそ、屋部
  坂であるといはねばなるまい。そしてそれは結局今の信貴山越
  の道であろう。峠が八部坂なるため、東西の坂本に屋部八部を
  名とする部落が存するのであろう

と、そして、「坂としても亦、万葉時代の主要交通路線としても申し分ない」(「屋部坂補正」、同右一七一~四頁)といわれ、『万葉集私注』の記述はこれによられている。私は、この信貴山越の道に従いたいと思う。河野頼人「人見ずはわが袖もちて隠さむを―万葉集巻三の二六九番歌の解釈―」―5―より抜粋)
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

 ちなみに、阿倍女郎については次をご覧ください。
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阿倍女郎 あべの-いらつめ
?-? 奈良時代の女性。
和銅-宝亀(ほうき)(708-780)のころの人。中臣東人(なかとみの-あずまひと)との贈答歌など5首が「万葉集」巻3,4におさめられている。巻8には安倍女郎の名による大伴家持(やかもち)との贈答歌もあるが,これは別人とみられる。姓は安倍ともかく。
【格言など】わが背子は物な思ほし事しあらば火にも水にもわれ無けなくに(「万葉集」)
(講談社 デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「阿倍女郎」の解説 より抜粋)
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 今回も万葉仮名に終始してしまいました。 次回こそ、次の項目「3 「高市郡高市里」の位置」から見ていきたいと思っています。

 なお、『万葉集』にある阿倍女郎の歌(269番歌を除く)を掲げておきます。
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
4 505番歌
安倍女郎歌二首
今更 何乎可将念 打靡 情者君尓 縁尓之物乎
いまさらに なにをかおもはむ うちなびき こころはきみに よりにしものを 

4 506番歌
(安倍女郎歌二首)
吾背子波 物莫念 事之有者 火尓毛水尓<母> 吾莫七國
わがせこは ものなおもひそ ことしあらば ひにもみづにも われなけなくに 

4 514番歌
阿倍女郎歌一首
吾背子之 盖世流衣之 針目不落 入尓家良之 我情副
わがせこが けせるころもの はりめおちず いりにけらしも あがこころさへ

4 516番歌
阿倍女郎答歌一首
吾以在 三相二搓流 絲用而 附手益物 今曽悔寸
わがもてる みつあひによれる いともちて つけてましもの いまぞくやしき

2022年3月 6日 (日)

平城京の大官大寺(14)―破綻した「夜部村=日高山丘陵近傍」論―

平城京の大官大寺14
破綻した夜部村日高山丘陵近傍[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学] 

 前回(平城京の大官大寺(13)―万葉仮名の証言―(2022年3月5日(土))において、『日本後紀』巻一三 大同元年(806)四月庚子条にある「野倍能佐賀」(「野倍の坂」)の「」が乙類であり、「高市大官寺」の寺地の所在「夜部村」の「」が甲類であることを示しました。万葉仮名の「甲類」と「乙類」についてご存じの方は、以下の解説を飛ばしてください。

相原氏の論理の綻び

 相原嘉之氏の「高市大寺 木之本廃寺」説の立脚点の一つである「高市大寺は、発掘された大官大寺跡に近いと考えられ、木之本廃寺がふさわしい。」という点は、相原氏が「「高市大官寺」は「高市大寺改め(天武朝)大官大寺」を表現した名称と理解する方が妥当」(A)と考えながら、また「高市大寺が夜部村にあることは間違いない。」(B)としながらも、「高市大寺と文武朝大官大寺を合わせた表現であるという見解を完全に否定できるものではなく、いずれとも解釈できる。」(C)という一貫性のない立場をとった上で、「小澤氏が指摘するように、ここにある「大宮」とは坂の存在から藤原宮と推定され、「野倍の坂」とは宮正面南側にある日高山丘陵を降る朱雀大路の坂に比定するのが妥当である(小澤2003)。」(D)とし、小澤 毅 氏の上記主張に基づいて「よって、夜部村は日高山丘陵を含む地域となる。」(E)としています。さらに、「小澤氏はギヲ山西部を含む範囲とみ、西本氏は田中廃寺・和田廃寺を含む範囲とみた(西本2011)。」(F)を挙げて「いずれも日高山丘陵から600mの距離であり、夜部村の範囲が明確ではない中では、距離の遠近だけで、優位性を見いだすことはできない。」(G)とし「このような理解が可能ならば、木之本廃寺も同距離にある。」(F)と、他説を相対化して自説も成り立つ余地があると主張しています。

 まず、命題Aと命題Bは両立しません。Aは「高市大官寺」が「高市大寺を名称変更した大官大寺(藤原京の大官大寺)」だとするもので、Bは二ヶ寺を「合わせた表現」だとするものです。相原氏は、Aとか言いながらCだと「言を左右」して、「高市大寺 木之本廃寺」説を唱えるために、はっきりBの立場に立っています

 次に、これは他説(小澤氏の「ギヲ山西部を含む範囲」説・西本氏の「田中廃寺・和田廃寺を含む範囲」説)も小澤氏の「野倍=夜部」説『日本後紀』巻一三 大同元年(806)四月庚子条が参考になるとする説)に依拠していますが、相原氏もこれを肯定した上で(自説の論拠の一つとして)自説も成り立つと主張しているのです。ですから私は次のように申したのです。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
このような理解が可能ならば、」という前提で語られている。ならば「このような理解が不可能ならば、」相原嘉之 氏はどうするのでしょうか。
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… 

 

万葉仮名の甲類・乙類について

 この甲類・乙類の区別は、単に「表記に用いた漢字が違う」ということではなく、「上代の音韻の区別を反映している」ものです。すなわち「野倍」と「夜部」は発音が違っていて、当然に違う地名です。

 ですから、小澤 毅 氏が苦労して探しだしたと思われる次の(史料3 )は、相原氏の論文には「この夜部村の場所は、『日本後紀』に「大宮に向へる野倍の坂」(史料3)が参考になる。」とありましたが、夜部村の場所の推定には全く参考にならない代物だったのです。これは相原氏のミスではなく小澤 毅 氏のミスなのですが、とはいっても相原氏の論理が破綻していることに違いありません。
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『日本後紀』巻一三 大同元年(806)四月庚子条〔再掲〕
 初有二童謡一曰。於保美野邇。多太仁武賀倍流。野倍能佐賀。伊太久那布美蘇。都知仁波阿利登毛。有識者
 以為。天皇登祚之徴也。
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じょうだい‐とくしゅかなづかい[ジャウダイトクシュかなづかひ] 【上代特殊仮名遣】
解説・用例
〔名〕
上代の万葉仮名文献に存する、後世のいろは四十七字では書き分けられない、仮名の使い分けをいう。いろはがなのうち、エ、キヒミ、ケヘメ、コソトノヨロの一三種(古事記ではモも)およびその濁音、ギビゲベゴゾドにあたる万葉仮名は、それぞれ二類の使い分けがある。例えば、同じヒでも「日」は比、「火」は非、同じコでも「子」は古、「此」は許などと書かれて混同されない。前者の類を甲類、後者を乙類と称して区別する。この甲類・乙類のちがいは、平安時代には失われた上代の音韻の区別を反映しているものと考えられる。ただし、エの二類はア行とヤ行のちがいで、他の仮名の区別とは性質を異にする。使い分けの事実は、早く江戸時代に本居宣長が気づき、石塚龍麿が実例を収集整理したが、明治末期に橋本進吉によってその本質が明らかにされた。
(サイトジャパンナレッジ 日本国語大辞典「上代特殊仮名遣」より、下線は山田による)
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 今回は、前回の説明不足を補っただけです。相原嘉之氏の「高市大寺 木之本廃寺」説の批判の続きは次回からの予定です。

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