固体燃料ロケットについて
―主権を守る技術―[現代][科学]
一運(60年)遡る小学生の頃の話だけれど、セルロイドの下敷きを細かく切って、鉛筆キャップ(鉛筆の芯が折れるのを防ぐアルミ製のキャップ)に詰めたものを数多く作っておいて、マッチで火をつけて飛ばして遊んだことがあります。これは極小さいけれども「固体燃料ロケット」です。ただ、どこに飛んでいくかわからない危険性がありました。これが固体燃料ロケットの特徴を立派に教えてくれます。
・構造が単純で部品点数が少なく安価にできる
・燃料が個体なので常温で長期間保存できる
・点火が容易である
・制御するのが難しい
つまり、固体燃料ロケットは、それ自体をつくるのは容易で安価ですが、制御する技術を伴わないと使い物にはならない、ということです。
だから、固体燃料ロケットは、制御が容易な液体燃料ロケットでロケットの制御技術を充分に習得した上で、固体燃料の燃焼を制御する技術を積み上げなければならないのです。
わが国のロケット技術は、糸川英夫博士が主導した固体燃料ロケット(「ペンシルロケット」・「カッパロケット」・「ラムダロケット」)で「ノーズコーンや尾翼の材質、形状、重心の変化等による空力特性の変化による分散の影響などが調べられ」(Wikipedia「ペンシルロケット」より)、「(ラムダ-4エスロケットは)1966年から1970年にかけて5度打ち上げられ(他1回は試験機)、5度目にして日本初の人工衛星「おおすみ」の打上げに成功した[2]。これによって日本はソ連、アメリカ、フランスに続き、世界で4番目に自国の能力により人工衛星を打ち上げた国となった。」のです(Wikipedia「L-4Sロケット」より)。すなわち、わが国の固体燃料ロケットの技術は、既に50年(半世紀)前に完成を見ています。
その後、「ある程度以上の大きさを越えると同規模の液体燃料ロケットに比べて構造効率が悪化する」(=ある程度以上に高高度あるいは重い人工衛星等を打ち上げられない)ため、液体燃料ロケット(H2ロケット)に転換して今日に至っています。
では、固体燃料ロケットの使い道はないのかといえば、とんでもなく重要な用途があります。「点火が容易である」ことが役立ちます。液体燃料ロケットは、揮発性がある燃料なので常時装填しておくことが難しく(毒性や危険性)、ロケットへの燃料充填に時間を要します。一方、固体燃料ロケットは、安全な固体燃料が既に充填されているので、すぐに発射できます。この「即時発射可能」というメリットは、「迎撃ミサイル」に求められる点です。「液体燃料ロケット」の技術は当然ですが、「固体燃料ロケット」の技術は「防衛」に不可欠です。この技術を持つ国はそんなに多くはありません。
よく「国民の生命と財産を守る」という「軍隊の宣伝文句」がありますが、これは「真っ赤な嘘」です。兵士も「国民」です。戦争をするのは「兵士(国民)」を「死地」に赴かせることです。「多数の国民を守るため(少数の国民の犠牲はしかたない)」というのは「全体主義」です。極端に言えば、「国民の生命と財産を守る」ためなら戦わずに降伏すればよいのです。「何を馬鹿なことを言うのだ」とお怒りになるのは早計です。「国民の生命と財産を守る」のではなく「国家の主権」を守るために「軍隊」はあるのです。そのためには「国民の生命と財産」が多少失われても仕方ない(と言うのが「戦争」な)のです。
では、「国家の主権を守る」と言える程度の「主権国家」なのか、という問題が立てられます。他国の軍隊の駐留によって守られる国家の主権はいかほどのものか、という問題です。
一流の主権国家は、「一流の兵器(核弾頭を積んだICBM(大陸間弾道弾))」を所持しています。「一流の兵器」が「抑止力」として働くためには、「核攻撃」を受けたら(核搭載ミサイルが発射されたら)直ちに「迎撃ミサイル」(迎撃可能かの問題はある)および「反撃ミサイル(核搭載ICBM)」を確実に発射できねばなりません(第1擊で破壊されてはならない)。
上記目的のためには、次のことが必要です(わが国は海洋国家である点に留意)。
1 爆撃機やトマホーク等による通常攻撃を防ぐための、レーダー網と迎撃ミサイル(海上はイージス艦など)。
2 ICBM攻撃を察知する独自の全球型偵察衛星網(地球の反対側からも可能性あり)。
3 確実な反撃手段(理想的には、核ICBMを搭載した原子力潜水艦)。
わが国の「防衛」には、米軍のような「空母打撃軍」(これは攻撃型(圧力型))は必要ありませんが、敵の攻撃を素早く察知するシステムと、通常の爆撃手段を確実に防ぐミサイルによる防衛システム、並びに確実に反撃できる原子力潜水艦を多数所持する必要があります。これはアメリカ合衆国(米軍)が望むと望まざるとにかかわらず「主権国家」でありたければ必要なことです。
米軍の「核の傘」と「駐留」で守ってもらっている限り、「独自の偵察衛星網」も「迎撃ミサイル網」も「核兵器搭載原子力潜水艦」も必要がないということ(その程度の「主権」)なのです。
【以下はWikipediaよりの抜粋です】
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Wikipedia「個体燃料ロケット」
固体燃料ロケット(こたいねんりょうロケット)は、固体の燃料と酸化剤を混錬してロケット本体(モーターケース)に充填した固体燃料を使用するロケットである。単に固体ロケットとも呼ばれる。単純なものは主に、モーターケース、ノズル、推進薬、点火装置(イグナイター)で構成される。
液体燃料ロケットとは異なり、使用時にはポンプなどの機械部品で燃料を燃焼室に移送することなくロケット内部の燃料へそのまま点火する。
構造的にはロケット花火を例にすると想像するのに丁度いい。ケースが外側の紙ケース、ノズルが紙ケース下部、推進薬が火薬、点火装置が導火線である。実際ロケット花火も固体燃料ロケットの一種である。
(中略)
特徴
モーターケースが燃焼室を兼ねていて部品数が少ないため、構造が簡単で安価に製造できる利点があるほか、小型のものでは全質量に対する構造質量を低減、すなわち構造効率を向上させることができる。また液体や気体の推進剤と異なり、固体である推進薬は常温では蒸発せず拡散しないため毒性に留意する必要がない。燃料は化学的に比較的安定した性質の物質からなり、製造後の点検がほとんど必要ないまま長期間保管でき、即応性に優れる。
その一方で、燃焼の制御が難しく、点火後に燃焼の中断や再点火、推力の調整を行うことは原理的に非常に困難である。そのことがチャレンジャー号爆発事故やブラジルロケット爆発事故の原因だと言われている。
またモーターケースは自身が燃焼室となることから燃焼圧力と温度に耐える必要があり、エンジン部分のみが圧力と温度に耐えればよい液体燃料ロケットに比べて頑丈でなければならず、ある程度以上の大きさを越えると同規模の液体燃料ロケットに比べて構造効率が悪化する。また燃焼ガスの平均分子量が比較的大きく、液体酸素/液体水素系や液体酸素/炭化水素系の液体燃料ロケットに比べて比推力に劣るが推力の大きなロケットを比較的容易に製造できるほか、推進剤の密度が大きいのでロケット全体のサイズを小さくすることができる。
これらの性質から、即応性を重んじる軍用のミサイル、大型衛星を打ち上げるためのロケットの推力を補強するブースター、最終的に衛星を軌道に投入する小型のアポジキックモーターなどに用いられる。ちなみに、液体燃料ロケットと違いノズルや制御用装置を含め、通常「ロケットエンジン」とは呼ばず、ロケットモーターと呼ぶことのほうが多い。
全長が長くなると管内での流路抵抗が増えるので望ましくない。燃料の断面は投入軌道の特性に合わせて推力が変化するように成型される。ミサイル転用型の場合、軌道投入に効率が下がり、衛星打ち上げ専用のロケットと比較した場合、同じ推進剤の量でも投入できる衛星の重量が下がる。極低温を要する液体燃料ロケットと比較して常温での保存に適するが、打ち上げ時の温度は燃焼速度に多少影響する。
Wikipedia「ペンシルロケット」
ペンシルロケットは、将来のロケット旅客機開発の実現を睨んだロケット推進の研究を目的として、東京大学生産技術研究所AVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics:航空及び超音速空気力学)班が開発した、一連の小型ロケットシリーズである。開発名は「タイニー・ランス」。
(中略)
太平洋戦争後の日本における初の実験用ロケットである。1954年に年間予算560万円で開発が開始された。予算の制約から超小型の火薬式ロケットを実験装置として使用し、鉛筆(ペンシル)のようであるところからこの愛称が生まれた。これについて実験を主導した糸川英夫は、米ソの大型の実験機を縮小して実用化するという発想から、小さな物を巨大化して実用にするという「逆転の発想」を用いたものだと後に説明している。
国際地球観測年(IGY)において高層大気観測を行うという方針が1955年に決定されたため、AVSA班の方針もロケット旅客機から観測ロケットへ変更された。
合計150機あまりが発射された。ロケットとしては非常に小さく、また、能力も実用に耐えうるような代物ではなかったものの、単体でロケットシステムとして成立しており、ノーズコーンや尾翼の材質、形状、重心の変化等による空力特性の変化による分散の影響などが調べられた。後のカッパロケットやラムダロケットの開発時におけるフラッター現象の解析においては、これらのデータが有効に活用されたという。
日本最初の人工衛星「おおすみ」(Wikipedia「おおすみ」より)
おおすみは、1970年2月11日に東京大学宇宙航空研究所(後の宇宙科学研究所)が鹿児島宇宙空間観測所からL-4Sロケット5号機により打ち上げた日本最初の人工衛星である。名称は打ち上げ基地があった大隅半島に由来する。
L-4Sロケット(Wikipedia「L-4Sロケット」より)
L-4Sロケット(ラムダ-4エスロケット)は東京大学宇宙航空研究所(以下、東大)が日産自動車宇宙航空事業部(以下、日産)と共に開発し、日産が製造[1]、東大が運用した日本初の人工衛星打ち上げ用固体燃料ロケット。1966年から1970年にかけて5度打ち上げられ(他1回は試験機)、5度目にして日本初の人工衛星「おおすみ」の打上げに成功した[2]。これによって日本はソ連、アメリカ、フランスに続き、世界で4番目に自国の能力により人工衛星を打ち上げた国となった。
日本の宇宙開発(Wikipedia「日本の宇宙開発」より)
1970年代に入るとより精度の高いロケットの開発が始められた。おおすみを打ち上げたL-4Sの技術を元にミューロケットの初期型であるM-4Sロケットが開発された。1号機は失敗したものの、その後は3機続けて人工衛星の軌道投入に成功し、ミューロケットの土台となった。この後、システムを簡易化するためにミューロケットは4段から3段へと変更を行い、誘導制御とロケットの強化を行ったM3-C型に改良した。M3-C型は4機打ち上げられ1機は失敗したものの3機の軌道投入に成功した。さらにM3-Cの1段目を長くして推力を挙げたM3-H型で3機、全段が誘導可能になったM3-S型で4機の衛星の打ち上げを連続して成功させた。徐々に軌道投入が正確になり、高いところへの投入が可能になって行った。
(中略)
宇宙開発事業団は初期には独自の液体ロケットの開発を行う予定であったが、差し迫った実用・商業的なロケットの必要性から、アメリカと日米宇宙協定を結び米国からの技術導入の運びとなった。アメリカのデルタロケットの1段目液体エンジンを利用し、国内で開発を行っていたLE-3を2段目に設置した液体ロケットの計画を始めた。こうしてN-1ロケットが開発された。しかし、最初の液体ロケットとなったN-Iロケットは軌道への投入能力が低く、衛星を製作する能力も米国に劣っていた。このため、1977年には米国からの技術移転で作られた静止気象衛星ひまわりをアメリカのロケットで打ち上げた[11]。また、さくらやゆりなども米国のロケットで打ち上げてもらった。N-Iロケットは製造技術と管理手法のみの技術取得であったが、こまめに記録を取り、宇宙開発事業団は徐々に技術を身につけ、衛星でもひまわりの2号機以降は国産化率を高めていった。
これ以降、宇宙開発事業団は大型化する衛星の要求を満たすためにN-Iロケットの後継であるN-IIロケットの開発を始め、2段目はノックダウン生産に変え、300kg近いひまわり2号を静止軌道に投入することに成功した。これらのロケットはアメリカのデルタロケットのライセンス生産やアメリカ部品のノックダウン生産でありロケット自体は非常に質のよいものであったが、衛星のアポジモーターなどはブラックボックスになっており失敗したときに改善するにも情報がなかなか手に入らなかった。このため、ロケット全体を自主開発することが必要となり国産での開発を始めた[2]。新しく開発されたH-Iロケットは独自で研究開発を行った液体燃料ロケットLE-5エンジンを実用化し、2段目をこのロケットエンジンに変えた[11]。LE-5は再点火できることが特徴でこの特長によりN-IIより強力になり、H-Iロケットの静止軌道への投入能力は500kgを超えた。
宇宙開発事業団の生産したロケットは多くが商業衛星を打ち上げるために使われ、急速に増えた通信衛星や放送衛星、気象観測衛星などを打ち上げていった。H-Iロケットは9機生産され、そのすべての打ち上げに成功しており、日本で初めて複数の衛星の同時打ち上げに成功した[11]。
(中略)
こうしてロケットの開発が進んだ日本であったが、1990年(平成2年)には米国貿易政策「スーパー301条」〔これで日本のOS「B-TRON」が潰され、MicrosoftのOSが普及した〕が適用され、日本が国内で使用する実用衛星も国際競争入札にしなければならなくなった。これによって実用衛星の打ち上げに関しては、より安価に打ち上げることの出来る米国製のロケットが多くを持っていき、また、少数生産で高コストの国産衛星は、大量生産で低価格の欧米の商用衛星に敵わず、ひまわり5号の後継機は米国製の完成品購入になった[2]。みどりのような環境観測のための衛星や[12]、はるかのような天文衛星など科学衛星や実験衛星は日本のロケットで打ち上げられることがほとんどであり、これらの衛星は大きな成果を上げた。しかし、商用衛星の打ち上げが海外に流れたことは現在に至るまでロケットの商用打ち上げの実績を積むことができない理由ともなった。
また、1990年代後半から2000年代初めにかけては新たに開発した大型ロケットで躓くことになった。H-IIロケットの5号機と8号機が連続で打ち上げに失敗し、M-Vロケット4号機も打ち上げに失敗[11]。火星探査機のぞみは軌道投入に失敗した。これらの失敗と折からの行政改革の動きが重なり、宇宙機関の統合が政府で提案されるようになった。組織間の連携の強化、機能の重点化、組織体制の効率化などを行う計画が立てられ、宇宙開発事業団は、H-IIロケットの打ち上げ失敗を反省してロケットの再設計と簡素化を行い、2001年にH-IIAロケットの初打ち上げを成功させたが、2003年10月1日に宇宙科学研究所(ISAS)、宇宙開発事業団(NASDA)、航空宇宙技術研究所(NAL)が統合され、文部科学省の下で宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発足した[13]。
機関統合後
宇宙航空研究開発機構(JAXA)設立直後のH-IIAロケット6号機の打ち上げは失敗したものの、その後は成功を重ねた。さらに2009年には、より搭載能力の高いH-IIBロケットによる宇宙ステーション補給機(HTV)の打ち上げも成功させ、国際宇宙ステーション(ISS)への物資の補給を初めて成功させた。また同年にはISSで最大の実験棟となるきぼうの運用も開始された。2013年秋に、M-Vロケットの後継の固体燃料ロケットのイプシロンロケットの初号機が打ち上げられた。一方で、初の商業打ち上げとなった2012年のH-IIA21号機によるアリラン3号の打ち上げ以来商業受注を再び指向するようにもなっている。
衛星分野に関して言えば、1990年の日米衛星調達合意以降、国内で打ち上げる人工衛星の多くが官製の科学衛星や実験衛星になったため、この分野の技術力が強いものとなっていった。気象衛星のひまわり7号の標準衛星バスのDS2000はきく8号に使用された衛星バスを発展させることによって開発されたもので、これによりコストを下げることができ、再び国産で気象衛星を打ち上げることができるようになった。また標準衛星バスのNEXTARを開発したことで、基礎部分をある程度共有するセミオーダーメード型の衛星の実現が可能になり、安価で迅速な開発も可能となり、小型科学衛星(SPRINTシリーズ)や実用リモートセンシング衛星(ASNAROシリーズ)を多く打ち上げる計画も立ち上げられている[14]。
近年で最大の成功ははやぶさの帰還と言える。工学実験を主目的に作られたはやぶさは、2003年に内之浦宇宙空間観測所からM-Vロケットで打ち上げられ、2005年に小惑星イトカワを探査、打ち上げから60億kmの飛行を経て2010年に地球に帰還した[15]。イトカワへの 着陸時にトラブルがあったため、小惑星の試料を採取できていない可能性が高いとされていたが、帰還させたカプセルの中に小惑星の試料が入っており、これによってはやぶさは世界で初めて小惑星から試料を持ち帰った探査機になった[16]。
現在
1998年の北朝鮮のミサイル実験以降、過去には行われてこなかった情報収集衛星[注釈 1]の打ち上げやミサイル防衛など防衛目的での宇宙利用が行われるようになった。また、冷戦終結後は欧州や中国、インドなど各国の宇宙開発の進展によって国際環境が変化したことで日本独自の宇宙開発の意義も変化。さらに、研究開発や科学だけでなく商用や産業の発展などの実用への活用の要求や、宇宙開発に協力する国内民間企業への恩恵の少なさなどが日本の宇宙開発の課題となっていた。
このような問題に対応するため、宇宙開発の中心を文部科学省から関連省庁の垣根を越えた内閣総理大臣の責任の下に移すことが考えられるようになり、2008年に宇宙基本法が制定された。これによって法的に内閣の下での宇宙開発の計画管理の一元化の道筋が立ち、防衛利用の法的根拠等も整備された[17]。制定後、内閣に宇宙開発戦略本部、内閣府に宇宙政策委員会と宇宙開発推進戦略事務局が相次いで設置された。従来、文部科学省の宇宙開発委員会が行っていた計画管理も内閣府の宇宙政策委員会に移り、新しい宇宙開発計画体制が構築された。従来の日本の宇宙開発体制では、JAXAを所管していた文部科学省が力を持っていたが、これらの組織の発足により経済産業省も力を持ち始めるのではないかと推測されている。
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