神社・寺院

2023年2月25日 (土)

倭国一の寺院「元興寺」(妄想編)―詔と創建順―

倭国一の寺院「元興寺」(妄想編)
詔と創建順[妄想][論理の赴くところ][神社・寺院]

 今回は、ある仮定に基づいて、「元興寺」「法興寺」「法隆寺」の創建順を論理的に求めてみます。

 「ある仮定」とは、次の詔に関することです。

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《推古天皇二年(五九四)》
二年春二月丙寅朔、詔皇太子及大臣、令興癃三寶。是時、諸臣連等、各爲君親之恩、競造佛舎。即是謂焉。
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《仮定(妄想)》

 この詔は「九州王朝(倭国)」の天子が出した

 

《仮定の拠り所(妄想)》

 この記事にある「」という語は、欽明天皇十三年(五五二)冬十月条(注①)で既に使われています(初出)。『日本書紀』にはこの記事以外に「佛舎」という語はありません(すなわち「詔」には「佛舎」とあった)。この条で「佛舎。即是謂寺焉」との説明が入るのは、この詔にしたがって諸国が(当然その「国府」に)競って建てた「佛舎」は朝庭が「~」と統一して呼ぶことに決めた(ここで初めて「寺」という語が「佛殿」を意味することになった)ために、「」の説明(「即是謂焉。」)が必要になった。とすれば「寺」が初出する欽明天皇十三年(五五二)十月条は、例えば「神武天皇」の「天皇」のように、遡って使われていると考えられる。さもなくば、推古二年二月条の記事は、時代が繰り下げられているのかもしれません。

 

 さて、推古天皇二年(五九四)》二月丙寅朔の詔が、倭国(九州王朝)の天子が出したとすれば、論理的に次のようになります。

(1)「三寶をせしめよ」との詔に従えば、倭国「第一(No.1)」(「」)の寺院は当然「元興寺」を名乗る。
(2)次の(「第二」)の寺院は興寺」は名乗れないので、仏する意味の「寺」を名乗る。
(3)さらに次の(「第三」)の寺院は元興寺」も「法興寺」も名乗れないので、「()寺」を名乗る。

 この順序を入れ替えると「(漢風)寺号」の説明がつかなくなります。
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注① 欽明天皇十三年(五五二)冬十月条 ‥‥‥ 岩波古典文学大系『日本書紀 下』原文は次の通り。

《欽明天皇十三年(壬申五五二)十月》
冬十月、百濟聖明王〈更名聖王。〉遣西部姫氏達率怒唎唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干巻。別表、讃流通・禮拜功德云、是法於諸法中、最爲殊勝。難解難入。周公・孔子、尚不能知。此法能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提。譬如人懐随意寶、逐所須用、盡依[忄靑]、此妙法寶亦復然。祈願依[忄靑]、無所乏。且夫遠自天竺、爰洎三韓、依教奉持、無不尊敬。由是、百濟王臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉傳帝國、流通畿内。果佛所記我法東流。是日、天皇聞已、歡喜踊躍、詔使者云、朕從昔來、未曾得聞如是微妙之法。然朕不自決。乃歴問群臣曰、西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾有。可禮以不。蘇我大臣稻目宿禰奏曰、西蕃諸國、一皆禮之。豐秋日本、豈獨背也。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同奏曰、我國家之、王天下者、恆以天地社稷百八十神、春夏秋冬、祭拜爲事。方今改拜蕃神、恐致國神之怒。天皇曰、宜付[忄靑]願人稻目宿禰、試令禮拜。大臣跪受而忻悦。安置小墾田家。懃修出世業、爲因。淨捨向原家爲。於後、國行疫氣、民致夭殘。久而愈多。不能治療。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同奏曰、昔日不須臣計、致斯病死。今不遠而復、必當有慶。宜早投棄、懃求後福。天皇曰、依奏。有司乃以佛像、流棄難波堀江。復縦火於伽藍。焼燼更無餘。於是、天無風雲、忽炎大殿。

2023年2月 3日 (金)

倭国一の寺院「元興寺」(番外編)―「法興寺」から「飛鳥寺」へ―

倭国一の寺院「元興寺」(番外編)
「法興寺」から「飛鳥寺」へ[論理の赴くところ][神社・寺院]

 

最後の「法興寺」

 『日本書紀』において、天武天皇元年(六七二)六月己丑29日〕条〔注1〕以後、「飛鳥寺(あすかでら)」という「寺名(てらな)〔注2〕(和風「山号」)では登場するものの、「法興寺(ほうこうじ)」という「寺号(じごう)」は消えてなくなります。次は『日本書紀』で「法興寺」が最後に登場する件(くだり)です。
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《天智天皇一〇年(六七一)十月甲子朔》
是月、天皇遣使奉袈裟・金鉢・象牙・沈水香・旃檀香、及諸珍財於法興寺佛。
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壬申の乱以後の寺名

 次は、上記条文以降に登場する個別寺院名(固有名詞)を拾ってみたものです(同一条文中に同一寺院名が複数登場しても一件としています)。呼び方(ひらがな)は現代仮名遣いにしています。
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《天武天皇元年(六七二)七月庚寅朔》壬子〔23日〕条:大井寺(おおいでら)所在不明
《天武天皇二年(六七三)三月丙戌朔》是月条:川原寺(かわらでら)
《天武天皇二年(六七三)十二月壬午朔》戊戌〔17日〕条:官職名は漢風「造高市大寺司(ぞうたけちだいじし)ですが、寺名は「高市大寺(たけちおおでら)」です。「〈今大官大寺(だいかんだいじ)、是。〉」という割注がついています。
《天武天皇六年(六七七)二月癸巳朔》是月条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇六年(六七七)八月》八月辛卯朔乙巳〔15日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇九年(六八〇)四月乙巳朔》乙卯〔11日〕条:橘寺(たちばなでら)
《天武天皇九年(六八〇)四月》是月条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇九年(六八〇)七月》秋七月甲戌朔条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇九年(六八〇)七月》癸巳〔20日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇九年(六八〇)十一月壬申朔》癸未〔12日〕条:藥師寺(やくしじ)
《天武天皇十年(六八一)九月丁酉朔》庚戌〔14日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十一年(六八二)七月壬辰朔》戊午〔27日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十一年(六八二)八月壬戌朔》庚寅〔29日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《天武天皇十三年(六八四)閏四月壬午朔》乙巳〔24日〕条;飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十四年(六八五)五月》五月丙午朔庚戌〔5日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十四年(六八五)八月》八月甲戌朔乙酉〔12日〕条:淨土寺(じょうどじ)
《天武天皇十四年(六八五)八月》丙戌〔13日〕条:川原寺(かわらでら)
《天武天皇十四年(六八五)九月甲辰朔》丁卯〔24日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)川原寺(かわらでら)飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十四年(六八五)十二月壬申朔》丁亥〔16日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《朱鳥元年(六八六)正月》庚戌〔9日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《朱鳥元年(六八六)四月》壬午〔13日〕条:川原寺(かわらでら)
《朱鳥元年(六八六)五月庚子朔】》癸丑〔14日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《朱鳥元年(六八六)五月》癸亥〔24日〕条:川原寺(かわらでら)
《朱鳥元年(六八六)六月己巳朔》甲申〔16日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《朱鳥元年(六八六)六月》丁亥〔19日〕条:川原寺(かわらでら)
《朱鳥元年(六八六)七月己亥朔》是月条:大官大寺(だいかんだいじ)
《朱鳥元年(六八六)八月己巳朔》己丑〔21日〕条:檜隈寺(ひのくまでら)輕寺(かるでら)大窪寺(おおくぼでら)
《朱鳥元年(六八六)八月》辛卯〔23日〕条:巨勢寺(こせでら)
《朱鳥元年(六八六)四月庚午朔》壬午〔13日〕条:川原寺(かわらでら)
《朱鳥元年(六八六)九月》九月戊戌朔辛丑〔4日〕条:川原寺(かわらでら)
《持統天皇即位前紀朱鳥元年(六八六)十二月》十二月丁卯朔乙酉〔19日〕条:大官(だいかん)飛鳥(あすか)川原(かわら)小墾田豐浦(おはりだとゆら)坂田(さかた)・・・大官(だいかん)以外は「~でら」
《持統元年(六八七)八月壬辰朔》己未〔28日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《持統二年(六八八)正月庚申朔》丁卯〔8日〕条:藥師寺(やくしじ)
《持統二年(六八八)十二月》十二月乙酉朔丙申〔12日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《持統八年(六九四)三月甲申朔》己亥〔16日〕条:益須寺(やすでら)
《持統十年(六九六)十一月》十一月己亥朔戊申〔10日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《持統十一年(六九七)七月》癸亥〔29日〕条:藥師寺(やくしじ)
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 「寺号」(漢風寺号)で登場するのは、登場順で藥師寺(やくしじ)大官大寺(だいかんだいじ)淨土寺(じょうどじ)の3寺だけで、残りは皆「大字」を冠した寺名(てらな)で、唯一の例外は大字・小字の両方を冠した「小墾田豐浦(おはりだとゆら)」(おはりだとゆらでら)で、これも寺名(てらな)です。

 

寺名(てらな)ではない寺院

 藥師寺(やくしじ)大官大寺(だいかんだいじ)淨土寺(じょうどじ)の3寺が寺名ではありませんが、「藥師」や「浄土」を冠した寺院は、「藥師(如来)」や「(極楽)浄土」が仏教用語なので「(漢風)寺号」のままになっていると思われます。

 仏教用語ではない唯一の例外「大官大寺(だいかんだいじ)」は、「高市大寺(たけちおおでら)」を「大官大寺(だいかんだいじ)」と改名して、所在地「高市(たけち)」(高市郡夜部村『扶桑畧記』、高市郡高市里『日本三代實録』)を冠する寺名(てらな)が消滅したためであると思われます。

《天武天皇二年(六七三)十二月壬午朔》
戊戌〔17日〕、以小紫美濃王・小錦下紀臣訶多麻呂、拜造高市大寺司。〈今大官大寺、是。〉時知事福林僧、由老辭知事。然不聽焉。
『扶桑畧記』によれば、天武六年(677)に「高市大寺」から「大官大寺」へ改称したとあります。

 

漢風寺号が消えたのは

 『日本書紀』には天武天皇が「諸寺の名を定む」(「定諸寺名也」)とあり、これはへそ曲がりな私の読み方かもしれませんが、「諸(もろもろの)寺名(てらな=和風寺号)を定む」とも読めます。すなわち、『日本書紀』の記述からは、「(漢風)寺号」を含め複数ある寺院の呼び名を、「和風寺号」つまり寺名(てらな)に天武天皇が統一したと考えられます。

《天武天皇八年(六七九)四月》
夏四月辛亥朔乙卯〔5日〕、詔曰、商量諸有食封寺所由。而可加々之、可除々之。是日、定諸寺名也

 

寺名(てらな)に統一したわけ

 朱鳥元年七月戊午〔20日〕条に、つぎのような興味深い割注があります。

《朱鳥元年(六八六)七月》
戊午、改元曰朱鳥元年。〈朱鳥、此云阿訶美苔利。〉仍名宮曰飛鳥淨御原宮。 

 年号「朱鳥」は漢字を普通に(通例に従って)読めば「シュチョウ」ですが、「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という年号だというのです。たしかに「朱」は「あか」なので「あかみ」(「み」は接尾辞)と読めます(朱(あけみ)さんもいますし)。しかし、年号を音読する通例を破るとはなかなかのものではないでしょうか(現在でも年号は「令和(れいわ)」と音読みしています)。

 「これほどまでにする理由」は次の二つが考えられます。

(一)天武天皇は「和風が好き」だった。
(二)天武天皇は「漢風が嫌い」だった。

 ハンバーグの話ではなく、政治の世界の話ですから、個人の「そっちよりこっちの方が好き」というような話では断じてありません。すなわち、天武天皇の政権にとって、(一)和風を重んじ(二)漢風を軽んじる方が都合良かった、と言うこと以外には考えられません。

 そんな政治的理由があったのでしょうか。

 ありました。唐の力を借りて近江朝を打倒した「壬申の乱」です。倭国内には反唐勢力も根強く存在し続けたはずです。近江朝を倒した調子に乗って「漢風」を尊重していれば、「奴等は唐の回し者だ」というキャンペーンを張られて、反唐勢力の力が増大していく恐れから、「私たちは唐とは関係ありません」というポーズを取ってそのことを宣伝していく必要があったのです(これは私の解釈にすぎませんが)。 

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注1 天武天皇元年(六七二)六月己丑〔29日〕‥‥‥ 「法興寺」という漢風寺号が消えて「飛鳥寺(あすかでら)」という和風寺号で登場するのは「壬申の乱」からです。
《天武天皇元年(六七二)六月辛酉朔》
己丑、天皇往和蹔、命高市皇子、號令軍衆。天皇亦還于野上而居之。是日、大伴連吹負、密與留守司坂上直熊毛議之、謂一二漢直等曰、我詐稱高市皇子、率數十騎、自飛鳥寺北路、出之臨營。乃汝内應之。既而繕兵於百濟家、自南門出之。先秦造熊、令犢鼻而乘馬馳之、俾唱於寺西營中曰、高市皇子、自不破至。軍衆多從。爰留守司高坂王、及興兵使者穗積臣百足等、據飛鳥寺西槻下爲營。唯百足居小墾田兵庫、運兵於近江。時營中軍衆、聞熊叫聲、悉散走。仍大伴連吹負、率數十騎劇來。則熊毛及諸直等、共與連和。軍士亦從。乃擧高市皇子之命、喚穗積臣百足於小墾田兵庫。爰百足乘馬緩來。逮于飛鳥寺西槻下、有人曰、下馬也。時百足下馬遅之。便取其襟以引墮、射中壹箭。因抜刀斬而殺之。乃禁穗積臣五百枝・物部首日向。俄而赦之置軍中。且喚高坂王・稚狹王、而令從軍焉。既而遣大伴連安麻呂・坂上直老・佐味君宿那麻呂等於不破宮、令奏事状。天皇大喜之。因乃令吹負拜將軍。是時、三輪君高市麻呂・鴨茂君蝦夷等、及群豪傑者、如響悉會將軍麾下。乃規襲近江。撰衆中之英俊、爲別將及軍監。庚寅、初向乃樂。 

注2 「寺名(てらな) ‥‥‥ 私は、寺院の所在を示す漢風寺号「山号」に相当する「邑号」ともいうべき和風寺号を、漢風の「寺号(じごう)」と区別して「寺名(てらな)」と呼んでいます。これは学術用語ではありません。このブログ内で使用しているだけのものとご承知おきください。また、この呼び方に倣えと言うつもりもありません(誤解無き様に)。

2023年1月27日 (金)

倭国一の寺院「元興寺」(7)―太宰府にあった傍証―

倭国一の寺院「元興寺」(7)
太宰府にあった傍証[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究]

 この「倭国一の「元興寺」」シリーズの第一回 『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院 ―2023年1月1日(日) で、次のような論理で「元興寺が太宰府にあった」としました。
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葦北津~太宰府~対馬
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 上図が百済人の本国送還のルート(赤線)の想定です。この道中のどこかに百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院である「元興寺」があったと考えられます。なぜ「対馬に至ってから留まりたいと願い出た」のでしょうか。「元興寺が対馬にあった」とも考えられますが、百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院を国境となっている対馬に造営するとは考え難いでしょう。むしろ、対馬(倭国)を離れれば「二度と元興寺でお勤めする機会はない」という切迫した感情が「帰国ではなく在留」を決断させたのではないでしょうか。「対馬に至って」の理由はこれだと私は読み解きました。

 さすれば、結論は決まってきます。「元興寺」は倭国の首都(太宰府)に在ったことになります。倭国一の寺は倭国の首都に造営されるのが当然だと私は考えます。
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 私自身、「この理屈で万人が納得する」とは思えませんでした(ああも言えればこうも言える理屈=論証できていなかった)。今回、「元興寺」が太宰府にあった論理的傍証を見つけましたので報告いたします。

 

寺院の建立場所

 寺院の建立場所に地理的な条件は特にありません。人里離れた山奥にも里村の中にも建てられています。道がない場所でさえ武蔵国分寺のように「参道」で繋いでいます。つまり、建立時の事情にさえ合えば、寺院はどこにも建てられます。
参道を付けた寺院のイメージ
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「元興寺」の曲がった外郭

 次の図をご覧ください。「南大門」から出た外郭が屈曲しています。
「元興寺」の曲がった外郭
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 この外郭の曲がりは以前から気になっていましたが、やっとその理由(わけ)に気づきました。

 参道さえ付ければどこにでも建てられる寺院が、南大門から出た外郭にこのような屈曲を付けなければならない理由はただ一つだけなのです。

 

大路に面した寺院

 寺院が「大路」に面していた場合、まっすぐな外郭に「南大門」を付けると次のようになります。
真っ直ぐな外郭に付いた「南大門」
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 当たり前ですが、これでは交通の妨げになりますので、少なくとも次の位置まで「南大門」を寺地内に下げる必要があります。

Photo_20230127160701 

 「元興寺」が太宰府にあった傍証とは、「元興寺」が「大路」に面して建てられていたことを「屈曲した外郭」(「南大門」の位置)が示している、ということです。

 「いや、平城京だからじゃないか。」という反論が成り立つでしょうか。それは成り立ちません。なぜなら、九州(葦北津~対馬までの百済人送還ルート上)に平城京はありません。九州で「条坊都市」と言えるのは「倭京(太宰府)」だけだからです。私は寡聞にして九州の「条坊都市」は「太宰府」しか存じませんが、この百済人送還ルート上で太宰府以外の「条坊都市(遺構)」の存在をご存じであればご教示くださるようお願いいたします。

 

塔の景観を損なう「南大門」

 上図は「元興寺」の伽藍配置(復原図)とは「南大門」の位置に違いがあります。すこしテーマから外れますが、その理由を検討します。

 上図では、寺院の前(すなわち「南大門」の前)に立った人が塔を仰ぎ見た時、「南大門」が塔を覆い隠す状態になります(青色で示した塔の視野角に「南大門」が入り込んでいます)。
塔の景観を損なう「南大門」
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塔の景観を重視した伽藍配置
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 「元興寺」の「南大門」は、塔の景観を重視して位置決めされていると考えられます。大路から寺地に入る位置(「南大門」の前)に立って塔を仰ぎ見る視野の妨げにならない位置に「南大門」が置かれていることがわかります。「南大門」を通り抜けて「中門」との中間地点でも「南大門」が妨げになっていません。つまり、礼拝が終わって「中門」を通り抜けた時にも塔を仰ぎ見る視野の妨げにならない位置に「南大門」が置かれているのです。

 

妄想が暴走

 ここまで解明してみると、次のような妄想の暴走が起きました。

太宰府にあった倭国一の「元興寺」は「七重塔の双塔」ではなかったか?

「高市大寺(藤原京の大官大寺)」も、その前身の「百濟大寺」も「九重塔」でした。「九重塔」があるのに倭国一の「元興寺」が五重塔であったのだろうか。「七重塔」を建てよという聖武詔勅は、倭国一の「元興寺」が「七重塔」であったからではなかったか。妄想は妄想としてとっておきましょう。

 次回は「元興寺伽藍配置」ではなく「元興寺伽藍配置」の仮説を述べる予定です。

倭国一の寺院「元興寺」(6)―「元興寺の伽藍配置」―

倭国一の寺院「元興寺」
―「元興寺の伽藍配置」―[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究]

【訂正のお知らせ(2023/01/27)】
「元興寺伽藍配置」と題する次図は「元興寺伽藍配置(復元図)」の誤りでしたので、図を差し替えました。
Photo_20230127115001
【訂正のお知らせ】終わり



 倭国一の寺院「元興寺」(5)―伽藍配置の復原―2023年1月19日(木)は、次の事実から、倭京(太宰府)の「元興寺」は縦型の回廊をもつ古式寺院の特徴を備えているとし、内郭の縦横比は3:2の比率を持っていたとし、その様式をそのまま大安寺に移したとして、復原を試みたものです。また、それを検討する中で、塔の心々間距離が内郭の縦の長さと同じであったため、塔も道慈の「修造」前はその距離で倭京(太宰府)あるいは平城京(左京六条四坊)に建っていたであろうとしました(「双塔」で「新式」!)。

「法興寺(ほうこうじ)」(飛鳥寺(あすかでら))を平城京に移した「新元興寺」(注1)の伽藍配置が「「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」」であること
② 倭京(太宰府)に存在した倭国一の寺院「元興寺」を平城京に移築した「大安寺」も「新元興寺」と同じ「縦型」であること。
「大安寺」の「南大門」(注2)と「中門」の間が狭いので「古式寺院」(注3)とみられること

元興寺の伽藍配置(復原図)
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一部分、外郭の屈曲を左右対称になるように、修正しています

 縦横3:2の比率がこんなにもドンピシャリと適合するとは、思ってもいませんでした。しかも、内郭(回廊基壇)の外側で当てはまるのは「信濃国分寺」の「〇〇寺」(尼寺)と同じなのですから驚きました。復原に用いた図は、奇しくも森郁夫氏の「わが国古代寺院の伽藍配置」の「挿図9 大安寺伽藍配置図1:2500」(26頁)でした。
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これは国立国会図書館デジタルコレクションからダウンロードできます。皆さん自身で確認できるでしょう。 

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注1 「法興寺」(飛鳥寺)を平城京に移した「新元興寺」 ‥‥‥ 『続日本紀』養老二年(七一八)九月甲寅〔23日〕条に「法興寺を新京に遷す。」(原文「甲寅、遷法興寺於新京。」)とあります。
 霊亀二年(七一六)五月に「元興寺」を倭京(太宰府)から平城京左京六条四坊に大安寺として移築した(「元興寺」が消滅した)ので、養老二年(七一八)九月に「法興寺(飛鳥寺)」を移して「元興寺」を名乗れたわけです(この順序関係は重要です)。次のブログ記事に詳しく述べています。
平城京の大官大寺(2)―「元興寺」が移築された―2022年2月7日(月) 

注2 「大安寺」の「南大門」 ‥‥‥ このもと倭京にあった「元興寺」の「南大門」は、『続日本紀』霊亀二年(七一六)五月辛卯〔16日〕条に「始めて元興寺を左京六条四坊に徙(うつ)し建(た)つ。」(原文「始徙建元興寺于左京六条四坊」)段階では文字通り「南大門」でした。しかし、「702年(大宝2年)第八次遣唐使船で唐へ渡り[1]、西明寺に住して三論に通じて、仁王般若経を講ずる高僧100人のうちの一人に選ばれた。718年(養老2年)15年に渡った留学生活に幕を閉じ、第九次遣唐使の帰りの船で帰国した[1]」(Wikipedia「道慈」より)道慈が「塔院(双塔)」を七条四坊(左京六条四坊の大安寺が面した六条大路を挟んだ南ブロック)に修造した時点で「南大門」が新造されたので、もとの「南大門」を「南中門」と呼ぶことになったものです。

大安寺の「南中門」(元興寺の「南大門」)について、詳しくは次のブログ記事をご覧ください。
“大安寺式伽藍配置”は無かった ―大安寺“南大門”、塑像の証言―2017年7月10日(月)
平城京の大官大寺(1)―南中門の塑像―2022年2月7日(月)
道慈の「修造」については次のブログ記事をご覧ください。
平城京の大官大寺(4)―道慈による「修造」―2022年2月9日(水)

注3 「古式寺院」 ‥‥‥ 「寺地」(寺の所有地)を伽藍地(聖なる施設を配置する区域)として囲う大溝・生垣・塀等を「外郭」(どんなもので囲うかは一定していません)、外郭内をさらなる聖なる区域として囲う回廊・築地塀等を「内郭」と呼んでいます。外郭内が「寺院」で、内郭内が「寺院中枢」です。
回廊等で囲った寺院中枢に塔を置く寺院を「古式」、内郭外に塔を置く寺院を「新式」と呼び分けています。
「古式寺院」には中軸線(中門心を通り内郭を東西に二分する南北線)上に中枢伽藍を配置する「縦型」と、中軸線と直行する東西線上に中枢伽藍を配置する「横型」とがあります。「古式寺院」の内郭は、「縦型」が3:2、「横型」は2:3の縦横比率を採るのがほとんど(例外は少数)です。
 「古式」は、塔を内郭内に配置しているため、南大門(外郭の入り口)と中門(内郭の入り口)の距離が狭いという特徴があります。ほとんど、この特徴で判別可能です。
古式寺院例(縦型「四天王寺」と横型「法隆寺(西院)」)
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2023年1月19日 (木)

倭国一の寺院「元興寺」(5)―伽藍配置の復原―

倭国一の寺院「元興寺」
伽藍配置の復原[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究]

 先のブログ記事 倭国一の寺院「元興寺」(4)―名前のない伽藍配置―2023年1月14日(土)で、つい次のように述べました。
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(前略)①「新元興寺」(平城京に移築した法興寺)が「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」であること、②古式寺院の縦型回廊は縦横3:2の比であることから、「元興寺式伽藍配置」の回廊も縦横3:2の比であると考えられます。ただ、回廊が金堂を囲っていることから、塔(おそらく五重塔)は回廊外の東側に置かれたと考えられます。回廊は当初は単廊で後には複廊となったかもしれません。
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 これでは単なる「憶測」(つまり妄想)にすぎません。事実を確認する必要があります。そこで、倭国一の寺院「元興寺」を太宰府から移築した大安寺(平城京の大官大寺)の遺跡を検討してみると、次のことが判明しました。

(1)元興寺を移築した大安寺の伽藍配置も「新元興寺」と同じ①「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」でした。
(2)大安寺の伽藍配置も、回廊基壇(外側を測定)信濃国分寺遺跡の〇〇寺(尼寺)と同じ②縦横3:2の比(古式寺院の縦型回廊)でした(復原図をご覧下さい)。
(3)大安寺の塔院(東西両塔)の塔心々間距離が縦型回廊基壇(外側を測定)と一致していました。すなわち、大安寺は元興寺をそのまま移築したと仮定すると(後に道慈による「修造(塔の移築)」があったとしても)、元興寺の塔は双塔であった可能性が高い(つまり「塔(おそらく五重塔)は回廊外の東側に置かれた」という考えは間違いの可能性が高い)。

元興寺の伽藍配置の復原図
Photo_20230119130601

 この大安寺の伽藍配置については以前のブログでも検討していました。多少見解を修正しましたが、参考になさっていただければ幸いです。
平城京の大官大寺(3)―古式伽藍配置の元興寺―2022年2月8日(火)
平城京の大官大寺(4)―道慈による「修造」―2022年2月9日(水)
平城京の大官大寺(5)―大安寺式伽藍配置は無かった―2022年2月11日(金)

参考図(信濃国分二寺)〇〇寺(尼寺)がこの「元興寺式伽藍配置」です(塔は不明ですが)
Photo_20230119131401
僧寺の方は「古式縦型寺院
」にみられる3:2の縦横比はありません(創建時期は〇〇寺より時代が降ることを示しています)。
また、五重塔跡(水色)は金堂院の中軸線と同方位ですが、七重塔跡(ピンク色)は「正方位(真北)」なのでこれが「聖武七重
塔」と考えられます。すなわち、僧寺は既存寺院に「七重塔」を建てて国分僧寺にしたと考えられます。
妄想「信濃国分僧寺・七重塔」考―聖武・七重塔はどっち?―2019年7月28日(日)

2023年1月14日 (土)

倭国一の寺院「元興寺」(4)―名前のない伽藍配置―

倭国一の寺院「元興寺」(4)
名前のない伽藍配置[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究] 

 このところ「元興寺」について論じてきましたが、その過程で、今まで悩んでいたことが解決しましたので、それを報告いたします。

 

きっかけ

 肥沼孝治さん(注①)を中心とする「国分寺」の共同研究(名称「多元的「国分寺」研究」)に参加していたころの話です。古代史の専門的知識を持たない私は、テーマを国分寺遺跡の「造営尺度」や「伽藍配置」を絞って調査・研究をしていました。

 そのテーマを選んだのは、森郁夫氏が論文「わが国古代寺院の伽藍配置」の末尾で「ただ鎮護国家を標榜して各国に造営された国分寺の伽藍配置は一定していない。今後の重要な課題である」と記していたことがきっかけでした。

 

一定していない国分寺の伽藍配置

 私たちには、伽藍配置が一定していない原因は当初からわかっていました。『続日本紀』天平13年(741)の年の聖武天皇の“国分寺建立の詔”には「「七重塔を造れ」ということは書いてあるが,「国分寺」という言葉はない。」と肥沼孝治さんがブログで発表した(注②)からです。すなわち“国分寺建立の詔”ではなく「七重塔建立の詔」だったのです。つまり、既存寺院に「七重塔」を建てればよかったわけです。既存寺院の伽藍配置も様々ですし、七重塔を建てる位置も各々異なりますから、「国分寺の伽藍配置は一定していない」結果になるのは当然なわけです。ただ、朝廷から「国分二寺図」が諸国に頒布されていますので、私は諸国国分寺の伽藍配置と「国分二寺図」の関係についてまとめてサークルに投稿(注③)しました。

 

名前のない伽藍配置様式

 諸国の国分寺の伽藍配置を調べていくうちに、「中門から発した回廊が金堂を囲って講堂の両妻にとりつく伽藍配置」の国分寺がかなりあると知りました。ところがこの伽藍配置様式に名前がついていないのです。
名前のない伽藍配置様式(信濃国分二寺の例)
Photo_20230114135701 
 私は、接近した二寺がある信濃国分寺が代表例になるのかなと思って、“(仮称)信濃国分寺式伽藍配置と言っていました。

 

正式名称が決まった

 誰もこの様式に名前を付けていないのなら、「早く付けたもん勝ち」です(笑)。

 信濃国分寺よりふさわしい寺院が見つかりました。「元興寺」です。正確に言えば「新元興寺」なのですが、「新元興寺」は解体移築した「元興寺」の伽藍配置をとったはずで、また移築先の大安寺の伽藍配置にも「元興寺」の伽藍配置の痕跡が認められますので、これは間違いないと言ってもいいでしょう。

 

元興寺式伽藍配置
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元興寺は飛鳥に創建された法興寺(飛鳥寺)に起源をもつ。平城遷都後の718年(養老2)法興寺を平城京左京四条・五条の七坊の地に移して元興寺と称し,飛鳥の法興寺を本元興寺と称した。奈良時代の元興寺の伽藍配置は,南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並び,回廊は金堂を囲んで中門と講堂を結ぶ。
(平凡社世界大百科事典 第2版より)
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 ここに「奈良時代の元興寺の伽藍配置は,南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並び,回廊は金堂を囲んで中門と講堂を結ぶ。」とあります。表現の仕方は異なりますが「中門から発した回廊が金堂を囲って講堂の両妻にとりつく伽藍配置」です。

 「倭国一の元興寺」を「わがもの」にするためには、「新元興寺」が「元興寺」を真似て造られるのは必然です。「倭国一の元興寺」の伽藍配置であったから多くの寺院がこの伽藍配置を採ったというわけです。

 

元興寺式伽藍配置の復原

 元興寺の伽藍配置は、移築された大安寺の伽藍配置を見ると、「南中門」(解体された元興寺の南大門)と中門の距離が極めて狭いことから「古式寺院」(正しくは塔が回廊外なので「新式寺院」だが、内郭比が3対2の古式。つまり、過渡期的新式の鏑矢)であったとわかります。また、①「新元興寺」(平城京に移築した法興寺)が「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」であること、②古式寺院の縦型回廊は縦横3:2の比であることから、「元興寺式伽藍配置」の回廊も縦横3:2の比であると考えられます。ただ、回廊が金堂を囲っていることから、塔(おそらく五重塔)は回廊外の東側に置かれたと考えられます。回廊は当初は単廊で後には複廊となったかもしれません。

元興寺式伽藍配置の復元図
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結語

 今後、私はこの伽藍配置を「元興寺式伽藍配置」と呼ぶことにしました。この伽藍配置に付ける様式名には「上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名」である「元興寺」が最も相応しいでしょう。また、この命名は「元興寺式伽藍配置」を採る寺院の創建年代の推定に資する(注④)のではないかと考えています。

(続く) 

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注① 肥沼孝治さん ‥‥‥ 古田史学の会会員。「肥さんの夢ブログ」主。ブログ「多元的「国分寺」研究サークル」の運営主。去年(2022/04/10)ブログ更新停止。
古田史学の会のHP新古代学の扉」の「HP内の検索エンジン」で「肥沼孝治」を検索していただくとたくさんヒットします。古田史学の深化に多大な貢献をされています。私が一番印象に残っているのは次の論稿です。
古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?古田史学会報108号2012年2月10日 

注② 肥沼孝治さんがブログで発表した ‥‥‥ 「国分寺」はなかった!2016年1月30日(土) 

注③ サークルに投稿 ‥‥‥ コメントで投稿したものを肥沼孝治さんが記事として掲載してくれました。
「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―2017年1月10日(火)
 お読み頂くのであれば、コメント版(↑)より当ブログ再掲版(↓)の方が読みやすいと思います。
「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―2021年10月5日(火) 

注④ 「元興寺式伽藍配置」を採る寺院の創建年代の推定に資する ‥‥‥ 国分寺式伽藍配置の前の時代に盛行した伽藍配置ではないかと推測した論考をいくつか書いています。
作業仮説:「伽藍配置の変遷過程」試論―“(仮称)プレ国分寺式”伽藍配置の時代があった―2017年7月30日(日)
「国分寺」伽藍配置の変遷試論(1)―「新式」寺院を更に分類したら―2021年2月11日(木)
これ()は肥沼孝治さんの肥さんの夢ブログにも取り上げて頂いています)。
名前のない伽藍配置様式の怪―“(仮称)信濃国分寺式伽藍配置”― 2021年11月17日(水)

2023年1月12日 (木)

倭国一の寺院「元興寺」(3)―異論の検討(その2)―

倭国一の寺院「元興寺」(3)
異論の検討(その2)―[論理の赴くところ][神社・寺院]

 前回(倭国一の寺院「元興寺」(2)―異論の検討(その1)―2023年1月10日(火))に「次回は「元興寺」の移築先を論じます。」と予告した通り、今回は「倭京(太宰府)に存在した 倭国一の寺院『元興寺』がどこに移築されたか」を考察します。

 

「法隆寺「ナンバー・ワン」」の主張

 「多元No172 Nov.2022 号」に掲載された川端俊一郎氏の論稿「法隆寺「ナンバー・ワン」」から一部を再掲します(全文は 倭国一の寺院「元興寺」(2)―異論の検討(その1)―2023年1月10日(火) に掲載してあります)。
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(I)上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名は「法興寺」の他にはない。日本書紀は蘇我氏が飛鳥に法興寺を造ったと言うが、飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。「ナンバー・ワン」の法興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。その法興寺を解体して遠く大和の斑鳩の里に運び、聖徳太子の法隆寺として組立変身させるのが新しい日本政府の事業となった。また法興寺の跡地には、詔により観世音寺が造られた。
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 この(I)に述べられている論点は次の五つです。

❶ 上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺は「法興寺」である。
❷ 飛鳥に実在するのは「元興寺」の遺構である。
❸ 「ナンバー・ワン」の法興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。
❹ 法興寺は斑鳩の里に移築されて法隆寺となった。
❺ 法興寺の跡地に観世音寺が建てられた。 

 論点❶と❸は、「法興寺」ではなく「元興寺」であると前回で論証しました。

 それを訂正すると次のようになります。

① 上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺は「元興寺」である。
③ 「ナンバー・ワン」の元興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。

 

飛鳥に実在する遺構

 川端氏は、「日本書紀は蘇我氏が飛鳥に法興寺を造ったと言うが、飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。」と断じています。そうでしょうか。
明日香村付近の航空写真(Google Earthに加筆)
Google-warth
水色の曲線が飛鳥川、黄緑の横線の長さが約800mです。

 現在の「明日香村」の範囲ほどには古代の「飛鳥」は広くはなく(注①)飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側に当たる…〔中略〕…平地にかぎれば南北1.6キロ、東西0.8キロほど」(岸俊男など)だったのです。

 「南北1.6キロ、東西0.8キロほど」の(飛鳥川の右岸(東側))「古代の飛鳥」を推定してみましょう。
 明日香村近辺の「寺」は次の通りです。
古代の「飛鳥」の地にある寺院(Google Earth による)
Photo_20230112171201
〇岡本寺(明日香村583)の大字は「岡」なので「飛鳥」ではないと考えられます。縁起には「「飛鳥岡本宮」(注②)ともいわれる旧蹟を伽藍とした」とあり、「もともとは飛鳥岡本宮と呼ばれるところにあった」とも伝えられています。「岡」(大字は「岡」)の本(ふもと)にあった宮なので「飛鳥岡本宮」と呼ばれ、宮の所在は「飛鳥」だったが、「岡」は「飛鳥」ではなかった、と考えられます。
 「岡と岡本は等しい」と主張する人は、「山と山本は等しい」とか「坂と坂本は等しい」とかを主張せねばならないでしょう。「飛鳥岡本」は「(大字)岡」と違う大字に属していて「(大字)飛鳥(小字)岡本」なのです。
飛鳥岡本のイメージ図
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〇橘寺(注③)(明日香村 532)の大字は「橘」なので「飛鳥」ではないと考えられます(飛鳥川の左岸(西側)でもある)。
〇川原寺(現在 弘福寺(ぐふくじ))(明日香村 川原1109)の大字は「川原」なので「飛鳥」ではないと考えられます(飛鳥川の左岸(西側)でもある)。
〇常谷寺(明日香村 1191)は後世の寺。大字は「岡」なので「飛鳥」ではないと考えられます。
〇香爐寺(明日香村 540)創建・由緒などは不詳。大字は「橘」なので「飛鳥」ではないと考えられます(飛鳥川の左岸(西側)でもある)。

 これらを直線(アバウトなやり方ですが)で除外していった結果が次の区域です。
古代の飛鳥に在った寺は「飛鳥寺」(法興寺)のみ
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 ご覧のように「古代の飛鳥」にあったのは「飛鳥寺」(法興寺)の遺構(注④)だけです。それは当然です。平地に造られた寺は所在を示す「山号」にかえて「邑()号」ともいうべき「〇〇寺(〇〇でら)」で所在を示したからです(だから一邑に同じ名の寺はありません。寺の呼び方―山号・院号・寺号―2023年1月 3日(火)をご覧ください)。

 

飛鳥寺は元興寺の遺構か

 川端氏の言う「元興寺の遺構」とは、養老二年(七一八)九月二十三日に法興寺を新京に遷して「元興寺」と称した(注⑤)ため、法興寺(飛鳥寺)を移した平城京(奈良市)の「元興寺」を「新元興寺」(注⑥) と称し、飛鳥(高市郡明日香村)の飛鳥寺(法興寺)を「本元興寺」と称することになった「本元興寺(飛鳥寺(法興寺))の遺構」を意味しているのでしょうか。

 もし、川端氏が「飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。」と言うのが「本元興寺の遺構」のことであるならば、「飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。」という表現は誤解を招きます。「飛鳥に実在するのは本元興寺(法興寺)の遺構である。」が正しい表現です。

 

元興寺は平城京に移築された

 川端氏の「法興寺は斑鳩の里に移築され法隆寺となった。」と断じています。そうでしょうか。

 川端氏が言う「法興寺」とは「元興寺」のことであると既に明らかになっていますので「❹ 元興寺は斑鳩の里に移築されて法隆寺となった。」と読み替えて検討します。残念ながらこれも間違っています。

 『続日本紀』霊亀二年(七一六)五月辛卯〔16日〕条に「始めて元興寺を左京六条四坊に徙(うつ)し建(た)つ。」とあります(原文「辛卯、〔…中略…〕。始徙建元興寺于左京六条四坊。」)。
 また『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』にも「移立元興寺于左京六條四坊」とあります。

 このことに関して、森郁夫『一瓦一説』(P.140)に驚くことが書かれていました。次の通りです。
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大安寺の造営工事は、『続日本紀』に「始めて元興寺を左京六条四坊に徒し建つ」とある霊亀二年(七一六)であることがほぼ確実視されている。ここに「元興寺」とあるのは、『続日本紀』の養老二年(七一八)五月十八日の「法興寺を新京に遷す」の記事によって誤りであることが周知の事実となっている。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 「周知の事実となっている。」とありますので、「一元史観」の通説(定説)なのでしょう。川端氏も森氏同様にこの通説(定説)に従っていると思われます。正しければ通説(定説)に従うことは間違っていません。しかし、この通説(定説)は「不当な原文改訂」の上に成り立っています。何人も認めざるを得ない間違いが原文にあれば、事実に従って原文を誤りとして改訂することはあってしかるべきです。しかしながら、何の根拠もなく「自説に都合が悪い」あるいは「自説に都合が良い」という理由で勝手に原文を改訂するのは科学的歴史学ではありません。

 

非科学的歴史学の宿痾

 私は「『続紀』や『元興寺伽藍縁起』を鵜呑みにしろ」と言っているのではありません。記録がそうなっているのであれば、その記録に沿って検討してみる。するとそこに矛盾があれば、どこが間違っているかを確かめた上で、原文の間違っている箇所に注を付して、注記中で改訂が必要な理由を明記する(検証可能にする)ことが正しい改訂方法だと思います。日本の古代史学界には改訂の正しい仕方が根付いていないように思われます。

 それはさておき、森氏が「周知の事実となっている。」と述べた通説(定説)が間違っていることを論証しましょう。

 

「元興寺」・「大安寺」・「新元興寺」・「本元興寺」

 『続紀』や『元興寺伽藍縁起』が「元興寺」を移したと記している場所「左京六条四坊」には「大安寺」(平城京の大官大寺)が今も存在します。すなわち、『続紀』や『元興寺伽藍縁起』によれば「大安寺」は元興寺を移築したものになります。この『続紀』や『元興寺伽藍縁起』が「元興寺を左京六条四坊に移した」とする記述が正しいこと(通説(定説)が間違っていること)を論証しましよう。 

 「元興寺」が三寺登場します。混乱を避けるため、「太宰府の元興寺」を単に「元興寺」と、「法興寺」を平城京に移した元興寺を「新元興寺」と、飛鳥に残った「法興寺」を「本元興寺」と呼ぶことにします。

 次は、『日本書紀』・『続日本紀』・『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』などの記録による年表です。

年月日など

元興寺

大安寺・大官大寺

新元興寺

本元興寺(法興寺)

和銅四年(七一一)

 

藤原京大官大寺焼亡

 

 

霊亀二年(七一六)五月辛卯

始徙建元興寺于左京六条四坊

(元興寺消滅)

始徙建元興寺于左京六条四坊

(平城京大官大寺)

 

 

養老二年(七一八)九月甲寅

 

 

遷法興寺於新京

(新元興寺)

遷法興寺於新京

本元興寺)

 ご覧の通り、どこにも矛盾はありません。

(1)藤原京(高市郡)の大官大寺が焼亡してしまった(大官大寺が無くなった)。
(2)元興寺を移して大安寺(平城京の大官大寺)とした(元興寺が無くなった)。
(3)法興寺を平城京に移して「新元興寺」とした(元興寺ができた)。
(4)飛鳥に残った法興寺を「本元興寺」と呼ぶことになった。

ここに「元興寺」とあるのは、『続日本紀』の養老二年(七一八)五月十八日の「法興寺を新京に遷す」の記事によって誤りである」とどうして言えるのでしょうか(アタオカでしょう)。
平城京左京六条四坊の位置
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日本国(大和王朝)の事業

 川端氏はこのように言っています。
その法興寺を解体して遠く大和の斑鳩の里に運び、聖徳太子の法隆寺として組立変身させるのが新しい日本政府の事業となった。

 私はこう言いましょう。
倭国一の元興寺を解体して遠く大和の平城京に運び、①平城京の大官大寺(大安寺)を造り、②倭国一の元興寺(九州王朝の元興寺)を消滅させて、大和一の法興寺を移して大和王朝の元興寺(新元興寺)を手に入れるのが新しい日本政府の事業となった。

 動機はこれなのです。倭国にとって代わった日本国には「元興寺」が必要だったのです。
 法興寺では役不足なのです。その理由は、妄想「元興寺」考―なくせない寺「元興寺」―2018年2月2日(金)をご覧ください。 

(続く)

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注① 古代の「飛鳥」は広くはなく ‥‥‥ 

飛鳥時代当時に「飛鳥」と称されていた地域は、飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側に当たるあまり広くないところ(平地にかぎれば南北1.6キロ、東西0.8キロほど)と考えられている(岸俊男など)。
今日では飛鳥川の上流(橘寺一帯)や下流(小墾田宮・藤原京一帯)、更には飛鳥時代には「檜隈(檜前)」と称された高取川流域地域までを含み[4]、行政区域的には明日香村一帯、あるいは人によってはその近隣までを含んで飛鳥と指し示すこともある。
」(Wikipedia「飛鳥」より抜粋) 

注② 「飛鳥岡本宮」 ‥‥‥ 私見ですが、明日香村(大字)岡にある「飛鳥京跡」は「飛鳥岡本宮」ではないと考えます。飛鳥は狭く大字「飛鳥」と呼ばれる範囲が「古代の飛鳥」だと考えます。
岡本宮(おかもとのみや)は、7世紀の舒明天皇及び斉明天皇が営んだ宮。舒明天皇の岡本宮は飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)、斉明天皇の岡本宮は後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)と区別して呼称される。両者とも奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったとされている。」(Wikipedia「岡本宮」より抜粋)
飛鳥京跡は、6世紀末から7世紀後半まで飛鳥の地に営まれた諸宮を中心とする複数の遺跡群からなる都市遺跡であり、宮殿のほか朝廷の支配拠点となる諸施設や飛鳥が政治都市であったことにかかわる祭祀施設、生産施設、流通施設などから構成されている。具体的には、伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)を中心に、川原寺跡、飛鳥寺跡、飛鳥池工房遺跡、飛鳥京跡苑池、酒船石遺跡、飛鳥水落遺跡などの諸遺跡であり、未発見の数多くの遺跡や遺構をふくんでいる。遺跡全体の範囲はまだわかっておらず、範囲特定のための発掘調査も行なわれている。
飛鳥宮は複数の天皇が代々宮を置き、または飛鳥内の別の地に遷宮をしたことにより、周辺施設とともに拡大して宮都としての機能を併せ持った。これは後に現れるような、建設当初から計画され固定化する宮都(藤原京)への過渡的な都市であったことを示している。」(Wikipedia「飛鳥京跡」より抜粋) 

注③ 橘寺 ‥‥‥ 本尊は聖徳太子で、正式名は「仏頭山上宮皇院菩提寺」というそうです。
橘寺(たちばなでら)は、奈良県高市郡明日香村橘にある天台宗の寺院。山号は仏頭山。本尊は聖徳太子。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、橘寺という名は垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。観音堂は新西国三十三箇所第10番札所で本尊は如意輪観音である。」(Wikipedia「橘寺」より抜粋) 

注④ 「飛鳥寺」(法興寺)の遺構 ‥‥‥ 法興寺中金堂跡に今も残る旧坊(安居院)だけが現存しています。飛鳥寺(法興寺)は、『日本書紀』によれば、崇峻天皇元年(五八八)是歳条に、蘇我馬子が飛鳥衣縫造祖樹葉の家を壊して法興寺を作り始めるとあります(原文「蘇我馬子宿禰、[言靑]百濟僧等、問受戒之法。以善信尼等、付百濟國使恩率首信等、發遣學問。壞飛鳥衣縫造祖樹葉之家、始作法興寺。此地名飛鳥眞神原。亦名飛鳥苫田。」)。推古天皇四年(五九六)四年十一月に法興寺が完成し、大臣男善德臣を寺司に任命し、この日に慧慈・慧聰の二僧が法興寺に住み始めたとあります(原文「四年冬十一月、法興寺造竟。則以大臣男善德臣拜寺司。是日慧慈・慧聰、二僧、始住於法興寺。」)。 

注⑤ 養老二年(七一八)九月二十三日に法興寺を新京に遷した ‥‥‥ 『続日本紀』に次のようにあります。
《養老二年(七一八)九月》
甲寅、遷法興寺於新京。
〖読み下し文〗
養老二年(七一八)九月甲寅〔23日〕、法興寺を新京に遷す。
元興寺は飛鳥に創建された法興寺(飛鳥寺)に起源をもつ。平城遷都後の718年(養老2)法興寺を平城京左京四条・五条の七坊の地に移して元興寺と称し,飛鳥の法興寺を本元興寺と称した。奈良時代の元興寺の伽藍配置は,南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並び,回廊は金堂を囲んで中門と講堂を結ぶ。」(平凡社世界大百科事典 第2版より) 

注⑥ 新元興寺 ‥‥‥ 平城京の元興寺(「新元興寺」)の禅室南面と極楽堂西面の屋根には、法興寺創建当初の軒平瓦が使われています(色が斑(まだら)になっています)。軒丸瓦には段差が付いた玉縁式と段差のない行基式があります。
右手は新元興寺の極楽堂の屋根、左手はその西側に建つ国宝・禅室の屋根
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法興寺の盛衰と三つの元興寺
 平城京の官寺は平安京遷都後朝廷の庇護が弱り次第に衰微していくが、当寺院も同じ道を歩む。そしてその衰退が決定的になったのは室町時代の宝徳3年(1451)10月14日土一揆によって出火し、主要堂宇のほとんどが焼失してしまったことである。焼け残ったのは、五重塔、観音堂、極楽坊のみであった。その後金堂が再建されるがこれも台風により倒壊し、その後一つの伽藍として再興されることなく寺地は荒廃した。そこに町家が次第に進出し始め、元興寺は進出した町家の中に埋もれるように観音堂・五重塔、焼失後仮堂を建て復興に努めた小塔院、極楽坊の三つに分かれ存続することとなった。そして、この三寺の中で東大寺より支援を受けた五重塔を擁した観音堂が元興寺を称した。」(Webサイト 元興寺/1.所在地/(1)法興寺の盛衰と三つの元興寺 より抜粋)
元興寺(がんごうじ)は、奈良県奈良市にある寺院。南都七大寺の1つ。
蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内に移転した寺院である。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、次の3寺院が分立する。
1.元興寺(奈良市中院町)
旧称「元興寺極楽坊」、1978年(昭和53年)「元興寺」に改称。
真言律宗、西大寺末寺。本尊は智光曼荼羅。元興寺子院極楽坊の系譜を引き、鎌倉時代から独立。本堂・禅室・五重小塔は国宝。境内は国の史跡「元興寺極楽坊境内」。世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産の1つ。
2.元興寺(奈良市芝新屋町)
華厳宗、東大寺末寺。本尊は十一面観音。元興寺五重塔・観音堂(中門堂)の系譜を引く。木造薬師如来立像は国宝。境内は国の史跡「元興寺塔跡」。
3.小塔院(奈良市西新屋町)
真言律宗。本尊は虚空蔵菩薩。元興寺小塔院の系譜を引く。境内は国の史跡「元興寺小塔院跡」。(Wikipedia「元興寺」より抜粋)

2023年1月10日 (火)

倭国一の寺院「元興寺」(2)―異論の検討(その1)―

倭国一の寺院「元興寺」(2)
異論の検討(その1)[論理の赴くところ][神社・寺院]

始めに

 『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院―2023年1月1日(日) で、次のとおり予告しました。
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…(前略)…『元興寺』は倭京(太宰府)に存在した 倭国一の寺院 であった。
続く
 次回は、この読解に立ちふさがる問題点を論じたいと考えています。
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 今回は、「倭国一の寺院」は「元興寺」ではない、と言う意見(異論)について考察します。

 論じるにあたり論点を複雑にしないために、前提とする事項を明確にしておきます。次の通りです。

(1)「倭国一」というのは「道人等十一、皆請之欲留。乃上表而留之。因令住元興寺。」の記事の日付「推古天皇十七年(六〇九)五月」の時点のこととします。

(2)「『倭国』一」の「倭国」というは、「推古天皇十七年(六〇九)五月」の時点〔(1)〕のことですから、701年に「大寶(大宝)」を建元して建国した「大和王朝」(注①)ではなく、「大長九年」(712)まで存続した「九州王朝」(注②)のことです。

 

異論1

 ブログ記事 『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院― を執筆中のとき、折しも「多元No172 Nov.2022 (「多元的古代研究会」会誌)が届きました。その④~⑤頁に『法隆寺のものさし』(注③)の著者 川端俊一郎氏の論稿「法隆寺「ナンバー・ワン」」が掲載されていました。

 今回は、この「法隆寺「ナンバー・ワン」」を「この読解(『元興寺』は倭京(太宰府)に存在した 倭国一の寺院 であった。)に立ちふさがる問題点」として取り上げてみようと思います。

 

川端氏の論稿

 川端氏は、法隆寺が倭国ナンバー・ワンの寺院であるとする論拠を、次のように示されています(「多元No172 Nov.2022 号」より転記。下線(注記)は山田による)。伽藍配置については ポピュラーな伽藍配置2018年5月16日(水) をご覧ください。

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法隆寺「ナンバー・ワン」

札幌市 川端俊一郎

(A)聖徳太子の四天王寺は推古元年、五九三年「始造」というが、創建当時のものは何も残っていない。ただ伽藍配置は当初のものを伝えている。六七〇年に焼失したという法隆寺の焼け跡(注④)からは四天王寺と同じ伽藍配置が発掘された。

(B)今の法隆寺は、その焼け跡を整地した上に建っているが、寺材は焼失より七五年も前の五九四年に伐採されている(年輪年代測定法2001)。今の法隆寺は現在地での新築再建ではなく古寺の移築であった。その伽藍配置も四天王寺とは違っている。

(C)移築再建は焼失四十年後である。真福寺「七大寺年表」の和銅元年、七〇八年に、詔により観世音寺を造るに続けて一言「作法隆寺」とある。また東寺王代記の和銅二年の勅修観世音寺の翌年に或る記に言うとして一言「法隆寺建立」とある。古寺の移築がすめば、観世音寺の営造である。

(D)再建法隆寺の伽藍配置は観世音寺遺構とは違っている。観世音寺の金堂は仏舎利塔の西にあって東面し、本尊は東の塔と向き合っているが、再建法隆寺の金堂は塔の東にあって南面し、本尊は西の塔の方を向いていない。

(E)金堂本尊の光背(注⑤)には何故か焼失法隆寺の造作経緯が刻されている。用明天皇の悲願「病太平」のための「造寺」と「薬師像作」は「小治田宮」の天皇(推古)と「東宮聖王」が六〇七年になしとげたという。焼失法隆寺の本尊は薬師像であった。移築されてきたのは釈迦像なので、その光背に薬師像の故事を刻し「薬師如来」と通称している。

(F)ところが、天福元年(1233)、本尊の東にあった釈迦三尊像の天蓋が落下して光背が曲がり周縁の飛天も飛び散った(注⑥)。その修理を機に、やや大きめの三尊像を中央に移して本尊とし、やや小さめの釈迦像と入れ替え、それを「根本本尊」とした(注⑦)

(G)この釈迦三尊像は移築後に金堂に運び込まれたもので、元からあった像ではない。光背銘によると、五九一年に仏法を興し元めて三二年に「上宮法皇」が急逝し、その「往登浄土」を願って釈迦三尊像が造られ翌年完成した。それは金堂に押し込むのではなく、別に八角の仏堂を造って安置した。しかしその夢殿を移築するとき、釈迦三尊像は金堂に運び込まれ、本尊の右にあった「上宮王等身木像」(救世観音)と入れ替えられた(注⑧)

(H)この上宮法皇も聖徳太子も同一人物だとするのは太子信仰であろう。しかし聖徳太子は「ナンバー・ツー」で上宮法皇こそ倭国九州王朝の「ナンバー・ワン」だから、両者は決して同一人物ではありえないと看破したのは古田武彦である(『古代は輝いていたⅢ』1985)。

(I)上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名は「法興寺」の他にはない。日本書紀は蘇我氏が飛鳥に法興寺を造ったと言うが、飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。「ナンバー・ワン」の法興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。その法興寺を解体して遠く大和の斑鳩の里に運び、聖徳太子の法隆寺として組立変身させるのが新しい日本政府の事業となった。また法興寺の跡地には、詔により観世音寺が造られた。

(J)その旧観世音寺跡の礎石にも現法隆寺と同じ南朝尺二四五㎜での営造が認められる。太宰府政庁正殿の礎石間隔は一等材(一尺二寸)の倍数である。現法隆寺は二等材(一材は一尺一寸)、旧観世音寺は三等材(一材は一尺)である。「材」とは、ある建物で共通に使用する同一規格の角材の大きさを断面の高さで表す尺度で大小八等あり柱間隔などは材の倍数で示す。

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(はじめ)に法を興した古寺の名は

 川端氏は(I)で「上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名は「法興寺」の他にはない。」と断じていますが、そうでしょうか。寺号から検討してみましょう。Wikipedia「元興寺」には次のような一文があります。
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「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。
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 なるほど、このWikipediaの筆者には「一日(ついたち)」も「元日(がんじつ)」も同じ意味のようです。川端氏も同じ見解なのでしょうか。

 

 「法興寺」とは「法(仏法)を興す寺」という意味です。「法興寺」という寺号の「興」という漢字には「元(はじめ)に」という意味は全くありません。漢字の辞書を引いてみましょう。

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北京商務印書館編『新華字典【改訂版】』(東方書店、2000225日、日本版改訂版第1刷)P.544

xing1

❶挙辧,発動;~工.~利除弊.~修水利.❷起来:夙~夜寝(早起晩睡).聞風~起.❸旺盛((連)―盛、―旺)。[興奮]精神振作或激動。❹流行,盛行:時~.❻<方>或許:他~来,~不来.❼姓
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 「法興寺」の「興」という漢字は「盛行」(盛んにする・流行らせる)という意味で、何度も言いますが、「興」という漢字には「元(はじめ)に」と言う意味は全くありません。それは「蓮如は本願寺中興の祖。」などという言葉があることからも自明です。 

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北京商務印書館編『新華字典【改訂版】』(東方書店、2000225日、日本版改訂版第1刷)P.602

yuan2

開始,第一((連)―始):~旦.~月.~年.[元素]在化学上,具有相同核電荷数的同一類原子的総称。現在已知的元素有112種。[元音]発音時候,従肺里出来的気使声帯顫動,在口腔的通路上不受阻碍而発出的声音,也叫“母音”。拼音字母 a,o,u等都是元音。❷為首的:~首.~帥.~勲.❸構成一個整体的:単~.~件.❹朝代名(公元1278-1368年)。公元1206年,蒙古孛儿只斤・鉄木真称成吉思汗。1271年,国号改為元。1279年滅南宋。❺同“圓❹”
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  ご覧のように、「元興寺」の「元」という漢字こそが「開始・第一」という意味なのです。すなわち、川端氏は上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名は「元興寺」の他にはない。と言わねばならなかったのです。つまり、川端氏は開始・第一」の意味で「法興寺」としている箇所を「元興寺」に置き換えなければならない、ということになります。

 川端氏は(I)で、「「ナンバー・ワン」の法興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。」と述べています。漢字の意味から「上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名は「元興寺」の他にはない。」と明らか(「元」=「開始・第一」=「ナンバー・ワン」)になったのですから、前述の川端氏の見解は「「ナンバー・ワン」の元興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。」と「法興寺」を「元興寺」に置き換えねばなりません。となれば、川端氏も私の読解「『元興寺』は倭京(太宰府)に存在した 倭国一の寺院 であった。」に同意いただけると思います(どのように読解したかは 『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院―2023年1月1日(日) に示してあります)。

 (し)(いは)く、過(あやま)ちて改(あらた)めざる、是(これ)を過(あやま)ちと謂(い)(原文「子曰、過而不改、是謂過矣。(『論語』衛霊公第十五29)) 

(続く)

次回は「元興寺」の移築先を論じます。

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注① 「大和王朝」 ‥‥‥ 一般的(一元史観的)には「大和朝廷」とされていますが、「九州王朝」との対比のため、701年に「大宝」を建元して建国した王朝を「大和王朝」と呼ぶことにします。また、それ以前を「大和王権」と呼んだりします(私がそう呼んでいるだけです)。

注② 「大長九年」(712年)まで存続した「九州王朝」 ‥‥‥ 「大長」は704年から712年まで続いた最後の倭国年号(九州年号)です(古田史学の会の「九州年号総覧」による)。「大長九年」は日本国年号では「和銅五年」にあたります。 

注③ 『法隆寺のものさし』 ‥‥‥ 川端俊一郎著『法隆寺のものさし 隠された王朝交代の謎』(ミネルバ書房、2004年02月25日、ISBN 9784623039432
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注④ 六七〇年に焼失したという法隆寺の焼け跡 ‥‥‥ “若草伽藍”と呼ばれています。「四天王寺式伽藍配置」であったことが判明しています。
 『日本書紀』には天智天皇九年(六七〇)四月壬申〔30日〕条に、午前0時過ぎに法隆寺に火災が起きて全焼(一屋無餘)したとあります(原文「夏四月癸卯朔壬申、夜半之後、災法隆寺。一屋無餘。大雨雷震。」)。
 「若草伽藍(わかくさがらん)は、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺西院伽藍南東部の境内から発見された寺院跡である。創建時の法隆寺であると考えられることから、創建法隆寺とも呼ばれる。」(Wikipedia「若草伽藍」より抜粋) 

注⑤ 金堂本尊の光背 ‥‥‥ 金堂内陣の「東の間」に安置されている薬師如来像の光背です。銘文は次の通り。また、光背の銘文の「歳次丙午年」(推古天皇十五年(六〇七年)は後世のものとして否定されています。
創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。」(Wikipedia「法隆寺」より抜粋)
「像の制作年代および銘文の記された年代を文字どおり推古天皇15年(607年)とみなすことは福山敏男の研究以来、否定されており、実際の制作年代は法隆寺金堂「中の間」本尊の釈迦三尊像(推古天皇31年(623年))より遅れるものとみなされている。」(Wikipedia「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」より抜粋)
画像「”薬師如来像”の光背銘」(ダブルクオートで囲っているのは、「釈迦如来像」と見られるから)
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『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』
池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳
次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大
御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。然
當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王。大命受賜而歳次丁卯年仕奉
【文面の内容】
用明天皇が病気の時(用明天皇元年(586年))、平癒を念じて寺(法隆寺)と薬師像を作ることを誓われたが、果たされずに崩じた。のち推古天皇と聖徳太子が遺詔を奉じ、推古天皇15年(607年)に建立した。」(Wikipedia「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」より抜粋) 

注⑥ 法隆寺釈迦三尊像 ‥‥‥ 「一屋無餘」に焼失した法隆寺の仏像がこの世に存在するわけもなく、この釈迦三尊像は何処からか(不明)法隆寺の移築再建後に運び込まれたことになります。この釈迦三尊像の光背銘文が法興年号(九州年号)で記されており、人物名が大和王朝には該当がないことから、釈迦三尊像を造ったのは九州王朝であったことが明白です。古田史学では、この釈迦像は「阿毎多利思北孤の等身大像」というのが定説となっています。下記論文をご覧ください。
正木 裕「イ妥・多利思北孤・鬼前・干食」の由来(古田史学会報130号、2015年10月9日掲載)
阿部 周一「法隆寺」創建本尊について(ホームページ(最終更新2015/01/11)よりブログ 古田史学とMeに転載(2018年05月16日))
画像 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘
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【法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘文】(下線は山田による)
法興元丗一年歳次辛巳十二月
前太后崩明年正月廿二日上宮法

皇枕病弗悆干食王后仍以勞疾並
著於床時王后王子等及與諸臣深
懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋
像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安

住世間若是定業以背世者往登淨
土早昇妙果二月廿一日癸酉王后
即世翌日法皇登遐癸未年三月中
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
具竟乘斯微福信道知識現在安隠

出生入死随奉三主紹隆三寳遂共
彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁
同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造

・法興元年は591年ですので「丗一年」は621年です。法興は32年間で622年に終わります。
・「當造釋像尺寸王身」とあり「釈迦像を王の等身大に造った」ことになります。
・「願力轉病」とあります。倭国年号(九州年号)の「願轉」は601年~604年です。600年あたりに疫病が流行したのかもしれません(妄想です)。
・王后が亡くなった「(622)二月廿一日」の日干支「癸酉」が、金石文にあるわが国最古の日干支と思われます。
・「登遐」は天子・天皇・法皇につかわれますが、天子・天皇には(鬼前太后にも)「崩」と記されますので、「登遐」と記されているのは「法皇」であるためと思われます。
・翌年(癸未年623年(仁王元年)三月中)にこの像と光背が出来上がったとあります。
(読み下しの例)[40]
法興元丗一年、歳は辛巳に次(やど)る〔西暦621年〕十二月、鬼前太后崩ず。明年正月廿二日、上宮法皇、病に枕して弗悆(ふよ)。干食王后、仍(より)て以て労疾、並びて床に著(つ)く。時に王后王子等、諸臣及与(と)、深く愁毒を懷(いだ)き、共に相(あい)発願すらく、「仰ぎて三宝に依り、當(まさ)に釈像の、尺寸王身なるを造るべし。此の願力を蒙り、病を転じて寿を延べ、世間に安住せむ。若し是れ定業(じょうごう)にして以て世に背かば、往きて浄土に登り、早(すみやか)に妙果に昇らんことを」と。二月廿一日癸酉、王后即世す。翌日法皇登遐(とうか)す。癸未年〔623年〕三月中、願いの如く敬(つつし)みて釈迦尊像并(あわ)せて侠侍(きょうじ)、及び荘厳具を造り竟(おわ)る。斯の微福に乗じ、道を信ずる知識、現在安隠にして、生を出でて死に入り、三主に随(したが)い奉り、三宝を紹隆し、遂には彼岸を共にし、六道に普遍せる、法界の含識、苦縁を脱するを得て、同じく菩提に趣(おもむ)かむことを。司馬鞍首(しばのくらつくりのおびと)止利仏師をして造らしむ。」(〔 〕内は補注。)
」(Wikipedia「法隆寺金堂釈迦三尊像」より抜粋。ただし、大和王朝には該当者がいない人物名に無理やり「間人皇女」や「聖徳太子」や「膳妃」を当てる(一元史観による)補注は山田が削除しています。) 

注⑥ 天蓋が落下して光背が飛び散り ‥‥‥ 天福元年(1233)に釈迦三尊像の天蓋が落下して光背が飛び散ったという史料はネット検索では探せませんでした。 東の間の天蓋は天福元年(1233)の補作で、西の間阿弥陀像を造った運慶第四子、康勝が製作に関与しているとみられています。
 しかし、川端氏が言うように、「修理」したのであれば飛天が元通りに付けられたはずで、その後何らかの事情で外()れたとしても、法隆寺に一体の飛天(の破片すら)も残っていないのは不審です。飛天を取り外す理由があったのではないでしょうか(例えば、飛天の裏側に法隆寺にとって都合の悪い文字が書かれていたとか)。ただ、光背の周縁には枘穴(ほぞあな)が開いており、元は飛天が付いていたと考えるのは妥当です(飛天付きの光背はいくつも例があります)。
光背拓本画像(「法隆寺金堂釈迦三尊像 法隆寺資料彫刻編第1輯」に「→」を加工
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「当初、この大光背の周縁は “飛天” で飾られていて、枘穴は飛天を取り付けるための差し込み穴であったのだ。」(平子鐸嶺「法隆寺金堂本尊釈迦佛三尊光背の周囲にはもと飛天ありしというの説」明治40(1907)、考古界69号、後「仏教芸術の研究」に所収) 

注⑦ 「やや小さめの釈迦像」(“薬師如来像”のこと)と入れ替えて「根本本尊」とした ‥‥‥ 川端氏は、『聖徳太子伝私記(古今目録抄)』によって、本尊を大きさで入れ替えたとしていますが、「本尊を交替」したと仮定したとしても、交換した理由は川端氏の主張(大きい方を本尊にした)とは異なっていたのではないでしょうか。
鎌倉時代の法隆寺の学僧で、『聖徳太子伝私記(古今目録抄)』の著者である顕真もこの点を不審に思い、同書に「当初は薬師如来像が本尊であったが、釈迦三尊像の方が大きいので、後に交替して釈迦三尊が本尊になった」という意味のことを記している。しかし、寺の本尊が単に像の大きさのみで交替するということは常識的には考えにくい。また、釈迦三尊像の頭上に吊るされている箱形天蓋(飛鳥時代)の大きさが同像の台座とほぼ同じ大きさであることからみても、金堂「中の間」本尊は当初から釈迦三尊像であったとみるのが自然である[8]。」(Wikipedia「法隆寺金堂釈迦三尊像」より抜粋) 

注⑧ 夢殿を移築するとき、釈迦三尊像は金堂に運び込まれ、本尊の右にあった「上宮王等身木像」(救世観音)と入れ替えられた ‥‥‥ “救世観音像”は法隆寺夢殿の本尊です。
夢殿
西院の東大門をくぐると、広い参道の正面に東院伽藍が現われて、甍の上には見事な夢殿の宝珠が輝いています。ここは聖徳太子の斑鳩の宮の跡で、朝廷の信任厚かった高僧行信(ぎょうしん)が宮跡の荒廃ぶりを嘆いて太子供養の伽藍の建立を発願し、天平20年(748)に聖霊会(しょうりょうえ)を始行したとされる太子信仰の聖地であります。
高い基壇の上に立つ八角円堂の夢殿は東院の本堂で、天平創建の建築でありますが、鎌倉期の寛喜2年(1230)に大改造を受け、高さや軒の出、組み物などが大きく改変されているものの、古材から天平の姿に復元することもできるほど古様を残しています。法隆寺/法隆寺伽藍/夢殿より抜粋)
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法隆寺夢殿の本尊で,聖徳太子の等身の御影と伝わる観音菩薩立像。」(Wikipedia「救世観世音菩薩」より)
法隆寺の救世観世音菩薩像は、200年間公開されていなかった厳重な秘仏で、1884年(明治17年)、国より調査の委嘱を受けたアーネスト・フェノロサが、夢殿厨子と救世観音の調査目的での公開を寺に求め、長い交渉の末、公開されたものである。後に著作『東亜美術史綱』で像影の写真付きで公刊されている。回扉されると立ったまま500ヤード(約457メートル)の木綿の布で巻かれた状態で、解くとすごい埃とともに「驚嘆すべき無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり」と表現している[3]。」(Wikipedia「救世観世音菩薩」秘仏と公開 より)
 しかし、川端氏の主張(完成した釈迦三尊像は“夢殿”を造って安置されたが、夢殿の移築の際に金堂にあった“救世観音”と入れ替えられた、とする)の根拠となる史料は見当たりませんでした。
法隆寺東院夢殿 一棟
聖徳太子を追慕して創立された法隆寺東院の中心建物で、著名な救世観音を本尊とし、あわせて東院の創立と再興とに尽力した行信・道詮の像を安置する。この地は太子の住居であった斑鳩宮の跡地と伝えられていたが、昭和九年以降の修理工事にともなう発掘調査で、当時の掘立柱建物数棟を発見し、そのことが確認された。また、この調査では東院創立当初の回廊や南門の規模も判明した。
その創立を天平一一年(七三九)とする『法隆寺東院縁起』には多少の疑問ももたれるが、天平宝字五年(七六一)の『法隆寺東院資財帳』には夢殿以下各堂宇の記録があるから、少なくともそれ以前の建立であることはまちがいない。
堂は八角形の平面をもち、一般に八角円堂と呼ばれる。建立以来何回かの修理をうけてきたが、なかでも寛喜二年(一二三〇)の修理は大改造をともなったもので、今見る姿はほぼこの時に定まった。改造の主な点は、組物を一段分積み重ね、軒部材を新材にとりかえて軒の出を増し屋根勾配を強くしたなどで建立当初と比べると建物の建ちが高くなり、全体に鎌倉時代らしい武骨さが強まったといえる。
このように中世の改造はあるものの、当初形態の復原も可能で、栄山寺八角堂とともに奈良時代の円堂を今に見ることができるのは幸いである。なお、頂上の露盤宝珠は宝瓶に八角形に宝蓋や華麗な光明をともなったもので、世上著名な優作である。
【引用文献】

『国宝大辞典(五)建造物』(講談社 一九八五)」(文化遺産データベース「法隆寺東院夢殿 ほうりゅうじとういんゆめどの」より。下線は山田による。)
〔前略〕夢殿は八角円堂で,この形式は現存遺構は少ないが鎮魂の堂の役割をもつ例が多い。」(コトバンク 世界大百科事典 第2版「夢殿」の解説より抜粋)

2023年1月 3日 (火)

寺の呼び方―山号・院号・寺号―

寺の呼び方
山号・院号・寺号[論理の赴くところ][神社・寺院]

 管見では、寺院の呼び方(山号・院号・寺号)は次の通りと考えます。

 

「寺」とは

 「寺」とは、仏教の(布教や儀式を執り行うなどの)ために特別に供された場所(領域)です(古来は行政のための「役所」を「寺」と言いました(「鴻臚寺」(外交官署)))。

 

院号は施設を示す

 「寺」の領域内で、特定目的の施設を囲った区域を「院」といいます(塔を囲った「塔院」、金堂を囲った「金堂院」、戒壇を囲った「戒壇院」など)。「〇〇院」とは本来はどのような施設なのかを示すものでした。ここから「〇〇院」という寺の院号が発生しました(「普賢総持院」(教王護国寺))。

 

「寺院」とは

 「寺院」とは、「寺」(領域)と「院」(施設)の総称(まとめて呼んだもの)です。

 

山号は所在を示す

 「××山」という山号は、密教系の寺院の多くが山中に建てられたので、寺院の所在を示す目的で呼ばれました(比叡山(延暦寺)高野山(金剛峰寺)身延山(久遠寺)定額山(善光寺)など)。平野に建てられることが多いわが国では、山名ではなく邑名で所在を示しました(飛鳥寺(法興寺)〔斑鳩〕(法隆寺)など)。また、同じ村に寺が二つあれば「鵤僧寺(法隆寺)とか「鵤尼寺(中宮寺)とか呼んで区別しました。
 ちなみに、わが家の菩提寺は「磯村山釈迦寺」といいます(磯村にあります)。古代であれば磯村寺(いそむらでら)とか呼ばれたのかもしれませんね。

 

寺号は固有の識別名

 寺号((飛鳥寺)法興寺(鵤僧寺)法隆寺(高野山)金剛峯寺(定額山)善光寺など)は、寺院の「固有の識別名(unique identifier)」なので寺号が同じ寺はありません(仏教の規則として同じ名はつけられません。ただし、違う場所に建てられた「別院」は例外です)

2023年1月 1日 (日)

『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院 ―

『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く
倭国一の寺院[論理の赴くところ][神社・寺院]

はじめに

 大越邦生氏の論文「法興寺研究」(『市民の古代』第7集 古田武彦とともに 1985年)に沿って、『日本書紀』の記事から「元興寺」の在処を読み解いてみます。私見が混じっていますが、ご容赦ください。

 読み解く方法は、先のブログ記事 私の読解法―筆者の立場で考える―2022年12月18日(日)に掲げてあります。

 

読み解く記事

 まず、読み解く対象となる『日本書紀』の記事は次の二つです。

【原文・訓読文ともに岩波書店 日本古典文学大系68『日本書紀 下』より】
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《推古天皇十七年(六〇九)四月》
十七年夏四月丁酉朔庚子、筑紫大宰奏上言、百濟僧道欣・惠彌爲首、一十人、俗人七十五人、泊于肥後國葦北津。是時、遣難波吉士德摩呂・船史龍、以問之曰、何來也。對曰、百濟王命以遣於呉國。其國有亂不得入。更返於本郷。忽逢暴風、漂蕩海中。然有大幸、而泊于聖帝之邊境。以歡喜。

〖訓み下し文〗
十七年の夏四月(なつうづき)の丁酉(ひのとのとり)の朔庚子(つひたちかのえねのひ)〔4日〕に、筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)、奏上(まう)して言(まう)さく、「百濟(くだら)の僧(ほふし)道欣(だうこん)・惠彌(ゑみ)、首(このかみ)として、一十人(とたり)、俗人(しろきぬ)七十五人(ななそぢのあまりいつたり)、肥後國(ひのみちのしりのくに)の葦北津(あしきたのつ)に泊(とま)れり」とまうす。是(こ)の時(とき)に、難波吉士(なにはのきちし)德摩呂(とこまろ)・船史(ふなのふびと)(たつ)を遣(つかは)して、問(と)はしめて曰(い)はく、「何(なに)か來(まうこ)し」といふ。對(こた)へて曰はく、「百濟(くだら)の王(きし)、命(ことおほ)せて呉國(くれのくに)に遣(つかは)す。其(そ)の國(くに)に亂(みだれ)(あ)りて入(い)ることを得(え)ず。更(さら)に本郷(もとのくに)へ返(かへ)る。忽(たちまち)に暴(あら)き風(かぜ)に逢(あ)ひて、海中(わたなか)に漂蕩(ただよ)ふ。然(しか)るに大(おほ)きなる幸(さち)有りて、聖帝(きみ)の邊境(ほとりのさかひ)に泊(とま)れり。以(これをも)て歡喜(うれし)ぶ」といふ。
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《推古天皇十七年(六〇九)五月》
五月丁卯朔壬午、德摩呂等復奏之。則返德摩呂・龍、二人、而副百濟人等、送本國。至于對馬、以道人等十一、皆請之欲留。乃上表而留之。因令住元興寺。

〖訓み下し文〗
五月(さつき)の丁卯(ひのとのう)の朔壬午(ついたちみづのえうまのひ)〔16日〕に、德摩呂等(とこまろら)、復奏(かへりことまう)す。則(すなは)ち德摩呂(とこまろ)・龍(たつ)、二人(ふたり)を返(かへしつかは)して、百濟(くだら)の人等(ひとども)に副(そ)へて、本國(もとのくに)に送(おくりつかは)す。對馬(つしま)に至(いた)りて、以(も)て道人等(おこなひひとども)十一(とあまりひとり)、皆(みな)(ま)せて留(とど)まらむとす。乃(すなは)ち表上(まうしふみたてまつ)りて留(とど)まる。因(よ)りて元興寺(ぐわんごうじ)に住(はべ)らしむ。
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記事の経緯

 記事の経緯を箇条書きにすると次のようになります。

(1)百濟の僧道欣・惠彌を首(このかみ)とする一十人、俗人七十五人が、肥後國の葦北津(あしきたのつ)に漂着した〔漂着日不明〕。
(2)推古天皇十七年(六〇九)夏四月丁酉朔庚子〔4日〕に、筑紫大宰がそのことを〔朝廷に〕奏上した。
〔奏上先が推古天皇とは限らない。〕
(3)筑紫大宰の奏上をうけて、難波吉士(なにはのきちし)德摩呂(とこまろ)・船史(ふなのふびと)(たつ)の二人が肥後國の葦北津に遣わされた〔葦北津到着日不明〕。
(4)難波吉士德摩呂・船史龍が百濟の僧道欣・惠彌らに、「何故来たのか?」と問うと、「百濟王の命で呉國に遣わされたが、その國に亂〔戦乱〕が有って入国できなかった。本国へ返る途中で暴風に逢って、貴国の辺境に漂着しました。」と答えた〔尋問日不明〕。
(5)推古天皇十七年(六〇九)五月丁卯朔壬午〔16日〕、德摩呂等がこのことを〔朝廷に〕復奏すると、德摩呂・龍の二人を副えて百濟人等を本國〔百済〕に送り返すことになった。
(6)〔送還百済人一行が〕對馬に至る〔到着日不明〕と、道人等十一()が皆〔倭国に〕留まりたいと願った〔請願日不明〕。
(7)〔道人等十一〔人〕の請願を朝廷に〕上表すると留ることが許された〔上表して許された日不明〕。
(8)〔朝廷は道人等十一()を〕元興寺に住まわせた〔住み始めた日不明〕。

 

事柄の因果関係(A→B、AによってBが起きた。以下同順同様。)

 記事の経緯を起きた事柄の因果関係に分けると次のようになります。

.筑紫大宰は、百済人85人〔内訳省略〕が肥後國の葦北津に停泊したと、〔肥後國から〕報告を受けた。
. 推古天皇十七年(六〇九)夏四月丁酉朔庚子〔4日〕、筑紫大宰はそのことを〔朝廷に〕奏上した。
.〔朝廷は、〕筑紫大宰からの報告を受けて、難波吉士德摩呂・船史龍を肥後國葦北津に派遣した。
.〔葦北津に着いた〕德摩呂・龍は、百濟の首らに肥後國葦北津に「〔この地に〕来たわけ」を尋問した。
.百濟の首らは、〔德摩呂・龍の〕尋問に答えて、「目的地の呉國に戦乱があって入国できず、百濟に帰還する途中、暴風で遭難したが、幸いなことに貴国の辺境に漂着しました。」と答えた。
.推古天皇十七年(六〇九)五月丁卯朔壬午〔16日〕、德摩呂等は、〔百濟の首らの回答を、都に帰って朝廷に〕復奏した。
.〔朝廷は、〕德摩呂等を〔葦北津に〕返して、百済人達に付き添わせて本国(百済)に送還する〔ことにした〕。
.〔百済人を送還途中の德摩呂等一行が〕対馬に至ると、道人等十一()が〔帰国せずにこの国に〕留まることを願った。
.〔德摩呂等が道人等十一()の請願を〕上表し、留まる〔ことが朝廷に許された〕。
.〔朝廷は、道人等十一(人)を〕元興寺に住まわせた。 

 以上から次のことが確かめられます。
  1.都と肥後國の葦北津との間を行き来しているのは、難波吉士德摩呂・船史龍であること。
  2.漂着した百済人は、本国送還になるまで葦北津に足止めされていること(当時 託麻郡にあった肥後国府(現 熊本市国府本町一帯)は、処分未決の百済人達を漂着地の葦北津に留め置いたと解釈しています。
   ❶葦北津から国外追放という処分もあり得ます、❷葦北津から託麻国府まで直線距離で約58㎞もあります。
  3.百済人の本国送還(葦北津~対馬)に、德摩呂・龍の二人が付き添っていること。
  4.百済人の本国送還のルートは、葦北津から対馬経由であること。
  5.元嘉暦では推古天皇十七年(六〇九)己巳年は平年で、四月は30(大の月)であり、五月は29日(小の月)なので、〔百済人らが肥後國の葦北津に停泊したと〕筑紫大宰が奏上した四月丁酉朔庚子〔4日〕から〔百濟の首らの返答を〕德摩呂等が復奏した五月丁卯朔壬午〔16日〕までは足掛け43日であること。

 

大きな疑問()は何か

 試験問題風にすれば次のようになります。
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 上記の二つの記事(推古天皇十七年夏四月丁酉朔庚子条・同年五月丁卯朔壬午条)について、整合的で納得できる解釈が成立するように、次の問いに答えよ。

問1.道人等十一〔人〕が、尋問を受けた時に留まりたいと願い出なかったのはなぜか。

問2.道人等十一〔人〕が、対馬に至ってから留まりたいと願い出たのはなぜか。

問3.俗人七十四人が、留まりたいと願い出なかったのはなぜか。

問4.道人等十一〔人〕だけが留まりたいと願い出たのはなぜか。

問5.寺院(元興寺)に住まわせたのはなぜか。

問6.住まわせた寺院が「元興寺」であったのはなぜか。

問7. 問1.から問6.までの解答によって、納得できるストーリーを組み立てよ。
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 誘導式になっていますので、順に答えれば謎は解けるようになっています(笑)。 

<thinking time>

 

模範解答

問1.の解 留まりたいと思うことが無かった(動機なし)。

問2.の解 対馬に至るまでに留まりたいと思うことがあった(動機発生)。

問3.の解 俗人七十四人には留まりたいと思うことでは無かった(俗人には動機発生せず)。

問4.の解 道人等十一〔人〕なので留まりたいと思うことであった(僧侶たちだけに動機発生)。

問5.の解 留まりたいと願ったのが僧侶等であったから寺院(「元興寺」)に住まわせた。

問6.の解 「元興寺」が僧侶等の望んだ寺院であった。

問7.の解 百済の僧侶たちは、本国送還(葦北津~対馬)の行程中に、百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院を目撃した。僧侶たちは、百濟に帰るよりもその壮麗な寺院でお勤めしたいと思った。そこで在留の申請をして許された。百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院というのが「元興寺」であった。

 以上が「整合的で納得できる解釈」です(読み解きました)。おそらくこの二つの記事の筆者は、これでわかるだろうと考えたのだと思います(これは私の感想です)。読者の皆さんはどのような読解をされたでしょうか。

 

「元興寺」の在処

 さて、本題(テーマ)は、「元興寺」の在処 でした。上記の読解に基づいて探索してみましょう。

 「d. 百済人の本国送還のルートは、葦北津から対馬経由」でした。

 ということは、百濟の僧侶等が目撃した「元興寺」はこのルート上に存在したと考えられます。
葦北津~太宰府~対馬
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 上図が百済人の本国送還のルート(赤線)の想定です。この道中のどこかに百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院である「元興寺」があったと考えられます。なぜ「対馬に至ってから留まりたいと願い出た」のでしょうか。「元興寺が対馬にあった」とも考えられますが、百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院を国境となっている対馬に造営するとは考え難いでしょう。むしろ、対馬(倭国)を離れれば「二度と元興寺でお勤めする機会はない」という切迫した感情が「帰国ではなく在留」を決断させたのではないでしょうか。「対馬に至って」の理由はこれだと私は読み解きました。

 さすれば、結論は決まってきます。「元興寺」は倭国の首都(太宰府)に在ったことになります。倭国一の寺は倭国の首都に造営されるのが当然だと私は考えます。

 すなわち、「元興寺』は倭京(太宰府)に存在した 倭国一の寺院 であった」と読み解きました。 

(続く)

 次回は、この読解に立ちふさがる問題点を論じたいと考えています。

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