楊震四知―半可通は恥ずかしい―
楊震四知(ようしんしち)
―半可通は恥ずかしい―[sanmao知恵袋][読書]
「四知」と称されている楊震〔注1〕という人の言葉があります。次のように書かれていることがあります。
「天知る、地知る、我知る、子(君・汝の意)知る」(『後漢書』楊震伝)
問題は「(『後漢書』楊震伝)」とあることです。『後漢書』の原文は次の様でした(下線は山田)。
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大將軍鄧騭聞其賢而辟之,舉茂才,四遷荊州刺史、東萊太守。當之郡,道經昌邑,故所舉荊州茂才王密為昌邑令,謁見,至夜懷金十斤以遺震。震曰:「故人知君,君不知故人,何也?」密曰:「暮夜無知者。」震曰:「天知,神知,我知,子知。何謂無知!」密愧而出。
〖私意訳〗
鄧騭大将軍〔注2〕は、その(楊震の)賢を聞き、辟(め)して、(彼の)茂才〔注3〕を推挙して、(楊震は)四度官職を移り荊州刺史と東萊太守(東萊郡は現在の山東省東部の煙台市〔注4〕一帯)になった。その東萊郡の道中の昌邑(現 山東省濰坊市〔注5〕辺り)を経るとき、楊震が荊州の茂才として推挙し昌邑県令となっていた王密(人名)が、謁見し、夜になって懷の金十斤を楊震に贈ろうとした。楊震は「私は君(の人となり)を知っているが、君が私(の人となり)を知らないとは何(どうして)だ」と言って断った。王密は楊震に「日も暮れて夜なので(このことを)知る者などいません」と言った。楊震は言った「天が知っている。神が知っている。私も知っている。君も知っている。(なのに)どうして、知る者はいない(など)と言えるのだ。」と。王密は愧(は)じて退出した。
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「神知(神が知っている)」とあります。『後漢書』楊震伝では「地」ではないのです。
では、誰かがどこかで間違えたのでしょうか。いえ、司馬光『資治通鑑』〔注6〕巻四十九に次のようにありました。
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孝殤皇帝永初四年庚戌,公元一一零年
春,正月,元會,徹樂,不陳充庭車。
鄧騭在位,頗能推進賢士,薦何熙、李郃等列于朝廷,又辟弘農楊震、巴郡陳禪等置之幕府,天下稱之。震孤貧好學,明歐陽《尚書》,通達博覽,諸儒為之語曰:「關西孔子楊伯起。」教授二十餘年,不答州郡禮命,眾人謂之晚暮,而震志愈篤。騭聞而辟之,時震年已五十餘,累遷荊州刺史、東萊太守。當之郡,道經昌邑,故所舉荊州茂才王密為昌邑令,夜懷金十斤以遺震。震曰:「故人知君,君不知故人,何也?」密曰:「暮夜無知者。」震曰:「天知,地知,我知,子知,何謂無知者!」密愧而出。
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つまり、楊震「四知」を「天知,地知,我知,子知」とするのならば、出典は「(『資治通鑑』巻四十九)」とすべきだったのです。
なぜ、こんなことを調べたかと言えば、宮城谷昌光『三國志読本』(文藝春秋、文春文庫、2017年05月10日、ISBN 978-4-16-790856-0)に、そのように書いてあったからです(種明かし)。原文に当たって確認できました(宮城谷昌光氏、恐るべし)。
書き忘れました。「そのように書いてあった」ではわかりませんね。45ページに次のように書いてありました。
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〔前略〕
ひとこと断っておくと、「天知る、地知る」は『後漢書』ではなく、これは『資治通鑑(しじつがん)』のほうの表現でして、『後漢書』は「天知る、神知る」となっています。ただ、私はやはり「天知る、地知る」のほうが好きなんですね。
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注1 楊震 …… 『後漢書』卷五十四「楊震列傳第四十四子秉 孫賜 曾孫彪 玄孫脩」には楊震について次のようにある。
楊震字伯起,弘農華陰人也。八世祖喜,高祖時有功,封赤泉侯。高祖敞,昭帝時為丞相,封安平侯。父寶,習歐陽尚書。哀、平之世,隱居教授。居攝二年,與兩龔、蔣詡俱徵,遂遁逃,不知所處。光武高其節。建武中,公車特徵,老病不到,卒於家。震少好學,受歐陽尚書於太常桓郁,明經博覽,無不窮究。諸儒為之語曰:「關西孔子楊伯起。」常客居於湖,不荅州郡禮命數十年,眾人謂之晚暮,而震志愈篤。後有冠雀銜三鱣魚,飛集講堂前,都講取魚進曰:「蛇鱣者,卿大夫服之象也。數三者,法三台也。先生自此升矣。」年五十,乃始仕州郡。
楊 震(よう しん、54年 - 124年)は、後漢前期の政治家。字は伯起。楊牧・楊里・楊秉・楊譲・楊奉らの父。楊賜・楊敷(楊奉の子)の祖父。楊琦・楊彪・楊衆(楊敷の子)の曾祖父。楊亮・楊修の高祖父。弘農郡華陰県(現在の陝西省華陰市)の出身。『後漢書』に伝がある。城西の夕陽亭に至り、酖を飲んで卒した。(大漢和辞典より)(Wikipedia「楊震」より抜粋)
注2 鄧騭大将軍 …… 鄧騭は和帝の皇后だった鄧綏の兄(つまり「外戚」)。皇后鄧綏は、和帝の最初の皇后である陰皇后(曾祖父は陰麗華の兄陰識)が廃された後になった和帝の2番目の皇后。
元興元年(105年)、和帝は死去した。鄧綏は皇太后として臨朝し、劉隆を皇帝に擁立した(殤帝)。その兄の車騎将軍鄧騭と共に朝政を運営していた。しかし延平元年(106年)、殤帝は2歳で死去し、13歳の劉祜が擁立された(安帝)。鄧氏の臨朝は継続し、鄧騭が朝政を運営した。(Wikipedia「鄧綏」より抜粋)
注3 茂才 …… 後漢の光武帝(劉秀)の諱が「秀」なので、当時は「秀」という諱を避けて(「避諱(ひき)」という)、「秀才」のことを「茂才」と言った。
注4 山東省東部の煙台市 …… 次の地図をご覧ください(Wikipediaより転載)。
注5 山東省濰坊市 …… 次の地図をご覧ください(Wikipediaより転載)。
注6 『資治通鑑』 ……
『資治通鑑』(しじつがん、繁体字: 資治通鑒; 簡体字: 资治通鉴; 拼音: Zīzhì Tōngjiàn; ウェード式: Tzu-chih T'ung-chien)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂して1084年(元豊7年)に完成した、編年体の歴史書[1]。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。
収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。
この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光当時の史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。(Wikipedia「資治通鑑」より抜粋)
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