古田史学

2023年2月12日 (日)

肥さんの思い出(2)―「無かった」の論理―

肥さんの思い出(2)
「無かった」の論理[古田史学][論理の赴くところ]

 前回(肥さんの思い出(1)―真実に到達する手順―2023年2月12日(日))、肥さんの夢ブログの主 肥沼孝治さん(「古田史学の会」会員)から学んだことの一つとして、中小路駿逸先生の論稿「『日本書紀』の書名の「書」の字について」を紹介していただいたことを述べましたが、それ以前に「『無かった』の論理」も学ばせていただきました(肥さん夢ブログの次の記事です)。いわゆる聖武天皇の“「国分寺建立」の詔”と言われている詔には「「国分寺」という言葉が1つも出てこない」という事実を指摘する記事です。

「国分寺」はなかった!2016年1月30日(土) 

 確かに「七重塔を造れ」ということは書いてありますが、「国分寺」という言葉はありません。すなわち、この「“国分寺建立”の詔」と言われてきた詔は「『七重塔建立』」の詔」だったと肥さんは結論されました(つまり、「既存寺院に『七重塔を建てて』経を納めよとの詔だった」という仮説の提示です)。これで「多元的「国分寺」研究」に弾みがついたのです(詳しくは、左記サークルのブログをご覧ください)。

 また、この「『無かった』の論理」は、史書に寺院の創建記事が無いのは、その史書を編纂した王権の事績ではなかったという仮説の提示へと導きました(「元興寺」も創建記事がありません)。

 「『無かった』の論理」は寺院だけを対象として適用されたのではありません。古代官道にも適用されました。肥さんは上記の「国分寺」はなかった!においても、次のように書かれています(付注は山田)。
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実はこれと同じような経験をしたことがある。

東山道武蔵路の研究をしていて不思議に思ったのだが,

これについての初出記事は「この道を作った」ではなく,

「771年に,コースを変更した」という記事なのだった。

「全国6300キロにもわたる日本古代ハイウェーを建設した」という記事がないのに,

そのコース変更した記事が初出とは,これは「命じた主体を隠している」と言われても

仕方がないのではないかと思う。

そして,私は日本古代ハイウェーは九州王朝が作った軍用道路か?(注①)を書くことになった。

(拙論の中で,東山道武蔵路を作ったのは,側溝出土の土器から7世紀半ばと考えた)

注① 2012年2月10日 古田史学会報108号掲載、並びに 古田史学の会 編『古代に真実を求めて 古田史学論集第二十一集 発見された倭京――太宰府都城と官道』に再掲。
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 この肥沼さんの「日本古代ハイウェーは九州王朝が作った軍用道路か?」に触発されて、「東山道十五国」の比定 西村論文「五畿七道の謎」の例証(2017年4月10日 古田史学会報139号掲載、並びに古田史学の会 『古代に真実を求めて 古田史学論集第二十一集 発見された倭京――太宰府都城と官道』に再掲。)を書くことができました。肥さん、ありがとう。

肥さんの思い出(1)―真実に到達する手順―

肥さんの思い出(1)
真実に到達する手順[古田史学][論理の赴くところ]

 肥さんの夢ブログの主 肥沼孝治さん(「古田史学の会」会員)からは多くのことを学びました。

 まず、第一に挙げなければならないのは、中小路駿逸先生の論稿「『日本書紀』の書名の「書」の字について」を探してご紹介いただいたことです。

肥さんの夢ブログ 『日本書紀』の書名の「書」の字について(中小路駿逸氏)2017年8月19日(土)

 

 この論稿によって「真実なるものに到達するための平凡かつ有効な手順」を知ることができました。私は古田武彦先生の著作を愛読している“一古田ファン”にすぎません(今も)ので、古田先生の研究方法を著書を読んで知っていた(つもりになっていた)のですが、真の意味では「理解できていなかった」のです。

 紹介いただいた論稿を読み、読後感想として要旨をまとめて肥さんに報告しようと思いましたが、コメントで返すには長すぎたので、ブログに掲載して読んでもらったのが次の記事です(なお、当該論文は2017年8月当時はネットで読めましたが、著作権の関係でしょう、現在ではネットでは閲覧できないようです。要旨でよければブログ記事をご覧ください)。

「『日本書紀』の書名の「書」の字について」を読んで中小路駿逸先生の論理の赴くところ―2017年8月19日(土)

 

 論稿のなかで最も印象に残った言葉は、次の所でした(下線強調等は山田による)。
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一 まず、所与の対象―この場合は史料の文辞―を観察しそこに何があり、何がないかを見きわめ、そこにあるものをそこにあるとし、そこにないものをそこにないとする

二 そして、その対象の示すところのものが真か否かは、右のことののちに考える

これが真実なるものに到達するための平凡かつ有効な手順である。

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 論稿のなかでも「そこにあるものをそこにあるとし、そこにないものをそこにないとする」「真か否かは、右のことののちに考える」という所に痛く感銘を受けました。この言葉に倣って試みたのが、平城京の大官大寺」シリーズ倭国一の寺院「元興寺」」シリーズなどで行った読解です。『日本書紀』を鵜呑みにするとかしないとかの話ではなく、そこに書かれていることを書かれているとし。書かれていないことを書かれていないとしているのです。

 それ以外については「妄想」と断って述べています。

 ブログ記事「「元興寺」シリーズ」(「平城京の大官大寺」や「倭国一の寺院「元興寺」」)は、肥沼孝治さんに献辞を捧げたい。肥さん、ありがとう。

2022年4月18日 (月)

古田史学会報 No.169(2022年4月12日)を読んで―自説に都合よい反論はダメ―

古田史学会報 No.169(2022年4月12日)を読んで
自説に都合よい反論はダメ[古田史学]

 No.169は、「「倭姫」を含む「倭」の含まれる名前は倭国(九州王朝)における一種の官職的な称号」とする日野智貴氏の論文「「倭日子」と「倭日売」という称号」があり、また「韓国(カラクニ)は朝鮮半島というよりも、半島南岸の特定の地を指す」としてその地は伽耶であるとする大原重雄氏の論文「天孫降臨の天児屋命」などもあり、興味深い論稿に満ちているのですが、巻頭を飾った「[耳冉*]牟羅國=フィリピン(ルソン島)」とする谷本茂氏の論文「「[耳冉*]牟羅國=済州島」説への疑問と「[耳冉*]牟羅國=フィリピン(ルソン島)」仮説」に違和感がありました。

  私の違和感の第一は、『隋書』「東夷 百濟」伝中に「其南海行三月,有𨈭牟羅國,南北千餘里,東西數百里,土多麞鹿,附庸於百濟。百濟自西行三日,至貊國云。」と記されているのだから「𨈭牟羅國」は「東夷」に属するはずで、「南蛮」の「ルソン島」の記事が東夷伝に記されているという結論には納得できません。大きな枠組みから外れている、ということです。

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〔第27代 威徳王扶餘昌〕死,子餘宣〔第29代 法王扶餘宣〕(1),死,子餘璋〔第30代 武王扶餘璋〕立。

大業三年,璋遣使者燕文進朝貢。其年,又遣使者王孝鄰入獻,請討高麗。煬帝許之,令覘高麗動靜。然璋與高麗通和,挾詐以窺中國。七年,帝親征高麗,璋使其臣國智牟來請軍期。帝大悅,厚加賞錫,遣尚書起部郎席律詣百濟,與相知。明年,六軍渡遼,璋亦嚴兵於境,聲言助軍,實持兩端。尋與新羅有隙,每相戰爭。十年,復遣使朝貢。後天下亂,使命遂

其南海行三月,有𨈭牟羅國,南北千餘里,東西數百里,土多麞鹿,附庸於百濟。百濟自西行三日,至貊國云。

(1)『隋書』列傳第四十六 東夷「百濟伝」は、第29代法王 を第27代威徳王 の子としていて、第28代恵王(第26代聖王 扶餘明の次男、諱は季)を認識していないが、第29代法王 扶餘宣は第28代恵王の子。
『三国史記』は、即位と在位2年目(599年)に死去して恵王と諡(おくりな)された、と記すのみ。
『三国遺事』は、恵王(扶餘季)を威徳王の子 別名「献王」と記す。
『日本書紀』は、欽明天皇16年(555年)2月に、威徳王が送った聖王(扶餘明)戦死の知らせの使者として「百濟王子餘昌、遣王子惠〈王子惠者、威德王之弟也。〉」と記す。
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《欽明天皇十六年(五五五)二月》十六年春二月、百濟王子餘昌、遣王子惠〈王子惠者、威德王之弟也。〉曰、聖明王爲賊見殺。〈十五年、爲新羅所殺、故今奏之。〉天皇聞而傷恨。廼遣使者、迎津慰問、於是、許勢臣問王子惠曰、爲當欲留此間。爲當欲向本郷。惠答曰、依憑天皇之德、冀報考王之讎。若垂哀憐、多賜兵革、雪垢復讎、臣之願也。臣之去留、敢不唯命是從。俄而蘇我臣問訊曰。聖王妙達天道地理、名流四表八方。意謂、永保安寧、統領海西蕃國、千年萬歳、奉事天皇。豈圖、一旦眇然昇遐、與水無歸、即安玄室。何痛之酷。何悲之哀。凡在含情、誰不傷悼。當復何咎致茲禍也。今復何術用鎮國家。惠報答之曰、臣禀性愚蒙、不知大計。何況禍福所倚、國家存亡者乎。蘇我卿曰、昔在天皇大泊瀬之世、汝國爲高麗所逼、危甚累卵。於是、天皇命神祇伯、敬受策於神祇。祝者廼託神語報曰、屈請建邦之神、徃救將亡之主、必當國家謐靖、人物乂安。由是、請神徃救。所以社稷安寧。原夫建邦神者、天地株判之代、草木言語之時、自天降來、造立國家之神也。頃聞、汝國輟而不祀。方今悛悔前過、脩理神宮、奉祭神靈、國可昌盛。汝當莫忘。
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 第二は、以前石田泉城さんが『隋書』の「東西・南北」を悉皆調査された結論から「南北千餘里,東西數百里」を「(辺)・北(辺)千餘里,東(辺)・西(辺)數百里」とされた結論に納得していたため、泉城さんの悉皆調査の結果に対して反論せず、自説に都合よく反論している姿勢に違和感を持ちました(私が納得したときの泉城さんのブログ記事は「『方』法」の表現法―条里制を調べていたら―2019417())にリンクを貼りましが、Yahoo!JAPANのサービスが終了していたので、Amebaブログの泉城の古代日記 コダイアリー の記事 大枠の把握から始めましょう <古代史は面白い>(2022-04-18 00:53:04)をご覧ください)。以下、谷本氏が如何に自説に都合よく反論しているかを簡単に示します。 

 谷本氏は、第一章で、①「海行三月」は百濟~済州島の行程としては過大であり、適合しない。「海行三日」とでも考えない限り実勢地理に合わない。②「南北X里 東西Y里」の理解が通常(南北距離がX里で東西距離がY里)とは逆であり、この文面から「東西距離がX里、南北距離がY里」と理解し更に里数値を「短里」として実地形を想定しているが、そう解釈する根拠が薄弱である、と反論されています。

  石田泉城さんの上記ブログ記事 大枠の把握から始めましょう <古代史は面白い>から引用します。
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『隋書』百済伝の記述に、「其南海行三月有耽牟羅國」とあります。百済から耽牟羅國(済州島)までが「海行三月」であるという意味です。

  この『隋書』百済伝の記述にある百済の首都は538年に熊津(ユウシン)から泗沘(サビ)(現・忠清南道扶余郡)へ南遷しましたので、泗沘(サビ)です。ここから済州島までが「海行三月」になります。

 泗沘(サビ)から済州島までの長さが「海行三月」と認識されていたのです。この点は重要です。「海行三月」は現代の私たちがその数字から想像するような長い距離ではないからです。

 図4のとおり、「海行三月」はおおむね320kmの比較的短い距離なのです。

図4(泉城氏のブログより転載)
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 つまり、谷本氏は「現代の私たちがその数字から想像するような」理解(距離感)に基づいて反論しているのです。「泗沘(サビ)から済州島まで」と[亻妥]國伝の「([亻妥])國境東西五月行,南(辺)(辺)三月行,各至於海。」が整合しているのです。[亻妥]國の所在は、、縦方向と横方向の比率が「5対3」の縦長の(南北方向に長い)四面海に囲まれている九州島以外にあり得ません。その九州島の「南()()三月行」が「泗沘(サビ)から済州島まで」「海行三月」と一致しているのです。
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『隋書』東夷伝百済條(以下『隋書』百済伝とする)の耽牟羅(たむら)國の記事があります。「東西」「南北」をずばり距離で表現されています。また島国で地形が明確ですから記事の内容がしっかり確認できます。そこには、次のように記述されています。 

 其南海行三月有耽牟羅國 南北千餘里東西數百里 

<通常の読み>
百済国の南、海行三月にタムラ国が有ります。南北が千余里で、東西が数百里の(縦長の)国です。

<私の読み>
百済国の南、海行三月にタムラ国が有ります。南辺・北辺が千余里で、東辺・西辺が数百里の(横長の)国です。 

 この記事を読んで、「南北千余里」は「南から北までの長さが千余里」で、「東西数百里」は「東から西までの長さが数百里」とするのが現代の常識です。つまり、一般的には縦長の形を表すと解釈されます。しかし、その常識はまったく見当違いです。ここで示されている耽牟羅國は済州島です。済州島を衛星写真や地図で眺めれば、それは次の図のとおり横長の島です。済州島は横長ですから、先述の「方」で表すと「南北千余里」は「南辺・北辺が千余里」で、「東西数百里」は「東辺・西辺が数百里」の横長の区域であると理解しなければつじつまが合いません。

済州島の図(泉城氏のブログより転載)
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 ご覧のように「南北千餘里東西數百里」が約80㎞・約40㎞なのですから、長里ではありえず「短里」と理解するしかありません。

 以上、谷本氏が如何に自説に都合よく反論しているかを示しましたが、谷本氏は「本会報上での詳細な議論が見られなかった」ことを理由に、自説に都合よく反論するような方にお見受けしています(私の誤解や偏見かもしれませんが)から、石田泉城さまには、是非とも谷本茂氏への再批判を古田史学会報にご投稿なされるように希望いたします。

 なお、このブログ記事は、私の谷本仮説([耳冉*]牟羅國=フィリピン(ルソン島)」仮説)への批判ではなく、谷本氏の論稿に対する単なる読後感想なので、私に対する批判は受付ません。

 繰り返しになりますが、石田泉城氏の「[耳冉*]牟羅國=済州島」説は、下記ブログ記事をご覧ください。

大枠の把握から始めましょう <古代史は面白い>(2022-04-18 00:53:04)

2022年3月27日 (日)

平城京の大官大寺(22)―飛鳥・河内地域の土器編年(服部私案)―

平城京の大官大寺22
飛鳥・河内地域の土器編年(服部私案)―[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学][著書や論考等の紹介]

 前回(平城京の大官大寺(21)―飛鳥土器編年の問題点―)は、服部静尚さまから表Ⅰ 飛鳥地域の土器編年と代表的資料(小田2014)の暦年推測の問題点のご指摘と、それを是正する私案を頂いたのですが、添付資料が来(きた)る4月10日(日)午後の多元の会例会でも発表予定のものでしたので、服部さんが大和古代史研究会での発表のYouTube動画よりその提案資料を転載いたしました。

服部静尚氏の私案《再掲》
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 今回は、その説明を行います。服部さんが発表されたYouTube動画の画面を紹介しながらザックリと解説すると次のごとくです。私の理解不足による説明間違いがあるかも知れませんので、是非YouTube動画をご覧ください(前回にリンクを貼ってあります)。

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 『日本書紀』は六世紀末から七世紀初頭の間、難波宮(645653年)を除いて、飛鳥に都があったとする。
豊浦宮で推古天皇即位(593)。「乙巳の変」(645,甘樫丘)の後、難波宮に遷都する。653年、皇太子は皇祖母・皇后と百官を引き連れて倭飛鳥河辺行宮に移る。655年、斉明天皇が飛鳥板葺宮で即位。斉明六年(660)、皇太子漏刻をつくる(水落遺跡)。ある考古学者はこの間は10年単位で年代が分かるとしている(ほんとうだろうか)。

考古学で編年はどのように行われているの

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「土師器」は古墳時代の野焼き土器をいう(同じ野焼きでも弥生式土器よりも肉薄(半分ほど))。
荘内式・布留式の区別も曖昧。「須恵器」は窯により高温で焼く。陶器と磁器の違いのようなもの。

とくに須恵器の「蓋坏」の形状に、遺跡ごとに違い・変化がみられる
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土器の変遷によって年代を推測する飛鳥編年が作られ
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丸底の坏()→②平底の坏()→③高台付きの坏()の順
 

挙げられた基準遺跡の「坏」は、実は指標通りの変遷ではない
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指標通り(H→G→Bの順に変遷)に編年していない

最近までの追加発掘で、基準遺跡の編年が変わっている
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飛鳥編年の問題点
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瓦と須恵器、3つの提起
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服部静尚氏の提案編年
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 今回は服部静尚さんの提案された河内・飛鳥地域の編年を紹介しました。次回は、服部編年に従うと百済大寺の廃絶時期はどのように推測できるかを検討する予定です。

平城京の大官大寺(21)―飛鳥土器編年の問題点―

平城京の大官大寺21
飛鳥土器編年の問題点[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学] 

 前回(平城京の大官大寺(20)―存続した百済大寺―)で、表Ⅰ 飛鳥地域の土器編年と代表的資料(小田2014)(佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(2)―5―より)を用いて検証しましたが、本日(20220327()8:30頃)、服部静尚さまから次の主旨のメール(私信部分を除く)を頂戴しました。
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「平城京の大官大寺(20)―存続した百済大寺―」で、 飛鳥地域の土器編年と代表的資料(小田2014)を引用されて、 これを暦年判断材料とされておられます。しかし、この暦年推測 には多くの問題点があります。 これを是正する私案の抜粋を添付します。 これによると、彼らが挙げている乙巳の変・天智の漏刻の遺跡などと しているものが、『日本書紀』の年次と全く合わないことが判って いただけると思います。 この私案は大阪歴史学会考古部会で発表したもので、 4月10日(日)午後の多元の会例会でも発表予定のものです。
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 「4月10日(日)午後の多元の会例会で発表予定のもの」とのことですので、メールに添付いただいた資料は4月10日以降、許可をいただいてからブログに掲載したいと思います。

 それに代わるものとして、次のYouTube動画に公開された資料を転載させていただきます。
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220222@県立図書情報館@古代大和史研究会@26:57@DSCN0435
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220222@県立図書情報館@古代大和史研究会@26:57@DSCN0436
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220222@県立図書情報館@古代大和史研究会@10:19@DSCN0437

服部静尚氏「五段階の編年の提案」(上記YouTube DSCN0437 より)
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表Ⅰ 飛鳥地域の土器編年と代表的資料(小田2014)《再掲》
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今回は、ご指摘いただいた土器編年の問題点をとりあえずご報告するだけとし、次回以降にこの問題点を説明していく予定です。

2022年3月12日 (土)

平城京の大官大寺(19)―骨折り損のくたびれ儲け―

平城京の大官大寺19
骨折り損のくたびれ儲け[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学]

 前回(平城京の大官大寺(18)―坪並は「平行式」だったのだろうか―(2022年3月10日(木)))は、「八ノ坪」とある坪地が文字通り「八ノ坪」となる「二十八条三里」の坪並を想定してみました。その作業を通じて、「大官大寺」の寺域(多分)がギヲ山などの丘陵地を避けた位置にあるということに気づきました。

 今回は、予定した通り相原嘉之氏の「高市大寺の史的意義」の章「Ⅳ 文献史料上の検討」項目「4 路東二十六条三里は高市郡か」を見ていきます。 

挙証責任の在処
 相原嘉之氏は「大官大寺を含む路東二十八条三里が、高市郡であることは明確」と述べ、また相原氏が高市大寺の所在地と見る「木之本廃寺を含む路東二十六条三里は、高市郡と十市郡の境界ちかく」であるが「近世以降は、確実に十市郡に属していた」と述べています。ならば、相原氏がなすべきことは「(史料2)『類聚三代格』神護景雲元年(767)一二月一日太政官符の出た時点には高市郡に属していたこと」立証することなのです。

 ところが、相原氏は「郡界ちかくに位置することから、古代においても同様であったかは明確ではない。」と、古代においても十市郡であったことを明確にする必要があるとして、挙証責任を転嫁しています。古代から近世になるまでの間に「木之本廃寺を含む路東二十六条三里」が高市郡から十市郡に属することになる郡境界の変更があったことを立証する責任は相原氏にあるのです。変更が無かったことを証明するのは悪魔の証明(1)」であり、不可能です。変更があったことを相原氏が証明しなければならないのです。 

畝尾都多本神社からわかるか
 相原嘉之氏は(史料5)を挙げて、「畝尾都多本神社は『延喜式』神名式上6 条の大和国十市郡の項に記される式内社」であるが「左京六条三坊の調査成果から考えても、少なくとも藤原京時代には現在地に同神社が存在しなかったことが、遺構の展開状況からみて間違いない。」とし、「「香山の畝尾の大本に坐す」は十市郡に属する」が「神社はしばしば場所を移動することがあり」「その場所は現在位置には特定できない。」とします。「十市郡」の現在地に無かったとしても「高市郡」にあったことにはなりません。

 相原氏は(史料5)を掲げて、「大脇潔氏は「飼」を「餘」の誤写と考え、高市郡側に十市郡が食い込んだ土地を指す用語と考えた(大脇2005)。」と大脇 潔氏の解釈を紹介しています。また、「明治時代の郡界を条里に重ねると、平地部では高市郡路東二十四条一里~三里及び高市郡路東二十四条~二十八条三里となる。前者では横大路が、高市郡と十市郡の境界となっているが、路東二十四条一里が「十市飼条一里」に該当する。」と明治時代の郡界も紹介されています。

 次がその(史料5)です。
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(史料5)「大和国高市郡司幷在地刀禰等解案」(『平安遺文三』1134 号)承保三年(1076)九月一〇日付

 高市郡東廿四五六七条、以一里為女子分。業房朝臣領、東廿四条二里、同廿五条二里同廿五条二里、東廿八条一里・二里・四里、十市飼条一里、同廿六条、同廿九条、高市廿九条一二三四里、同卅条一二三四里、同卅一条一二三里等、処分業房朝臣既了。
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 (史料5)についてはどの解釈が正しいとは断言できません。

 次図は奈良女子大学 古代学学術研究センター 「奈良盆地歴史地理データベース」小字データベース(2)によって、小字の属する郡を調べた結果による郡界です。斜線で塗った場所が、相原嘉之氏の高市大寺比定地です。小字データベースでは高市郡となっていますが、古代がそうであったかどうかは不明です。
十市郡と高市郡の郡界(クリックで拡大できます)
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木之本町周辺図
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 相原氏は「「十市飼(餘)廿六条」という表現は、高市郡に十市郡が食い込むのであり、十市郡に高市郡が食い込むのではない。つまり「高市郡路東二十六条三里」の一部に「十市郡路東餘二十六条三里」が含まれているとみるべきではないだろうか。このことは、本来高市郡である里の一部に十市郡が含まれるのであって、割合的には、その里の中では、高市郡の割合が大きいとみるべきである。」と述べていますが、「割合的には、その里の中では、高市郡の割合が大きい」ということはなくて、十市郡の割合が大きいように見えます(高市郡の割合=(9坪/36)/=25%

 「この郡界については中ッ道の南延長線、あるいは木之本街道を境界とする説もあるが、明確ではない。」とも述べられています。
 また「「郡界は必ずしも固定的なものではないが、調査地に関していえば、十市郡に属することを示す史料はあっても、高市郡に属する史料は皆無である。完全な証明はできないが、8 世紀においても十市郡に属したと考えるべきではなかろうか。」とまとめている(奈文研2017)。」という奈文研の見解もうなずけます。しかし、この件に関してはこれが正しいということは出来ないと思います。つまり、肯定するにせよ否定するにせよ、決定的な根拠にはなり得ないのではないでしょうか。
 今回の項目に無関係ですが、坪並が「千鳥式」である小字名がありました(ピンクの楕円で囲ってある部分)。

(1)「悪魔の証明」とは、論理的に証明することができない「~(事象)は無い。~(事象)は無かった。」のような(存在を否定する)命題の証明を求めること(ex.「幽霊」或いは「神」は存在しないという証明)を指していいます。実証するのが非常に困難な命題の証明を求めることではありません。
(2) 以下は「小字データベース」による解説です。
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小字について
 小字(こあざ)は土地の小区画の名称で、公称地名です。単に字(あざ)とも呼ばれ、筆(ひつ)の上位単位として近現代の土地台帳に記載されています。

 通常は数筆の土地からなりますが、広さはきわめて多様です。奈良盆地では、条里地割が残るため、面積が古代の1町(近世以降の約1.2町、約109m四方)の小字が多く見られます。
 近世以前の文献史料や古地図資料に現れる地名が、現在も小字名として残っている事例があります。そのため、小字は、これらの資料に記載された土地がどこにあるのか、現地比定をするための手がかりとなります。
 また、小字名には「クボ」「フケ」などのように自然環境に由来するもの、「一ノ坪」「二ノ坪」などの条里制のもとでの呼称、藤原宮大極殿の遺構が見つかった小字の「大宮」、古代の幹線道路に由来する「大道」などのように、過去の景観の名残を留めたものがあります。これらは、その土地の景観を復原する際の重要な手がかりになります。
※ 筆・・・田畑・宅地などの一区画(広辞苑第6版)

条里プランについて
 奈良盆地では、条里の地番呼称が比較的多く小字名として残っています。

 条里呼称は奈良県立橿原考古学研究所によって小字名や条里の地番が記載された古文書から復原されています(奈良県立橿原考古学研究所編『大和国条里復原図』1981年)。小字データベースにおいても、この条里呼称を小字に重ねて表示できるようにしました。
 小字データベースの条里呼称データは、機械的に奈良盆地を1辺約109mの正方形に分けて作成されていますので、実際の地割とぴったり合わないところもあります。このような場所があるということは、一斉に同じ規格で条里地割が施工されたわけではなく、いくつかの工事区に分かれていたり、長い期間をかけて工事が行われたりした可能性が高いことを意味します。条里や坪の境界線と地図のずれの大きさが、場所によって異なることも確認して下さい。
 奈良盆地の条里制については、木村芳一ほか編『奈良県史4 条里制』(名書出版、1987年)、奈良県立橿原考古学研究所編『大和国条里復原図』1981年を参考にしています。

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 今回は、項目「4 路東二十六条三里は高市郡か」を検討しましたが、高市郡と十市郡の郡界についての結論は(予想していましたが)得られず、骨折り損のくたびれもうけに終わりました。高市郡か十市郡か云々の議論を多少可視化できたことをよしとして慰めるしかありません。次回は章「Ⅴ 考古学的検討」に移りますので、はっきりした議論ができるのではないかと思っています。 

以下は、今回検討した項目「4 路東二十六条三里は高市郡か」の全文です。
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4 路東二十六条三里は高市郡か

 大官大寺を含む路東二十八条三里が、高市郡であることは明確である。一方、木之本廃寺を含む路東二十六条三里は、高市郡と十市郡の境界ちかくにあたる。近世以降は、確実に十市郡に属していたが、郡界ちかくに位置することから、古代においても同様であったかは明確ではない。藤原京左京六条三坊の発掘調査報告書では、調査成果の考察のなかで、調査地の郡域についても検討をしている。その材料としたのが、畝尾都多本神社と喜殿荘関係史料である。

 畝尾都多本神社は『延喜式』神名式上6 条の大和国十市郡の項に記される式内社で、『古事記』上巻の火神被殺段には、伊邪那岐命が弉諾尊伊邪那美命の死を悲しんで流した涙から「泣沢女神」が生まれ、「香山の畝尾の大本に坐す」という伝承があり、その立地から畝尾都多本神社と考えられている。

 しかし、神社はしばしば場所を移動することがあり、左京六条三坊の調査成果から考えても、少なくとも藤原京時代には現在地に同神社が存在しなかったことが、遺構の展開状況からみて間違いない。「香山の畝尾の大本に坐す」は十市郡に属することはわかるが、その場所は現在位置には特定できない。

 一方、喜殿荘関係史料のうち、承保3 年(1076)9 月10 日付の大和国高市郡司幷在地刀禰等解案(『平安遺文三』1134 号)には、条里坪付が記されている(史料5)。この史料には「同廿五条二里」が2 度登場するなど、明らかな誤写が含まれているが、最も難解なのは「十市飼条一里、同廿六条、同廿九条」である。大脇潔氏は「飼」を「餘」の誤写と考え、高市郡側に十市郡が食い込んだ土地を指す用語と考えた(大脇2005)。明治時代の郡界を条里に重ねると、平地部では高市郡路東二十四条一里~三里及び高市郡路東二十四条~二十八条三里となる。前者では横大路が、高市郡と十市郡の境界となっているが、路東二十四条一里が「十市飼条一里」に該当する。一方、後者では、路東二十六条三里が「同廿六条」に該当し、高市郡側に十市郡が食い込んでいる。『報告書』では「高市郡路東二十六条三里に十市郡が食い込む部分こそ、調査地の所在地に他ならない点は見逃せない。このことは、11 世紀後半段階には調査地が十市郡に属していたことを示す資料的根拠となるのである」。さらに「郡界は必ずしも固定的なものではないが、調査地に関していえば、十市郡に属することを示す史料はあっても、高市郡に属する史料は皆無である。完全な証明はできないが、8 世紀においても十市郡に属したと考えるべきではなかろうか。」とまとめている(奈文研2017)。

 しかし、この史料は高市郡路東二十六条三里に十市郡が食い込むことを示す史料であって、調査地が十市郡に含まれるかは明らかではない。また、「十市飼(餘)廿六条」という表現は、高市郡に十市郡が食い込むのであり、十市郡に高市郡が食い込むのではない。つまり「高市郡路東二十六条三里」の一部に「十市郡路東餘二十六条三里」が含まれているとみるべきではないだろうか。このことは、本来高市郡である里の一部に十市郡が含まれるのであって、割合的には、その里の中では、高市郡の割合が大きいとみるべきである。

 この郡界については中ッ道の南延長線、あるいは木之本街道を境界とする説もあるが、明確ではない。明治期には木之本街道を境界として、一部その東や西にずれている箇所もある。しかし、この場合、里の中で、ほぼ半分の割合となり、主が高市郡なのか、十市郡なのかは不明瞭となる。この三里内には中の川が南北に貫流している。ほぼ直線であることから、地形地物を郡界の基準とみるならば、中の川は有力な郡界ラインとすることができる。この場合、路東二十六条三里の中の川以西は高市郡に含まれる可能性が残されている 1)


1)このように考えると、藤原京左京六条三坊の奈良時代以降の遺構群は、高市郡に含まれないことをもって、「香具山正倉」の可能性を否定されているが(奈文研2017)、高市郡に含まれる可能性があるのでその可能性が浮上する。注1)90頁より移動した)

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【参考】
悪魔の証明(あくまのしょうめい、ラテン語:probatio diabolica、英語:devil's proof)とは、証明することが不可能か非常に困難な事象を悪魔に例えたものをいう。中世ヨーロッパのローマ法の下での法学者らが、土地や物品等の所有権が誰に帰属するのか過去に遡って証明することの困難さを、比喩的に表現した言葉が由来である[1][2]。

悪魔の証明の誤用
「ヘンペルのカラス」および「消極的事実の証明」も参照

 悪魔の証明は証明不可能な事態を指し、単に証明困難な事態を指すのではない[2]。「ない」という消極的事実の証明を求めることは証明不可能で悪魔の証明になるが、「ある」という積極的事実の証明を求めることは単に証明困難なだけで悪魔の証明にならない[2]。Wikipedia「悪魔の証明」より)
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「ヘンペルのカラス」は「全てのカラスは黒い[注釈 1]」という命題を証明する以下のような対偶論法を指す[1]。
 「AならばBである」という命題の真偽は、その対偶「BでないものはAでない」の真偽と必ず同値となる[2][3][4]。全称命題「全てのカラスは黒い」という命題はその対偶「全ての黒くないものはカラスでない」と同値であるので、これを証明すれば良い[2][3]。そして「全ての黒くないものはカラスでない」という命題は、世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つもカラスがないことをチェックすれば証明することができる[3]。
 つまり、カラスを一羽も調べること無く、それが事実に合致することを証明できるのである[2][3]。これは(この論法は)日常的な感覚からすれば奇妙にも見える[2][3]。
 こうした論法が「ヘンペルのカラス」と呼ばれている。Wikipedia「ヘンペルのカラス」より抜粋)
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「全称命題」の対偶は「存在命題の否定」になります。
 ∀xK(x)→B(x) (x=あるもの、∀x=すべてのxは、K():は鴉である、→=ならば、B()=は黒い)

〖意味〗
すべての〔任意の,anyx は鴉である(∀x(x))ならば(→)、そのxは黒い(B(x)

ド・モルガンの定理(上記論理式全体を否定すると記号は逆になります)

∀xK(x)→B(x)x(x) (x) (x)→¬x(x) (x)¬∃xK(x)

〖意味〗
x は黒くない(¬B(x))ならば、鴉である〔と言える〕x(K(x))は〔一つたりとも〕存在しない(¬∃x)。 

 論理というものは、結論よりも「前提が正しければ」という条件の方が大事なのです。すなわち、上記命題「すべてのx は鴉であるならば、そのxは黒い」で言えば「すべてのx が鴉である」のかどうかの方が大事なのです。あくまでも「すべてのx が鴉である(それは鴉である)」ということが真の命題(言明)であるかどうかが一番大事なのです。

 上記Wikipediaに「カラスを一羽も調べること無く、それが事実に合致することを証明できる」とありますが、そんなことはありません。なんとなれば、「世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つもカラスがないことをチェックすれば証明することができる」とあるうちの「世界中の黒くないものを順に調べ」というのは「無限」に調べることですから、「調べ尽くした」ことを証明できません。いつまで経ってもどこまでやっても「調べ尽くした」とは言えません。実際問題としては「カラスを一羽も調べること無く」と言っていますが「世界中の黒くないものを順に調べ」るよりも「カラスを調べる」方が楽でしょうに、こういう詭弁に騙されてはいけません()。どちらにしても調べる気にはなりません。

 大事なのは、実際にどうであるか(実証)よりも先に「前提は真の命題であるか」という点を重視することが「論証を重んじる」ことなのです。

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消極的事実の証明(しょうきょくてきじじつのしょうめい、英語: Evidence of absence / proving non-existence)とは、ある事実が存在しない事実(消極的事実)の証明や証拠を指す。しばしば悪魔の証明の言葉が用いられることもあるが、この場合は特に自ら消極的事実の証明を行なう時というよりは、消極的事実の証明を求められた場合に、その立証困難性を前提として、立証責任を否定するために用いられる[1]。ただし、立証困難なだけで論証自体は論理学上の誤謬ではなく、むしろ反対に厳密には論理的に正しくなくとも消極的事実の証明がなされたと見なす場合もある。
 「証拠が無いことは、無いことの証明にならない(absence of evidence is not evidence of absence、証拠の不在は不在の証拠ではない)」という伝統的な格言の通り、この種の積極的な証明は、証拠が存在するとすれば既に見つかっているか、もしくは未知の証拠が存在する場合とは意味合いが異なる[2][3] 。この点に関して、 Irving Copiは次のように書いている。

 場合によっては、特定の事象が発生した場合、その事実を専門の調査者が確認できる可能性があると問題なく仮定することができる。そのような状況では、その事象が発生していないということの積極的な証明手段として、それが発生した証拠がないと示すのは、完全に合理的である。
— Copi、 Introduction to Logic (1953)、pp.95
Wikipedia「消極的事実の証明」より抜粋)
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2022年3月10日 (木)

平城京の大官大寺(18)―坪並は「平行式」だったのだろうか―

平城京の大官大寺18
坪並は「平行式」だったのだろうか[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学][条坊制と条里制] 
【図の修正のお知らせ(2022/03/11)
 図(坪並と坪地割)がわかりにくいため、修正(「千鳥式」「平行式」を右側に移動) したものに差し替えました。【図の修正のお知らせ 終わり】

 前回(平城京の大官大寺(17「坪名」の証言202239())で、「八ノ坪」「八餘」という坪名があり、小澤 毅氏の「十一坪・十二坪」と比定した高市郡路二十八条三里・四里の坪割とは整合しないという報告をしました。ブログにアップした後で、どうであればその位置が「八ノ坪」となるのか、ということが気にかかって来ました。

 今回は、一つの試案を示して問題提起としたいと思います。

 先ず、前提として「二十八条」という位置は小澤 毅氏の示した通りだとします。そう仮定すると、「八ノ坪」と書かれている位置が「八の坪」に該当する坪並(坪の並び方の順序)は、次のものしかありません(赤で塗りつぶしたところが「十一坪・十二坪」に当たります)。
「八ノ坪」が正しければ(クリックで拡大します)
Photo_20220310140101
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(1)ギヲ山と“溜池”の堺を「二里」と「三里」の堺とする。
(2)坪並(坪の並び方の順序)は「千鳥式」ではなく「平行式」とする。
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 「里」の番号は、中央側から順につけていくはずですから、「八の坪」が正しいと仮定すると、「二里」と「三里」の堺はギヲ山と“溜池”の堺になります。「平行式」と仮定すれば「二十八条」をそのままにできますが、「千鳥式」を仮定すると条の区分まで動かさねばならなくなります。
坪並と坪地割
70
 この図(「八ノ坪」が正しければ)を作成した後で、この「八の坪」を前提にした「二里」と「三里」の堺がギヲ山と“溜池”の堺となっていて、大官大寺の寺域がギヲ山などの丘陵地を避けた位置にあるという点が(偶然なのかどうかわかりませんが)とても気になっています。

 今回は「八ノ坪」とある坪地が文字通り「八ノ坪」となる「二十八条三里」の坪並を想定してみました。 なお、この情報が役に立つものかどうかは全く考えておりません。次回は、相原嘉之氏の「高市大寺の史的意義」に戻る予定です。

2022年3月 9日 (水)

平城京の大官大寺(17)―「坪名」の証言―

 平城京の大官大寺17
「坪名」の証言[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学]

 前回(平城京の大官大寺(16)―自説に都合よい「ふしぎなポッケ」―(2022年3月 8日 (火)))は、「条」「里」の表示が無く「坪」だけ記されている(史料2)『類聚三代格』神護景雲元年(767)一二月一日太政官符 によって、或るは「路東二十八条四里十一・十一十二〕」に、或るは「路東二十八条三里十一・十一〔十二〕」に、また或るは「木之本廃寺を含む路東二十六条三里(十一・十二坪)」に比定している(好きな位置に比定できる)ことを確認しました。

 ところが、とても気になることを見つけました。次図をご覧ください。相原嘉之氏の「高市大寺の史的意義」に書かれている比定地が「十一坪・十二坪」に該当するように高市郡路東二十八条三里を「坪割(千鳥方式)」したものです。ところが、「三十五坪」(㉟)に該当する場所に「八ノ坪」とあるのです。その西隣の「二十六坪」(㉖)に該当する場所に「八餘」(私には「餘」に見えます)とあります。「二十六坪」はほとんど溜池か何かなので「八餘」(八坪の余分)としたのだと考えられます。
高市郡路二十八条三里・四里の坪割(クリックで拡大できます)
Photo_20220309134801
 こうなると、小澤 毅氏の「十一坪・十二坪」と比定したことが間違っているのではないかという疑いが生じます。

 飛鳥・藤原宮発掘調査概報 7(昭和525月)(14650_1_飛鳥・藤原宮発掘調査概報.pdf)の藤原宮第19次の調査(藤原京右京71)(昭和5111月 ~昭和52 2)―7―には次のようにありました(一部抜粋です)。
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藤原京条坊の坪割については,最近の発掘調査の成果から,東西南北とも各1条の小路によって4つの坪に分けていることが明らかになっており,後述するように今回の調査でも7条条間小路にあたる道路を検 出した。しかし,現在のところ藤原京における坊内の坪についてはその呼称が明らかでないいため※ここでは仮に平城京の坪と同じ順序で呼ぶことにする。
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 だいぶ昔のことなので今では条坊については判明しているかも知れません。条坊についてはどちらにせよ、条里内の坪についてはその呼称が明らかでないため、仮に平城京の坪と同じ順序で呼んでいるということではないのでしょうか(平城京でなくても構いませんが)。

 なにが言いたいかと言えば、自説に都合が良ければ保存された地名を取り上げるけれども、自説に都合が悪い地名は無視する、そんなことでなければいいと思った次第です。

 今回は、「『高市大寺』を探せ」としている方々の比定地が、確たる根拠に基づいていないのではないか、という疑いがまた一つ増えたという報告です。

2022年3月 8日 (火)

平城京の大官大寺(16)―自説に都合よい「ふしぎなポッケ」―

平城京の大官大寺16
自説に都合よいふしぎなポッケ」―[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学]
【校訂のお知らせ】
 「高市大寺の史的意義」のpdf自体に誤記と思われる箇所(「路東二十八条四里十一・十一十二」・「路東二十八条三里十一・十一十二」)がありましたので、校訂しました(〔〕で校訂)。【校訂のお知らせ 終わり】

 前回(平城京の大官大寺(15)―万葉集の「屋部坂」―(2022年3月7日(月)))では、匿名の方からご教示いただいた「屋部坂」(万葉集第三巻269番歌の題詞「阿倍女郎屋部坂歌一首」)は、小澤 毅氏が指摘した『日本後紀』にある「野倍能佐賀(野倍の坂)」の「倍」は乙類であるのとは異なって、「夜部村」と同じ甲類の「部」であるが、この坂が高市郡にあるという根拠がないので、「夜部村」の位置を推定する参考にはならないことを明らかにしました。

 今回は、相原嘉之氏の「高市大寺の史的意義」(2021)に戻って、章「Ⅳ 文献史料上の検討」の項目「3 「高市郡高市里」の位置」から批判を続けます。

 相原嘉之氏は、次に掲げる『類聚三代格』(史料2)を根拠にして挙げられた「高市郡高市里」の比定地の妥当性を検討しています。
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(史料2 )『類聚三代格』神護景雲元年(767)一二月一日太政官符
 太政官符
  合田六町
   大和国二町〈一町路東十一橋本田。一町路東十二岡本田。在高市郡高市里専古寺地西辺。〉
    右修理金堂内仏菩薩幷歩廊中門文殊維摩羅漢等像
     (中略)
  以前。被左大臣宣偁。奉勅。件田並永献入於大「寺」安寺
    神護景雲元年十二月一日
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 神護景雲元年は西暦(ユリウス暦)七六七年です。

❶田村吉永氏の比定地:「大官大寺の東にあたる路東二十八条四里十一・十一十二 坪の小字「中坪」「ニシノフケ」「大安寺」に比定
❷小澤 毅氏の比定地:「路東二十八条三里十一・十一十二 坪に比定
路東二十八条
Photo_20220308153201
❸相原嘉之氏の比定地:「木之本廃寺を含む路東二十六条三里
路東二十六条三里
Photo_20220308153601

 まず、一番に問題としておかなければならないことは、(史料2)にある「路東十一」「路東十二」というのは、「路東十一坪」「路東十二坪」を示しているだけであり、「何条何里」であるかは不明なのです。つまり比定地の「二十八条」「二十六条」というのは自説に都合よく当て嵌めているだけ、のものなのです。

 「当て嵌めているだけ」であることは無視するとしても、❶田村吉永氏の比定地は、(史料2)には「専古寺地西辺」と「寺地の西辺」とあるのに「東辺」なので問題外です。❷小澤 毅氏の比定地は、「大官大寺以前の瓦の出土や平城京大安寺と共通する瓦の出土」とあり、根拠はこれだけと言っても過言ではないでしょう。まず、寺跡であることを証明するには瓦の出土だけではなく、伽藍の基壇などの痕跡が検出されねばなりません。吉備池廃寺では「瓦窯跡」という見解が有力であったり、小澤氏の比定地では瓦の出土だけで伽藍基壇の痕跡も検出されて無いのに(未調査なら「無い」のと同等)寺院跡と見なしていたりして、「ご都合主義」が過ぎています。❸相原嘉之氏の比定地は、条里を自説に都合よく当て嵌めているだけでなく、その比定地が「高市郡」に属することすら証明されていません(「ここが高市郡であったことが前提となる」)。

二十八条三里と大官大寺調査区位置図(第5次)の合成図(山田による)
Photo_20220308154001
調査区位置図(「大官大寺第5次発掘調査現地説明会資料」より)
5_20220308154101

 推論の前提は確かな命題
(()の命題)でなければ(すなわち、偽()の命題を前提にすれば)、どんな結論を導いても真()になります(つまり、正しい推論ではない(=論証ではない))。

命題の真理値表(記号の説明、:ならば。:同値。¬:でない・否定。:または・左右のどちらかが真)
Photo_20220308154301
「→」の真理値表(「P→Q」(PならばQ)と「¬P∨Q」(「Pでない」または「Qである」)は同値です。)

 

 《余談》今回は、上記の比定地を検討しましたが、「ドラえもんのうた」を思い出してしまいました。
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こんなこといいな できたらいいな
あんな夢 こんな夢 いっぱいあるけど
みんなみんなみんな かなえてくれる
ふしぎなポッケで かなえてくれる
空を自由に とびたいな
「ハイ! タケコプター」
アンアンアン
とってもだいすき ドラえもん
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 自説に都合よく希望・願望を語っても真理にはたどり着くことはありません。

 なお、下記は今回俎上に上げた 章「Ⅳ 文献史料上の検討」の項目「3 「高市郡高市里」の位置」の全文です。次回は同章の項目「4 路東二十六条三里は高市郡か」を見ていく予定です。

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3 「高市郡高市里」の位置

 『類聚三代格』(史料2)にみえる大安寺に献入された6 町のうち、専古寺地西辺にある「路東十一橋本田」と「路東十二岡本田」が含まれる「高市郡高市里」とは、どこを指すのであろうか。ここには「専古寺地西辺」とあることから寺域の西辺であることは間違いない。田村吉永氏は、大官大寺の東にあたる路東二十八条四里十一・十一〔十二〕坪の小字「中坪」「ニシノフケ」「大安寺」に比定する。ここは運河(狂心渠)及びその西隣接地にあたるが、西辺ではなく、大官大寺の東辺にあたる(田村1960)。単純に誤記だけでは片付けられない。一方、小澤氏は路東二十八条三里十一・十一〔十二〕坪に比定し、ここに大官大寺以前の瓦の出土や平城京大安寺と共通する瓦の出土から、大官大寺の寺地が西方にも広がっており、ここに高市大寺を想定している。また、「橋本田」(現小字サコツメ)は、近くの飛鳥川に現在も架かる橋があること、「岡本田」(現小字はフケノツボ)は丘陵の裾にあたることに由来する小字名とした(小澤2003)。

 このように、「古寺地西辺」にあたる高市郡高市里に諸説がみられるのは、明確な条里が明記されていないからである。京南条里のうち下ッ道の東に広がる高市郡路東条里の坪番付は記されるが、史料2 では条と里は省略されている。このことが、場所の特定を混乱させる原因であるが、この他に「高市郡高市里」を想定できる場所はないのであろうか。そこでもうひとつの可能性として、木之本廃寺を含む路東二十六条三里をあげる。この西辺の11・12 坪は小字「ユウカイ」・小字「京トノ」「南京トノ」と呼ばれている。香具山からは350 m程離れているが、「岡本田」の由来とも考えられなくもない。一方、「橋本田」の由来になるような河川や橋はみられないが、この場所は藤原宮東面南門にあたり、門をでると外濠が横たわっていたことから、当然橋が架設されていた場所である。東外濠は、幅5.5 ~ 6 mで、「橋本田」の由来になった可能性は否定できないと考える。このように、専古寺地西辺にある路東十一橋本田と路東十二岡本田には二つの候補地が存在し、「高市郡高市里」は路東二十八条三里だけでなく、路東二十六条三里も候補にあがる。ただし、前者は明らかに高市郡に属するものの、後者の場合、ここが高市郡であったことが前提となる
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2022年3月 7日 (月)

平城京の大官大寺(15)―万葉集の「屋部坂」―

平城京の大官大寺15
万葉集の屋部坂」―[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学] 

前回(平城京の大官大寺(14破綻した「夜部村=日高山丘陵近傍」論202236())は、相原嘉之氏が「奈良大学紀要第49号」に発表された論文「高市大寺の史的意義(2021)の「Ⅳ 文献史料上の検討」の「2 高市大寺の位置」において、「小澤氏が指摘するように、夜部村の場所は、『日本後紀』に「大宮に向へる野倍の坂」(史料3)が参考になる。」とし、「ここ〔(史料3)『日本後紀』巻一三 大同元年(806)四月庚子条〕にある「大宮」とは坂の存在から藤原宮と推定され、「野倍の坂」とは宮正面南側にある日高山丘陵を降る朱雀大路の坂に比定するのが妥当である(小澤2003)。よって、夜部村は日高山丘陵を含む地域となる。」とありますが、万葉仮名では「夜部村」の「」は甲類であり、「野倍能佐賀」(「野倍の坂」)の「」は乙類なので、小澤 毅 氏が提示した(史料3)は、「高市郡夜部村」の位置を推定する参考にはならないことを指摘しました。
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 史料4 には百済大寺を高市郡夜部村に移して「高市大官寺」と称したことが記される。先にみたように「高市大官寺」が大官大寺を含むかは別にして、高市大寺が夜部村にあることは間違いない。この夜部村の場所は、『日本後紀』に「大宮に向へる野倍の坂」(史料3)が参考になる。小澤氏が指摘するように、ここにある「大宮」とは坂の存在から藤原宮と推定され、「野倍の坂」とは宮正面南側にある日高山丘陵を降る朱雀大路の坂に比定するのが妥当である(小澤2003)。よって、夜部村は日高山丘陵を含む地域となる。
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 万葉仮名の甲類・乙類の分類によれば、「「野倍の坂」とは宮正面南側にある日高山丘陵を降る朱雀大路の坂に比定するのが妥当」であろうがなかろうが、夜部村は日高山丘陵を含む地域となる。」という推論は成り立たないのです。 

 ところが、匿名の方から、万葉集第三巻269番歌に題詞が「阿倍女郎屋部坂歌一首」とあるとご教示いただきました。次がその歌です。
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人不見者 我袖用手 将隠乎 所焼乍可将有 不服而来来
ひとみずは わがそでもちて かくさむを やけつつかあらむ きずてきにけり
〖訓読〗
人見ずは 我が袖もちて 隠さむを 焼けつつかあらむ 着ずて来にけり
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 たしかに、「屋部坂」の「部」は「夜部村」と同じ「部」で甲類です。「あ段」には甲・乙の別はなく、「也 移 楊 耶 野 八 矢 」は同音で、「矢部村」も「屋部坂」も同音の「やへ」です。

 だがしかし、この「屋部坂」が高市郡にある坂である、という根拠がありません。だからやはり小澤 毅 氏の指摘と同様に高市郡の「矢部村」の位置を推定する参考にはならないのです。さらに言えば、この「屋部坂」は平群郡の「志比坂」に比定する見解もあるのです。
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 先ず、題詞の「屋部坂」について、『万葉集の旅』(昭和三十九年)には「奈良県の中であろうが所在不明」(上の三○六頁)とあり、諸注は前に引用の『万葉集講義』の大官寺趾の小山あたりとする説に従うのであるが。土屋文明氏は一旦はこれによられていたのであるが(「屋部坂」、『続万葉紀行』昭和二十一年)、「天平十九年の法隆寺資財帳に見える平群郡屋部郷」に注目、
  平群郡の屋部郷は法隆寺、法輪寺の西方、平群川両岸の地で
  あることが知られ、そこから志比坂を越えると河内の八部に
  出ることが知られる。そこで考えれば、その志比坂こそ、屋部
  坂であるといはねばなるまい。そしてそれは結局今の信貴山越
  の道であろう。峠が八部坂なるため、東西の坂本に屋部八部を
  名とする部落が存するのであろう

と、そして、「坂としても亦、万葉時代の主要交通路線としても申し分ない」(「屋部坂補正」、同右一七一~四頁)といわれ、『万葉集私注』の記述はこれによられている。私は、この信貴山越の道に従いたいと思う。河野頼人「人見ずはわが袖もちて隠さむを―万葉集巻三の二六九番歌の解釈―」―5―より抜粋)
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 ちなみに、阿倍女郎については次をご覧ください。
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阿倍女郎 あべの-いらつめ
?-? 奈良時代の女性。
和銅-宝亀(ほうき)(708-780)のころの人。中臣東人(なかとみの-あずまひと)との贈答歌など5首が「万葉集」巻3,4におさめられている。巻8には安倍女郎の名による大伴家持(やかもち)との贈答歌もあるが,これは別人とみられる。姓は安倍ともかく。
【格言など】わが背子は物な思ほし事しあらば火にも水にもわれ無けなくに(「万葉集」)
(講談社 デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「阿倍女郎」の解説 より抜粋)
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 今回も万葉仮名に終始してしまいました。 次回こそ、次の項目「3 「高市郡高市里」の位置」から見ていきたいと思っています。

 なお、『万葉集』にある阿倍女郎の歌(269番歌を除く)を掲げておきます。
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4 505番歌
安倍女郎歌二首
今更 何乎可将念 打靡 情者君尓 縁尓之物乎
いまさらに なにをかおもはむ うちなびき こころはきみに よりにしものを 

4 506番歌
(安倍女郎歌二首)
吾背子波 物莫念 事之有者 火尓毛水尓<母> 吾莫七國
わがせこは ものなおもひそ ことしあらば ひにもみづにも われなけなくに 

4 514番歌
阿倍女郎歌一首
吾背子之 盖世流衣之 針目不落 入尓家良之 我情副
わがせこが けせるころもの はりめおちず いりにけらしも あがこころさへ

4 516番歌
阿倍女郎答歌一首
吾以在 三相二搓流 絲用而 附手益物 今曽悔寸
わがもてる みつあひによれる いともちて つけてましもの いまぞくやしき

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