妄想

2023年2月25日 (土)

倭国一の寺院「元興寺」(妄想編)―詔と創建順―

倭国一の寺院「元興寺」(妄想編)
詔と創建順[妄想][論理の赴くところ][神社・寺院]

 今回は、ある仮定に基づいて、「元興寺」「法興寺」「法隆寺」の創建順を論理的に求めてみます。

 「ある仮定」とは、次の詔に関することです。

…………………………………………………………………………………………………………………………

《推古天皇二年(五九四)》
二年春二月丙寅朔、詔皇太子及大臣、令興癃三寶。是時、諸臣連等、各爲君親之恩、競造佛舎。即是謂焉。
………………………………………………………………………………………………………………………… 

 

《仮定(妄想)》

 この詔は「九州王朝(倭国)」の天子が出した

 

《仮定の拠り所(妄想)》

 この記事にある「」という語は、欽明天皇十三年(五五二)冬十月条(注①)で既に使われています(初出)。『日本書紀』にはこの記事以外に「佛舎」という語はありません(すなわち「詔」には「佛舎」とあった)。この条で「佛舎。即是謂寺焉」との説明が入るのは、この詔にしたがって諸国が(当然その「国府」に)競って建てた「佛舎」は朝庭が「~」と統一して呼ぶことに決めた(ここで初めて「寺」という語が「佛殿」を意味することになった)ために、「」の説明(「即是謂焉。」)が必要になった。とすれば「寺」が初出する欽明天皇十三年(五五二)十月条は、例えば「神武天皇」の「天皇」のように、遡って使われていると考えられる。さもなくば、推古二年二月条の記事は、時代が繰り下げられているのかもしれません。

 

 さて、推古天皇二年(五九四)》二月丙寅朔の詔が、倭国(九州王朝)の天子が出したとすれば、論理的に次のようになります。

(1)「三寶をせしめよ」との詔に従えば、倭国「第一(No.1)」(「」)の寺院は当然「元興寺」を名乗る。
(2)次の(「第二」)の寺院は興寺」は名乗れないので、仏する意味の「寺」を名乗る。
(3)さらに次の(「第三」)の寺院は元興寺」も「法興寺」も名乗れないので、「()寺」を名乗る。

 この順序を入れ替えると「(漢風)寺号」の説明がつかなくなります。
80_20230225152901※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

注① 欽明天皇十三年(五五二)冬十月条 ‥‥‥ 岩波古典文学大系『日本書紀 下』原文は次の通り。

《欽明天皇十三年(壬申五五二)十月》
冬十月、百濟聖明王〈更名聖王。〉遣西部姫氏達率怒唎唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干巻。別表、讃流通・禮拜功德云、是法於諸法中、最爲殊勝。難解難入。周公・孔子、尚不能知。此法能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提。譬如人懐随意寶、逐所須用、盡依[忄靑]、此妙法寶亦復然。祈願依[忄靑]、無所乏。且夫遠自天竺、爰洎三韓、依教奉持、無不尊敬。由是、百濟王臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉傳帝國、流通畿内。果佛所記我法東流。是日、天皇聞已、歡喜踊躍、詔使者云、朕從昔來、未曾得聞如是微妙之法。然朕不自決。乃歴問群臣曰、西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾有。可禮以不。蘇我大臣稻目宿禰奏曰、西蕃諸國、一皆禮之。豐秋日本、豈獨背也。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同奏曰、我國家之、王天下者、恆以天地社稷百八十神、春夏秋冬、祭拜爲事。方今改拜蕃神、恐致國神之怒。天皇曰、宜付[忄靑]願人稻目宿禰、試令禮拜。大臣跪受而忻悦。安置小墾田家。懃修出世業、爲因。淨捨向原家爲。於後、國行疫氣、民致夭殘。久而愈多。不能治療。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同奏曰、昔日不須臣計、致斯病死。今不遠而復、必當有慶。宜早投棄、懃求後福。天皇曰、依奏。有司乃以佛像、流棄難波堀江。復縦火於伽藍。焼燼更無餘。於是、天無風雲、忽炎大殿。

2022年12月24日 (土)

九州王朝の薬師寺―伽藍配置の変遷試論―

九州王朝の薬師寺
伽藍配置の変遷試論[妄想][神社・寺院]

 伽藍配置において「講堂」の位置は特別な変遷をたどります。
 「特別な変遷」と言ったのは、例えば「仏塔」なら時代とともに回廊内から回廊外へと一方向に変遷しています。ところが、講堂は次のように変遷しています。 

(1)古式寺院の講堂は回廊外にあります(金堂と仏塔は回廊内)。
(2)仏塔は回廊内で回廊が講堂に繋がる(「四天王寺式」)。
(3)回廊は講堂に繋がっているが、仏塔は回廊外に置かれる(「信濃国分寺」)。
(4)回廊は金堂に繋がる(いわゆる“国分寺式”、回廊内に伽藍はなく講堂は回廊外に置かれる)。

 回廊内が寺院中枢ですから、講堂は必要なのだが中枢伽藍にはなり得ないものでした。

 私見を述べれば、仏教そのものが、次のような変遷をたどったとみています。
① 仏舎利(仏塔)が大事な時代(倭国にこの時代は無かったかも)
② 仏舎利(仏塔)と仏像(金堂)の両方が大事な時代(「山田寺」や「法隆寺」の伽藍配置)
③ 僧侶を養成するために経典の講義(講堂)が必要な時代(「四天王寺式」、回廊が講堂に繋がる)
④ 仏像(金堂)は大事だが仏塔は回廊外に置かれる時代(「信濃国分寺」などの伽藍配置)
⑤ 大勢の僧侶が仏像(金堂)の前(金堂前庭)で読経する時代

薬師寺の双塔について

 藤原京の時代は④の仏塔が回廊外に置かれる時代なのに、薬師寺が回廊内に双塔を置いているのは、次のことが不審です。

❶ 仏舎利を二つに分ける意味があるのだろうか?
❷ なぜ時代の流れに逆らって双塔を回廊内に戻しているのだろうか? 

 この問題は、次のように解釈すると疑問が氷解するのではないでしょうか。

❶ 仏舎利ではなく、二人の「菩薩天子の舎利」を納めた仏塔ではないか。
❷ 尊崇すべき「二人の菩薩天子の舎利」であるから伽藍中枢に置いたのではないか。 

 この仮定が正しいとすれば、「二人の菩薩天子」とは「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多弗利」ということになり、(藤原京の)本薬師寺は九州王朝の菩薩天子二人の菩提を弔う寺院ということになります。

 これは、私の独創ではありません。肥沼孝治さんのブログ肥さんの夢ブログに次の記事があります。

本薬師寺は九州王朝の寺(服部さん)20217 2 () 

 脱線しますが、古式寺院(仏塔と金堂が大事な時代)の伽藍配置は、もともとは講堂がなくて、後世(「経典の講義」が大事になった時代)に講堂が増設された、と考えています。大勢の僧侶が金堂前庭で読経する時代()に、必然的に回廊外になったと考えています。

2022年11月 4日 (金)

[妄想]信濃〇〇寺も正始弩尺か?―隠された等距離73mの謎―

[妄想]信濃〇〇寺も正始弩尺か?
隠された等距離73mの謎[妄想][度量衡]

 これは文字通りの「妄想」です。

信濃国分“尼寺”にも隠された等距離があった― 新たなデータで出現した等距離―2017105()に次のように書きました。

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〔前略〕
隠されていた等距離 

伽藍地 東西幅が148.0m、築地幅2.0mですから築地塀の厚さを除けば、
東築地の内から西築地の内までの距離は146.00mです(148m-2m)。
南北中心軸は東西築地の内側から測ると73m(146.00m÷2)の位置にあります。つまり、次の三つが等距離にあります。

①中門から講堂までの心々距離73m
②金堂から尼坊までの心々距離73m
③中門心(南北中心軸)から東西築地(内側)までの距離73m 
〔後略〕
…………………………………………………………………………………………………………………………

 なんと!この①②③の「73m」という距離は、「魏尺(正始弩尺)」(24.3㎝)の300尺なのです。

7,300㎝÷24.3/尺=300.411522633…尺≒300尺(誤差は約0.137%)

 ならば、東築地の内から西築地の内までの距離は146.00mはどうでしょうか?

14,600㎝÷24.3/尺=600.8230…尺≒600

146.00m÷2=73m ですから当然なのですが…(笑)

2022年11月 2日 (水)

妄想:「正始弩尺の小程」説―地割109.4mの謎は解けた―

妄想:「正始弩尺の小程」説

地割109.4mの謎は解けた[妄想][条坊制と条里制][度量衡]

 

 ご寄稿いただきました吉村八洲男さまの「鼠」再論()「上田・神科条里と番匠」に、次のことが紹介されていました。

(1)白井弘文氏は、「遺構への測量・現存する地籍図」などの研究結果から、次のことを解明された。
「坪」の一辺は109mから110mの間』)と予想し(今も現地にはその類似例が残る)、それが「半折形」であった。
(2)「信濃国分寺・尼寺」の伽藍配置にもこの数字(109m)が使われていた。
(3)四国・愛媛県にある「久米遺跡」に使われた「条里のものさし」が「上田の条里遺構」での数値と非常に類似する。
南辺・北辺が222.8m(=109.4m+4m109.4m
東辺・西辺が221.8m(=109.4m+3m109.4m

 

未解明なままの尺度

 「109.4m」(「109mから110mの間」をこの数値とみなしています)という長さを既知の尺度で除算してみても完数(整数値)が得られないこと(次表)から、地割に使用された尺度は「未解明」だとされているようです。

尺度名,        一尺長(), 109.4÷(一尺長()×100 (m/)
①前漢尺,         23.300,   4.695
②後漢尺(晋前尺),     23.090,   4.738
③「魏杜虁(とき)尺」,  24.175,   4.525
④魏尺(正始弩尺),     24.300,   4.502
⑤晋後尺,         24.500,   4.465
⑥「宋氏尺」,       24.568,   4.453
⑦唐小尺,         24.692,   4.431
⑧(白鶴)梁尺,      24.900,   4.394

⑨「南朝大尺(注)(④×1.2,  29.160,   3.752

⑩梁尺,          29.500,   3.708
⑪唐尺,          29.630,   3.692
⑫大宝小尺(天平尺),   29.700,   3.684
⑬“高麗尺”(⑫×1.2),     35.556,   3.077
(注)南朝大尺」という名称は、古賀達也氏の仮称によっています。

 たしかに、キリの良い数値は出ていません。

 

手掛かりとなる「大程」と「小程」

 少し寄り道をします。

 古賀達也の洛中洛外日記 第2808話 2022/08/12 『旧唐書』『新唐書』地理志の比較 に唐の大程と小程が載っています。ブログの一部分を引用します。
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『旧唐書』『新唐書』地理志の比較」

 「洛中洛外日記」2804話(2022/08/08)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (13)〟で紹介した足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注①)には、唐代里単位の大程(1里約530m)と小程(1里約440m)について次の説明があります。

左に唐里の大程と小程とを比較すると、
 大程 一歩は大尺五尺、一里は三百六十歩、即ち大尺一千八百尺。
 小程 一歩は小尺六尺、一里は三百歩、即ち小尺一千八百尺で、我が曲尺千四百九十九尺四寸。
 である。
」(44頁)
舊唐書地理志の里程と實測里程とを比較して見ると、皆小程を用ひたことが明である。(中略)大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になったと見えて、宋史・長安志・新唐書の類が皆之を用ひて居る。」(49~50頁)

 足立氏によれば、「大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になった」とあるので、『新唐書』の里単位を調べるために地理志と夷蛮伝の里数を『旧唐書』と比較しました(注②)。ちなみに、『旧唐書』は五代晋の劉昫(887~946)、『新唐書』は北宋の宋祁(998~1061)による編纂です。〔後略〕
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 管見では、「条里」や「条坊」には距離の単位として「里」が用いられたと考えていますので、「109.4m」は「里単位」であると考えます。

 足立氏の『長安史蹟の研究』によれば、唐代里単位の大程は1里約530m、小程は1里約440mとあります。大程1里と小程1里を「109.4m」で除算すると次になります。

大程1里約530m÷109.4m4.84460
小程1里約440m÷109.4m4.02193764277…

 この数値から「109.4m」は小程ではないかと推定されます。すなわち、「109.4m」は小程1/4里(四分の一里)と考えました。しかし、これでは小程1里=437.6mということになり、唐の小程約440mとは一致しません。

 足立氏の『長安史蹟の研究』には、もう一つ、小程1里は300(ぶ)、1歩は小尺6尺とあります。この小尺は何㎝になるでしょうか。大程も小程も一里=1,800尺です。つまり、1尺は次の計算になります。

1尺=小程1里437.6m÷1,800尺=0.2431111m24.311

 

一尺が24cm台の尺度

 小程1里の長さ437.6m自体が「109.4m」を確かな数値と仮定したものですので、とりあえず小程の一尺が24㎝台であると大まかにとらえておくことにします。24㎝台の尺度は次のものがあります。

「魏 杜虁(とき)尺」  24.175
魏尺・正始弩尺     24.300
晋後尺(“南朝尺”)   24.500
「宋氏尺」       24.568
唐小尺         24.692
(白鶴)梁尺      24.900

 この中で24.311㎝に最も近いのが、24.300㎝の魏尺・正始弩尺です。

 

謎解きの鍵「久米官衙遺跡」

 仮に小程の一尺が正始弩尺24.300㎝とすると、一里はその1,800倍なので、437.4mとなります。

 ここで、「正始弩尺の小程」説の109.4mの考古学的証拠として有力な「久米官衙遺跡」に登場願いましょう。(3)のデータを再掲します。

「久米官衙遺跡」
南辺・北辺 222.8m(=109.4m+4m109.4m
東辺・西辺 221.8m(=109.4m+3m109.4m

 このように、明確に「109.4m」という数値が記されています。

 109.4mが1/4里と仮定しましたから、一里=437.6m(=109.4m×4)となります。

 小程1里=正始弩尺24.300/尺×1,800尺=43,740㎝=437.4m

この差は一里437.4m当たり、わずか0.2m(=20㎝、誤差0.045724737…%)です。

この誤差であれば、(古制)唐小程小尺は正始弩尺であると言っても過言ではないでしょう。

 

正始弩尺が(古制)唐小程小尺である理由(推定)

 まず、唐の小程の一里三百歩一歩六尺周の制度(古制)です。唐代には一歩五尺になっています。すなわち、(古制)小程一里三百歩(一歩六尺、小尺一尺=正始弩尺)は「唐以前(よりも前)」の制度ということになります。

 また、(古制)一里三百歩一歩六尺、小尺一尺)が「唐の小程」ともなっているということは、唐が古制を継承していることにもなります。ただし、古制を継承しつつも唐の小程(1里約440m)は、晋後尺(“南朝尺”・唐玄宗開元小尺)24.5 ㎝/尺 ×1,800尺=441mとなっています(正始弩尺から後尺への変遷 )。

 この条件を満たすのは支那大陸を統一した「隋(581 - 618年)」ということになります。109.4m(1/4里)は6世紀末葉から7世紀初頭にかけて行われた制度と推定できます(隋以前からの制度(南朝の制度)であった可能性も高い)。その証拠を挙げよと言われれば次を示せば足りるでしょう。

下記「唐玄宗開元小尺」の上にある「唐小尺」(24.3㎝) は、いわゆる唐小尺24.692㎝ではなく、「正始弩尺」です。

文化遺産オンライン
唐小尺 金工 長さ24.3 1.5 厚さ0.25 1
唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5 1.9 厚さ0.5 1
唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4 1.9 厚さ0.5 1


最後に

 「(古制)唐小程」と述べてきましたが魏尺(正始弩尺)による小程(1里437.4m )は「隋小程」 と言ってもよいでしょう。

 以上、事実(紹介されたものを含む)に基づいて述べているにも関わらず「妄想」と題しているのは、次の理由によります。
A.先行研究を一切調査していないこと。
B.自説に都合の悪い事項を一切考慮・検討していないこと。
C.自説の論拠の検証を行っていないこと。

 よって、この「妄想」が他の研究者にヒントを与えることができたなら望外の喜びです。

2022年5月19日 (木)

「竈門神社」は蕃茄の神社?―「延喜式」によれば―

「竈門神社」は蕃茄の神社?
「延喜式」によれば[妄想]

 ブームのピークが過ぎた今頃になって「鬼滅の刃」の話題も気が抜けたビールのようですが、皆さんは「竈門神社」をなんと呼んでいますか? 「なにを言っているんだ。『かまどじんじゃ』に決まってるだろ。」と思われましたか?

 実は、「延喜式」によれば、「トマトノジンジャ」と呼んだらしいのです(笑)。
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2022年4月11日 (月)

妄想「やすみしし」(その2)―「九州」を支配した―

妄想「やすみしし」(その
「九州」を支配した[妄想]

 古賀達也の洛中洛外日記 第2714話 2022/04/08 万葉歌の大王 (3) ―中皇命への献歌「やすみしし我が大王」― に次のようにありました(一部抜粋、強調下線は山田による)。
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また、ある日、外出先の喫茶店で、中皇命が間人連老に作らせたと題詞にあるこの歌を岩波文庫本で検討していたとき、次のやりとりがありました。

古賀 「〝朝(あした)には〟と読まれている『朝庭』は、〝遠の朝廷(みかど)〟と同様に〝みかど〟と訓むのはどうでしょうか。ただし、〝みかど〟では5字になりませんが。」

先生 「なるほど、『朝庭』という原文に意味があると考えるべきですね。そうすると〝夕(ゆうべ)には〟とされる『夕庭』も『朝庭(みかど)』の対句と考える必要がありそうです。」

 このときの会話に基づいた、次の現代語訳を古田先生は発表されました(注②)。

 「八方の領土を支配されるわが大王の(お仕えになっている)その天子様は、弓を愛し、とり撫でていらっしゃる。その皇后さまは、天子さまにより添って立っていらっしゃる。

 その御手に執っておられる梓弓の、那珂作りの弓の音がするよ。

 朝の狩りに、今立たれるらしい、夕の狩りに今立たれるらしい、その御手に執っておられる梓弓の、那珂作りの弓の音がするよ。」『古代史の十字路』190頁
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 私は、ブログ記事 妄想「やすみしし」―九州を「?」した (わがおおきみ)―(2021年9月2日(木)) で「妄想」として、「中央が「天子」の直轄領域である。残りは何と呼ぶか。「八隅(やすみ)」である。すべてを含めて天子の統治する領域を「九州」と呼ぶ。」と述べました。
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  ところが、平成十三年(2001)に出版された『古代史の十字路』で古田先生は「八方の領土を支配される」と書かれていたのです。もちろん、私は『古代史の十字路』も読んでいましたから、先生のこの解釈が、記憶になくても無意識下で、頭の片隅に残っていたのかも知れません。

 このことを今書いている理由は、「妄想」に古田先生の太鼓判をいただいたことによって、さらなる次の「妄想」が浮かんだからです(古田先生の解釈とは異なります)。
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「八隅知之(やすみしし)」とは、「大王」につく単なる枕詞ではなく、もともとの意味は「『九州』を支配した」という意味であった。すなわち「八隅知之 我大王」とは、「『九州』を支配した大王」つまり「九州王朝の天子」のことである。
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 「~大王」と「~王」を区別しない解釈があるようですがこれはおかしいと思います。「王」が「King」なら「大王」は「King of Kings」 と解釈すべきです。もちろん、その「大王」という呼称が実態に即している(実質を伴っている)かどうかはまた別の話ですが・・・。

2022年2月 2日 (水)

古代の皇位継承―女性の血筋の効用―

古代の皇位継承
女性の血筋の効用[妄想][古代史][論理の赴くところ]

 古代の皇位継承は、女性の血筋が重視されました。次のことが理由です。 

(1)「力」がある男ならば誰でもなれる「権力者」は尊崇の対象ではない(支配-服従関係)。
 「それなら俺も」という男が現れる可能性が高い。

(2)「皇統」(ずっと続いている高貴な血統)は、「誰でもなれる」というものではないため、尊崇の対象(権威)である。

(3)「有力者」の娘を娶れば、妻方の「力」で「権力」を強化できる。

(4)高貴な血統の者を妻にすれば、妻方の「権威」で自身の「権威」を高められる(妻方の威光)。

(5)子は母親の実家で育てられるので、子は母親の実家方の勢力を得ることができる。

(6)子の母親が高貴な血統なら、子の血統を高くすることができる。

※上記の番号の奇数は「権力」、偶数は「権威」に関係しています。 

 このような理由によって、女性の血筋が良く(理想的なのは「皇女」で)なければ后(皇后)にはなれなかったのです(例外はありますが)

 この代表的事例が、父が仁賢天皇で、母が雄略天皇の皇女春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)である手白香皇女(たしらかのひめみこ手白髪郎女(記))を皇后とした(第26代)継体天皇(男大迹王(をほどのおおきみ)、袁本杼命(記)(をほどのみこと))です。この袁本杼命と手白髪郎女の皇子が第29代欽明天皇なので、第27代安閑天皇と第28代宣化天皇は(皇子がいても)、「欽明天皇への繋ぎ」にしかなれなかったのです。

 ちなみに、父方の血筋が重視されるようになるのは近世(安土桃山時代・江戸時代)以降のことで、中世(鎌倉時代・室町時代)までは古代(平安時代以前)と同じようでした。

2021年12月24日 (金)

伊豫から土左への古官道(2)―「最も妥当なルート」なわけ―

伊豫から土左への古官道(2)
「最も妥当なルート」なわけ[多元的「国分寺」研究][妄想]

 先の記事 伊豫から土左への古官道(推定)―付け替え前の「南海道」―(2021年12月23日(木))において、次のように述べました。
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伊豫国から土左国への陸路は、宇和島・宿毛を巡る遠回り道ではなく、松山あたりから須崎方面へ向けて峠を越えるルートだったのではないか、と思われます。なぜ「松山あたりから須崎方面へ向けて峠を越えるルート」と考えたかと言えば、①伊豫国府から土左国に行く場合、②九州から直接土左国へ行く場合、この二つの場合を考えると「松山あたりから須崎方面へ向けて峠を越えるルート」が最も妥当なルートではないか、と考えたのです。
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 しかし、後で考えてみると、なぜ「最も妥当なルート」なのかの説明がされてないことに気づきました。仮に伊豫国府と八幡浜と須崎を正三角形の頂点にあるとしましょう(須崎が近くても遠くても論理的には同じです)。次図をご覧ください。
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  今、伊予国府から須崎方面への峠道ルート(水色)の古官道を敷いたと仮定しましょう。上記①伊豫国府から土左国に行く場合の距離は2ですが、②九州から直接土左国へ行く場合の距離は、伊予国府に行ってから古官道を通ることになりますので、その距離は4(=伊予国府まで2+須崎まで2)となり、合計すれば距離はとなります(八幡浜から須崎までの古官道を敷いたとしても同じです)。

 それに対して、伊予国府と八幡浜の中間点である松山から古官道を敷いたとすれば、①伊豫国府から土左国に行く場合の距離は1と√3で、②九州から直接土左国へ行く場合の距離は同じく1と√3、合計すれば2と2√3(=①1と√3+②1と√3)です。

 √3≒1.7320508・・・、2√3≒3.4641016・・・ですから、2と2√3≒ 5.4641016・・・(伊予国府または八幡浜から古官道を敷いた場合)ですから、「松山あたりから須崎方面へ向けて峠を越えるルート」が最も妥当なルートと述べたのです。

 伊予国府から土佐国府に行くことも大事ですが、九州王朝にとって首都太宰府から直接土左国府に行くことも大事なわけで、両方を重視するなら伊予国府と八幡浜の中間点である松山から古官道を敷くことが最も合理的なわけです。という理由で「最も妥当なルート」としたのです。

2021年12月23日 (木)

伊豫から土左への古官道(推定)―付け替え前の「南海道」―

伊豫から土左への古官道(推定)
付け替え前の「南海道」[多元的「国分寺」研究][妄想]

 多くのご教示やご指摘を頂いている侏儒国民さまのブログ「もう一つの歴史教科書問題」に記事「南海道付け替え地図の問題点」が掲載されています。西村秀己氏の「南海道の付け替え」(古田史学会報136号掲載、2016年10月11日)に図示されているルートが正しくないというご指摘です。九州王朝の敷設した古官道は未だ確定していないので、これは「南海道の付け替え」(王朝交代の証拠)を示す「概念図」というべきものでしょう。その点を留意するようにとの注記が必要なのだと思います。

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 さて、多元的「国分寺」研究の「土佐国分寺」編(山田版)で「官道」も重要な視点だとしていますので、今回は、別役政光(べっちゃくまさみつ)氏の論文古代官道 南海道研究の最先端(土佐国の場合)」(「古田史学会報142号」2017年10月10日掲載)に基づいて、伊予国から土左国への古官道(九州王朝の官道)を妄想してみます。

 まず、同論文に掲載されている図について、感想を述べます。

 伊豫国から土左国への古官道のルートは「現在は室戸岬に近い、甲浦の根山越え(現四九三号線)であろうという結論に達している。」とのことです。

 「現在は室戸岬に近い、甲浦の根山越え(現四九三号線)であろうという結論」に至る前に、A案「大豊町から西峰にいたる京柱峠越え(現四三九号線)」やB案「物部川沿い四ツ足峠越え(現一九五号線)」もあったようです。
A案とB案(薄黄土色の線分)
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  この二案が「南海道の付け替え」前の古官道であるとして、それが「南海道の付け替え」にどう関りがあるのか、些かも分かりませんが、少なくとも「九州王朝が敷設した古官道ではない」ことは確かです。 

 さて、肝心の九州王朝の敷設した古官道のルートですが、「第59図 奈良時代頃の南海道(足利健亮の復原により作成)」について、次のように思いました。
第59図 奈良時代頃の南海道(足利健亮の復原により作成)」(図中の文字「佐多岬」と古官道の朱塗りは山田による)


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●古官道が無い時代には、九州からは船で土左国に行ったと思われます。佐賀関(さがのせき、大分県大分市関崎(旧佐賀関町))から「速吸瀬戸(はやすいのせと、豊予海峡)」を佐田岬(愛媛県伊方町(旧三崎町))まで船で渡ったのであれば、そのまま沿岸を航行する方が、海岸沿いの陸路を行くよりも理にかなっています。

 また『続日本紀』に「その道伊予国を経、行程迂遠にして、山谷険難なり。」とありますから、「行程迂遠」という表現は「その道伊予国を経」ていることを指しており、「海岸沿いの遠回りルート」であることを意味しません(阿波国経由に変更して解決した)。また、伊予国までは讃岐国を通るルートなので「山谷険難」ではありません。「山谷険難」という描写は、「伊豫国から土左国に至るルート」に対する形容です。海岸沿いのルートを「山谷険難」と表現するとは思えません。これも「峠を越えるルート」と考えた理由の一つです。

  この考えは、別役政光氏も次のように述べられているので否定はされないでしょう(下線強調は山田による)。
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 渡津地点を八幡浜周辺とすると南部の沿岸を経るのは遠回りすぎる印象は否めない。郡家が駅家をサポートするという仕組みはあるにしても、駅路が必ず郡家を通らなければならないということはない。駅伝制において重要なのは、いかに短時日で情報伝達するかという点である。官道の役割として、都と各国の国府を最短日数でつなぐという視点が抜けてはならない。『延喜式』段階の駅路図にもそのことがよく表れている。

 以上を踏まえ、一案として、従来説「久万官道・仁淀川沿いルート」の再検討を考えてみてもよいのではないか。『野根山街道』(山崎清憲・前田年雄共著)に「久万官道(六五五)開設」とあり、いくつかのブログやホームページでは六六二年または六六一年に久万官道が開かれたとしている。出典・根拠とするところはまだ確認できてはいないが、斉明天皇の時代の事績ではないかと考えられる。また、久万高原の分水嶺には三坂峠があり、近江国や信濃国の古代官道上の峠にも多く表れる「ミサカ」地名と通じるものがある。
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 流石に古代官道の研究者は違います。「久万官道」「三坂峠」に言及してらっしゃる。そして、この「久万官道」「三坂峠」の位置は、次図(概念図)の伊豫国府と佐賀関からの上陸地点(八幡浜に想定)との中間地点(松山付近)から土佐国須崎方面への峠越えルートの上に存在しているのです。

 このように考えると、伊豫国から土左国への陸路は、宇和島・宿毛を巡る遠回り道ではなく、松山あたりから須崎方面へ向けて峠を越えるルートだったのではないか、と思われます。なぜ「松山あたりから須崎方面へ向けて峠を越えるルート」と考えたかと言えば、①伊豫国府から土左国に行く場合、②九州から直接土左国へ行く場合、この二つの場合を考えると「松山あたりから須崎方面へ向けて峠を越えるルート」が最も妥当なルートではないか、と考えたのです。
「松山あたりから須崎方面へ向けて峠を越えるルート」
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 そして、次が神社の分布をもとにした古官道(九州王朝の敷設した官道)の想定ルートです(赤いピンは神社です)。須崎に至らないのは、海岸近くのある郷は、海道(船舶ルート)時代に既に発展した郷であり、官道とともに発展した郷ではないとの考えからです。また、国衙が海岸沿いにないのに海岸まで出るのは無駄だからです(国衙が内陸にあるのは、既に海道時代を過ぎていたからと考えます)。
古官道ルートの想定図
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 なぜ、寺院の研究に神社が登場するのかといえば、仏教は外来宗教で後から入ってきたものだからです。
 人々の活動は古くは神社とともにあったであろうからです。

2021年12月 4日 (土)

妄想:「根子」という称号について―「合言葉」の不思議―

妄想:「根子」という称号について
「合言葉」の不思議[妄想]

 James Mac (阿部周一)さまのブログ 古田史学とMe「根子」について(2020年05月03日)があり、『日本書紀』に表れる天皇の称号「根子」について考察され、「根子」は「支配者」「統治者」の意味で「最高権力者」だけが名乗れるというものではなかった、とされています。詳しくは上記ブログをご覧ください。

 この考察に次のコメントがついていました。
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根子について (セブン)
2021-03-29 12:59:32

私も倭根子についてはずっと疑問に思っていました。私の仮説です。「倭根子」とは「日本の根っこ」つまり「日本国の根幹、大本」という意味と思います。そうすれば「倭根子天皇」も「日本の大本であるすめらみこと」と意味がスッキリします。
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 セブンさまの「根っこ」という理解もおおむね正しいと思います。

 さて、皆さまは「釣り」をなされますか?「釣り」をされる方なら「根魚(ねざかな)」(回遊をしない地元に居ついている魚)とか「根がかり」(海の底の岩や海草などに針がひっかかってしまうこと、「地球を釣った」とも)という言葉をご存知でしょう。不思議なのはなぜ「海」で「根」などという言葉が出るのかというところです。

 以前、「東山道十五国」の比定 西村論文「五畿七道の謎」の例証(2017年 4月10日 古田史学会報 139号)で、「「海」と言われたら「陸」とは返さない。「海」の合言葉は「山」だ。」と、合言葉がヒントを与えてくれたことを書きました。そこで今回も妄想しました。釣りで「根」というのは「地」(大地)の意味であるから、もし合言葉をつくれと言われたら、「天」に「地」と返すのは「海」に「陸」と返すのと同じでつまらない。「天」と言われたら「根」(大地の意)と返す方が合言葉としては面白い。

 ということで、「天子」を名乗れないなら「根子」(「『地』子」の意味)を名乗ろう、ということなのだと解釈しました(あくまでも「妄想」です)。この妄想も過去記事(東山道十五国の比定)の「再利用」になるのか(笑)。

 「根子」と言えば、肥さんの夢ブログには、根子なら仔猫がたくさん登場しています。可愛いですよ。

帰宅しても,猫ワールド

今日も母子は・・・

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