条坊制と条里制

2022年11月 2日 (水)

妄想:「正始弩尺の小程」説―地割109.4mの謎は解けた―

妄想:「正始弩尺の小程」説

地割109.4mの謎は解けた[妄想][条坊制と条里制][度量衡]

 

 ご寄稿いただきました吉村八洲男さまの「鼠」再論()「上田・神科条里と番匠」に、次のことが紹介されていました。

(1)白井弘文氏は、「遺構への測量・現存する地籍図」などの研究結果から、次のことを解明された。
「坪」の一辺は109mから110mの間』)と予想し(今も現地にはその類似例が残る)、それが「半折形」であった。
(2)「信濃国分寺・尼寺」の伽藍配置にもこの数字(109m)が使われていた。
(3)四国・愛媛県にある「久米遺跡」に使われた「条里のものさし」が「上田の条里遺構」での数値と非常に類似する。
南辺・北辺が222.8m(=109.4m+4m109.4m
東辺・西辺が221.8m(=109.4m+3m109.4m

 

未解明なままの尺度

 「109.4m」(「109mから110mの間」をこの数値とみなしています)という長さを既知の尺度で除算してみても完数(整数値)が得られないこと(次表)から、地割に使用された尺度は「未解明」だとされているようです。

尺度名,        一尺長(), 109.4÷(一尺長()×100 (m/)
①前漢尺,         23.300,   4.695
②後漢尺(晋前尺),     23.090,   4.738
③「魏杜虁(とき)尺」,  24.175,   4.525
④魏尺(正始弩尺),     24.300,   4.502
⑤晋後尺,         24.500,   4.465
⑥「宋氏尺」,       24.568,   4.453
⑦唐小尺,         24.692,   4.431
⑧(白鶴)梁尺,      24.900,   4.394

⑨「南朝大尺(注)(④×1.2,  29.160,   3.752

⑩梁尺,          29.500,   3.708
⑪唐尺,          29.630,   3.692
⑫大宝小尺(天平尺),   29.700,   3.684
⑬“高麗尺”(⑫×1.2),     35.556,   3.077
(注)南朝大尺」という名称は、古賀達也氏の仮称によっています。

 たしかに、キリの良い数値は出ていません。

 

手掛かりとなる「大程」と「小程」

 少し寄り道をします。

 古賀達也の洛中洛外日記 第2808話 2022/08/12 『旧唐書』『新唐書』地理志の比較 に唐の大程と小程が載っています。ブログの一部分を引用します。
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『旧唐書』『新唐書』地理志の比較」

 「洛中洛外日記」2804話(2022/08/08)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (13)〟で紹介した足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注①)には、唐代里単位の大程(1里約530m)と小程(1里約440m)について次の説明があります。

左に唐里の大程と小程とを比較すると、
 大程 一歩は大尺五尺、一里は三百六十歩、即ち大尺一千八百尺。
 小程 一歩は小尺六尺、一里は三百歩、即ち小尺一千八百尺で、我が曲尺千四百九十九尺四寸。
 である。
」(44頁)
舊唐書地理志の里程と實測里程とを比較して見ると、皆小程を用ひたことが明である。(中略)大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になったと見えて、宋史・長安志・新唐書の類が皆之を用ひて居る。」(49~50頁)

 足立氏によれば、「大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になった」とあるので、『新唐書』の里単位を調べるために地理志と夷蛮伝の里数を『旧唐書』と比較しました(注②)。ちなみに、『旧唐書』は五代晋の劉昫(887~946)、『新唐書』は北宋の宋祁(998~1061)による編纂です。〔後略〕
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 管見では、「条里」や「条坊」には距離の単位として「里」が用いられたと考えていますので、「109.4m」は「里単位」であると考えます。

 足立氏の『長安史蹟の研究』によれば、唐代里単位の大程は1里約530m、小程は1里約440mとあります。大程1里と小程1里を「109.4m」で除算すると次になります。

大程1里約530m÷109.4m4.84460
小程1里約440m÷109.4m4.02193764277…

 この数値から「109.4m」は小程ではないかと推定されます。すなわち、「109.4m」は小程1/4里(四分の一里)と考えました。しかし、これでは小程1里=437.6mということになり、唐の小程約440mとは一致しません。

 足立氏の『長安史蹟の研究』には、もう一つ、小程1里は300(ぶ)、1歩は小尺6尺とあります。この小尺は何㎝になるでしょうか。大程も小程も一里=1,800尺です。つまり、1尺は次の計算になります。

1尺=小程1里437.6m÷1,800尺=0.2431111m24.311

 

一尺が24cm台の尺度

 小程1里の長さ437.6m自体が「109.4m」を確かな数値と仮定したものですので、とりあえず小程の一尺が24㎝台であると大まかにとらえておくことにします。24㎝台の尺度は次のものがあります。

「魏 杜虁(とき)尺」  24.175
魏尺・正始弩尺     24.300
晋後尺(“南朝尺”)   24.500
「宋氏尺」       24.568
唐小尺         24.692
(白鶴)梁尺      24.900

 この中で24.311㎝に最も近いのが、24.300㎝の魏尺・正始弩尺です。

 

謎解きの鍵「久米官衙遺跡」

 仮に小程の一尺が正始弩尺24.300㎝とすると、一里はその1,800倍なので、437.4mとなります。

 ここで、「正始弩尺の小程」説の109.4mの考古学的証拠として有力な「久米官衙遺跡」に登場願いましょう。(3)のデータを再掲します。

「久米官衙遺跡」
南辺・北辺 222.8m(=109.4m+4m109.4m
東辺・西辺 221.8m(=109.4m+3m109.4m

 このように、明確に「109.4m」という数値が記されています。

 109.4mが1/4里と仮定しましたから、一里=437.6m(=109.4m×4)となります。

 小程1里=正始弩尺24.300/尺×1,800尺=43,740㎝=437.4m

この差は一里437.4m当たり、わずか0.2m(=20㎝、誤差0.045724737…%)です。

この誤差であれば、(古制)唐小程小尺は正始弩尺であると言っても過言ではないでしょう。

 

正始弩尺が(古制)唐小程小尺である理由(推定)

 まず、唐の小程の一里三百歩一歩六尺周の制度(古制)です。唐代には一歩五尺になっています。すなわち、(古制)小程一里三百歩(一歩六尺、小尺一尺=正始弩尺)は「唐以前(よりも前)」の制度ということになります。

 また、(古制)一里三百歩一歩六尺、小尺一尺)が「唐の小程」ともなっているということは、唐が古制を継承していることにもなります。ただし、古制を継承しつつも唐の小程(1里約440m)は、晋後尺(“南朝尺”・唐玄宗開元小尺)24.5 ㎝/尺 ×1,800尺=441mとなっています(正始弩尺から後尺への変遷 )。

 この条件を満たすのは支那大陸を統一した「隋(581 - 618年)」ということになります。109.4m(1/4里)は6世紀末葉から7世紀初頭にかけて行われた制度と推定できます(隋以前からの制度(南朝の制度)であった可能性も高い)。その証拠を挙げよと言われれば次を示せば足りるでしょう。

下記「唐玄宗開元小尺」の上にある「唐小尺」(24.3㎝) は、いわゆる唐小尺24.692㎝ではなく、「正始弩尺」です。

文化遺産オンライン
唐小尺 金工 長さ24.3 1.5 厚さ0.25 1
唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5 1.9 厚さ0.5 1
唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4 1.9 厚さ0.5 1


最後に

 「(古制)唐小程」と述べてきましたが魏尺(正始弩尺)による小程(1里437.4m )は「隋小程」 と言ってもよいでしょう。

 以上、事実(紹介されたものを含む)に基づいて述べているにも関わらず「妄想」と題しているのは、次の理由によります。
A.先行研究を一切調査していないこと。
B.自説に都合の悪い事項を一切考慮・検討していないこと。
C.自説の論拠の検証を行っていないこと。

 よって、この「妄想」が他の研究者にヒントを与えることができたなら望外の喜びです。

2022年3月10日 (木)

平城京の大官大寺(18)―坪並は「平行式」だったのだろうか―

平城京の大官大寺18
坪並は「平行式」だったのだろうか[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学][条坊制と条里制] 
【図の修正のお知らせ(2022/03/11)
 図(坪並と坪地割)がわかりにくいため、修正(「千鳥式」「平行式」を右側に移動) したものに差し替えました。【図の修正のお知らせ 終わり】

 前回(平城京の大官大寺(17「坪名」の証言202239())で、「八ノ坪」「八餘」という坪名があり、小澤 毅氏の「十一坪・十二坪」と比定した高市郡路二十八条三里・四里の坪割とは整合しないという報告をしました。ブログにアップした後で、どうであればその位置が「八ノ坪」となるのか、ということが気にかかって来ました。

 今回は、一つの試案を示して問題提起としたいと思います。

 先ず、前提として「二十八条」という位置は小澤 毅氏の示した通りだとします。そう仮定すると、「八ノ坪」と書かれている位置が「八の坪」に該当する坪並(坪の並び方の順序)は、次のものしかありません(赤で塗りつぶしたところが「十一坪・十二坪」に当たります)。
「八ノ坪」が正しければ(クリックで拡大します)
Photo_20220310140101
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
(1)ギヲ山と“溜池”の堺を「二里」と「三里」の堺とする。
(2)坪並(坪の並び方の順序)は「千鳥式」ではなく「平行式」とする。
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 「里」の番号は、中央側から順につけていくはずですから、「八の坪」が正しいと仮定すると、「二里」と「三里」の堺はギヲ山と“溜池”の堺になります。「平行式」と仮定すれば「二十八条」をそのままにできますが、「千鳥式」を仮定すると条の区分まで動かさねばならなくなります。
坪並と坪地割
70
 この図(「八ノ坪」が正しければ)を作成した後で、この「八の坪」を前提にした「二里」と「三里」の堺がギヲ山と“溜池”の堺となっていて、大官大寺の寺域がギヲ山などの丘陵地を避けた位置にあるという点が(偶然なのかどうかわかりませんが)とても気になっています。

 今回は「八ノ坪」とある坪地が文字通り「八ノ坪」となる「二十八条三里」の坪並を想定してみました。 なお、この情報が役に立つものかどうかは全く考えておりません。次回は、相原嘉之氏の「高市大寺の史的意義」に戻る予定です。

2019年4月17日 (水)

「『方』法」の表現法―条里制を調べていたら―

「『方』法」の表現法
条里制を調べていたら[著書や論考等の紹介][古田史学][条坊制と条里制]

 条里制について水野孝夫さまの「条里制の開始時期」という論文を読んでいたら、次のような記述がありました。
…………………………………………………………………………………………………………
〔前略〕

 「阡陌」は辞書では「音=センバク」。田のあぜ道。東西を陌、南北を阡という。一説に、東西を阡、南北を陌という。転じて、耕作地」となっている。「阡陌町収始まる」とは、田に道を通して一町をその中に収めることを始め、「又、始まる」は田の面積調査を始めたものと解したい。古代の算術書の最初の章はたいてい「方田」で始まり、面積の計算方法を述べてある。

 わたしはこれが「条里制の施行を示す文献」であると考える。従って九州王朝は六九〇年頃に「条里制」を開始したと考える。

 もっとも『日本書紀』・成務紀には「五年秋九月、令諸國、以國郡立造長、縣邑置稻置。並賜盾矛以爲表。則隔山河而分國縣、隋阡陌以定邑里。因以東西爲日縦、南北爲日横。山陽日影面。山陰日背面。是以、百姓安居。天下無事焉。」とある。これが「条里制」の開始であるのかも知れない。

      (二〇〇五年一〇月二〇日記)

                         (みずの・たかお)
…………………………………………………………………………………………………………

 ここでは、条里制の開始時期は論じません。気になったのは「以東西爲日縦、南北爲日横」という部分です。特に「日縦」「日横」とは何かが気になりました。天文観測の用語だろうかとも考えましたが、「日晷」とか「日景()」とかは知っていますが「日縦」「日横」とかは知りませんでした。そこで妄想してみました。この「日」は「太陽」とか「一日」とかの意味ではなく、漢字の「日」という形を表しているのではないか、と。

 そうだとすれば、東西というのは漢字「日」の縦線(|)南北というのは漢字「日」の横線(─)ということになります。

 古代中国の『方』法」というメソッドは、「方形」(正方形や長方形)を縦の長さと横の長さによって面積を表す方法(メソッド)です。つまり、縦と横の長さで面積を表すのですから必ず縦の長さと横の長さのデータを示さねばなりません。

 では、「以東西爲日縦、南北爲日横」すなわち「東西を縦()の長さ、南北を横()の長さをもって(面積をあらわ)す」とはどういう意味でしょうか。私たちの感覚では「東西は横()、南北は縦()」と思いますよね。でも「東西というのは漢字「日」の縦線(|)南北というのは漢字「日」の横線(─)」と理解することにした(仮定した)のですから、論理の導くところへ行こうではないか。たとえそれがいかなる所に到ろうとも」「ここで一番大事なところはどこか,わかるかい」「『いかなる所に到ろうとも』だよ」(岡田甫(はじめ)先生の言葉)と。だから、「東西を縦()の長さ、南北を横()の長さとする」を整合的に理解するには、「東辺・西辺を縦(線)の長さ、南辺・北辺を横(線)の長さとする」とするしかありません。

 この「日」は「太陽」とか「一日」とかの意味ではなく、漢字の「日」という形を表しているとの妄想(仮定)から、「東辺・西辺を縦()の長さ、南辺・北辺を横()の長さとする」に到達したわけですが、これは本当に正しいのか気になったので、Googleで「以東西爲日縦、南北爲日横」を検索したらトップに、次のブログ記事が表示されました。

因以東西爲日縱、南北爲日横 泉城の古代日記 コダイアリー

 石田泉城さまは、私のような妄想から出発せずに『隋書』の「東西・南北」を悉皆調査されて、私たちの東西・南北の理解の仕方は「方法」による「東西・南北」(東西は東辺西辺、南北は南辺北辺)とは異なる単なる「思い込み」にすぎないことを論証されています。「山陽日影面。山陰日背面 」(山の陽のあたる方を「日影面」)というのだって現代の感覚とは異なりますよね(日影ができる面ということでしょうけど)。

以下、表示されている順に紹介します。読まれるときは順を追って読んで下さい。

因以東西爲日縱、南北爲日横 2018/5/3(木) 午前 9:46
「其國境東西五月行南北三月行各至於海」の意味するところ 2018/5/1(火) 午後 9:30
東西五月行南北三月行 その7 2016/2/13(土) 午前 1:35
東西五月行南北三月行 その6 2016/2/12(金) 午前 0:34
東西五月行南北三月行 その5 2016/2/9(火) 午前 0:00
東西五月行南北三月行 その4 2016/2/7(日) 午後 9:10
東西五月行南北三月行 その3 2016/2/6(土) 午前 0:07
東西五月行南北三月行 その2 2016/1/31(日) 午後 10:39
東西五月行南北三月行 その1 2016/1/23(土) 午後 10:33
東西〇月行、南北〇月行 2015/12/16(水) 午後 10:10
『隋書』俀國伝の「東西南北」 2015/12/9(水) 午後 2:03

2019年1月13日 (日)

「日本国」の条里制の坪並―東大寺領の荘園も千鳥式―

「日本国」の条里制の坪並
東大寺領の荘園も千鳥式[条坊制と条里制]

 以前、下記のブログ記事で「条里遺構の坪並において「千鳥式」と「平行式」が同じ王朝のはずがない」「平城京は「千鳥式」となっていました。つまり、条里遺構の「坪並」が「千鳥式」は大和王朝「日本国」による条里遺構であると言えるのではないでしょうか」と書きました。

平城京の坪並条里遺構における千鳥式

今回、佐藤洋一郎著『稲の日本史』(KADOKAWA、角川文庫20854、昭和30年3月25日、初版、ISBN978-4-04-400392-0
0121)を読み直していたところ、
宇野隆夫著『荘園の考古学』(青木書店、2001年)に掲載されていた越前国足羽郡道守村の東大寺領における土地利用「荘園における土地利用の様子」の絵図が転載されており、その坪並もまた平城京と同じ「千鳥式」となっていました。

「平城京の坪並」と「東大寺領荘園の坪並」が同じ「千鳥式」と判明しましたので、「日本国」の条坊制及び条里制の坪並は千鳥式である可能性が高くなりました。この視点は「多元史観」でしか持ち得ないものです。
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2018年12月 2日 (日)

条里制の留意点―『紀』と異なる史料の存在―

条里制の留意点
『紀』と異なる史料の存在[条坊制と条里制]

先のブログ記事条坊制と条里遺構都市(消費地域)と農村(生産地域)に、「60を1町」とする図を載せたのですが、他の史料には異なる規定も記されていることに留意する必要があります。

『海東諸国紀』
「定町段、中人平歩両足相距為一歩、方六十五歩為一段、十段為一町」
(町・段を定む。中人平歩して両足相距てるを一歩と為(な)し、方六十五歩を一段と為し、十段を一町と為す。)

『二中歴』
「仟陌町[*]始又方始」
(これは、『海東諸国紀』により、歩・段・町の距離・面積の制定記事と判明した〔[*]は「段」(書写時の誤り)と考えられる〕)。

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