妄想:「正始弩尺の小程」説
―地割109.4mの謎は解けた―[妄想][条坊制と条里制][度量衡]
ご寄稿いただきました吉村八洲男さまの「鼠」再論(三)「上田・神科条里と番匠」に、次のことが紹介されていました。
(1)白井弘文氏は、「遺構への測量・現存する地籍図」などの研究結果から、次のことを解明された。
「坪」の一辺は109mから110mの間』)と予想し(今も現地にはその類似例が残る)、それが「半折形」であった。
(2)「信濃国分寺・尼寺」の伽藍配置にもこの数字(109m)が使われていた。
(3)四国・愛媛県にある「久米遺跡」に使われた「条里のものさし」が「上田の条里遺構」での数値と非常に類似する。
南辺・北辺が222.8m(=109.4m+4m+109.4m)
東辺・西辺が221.8m(=109.4m+3m+109.4m)
未解明なままの尺度
「109.4m」(「109mから110mの間」をこの数値とみなしています)という長さを既知の尺度で除算してみても完数(整数値)が得られないこと(次表)から、地割に使用された尺度は「未解明」だとされているようです。
尺度名, 一尺長(㎝), 109.4m÷(一尺長(㎝)×100 (m/㎝))
①前漢尺, 23.300, 4.695
②後漢尺(晋前尺), 23.090, 4.738
③「魏杜虁(とき)尺」, 24.175, 4.525
④魏尺(正始弩尺), 24.300, 4.502
⑤晋後尺, 24.500, 4.465
⑥「宋氏尺」, 24.568, 4.453
⑦唐小尺, 24.692, 4.431
⑧(白鶴)梁尺, 24.900, 4.394
⑨「南朝大尺」(注)(④×1.2), 29.160, 3.752
⑩梁尺, 29.500, 3.708
⑪唐尺, 29.630, 3.692
⑫大宝小尺(天平尺), 29.700, 3.684
⑬“高麗尺”(⑫×1.2), 35.556, 3.077
(注)「南朝大尺」という名称は、古賀達也氏の仮称によっています。
たしかに、キリの良い数値は出ていません。
手掛かりとなる「大程」と「小程」
少し寄り道をします。
古賀達也の洛中洛外日記 第2808話 2022/08/12 『旧唐書』『新唐書』地理志の比較 に唐の大程と小程が載っています。ブログの一部分を引用します。
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『旧唐書』『新唐書』地理志の比較」
「洛中洛外日記」2804話(2022/08/08)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (13)〟で紹介した足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注①)には、唐代里単位の大程(1里約530m)と小程(1里約440m)について次の説明があります。
「左に唐里の大程と小程とを比較すると、
大程 一歩は大尺五尺、一里は三百六十歩、即ち大尺一千八百尺。
小程 一歩は小尺六尺、一里は三百歩、即ち小尺一千八百尺で、我が曲尺千四百九十九尺四寸。
である。」(44頁)
「舊唐書地理志の里程と實測里程とを比較して見ると、皆小程を用ひたことが明である。(中略)大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になったと見えて、宋史・長安志・新唐書の類が皆之を用ひて居る。」(49~50頁)
足立氏によれば、「大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になった」とあるので、『新唐書』の里単位を調べるために地理志と夷蛮伝の里数を『旧唐書』と比較しました(注②)。ちなみに、『旧唐書』は五代晋の劉昫(887~946)、『新唐書』は北宋の宋祁(998~1061)による編纂です。〔後略〕
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管見では、「条里」や「条坊」には距離の単位として「里」が用いられたと考えていますので、「109.4m」は「里単位」であると考えます。
足立氏の『長安史蹟の研究』によれば、唐代里単位の大程は1里約530m、小程は1里約440mとあります。大程1里と小程1里を「109.4m」で除算すると次になります。
大程1里約530m÷109.4m=4.84460…
小程1里約440m÷109.4m=4.02193764277…
この数値から「109.4m」は小程ではないかと推定されます。すなわち、「109.4m」は小程1/4里(四分の一里)と考えました。しかし、これでは小程1里=437.6mということになり、唐の小程約440mとは一致しません。
足立氏の『長安史蹟の研究』には、もう一つ、小程1里は300歩(ぶ)、1歩は小尺6尺とあります。この小尺は何㎝になるでしょうか。大程も小程も一里=1,800尺です。つまり、1尺は次の計算になります。
1尺=小程1里437.6m÷1,800尺=0.2431111…m≒24.311㎝
一尺が24cm台の尺度
小程1里の長さ437.6m自体が「109.4m」を確かな数値と仮定したものですので、とりあえず小程の一尺が24㎝台であると大まかにとらえておくことにします。24㎝台の尺度は次のものがあります。
「魏 杜虁(とき)尺」 24.175㎝
魏尺・正始弩尺 24.300㎝
晋後尺(“南朝尺”) 24.500㎝
「宋氏尺」 24.568㎝
唐小尺 24.692㎝
(白鶴)梁尺 24.900㎝
この中で24.311㎝に最も近いのが、24.300㎝の魏尺・正始弩尺です。
謎解きの鍵「久米官衙遺跡」
仮に小程の一尺が正始弩尺24.300㎝とすると、一里はその1,800倍なので、437.4mとなります。
ここで、「正始弩尺の小程」説の109.4mの考古学的証拠として有力な「久米官衙遺跡」に登場願いましょう。(3)のデータを再掲します。
「久米官衙遺跡」
南辺・北辺 222.8m(=109.4m+4m+109.4m)
東辺・西辺 221.8m(=109.4m+3m+109.4m)
このように、明確に「109.4m」という数値が記されています。
109.4mが1/4里と仮定しましたから、一里=437.6m(=109.4m×4)となります。
小程1里=正始弩尺24.300㎝/尺×1,800尺=43,740㎝=437.4m
この差は一里437.4m当たり、わずか0.2m(=20㎝、誤差0.045724737…%)です。
この誤差であれば、(古制)唐小程小尺は正始弩尺であると言っても過言ではないでしょう。
正始弩尺が(古制)唐小程小尺である理由(推定)
まず、唐の小程の一里三百歩(一歩六尺)は周の制度(古制)です。唐代には一歩五尺になっています。すなわち、(古制)小程一里三百歩(一歩六尺、小尺一尺=正始弩尺)は「唐以前(よりも前)」の制度ということになります。
また、(古制)一里三百歩(一歩六尺、小尺一尺)が「唐の小程」ともなっているということは、唐が古制を継承していることにもなります。ただし、古制を継承しつつも唐の小程(1里約440m)は、晋後尺(“南朝尺”・唐玄宗開元小尺)24.5 ㎝/尺 ×1,800尺=441mとなっています(魏正始弩尺から晋後尺への変遷 )。
この条件を満たすのは支那大陸を統一した「隋(581年 - 618年)」ということになります。109.4m(1/4里)は6世紀末葉から7世紀初頭にかけて行われた制度と推定できます(隋以前からの制度(南朝の制度)であった可能性も高い)。その証拠を挙げよと言われれば次を示せば足りるでしょう。
下記「唐玄宗開元小尺」の上にある「唐小尺」(24.3㎝) は、いわゆる唐小尺24.692㎝ではなく、「正始弩尺」です。
文化遺産オンライン
唐小尺 金工 長さ24.3 幅1.5 厚さ0.25 1本
唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5 幅1.9 厚さ0.5 1本
唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4 幅1.9 厚さ0.5 1本
最後に
「(古制)唐小程」と述べてきましたが魏尺(正始弩尺)による小程(1里437.4m )は「隋小程」 と言ってもよいでしょう。
以上、事実(紹介されたものを含む)に基づいて述べているにも関わらず「妄想」と題しているのは、次の理由によります。
A.先行研究を一切調査していないこと。
B.自説に都合の悪い事項を一切考慮・検討していないこと。
C.自説の論拠の検証を行っていないこと。
よって、この「妄想」が他の研究者にヒントを与えることができたなら望外の喜びです。
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