著書や論考等の紹介

2023年1月17日 (火)

無文銀銭論考の紹介―ブログ「古田史学とMe」から―

無文銀銭論考の紹介
―ブログ「古田史学とMe」から―[著書や論考等の紹介]

 古賀達也氏のブログ 古賀達也の洛中洛外日記多元史観から見た古代貨幣「富夲銭」(第2916話 2023/01/14) が掲載されましたので、James Mac(阿部周一)氏の無文銀銭に関する論考をご紹介します。貨幣が「貝」や「石」などから「貴金属」に移行する過程では、貴金属の「地金(じがね)」の重量を価値(交換価値)として「貨幣」にしていた時代が必ずあります(貨幣経済になるのが遅かった地域は最初から非貴金属鋳造貨幣を用いることになりますが…)。また、非貴金属鋳造貨幣の価値の変動が激しい時には貴金属貨幣が復活しますし、現代でも「ブレトンウッズ体制」が崩壊する以前は、「1オンス35USドル」と「金兌換」によってアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に保っていました(すなわち、米国は「兌換紙幣」であるドル紙幣の発行額と金保有高を一定の割合に保たねばなりませんでした)。

 古代の倭国でも銀を貨幣として使用していた時代がありました。それが「無文銀銭」です。無文銀銭は一定の重量になるように鋳造されていました(少量を後から付け足したりしています)。貴金属が貨幣として用いられる背景には「国際交易」が盛んなことがあるようです。

「無文銀銭」その成立と変遷(2012年6月10日、古田史学会報110号掲載)
(↑)の見解を少し修正しています(↓)。

「無文銀銭」について(一)2017年06月28日

「無文銀銭」について(二)2017年06月29日

「無文銀銭」について(三)2017年06月29日

「無文銀銭」について(四)2017年06月29日

 

2022年4月16日 (土)

『二中歴』「蔵和」細注―「老人死」が判明―

 『二中歴』「蔵和」細注
「老人死」が判明[著書や論考等の紹介]

 『二中歴』の年代歴の倭年号(九州年号)の「蔵和 五年」(559己卯~563癸未)には、「己卯 此年老人死」と細注があります。

『二中歴』「年代歴」1国立国会図書館デジタルコレクションより)
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『二中歴』「年代歴」2
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『二中歴』「年代歴」「蔵和五年」細注「己卯 此年老人死」(1の部分を拡大)
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 従来からこの「此年老人死」の意味が論じられていたようですが、納得できる説明がされていなかったように思います(私が知らないだけ、かも知れません)。

  今回、投馬国=済州島(さいしゅうとう、(韓)チェジュド)説(詳しくは、当ブログ記事「投馬國」「狗奴國」「侏儒國」はどこか―石田泉城さんの発見(仮説)―にリンクが貼ってあります)を提示された石田泉城さんが、この細注「老人死」を解明されましたので、ご紹介いたします(石田泉城さんのブログ泉城の古代日記 コダイアリーの下記記事をご覧ください)。 

南極老人 ?2022-04-13 23:01:19

 私はこの仮説に全面的に賛成・同意いたします。理由は下記の通りです。

(1)当時の人は、この細注の「老人」が何であるか理解したはずです。
(2)とすれば、現在のわれわれも次のよう理解すべきです。
① この「老人」を物事の一般的な名前を表す普通名詞とすれば、「老人」が死ぬのは日常茶飯事のことですから、この細注自体が何のことを言っているのか分からなくなります。
したがって、この「老人」は普通名詞ではなく、そのものだけに付けられた名前を表す固有名詞とするしかありません(でないと理解不能になります)。
③ しかし、一般に「〇〇老人」のように「〇〇(固有名)」を付けないと識別できませんから、この細注は「老人」だけで固有名詞であると考えるしかありません。
④「老人」だけで固有の識別ができる歴史的人物(広くとれば生命体)がいた(あった)でしょうか(反語:ありません)。
⑤ 生命体でなく「老人」と呼ばれるものを、私は知っています。地平線近くに赤く輝く星、カノープスです(人並みには天文の知識はあります)。
⑥ しかし、老人星(カノープス)が「死ぬ」とはどういう現象でしょうか(カノープスは今でも見えます)。「此年」とあるので「この年だけのこと」だったとしか考えられません。 

 以上のように、「『老人』とはカノープス(「老人星」)である」という「思い付き」は行き詰まったままでした。

 ところが、泉城さんは「死ぬ」という言葉を天文現象(毎年起きたとしても)に限らず、歴史的出来事と結びつけて「老人死」と書かれていると考えられたのです。私には思いつけませんでした。

 しかし解答が示された今思えば(タラ・レバ)、「歴()」のことを書いてある『二中歴』なのですから、泉城さんのように考えを進めるのが正しかったのでした。

 石田泉城説老人=老人星(カノープス))は、問題集の解けなかった問題の解答を見たような思いがしています。 

 なお、1年だけの「倭年号(九州年号)」は、「蔵和」を挟んで、前の「兄弟」(「継体」から数えて9番目、558(戊寅)年)と後の「師安」11番目、564(甲申)年)の2年号だけです。

2022年3月27日 (日)

平城京の大官大寺(22)―飛鳥・河内地域の土器編年(服部私案)―

平城京の大官大寺22
飛鳥・河内地域の土器編年(服部私案)―[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学][著書や論考等の紹介]

 前回(平城京の大官大寺(21)―飛鳥土器編年の問題点―)は、服部静尚さまから表Ⅰ 飛鳥地域の土器編年と代表的資料(小田2014)の暦年推測の問題点のご指摘と、それを是正する私案を頂いたのですが、添付資料が来(きた)る4月10日(日)午後の多元の会例会でも発表予定のものでしたので、服部さんが大和古代史研究会での発表のYouTube動画よりその提案資料を転載いたしました。

服部静尚氏の私案《再掲》
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 今回は、その説明を行います。服部さんが発表されたYouTube動画の画面を紹介しながらザックリと解説すると次のごとくです。私の理解不足による説明間違いがあるかも知れませんので、是非YouTube動画をご覧ください(前回にリンクを貼ってあります)。

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 『日本書紀』は六世紀末から七世紀初頭の間、難波宮(645653年)を除いて、飛鳥に都があったとする。
豊浦宮で推古天皇即位(593)。「乙巳の変」(645,甘樫丘)の後、難波宮に遷都する。653年、皇太子は皇祖母・皇后と百官を引き連れて倭飛鳥河辺行宮に移る。655年、斉明天皇が飛鳥板葺宮で即位。斉明六年(660)、皇太子漏刻をつくる(水落遺跡)。ある考古学者はこの間は10年単位で年代が分かるとしている(ほんとうだろうか)。

考古学で編年はどのように行われているの

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「土師器」は古墳時代の野焼き土器をいう(同じ野焼きでも弥生式土器よりも肉薄(半分ほど))。
荘内式・布留式の区別も曖昧。「須恵器」は窯により高温で焼く。陶器と磁器の違いのようなもの。

とくに須恵器の「蓋坏」の形状に、遺跡ごとに違い・変化がみられる
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土器の変遷によって年代を推測する飛鳥編年が作られ
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丸底の坏()→②平底の坏()→③高台付きの坏()の順
 

挙げられた基準遺跡の「坏」は、実は指標通りの変遷ではない
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指標通り(H→G→Bの順に変遷)に編年していない

最近までの追加発掘で、基準遺跡の編年が変わっている
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飛鳥編年の問題点
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瓦と須恵器、3つの提起
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服部静尚氏の提案編年
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 今回は服部静尚さんの提案された河内・飛鳥地域の編年を紹介しました。次回は、服部編年に従うと百済大寺の廃絶時期はどのように推測できるかを検討する予定です。

2022年3月 4日 (金)

七世紀の須恵器「服部編年」の紹介―坏(つき)は何と呼ばれていたか―

七世紀の須恵器「服部編年」の紹介
(つき)は何と呼ばれていたか[著書や論考等の紹介]

 古賀達也の洛中洛外日記 第2686話 2022/02/19 七世紀の須恵器「服部編年」 で、「古田史学の会」関西例会で服部静尚さんが発表された飛鳥・難波・河内の七世紀の須恵器編年「服部編年」の三点の基準(次のものです)が紹介されていました。
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1.飛鳥と難波・河内は文化的に一体とみなし、これらを包含する基準とする。飛鳥編年に難波宮・狭山池を加える。
2.各編年は須恵器「杯」に集約されると見られる。これに焦点を合わせた基準とする。杯H・G・Bの数量比率を中心に。
3.考古学の所見を編年基準にする。年輪年代・干支年木簡を編年基準に。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

 古賀さんは次のように評価されています。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
 この三基準により各遺跡を編年すると、『日本書紀』の記事に基づいた従来の飛鳥編年とは全く異なる年代観が現れました。この新たな「服部編年」は基準が合理的で、杯H・G・Bの出土数量比率を中心に編年するという方法が簡明であり、その論理構造は強固(robust)です。論文発表が待たれます。
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 私は論文発表が待てず、竹村順弘さまが撮影・投稿された次のYouTube動画を拝見してしまいました。皆さまもぜひご覧ください(録画の都合で三分割されていますが、続いている発表講演です)。
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孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220222@県立図書情報館@古代大和史研究会@26:57@DSCN0435

孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220222@県立図書情報館@古代大和史研究会@26:57@DSCN0436

孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220222@県立図書情報館@古代大和史研究会@10:19@DSCN0437
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 服部さんは次の「問い」を立てて、この発表中で答えを示されました。
当時の人は「坏」を何と呼んでいたのだろうか
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 服部さんは「()」とされました。この見解に私は全面的に同意します。理由は次の通りです。

①昔からある身近な物の名称は、昔からある名称が維持される。
②形が時代と共に多少変化していっても、当初の名称は維持される。
例:は今でも「電気()
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 「坏」と同じの形の「丸底で蓋付」の物を私は身近に知っています。碁石(ごいし)を入れる「碁笥(ごけ)です。
碁笥ごけ
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2021年12月28日 (火)

挙証責任の在処―学問の進展のために―

挙証責任の在処
学問の進展のために[論理の赴く所][著書や論考の紹介]
【リンク追加のお知らせ(2022/01/04)】
 古賀達也の洛中洛外日記の記事「『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」」に、続き((5)(6)(7))が掲載されていますので、追加しました。
【リンク追加のお知らせ終わり】

 古賀達也の洛中洛外日記 第2649話 2021/12/27 『旧唐書』と『新唐書』の共通認識 に多元的古代研究会(略称「多元の会」)の研究発表会の参加者からの興味深い質問が紹介されていました。次のものです。
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「九州王朝説の史料根拠として『旧唐書』を一元史観の人に示しても、『旧唐書』は誤りが多い史料で信頼できないと反論される。どのように説明すればよいだろうか。」

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 もちろん、古賀さんはその質問に対して丁寧に説明されています(上記ブログをご覧ください)。

 私は、別の観点からこの質問に応えようと思います。基本的に次のようにすべきと考えます。

●「『旧唐書』は誤りが多い史料で信頼できない」という主張の『挙証責任』はそう主張した側にあります。

 よって、「誤りが多い』と言われましたが、どこがどのように誤っているのでしょうか?」と尋ねる方が良いと考えます。

 その「誤っている」と指摘された事項を調べて、その指摘の真偽を確認することによって学問の進展が図れます(その指摘が正しかろうと誤っていようと)。

 「誤りが多い史料で信頼できない」という主張は、論証されない限り単なる「イデオロギー」です。逆に「一元史観」の学者に聞きましょう。『日本書紀』の記述の誤りをいくつか指摘すれば、「『日本書紀』は誤りが多い史料で信頼できない」とできるのでしょうか。『日本書紀』という史料を丸ごと捨てて「一元史観」が成り立つというのでしょうか。

 「ダブルスタンダード(二枚舌)」は「イデオロギーの常備品(常套手段)」です。

 「誤りが多い』とは『どの箇所(事項)』で『どれだけ(数が)あるのか』を挙げて頂かないと『貴方の主観』ですので、論じることができません。『その主張の合否』を検証できるように挙げてください。とても多いようでしたら一覧表にして後日にでも送ってください。検討させていただきます。」と応じるのが良いでしょう。もちろん、その場でいくつか指摘箇所(事項)を挙げられた場合は、それらに対する反論(それはこれこれこういう理由で「誤りではない」と論証)する力量があると理想的です(「他流試合」ですから)。しかし、即答することが大事なのではなく、しっかり検証してその結果を研究に活かすことが大事だと思います。古賀さんの次のブログ記事がとても勉強になりました。

古賀達也の洛中洛外日記 第2642話 2021/12/21 『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (1)

古賀達也の洛中洛外日記 第2643話 2021/12/22 『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (2)

古賀達也の洛中洛外日記 第2644話 2021/12/23 『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (3)

古賀達也の洛中洛外日記 第2645話 2021/12/23 『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (4)

古賀達也の洛中洛外日記 第2646話 2021/12/24 『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (5)

古賀達也の洛中洛外日記 第2647話 2021/12/25 『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (6)

古賀達也の洛中洛外日記 第2648話 2021/12/26 『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (7)

2021年12月20日 (月)

古賀仮説(「南朝大尺」説)登場―大宰府政庁Ⅱ期の造営尺―

古賀仮説(南朝大尺」説)登場
大宰府政庁Ⅱ期の造営尺[著書や論考等の紹介][度量衡]
【訂正のおしらせ(2021/12/22)
 古賀達也氏が
古賀達也の洛中洛外日記 第2638話 2021/12/16 大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(3)で、名称を「南朝大尺」に変更されていましたので、この記事の題名にある古賀仮説の名称も「南朝大尺」に訂正しました。なお、当記事の文中はそのままにしておきますので、ご承知おきください。【訂正のおしらせ終わり】
 

 古賀達也の洛中洛外日記 第2637話 2021/12/15 大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(2)に次のようにあります(強調は山田による)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大宰府政庁遺構の調査報告書『大宰府政庁跡』(注①)には「大宰府政庁正殿跡の礎石間距離についての実測調査」(注②)という項目があり、その「調査目的」で次のように説明しています。

〔中略〕測定されたⅢ期正殿身舎部分の実測値が次のように示されています。 

桁行全長 21.999m 梁行全長 6.485m

桁行柱間の平均距離 4.398m  梁行柱間の平均距離 3.241m 

 これらの距離を南朝尺(24.5㎝)、前期難波宮造営尺(29.2㎝)、太宰府条坊造営尺(30㎝)などで割ったところ、南朝尺の1.2倍(29.4㎝)が最も整数を得ることがわかりました。当初は前期難波宮造営尺(29.2㎝)での造営ではないかと推測していたのですが、計算すると整数に最も近い値となるのが29.4㎝尺であり、これが偶然にも南朝尺の1.2倍だったのです。次の通りです。 

     24.5㎝  29.2㎝ 29.4㎝ 30㎝

桁行全長 89.79  75.34  74.83  73.33

梁行全長 26.47  22.21  22.06  21.62

桁行柱間 17.95  15.06  14.96  14.66

梁行柱間 13.23  11.10  11.02  10.80 

 これらの数値はⅢ期正殿の実測値に基づいていますから、ほぼ同位置だったとされるⅡ期正殿の実態とは若干の誤差があることは避けられません。しかしながら「最初の礎石の時期から次の立て替え時期における位置を保っている」との判断を信頼すれば、南朝尺と同1.2倍尺による各距離は次のようになります。 

     南朝尺(24.5㎝) 1.2倍尺(29.4㎝)

桁行全長   90尺     75尺

梁行全長   26.5尺    22尺

桁行柱間   18尺     15尺

梁行柱間   13.25尺    11尺

  両者を比べると、0.5や0.25という端数がでる南朝尺よりも、端数がでない1.2倍尺の方が、設計・造営に採用する尺としては穏当なものと思います。

 この〝1.2倍〟という数値は、いわゆる各時代の小尺と大尺の比率であることから、九州王朝(倭国)は南朝尺(24.5㎝)を採用していた時代と七世紀中頃からの同1.2倍尺(29.4㎝)を採用した時代があったのではないでしょうか。あるいは、南朝尺から同1.1倍尺(法隆寺造営尺)、そして1.2倍尺(大宰府政庁Ⅱ期造営尺)へと変遷したのかもしれません。この変遷は、時代と共に長くなるという尺単位の傾向とも整合しています。この点でも、大宰府政庁における南朝尺採用とした川端説よりも有力な仮説と考える理由です。わたしはこの1.2倍尺を「南朝大尺」あるいは「倭国大尺」と仮称したいと思いますが、いかがでしょうか。より適切な名称があればご提案下さい。〔後略〕
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 この古賀さんの「1.2倍尺」仮説は、尺長が完数(端数がない整数)で得られ、“南朝尺”(正確には「晋後尺」24.5㎝)説よりも説得力があります。1.2倍尺」仮説は、大宰府政庁遺構の造営尺に関して、全く新しい視点からのアプローチとして注目すべきで、私はこの古賀仮説を支持します。

 また、古賀さんが次のように、「大宰府政庁」には全く言及していない「前期難波宮造営尺」に関する私の見解を「先行説」として紹介頂いたことに感謝します。

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なお、倭国尺についての山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)による研究(注③)があります。特に次の見解はとても参考になりました。 

(ⅰ)南朝尺は晋後尺(24.50㎝)以外にも魏尺・正始弩尺(24.30㎝)がある。

(ⅱ)魏尺・正始弩尺(24.30㎝)の1.2倍は29.16㎝であり、前期難波宮造営尺の29.2㎝に近い。このことから前期難波宮造営尺は魏尺・正始弩尺の1.2倍尺「倭大尺」だったのではないか。 

 このように、山田さんの見解は基本的視点が拙稿と共通します。貴重な先行説として紹介させていただきます。
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 なお、古賀さんが要約して紹介してくださったのは次のブログ記事です。

「前期難波宮」の内裏前殿は南朝尺で造られていた―「前期難波宮」内裏前殿に使用された魏尺(正始弩尺)―2017年4月9日(日)

 ということで、またもや「過去記事の再利用」ができました。古賀さん、ありがとうございます。 

2021年2月18日 (木)

「春秋」とは何か?―「学問」って何?―

「春秋」とは何か?
「学問」って何?[著書や論考等の紹介][古田史学]

 「『学問(科学)』とは、新しい知見を得るための努力」だと私は考えています。まず、「努力」がなければなりません(見聞きしたことをおぼえる「耳学問」は「学問」にあらず)。また、「新しい知見」と言っても、「自分自身が知らなかったことを知る」ための努力は「学問」ではありません(それは「受験勉強」のごときもの。学問の基礎にはなるが)。「人類が知らなかったこと(地域や分野は「日本史」のように限定されていても良い)」を知るための努力を言っています。

 「新しい知見」はどのようにして得られるのか?「いままでに得られていない知見」を見つけなければ、「新しい知見」を求めようもありません。

 その「見つけ方」はどのようにするのか?そのやり方は「いままでの知見」の中に「疑問点」を見つけることです。ただ単に「疑問点」を見つければ新しい知見が得られるのかと言えば、そうではなくて、「新しい知見」につながる「疑問点」を見つける必要があります。

 「新しい知見」につながる「疑問点」を見つけるにはどうするか?その方法を学ぶのが「学問」です。

 つまり、「学問」とは「新しい知見」を得られる「問い」の立て方を学ぶことです。それができれば、あとはその「問い」の「答え」を見つける「努力」をすることです。つまり「学問」とは、「新しい知見」を得られる「問い」の立て方を学び、その「問い」の「答え」見つける「努力」をすることだ、と私は考えています。

 「お前のゴタクなどどうでもいい」と思われたことでしょうから、本題に入ります。

 昨日(2021/02/17)、「古田史学会報№1622021215日 号)」が届きました。どれも秀逸な論考ばかりでしたが、私のゴタクに関わる意味で「素晴しい『問い』」がありました。次のものです。

 

(1)正木裕氏「『豊国法師』とは誰か」(「高良玉垂大菩薩」から「菩薩天子多利思北孤」へ
 「通説」が根拠もなく「豊国」を「百濟」と考えている(何故「百濟」と書かなかったんだ?と突っ込める)ことに対して、九州の「豊国」(「豊前」+「豊後」)と答えています。普通に考えれば当然ですが「一元史観」は普通には考えないようです。

(2)西村秀己氏「倭国ナンバーワンは何と呼ばれていたのか?」(「天皇」「皇子」称号について
 文献に称号として登場しない「天子」は概念であり「天皇」「皇帝」「王」が称号であるとしてこの「問い」を立てられています。

(3)西村秀己氏「孔子は何故「春秋」という言葉を使ったのだろうか?」(割付担当の穴埋めヨタ話 「春秋」とは何か
 魯は周とは異なる暦を使っていること、「論語」には二倍年暦を思わせる表現が頻出することから、少なくとも魯は二倍年暦を使っていたのではないだろうか?とさらに具体的な問いを投げかけてらっしゃる。そして、「孔子は魯の「春」と「秋」を併せて「一年」の暦を「王」たる周が使っている。という意味を込めて『春秋』としたのではないだろうか?」という仮説を提示されています。

 我田引水になりますが、冬至から夏至までを「春」、夏至から冬至までを「秋」という、私のアイデアにご賛同くださっています(感謝)。
 なお、このアイデアは なぜ「春秋」と言うのか―西村秀己氏が解明―2021119 () で述べたものです。このブログ記事に、古賀達也さまからこのアイデアに「留意」する旨のコメントを頂戴しています。

 最後に、妄想をひとつ。

 以前に「大皇弟」考―大皇弟は「天子」の弟-2017419()というブログ記事を載せましたが、「天子」は概念であって称号ではないとすれば「大皇弟は『大皇』の弟」になります。「大皇」は文献(『日本書紀』)に現れた称号です。また『隋書』俀國傳に「俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌」「王妻號雞彌」とあり、この「雞彌」は「王(きみ)」「大王(おほきみ」(男女問わず。「額田王(ぬかたのおほきみ」)ではないかと思われます。序列で言えば「大王(おほきみ)」>「王(きみ)」でしょう。本来「大王(おほきみ)」は「王のなかの王(King of kings)」のことだったろうと思われますが「大王」の「大」が「大小」の「大〔「おおきい」の意〕」と受け止められないように(おう)」を「(おう)」に漢字を変更して「王のなかの王(King of kings)」を表現しようとしたのではないかと考えます(何時から「大皇(おほきみ)」を「天皇(すめらみこと)」と変更したかは不明ですが・・・)。

2021年2月 5日 (金)

伽藍配置と出土瓦―肥えさんの夢ブログ―

伽藍配置と出土瓦
肥えさんの夢ブログ[著書や論考等の紹介][多元的「国分寺」研究]

 「伽藍配置」と「出土瓦」を関係づけてわかりやすく分類した 肥えさんの夢ブログの記事 塔を回廊内に建てた「古式」の国分寺からは,白鳳瓦が出土 20212 5() をご紹介します。

 とても興味深い情報が浮き彫りになっている内容と図が掲載されています。ぜひご覧下さい。

2021年1月19日 (火)

「春年・秋年」と「五歳再閏」―西村さんの仮説で造暦してみた―

「春年・秋年」と「五歳再閏」
西村さんの仮説で造暦してみた[][著書や論考等の紹介]

 『「二倍年暦」モデルの想定案』について―谷本茂さまのご要望に応える―で、次の西村秀己さまの「五歳再閏」とは、『易』(周易)に朱子(朱熹)が付けた注に「五歳再閏」があり、これが周代に「二倍年暦」が行われていた証拠ではないかという説(例会配布資料)を紹介いたしました。

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周易上繫辭傳(成立は漢代とされていますが、内容は古い伝承を含んでいるようです。漢代の暦の常識では考えられないものを含んでいます)

五歳再閏。

(細注)閏、積月之餘日而成月者也。五歳之閒、再積日而再成月。故五歳之中、凡有再閏、然後別起積分。

(朱子(朱熹)の注)閏とは、月の餘日を積んで月を成す者なり。五歳の間、再び日を積んで再び月を成す。故に五歳の中、凡そ再閏有り、然して後に積分を起こす。

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 そして、「二倍年暦」について様々な説(例:ひと月15日説)がある中で、次の「暦(法)」がこの西村さんの「五歳再閏」説を最も合理的に説明づけられるとしました。

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1平年、2平年、3平年、4平年、5閏年、6平年、7平年、8平年、9平年、10平年、11閏年、12平年、13平年、14平年、15平年、16閏年、17平年、18平年、19平年、20平年、21平年、22閏年、23平年、24平年、25平年、26平年、27閏年、28平年、29平年、30平年、31平年 、32平年、33閏年、34平年、35平年、36平年、37平年、38閏年

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 最も合理的な説とした理由は次の通りです。

(1)この暦が「閏法」(季節を調整するため一定期間に一定数の閏(普通より多くする日数や月数)を置くメソッド)を採用している。

(2)この「閏法」は、最も早くから知られていて最も短い「メトン周期」(235ヶ月で朔と季節が一致する周期)を用いた「章法」(19年に7閏月を入れて19年を235ヶ月とする造暦手法)と考えられる。

(3)この「暦」が「章法」を用いた暦であれば、235ヶ月の間に7回((=235ヶ月÷7回=33.5714285714ヶ月ごとに)閏月を置く暦である。

(3) 33.571 428 5714ヶ月とは2.797 619 047 61年であるから、閏年は3年目に来る(後は2年目と交互にする)。

(4)ところが「五歳再閏」とあるから、「一倍年暦(通常の暦)」では説明できない。

(5)もし「二倍年暦」であれば、2.797 619 047 61年というのは5.59523809522年となるから、閏年は6年目に来る(と考えるのが普通の考えだろう)

(6)ところが、「五歳再閏」とあり、五年目に再び閏が来る、とある。

(7)普通に考えた「6年目」に閏を置く方法では暦は38(二倍年暦、一倍年暦なら19年)で循環しない(次のようになる)。
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平年は6ヶ月、閏年は7ヶ月

1平年、2平年、3平年、4平年、5平年、6閏年、7平年、8平年、9平年、10平年、11閏年、12平年、13平年、14平年、15平年、16平年、17閏年、18平年、19平年、20平年、21平年、22閏年、23平年、24平年、25平年、26平年、27平年、28閏年、29平年、30平年、31平年、32平年、33閏年、34平年、35平年、36平年、37平年、38平年39閏年。
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(8)「五歳再閏」であれば、前掲の表の通りうまく循環する。つまり、朱子(朱熹)は「五歳再閏」 と注したものは、「章法」を用いた「二倍年暦の太陰太陽暦」であった(または、少なくとも朱熹はそう理解していた)可能性が高い、ということである。

  さて、「春年」「秋年」という概念で、「二倍年暦」38年(一倍年暦なら19年)を表示してみると次のようになる。
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平年=6ケ月、閏年=7ケ月

①春年(平年)、②秋年(平年)、

③春年(平年)、④秋年(平年)、

⑤春年(閏年)「五歳再閏、⑥秋年(平年)、

⑦春年(平年)、⑧秋年(平年)、

⑨春年(平年)、⑩秋年(平年)、

⑪春年(閏年)、⑫秋年(平年)、

⑬春年(平年)、⑭秋年(平年)、

⑮春年(平年)、⑯秋年(閏年)

⑰春年(平年)、⑱秋年(平年)、

⑲春年(平年)、⑳秋年(平年)、

㉑春年(平年)、㉒秋年(閏年)

㉓春年(平年)、㉔秋年(平年)、

㉕春年(平年)、㉖秋年(平年)、

㉗春年(閏年)、㉘秋年(平年)、

㉙春年(平年)、㉚秋年(平年)、

㉛春年(平年)、㉜秋年(平年)、

㉝春年(閏年)、㉞秋年(平年)、

㉟春年(平年)、㊱秋年(平年)、

㊲春年(平年)、㊳秋年(閏年)

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 今回も「他人の褌で相撲をとった」記事であった。

なぜ「春秋」と言うのか―西村秀己氏が解明―

なぜ「春秋」と言うのか
西村秀己氏が解明[][著書や論考等の紹介]

 古賀達也の洛中洛外日記 第2353話 古田武彦先生の遺訓(27)―司馬遷の認識「歳三百六十六日」のフィロロギー 2021/01/17 を見て、思わず「あっ」と声を上げてしまいました。次のくだりです(抜粋)。

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(1)二倍年暦では一年(365日)を二分割するわけだが、春分点と秋分点で日数を分割するのが観測方法からも簡単である。〔荻上紘一さんの見解〕

(2)そうすると、183日と182日に分割することになる。これを仮に「春年」「秋年」と称する。

(3)このような理解に基づいて、一年(365日)のことを「春秋」と称したのではないか。〔西村秀己説〕

(4)二倍年暦表記で「春年183日」と記された史料を司馬遷が見たとき、一年(春秋)の日数を183×2と計算し、366日と理解した。あるいは、このように計算された史料を司馬遷は見た。

(5)一年を366日とする暦を堯が制定したと理解した司馬遷は、『史記』「五帝本紀」に「歳三百六十六日」と記した。

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 どこで声を上げたかといえば(3)のところです。(2)までは『二倍年暦』仮説の出発点となった『魏略』にある「春耕秋収」(『三国志』「魏書」鮮卑烏桓東夷伝倭人条にある裴注)でほとんどの方はご存じでしょう。

 そうだとしても、(3)に思い至ったでしょうか。私は思い至るどころか、なぜ「春秋」(『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』「春秋時代」)というのだろうとは考えたことがなかったのです。そういわれているのだから、という程度の認識でした。これでは「受験生の丸暗記」ですね。

 それを、(3) このような理解に基づいて、一年(365)のことを「春秋」と称したのではないか、と西村秀己さんが説いたのです。ゆえなく「春秋」という言葉が用いられたはずがないのです(言葉は選ばれて用いられるものだから)。

 もちろん、『二倍年暦』の重要な仮説はフィロロギーによる(4)(5)にあることは理解していますが、それを導く糸となったのは「なぜ『春秋』といったのか?」という問いに解答を与えたことにあるのではないか、と思ったくらいでした。

 今回は、学問には「『問い』を立てる」のがいかに重要なことなのかを再認識させられた、という私の体験談でした。

 もちろん、説明できないこと(司馬遷が書いた「歳三百六十六日」)が(4)(5)という仮説で見事に説明できていることは画期的な事柄です。『二倍年暦(二倍年暦)』仮説にとって、これはエポック・メイキングだと思います。

 ただ一つ、私見を述べれば「春分点と秋分点で日数を分割するのが観測方法からも簡単である」という見解には同意できません。「暦法」は長い間、太陽年(回帰年)を「冬至から次の冬至までの日数」としてきました。それは観測方法が簡単で間違い難いからです。冬至から夏至までを「春年」、夏至から冬至までを「秋年」とした、これが私の見解です。『魏略』の「春耕秋収」によって春・秋を出発点とする考えには同意できません(文献と天文学・暦部のどちらをとるかという観点から)。

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