平城京の大官大寺(19)
―骨折り損のくたびれ儲け―[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学]
前回(平城京の大官大寺(18)―坪並は「平行式」だったのだろうか―(2022年3月10日(木)))は、「八ノ坪」とある坪地が文字通り「八ノ坪」となる「二十八条三里」の坪並を想定してみました。その作業を通じて、「大官大寺」の寺域(多分)がギヲ山などの丘陵地を避けた位置にあるということに気づきました。
今回は、予定した通り相原嘉之氏の「高市大寺の史的意義」の章「Ⅳ 文献史料上の検討」項目「4 路東二十六条三里は高市郡か」を見ていきます。
挙証責任の在処
相原嘉之氏は「大官大寺を含む路東二十八条三里が、高市郡であることは明確」と述べ、また相原氏が高市大寺の所在地と見る「木之本廃寺を含む路東二十六条三里は、高市郡と十市郡の境界ちかく」であるが「近世以降は、確実に十市郡に属していた」と述べています。ならば、相原氏がなすべきことは「(史料2)『類聚三代格』神護景雲元年(767)一二月一日太政官符の出た時点には高市郡に属していたこと」立証することなのです。
ところが、相原氏は「郡界ちかくに位置することから、古代においても同様であったかは明確ではない。」と、古代においても十市郡であったことを明確にする必要があるとして、挙証責任を転嫁しています。古代から近世になるまでの間に「木之本廃寺を含む路東二十六条三里」が高市郡から十市郡に属することになる郡境界の変更があったことを立証する責任は相原氏にあるのです。変更が無かったことを証明するのは「悪魔の証明(1)」であり、不可能です。変更があったことを相原氏が証明しなければならないのです。
畝尾都多本神社からわかるか
相原嘉之氏は(史料5)を挙げて、「畝尾都多本神社は『延喜式』神名式上6 条の大和国十市郡の項に記される式内社」であるが「左京六条三坊の調査成果から考えても、少なくとも藤原京時代には現在地に同神社が存在しなかったことが、遺構の展開状況からみて間違いない。」とし、「「香山の畝尾の大本に坐す」は十市郡に属する」が「神社はしばしば場所を移動することがあり」「その場所は現在位置には特定できない。」とします。「十市郡」の現在地に無かったとしても「高市郡」にあったことにはなりません。
相原氏は(史料5)を掲げて、「大脇潔氏は「飼」を「餘」の誤写と考え、高市郡側に十市郡が食い込んだ土地を指す用語と考えた(大脇2005)。」と大脇 潔氏の解釈を紹介しています。また、「明治時代の郡界を条里に重ねると、平地部では高市郡路東二十四条一里~三里及び高市郡路東二十四条~二十八条三里となる。前者では横大路が、高市郡と十市郡の境界となっているが、路東二十四条一里が「十市飼条一里」に該当する。」と明治時代の郡界も紹介されています。
次がその(史料5)です。
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(史料5)「大和国高市郡司幷在地刀禰等解案」(『平安遺文三』1134 号)承保三年(1076)九月一〇日付
高市郡東廿四五六七条、以一里為女子分。業房朝臣領、東廿四条二里、同廿五条二里、同廿五条二里、東廿八条一里・二里・四里、十市飼条一里、同廿六条、同廿九条、高市廿九条一二三四里、同卅条一二三四里、同卅一条一二三里等、処分業房朝臣既了。
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(史料5)についてはどの解釈が正しいとは断言できません。
次図は奈良女子大学 古代学学術研究センター 「奈良盆地歴史地理データベース」の小字データベース(2)によって、小字の属する郡を調べた結果による郡界です。斜線で塗った場所が、相原嘉之氏の高市大寺比定地です。小字データベースでは高市郡となっていますが、古代がそうであったかどうかは不明です。
十市郡と高市郡の郡界(クリックで拡大できます)
木之本町周辺図
相原氏は「「十市飼(餘)廿六条」という表現は、高市郡に十市郡が食い込むのであり、十市郡に高市郡が食い込むのではない。つまり「高市郡路東二十六条三里」の一部に「十市郡路東餘二十六条三里」が含まれているとみるべきではないだろうか。このことは、本来高市郡である里の一部に十市郡が含まれるのであって、割合的には、その里の中では、高市郡の割合が大きいとみるべきである。」と述べていますが、「割合的には、その里の中では、高市郡の割合が大きい」ということはなくて、十市郡の割合が大きいように見えます(高市郡の割合=(9坪/36坪)/里=25%)
「この郡界については中ッ道の南延長線、あるいは木之本街道を境界とする説もあるが、明確ではない。」とも述べられています。
また「「郡界は必ずしも固定的なものではないが、調査地に関していえば、十市郡に属することを示す史料はあっても、高市郡に属する史料は皆無である。完全な証明はできないが、8 世紀においても十市郡に属したと考えるべきではなかろうか。」とまとめている(奈文研2017)。」という奈文研の見解もうなずけます。しかし、この件に関してはこれが正しいということは出来ないと思います。つまり、肯定するにせよ否定するにせよ、決定的な根拠にはなり得ないのではないでしょうか。
今回の項目に無関係ですが、坪並が「千鳥式」である小字名がありました(ピンクの楕円で囲ってある部分)。
(1)「悪魔の証明」とは、論理的に証明することができない「~(事象)は無い。~(事象)は無かった。」のような(存在を否定する)命題の証明を求めること(ex.「幽霊」或いは「神」は存在しないという証明)を指していいます。実証するのが非常に困難な命題の証明を求めることではありません。
(2) 以下は「小字データベース」による解説です。
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小字について
小字(こあざ)は土地の小区画の名称で、公称地名です。単に字(あざ)とも呼ばれ、筆(ひつ)の上位単位として近現代の土地台帳に記載されています。
通常は数筆の土地からなりますが、広さはきわめて多様です。奈良盆地では、条里地割が残るため、面積が古代の1町(近世以降の約1.2町、約109m四方)の小字が多く見られます。
近世以前の文献史料や古地図資料に現れる地名が、現在も小字名として残っている事例があります。そのため、小字は、これらの資料に記載された土地がどこにあるのか、現地比定をするための手がかりとなります。
また、小字名には「クボ」「フケ」などのように自然環境に由来するもの、「一ノ坪」「二ノ坪」などの条里制のもとでの呼称、藤原宮大極殿の遺構が見つかった小字の「大宮」、古代の幹線道路に由来する「大道」などのように、過去の景観の名残を留めたものがあります。これらは、その土地の景観を復原する際の重要な手がかりになります。
※ 筆・・・田畑・宅地などの一区画(広辞苑第6版)
条里プランについて
奈良盆地では、条里の地番呼称が比較的多く小字名として残っています。
条里呼称は奈良県立橿原考古学研究所によって小字名や条里の地番が記載された古文書から復原されています(奈良県立橿原考古学研究所編『大和国条里復原図』1981年)。小字データベースにおいても、この条里呼称を小字に重ねて表示できるようにしました。
小字データベースの条里呼称データは、機械的に奈良盆地を1辺約109mの正方形に分けて作成されていますので、実際の地割とぴったり合わないところもあります。このような場所があるということは、一斉に同じ規格で条里地割が施工されたわけではなく、いくつかの工事区に分かれていたり、長い期間をかけて工事が行われたりした可能性が高いことを意味します。条里や坪の境界線と地図のずれの大きさが、場所によって異なることも確認して下さい。
奈良盆地の条里制については、木村芳一ほか編『奈良県史4 条里制』(名書出版、1987年)、奈良県立橿原考古学研究所編『大和国条里復原図』1981年を参考にしています。
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今回は、項目「4 路東二十六条三里は高市郡か」を検討しましたが、高市郡と十市郡の郡界についての結論は(予想していましたが)得られず、骨折り損のくたびれもうけに終わりました。高市郡か十市郡か云々の議論を多少可視化できたことをよしとして慰めるしかありません。次回は章「Ⅴ 考古学的検討」に移りますので、はっきりした議論ができるのではないかと思っています。
以下は、今回検討した項目「4 路東二十六条三里は高市郡か」の全文です。
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4 路東二十六条三里は高市郡か
大官大寺を含む路東二十八条三里が、高市郡であることは明確である。一方、木之本廃寺を含む路東二十六条三里は、高市郡と十市郡の境界ちかくにあたる。近世以降は、確実に十市郡に属していたが、郡界ちかくに位置することから、古代においても同様であったかは明確ではない。藤原京左京六条三坊の発掘調査報告書では、調査成果の考察のなかで、調査地の郡域についても検討をしている。その材料としたのが、畝尾都多本神社と喜殿荘関係史料である。
畝尾都多本神社は『延喜式』神名式上6 条の大和国十市郡の項に記される式内社で、『古事記』上巻の火神被殺段には、伊邪那岐命が弉諾尊伊邪那美命の死を悲しんで流した涙から「泣沢女神」が生まれ、「香山の畝尾の大本に坐す」という伝承があり、その立地から畝尾都多本神社と考えられている。
しかし、神社はしばしば場所を移動することがあり、左京六条三坊の調査成果から考えても、少なくとも藤原京時代には現在地に同神社が存在しなかったことが、遺構の展開状況からみて間違いない。「香山の畝尾の大本に坐す」は十市郡に属することはわかるが、その場所は現在位置には特定できない。
一方、喜殿荘関係史料のうち、承保3 年(1076)9 月10 日付の大和国高市郡司幷在地刀禰等解案(『平安遺文三』1134 号)には、条里坪付が記されている(史料5)。この史料には「同廿五条二里」が2 度登場するなど、明らかな誤写が含まれているが、最も難解なのは「十市飼条一里、同廿六条、同廿九条」である。大脇潔氏は「飼」を「餘」の誤写と考え、高市郡側に十市郡が食い込んだ土地を指す用語と考えた(大脇2005)。明治時代の郡界を条里に重ねると、平地部では高市郡路東二十四条一里~三里及び高市郡路東二十四条~二十八条三里となる。前者では横大路が、高市郡と十市郡の境界となっているが、路東二十四条一里が「十市飼条一里」に該当する。一方、後者では、路東二十六条三里が「同廿六条」に該当し、高市郡側に十市郡が食い込んでいる。『報告書』では「高市郡路東二十六条三里に十市郡が食い込む部分こそ、調査地の所在地に他ならない点は見逃せない。このことは、11 世紀後半段階には調査地が十市郡に属していたことを示す資料的根拠となるのである」。さらに「郡界は必ずしも固定的なものではないが、調査地に関していえば、十市郡に属することを示す史料はあっても、高市郡に属する史料は皆無である。完全な証明はできないが、8 世紀においても十市郡に属したと考えるべきではなかろうか。」とまとめている(奈文研2017)。
しかし、この史料は高市郡路東二十六条三里に十市郡が食い込むことを示す史料であって、調査地が十市郡に含まれるかは明らかではない。また、「十市飼(餘)廿六条」という表現は、高市郡に十市郡が食い込むのであり、十市郡に高市郡が食い込むのではない。つまり「高市郡路東二十六条三里」の一部に「十市郡路東餘二十六条三里」が含まれているとみるべきではないだろうか。このことは、本来高市郡である里の一部に十市郡が含まれるのであって、割合的には、その里の中では、高市郡の割合が大きいとみるべきである。
この郡界については中ッ道の南延長線、あるいは木之本街道を境界とする説もあるが、明確ではない。明治期には木之本街道を境界として、一部その東や西にずれている箇所もある。しかし、この場合、里の中で、ほぼ半分の割合となり、主が高市郡なのか、十市郡なのかは不明瞭となる。この三里内には中の川が南北に貫流している。ほぼ直線であることから、地形地物を郡界の基準とみるならば、中の川は有力な郡界ラインとすることができる。この場合、路東二十六条三里の中の川以西は高市郡に含まれる可能性が残されている 1)。
注
1)このように考えると、藤原京左京六条三坊の奈良時代以降の遺構群は、高市郡に含まれないことをもって、「香具山正倉」の可能性を否定されているが(奈文研2017)、高市郡に含まれる可能性があるのでその可能性が浮上する。( 注1)は90頁より移動した)
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【参考】
悪魔の証明(あくまのしょうめい、ラテン語:probatio diabolica、英語:devil's proof)とは、証明することが不可能か非常に困難な事象を悪魔に例えたものをいう。中世ヨーロッパのローマ法の下での法学者らが、土地や物品等の所有権が誰に帰属するのか過去に遡って証明することの困難さを、比喩的に表現した言葉が由来である[1][2]。
悪魔の証明の誤用
「ヘンペルのカラス」および「消極的事実の証明」も参照
悪魔の証明は証明不可能な事態を指し、単に証明困難な事態を指すのではない[2]。「ない」という消極的事実の証明を求めることは証明不可能で悪魔の証明になるが、「ある」という積極的事実の証明を求めることは単に証明困難なだけで悪魔の証明にならない[2]。(Wikipedia「悪魔の証明」より)
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「ヘンペルのカラス」は「全てのカラスは黒い[注釈 1]」という命題を証明する以下のような対偶論法を指す[1]。
「AならばBである」という命題の真偽は、その対偶「BでないものはAでない」の真偽と必ず同値となる[2][3][4]。全称命題「全てのカラスは黒い」という命題はその対偶「全ての黒くないものはカラスでない」と同値であるので、これを証明すれば良い[2][3]。そして「全ての黒くないものはカラスでない」という命題は、世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つもカラスがないことをチェックすれば証明することができる[3]。
つまり、カラスを一羽も調べること無く、それが事実に合致することを証明できるのである[2][3]。これは(この論法は)日常的な感覚からすれば奇妙にも見える[2][3]。
こうした論法が「ヘンペルのカラス」と呼ばれている。(Wikipedia「ヘンペルのカラス」より抜粋)
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「全称命題」の対偶は「存在命題の否定」になります。
∀xK(x)→B(x) (x=あるもの、∀x=すべてのxは、K():は鴉である、→=ならば、B()=は黒い)
〖意味〗
すべての〔任意の,any〕x は鴉である(∀xK(x))ならば(→)、そのxは黒い(B(x))
ド・モルガンの定理(上記論理式全体を否定すると記号は逆になります)
∀xK(x)→B(x) ⇔ ¬∀xK(x)← ¬B(x) ⇔ ¬B(x)→¬∀xK(x) ⇔ ¬B(x)→¬∃xK(x)
〖意味〗
x は黒くない(¬B(x))ならば、鴉である〔と言える〕x(K(x))は〔一つたりとも〕存在しない(¬∃x)。
論理というものは、結論よりも「前提が正しければ」という条件の方が大事なのです。すなわち、上記命題「すべてのx は鴉であるならば、そのxは黒い」で言えば「すべてのx が鴉である」のかどうかの方が大事なのです。あくまでも「すべてのx が鴉である(それは鴉である)」ということが真の命題(言明)であるかどうかが一番大事なのです。
上記Wikipediaに「カラスを一羽も調べること無く、それが事実に合致することを証明できる」とありますが、そんなことはありません。なんとなれば、「世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つもカラスがないことをチェックすれば証明することができる」とあるうちの「世界中の黒くないものを順に調べ」というのは「無限」に調べることですから、「調べ尽くした」ことを証明できません。いつまで経ってもどこまでやっても「調べ尽くした」とは言えません。実際問題としては「カラスを一羽も調べること無く」と言っていますが「世界中の黒くないものを順に調べ」るよりも「カラスを調べる」方が楽でしょうに、こういう詭弁に騙されてはいけません(笑)。どちらにしても調べる気にはなりません。
大事なのは、実際にどうであるか(実証)よりも先に「前提は真の命題であるか」という点を重視することが「論証を重んじる」ことなのです。
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消極的事実の証明(しょうきょくてきじじつのしょうめい、英語: Evidence of absence / proving non-existence)とは、ある事実が存在しない事実(消極的事実)の証明や証拠を指す。しばしば悪魔の証明の言葉が用いられることもあるが、この場合は特に自ら消極的事実の証明を行なう時というよりは、消極的事実の証明を求められた場合に、その立証困難性を前提として、立証責任を否定するために用いられる[1]。ただし、立証困難なだけで論証自体は論理学上の誤謬ではなく、むしろ反対に厳密には論理的に正しくなくとも消極的事実の証明がなされたと見なす場合もある。
「証拠が無いことは、無いことの証明にならない(absence of evidence is not evidence of absence、証拠の不在は不在の証拠ではない)」という伝統的な格言の通り、この種の積極的な証明は、証拠が存在するとすれば既に見つかっているか、もしくは未知の証拠が存在する場合とは意味合いが異なる[2][3] 。この点に関して、 Irving Copiは次のように書いている。
場合によっては、特定の事象が発生した場合、その事実を専門の調査者が確認できる可能性があると問題なく仮定することができる。そのような状況では、その事象が発生していないということの積極的な証明手段として、それが発生した証拠がないと示すのは、完全に合理的である。
— Copi、 Introduction to Logic (1953)、pp.95
(Wikipedia「消極的事実の証明」より抜粋)
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