多元的「国分寺」研究

2023年1月27日 (金)

倭国一の寺院「元興寺」(7)―太宰府にあった傍証―

倭国一の寺院「元興寺」(7)
太宰府にあった傍証[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究]

 この「倭国一の「元興寺」」シリーズの第一回 『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院 ―2023年1月1日(日) で、次のような論理で「元興寺が太宰府にあった」としました。
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葦北津~太宰府~対馬
20230127
 上図が百済人の本国送還のルート(赤線)の想定です。この道中のどこかに百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院である「元興寺」があったと考えられます。なぜ「対馬に至ってから留まりたいと願い出た」のでしょうか。「元興寺が対馬にあった」とも考えられますが、百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院を国境となっている対馬に造営するとは考え難いでしょう。むしろ、対馬(倭国)を離れれば「二度と元興寺でお勤めする機会はない」という切迫した感情が「帰国ではなく在留」を決断させたのではないでしょうか。「対馬に至って」の理由はこれだと私は読み解きました。

 さすれば、結論は決まってきます。「元興寺」は倭国の首都(太宰府)に在ったことになります。倭国一の寺は倭国の首都に造営されるのが当然だと私は考えます。
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 私自身、「この理屈で万人が納得する」とは思えませんでした(ああも言えればこうも言える理屈=論証できていなかった)。今回、「元興寺」が太宰府にあった論理的傍証を見つけましたので報告いたします。

 

寺院の建立場所

 寺院の建立場所に地理的な条件は特にありません。人里離れた山奥にも里村の中にも建てられています。道がない場所でさえ武蔵国分寺のように「参道」で繋いでいます。つまり、建立時の事情にさえ合えば、寺院はどこにも建てられます。
参道を付けた寺院のイメージ
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「元興寺」の曲がった外郭

 次の図をご覧ください。「南大門」から出た外郭が屈曲しています。
「元興寺」の曲がった外郭
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 この外郭の曲がりは以前から気になっていましたが、やっとその理由(わけ)に気づきました。

 参道さえ付ければどこにでも建てられる寺院が、南大門から出た外郭にこのような屈曲を付けなければならない理由はただ一つだけなのです。

 

大路に面した寺院

 寺院が「大路」に面していた場合、まっすぐな外郭に「南大門」を付けると次のようになります。
真っ直ぐな外郭に付いた「南大門」
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 当たり前ですが、これでは交通の妨げになりますので、少なくとも次の位置まで「南大門」を寺地内に下げる必要があります。

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 「元興寺」が太宰府にあった傍証とは、「元興寺」が「大路」に面して建てられていたことを「屈曲した外郭」(「南大門」の位置)が示している、ということです。

 「いや、平城京だからじゃないか。」という反論が成り立つでしょうか。それは成り立ちません。なぜなら、九州(葦北津~対馬までの百済人送還ルート上)に平城京はありません。九州で「条坊都市」と言えるのは「倭京(太宰府)」だけだからです。私は寡聞にして九州の「条坊都市」は「太宰府」しか存じませんが、この百済人送還ルート上で太宰府以外の「条坊都市(遺構)」の存在をご存じであればご教示くださるようお願いいたします。

 

塔の景観を損なう「南大門」

 上図は「元興寺」の伽藍配置(復原図)とは「南大門」の位置に違いがあります。すこしテーマから外れますが、その理由を検討します。

 上図では、寺院の前(すなわち「南大門」の前)に立った人が塔を仰ぎ見た時、「南大門」が塔を覆い隠す状態になります(青色で示した塔の視野角に「南大門」が入り込んでいます)。
塔の景観を損なう「南大門」
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塔の景観を重視した伽藍配置
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 「元興寺」の「南大門」は、塔の景観を重視して位置決めされていると考えられます。大路から寺地に入る位置(「南大門」の前)に立って塔を仰ぎ見る視野の妨げにならない位置に「南大門」が置かれていることがわかります。「南大門」を通り抜けて「中門」との中間地点でも「南大門」が妨げになっていません。つまり、礼拝が終わって「中門」を通り抜けた時にも塔を仰ぎ見る視野の妨げにならない位置に「南大門」が置かれているのです。

 

妄想が暴走

 ここまで解明してみると、次のような妄想の暴走が起きました。

太宰府にあった倭国一の「元興寺」は「七重塔の双塔」ではなかったか?

「高市大寺(藤原京の大官大寺)」も、その前身の「百濟大寺」も「九重塔」でした。「九重塔」があるのに倭国一の「元興寺」が五重塔であったのだろうか。「七重塔」を建てよという聖武詔勅は、倭国一の「元興寺」が「七重塔」であったからではなかったか。妄想は妄想としてとっておきましょう。

 次回は「元興寺伽藍配置」ではなく「元興寺伽藍配置」の仮説を述べる予定です。

倭国一の寺院「元興寺」(6)―「元興寺の伽藍配置」―

倭国一の寺院「元興寺」
―「元興寺の伽藍配置」―[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究]

【訂正のお知らせ(2023/01/27)】
「元興寺伽藍配置」と題する次図は「元興寺伽藍配置(復元図)」の誤りでしたので、図を差し替えました。
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【訂正のお知らせ】終わり



 倭国一の寺院「元興寺」(5)―伽藍配置の復原―2023年1月19日(木)は、次の事実から、倭京(太宰府)の「元興寺」は縦型の回廊をもつ古式寺院の特徴を備えているとし、内郭の縦横比は3:2の比率を持っていたとし、その様式をそのまま大安寺に移したとして、復原を試みたものです。また、それを検討する中で、塔の心々間距離が内郭の縦の長さと同じであったため、塔も道慈の「修造」前はその距離で倭京(太宰府)あるいは平城京(左京六条四坊)に建っていたであろうとしました(「双塔」で「新式」!)。

「法興寺(ほうこうじ)」(飛鳥寺(あすかでら))を平城京に移した「新元興寺」(注1)の伽藍配置が「「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」」であること
② 倭京(太宰府)に存在した倭国一の寺院「元興寺」を平城京に移築した「大安寺」も「新元興寺」と同じ「縦型」であること。
「大安寺」の「南大門」(注2)と「中門」の間が狭いので「古式寺院」(注3)とみられること

元興寺の伽藍配置(復原図)
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一部分、外郭の屈曲を左右対称になるように、修正しています

 縦横3:2の比率がこんなにもドンピシャリと適合するとは、思ってもいませんでした。しかも、内郭(回廊基壇)の外側で当てはまるのは「信濃国分寺」の「〇〇寺」(尼寺)と同じなのですから驚きました。復原に用いた図は、奇しくも森郁夫氏の「わが国古代寺院の伽藍配置」の「挿図9 大安寺伽藍配置図1:2500」(26頁)でした。
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これは国立国会図書館デジタルコレクションからダウンロードできます。皆さん自身で確認できるでしょう。 

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注1 「法興寺」(飛鳥寺)を平城京に移した「新元興寺」 ‥‥‥ 『続日本紀』養老二年(七一八)九月甲寅〔23日〕条に「法興寺を新京に遷す。」(原文「甲寅、遷法興寺於新京。」)とあります。
 霊亀二年(七一六)五月に「元興寺」を倭京(太宰府)から平城京左京六条四坊に大安寺として移築した(「元興寺」が消滅した)ので、養老二年(七一八)九月に「法興寺(飛鳥寺)」を移して「元興寺」を名乗れたわけです(この順序関係は重要です)。次のブログ記事に詳しく述べています。
平城京の大官大寺(2)―「元興寺」が移築された―2022年2月7日(月) 

注2 「大安寺」の「南大門」 ‥‥‥ このもと倭京にあった「元興寺」の「南大門」は、『続日本紀』霊亀二年(七一六)五月辛卯〔16日〕条に「始めて元興寺を左京六条四坊に徙(うつ)し建(た)つ。」(原文「始徙建元興寺于左京六条四坊」)段階では文字通り「南大門」でした。しかし、「702年(大宝2年)第八次遣唐使船で唐へ渡り[1]、西明寺に住して三論に通じて、仁王般若経を講ずる高僧100人のうちの一人に選ばれた。718年(養老2年)15年に渡った留学生活に幕を閉じ、第九次遣唐使の帰りの船で帰国した[1]」(Wikipedia「道慈」より)道慈が「塔院(双塔)」を七条四坊(左京六条四坊の大安寺が面した六条大路を挟んだ南ブロック)に修造した時点で「南大門」が新造されたので、もとの「南大門」を「南中門」と呼ぶことになったものです。

大安寺の「南中門」(元興寺の「南大門」)について、詳しくは次のブログ記事をご覧ください。
“大安寺式伽藍配置”は無かった ―大安寺“南大門”、塑像の証言―2017年7月10日(月)
平城京の大官大寺(1)―南中門の塑像―2022年2月7日(月)
道慈の「修造」については次のブログ記事をご覧ください。
平城京の大官大寺(4)―道慈による「修造」―2022年2月9日(水)

注3 「古式寺院」 ‥‥‥ 「寺地」(寺の所有地)を伽藍地(聖なる施設を配置する区域)として囲う大溝・生垣・塀等を「外郭」(どんなもので囲うかは一定していません)、外郭内をさらなる聖なる区域として囲う回廊・築地塀等を「内郭」と呼んでいます。外郭内が「寺院」で、内郭内が「寺院中枢」です。
回廊等で囲った寺院中枢に塔を置く寺院を「古式」、内郭外に塔を置く寺院を「新式」と呼び分けています。
「古式寺院」には中軸線(中門心を通り内郭を東西に二分する南北線)上に中枢伽藍を配置する「縦型」と、中軸線と直行する東西線上に中枢伽藍を配置する「横型」とがあります。「古式寺院」の内郭は、「縦型」が3:2、「横型」は2:3の縦横比率を採るのがほとんど(例外は少数)です。
 「古式」は、塔を内郭内に配置しているため、南大門(外郭の入り口)と中門(内郭の入り口)の距離が狭いという特徴があります。ほとんど、この特徴で判別可能です。
古式寺院例(縦型「四天王寺」と横型「法隆寺(西院)」)
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2023年1月19日 (木)

倭国一の寺院「元興寺」(5)―伽藍配置の復原―

倭国一の寺院「元興寺」
伽藍配置の復原[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究]

 先のブログ記事 倭国一の寺院「元興寺」(4)―名前のない伽藍配置―2023年1月14日(土)で、つい次のように述べました。
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(前略)①「新元興寺」(平城京に移築した法興寺)が「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」であること、②古式寺院の縦型回廊は縦横3:2の比であることから、「元興寺式伽藍配置」の回廊も縦横3:2の比であると考えられます。ただ、回廊が金堂を囲っていることから、塔(おそらく五重塔)は回廊外の東側に置かれたと考えられます。回廊は当初は単廊で後には複廊となったかもしれません。
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 これでは単なる「憶測」(つまり妄想)にすぎません。事実を確認する必要があります。そこで、倭国一の寺院「元興寺」を太宰府から移築した大安寺(平城京の大官大寺)の遺跡を検討してみると、次のことが判明しました。

(1)元興寺を移築した大安寺の伽藍配置も「新元興寺」と同じ①「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」でした。
(2)大安寺の伽藍配置も、回廊基壇(外側を測定)信濃国分寺遺跡の〇〇寺(尼寺)と同じ②縦横3:2の比(古式寺院の縦型回廊)でした(復原図をご覧下さい)。
(3)大安寺の塔院(東西両塔)の塔心々間距離が縦型回廊基壇(外側を測定)と一致していました。すなわち、大安寺は元興寺をそのまま移築したと仮定すると(後に道慈による「修造(塔の移築)」があったとしても)、元興寺の塔は双塔であった可能性が高い(つまり「塔(おそらく五重塔)は回廊外の東側に置かれた」という考えは間違いの可能性が高い)。

元興寺の伽藍配置の復原図
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 この大安寺の伽藍配置については以前のブログでも検討していました。多少見解を修正しましたが、参考になさっていただければ幸いです。
平城京の大官大寺(3)―古式伽藍配置の元興寺―2022年2月8日(火)
平城京の大官大寺(4)―道慈による「修造」―2022年2月9日(水)
平城京の大官大寺(5)―大安寺式伽藍配置は無かった―2022年2月11日(金)

参考図(信濃国分二寺)〇〇寺(尼寺)がこの「元興寺式伽藍配置」です(塔は不明ですが)
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僧寺の方は「古式縦型寺院
」にみられる3:2の縦横比はありません(創建時期は〇〇寺より時代が降ることを示しています)。
また、五重塔跡(水色)は金堂院の中軸線と同方位ですが、七重塔跡(ピンク色)は「正方位(真北)」なのでこれが「聖武七重
塔」と考えられます。すなわち、僧寺は既存寺院に「七重塔」を建てて国分僧寺にしたと考えられます。
妄想「信濃国分僧寺・七重塔」考―聖武・七重塔はどっち?―2019年7月28日(日)

2023年1月14日 (土)

倭国一の寺院「元興寺」(4)―名前のない伽藍配置―

倭国一の寺院「元興寺」(4)
名前のない伽藍配置[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究] 

 このところ「元興寺」について論じてきましたが、その過程で、今まで悩んでいたことが解決しましたので、それを報告いたします。

 

きっかけ

 肥沼孝治さん(注①)を中心とする「国分寺」の共同研究(名称「多元的「国分寺」研究」)に参加していたころの話です。古代史の専門的知識を持たない私は、テーマを国分寺遺跡の「造営尺度」や「伽藍配置」を絞って調査・研究をしていました。

 そのテーマを選んだのは、森郁夫氏が論文「わが国古代寺院の伽藍配置」の末尾で「ただ鎮護国家を標榜して各国に造営された国分寺の伽藍配置は一定していない。今後の重要な課題である」と記していたことがきっかけでした。

 

一定していない国分寺の伽藍配置

 私たちには、伽藍配置が一定していない原因は当初からわかっていました。『続日本紀』天平13年(741)の年の聖武天皇の“国分寺建立の詔”には「「七重塔を造れ」ということは書いてあるが,「国分寺」という言葉はない。」と肥沼孝治さんがブログで発表した(注②)からです。すなわち“国分寺建立の詔”ではなく「七重塔建立の詔」だったのです。つまり、既存寺院に「七重塔」を建てればよかったわけです。既存寺院の伽藍配置も様々ですし、七重塔を建てる位置も各々異なりますから、「国分寺の伽藍配置は一定していない」結果になるのは当然なわけです。ただ、朝廷から「国分二寺図」が諸国に頒布されていますので、私は諸国国分寺の伽藍配置と「国分二寺図」の関係についてまとめてサークルに投稿(注③)しました。

 

名前のない伽藍配置様式

 諸国の国分寺の伽藍配置を調べていくうちに、「中門から発した回廊が金堂を囲って講堂の両妻にとりつく伽藍配置」の国分寺がかなりあると知りました。ところがこの伽藍配置様式に名前がついていないのです。
名前のない伽藍配置様式(信濃国分二寺の例)
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 私は、接近した二寺がある信濃国分寺が代表例になるのかなと思って、“(仮称)信濃国分寺式伽藍配置と言っていました。

 

正式名称が決まった

 誰もこの様式に名前を付けていないのなら、「早く付けたもん勝ち」です(笑)。

 信濃国分寺よりふさわしい寺院が見つかりました。「元興寺」です。正確に言えば「新元興寺」なのですが、「新元興寺」は解体移築した「元興寺」の伽藍配置をとったはずで、また移築先の大安寺の伽藍配置にも「元興寺」の伽藍配置の痕跡が認められますので、これは間違いないと言ってもいいでしょう。

 

元興寺式伽藍配置
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元興寺は飛鳥に創建された法興寺(飛鳥寺)に起源をもつ。平城遷都後の718年(養老2)法興寺を平城京左京四条・五条の七坊の地に移して元興寺と称し,飛鳥の法興寺を本元興寺と称した。奈良時代の元興寺の伽藍配置は,南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並び,回廊は金堂を囲んで中門と講堂を結ぶ。
(平凡社世界大百科事典 第2版より)
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 ここに「奈良時代の元興寺の伽藍配置は,南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並び,回廊は金堂を囲んで中門と講堂を結ぶ。」とあります。表現の仕方は異なりますが「中門から発した回廊が金堂を囲って講堂の両妻にとりつく伽藍配置」です。

 「倭国一の元興寺」を「わがもの」にするためには、「新元興寺」が「元興寺」を真似て造られるのは必然です。「倭国一の元興寺」の伽藍配置であったから多くの寺院がこの伽藍配置を採ったというわけです。

 

元興寺式伽藍配置の復原

 元興寺の伽藍配置は、移築された大安寺の伽藍配置を見ると、「南中門」(解体された元興寺の南大門)と中門の距離が極めて狭いことから「古式寺院」(正しくは塔が回廊外なので「新式寺院」だが、内郭比が3対2の古式。つまり、過渡期的新式の鏑矢)であったとわかります。また、①「新元興寺」(平城京に移築した法興寺)が「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」であること、②古式寺院の縦型回廊は縦横3:2の比であることから、「元興寺式伽藍配置」の回廊も縦横3:2の比であると考えられます。ただ、回廊が金堂を囲っていることから、塔(おそらく五重塔)は回廊外の東側に置かれたと考えられます。回廊は当初は単廊で後には複廊となったかもしれません。

元興寺式伽藍配置の復元図
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結語

 今後、私はこの伽藍配置を「元興寺式伽藍配置」と呼ぶことにしました。この伽藍配置に付ける様式名には「上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名」である「元興寺」が最も相応しいでしょう。また、この命名は「元興寺式伽藍配置」を採る寺院の創建年代の推定に資する(注④)のではないかと考えています。

(続く) 

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注① 肥沼孝治さん ‥‥‥ 古田史学の会会員。「肥さんの夢ブログ」主。ブログ「多元的「国分寺」研究サークル」の運営主。去年(2022/04/10)ブログ更新停止。
古田史学の会のHP新古代学の扉」の「HP内の検索エンジン」で「肥沼孝治」を検索していただくとたくさんヒットします。古田史学の深化に多大な貢献をされています。私が一番印象に残っているのは次の論稿です。
古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?古田史学会報108号2012年2月10日 

注② 肥沼孝治さんがブログで発表した ‥‥‥ 「国分寺」はなかった!2016年1月30日(土) 

注③ サークルに投稿 ‥‥‥ コメントで投稿したものを肥沼孝治さんが記事として掲載してくれました。
「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―2017年1月10日(火)
 お読み頂くのであれば、コメント版(↑)より当ブログ再掲版(↓)の方が読みやすいと思います。
「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―2021年10月5日(火) 

注④ 「元興寺式伽藍配置」を採る寺院の創建年代の推定に資する ‥‥‥ 国分寺式伽藍配置の前の時代に盛行した伽藍配置ではないかと推測した論考をいくつか書いています。
作業仮説:「伽藍配置の変遷過程」試論―“(仮称)プレ国分寺式”伽藍配置の時代があった―2017年7月30日(日)
「国分寺」伽藍配置の変遷試論(1)―「新式」寺院を更に分類したら―2021年2月11日(木)
これ()は肥沼孝治さんの肥さんの夢ブログにも取り上げて頂いています)。
名前のない伽藍配置様式の怪―“(仮称)信濃国分寺式伽藍配置”― 2021年11月17日(水)

2022年3月27日 (日)

平城京の大官大寺(22)―飛鳥・河内地域の土器編年(服部私案)―

平城京の大官大寺22
飛鳥・河内地域の土器編年(服部私案)―[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学][著書や論考等の紹介]

 前回(平城京の大官大寺(21)―飛鳥土器編年の問題点―)は、服部静尚さまから表Ⅰ 飛鳥地域の土器編年と代表的資料(小田2014)の暦年推測の問題点のご指摘と、それを是正する私案を頂いたのですが、添付資料が来(きた)る4月10日(日)午後の多元の会例会でも発表予定のものでしたので、服部さんが大和古代史研究会での発表のYouTube動画よりその提案資料を転載いたしました。

服部静尚氏の私案《再掲》
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 今回は、その説明を行います。服部さんが発表されたYouTube動画の画面を紹介しながらザックリと解説すると次のごとくです。私の理解不足による説明間違いがあるかも知れませんので、是非YouTube動画をご覧ください(前回にリンクを貼ってあります)。

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 『日本書紀』は六世紀末から七世紀初頭の間、難波宮(645653年)を除いて、飛鳥に都があったとする。
豊浦宮で推古天皇即位(593)。「乙巳の変」(645,甘樫丘)の後、難波宮に遷都する。653年、皇太子は皇祖母・皇后と百官を引き連れて倭飛鳥河辺行宮に移る。655年、斉明天皇が飛鳥板葺宮で即位。斉明六年(660)、皇太子漏刻をつくる(水落遺跡)。ある考古学者はこの間は10年単位で年代が分かるとしている(ほんとうだろうか)。

考古学で編年はどのように行われているの

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「土師器」は古墳時代の野焼き土器をいう(同じ野焼きでも弥生式土器よりも肉薄(半分ほど))。
荘内式・布留式の区別も曖昧。「須恵器」は窯により高温で焼く。陶器と磁器の違いのようなもの。

とくに須恵器の「蓋坏」の形状に、遺跡ごとに違い・変化がみられる
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土器の変遷によって年代を推測する飛鳥編年が作られ
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丸底の坏()→②平底の坏()→③高台付きの坏()の順
 

挙げられた基準遺跡の「坏」は、実は指標通りの変遷ではない
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指標通り(H→G→Bの順に変遷)に編年していない

最近までの追加発掘で、基準遺跡の編年が変わっている
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飛鳥編年の問題点
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瓦と須恵器、3つの提起
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服部静尚氏の提案編年
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 今回は服部静尚さんの提案された河内・飛鳥地域の編年を紹介しました。次回は、服部編年に従うと百済大寺の廃絶時期はどのように推測できるかを検討する予定です。

平城京の大官大寺(21)―飛鳥土器編年の問題点―

平城京の大官大寺21
飛鳥土器編年の問題点[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学] 

 前回(平城京の大官大寺(20)―存続した百済大寺―)で、表Ⅰ 飛鳥地域の土器編年と代表的資料(小田2014)(佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(2)―5―より)を用いて検証しましたが、本日(20220327()8:30頃)、服部静尚さまから次の主旨のメール(私信部分を除く)を頂戴しました。
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「平城京の大官大寺(20)―存続した百済大寺―」で、 飛鳥地域の土器編年と代表的資料(小田2014)を引用されて、 これを暦年判断材料とされておられます。しかし、この暦年推測 には多くの問題点があります。 これを是正する私案の抜粋を添付します。 これによると、彼らが挙げている乙巳の変・天智の漏刻の遺跡などと しているものが、『日本書紀』の年次と全く合わないことが判って いただけると思います。 この私案は大阪歴史学会考古部会で発表したもので、 4月10日(日)午後の多元の会例会でも発表予定のものです。
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 「4月10日(日)午後の多元の会例会で発表予定のもの」とのことですので、メールに添付いただいた資料は4月10日以降、許可をいただいてからブログに掲載したいと思います。

 それに代わるものとして、次のYouTube動画に公開された資料を転載させていただきます。
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220222@県立図書情報館@古代大和史研究会@26:57@DSCN0435
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220222@県立図書情報館@古代大和史研究会@26:57@DSCN0436
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220222@県立図書情報館@古代大和史研究会@10:19@DSCN0437

服部静尚氏「五段階の編年の提案」(上記YouTube DSCN0437 より)
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表Ⅰ 飛鳥地域の土器編年と代表的資料(小田2014)《再掲》
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今回は、ご指摘いただいた土器編年の問題点をとりあえずご報告するだけとし、次回以降にこの問題点を説明していく予定です。

2022年3月12日 (土)

平城京の大官大寺(19)―骨折り損のくたびれ儲け―

平城京の大官大寺19
骨折り損のくたびれ儲け[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学]

 前回(平城京の大官大寺(18)―坪並は「平行式」だったのだろうか―(2022年3月10日(木)))は、「八ノ坪」とある坪地が文字通り「八ノ坪」となる「二十八条三里」の坪並を想定してみました。その作業を通じて、「大官大寺」の寺域(多分)がギヲ山などの丘陵地を避けた位置にあるということに気づきました。

 今回は、予定した通り相原嘉之氏の「高市大寺の史的意義」の章「Ⅳ 文献史料上の検討」項目「4 路東二十六条三里は高市郡か」を見ていきます。 

挙証責任の在処
 相原嘉之氏は「大官大寺を含む路東二十八条三里が、高市郡であることは明確」と述べ、また相原氏が高市大寺の所在地と見る「木之本廃寺を含む路東二十六条三里は、高市郡と十市郡の境界ちかく」であるが「近世以降は、確実に十市郡に属していた」と述べています。ならば、相原氏がなすべきことは「(史料2)『類聚三代格』神護景雲元年(767)一二月一日太政官符の出た時点には高市郡に属していたこと」立証することなのです。

 ところが、相原氏は「郡界ちかくに位置することから、古代においても同様であったかは明確ではない。」と、古代においても十市郡であったことを明確にする必要があるとして、挙証責任を転嫁しています。古代から近世になるまでの間に「木之本廃寺を含む路東二十六条三里」が高市郡から十市郡に属することになる郡境界の変更があったことを立証する責任は相原氏にあるのです。変更が無かったことを証明するのは悪魔の証明(1)」であり、不可能です。変更があったことを相原氏が証明しなければならないのです。 

畝尾都多本神社からわかるか
 相原嘉之氏は(史料5)を挙げて、「畝尾都多本神社は『延喜式』神名式上6 条の大和国十市郡の項に記される式内社」であるが「左京六条三坊の調査成果から考えても、少なくとも藤原京時代には現在地に同神社が存在しなかったことが、遺構の展開状況からみて間違いない。」とし、「「香山の畝尾の大本に坐す」は十市郡に属する」が「神社はしばしば場所を移動することがあり」「その場所は現在位置には特定できない。」とします。「十市郡」の現在地に無かったとしても「高市郡」にあったことにはなりません。

 相原氏は(史料5)を掲げて、「大脇潔氏は「飼」を「餘」の誤写と考え、高市郡側に十市郡が食い込んだ土地を指す用語と考えた(大脇2005)。」と大脇 潔氏の解釈を紹介しています。また、「明治時代の郡界を条里に重ねると、平地部では高市郡路東二十四条一里~三里及び高市郡路東二十四条~二十八条三里となる。前者では横大路が、高市郡と十市郡の境界となっているが、路東二十四条一里が「十市飼条一里」に該当する。」と明治時代の郡界も紹介されています。

 次がその(史料5)です。
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(史料5)「大和国高市郡司幷在地刀禰等解案」(『平安遺文三』1134 号)承保三年(1076)九月一〇日付

 高市郡東廿四五六七条、以一里為女子分。業房朝臣領、東廿四条二里、同廿五条二里同廿五条二里、東廿八条一里・二里・四里、十市飼条一里、同廿六条、同廿九条、高市廿九条一二三四里、同卅条一二三四里、同卅一条一二三里等、処分業房朝臣既了。
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 (史料5)についてはどの解釈が正しいとは断言できません。

 次図は奈良女子大学 古代学学術研究センター 「奈良盆地歴史地理データベース」小字データベース(2)によって、小字の属する郡を調べた結果による郡界です。斜線で塗った場所が、相原嘉之氏の高市大寺比定地です。小字データベースでは高市郡となっていますが、古代がそうであったかどうかは不明です。
十市郡と高市郡の郡界(クリックで拡大できます)
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木之本町周辺図
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 相原氏は「「十市飼(餘)廿六条」という表現は、高市郡に十市郡が食い込むのであり、十市郡に高市郡が食い込むのではない。つまり「高市郡路東二十六条三里」の一部に「十市郡路東餘二十六条三里」が含まれているとみるべきではないだろうか。このことは、本来高市郡である里の一部に十市郡が含まれるのであって、割合的には、その里の中では、高市郡の割合が大きいとみるべきである。」と述べていますが、「割合的には、その里の中では、高市郡の割合が大きい」ということはなくて、十市郡の割合が大きいように見えます(高市郡の割合=(9坪/36)/=25%

 「この郡界については中ッ道の南延長線、あるいは木之本街道を境界とする説もあるが、明確ではない。」とも述べられています。
 また「「郡界は必ずしも固定的なものではないが、調査地に関していえば、十市郡に属することを示す史料はあっても、高市郡に属する史料は皆無である。完全な証明はできないが、8 世紀においても十市郡に属したと考えるべきではなかろうか。」とまとめている(奈文研2017)。」という奈文研の見解もうなずけます。しかし、この件に関してはこれが正しいということは出来ないと思います。つまり、肯定するにせよ否定するにせよ、決定的な根拠にはなり得ないのではないでしょうか。
 今回の項目に無関係ですが、坪並が「千鳥式」である小字名がありました(ピンクの楕円で囲ってある部分)。

(1)「悪魔の証明」とは、論理的に証明することができない「~(事象)は無い。~(事象)は無かった。」のような(存在を否定する)命題の証明を求めること(ex.「幽霊」或いは「神」は存在しないという証明)を指していいます。実証するのが非常に困難な命題の証明を求めることではありません。
(2) 以下は「小字データベース」による解説です。
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小字について
 小字(こあざ)は土地の小区画の名称で、公称地名です。単に字(あざ)とも呼ばれ、筆(ひつ)の上位単位として近現代の土地台帳に記載されています。

 通常は数筆の土地からなりますが、広さはきわめて多様です。奈良盆地では、条里地割が残るため、面積が古代の1町(近世以降の約1.2町、約109m四方)の小字が多く見られます。
 近世以前の文献史料や古地図資料に現れる地名が、現在も小字名として残っている事例があります。そのため、小字は、これらの資料に記載された土地がどこにあるのか、現地比定をするための手がかりとなります。
 また、小字名には「クボ」「フケ」などのように自然環境に由来するもの、「一ノ坪」「二ノ坪」などの条里制のもとでの呼称、藤原宮大極殿の遺構が見つかった小字の「大宮」、古代の幹線道路に由来する「大道」などのように、過去の景観の名残を留めたものがあります。これらは、その土地の景観を復原する際の重要な手がかりになります。
※ 筆・・・田畑・宅地などの一区画(広辞苑第6版)

条里プランについて
 奈良盆地では、条里の地番呼称が比較的多く小字名として残っています。

 条里呼称は奈良県立橿原考古学研究所によって小字名や条里の地番が記載された古文書から復原されています(奈良県立橿原考古学研究所編『大和国条里復原図』1981年)。小字データベースにおいても、この条里呼称を小字に重ねて表示できるようにしました。
 小字データベースの条里呼称データは、機械的に奈良盆地を1辺約109mの正方形に分けて作成されていますので、実際の地割とぴったり合わないところもあります。このような場所があるということは、一斉に同じ規格で条里地割が施工されたわけではなく、いくつかの工事区に分かれていたり、長い期間をかけて工事が行われたりした可能性が高いことを意味します。条里や坪の境界線と地図のずれの大きさが、場所によって異なることも確認して下さい。
 奈良盆地の条里制については、木村芳一ほか編『奈良県史4 条里制』(名書出版、1987年)、奈良県立橿原考古学研究所編『大和国条里復原図』1981年を参考にしています。

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 今回は、項目「4 路東二十六条三里は高市郡か」を検討しましたが、高市郡と十市郡の郡界についての結論は(予想していましたが)得られず、骨折り損のくたびれもうけに終わりました。高市郡か十市郡か云々の議論を多少可視化できたことをよしとして慰めるしかありません。次回は章「Ⅴ 考古学的検討」に移りますので、はっきりした議論ができるのではないかと思っています。 

以下は、今回検討した項目「4 路東二十六条三里は高市郡か」の全文です。
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4 路東二十六条三里は高市郡か

 大官大寺を含む路東二十八条三里が、高市郡であることは明確である。一方、木之本廃寺を含む路東二十六条三里は、高市郡と十市郡の境界ちかくにあたる。近世以降は、確実に十市郡に属していたが、郡界ちかくに位置することから、古代においても同様であったかは明確ではない。藤原京左京六条三坊の発掘調査報告書では、調査成果の考察のなかで、調査地の郡域についても検討をしている。その材料としたのが、畝尾都多本神社と喜殿荘関係史料である。

 畝尾都多本神社は『延喜式』神名式上6 条の大和国十市郡の項に記される式内社で、『古事記』上巻の火神被殺段には、伊邪那岐命が弉諾尊伊邪那美命の死を悲しんで流した涙から「泣沢女神」が生まれ、「香山の畝尾の大本に坐す」という伝承があり、その立地から畝尾都多本神社と考えられている。

 しかし、神社はしばしば場所を移動することがあり、左京六条三坊の調査成果から考えても、少なくとも藤原京時代には現在地に同神社が存在しなかったことが、遺構の展開状況からみて間違いない。「香山の畝尾の大本に坐す」は十市郡に属することはわかるが、その場所は現在位置には特定できない。

 一方、喜殿荘関係史料のうち、承保3 年(1076)9 月10 日付の大和国高市郡司幷在地刀禰等解案(『平安遺文三』1134 号)には、条里坪付が記されている(史料5)。この史料には「同廿五条二里」が2 度登場するなど、明らかな誤写が含まれているが、最も難解なのは「十市飼条一里、同廿六条、同廿九条」である。大脇潔氏は「飼」を「餘」の誤写と考え、高市郡側に十市郡が食い込んだ土地を指す用語と考えた(大脇2005)。明治時代の郡界を条里に重ねると、平地部では高市郡路東二十四条一里~三里及び高市郡路東二十四条~二十八条三里となる。前者では横大路が、高市郡と十市郡の境界となっているが、路東二十四条一里が「十市飼条一里」に該当する。一方、後者では、路東二十六条三里が「同廿六条」に該当し、高市郡側に十市郡が食い込んでいる。『報告書』では「高市郡路東二十六条三里に十市郡が食い込む部分こそ、調査地の所在地に他ならない点は見逃せない。このことは、11 世紀後半段階には調査地が十市郡に属していたことを示す資料的根拠となるのである」。さらに「郡界は必ずしも固定的なものではないが、調査地に関していえば、十市郡に属することを示す史料はあっても、高市郡に属する史料は皆無である。完全な証明はできないが、8 世紀においても十市郡に属したと考えるべきではなかろうか。」とまとめている(奈文研2017)。

 しかし、この史料は高市郡路東二十六条三里に十市郡が食い込むことを示す史料であって、調査地が十市郡に含まれるかは明らかではない。また、「十市飼(餘)廿六条」という表現は、高市郡に十市郡が食い込むのであり、十市郡に高市郡が食い込むのではない。つまり「高市郡路東二十六条三里」の一部に「十市郡路東餘二十六条三里」が含まれているとみるべきではないだろうか。このことは、本来高市郡である里の一部に十市郡が含まれるのであって、割合的には、その里の中では、高市郡の割合が大きいとみるべきである。

 この郡界については中ッ道の南延長線、あるいは木之本街道を境界とする説もあるが、明確ではない。明治期には木之本街道を境界として、一部その東や西にずれている箇所もある。しかし、この場合、里の中で、ほぼ半分の割合となり、主が高市郡なのか、十市郡なのかは不明瞭となる。この三里内には中の川が南北に貫流している。ほぼ直線であることから、地形地物を郡界の基準とみるならば、中の川は有力な郡界ラインとすることができる。この場合、路東二十六条三里の中の川以西は高市郡に含まれる可能性が残されている 1)


1)このように考えると、藤原京左京六条三坊の奈良時代以降の遺構群は、高市郡に含まれないことをもって、「香具山正倉」の可能性を否定されているが(奈文研2017)、高市郡に含まれる可能性があるのでその可能性が浮上する。注1)90頁より移動した)

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【参考】
悪魔の証明(あくまのしょうめい、ラテン語:probatio diabolica、英語:devil's proof)とは、証明することが不可能か非常に困難な事象を悪魔に例えたものをいう。中世ヨーロッパのローマ法の下での法学者らが、土地や物品等の所有権が誰に帰属するのか過去に遡って証明することの困難さを、比喩的に表現した言葉が由来である[1][2]。

悪魔の証明の誤用
「ヘンペルのカラス」および「消極的事実の証明」も参照

 悪魔の証明は証明不可能な事態を指し、単に証明困難な事態を指すのではない[2]。「ない」という消極的事実の証明を求めることは証明不可能で悪魔の証明になるが、「ある」という積極的事実の証明を求めることは単に証明困難なだけで悪魔の証明にならない[2]。Wikipedia「悪魔の証明」より)
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「ヘンペルのカラス」は「全てのカラスは黒い[注釈 1]」という命題を証明する以下のような対偶論法を指す[1]。
 「AならばBである」という命題の真偽は、その対偶「BでないものはAでない」の真偽と必ず同値となる[2][3][4]。全称命題「全てのカラスは黒い」という命題はその対偶「全ての黒くないものはカラスでない」と同値であるので、これを証明すれば良い[2][3]。そして「全ての黒くないものはカラスでない」という命題は、世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つもカラスがないことをチェックすれば証明することができる[3]。
 つまり、カラスを一羽も調べること無く、それが事実に合致することを証明できるのである[2][3]。これは(この論法は)日常的な感覚からすれば奇妙にも見える[2][3]。
 こうした論法が「ヘンペルのカラス」と呼ばれている。Wikipedia「ヘンペルのカラス」より抜粋)
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「全称命題」の対偶は「存在命題の否定」になります。
 ∀xK(x)→B(x) (x=あるもの、∀x=すべてのxは、K():は鴉である、→=ならば、B()=は黒い)

〖意味〗
すべての〔任意の,anyx は鴉である(∀x(x))ならば(→)、そのxは黒い(B(x)

ド・モルガンの定理(上記論理式全体を否定すると記号は逆になります)

∀xK(x)→B(x)x(x) (x) (x)→¬x(x) (x)¬∃xK(x)

〖意味〗
x は黒くない(¬B(x))ならば、鴉である〔と言える〕x(K(x))は〔一つたりとも〕存在しない(¬∃x)。 

 論理というものは、結論よりも「前提が正しければ」という条件の方が大事なのです。すなわち、上記命題「すべてのx は鴉であるならば、そのxは黒い」で言えば「すべてのx が鴉である」のかどうかの方が大事なのです。あくまでも「すべてのx が鴉である(それは鴉である)」ということが真の命題(言明)であるかどうかが一番大事なのです。

 上記Wikipediaに「カラスを一羽も調べること無く、それが事実に合致することを証明できる」とありますが、そんなことはありません。なんとなれば、「世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つもカラスがないことをチェックすれば証明することができる」とあるうちの「世界中の黒くないものを順に調べ」というのは「無限」に調べることですから、「調べ尽くした」ことを証明できません。いつまで経ってもどこまでやっても「調べ尽くした」とは言えません。実際問題としては「カラスを一羽も調べること無く」と言っていますが「世界中の黒くないものを順に調べ」るよりも「カラスを調べる」方が楽でしょうに、こういう詭弁に騙されてはいけません()。どちらにしても調べる気にはなりません。

 大事なのは、実際にどうであるか(実証)よりも先に「前提は真の命題であるか」という点を重視することが「論証を重んじる」ことなのです。

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消極的事実の証明(しょうきょくてきじじつのしょうめい、英語: Evidence of absence / proving non-existence)とは、ある事実が存在しない事実(消極的事実)の証明や証拠を指す。しばしば悪魔の証明の言葉が用いられることもあるが、この場合は特に自ら消極的事実の証明を行なう時というよりは、消極的事実の証明を求められた場合に、その立証困難性を前提として、立証責任を否定するために用いられる[1]。ただし、立証困難なだけで論証自体は論理学上の誤謬ではなく、むしろ反対に厳密には論理的に正しくなくとも消極的事実の証明がなされたと見なす場合もある。
 「証拠が無いことは、無いことの証明にならない(absence of evidence is not evidence of absence、証拠の不在は不在の証拠ではない)」という伝統的な格言の通り、この種の積極的な証明は、証拠が存在するとすれば既に見つかっているか、もしくは未知の証拠が存在する場合とは意味合いが異なる[2][3] 。この点に関して、 Irving Copiは次のように書いている。

 場合によっては、特定の事象が発生した場合、その事実を専門の調査者が確認できる可能性があると問題なく仮定することができる。そのような状況では、その事象が発生していないということの積極的な証明手段として、それが発生した証拠がないと示すのは、完全に合理的である。
— Copi、 Introduction to Logic (1953)、pp.95
Wikipedia「消極的事実の証明」より抜粋)
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2022年3月10日 (木)

平城京の大官大寺(18)―坪並は「平行式」だったのだろうか―

平城京の大官大寺18
坪並は「平行式」だったのだろうか[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学][条坊制と条里制] 
【図の修正のお知らせ(2022/03/11)
 図(坪並と坪地割)がわかりにくいため、修正(「千鳥式」「平行式」を右側に移動) したものに差し替えました。【図の修正のお知らせ 終わり】

 前回(平城京の大官大寺(17「坪名」の証言202239())で、「八ノ坪」「八餘」という坪名があり、小澤 毅氏の「十一坪・十二坪」と比定した高市郡路二十八条三里・四里の坪割とは整合しないという報告をしました。ブログにアップした後で、どうであればその位置が「八ノ坪」となるのか、ということが気にかかって来ました。

 今回は、一つの試案を示して問題提起としたいと思います。

 先ず、前提として「二十八条」という位置は小澤 毅氏の示した通りだとします。そう仮定すると、「八ノ坪」と書かれている位置が「八の坪」に該当する坪並(坪の並び方の順序)は、次のものしかありません(赤で塗りつぶしたところが「十一坪・十二坪」に当たります)。
「八ノ坪」が正しければ(クリックで拡大します)
Photo_20220310140101
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(1)ギヲ山と“溜池”の堺を「二里」と「三里」の堺とする。
(2)坪並(坪の並び方の順序)は「千鳥式」ではなく「平行式」とする。
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 「里」の番号は、中央側から順につけていくはずですから、「八の坪」が正しいと仮定すると、「二里」と「三里」の堺はギヲ山と“溜池”の堺になります。「平行式」と仮定すれば「二十八条」をそのままにできますが、「千鳥式」を仮定すると条の区分まで動かさねばならなくなります。
坪並と坪地割
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 この図(「八ノ坪」が正しければ)を作成した後で、この「八の坪」を前提にした「二里」と「三里」の堺がギヲ山と“溜池”の堺となっていて、大官大寺の寺域がギヲ山などの丘陵地を避けた位置にあるという点が(偶然なのかどうかわかりませんが)とても気になっています。

 今回は「八ノ坪」とある坪地が文字通り「八ノ坪」となる「二十八条三里」の坪並を想定してみました。 なお、この情報が役に立つものかどうかは全く考えておりません。次回は、相原嘉之氏の「高市大寺の史的意義」に戻る予定です。

2022年3月 9日 (水)

平城京の大官大寺(17)―「坪名」の証言―

 平城京の大官大寺17
「坪名」の証言[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学]

 前回(平城京の大官大寺(16)―自説に都合よい「ふしぎなポッケ」―(2022年3月 8日 (火)))は、「条」「里」の表示が無く「坪」だけ記されている(史料2)『類聚三代格』神護景雲元年(767)一二月一日太政官符 によって、或るは「路東二十八条四里十一・十一十二〕」に、或るは「路東二十八条三里十一・十一〔十二〕」に、また或るは「木之本廃寺を含む路東二十六条三里(十一・十二坪)」に比定している(好きな位置に比定できる)ことを確認しました。

 ところが、とても気になることを見つけました。次図をご覧ください。相原嘉之氏の「高市大寺の史的意義」に書かれている比定地が「十一坪・十二坪」に該当するように高市郡路東二十八条三里を「坪割(千鳥方式)」したものです。ところが、「三十五坪」(㉟)に該当する場所に「八ノ坪」とあるのです。その西隣の「二十六坪」(㉖)に該当する場所に「八餘」(私には「餘」に見えます)とあります。「二十六坪」はほとんど溜池か何かなので「八餘」(八坪の余分)としたのだと考えられます。
高市郡路二十八条三里・四里の坪割(クリックで拡大できます)
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 こうなると、小澤 毅氏の「十一坪・十二坪」と比定したことが間違っているのではないかという疑いが生じます。

 飛鳥・藤原宮発掘調査概報 7(昭和525月)(14650_1_飛鳥・藤原宮発掘調査概報.pdf)の藤原宮第19次の調査(藤原京右京71)(昭和5111月 ~昭和52 2)―7―には次のようにありました(一部抜粋です)。
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藤原京条坊の坪割については,最近の発掘調査の成果から,東西南北とも各1条の小路によって4つの坪に分けていることが明らかになっており,後述するように今回の調査でも7条条間小路にあたる道路を検 出した。しかし,現在のところ藤原京における坊内の坪についてはその呼称が明らかでないいため※ここでは仮に平城京の坪と同じ順序で呼ぶことにする。
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 だいぶ昔のことなので今では条坊については判明しているかも知れません。条坊についてはどちらにせよ、条里内の坪についてはその呼称が明らかでないため、仮に平城京の坪と同じ順序で呼んでいるということではないのでしょうか(平城京でなくても構いませんが)。

 なにが言いたいかと言えば、自説に都合が良ければ保存された地名を取り上げるけれども、自説に都合が悪い地名は無視する、そんなことでなければいいと思った次第です。

 今回は、「『高市大寺』を探せ」としている方々の比定地が、確たる根拠に基づいていないのではないか、という疑いがまた一つ増えたという報告です。

2022年3月 8日 (火)

平城京の大官大寺(16)―自説に都合よい「ふしぎなポッケ」―

平城京の大官大寺16
自説に都合よいふしぎなポッケ」―[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学]
【校訂のお知らせ】
 「高市大寺の史的意義」のpdf自体に誤記と思われる箇所(「路東二十八条四里十一・十一十二」・「路東二十八条三里十一・十一十二」)がありましたので、校訂しました(〔〕で校訂)。【校訂のお知らせ 終わり】

 前回(平城京の大官大寺(15)―万葉集の「屋部坂」―(2022年3月7日(月)))では、匿名の方からご教示いただいた「屋部坂」(万葉集第三巻269番歌の題詞「阿倍女郎屋部坂歌一首」)は、小澤 毅氏が指摘した『日本後紀』にある「野倍能佐賀(野倍の坂)」の「倍」は乙類であるのとは異なって、「夜部村」と同じ甲類の「部」であるが、この坂が高市郡にあるという根拠がないので、「夜部村」の位置を推定する参考にはならないことを明らかにしました。

 今回は、相原嘉之氏の「高市大寺の史的意義」(2021)に戻って、章「Ⅳ 文献史料上の検討」の項目「3 「高市郡高市里」の位置」から批判を続けます。

 相原嘉之氏は、次に掲げる『類聚三代格』(史料2)を根拠にして挙げられた「高市郡高市里」の比定地の妥当性を検討しています。
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(史料2 )『類聚三代格』神護景雲元年(767)一二月一日太政官符
 太政官符
  合田六町
   大和国二町〈一町路東十一橋本田。一町路東十二岡本田。在高市郡高市里専古寺地西辺。〉
    右修理金堂内仏菩薩幷歩廊中門文殊維摩羅漢等像
     (中略)
  以前。被左大臣宣偁。奉勅。件田並永献入於大「寺」安寺
    神護景雲元年十二月一日
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 神護景雲元年は西暦(ユリウス暦)七六七年です。

❶田村吉永氏の比定地:「大官大寺の東にあたる路東二十八条四里十一・十一十二 坪の小字「中坪」「ニシノフケ」「大安寺」に比定
❷小澤 毅氏の比定地:「路東二十八条三里十一・十一十二 坪に比定
路東二十八条
Photo_20220308153201
❸相原嘉之氏の比定地:「木之本廃寺を含む路東二十六条三里
路東二十六条三里
Photo_20220308153601

 まず、一番に問題としておかなければならないことは、(史料2)にある「路東十一」「路東十二」というのは、「路東十一坪」「路東十二坪」を示しているだけであり、「何条何里」であるかは不明なのです。つまり比定地の「二十八条」「二十六条」というのは自説に都合よく当て嵌めているだけ、のものなのです。

 「当て嵌めているだけ」であることは無視するとしても、❶田村吉永氏の比定地は、(史料2)には「専古寺地西辺」と「寺地の西辺」とあるのに「東辺」なので問題外です。❷小澤 毅氏の比定地は、「大官大寺以前の瓦の出土や平城京大安寺と共通する瓦の出土」とあり、根拠はこれだけと言っても過言ではないでしょう。まず、寺跡であることを証明するには瓦の出土だけではなく、伽藍の基壇などの痕跡が検出されねばなりません。吉備池廃寺では「瓦窯跡」という見解が有力であったり、小澤氏の比定地では瓦の出土だけで伽藍基壇の痕跡も検出されて無いのに(未調査なら「無い」のと同等)寺院跡と見なしていたりして、「ご都合主義」が過ぎています。❸相原嘉之氏の比定地は、条里を自説に都合よく当て嵌めているだけでなく、その比定地が「高市郡」に属することすら証明されていません(「ここが高市郡であったことが前提となる」)。

二十八条三里と大官大寺調査区位置図(第5次)の合成図(山田による)
Photo_20220308154001
調査区位置図(「大官大寺第5次発掘調査現地説明会資料」より)
5_20220308154101

 推論の前提は確かな命題
(()の命題)でなければ(すなわち、偽()の命題を前提にすれば)、どんな結論を導いても真()になります(つまり、正しい推論ではない(=論証ではない))。

命題の真理値表(記号の説明、:ならば。:同値。¬:でない・否定。:または・左右のどちらかが真)
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「→」の真理値表(「P→Q」(PならばQ)と「¬P∨Q」(「Pでない」または「Qである」)は同値です。)

 

 《余談》今回は、上記の比定地を検討しましたが、「ドラえもんのうた」を思い出してしまいました。
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こんなこといいな できたらいいな
あんな夢 こんな夢 いっぱいあるけど
みんなみんなみんな かなえてくれる
ふしぎなポッケで かなえてくれる
空を自由に とびたいな
「ハイ! タケコプター」
アンアンアン
とってもだいすき ドラえもん
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 自説に都合よく希望・願望を語っても真理にはたどり着くことはありません。

 なお、下記は今回俎上に上げた 章「Ⅳ 文献史料上の検討」の項目「3 「高市郡高市里」の位置」の全文です。次回は同章の項目「4 路東二十六条三里は高市郡か」を見ていく予定です。

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3 「高市郡高市里」の位置

 『類聚三代格』(史料2)にみえる大安寺に献入された6 町のうち、専古寺地西辺にある「路東十一橋本田」と「路東十二岡本田」が含まれる「高市郡高市里」とは、どこを指すのであろうか。ここには「専古寺地西辺」とあることから寺域の西辺であることは間違いない。田村吉永氏は、大官大寺の東にあたる路東二十八条四里十一・十一〔十二〕坪の小字「中坪」「ニシノフケ」「大安寺」に比定する。ここは運河(狂心渠)及びその西隣接地にあたるが、西辺ではなく、大官大寺の東辺にあたる(田村1960)。単純に誤記だけでは片付けられない。一方、小澤氏は路東二十八条三里十一・十一〔十二〕坪に比定し、ここに大官大寺以前の瓦の出土や平城京大安寺と共通する瓦の出土から、大官大寺の寺地が西方にも広がっており、ここに高市大寺を想定している。また、「橋本田」(現小字サコツメ)は、近くの飛鳥川に現在も架かる橋があること、「岡本田」(現小字はフケノツボ)は丘陵の裾にあたることに由来する小字名とした(小澤2003)。

 このように、「古寺地西辺」にあたる高市郡高市里に諸説がみられるのは、明確な条里が明記されていないからである。京南条里のうち下ッ道の東に広がる高市郡路東条里の坪番付は記されるが、史料2 では条と里は省略されている。このことが、場所の特定を混乱させる原因であるが、この他に「高市郡高市里」を想定できる場所はないのであろうか。そこでもうひとつの可能性として、木之本廃寺を含む路東二十六条三里をあげる。この西辺の11・12 坪は小字「ユウカイ」・小字「京トノ」「南京トノ」と呼ばれている。香具山からは350 m程離れているが、「岡本田」の由来とも考えられなくもない。一方、「橋本田」の由来になるような河川や橋はみられないが、この場所は藤原宮東面南門にあたり、門をでると外濠が横たわっていたことから、当然橋が架設されていた場所である。東外濠は、幅5.5 ~ 6 mで、「橋本田」の由来になった可能性は否定できないと考える。このように、専古寺地西辺にある路東十一橋本田と路東十二岡本田には二つの候補地が存在し、「高市郡高市里」は路東二十八条三里だけでなく、路東二十六条三里も候補にあがる。ただし、前者は明らかに高市郡に属するものの、後者の場合、ここが高市郡であったことが前提となる
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