度量衡

2023年2月21日 (火)

“高麗尺”と「令大尺」―「改新の詔」と「南朝大尺」―

“高麗尺”と「令大尺」
「改新の詔」と「南朝大尺」[論理の赴くところ][度量衡]
【末尾に唐大尺(隋開皇官尺)の場合を追加(2023/2/22)
誤計算していた「令大尺29.09㎝~29.70㎝の1.2倍の34.908㎝~34.884㎝を「(奈良時代)令大尺29.39㎝~29.70㎝の1.2倍の35.273㎝~35.636」に訂正しました。(2023/2/26)

 服部静尚さんの「改新の詔は九州王朝が出した」旨のYouTube動画が公開されています。

服部静尚@大化の改新の真実①大化の改新とは~一元史観の見方@和泉市コミュニティセンター@和泉史談会@20230214@29:01@DSCN0737
服部静尚@大化の改新の真実②改新の詔には異なる畿内定義が有る@和泉市コミュニティセンター@和泉史談会@20230214@15:06@DSCN0738
服部静尚@大化の改新の真実③改新の詔は律令政治のはじめ@20230214@29:01@DSCN0740
服部静尚@大化の改新の真実④大化年間の詔の評価@20230214@28:39@DSCN0741

 全部を拝見しておりませんが、その講演③の冒頭で度量衡の変遷について興味深い事実説明があり、仮説を思いつきましたので、述べてみたいと思います。

 改新の詔で「田長30歩、廣12歩を段とする」(一段の面積360歩)とあり、大宝律令(701)では「改めて段積250歩とする」とあり、和銅六年(713)の格で「重ねて復た改めて360歩とする」とあります。

 これは、三つは同じ面積であるが、度の単位を変更したことを言っているのだろうと思います。結局、和銅六年にはもとに戻したようです。 

改新の詔30歩×12歩=360歩
大宝律令25歩×10歩250歩(「25歩×10歩」は段積からの推定 

大宝令による「大尺」には次の二説があるようです。
“高麗尺”というものがあり、「令大尺」は“高麗尺”で、「令小尺」が「唐大尺」であった。
「令大尺」と「唐大尺」は同じで、その長さは曲尺の9寸6分~9寸8分で、奈良時代の物差し(正倉院蔵=“天平尺”)は曲尺の9寸7分~9寸8分

“高麗尺”は無かったので、によると、大尺29.09㎝~29.70㎝となります(曲尺は100033㎝)。奈良時代は29.39㎝~29.70㎝となります。 

 なぜこのような、とてつもない異説()がでるのでしょうか?

 この二説を統合する仮説として、南朝にも「大尺」(仮称「南朝大尺」)が存在した、という仮説を提唱したいと思います(「南朝大尺」との命名は古賀達也氏による)。

つまり、正始弩尺24.3㎝にはその1.2倍の「(仮称)正始大尺」29.16㎝が、晋後尺24.5㎝にはその1.2倍の「(仮称)晋後大尺」29.4㎝が存在した、という仮説です。 

この仮説によれば、一歩(いちぶ)大尺五尺ですので、「正始大尺」なら一歩1.458m、「晋後大尺」なら一歩1.47mですので、改新の詔の360歩(=30歩×12歩)は次のようになります。

【「正始大尺」29.16㎝の場合】
30歩(1.458×30×12歩(1.458×12)=765.27504

「晋後大尺」29.4㎝の場合
30歩(1.47×30×12歩(1.47mm×12)=777.92400  (『大尺』=29.63㎝×1.2=35.556㎝、『大尺』 五尺=1.7778m)

 また、大宝律令はこれを25歩×10歩としている(推定)のですから、「大宝一歩」は「改新一歩」の1.2倍でなければ同じ面積になりません。つまり、「一歩=『大尺』五尺」を守るならばこの『大尺』はいわゆる「唐大尺」=(奈良時代)令大尺29.39㎝~29.70㎝の1.2倍の35.273㎝~35.636㎝になります( 高麗尺はこれを誤認したことになります)。つまり、「一歩=大尺六尺」を「一歩『大尺』五尺」に変更した(「30歩×12歩=360歩」を「25歩×10歩=250歩」に変更した)ために、この『大尺』を高麗尺という寸法単位の尺度と誤認したのが説と考えられます(この『大尺』は寸法「尺」度ではなく「里」程の単位)。これによって統一的であった「尺」が寸法の度「大尺」と里程の度『大尺』に分裂してしまったと思われます(これは不都合でしょう)。なので、のちに元通りに戻されたのだと思われます。

【唐大尺(隋開皇官尺 )29.63㎝の場合】(2023/02/22追加)
30歩(1.4815m×30)×12歩(1.4815mm×12)=790.14321㎡ 
25(1.4815m×1.2×2510(1.4815m ×1.2×10)=790.14321㎡
(『大尺』35.556㎝ (=29.63㎝×1.2)、『一歩 』=『大尺』 五尺=1.7778m、この『一歩 』 が「一間」(「大尺」六尺
に相当)。

2022年11月 4日 (金)

[妄想]信濃〇〇寺も正始弩尺か?―隠された等距離73mの謎―

[妄想]信濃〇〇寺も正始弩尺か?
隠された等距離73mの謎[妄想][度量衡]

 これは文字通りの「妄想」です。

信濃国分“尼寺”にも隠された等距離があった― 新たなデータで出現した等距離―2017105()に次のように書きました。

……………………………………………………………………………………………………………………
〔前略〕
隠されていた等距離 

伽藍地 東西幅が148.0m、築地幅2.0mですから築地塀の厚さを除けば、
東築地の内から西築地の内までの距離は146.00mです(148m-2m)。
南北中心軸は東西築地の内側から測ると73m(146.00m÷2)の位置にあります。つまり、次の三つが等距離にあります。

①中門から講堂までの心々距離73m
②金堂から尼坊までの心々距離73m
③中門心(南北中心軸)から東西築地(内側)までの距離73m 
〔後略〕
…………………………………………………………………………………………………………………………

 なんと!この①②③の「73m」という距離は、「魏尺(正始弩尺)」(24.3㎝)の300尺なのです。

7,300㎝÷24.3/尺=300.411522633…尺≒300尺(誤差は約0.137%)

 ならば、東築地の内から西築地の内までの距離は146.00mはどうでしょうか?

14,600㎝÷24.3/尺=600.8230…尺≒600

146.00m÷2=73m ですから当然なのですが…(笑)

2022年11月 2日 (水)

妄想:「正始弩尺の小程」説―地割109.4mの謎は解けた―

妄想:「正始弩尺の小程」説

地割109.4mの謎は解けた[妄想][条坊制と条里制][度量衡]

 

 ご寄稿いただきました吉村八洲男さまの「鼠」再論()「上田・神科条里と番匠」に、次のことが紹介されていました。

(1)白井弘文氏は、「遺構への測量・現存する地籍図」などの研究結果から、次のことを解明された。
「坪」の一辺は109mから110mの間』)と予想し(今も現地にはその類似例が残る)、それが「半折形」であった。
(2)「信濃国分寺・尼寺」の伽藍配置にもこの数字(109m)が使われていた。
(3)四国・愛媛県にある「久米遺跡」に使われた「条里のものさし」が「上田の条里遺構」での数値と非常に類似する。
南辺・北辺が222.8m(=109.4m+4m109.4m
東辺・西辺が221.8m(=109.4m+3m109.4m

 

未解明なままの尺度

 「109.4m」(「109mから110mの間」をこの数値とみなしています)という長さを既知の尺度で除算してみても完数(整数値)が得られないこと(次表)から、地割に使用された尺度は「未解明」だとされているようです。

尺度名,        一尺長(), 109.4÷(一尺長()×100 (m/)
①前漢尺,         23.300,   4.695
②後漢尺(晋前尺),     23.090,   4.738
③「魏杜虁(とき)尺」,  24.175,   4.525
④魏尺(正始弩尺),     24.300,   4.502
⑤晋後尺,         24.500,   4.465
⑥「宋氏尺」,       24.568,   4.453
⑦唐小尺,         24.692,   4.431
⑧(白鶴)梁尺,      24.900,   4.394

⑨「南朝大尺(注)(④×1.2,  29.160,   3.752

⑩梁尺,          29.500,   3.708
⑪唐尺,          29.630,   3.692
⑫大宝小尺(天平尺),   29.700,   3.684
⑬“高麗尺”(⑫×1.2),     35.556,   3.077
(注)南朝大尺」という名称は、古賀達也氏の仮称によっています。

 たしかに、キリの良い数値は出ていません。

 

手掛かりとなる「大程」と「小程」

 少し寄り道をします。

 古賀達也の洛中洛外日記 第2808話 2022/08/12 『旧唐書』『新唐書』地理志の比較 に唐の大程と小程が載っています。ブログの一部分を引用します。
…………………………………………………………………………………………………………
『旧唐書』『新唐書』地理志の比較」

 「洛中洛外日記」2804話(2022/08/08)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (13)〟で紹介した足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注①)には、唐代里単位の大程(1里約530m)と小程(1里約440m)について次の説明があります。

左に唐里の大程と小程とを比較すると、
 大程 一歩は大尺五尺、一里は三百六十歩、即ち大尺一千八百尺。
 小程 一歩は小尺六尺、一里は三百歩、即ち小尺一千八百尺で、我が曲尺千四百九十九尺四寸。
 である。
」(44頁)
舊唐書地理志の里程と實測里程とを比較して見ると、皆小程を用ひたことが明である。(中略)大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になったと見えて、宋史・長安志・新唐書の類が皆之を用ひて居る。」(49~50頁)

 足立氏によれば、「大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になった」とあるので、『新唐書』の里単位を調べるために地理志と夷蛮伝の里数を『旧唐書』と比較しました(注②)。ちなみに、『旧唐書』は五代晋の劉昫(887~946)、『新唐書』は北宋の宋祁(998~1061)による編纂です。〔後略〕
…………………………………………………………………………………………………………

 管見では、「条里」や「条坊」には距離の単位として「里」が用いられたと考えていますので、「109.4m」は「里単位」であると考えます。

 足立氏の『長安史蹟の研究』によれば、唐代里単位の大程は1里約530m、小程は1里約440mとあります。大程1里と小程1里を「109.4m」で除算すると次になります。

大程1里約530m÷109.4m4.84460
小程1里約440m÷109.4m4.02193764277…

 この数値から「109.4m」は小程ではないかと推定されます。すなわち、「109.4m」は小程1/4里(四分の一里)と考えました。しかし、これでは小程1里=437.6mということになり、唐の小程約440mとは一致しません。

 足立氏の『長安史蹟の研究』には、もう一つ、小程1里は300(ぶ)、1歩は小尺6尺とあります。この小尺は何㎝になるでしょうか。大程も小程も一里=1,800尺です。つまり、1尺は次の計算になります。

1尺=小程1里437.6m÷1,800尺=0.2431111m24.311

 

一尺が24cm台の尺度

 小程1里の長さ437.6m自体が「109.4m」を確かな数値と仮定したものですので、とりあえず小程の一尺が24㎝台であると大まかにとらえておくことにします。24㎝台の尺度は次のものがあります。

「魏 杜虁(とき)尺」  24.175
魏尺・正始弩尺     24.300
晋後尺(“南朝尺”)   24.500
「宋氏尺」       24.568
唐小尺         24.692
(白鶴)梁尺      24.900

 この中で24.311㎝に最も近いのが、24.300㎝の魏尺・正始弩尺です。

 

謎解きの鍵「久米官衙遺跡」

 仮に小程の一尺が正始弩尺24.300㎝とすると、一里はその1,800倍なので、437.4mとなります。

 ここで、「正始弩尺の小程」説の109.4mの考古学的証拠として有力な「久米官衙遺跡」に登場願いましょう。(3)のデータを再掲します。

「久米官衙遺跡」
南辺・北辺 222.8m(=109.4m+4m109.4m
東辺・西辺 221.8m(=109.4m+3m109.4m

 このように、明確に「109.4m」という数値が記されています。

 109.4mが1/4里と仮定しましたから、一里=437.6m(=109.4m×4)となります。

 小程1里=正始弩尺24.300/尺×1,800尺=43,740㎝=437.4m

この差は一里437.4m当たり、わずか0.2m(=20㎝、誤差0.045724737…%)です。

この誤差であれば、(古制)唐小程小尺は正始弩尺であると言っても過言ではないでしょう。

 

正始弩尺が(古制)唐小程小尺である理由(推定)

 まず、唐の小程の一里三百歩一歩六尺周の制度(古制)です。唐代には一歩五尺になっています。すなわち、(古制)小程一里三百歩(一歩六尺、小尺一尺=正始弩尺)は「唐以前(よりも前)」の制度ということになります。

 また、(古制)一里三百歩一歩六尺、小尺一尺)が「唐の小程」ともなっているということは、唐が古制を継承していることにもなります。ただし、古制を継承しつつも唐の小程(1里約440m)は、晋後尺(“南朝尺”・唐玄宗開元小尺)24.5 ㎝/尺 ×1,800尺=441mとなっています(正始弩尺から後尺への変遷 )。

 この条件を満たすのは支那大陸を統一した「隋(581 - 618年)」ということになります。109.4m(1/4里)は6世紀末葉から7世紀初頭にかけて行われた制度と推定できます(隋以前からの制度(南朝の制度)であった可能性も高い)。その証拠を挙げよと言われれば次を示せば足りるでしょう。

下記「唐玄宗開元小尺」の上にある「唐小尺」(24.3㎝) は、いわゆる唐小尺24.692㎝ではなく、「正始弩尺」です。

文化遺産オンライン
唐小尺 金工 長さ24.3 1.5 厚さ0.25 1
唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5 1.9 厚さ0.5 1
唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4 1.9 厚さ0.5 1


最後に

 「(古制)唐小程」と述べてきましたが魏尺(正始弩尺)による小程(1里437.4m )は「隋小程」 と言ってもよいでしょう。

 以上、事実(紹介されたものを含む)に基づいて述べているにも関わらず「妄想」と題しているのは、次の理由によります。
A.先行研究を一切調査していないこと。
B.自説に都合の悪い事項を一切考慮・検討していないこと。
C.自説の論拠の検証を行っていないこと。

 よって、この「妄想」が他の研究者にヒントを与えることができたなら望外の喜びです。

2021年12月22日 (水)

実在した「南朝大尺」―唐「開元大尺」は何cmか―

実在した「南朝大尺」
―唐「開元大尺」は何cmか―[度量衡] 

 先の記事 「1.2倍尺」の出現する理由―十二進法の影響か―2021年12月20日(月)で藤田元春「尺度の研究」(PDF)に載っていた「1.2倍尺」が出現するのは「十二進法」が影響したとする説を紹介しました。そこに挙げられていた「開元尺」は、唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めたとされているものです。 

 文化遺産オンラインを調べていたら、面白いモノサシを見つけました(リンクを貼ってあります)。単位はセンチメートルです。

唐小尺 金工 長さ24.31.5 厚さ0.25 1

唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.51.9 厚さ0.5 1

唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.41.9 厚さ0.5 1

 

 何が「面白い」のかといえば、文化遺産オンラインに載っている「唐小尺 金工 長さ24.3(cm)」というのは、魏の「正始弩尺(24.30)」であり、同じく「唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5(cm)」というのは、「晋後尺(24.50)」であり、「唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4(cm)」というのは、古賀達也の洛中洛外日記 第2638話 2021/12/16 大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(3)で古賀さんが指摘している大宰府政庁Ⅱ期の「正殿」「後殿」で用いられている「南朝大尺(29.4) 完全に一致しているのです。

 唐の李淵が隋を滅ぼして支那大陸を統一(618年)してから開元元年(713年)まで凡そ百年経過しているにも関わらず、江南を中心に「魏・正始弩尺(24.30)」「晋後尺(24.50)」さらに「南朝大尺(29.4㎝=「晋後尺(24.50)1.2倍尺)」が用い続けられていたため、玄宗皇帝は「唐小尺(24.3㎝)」「開元小尺(24.5㎝)」「開元大尺(29.4㎝)」を定めて度量衡の統一を図ったのではないかと思われます。

2021年12月20日 (月)

「1.2倍尺」の出現する理由―十二進法の影響か―

「1.2倍尺」の出現する理由
十二進法の影響か[度量衡]

 先のブログ記事 古代尺を考える―大宰府条坊都市だけが鬼っ子― において、「南朝尺グループ」と「北朝尺化グループ」に分けましたが、次のようになっていました。

「北朝尺化グループ」=.×「南朝尺グループ」

 「なぜゆえに.なんだ?」と思いませんでしたか?

 これに対する仮説が、先に 正倉院の物差し―誤り訂正のお知らせ― で紹介した 藤田元春「尺度の研究」PDF)に載っていました。「1.2倍尺」が出現するのは「十二進法」が影響したとする説です。「なるほど、あるかも」と思ったので紹介します(句読点・改行も原文のまま)。(ただし、原文は縦書きです。)

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〔前略〕杜佑の通典にこの白虎通を引いて(通典五十五巻吉禮部)

  夏法曰、日數十也、日無不照、尺所度無不極、故以十

  寸爲尺、殷法十二月言一歳之中無所不成、故以十二寸

  爲尺、開據地而生、地者陰也、婦人以爲法、婦人大率

  奄八寸、故以八寸爲尺也

とある。勿論周代でさへ尺に定制がないのである

からこの三つの法がこの文字の如く三代にあった

とは信じられぬけれども、八寸、十寸〔、〕十二寸の

三種の尺が現存せなかったならば、かゝる説明的

文字は出來なかったであろう、でこれを三代異

尺の説といふのであるが物徂徠の度考にはこの白

虎通の語あるを知らずして明の朱載堉が、以夏尺

八寸均以十寸即周尺也、周尺最小、以夏尺一尺二

寸均作十寸即商尺也商尺最大と論じたのを、取る

に足らぬ俗説として三代異尺の説は古より唐宋元明

に至る迄未だ嘗て有らざる也と喝破してゐるが、

これは徂徠が白虎通に既にこの朱氏の説があるを

知らずして、のべたことで朱氏を責むるよりは、

徂徠自ら耻ぢなければならぬ。蓋し白虎通の言

によれば夏尺が基本で、殷は其十有二寸で周は其

八寸にあたると云ふので朱氏は之によったのであ

る。然らば夏殷周其の通りであったか云へば、其

れは分からないがこの言語の中から漢に三種の尺

あるを知ると同時に、尺度を起すに十進法と十二

進法が古よりあったことを知るのである。抑も尺

は人の體から出たものであるから最初は五本の指

のあるやうに十進法であったであらう、しかし十

二と云ふ一年の間の月の周期を知るに至って後、

律呂尺量、天文現象の類が其の影響をうくるの至

った事も餘程古いことで、六律六呂、十二律と云

ふことを始め淮南子に十二[菓*]を寸とするとか暹羅

の一尺(kub)が十二寸(nin)より成立するとか、

英國の諸等數が十二進法であるといふような極め

て多い類例からおそらく支那にも十二進の一尺があ

ったであろう、故に唐制一尺二寸を大尺とすると定

めたので、漢代既にこの尺の取り方があったのであ

る、もし考工記の玉人の條を周代の者とするなら

ば鎭圭尺十有二寸といふ事がその意味であって鄭

注に周猶十寸を以て尺となすと云ふたのも何だが

慥かでなく或は十二寸或は八寸、何れも尺であっ

たらしいのである。故に實驗考にある通り曲六寸

四分の鎭圭尺十有二寸に對して十又二寸の圭(實長曲七寸六分

八厘)があり、宏璧があり大琮があるのである。漢の

[攄*]虎銅尺と云ふ實物は實に曲七寸七分餘であるか

ら、この尺は鎭圭尺を基礎とした十又二寸の尺で

あるとみられる、つまり十二進法をとるといふこ

とのため、二寸づゝのびるので、かやうに曲八寸

に近い尺が出來れば、つぎに曲一尺の尺もでき、

つぎに曲一尺二寸の尺も出來る。即十分の二づゝ

延ばすのであるが、かやうに見ると白虎通の殷法

十二寸は明になるが、周法八寸と云ふのがやゝ了

解し難くなる、しかしこの周法八寸といふことは

實に十二進法の一變化に過ぎない、何となれば、

今鎭圭尺六寸四分がある。これを八寸と見て、新

たに十寸の尺にする十分の二を延ばすかはりに四

分の五をとる其算式

    6.4×5/4=8

となる、かくすれば、古代の圭や璧から度を起し

て、新たに曲八寸尺が出來る。かゝる長に合す

るものは実に唐の開元尺である これは即ち唐の

小尺で隋書律歴志の晋前尺と稱するものである、

十二進法をとるには或は十分の二を加へたらしい

けれども、いつかこの增し方が、外割になって八

分の十の比をとることもあって漢以後の官尺は常

にこの兩方の延び方で延びて行ったことは左の如

くである。(附表參照)

[菓*]は、草冠の下、果に替えて票。[攄*]は、手偏に替えて人偏。

 鎭圭尺(菊ざし)…6.4×5/4=8寸……(開元尺)

 開元尺(文ぎ)……8. ×5/4=10寸…(曲尺)

 曲尺……………………10.×12/10=1.2……(高麗尺)

 曲尺……………………10.× 5/4 =1.25……(鯨尺、呉服尺))

 高麗尺…………………1.2× 5/4 =1.5……(正倉院木尺)

 大尺 ……………………1.5×12/10=1.8……(布尺)

〔後略〕

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古賀仮説(「南朝大尺」説)登場―大宰府政庁Ⅱ期の造営尺―

古賀仮説(南朝大尺」説)登場
大宰府政庁Ⅱ期の造営尺[著書や論考等の紹介][度量衡]
【訂正のおしらせ(2021/12/22)
 古賀達也氏が
古賀達也の洛中洛外日記 第2638話 2021/12/16 大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(3)で、名称を「南朝大尺」に変更されていましたので、この記事の題名にある古賀仮説の名称も「南朝大尺」に訂正しました。なお、当記事の文中はそのままにしておきますので、ご承知おきください。【訂正のおしらせ終わり】
 

 古賀達也の洛中洛外日記 第2637話 2021/12/15 大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(2)に次のようにあります(強調は山田による)。
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大宰府政庁遺構の調査報告書『大宰府政庁跡』(注①)には「大宰府政庁正殿跡の礎石間距離についての実測調査」(注②)という項目があり、その「調査目的」で次のように説明しています。

〔中略〕測定されたⅢ期正殿身舎部分の実測値が次のように示されています。 

桁行全長 21.999m 梁行全長 6.485m

桁行柱間の平均距離 4.398m  梁行柱間の平均距離 3.241m 

 これらの距離を南朝尺(24.5㎝)、前期難波宮造営尺(29.2㎝)、太宰府条坊造営尺(30㎝)などで割ったところ、南朝尺の1.2倍(29.4㎝)が最も整数を得ることがわかりました。当初は前期難波宮造営尺(29.2㎝)での造営ではないかと推測していたのですが、計算すると整数に最も近い値となるのが29.4㎝尺であり、これが偶然にも南朝尺の1.2倍だったのです。次の通りです。 

     24.5㎝  29.2㎝ 29.4㎝ 30㎝

桁行全長 89.79  75.34  74.83  73.33

梁行全長 26.47  22.21  22.06  21.62

桁行柱間 17.95  15.06  14.96  14.66

梁行柱間 13.23  11.10  11.02  10.80 

 これらの数値はⅢ期正殿の実測値に基づいていますから、ほぼ同位置だったとされるⅡ期正殿の実態とは若干の誤差があることは避けられません。しかしながら「最初の礎石の時期から次の立て替え時期における位置を保っている」との判断を信頼すれば、南朝尺と同1.2倍尺による各距離は次のようになります。 

     南朝尺(24.5㎝) 1.2倍尺(29.4㎝)

桁行全長   90尺     75尺

梁行全長   26.5尺    22尺

桁行柱間   18尺     15尺

梁行柱間   13.25尺    11尺

  両者を比べると、0.5や0.25という端数がでる南朝尺よりも、端数がでない1.2倍尺の方が、設計・造営に採用する尺としては穏当なものと思います。

 この〝1.2倍〟という数値は、いわゆる各時代の小尺と大尺の比率であることから、九州王朝(倭国)は南朝尺(24.5㎝)を採用していた時代と七世紀中頃からの同1.2倍尺(29.4㎝)を採用した時代があったのではないでしょうか。あるいは、南朝尺から同1.1倍尺(法隆寺造営尺)、そして1.2倍尺(大宰府政庁Ⅱ期造営尺)へと変遷したのかもしれません。この変遷は、時代と共に長くなるという尺単位の傾向とも整合しています。この点でも、大宰府政庁における南朝尺採用とした川端説よりも有力な仮説と考える理由です。わたしはこの1.2倍尺を「南朝大尺」あるいは「倭国大尺」と仮称したいと思いますが、いかがでしょうか。より適切な名称があればご提案下さい。〔後略〕
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 この古賀さんの「1.2倍尺」仮説は、尺長が完数(端数がない整数)で得られ、“南朝尺”(正確には「晋後尺」24.5㎝)説よりも説得力があります。1.2倍尺」仮説は、大宰府政庁遺構の造営尺に関して、全く新しい視点からのアプローチとして注目すべきで、私はこの古賀仮説を支持します。

 また、古賀さんが次のように、「大宰府政庁」には全く言及していない「前期難波宮造営尺」に関する私の見解を「先行説」として紹介頂いたことに感謝します。

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なお、倭国尺についての山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)による研究(注③)があります。特に次の見解はとても参考になりました。 

(ⅰ)南朝尺は晋後尺(24.50㎝)以外にも魏尺・正始弩尺(24.30㎝)がある。

(ⅱ)魏尺・正始弩尺(24.30㎝)の1.2倍は29.16㎝であり、前期難波宮造営尺の29.2㎝に近い。このことから前期難波宮造営尺は魏尺・正始弩尺の1.2倍尺「倭大尺」だったのではないか。 

 このように、山田さんの見解は基本的視点が拙稿と共通します。貴重な先行説として紹介させていただきます。
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 なお、古賀さんが要約して紹介してくださったのは次のブログ記事です。

「前期難波宮」の内裏前殿は南朝尺で造られていた―「前期難波宮」内裏前殿に使用された魏尺(正始弩尺)―2017年4月9日(日)

 ということで、またもや「過去記事の再利用」ができました。古賀さん、ありがとうございます。 

2021年10月15日 (金)

正倉院の物差し―誤り訂正のお知らせ―[度量衡]

正倉院の物差し
誤り訂正のお知らせ[度量衡]

 正倉院所蔵の「物差し(ものさし)」について、私はいままでその平均値を29.7cmとしていましたが、藤田元春氏の「尺の研究」(PDFのダウンロード)に載っていた一覧表を集計すると次のようでしたので、ご報告するとともに、誤りを訂正させていただきます。なお、「0.98微弱」(曲尺)とあるのは「0.9799」として集計しました。 

撥鏤尺               8点  平均値 30.0038cm
撥鏤尺以外の物差し     13点  平均値 29.6627cm
正倉院所蔵の物差し 総計 21点 総平均値 29.7926cm

 以後、「撥鏤尺(平均)30.00cm、撥鏤尺以外の正倉院所蔵の物差しを「天平尺29.66cmと呼称して扱います(あくまでも「当ブログ内」での取り扱いです)。

正倉院所蔵のものさし一覧(藤田元春「尺の研究」より)
Photo_20211015130001

正倉院所蔵の「ものさし」の平均値の算出(上記の藤田元春「尺の研究」による)
Photo_20211015130002

2021年8月20日 (金)

古代尺を考える―大宰府条坊都市だけが鬼っ子―

古代尺を考える
大宰府条坊都市だけが鬼っ子[度量衡][論理の赴くところ]
【訂正のお知らせ】
「古代尺の分類図」の「正倉院撥鏤尺」の個所で「曲尺10/33cm×0.978尺≒24.7(天平尺)となっていましたが「29.64cm(天平尺)」の間違いでしたので図を訂正いたしました。
また、曲尺が10/33
cmとなっていましたが、正しくは10/33で単位が間違っていました。単位をcm で揃えて曲尺1000/33cmに訂正いたしました。

 今回は、「「モノサシ」の現物がある尺度」かどうかではなく、「遺跡から推定された尺度」や「仮想(創造)尺度」も含めて、かつて「考えられてきた古代の尺度」を論理的に考察してみました。まず、次の図をご覧ください。「考えられてきた古代の尺度」をスケールに表示した図です。

古代尺の分類図
Photo_20210824141801
 かつて、「尺度は時代によって伸びていく」と言われていましたが、この図からは「それは全体的に見れば極わずかである」と言えます。

 尺度が伸びたと考えられる場合には、ある数値の近傍に集中していることがわかります。その理由は「度量衡」は中央集権的統治に不可欠かつ管理すべき性質のものだからです。変化がある場合は、統治上の必要性があったか、または、政権の交替があった場合などによるでしょう。それが「尺度は時代によって伸びていく」と言われる箇所です(図では各グループ内の事象)。

 ところが、図で「秦・漢尺」・「南朝尺グループ」・「北朝尺化グループ」・「仮想グループ」と分けましたが(とりあえず付けた名称は気にしないでください)、これらのグループが「尺度の伸び」で発生したとは絶対に言えないでしょう。

 私見を述べれば、「南朝尺グループ」は北方民族の南下により漢民族国家が江南に遷都して発生した尺度群です。「北朝尺化グループ」は北朝が長い尺度を用いていたことの影響を受けて、どの南朝尺が元であるかは定かではありませんが、かつての尺度(南朝尺グループのどれか)を何倍か(よくあるのは1.2倍)したものと思われたので「北朝尺化グループ」と仮に名称をつけています。そして「仮想グループ」は「北朝尺化グループ」の手法を「誤解」したことによって発生したとして(私の考え)、「仮想グループ」という名称をつけています。

 唯一この分類になじまない鬼っ子が「大宰府条坊都市(7世紀前半)30cm」です。時代が合わないのです。

2021年8月19日 (木)

自説訂正:「奈良尺」は存在した―藤原京と「(本)薬師寺」のコンセプト―

自説訂正:「奈良尺」は存在した
藤原京と「(本)薬師寺」のコンセプト[度量衡][論理の赴くところ][妄想]
【おしらせ】
第1図 藤原京域の復元諸説『大宰府への道』〔注4〕p.161より)は、書籍を撮影しWB(ホワイトバランス)が悪くて見づらいため 、縮小して、第1図 藤原京復元図(森郁夫「古代寺院研究上の問題点」P.125より)を追加しました。どちらもクリックで拡大できます。【おしらせ】終わり。

 私は以前、このブログで まぼろしの創造古代尺 ―「奈良尺」も無かった―という記事を掲載しましたが、無知によるものでしたので、ここに訂正いたします。「奈良尺」は実在しました。

 「奈良尺」は、物差しの実物が存在していました。六九四年に築造されたとされる藤原宮の推定造営尺で「一尺29.5cm」でモノサシが出土〔注1〕していました。そして、この尺度で「薬師寺」が造営されています〔注2〕。また、この尺度は七世紀中頃以降とされる難波京条坊29.49cm〔注1参照〕同一と思われます〔注3〕

 さて、自説を訂正したところで(転んでもただでは起きない())、藤原京と「()薬師寺」のコンセプトについて妄想してみました。

 藤原京の京域には諸説があるようです。

第1図 藤原京域の復元諸説『大宰府への道』〔注4〕p.161より)
Photo_20210819180801

第1図 藤原京復元図(森郁夫「古代寺院研究上の問題点」P.125より)
Photo_20210826125001

 上図の「★京極確認地点」をご覧ください。左右(東西)の地点はともに「十坊大路」にあります。ですから、西の京極はKL、東の京極はNMのラインまでとなっているはずです(ここで「小澤毅・中村太一説」以外すべて脱落です)。

 次に右(東)の地点は「北四条大路」を越えた地点にあります。つまり、条坊の大路が偶数にあるとすれば、北の大路は「北六条大路」までで、すなわちKNのラインまでが北の京極となっているはずです。

 では、「★京極確認地点」がない南の京極はどこまででしょうか。東・西・北の京極までは、藤原宮の中心から全て五方眼行った所になっていますので、南も五方眼行った所(十四条大路)のはずです。

 なぜそう言い切れるのか?

 藤原京が計画された都市であったならば、東・西・北の京極が藤原宮の中央より五方眼行った所なのに、南だけがそうでなければ「都市計画」として「理路整然としてない」し、なにより「美しくない」からです(笑)。

 ということで、藤原京の京域は「小澤毅・中村太一説」の説く領域(KLMNで囲われた領域)です(その後に拡張や縮小がされたとしても、当初の計画図はKLMNだったはず)。

 さて、当然のことながら藤原宮は京域(KLMN)の中央(ど真ん中)に位置しています。これは「周礼型」(南朝様式)と呼ばれています。平城宮は平城京の北域に位置していて、「北闕型」(北朝様式)と呼ばれています。

 ちょっと脱線しますが、『大宰府への道』の特論3「大宰府の都市の造営」(赤司善彦)に、平城京の京域に関して、「モデルとされた唐長安城は東西に長い方形と形状が異なり、面積も四倍である。その長さを二分の一して九〇度回転させた縮小形と井上和人氏は指摘する(井上和人二〇〇八)。ただし、なぜ回転させて唐長安城の四分の一にしたのか不明である。」(『大宰府への道』P.161)とありますが、なぜ「四分の一にしたのか不明」ですが(これは「長安城の四分の一にしたかった」ことをまず立証してから出す疑問でしょう)、「回転させて」南北に長い方形の「北闕型」に「したのか」というのは難波京の先例があるので、それに倣って周礼型」(南朝様式を否定したと言えるのでしょう。むしろ、藤原京をなぜ「周礼型」にしたのかを追求するべきです。

  ここからは妄想(根拠は示せない)になりますが、隋との交流で「(前期)難波京」を北闕型に造営したが(倭年号(九州年号)白雉元年(六五ニ年)、孝徳紀白雉二年)、唐・新羅に敗北(六六三年「白江戦」)した後、倭国内は反唐(反北朝)気運が高まったと思われます。その後、大皇弟(大海人皇子)が唐のステルス支援のもとに近江朝(弘文天皇(大友皇子))を打倒した(「壬申の乱」)ものの、表立った親唐的態度は取れなかったと思われます。朱鳥元年(六八六年)正月に難波の宮室が全焼した後、新規に造営する「新益京(あらましのみやこ)」(藤原京)は、北朝様式(北闕型)を避けた南朝様式(周礼型)にしたと考えられます。こう考えると、「白村江」の敗北以降、倭国内では「反唐」的雰囲気が濃厚に立ち込めていた、としなければならないでしょう。

 以上のような「妄想」に従えば、「()薬師寺」が「薬師寺式伽藍配置」を採った理由も明らかです。
挿図7 薬師寺伽藍配置図(森郁夫「わが国古代寺院の伽藍配置」より)
Photo_20210819181301
 「薬師寺式伽藍配置」はほぼ正方形の内郭(回廊で囲われた領域)の「ど真ん中」(中央)に金堂を配し、内郭の中に二基の裳階付三重塔(六重塔に見える)を置く伽藍配置です。しかも、この伽藍配置は、当時に流行したものではなく、「(本)薬師寺」が最初だったのです(「薬師寺式伽藍配置をとる寺では、六八〇年代半ばに工事が始められたと思われる本藥師寺が最も早い例であることがわかる。」(森郁夫「わが国古代寺院の伽藍配置」))。しかも、「薬師寺式伽藍配置」とされる寺院の中でも、内郭が正方形でその中央(ど真ん中)に金堂を置くのは「薬師寺」のみです。また。「薬師寺」以降にこの伽藍配置様式が流行した痕跡もありません。このことは「藤原京」を「周礼型」として造営する計画から、「(本)薬師寺」は「薬師寺式伽藍配置」(謂わば「周礼型伽藍配置」)として、「藤原京」との組み合わせ(セット)で造営された寺院だと考えられるでしょう。

 すなわち、妄想の結論を言えば、(本)薬師寺倭国(九州王朝)の大寺(官寺)」ならば「藤原京倭国(九州王朝)の帝都」であり、また、「藤原京倭国(九州王朝)の帝都」ならば「(本)薬師寺倭国(九州王朝)の大寺(官寺)である、ということになります。 

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注1 モノサシが出土 …… 以下は、古賀達也「都城造営尺の論理と編年―二つの難波京造営尺―」(古田史学会報№158 2020610日)より抜粋(下線強調は山田による)。

【七~八世紀の都城造営尺】
〇前期難波京(六五二年、九州年号白雉元年)29.2cm

〇難波京条坊(七世紀中頃以降)29.49cm

〇大宰府政庁Ⅱ期(六七〇年以降)、観世音寺(六七〇年、白鳳十年)29.6~29.8cm
 ※政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを二千尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られる。

〇太宰府条坊都市(七世紀前半か)29.9~30.0cm
 ※条坊間隔は90mであり、整数として三百尺が考えられ、一尺が29.9~30.0cmの数値が得られている。

藤原宮(六九四年)29.5cm
 ※モノサシが出土

〇後期難波京(七ニ六年)29.8cm
 ※律令で制定された小尺(天平尺)とされる。

注2 この尺度で「薬師寺」が造営されています。 …… 厳密に書くなら、この「薬師寺」は「平城京薬師寺」を指しています。この金堂を解体修理した大岡實建築研究所のホームページに次のように記載されています(詳しくは まぼろしの創造古代尺 ―「奈良尺」も無かった―をご覧ください)。
中央の三柱間の両脇各々二柱間は奈良尺の一〇尺で、これは一・二五尺の八倍。(南北方向の四柱間も一〇尺)

 ただ、「()薬師寺」(「藤原京薬師寺」)と「平城京薬師寺」は同一寸法で建てられているとされています(このため「移築説」があるほど)。「回廊が複廊の薬師寺に対して本薬師寺は単廊である」のですが、「平城京薬師寺」も「当初は単廊で造営が進められたことが明らかになっている」ようです(Wikipedia「本薬師寺」薬師寺移転の項目より)。なので、両方併せた意味で単に「薬師寺」と書いています。

 なお、現在では、「藤原京薬師寺」を「本薬師寺(もとやくしじ)」、平城京薬師寺を単に「薬師寺」と呼んでいますが、本来「藤原京」に「薬師寺」が建てられ、後に「平城京」に「薬師寺」が建てられたのですから、私はいわゆる「本薬師寺」(藤原京の薬師寺)を「()薬師寺」または「藤原京薬師寺」と書き、奈良の薬師寺は「平城京薬師寺」と書くことにしています。単に「薬師寺」と書いた時は「()薬師寺」(「藤原京薬師寺」)及び「平城京薬師寺」を併せて呼んでいます。ご了承ください。

注3 同一と思われます …… 出土した「物差し」が製作当時の寸法を維持していると考えるのは科学的ではありません。①難波京条坊(七世紀中頃以降)の推定造営尺29.49cmと②藤原宮(六九四年)造営尺(※モノサシ出土)29.5cmと③「平城京薬師寺」金堂の基本寸法(奈良尺の1.25倍)に用いられたと考えられる奈良尺29.485cm(=曲尺(10/33cm)×0.973)は「同一尺度」と考えてよいでしょう(あるいは、時代による「伸び」なのかも知れない)。 

注4 『大宰府への道』 …… 『大宰府史跡発掘50周年記念 大宰府への道 ――古代都市と交通――』(九州歴史資料館 編集・発行、平成三十年(二〇一八)四月二十四日発行)

2021年7月26日 (月)

妄想:南朝尺の北朝化―倭国はかつて魏尺を用いていた―

妄想:南朝尺の北朝化
倭国はかつて魏尺を用いていた[妄想][度量衡]

 ブログ「古賀達也の洛中洛外日記」(第2522話 2021/07/18)に 難波京西北部地区に「異尺」条坊の痕跡という記事が掲載されています。

 ここで古賀さんが「異尺」と言われたのは、「従来は条坊が及んでいないと見られてきた難波京西北部地区(難波宮域の北西方にある大川南岸の一帯)にも、難波宮南方に広がる条坊とは異なる尺単位による条坊(方格地割)の痕跡が複数出土」していて「これまで発見された難波京条坊は1尺29.49cmで造営されており、それは藤原京条坊の使用尺(1尺29.5cm。モノサシが出土)に近いもの」であったが「難波京西北部地区は1尺29.2cmを用いて造営されている」と古賀さんが述べられている、佐藤隆さんの研究論文「難波京域の再検討推定京域および歴史的評価を中心に」(大阪歴博『研究紀要』第19号、令和3(2021)3月)にある「1尺29.2cm」の尺度のことです。

 しかし、実は「わたしはこの1尺29.2cmという尺に驚きました。これは前期難波宮の造営尺と同じだからです。」と古賀さんが述べられているように、前期難波宮の造営尺(129.2cm)と難波京条坊の使用尺(129.49cm)が「異なっていることは不思議な現象だった」のです。

 なぜかというと、使用している尺度が異なることは、前期難波宮前期難波京条坊の「造営時代が異なる」か「造営主体が異なる」か、はたまた「造営時代も造営主体も異なる」と考えるのが自然だからです。いずれにしても「不思議な現象」と言わざるをえません。

 そこで、前期難波京条坊に使用した尺度が「1尺29.2cm」と「1尺29.49cm」と異なる不思議はさておき(棚上げして)、新たに難波京西北部地区に発見された条坊の使用尺「1尺29.2cm」について「妄想」してみました。

 倭国は「南朝」に朝貢していましたので、独立(517年、年号「継体」を建元)してからも暦は南朝劉宋の「元嘉暦」を用いていましたから、独立以前から尺度(度量衡の一つ)も南朝のものを用いていたと考えるのが自然です(南朝と同じ方が便利ですから)。また、一度定めた度量衡を頻繁に変更するのは社会に混乱をもたらしますので、継続的に使用していたと考えられます(単なる推測です)。

 ところが「遣隋使」を派遣して「隋」と交流を持つと不都合がおきます(南朝の尺度と北朝の尺度は異なる)。また、南朝が衰退すれば南朝の度量衡を用い続けるメリットも大義名分も失われるでしょう。

 そこで妄想の登場です。倭国は妙手を思いつきました。「」には南朝の「小尺」と北朝の「大尺」(并せて「開皇官尺」)があるではありませんか。ならば、倭国だって「小尺」(南朝由来)と「大尺」(北朝由来)があってもいいではないでしょうか。また、旧来から用いていた度量衡を一気に換えるのは社会が混乱しますので、倭国の「大尺」と隋の「大尺」が多少違ったって、多少の違いは許されるでしょう(隋も経過措置をとった)。倭国は南朝由来の「尺度」を「小尺」として、その1.2倍を「大尺」として採用したのです(妄想です)。

 結論を述べましょう。

 倭国がもとから用いていた南朝尺は「魏尺(正始弩尺)」の1尺24.3cm、新たに採用した「大尺」は隋と同様に「小尺」の1.2倍の29.16cmだったのです。

 こう考えれば、新たに見つかった前期難波京条坊に使用した尺度が「129.2cm」(「倭大尺」とでも)であることの説明がつくのです。推測になりますが、新しく見つかった条坊の一区画は倭大尺 で1,000尺=291.6mまたは900尺=262.44mだと考えられます。「前期難波宮」の内裏前殿は南朝尺で造られていた(2017年4月 9日 (日))も併せてご覧いただければ幸いです。

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