読書

2020年12月11日 (金)

楊震四知―半可通は恥ずかしい―

楊震四知(ようしんしち)
半可通は恥ずかしい[sanmao知恵袋][読書]

 「四知」と称されている楊震〔注1〕という人の言葉があります。次のように書かれていることがあります。

天知る、地知る、我知る、子(君・汝の意)知る(『後漢書』楊震伝)

 

 問題は「(『後漢書』楊震伝)」とあることです。『後漢書』の原文は次の様でした(下線は山田)。
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大將軍鄧騭聞其賢而辟之,舉茂才,四遷荊州刺史、東萊太守。當之郡,道經昌邑,故所舉荊州茂才王密為昌邑令,謁見,至夜懷金十斤以遺震。震曰:「故人知君,君不知故人,何也?」密曰:「暮夜無知者。」震曰:「天知,神知,我知,子知。何謂無知!」密愧而出。

〖私意訳〗
鄧騭大将軍〔注2〕は、その(楊震の)賢を聞き、辟(め)して、(彼の)茂才〔注3〕を推挙して、(楊震は)四度官職を移り荊州刺史と東萊太守(東萊郡は現在の山東省東部の煙台市〔注4〕一帯)になった。その東萊郡の道中の昌邑(現 山東省濰坊市〔注5〕辺り)を経るとき、楊震が荊州の茂才として推挙し昌邑県令となっていた王密(人名)が、謁見し、夜になって懷の金十斤を楊震に贈ろうとした。楊震は「私は君(の人となり)を知っているが、君が私(の人となり)を知らないとは何(どうして)だ」と言って断った。王密は楊震に「日も暮れて夜なので(このことを)知る者などいません」と言った。楊震は言った「天が知っている。神が知っている。私も知っている。君も知っている。(なのに)どうして、知る者はいない(など)と言えるのだ。」と。王密は愧()じて退出した。
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 「神知(神が知っている)」とあります。『後漢書』楊震伝では「地」ではないのです。

 

 では、誰かがどこかで間違えたのでしょうか。いえ、司馬光『資治通鑑』〔注6〕巻四十九に次のようにありました。
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孝殤皇帝永初四年庚戌,公元一一零年

春,正月,元會,徹樂,不陳充庭車。

鄧騭在位,頗能推進賢士,薦何熙、李郃等列于朝廷,又辟弘農楊震、巴郡陳禪等置之幕府,天下稱之。震孤貧好學,明歐陽《尚書》,通達博覽,諸儒為之語曰:「關西孔子楊伯起。」教授二十餘年,不答州郡禮命,眾人謂之晚暮,而震志愈篤。騭聞而辟之,時震年已五十餘,累遷荊州刺史、東萊太守。當之郡,道經昌邑,故所舉荊州茂才王密為昌邑令,夜懷金十斤以遺震。震曰:「故人知君,君不知故人,何也?」密曰:「暮夜無知者。」震曰:「天知,地知,我知,子知,何謂無知者!」密愧而出。

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 つまり、楊震「四知」を「天知,地知,我知,子知」とするのならば、出典は「(『資治通鑑』巻四十九)」とすべきだったのです。

 なぜ、こんなことを調べたかと言えば、宮城谷昌光『三國志読本』(文藝春秋、文春文庫、20170510日、ISBN 978-4-16-790856-0)に、そのように書いてあったからです(種明かし)。原文に当たって確認できました(宮城谷昌光氏、恐るべし)。
 書き忘れました。「そのように書いてあった」ではわかりませんね。45ページに次のように書いてありました。
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〔前略〕
 ひとこと断っておくと、「天知る、地知る」は『後漢書』ではなく、これは『資治通鑑(しじつがん)』のほうの表現でして、『後漢書』は「天知る、神知る」となっています。ただ、私はやはり「天知る、地知る」のほうが好きなんですね。
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注1 楊震 …… 『後漢書』卷五十四「楊震列傳第四十四子秉 孫賜 曾孫彪 玄孫脩」には楊震について次のようにある。

楊震字伯起,弘農華陰人也。八世祖喜,高祖時有功,封赤泉侯。高祖敞,昭帝時為丞相,封安平侯。父寶,習歐陽尚書。哀、平之世,隱居教授。居攝二年,與兩龔、蔣詡俱徵,遂遁逃,不知所處。光武高其節。建武中,公車特徵,老病不到,卒於家。震少好學,受歐陽尚書於太常桓郁,明經博覽,無不窮究。諸儒為之語曰:「關西孔子楊伯起。」常客居於湖,不荅州郡禮命數十年,眾人謂之晚暮,而震志愈篤。後有冠雀銜三鱣魚,飛集講堂前,都講取魚進曰:「蛇鱣者,卿大夫服之象也。數三者,法三台也。先生自此升矣。」年五十,乃始仕州郡。

楊 震(よう しん、54年 - 124年)は、後漢前期の政治家。字は伯起。楊牧・楊里・楊秉・楊譲・楊奉らの父。楊賜・楊敷(楊奉の子)の祖父。楊琦・楊彪・楊衆(楊敷の子)の曾祖父。楊亮・楊修の高祖父。弘農郡華陰県(現在の陝西省華陰市)の出身。『後漢書』に伝がある。城西の夕陽亭に至り、酖を飲んで卒した。(大漢和辞典より)Wikipedia「楊震」より抜粋)

注2 鄧騭大将軍 …… 鄧騭は和帝の皇后だった鄧綏の兄(つまり「外戚」)。皇后鄧綏は、和帝の最初の皇后である陰皇后(曾祖父は陰麗華の兄陰識)が廃された後になった和帝の2番目の皇后。

元興元年(105年)、和帝は死去した。鄧綏は皇太后として臨朝し、劉隆を皇帝に擁立した(殤帝)。その兄の車騎将軍鄧騭と共に朝政を運営していた。しかし延平元年(106年)、殤帝は2歳で死去し、13歳の劉祜が擁立された(安帝)。鄧氏の臨朝は継続し、鄧騭が朝政を運営した。Wikipedia「鄧綏」より抜粋)

注3 茂才 …… 後漢の光武帝(劉秀)の諱が「秀」なので、当時は「秀」という諱を避けて(「避諱(ひき)」という)、「秀才」のことを「茂才」と言った。

注4 山東省東部の煙台市 …… 次の地図をご覧ください(Wikipediaより転載)。
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注5 山東省濰坊市 …… 次の地図をご覧ください(Wikipediaより転載)。
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注6 『資治通鑑』 …… 
『資治通鑑』(しじつがん、繁体字: 資治通鑒; 簡体字: 资治通鉴; 拼音: Zīzhì Tōngjiàn; ウェード式: Tzu-chih T'ung-chien)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂して1084年(元豊7年)に完成した、編年体の歴史書[1]。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。

収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。

この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光当時の史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。Wikipedia「資治通鑑」より抜粋)

2020年11月 5日 (木)

読書:「誰が第二次世界大戦を起こしたのか」―『裏切られた自由』を読み解く―

読書:『誰が第二次世界大戦を起こしたのか』
―『裏切られた自由』を読み解く―[読書][現代]

 『裏切られた自由』の著者は、ハーバート・クラーク・フーヴァー(Herbert Clark Hoover, 1874810 - 19641020日)、アメリカ合衆国第31代大統領である。第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)の前任者である。

 ハーバート・フーヴァー元大統領のこの著書は、1941128日(真珠湾攻撃の報が伝わって)から書くための資料集めが始められて、出版直前にして著者は死去している(19641020日)。残された原稿を歴史家ジョージ・ナッシュが再編集し、2011年に出版された(Freedom Betrayed: Herbert Hoover’s Secret History of the Second World War and Its Aftermath(ハーバート・フーバー「裏切られた自由 第二次世界大戦の秘められた歴史とその余波」))。

 出版が47年も遅れた理由は、戦後アメリカの言論空間の「空気」を理解するうえでも重要な論考になっている「ナッシュ氏の序文をじっくりと読み込んでいただきたい」とある(翻訳本(上下二巻)の上巻を買わねば読めないw)。

 邪推すれば、口では非参戦を唱えていたが、「ニューディール政策」が思うようにいかないのを(ハッキリ言えば「失敗」を)打開するために、参戦(特需による梃子入れ)を企(たくら)んだルーズベルトが、日本を戦争に追い込んで先に攻撃させて太平洋戦争(「大東亜戦争」)を起こさせたことが明らかになると、アメリカ国民を戦争に駆り立てたことを正当化できなくなるので、それを恐れたのだ、と思われる(これは私なりに史実を辿って薄々感じていたことを明言しただけ)。

 古田武彦先生は「戦争に勝った方は自分が昔から正しかったという歴史を作ろうとする。そして負けた方の国民にそれを信じさせようとする。しかしどの国だって悪い過去はある。蓮の花だけ見ても、根っこが泥にまみれているように、どの国にも醜い過去はある。それをあたかもなかったかのように戦争に勝った連中はおごりたかぶってやる」という、東日流外三郡誌を作った動機を語った秋田孝季の言葉を講演(201411月8日大学セミナーハウス)で要約引用されています。
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〔前略〕
【秋田孝季の考え方】
 これは後から言いますが、東日流外三郡誌、秋田孝季の、これから見れば納得がいくんです。東日流外三郡誌の最後の所に素晴らしい文章がある。戦争に勝った方は自分が昔から正しかったという歴史を作ろうとする。そして負けた方の国民にそれを信じさせようとする。しかしどの国だって悪い過去はある。蓮の花だけ見ても、根っこが泥にまみれているように、どの国にも醜い過去はある。それをあたかもなかったかのように戦争に勝った連中はおごりたかぶってやるんだと、私はそういう東日流の歴史を考える。だから東日流外三郡誌を作って、現在は勝った方が支配しているから相手にされない、偽書だ何だと悪口ばかり言われるけど、必ず未来において私の言うことを受け入れる聖者が現れてくることを信じて私は東日流外三郡誌を作った、と書いてある。見事なセリフですよね。〔後略〕
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 ともかくも、「日本が太平洋戦争を起こした(悪いのは日本)」と思っている方々は、まずはこの渡辺惣樹著『誰が第二次世界大戦を起こしたのか フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』(草思社、四六判、224頁、20170719日、ISBN978-4-7942-2277-0、定価:1,870円(本体:1,700円))お読みいただき、必要であれば、Herbert C HooverFreedom Betrayed: Herbert Hoover’s Secret History of the Second World War and Its Aftermath』の翻訳本であるハーバート・フーバー著/ジョージ・H・ナッシュ編/渡辺惣樹訳『裏切られた自由(上)――フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症』(草思社、A5判、704頁、20170719日、ISBN978-4-7942-2275-6、定価:9,680円(本体:8,800円))・『裏切られた自由(下)――フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症』(同社、A5判、592頁、20171115日、ISBN978-4-7942-2276-3、定価:9,680円(本体:8,800円))をお読みください。
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2020年4月28日 (火)

読書『呉漢』―天下万民の生活を守り、利を与えるのが政治―

読書『呉漢』

天下万民の生活を守り、利を与えるのが政治―[読書]

宮城谷昌光著『呉漢 上』(中央公論新社、中公文庫 み・36・112020年1月25日、ISBN798-4-12-206805-6 1193
宮城谷昌光著『呉漢 下』(中央公論新社、中公文庫 み・36・122020年1月25日、ISBN798-4-12-206806-3 1193

 宮城谷昌光さんは、私が好きな作家です。文庫本が出版されたら必ずといってよいほど読んでいます。宮城谷さんの中国の歴史を題材にした小説には、登場人物に対する的確な歴史的評価がなされているからです。もちろん、それは宮城谷さんの個人的評価なのですが、それが私には的確なものと感じられるのです。

 一例を示しましょう。ブログ記事「古田史学」の基礎(その1)―「古田思想」を学ぶ―で、私は次のように述べました。

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「史家」とは、私の好きな作家の宮城谷昌光さんの著書『三国志外伝』にある言葉と内容をお借りすれば、「古今を比較する豊富な知識」と「現前の権勢を恐れない批判の目」を持ち、「天職」(天命によって己に与えられた職)という思想をもっている者が「史家」である。

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 この「史家」というものに対する宮城谷さんの歴史的評価は、歴史用語の定義といってもよい程の的確さだと私は思うのです。

 今回は読後感想ではなく、妙に納得した言葉を紹介したいと思います。その前に、題名となっている「呉漢」という人物を紹介します。次はWikipedia「呉漢」からの抜粋です。詳しくは左記のリンクをご覧ください。記事末に「後漢書卷十八 吳蓋陳臧列傳第八」の原文を掲載しておきます。

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呉 漢(ご かん、? - 44年)は、後漢の武将。字は子顔(しがん)。南陽郡宛県(河南省南陽市)の人(『後漢書』列伝8・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第2位に序せられる(『後漢書』列伝12)

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 宮城谷さんは呉漢について、「あとがき」(P.345)で次のように書かれています。

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〔前略〕
 名家に生まれたわけではなく、教養人でもなかった呉漢は、劉秀のけわしい部分、すなわち武をうけもったが、なぜか両者の信頼関係は堅固であった。呉漢は常勝将軍ではなく、失敗をし、敗北もしたが、劉秀から猜疑の目を向けられたことはいちどもなかった。呉漢は亡くなるまで大司馬であった。武人として最高位にいつづけた。〔後略〕

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 光武帝劉秀は英明で寛容であったらしく、病気が重篤な呉漢を見舞った光武帝が、何か言いたいことは無いかと問うと、呉漢は「ただ、大赦をしないようにお慎みくださるのを願うだけです。」と答えたということです。呉漢はこのような人柄だったようです。

 二十年〔建武二十年(西暦四四年五月)〕漢、病(やまい)篤(あつ)し、車駕〔光武帝のこと、天子の隠喩〕、親(みずか)ら臨(のぞ)み、言わんと欲(ほっ)する所を問う。對(こた)えて曰く「臣、愚かにして知識する所無し。唯(た)だ陛下、慎(つつし)んで赦(ゆる)すこと無からんことのみ。」二十年,漢病篤。車駕親臨,問所欲言。對曰:「臣愚無所知識,唯願陛下慎無赦而已。」

 さて、そろそろ「妙に納得した言葉」を紹介します。

 家が貧しいため農場で賃作をしている呉漢が良く働くことを認めた農場主の彭寵は、呉漢を呼んで菽(まめ)を四袋与えようとした。ところが呉漢は、わたしだけ受け取るのは不公平だ、と理屈を言った。彭寵は次のようにさとした。

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「そう怒るな。そなたがいったことが正しければ、われは正しくないことになる。しかしわれにも理屈はある。大きな声ではいえぬが、天下の利をひとり占めにしているのは漢の皇帝であろう。その皇帝は、庶民の数万倍働いているのであろうか。また大臣たちはどうか。かれらはみな祖先の勲功のおかげでいまの地位があり、おそらくそなたより働きが悪いのに、富はそなたの数万倍はある。そなたの理屈では、彼らを残らず咎めなければならないが、われの理屈では、かれらの働きはそなたの数万倍で、咎めるにはおよばない。すなわち政治とは、庶民ではできぬからだ。政治は天下万民の生活を守り、利を与える。おのれの利しか考えぬ者に、政治はできぬということよ」(『呉漢 上』P.26

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 これは「妙に納得」できる言葉ではありませんか。裏返せば「天下万民の生活を守り、利を与えることを考えず、おのれの利しか考えぬ者に政治はできぬ(政治をさせてはならない)。」「そのような者は咎められねばならぬ。」ということになります。

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後漢書卷十八

吳蓋陳臧列傳第八

吳漢字子顏,南陽宛人也。家貧,給事縣為亭長。王莽末,以賓客犯法,乃亡命至漁陽。資用乏,以販馬自業,往來燕、薊閒,所至皆交結豪傑。更始立,使使者韓鴻徇河北。或謂鴻曰:「吳子顏,奇士也,可與計事。」鴻召見漢,甚悅之,遂承制拜為安樂令。

會王郎起,北州擾惑。漢素聞光武長者,獨欲歸心。乃說太守彭寵曰:「漁陽、上谷突騎,天下所聞也。君何不合二郡精銳,附劉公擊邯鄲,此一時之功也。」寵以為然,而官屬皆欲附王郎,寵不能奪。漢乃辭出,止外亭,念所以譎眾,未知所出。望見道中有一人似

儒生者,漢使人召之,為具食,問以所聞。生因言劉公所過,為郡縣所歸;邯鄲舉尊號者,實非劉氏。漢大喜,即詐為光武書,移檄漁陽,使生齎以詣寵,令具以所聞說之,漢復隨後入。寵甚然之。於是遣漢將兵與上谷諸將并軍而南,所至擊斬王郎將帥。及光武於廣阿,拜漢為偏將軍。既拔邯鄲,賜號建策侯。 

漢為人質厚少文,造次不能以辭自達。鄧禹及諸將多知之,數相薦舉,及得召見,遂見親信,常居門下。

光武將發幽州兵,夜召鄧禹,問可使行者。禹曰:「閒數與吳漢言,其人勇鷙有智謀,諸將鮮能及者。」即拜漢大將軍,持節北發十郡突騎。更始幽州牧苗曾聞之,陰勒兵,勑諸郡不肯應調。漢乃將二十騎先馳至無終。曾以漢無備,出迎於路,漢即撝兵騎,收曾斬之,而奪其軍。北州震駭,城邑莫不望風弭從。遂悉發其兵,引而南,與光武會清陽。

諸將望見漢還,士馬甚盛,皆曰:「是寧肯分兵與人邪?」及漢至莫府,上兵簿,諸將人人多請之。光武曰:「屬者恐不與人,今所請又何多也?」諸將皆慙。

初,更始遣尚書令謝躬率六將軍攻王郎,不能下。會光武至,共定邯鄲,而躬裨將虜掠不相承稟,光武深忌之。雖俱在邯鄲,遂分城而處,然每有以慰安之。躬勤於職事,光武常稱曰「謝尚書真吏也」,故不自疑。躬既而率其兵數萬,還屯於鄴。時光武南擊青犢,謂躬曰:「我追賊於射犬,必破之。尤來在山陽者,埶必當驚走。若以君威力,擊此散虜,必成禽也。」躬曰:「善。」及青犢破,而尤來果北走隆慮山,躬乃留大將軍劉慶、魏郡太守陳康守鄴,自率諸將軍擊之。窮寇死戰,其鋒不可當,躬遂大敗,死者數千人。光武因躬在外,乃使漢與岑彭襲其城。漢先令辯士說陳康曰:「蓋聞上智不處危以僥倖,中智能因危以為功,下愚安於危以自亡。危亡之至,在人所由,不可不察。今京師敗亂,四方雲擾,公所聞也。蕭王兵彊士附,河北歸命,公所見也。謝躬內背蕭王,外失眾心,公所知也。公今據孤危之城,待滅亡之禍,義無所立,節無所成。不若開門內軍,轉禍為福,免下愚之敗,收中智之功,此計之至者也。」康然之。於是康收劉慶及躬妻子,開門內漢等。及躬從隆慮歸鄴,不知康已反之,乃與數百騎輕入城。漢伏兵收之,手擊殺躬,其眾悉降。躬字子張,南陽人。初,其妻知光武不平之,常戒躬曰:「君與劉公積不相能,而信其虛談,不為之備,終受制矣。」躬不納,故及於難。

光武北擊羣賊,漢常將突騎五千為軍鋒,數先登陷陳。及河北平,漢與諸將奉圖書,上尊號。光武即位,拜為大司馬,更封舞陽侯。

建武二年春,漢率大司空王梁,建義大將軍朱祐,大將軍杜茂,執金吾賈復,揚化將軍堅鐔,偏將軍王霸,騎都尉劉隆、馬武、陰識,共擊檀鄉賊於鄴東漳水上,大破之,降者十餘萬人。帝使使者璽書定封漢為廣平侯,食廣平、斥漳、曲周、廣年,凡四縣。復率諸將擊鄴西山賊黎伯卿等,及河內脩武,悉破諸屯聚。車駕親幸撫勞。復遣漢進兵南陽,擊宛、涅陽、酈、穰、新野諸城,皆下之。引兵南,與秦豐戰黃郵水上,破之。又與偏將軍馮異擊昌城五樓賊張文等,又攻銅馬、五幡於新安,皆破之。

明年春,率建威大將軍耿弇、虎牙大將軍蓋延,擊青犢於軹西,大破降之。又率驃騎大將軍杜茂、彊弩將軍陳俊等,圍蘇茂於廣樂。劉永將周建別招聚收集得十餘萬人,救廣樂。漢將輕騎迎與之戰,不利,墯馬傷膝,還營,建等遂連兵入城。諸將謂漢曰:「大敵在前而公傷臥,眾心懼矣。」漢乃勃然裹創而起,椎牛饗士,令軍中曰:「賊眾雖多,皆劫掠羣盜,『勝不相讓,敗不相救』,非有仗節死義者也。今日封侯之秋,諸君勉之!」於是軍士激怒,人倍其氣。旦日,建、茂出兵圍漢。漢選四部精兵黃頭吳河等,及烏桓突騎三千餘人,齊鼓而進。建軍大潰,反還奔城。漢長驅追擊,爭門並入,大破之,茂、建突走。漢留杜茂、陳俊等守廣樂,自將兵助蓋延圍劉永於睢陽。永既死,二城皆降。

明年,又率陳俊及前將軍王梁,擊破五校賊於臨平,追至東郡箕山,大破之。北擊清河長直及平原五里賊,皆平之。時鬲縣五姓共逐守長,據城而反。諸將爭欲攻之,漢不聽,曰:「使鬲反者,皆守長罪也。敢輕冒進兵者斬。」乃移檄告郡,使收守長,而使人謝城中。五姓大喜,即相率歸降。諸將乃服,曰:「不戰而下城,非眾所及也。」

冬,漢率建威大將軍耿弇、漢(中)〔忠〕將軍王常等,擊富平、獲索二賊於平原。明年春,賊率五萬餘人夜攻漢營,軍中驚亂,漢堅臥不動,有頃乃定。即夜發精兵出營突擊,大破其眾。因追討餘黨,遂至無鹽,進擊勃海,皆平之。又從征董憲,圍朐城。明年春,拔朐,斬憲。事(以)〔已〕見劉永傳。東方悉定,振旅還京師。

會隗囂畔,夏,復遣漢西屯長安。八年,從車駕上隴,遂圍隗囂於西城。帝勑漢曰:「諸郡甲卒但坐費糧食,若有逃亡,則沮敗眾心,宜悉罷之。」漢等貪并力攻囂,遂不能遣,糧食日少,吏士疲役,逃亡者多,及公孫述救至,漢遂退敗。

十一年春,率征南大將軍岑彭等伐公孫述。及彭破荊門,長驅入江關,漢留夷陵,裝露橈船,將南陽兵及㢮刑募士三萬人泝江而上。會岑彭為刺客所殺,漢并將其軍。十二年春,與公孫述將魏黨、公孫永戰於魚涪津,大破之,遂圍武陽。述遣子壻史興將五千人救之。漢迎擊興,盡殄其眾,因入犍為界。諸縣皆城守。漢乃進軍攻廣都,拔之。遣輕騎燒成都市橋,武陽以東諸小城皆降。

帝戒漢曰:「成都十餘萬眾,不可輕也。但堅據廣都,待其來攻,勿與爭鋒。若不敢來,公轉營迫之,須其力疲,乃可擊也。」漢乘利,遂自將步騎二萬餘人進逼成都,去城十餘里,阻江北為營,作浮橋,使副將武威將軍劉尚將萬餘人屯於江南,相去二十餘里。帝聞大驚,讓漢曰:「比勑公千條萬端,何意臨事勃亂!既輕敵深入,又與尚別營,事有緩急,不復相及。賊若出兵綴公,以大眾攻尚,尚破,公即敗矣。幸無它者,急引兵還廣都。」詔書未到,述果使其將謝豐、袁吉將眾十許萬,分為二十餘營,并出攻漢。使別將〔將〕萬餘人劫劉尚,令不得相救。漢與大戰一日,兵敗,走入壁,豐因圍之。漢乃召諸將厲之曰:「吾共諸君踰越險阻,轉戰千里,所在斬獲,遂深入敵地,至其城下。而今與劉尚二處受圍,埶既不接,其禍難量。欲潛師就尚於江南,并兵禦之。若能同心一力,人自為戰,大功可立;如其不然,敗必無餘。成敗之機,在此一舉。」諸將皆曰「諾」。於是饗士秣馬,閉營三日不出,乃多樹幡旗,使煙火不絕,夜銜枚引兵與劉尚合軍。豐等不覺,明日,乃分兵拒江北,自將攻江南。漢悉兵迎戰,自旦至晡,遂大破之,斬謝豐、袁吉,獲甲首五千餘級。於是引還廣都,留劉尚拒述,具以狀上,而深自譴責。帝報曰:「公還廣都,甚得其宜,述必不敢略尚而擊公也。若先攻尚,公從廣都五十里悉步騎赴之,適當值其危困,破之必矣。」自是漢與述戰於廣都、成都之閒,八戰八剋,遂軍于其郭中。述自將數萬人出城大戰,漢使護軍高午、唐邯將數萬銳卒擊之。述兵敗走,高午奔陳刺述,殺之。事已見述傳。旦日城降,斬述首傳送洛陽。明年正月,漢振旅浮江而下。至宛,詔令過家上冢,賜穀二萬斛。

十五年,復率揚武將軍馬成、捕虜將軍馬武北擊匈奴,徙鴈門、代郡、上谷吏人六萬餘口,置居庸、常〔山〕關以東。

十八年,蜀郡守將史歆反於成都,自稱大司馬,攻太守張穆,穆踰城走廣都,歆遂移檄郡縣,而宕渠楊偉、朐䏰徐容等,起兵各數千人以應之。帝以歆昔為岑彭護軍,曉習兵事,故遣漢率劉尚及太中大夫臧宮將萬餘人討之。漢入武都,乃發廣漢、巴、蜀三郡兵圍成都,百餘日城破,誅歆等。漢乃乘桴沿江下巴郡,楊偉、徐容等惶恐解散,漢誅其渠帥二百餘人,徙其黨與數百家於南郡、長沙而還。

漢性彊力,每從征伐,帝未安,恆側足而立。諸將見戰陳不利,或多惶懼,失其常度。漢意氣自若,方整厲器械,激揚士吏。帝時遣人觀大司馬何為,還言方脩戰攻之具,乃歎曰:「吳公差彊人意,隱若一敵國矣!」每當出師,朝受詔,夕即引道,初無辦嚴之日。故能常任職,以功名終。及在朝廷,斤斤謹質,形於體貌。漢嘗出征,妻子在後買田業。漢還,讓之曰:「軍師在外,吏士不足,何多買田宅乎!」遂盡以分與昆弟外家。

二十年,漢病篤。車駕親臨,問所欲言。對曰:「臣愚無所知識,唯願陛下慎無赦而已。」及薨,有詔悼愍,賜謚曰忠侯。發北軍五校、輕車、介士送葬,如大將軍霍光故事。

子哀侯成嗣,為奴所殺。二十八年,分漢封為三國:成子旦為灈陽侯,以奉漢嗣;旦弟盱為筑陽侯;成弟國為新蔡侯。旦卒,無子,國除。建初八年,徙封盱為平春侯,以奉漢後。盱卒,子勝嗣。初,漢兄尉為將軍,從征戰死,封尉子彤為安陽侯。帝以漢功大,復封弟翕為襃親侯。吳氏侯者凡五國。

初,漁陽都尉嚴宣,與漢俱會光武於廣阿,光武以為偏將軍,封建信侯。論曰:吳漢自建武世,常居上公之位,終始倚愛之親,諒由質簡而彊力也。子曰「剛毅木訥近仁」,斯豈漢之方乎!昔陳平智有餘以見疑,周勃資朴忠而見信。夫仁義不足以相懷,則智者以有餘為疑,而朴者以不足取信矣。

2019年8月 7日 (水)

今月の読書『気象と戦術』

今月の読書『気象と戦術』

「弘安の役」の話がなかった[読書]

 木元寛明(きもとひろあき)著『気象と戦術』(SBクリエイティブ、サイエンス・アイ新書SIS435、2019年7月25日、ISBN978-4-8156-0110-2

 「はじめに」を読んで、おもしろいなと感じたことがありました(一部を抜粋します)。

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〔前略〕

 気象それ自体が戦いの帰趨を決定することはありませんが、指揮官の状況判断や部隊の戦闘能力に大きな影響を与え、ときには勝敗を分ける決定的な要因の1つとなることは、インドシナ戦争(第1次:対フランス、第2次:対米国)だけでなく、多くの戦いで実証されています。

 気象が戦いの場(=戦場)におよぼす影響は千差万別です。その代表的なものを列挙すると、視程、風、降水、雲、気温、湿度、荒天、大気圧、海面状態などの諸要因が頭に浮かびます。〔中略〕

 気象と戦いの関係には一定のパターンがありません。予期しない豪雨が会戦に致命的に影響した例(ワーテルロー会戦)、備えなき軍隊が冬将軍に屈した例(ナポレオンのモスクワ遠征など)、台風域の第4象限で軍艦が破壊された例(第4艦隊事件)、海霧を利用した救出作戦の敢行(キスカ撤退作戦)、科学技術による夜暗の克服(レーダー、サーマル・サイトなど)、気象条件の逆用(仁川上陸作戦)、さらには人工降雨(気象の操作)のような、気象の軍事利用もあります。〔後略〕
……………………………………………………………………………………………………………………

 「どこが(おもしろい)」ですか?

 元軍と高麗軍の軍船が台風にあって壊滅的に破壊されて失敗した「蒙古襲来(元寇)」(1274年「文永の役」、1281年「弘安の役」)が挙げられなかったことです。これは、軍事に関する実際的視点と歴史的視点との違いなのでしょうか。

 

 以下、Wikipediaによる(完全引用ではなく、多少編集しています

〖文永の役〗

 文永十一年(1274年)10月3日、総数27,00040,000人を乗せた726900艘の軍船が朝鮮半島の合浦(現韓国の馬山)を出航した。

10月5日、対馬を侵攻。

1014日、壱岐を侵攻。1617日、肥前沿岸の松浦郡及び平戸島・鷹島・能古島に襲来。

1020日、博多湾の早良郡に襲来。〔この間、戦いは紆余曲折があったが〕日本軍は「水城」に籠って防戦しようと撤退する戦況だった。

1021日の朝になると元・漢軍は博多湾から撤退していたという。

 『高麗史』によれば「疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである。」と元軍総司令官の忽敦(クドゥン)が決定したという(局地戦では勝っていても長期的には「多勢に無勢」という状況と認識していた)。

 ところが、元軍は夜間の撤退を強行し、海上で暴風雨に遭遇し、多くの軍船が崖に接触して沈没し、多くの被害を出した(博多―高麗間の北上は南風の晴れた日でなければ危険であり、この季節では天気待ちで一ヶ月掛かることもあった。朝鮮通信使(江戸時代)の頃でも夜間の玄界灘渡海は避けていた)。

1127日元軍は朝鮮半島の合浦(現馬山)まで帰還した〔元軍の人的損害13,500余人という〕。

 『呉文正集』によれば、元朝皇帝クビライとその重臣劉宣の会話の中で「兵を率いて征伐しても、功を収められなかった。有用な兵を駆り立てて無用な土地を取ろうというのは、貴重な珠を用いて雀を射落とそうとするようなもので、すでに策を失っている〔失策だ〕」と評しているそうです。

 これを見るに、「文永の役」は鎌倉武士の奮闘によって元軍を撤退させたという総括が適当ではないでしょうか(日本側史料は皆「勝利」報告)。元軍の暴風雨による壊滅的損害は「神風神話」と呼ぶべきものと言えるでしょう(暴風雨はこの戦いの勝敗に無関係)。神社や寺院は幕府に恩賞を求めた(敵國折伏・加持祈祷のおかげである、という理由です)。

 面白いのは『元史』が「たとえ風雨に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国の地は広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない。」と、渡海しなければならない日本侵攻の困難性を挙げていることです。
 さすが大国の重臣、冷静に客観的な分析をしています。この客観的分析が、後に「わざと負けに負けて日本軍(帝国陸軍)を大陸の奥深くまで引きずり込んでから包囲して撃つ」という大陸的戦略を唱えさせる背景にあったと考えるのは妄想でしょうか。戦術的には既に222年「夷陵の戦い」で呉の大都督 陸遜が用いています(注)

「文永の役」で戦艦・軍隊・兵糧などを支給した高麗は国力を極度に悪化させ疲弊したようです。

 「夷陵の戦い(いりょうのたたかい)」―――219年、呉の孫権は蜀漢の将軍関羽の守る荊州南部を攻撃し、12月、臨沮で捕らえた関羽の首を曹操に送った。222年、劉備は関羽の仇討のために呉に向けて大軍(少なくとも数万以上)を率いて親征した。白帝城から夷道までの三峡全域の戦いにおいて、呉の陸遜は負けに負けて三峡内の全拠点を失い、後方には江陵があるだけになった。このとき、劉備軍は後方に50近くの陣営を連ねるほど補給線が伸び切っていた。そこで陸遜は全軍で夜半に水上を急行して火計による総攻撃を行なって40以上の敵陣営を陥落させた。劉備は趙雲らの援軍より辛うじて白帝城に逃げ込んだ(劉備はこの地で失意のうちに没する)。蜀軍の損害は兵士数万人、馮習や王甫、張南、傅彤、程畿、馬良ら有能な武官・文官、そして荊州全域を失った。

 

〖弘安の役〗

弘安四年(1281年)、元・高麗軍を主力とした東路軍約40,00056,989人・軍船900艘と旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人及び江南軍水夫(人数不詳)・軍船3,500艘、両軍合計約140,000156,989人及び江南軍水夫(人数不詳)・軍船4,400艘が日本に向けて出航した。東路軍と江南軍は6月15日までに壹岐島で合流して両軍で大宰府を攻める計画を立てていた。

 この世界史上最大規模の艦隊について、先に『呉文正集』において紹介した元朝の重臣劉宣は「南方の新附の旧軍(江南軍)は、十余年の間に老い病んで逃亡し出征で傷つき、それまでの精鋭軍は海東の日本で日本で敗北し、新たに招集された軍兵はみな武芸や戦争に慣れていないものばかり、これでは敵(日本)を制圧しようとしてもきっと失敗に帰すだろう」と述べている。

〇同年5月3日、蒙古・漢軍30,000人と高麗軍9,960人の東路軍900艘が、先に朝鮮半島合浦(現馬山)を出発した。

〇5月21日、対馬の大明浦に上陸。26日壱岐に襲来(途中暴風雨に遭遇し、兵士113人・水夫36人が行方不明)。

 東路軍は捕らえた対馬島民から大宰府の西六十里地点にいた日本軍が移動したという情報を得て、一気に大宰府を占領する計画を立て、クビライから諸將自らの判断で行動して良いとの了承を得て、当初の江南軍と合流して大宰府を攻めるという計画を変更し、東路軍単独で大宰府西方面から上陸を開始することにした。

 博多湾に現れた東路軍は上陸しようとしたが、日本側はすでに博多湾岸に約20㎞にも及ぶ石築地いしついじ、「元寇防塁」)を築いていたので、上陸を断念するしかなかった。伊予の御家人・河野通有こうのみちあり、久米郡石井郷(現 松山市)の武将、伊予水軍の河野氏当主)らは築地を背に東路軍を迎え撃って、後に「河野の後築地(うしろついじ)」(韓信の「背水の陣」に相当)と称賛された。

〇6月6日、東路軍は陸繋島である志賀島を占領し、周辺を軍船の停泊地とした。この日の夜半、日本軍の一部が夜襲を行ない、夜が明けると引き上げていった。

〇6月8日午前10時頃、日本軍は海路と陸路の両面から志賀島の東路軍に総攻撃をかけた。東路軍は軍船を降りて弩兵で応戦し、300人ほどに損害を与えたが、抗しきれず潰走する。先の河野通有も海路から、石弓で負傷しながらも、太刀で軍船に斬り込み、元軍将校を生け捕るという手柄を立てた。

〇6月9日、東路軍は防御の陣を固めて奮戦したが、この日の戦闘も敗戦を重ねた。この戦いで大敗した東路軍は志賀島を放棄し、壱岐島へ撤退して江南軍の到着を待つことにした。

〇6月14日、東路軍300艘が長門に襲来(実態不明)。

 ところが、頼みの江南軍は期限の6月15日を過ぎても現れず、連戦の戦況不利に加え、軍内で疫病が蔓延し3,000余人の死者を出して進退が極まったので撤退の議論をしたが、江南軍を待つという主張が通った。

 一方、その江南軍は当初の計画であった壱岐島を目指さず、平戸島を目指した。これに先だち、東路軍に向けて平戸島沖での合流を促す先遺隊を出航させた。計画変更した理由は、嵐で元朝領内に遭難した日本船の船頭に描かせた地図では、平戸島が大宰府に近く周囲が海に囲まれ、軍船の停泊に便利で、日本軍が防備を固めていないので、ここから東路軍と合流して大宰府に攻め込むのが有利という情報を得ていたというものである。〔元朝領内に遭難した日本船の船頭に描かせた地図が正しいという判断は妥当なものなのだろうか。謀略の疑いをもたなかったのだろうか。〕

〇6月中旬頃〔この時期が確かなら、当初約束した期限(壱岐島に6月15日)には間に合わない。〕、江南軍は東路軍に遅れて慶元(寧波)・定海等から出航した。航路は直接平戸島に向かうものと朝鮮半島西南の済州島を経て平戸に向かうものの二手に分かれていた。

〇6月下旬、慶元(寧波)・定海等から出航した江南軍の主力は7昼夜かけて平戸島・鷹島に到着した。平戸島に上陸した4,000人の軍勢は壘を築き陣地を構築して日本軍の襲来に備えると共に、艦船を五十歩の間隔でその周辺に停泊させた。

〇6月29日、松浦党・彼杵氏・高木氏・龍造寺氏など数万の軍勢は壱岐島の東路軍に総攻撃をかけた。

〇7月2日、肥前の御家人・龍蔵寺家清らは瀬戸浦から壱岐島に上陸し奮戦した。東路軍は日本軍の猛攻で苦戦し、また、江南軍と平戸島で合流するため、壱岐島を放棄して平戸島に向けて移動した。

〇7月27日、鷹島沖に停泊した元軍艦船隊に対して、日本軍は日中から海戦を仕掛け、夜明けとともに引き上げた。元軍は合流はしたものの九州への上陸を躊躇して進軍を停止した。鹿島に留まった元軍は土塁を築き、艦船隊は船を縛って砦として日本軍の襲撃に備えた。一方、日本側は六波羅探題から60,000余騎ともいわれる大軍が九州の戦場に向けて進軍中であった。ただ、この軍勢の先陣が長府に到着した頃には元軍は壊滅していて、戦闘には間に合わなかった。

7月30日夜半、台風が来襲し、元軍の軍船の多くが沈没、損壊などして大損害を被った。『張氏墓誌銘』によれば、誇張があるかもしれないが、約4,000艘の軍船のうち残存艦船は200艘であったという。ただ、平戸島に布陣していた艦隊は風浪対策を施していたため、被害を受けなかった。

 北九州に上陸する台風は平年3.2回ほどであり、約3ヶ月もの間、海上に停滞していた元軍にとって、偶発的な台風ではなかった。

〇閏7月5日、江南軍は、戦闘を続行するか帰還するかを議論し、撤退することになった。范文虎その他の諸将らは頑丈な船から兵卒を無理矢理降ろして乗りこむと、鷹島の西の浦より兵卒10余万を見捨てて逃亡した。平戸島に在陣する張禧は軍船から軍馬70頭を降ろして、これを平戸島に棄てるとその軍勢4,000人を軍船に収容して帰還した。帰朝後、范文虎等は敗戦により罰せられたが、張禧は部下の将兵を見捨てなかったことから罰せられることはなかった。

〇閏7月5日、日本軍は伊万里湾海上の元軍に総攻撃を開始。

〇閏7月5日午後6時頃、御厨(みくりや)海上において肥後の御家人・筑後の地頭・肥前の御家人らが元軍の軍船に乗り移って奮戦した。日本軍は、この御厨海上合戦で元軍の軍船を伊万里湾からほぼ一掃した。御厨海上合戦で元軍の軍船をほぼ殲滅した日本軍は、次に台風の後鷹島に残る元軍の軍船と諸将が逃亡して鷹島に籠っている元軍10余万の殲滅を目指した。

〇閏77日、日本軍は鷹島への総攻撃を開始。文永の役でも活躍した豊後の御家人らの手勢は鷹島の東浜に上陸し元軍と戦闘に入った。鷹島の棟原(ふなばる)でも戦闘があった。一方、海上でも肥前の御家人らが残存する元軍の軍船と戦闘し、元軍の軍船を焼き払った。これら日本軍による鷹島総攻撃により10余万の元軍は壊滅し、日本軍は20,00030,000人の元の兵士を捕虜とした。

 『元史』によると、「10万の衆(鷹島に置き去りにされた兵士)、還ることの得る者、三人のみ」とあり、後に元に帰還できた者は、捕虜となっていた旧南宋人の兵卒・于閶と莫青、呉万五の3人のみであったという。他方、『高麗史』では、鷹島に取り残された江南軍の管軍把総・沈聡ら十一人が高麗に逃げ帰っていることが確認できる。

南宋遺臣の鄭思肖は、日本に向けて出航した元軍が鷹島の戦いで壊滅するまでの様子を以下のように詠んでいる。「辛巳6月の半ば、元賊は四明より海に出る。大舩7千隻、7月半ば頃、倭国の白骨山(鷹島)に至る。土城を築き、駐兵して対塁する。晦日(30日)に大風雨がおこり、雹の大きさは拳の如し。舩は大浪のために掀播し、沈壊してしまう。韃(蒙古)軍は半ば海に没し、舩はわずか400餘隻のみ廻る。20万人は白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る舩がなく、倭人のためにことごとく殺される。山の上に素より居る人なく、ただ巨蛇が多いのみ。伝えるところによれば、唐の東征軍士はみなこの山に隕命したという。ゆえに白骨山という。または枯髏山ともいう

戦闘はこの鷹島掃蕩戦をもって終了し、弘安の役は日本軍の勝利で幕を閉じた。

この戦いによって元軍の海軍戦力の2/3以上が失われ、残った軍船も、相当数が破損された。

 

「弘安の役」では7月30日夜半の台風が戦況に大きく影響したといえるでしょう。

しかしながら、「弘安の役」は気象を戦術に生かしたわけではありませんから、この本(実際的戦術の解説書)に「弘安の役」が取り上げられていないのは当然だった訳です。

 

カバー・表
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カバー・裏
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目次(P.6)目次(p.7)
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目次
(P.8)
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2019年7月30日 (火)

イザベラ・バード『日本紀行 上・下』

イザベラ・バード『日本紀行 上・下』

差別と貧困[読書] 

 47歳のイザベラ・バードが精力的に日本各地を旅行し、イギリス人女性の眼で(当然に偏見もある)日本人と「日本文化」(注1)を観察して率直な意見を記したのは、その明治十一年(1878年)頃のことです。
〔注1 アイヌ人と「アイヌ文化」も記されています。〕

 もちろん当時の視点(「未開」と「文明」という視点)には問題点もありますが、それよりも私が重視したのは、同じ人物が同じ視点でわが国(「大日本帝国」)と隣国(「大韓帝国」)を記述している(『日本紀行』・『朝鮮紀行』)というところです。つまり、アジア人に対するヨーロッパ人の差別意識があろうとも、イザベラ・バードの眼を通して(間接的な比較ではあっても)「日本文化」と「朝鮮文化」を比較することが可能ということなのです。

  今日、隣国(「大韓民国」)との関係がもつれているのは、双方の「歴史認識」が異なることにもよりますが、それ以上に「コミュニケーションの取り方の違い」(他文化の人々に相対する際の態度の違い)が大きいように私には感じられるのです。それは「国民性」という言葉や「民度」という言葉で語り得るのかも知れませんが、それら(「国民性」や「民度」)を語るに際しては「その違いは何によってもたらされたのか」という「問い」が先に立ちふさがってきます。私は、「国民性」にせよ「民度」にせよ、長い時間をかけて醸成された「文化的習慣」によってもたらされたのではないかと考えています。

  「文化的習慣」は「コミュニケーション」には欠かせないであろう「自己認識」や「倫理意識」や「発想法」や「対話法」などについて、他文化とは違ったものを培ってきたはずです。つまり、過去の習慣の積み重ねによって現在の状態が形成されてきたと考えられます。わが国の明治期が(肯定するにせよ否定するにせよ)江戸期の文化的習慣を「下敷き」にしていれば、隣国の大日本帝国への併合期は李氏朝鮮期の文化的習慣を「下敷き」にしていると考えられます。そして、どちらの国民にも、その文化的習慣が「意識されないで」(「無意識に良いものとして」、少なくとも「悪いものとは意識されずに」)引き継がれているのではないでしょうか。

 「文化」の評価は理性によって可能であるとしても、「文化」そのものは無批判に(それが良いと意識に上がらずに)受け入れられているから、理性によって意識しないと「始末に負えないもの」となって「感情を支配する」のです。

 『朝鮮紀行』と『日本紀行』を読むことによって、このことに気づくことができるのではないか、と考えて読んでいます。

カバー・表 『日本紀行 (上)(下)』
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カバー・裏 『日本紀行 (上)(下)』
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凡例 イザベラ・バード『日本紀行 (上)』
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目次1 イザベラ・バード『日本紀行 (上)』
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目次2 イザベラ・バード『日本紀行 (上)』
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目次3 イザベラ・バード『日本紀行 (上)』
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目次4 イザベラ・バード『日本紀行 (上)』
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目次5 イザベラ・バード『日本紀行 (上)』
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目次6 イザベラ・バード『日本紀行 (上)』
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目次7 イザベラ・バード『日本紀行 (上)』
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目次8 イザベラ・バード『日本紀行 (上)』
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目次9 イザベラ・バード『日本紀行 (下)』
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目次10 イザベラ・バード『日本紀行 (下)』
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目次11 イザベラ・バード『日本紀行 (下)』
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目次12 イザベラ・バード『日本紀行 (下)』
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目次13 イザベラ・バード『日本紀行 (下)』
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目次14 イザベラ・バード『日本紀行 (下)』
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目次15 イザベラ・バード『日本紀行 (下)』
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2019年7月22日 (月)

今月の読書2

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

加藤陽子著(新潮社、新潮文庫)

今日も高速バスの中で上記書を読んでいます。歴史学の面白さを楽しめる本です。私が面白いと思ったのは、何が何と因果関係があると考えるか、というところです。

2019年7月21日 (日)

今月の読書

イザベラ・バードの『朝鮮紀行』

李氏朝鮮末期の隣国がわかる―[読書]

今、高速バスのなかで、イザベラ・バードの『朝鮮紀行』(講談社、講談社学術文庫)を読んでいます。いろいろ気づくことがあります。ためになる本です。

【追加】(2019/07/29)
表題及びカバー・目次の画像を補いました。

カバー・表
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2019年6月 6日 (木)

息抜きも必要だが気が抜けなかった

息抜きも必要だが気が抜けなかった
―「柿の種」をネタに―[][芸術]

 古代史に限らず何かを探求するのはとても面白いものですが、根を詰めると疲れるものでもあります。そんなときは、亀田製菓の「柿の種」をつまみにサッポロビールの「麦とホップ」(500ml缶)をやることにしています。以下、雑談なので聞き流すか無視していただけば幸いです。

 亀田製菓には一言いいたいことがあります。商品名は「柿の種」だけど中身は「柿の種・ピーナッツ」ではありませんか!(☚大人げないこと言っています

 私の知っている限りでは、亀田製菓の「柿の種」には「9袋詰」と「12袋詰」があります(他にもあるでしょう)。今回はスーパーマーケットで購入した「12袋詰」のお話です。とは言っても「袋詰」の話ではなく中に入っている小袋、それもそこに書かれている「こばなしのたね」についての話です。

 

 律儀に「こばなしのたね」に振られている番号順に紹介します(スペースは改行です)。

①(その20)「ママチャリは 海外でも大人気!」…それだけの話

②(その23)「おいしいものが 出てくる蛇口」…宇治の小学校のお茶、松山空港のミカンジュース、高松空港のうどん出汁が蛇口から出るという話(つまり、所かわれば品かわるという話)

③(その25)「赤ちゃんの泣き声の 音階は「ラ」!」…身体の構造上、世界共通でだいたいこの音しか出せないという話

④(その27)「実は意味があった! 信号機の向き」…降雪地方の積雪で壊れるのを防ぐという話

⑤(その29)「お日さまの匂い その正体はコレ」…綿のセルロースが紫外線で分解されたアルデヒド・脂肪酸・アルコールなどの匂いだという話

⑥(その30)「1円玉の製造費は 1円以上!」…1.6円~2円の費用が掛かっているという話

⑦(その32)「北極と南極、 寒いのはどっち?」…北極は海上にあるので南極の方が寒いという話

⑧(その35)「食味検査員」…厳しい試験をパスした検査員が品質を支えているという宣伝話

⑨(その44)「「ハンバーグ」の 語源」…ご存知ドイツのhamburgという話

⑩(その49)「弘法の筆は何を “誤った”のか?」…平安京の「應天門」の点を一つ書き忘れた話

⑩(その49)「弘法の筆は何を “誤った”のか?」

ガーン!同じ「こばなしのたね」が入っていた!これでは「11袋詰」ではないか!

⑫(その50)「そんなに甘くは ありません!」…ホテルのsuite roomの話

中身を読む前に題名に「コノヤロー!」と思わずつぶやいてしまった。

 この年(古希)になると、えらくもないのに(年齢を重ねるのに努力は要らないから)、そんな話は知っとるわいと、ほざいてしまった。しかし、③と⑩は事実かどうかは心もとない話である。⑩はよくある「講釈師、見てきたような嘘を言い」ということなので、目くじらを立てるほどのことでもない。

 だが、③は今でも確認できる話だけれども、それを確認しようとも思わない程度の話(噂話)である。ただ、ISO(国際標準化機構)の回し者(900114001の監査員)をやっていたせいで、「ラ」ってISOで「A=440Hz」だったはずだなと思ってしまって、確認するためにググってしまった。

ググるんじゃなかった!後悔先に立たず、である。

 基準周波数Aというのは、ISOごときが太刀打ちできるしろものではなかったのである。次のサイトをご覧ください。

基準周波数A=440Hzって何?

2019年5月23日 (木)

北條芳隆氏編『考古学講義』

北條芳隆氏編『考古学講義』

再発防止はできたか―[読書]

 

北條芳隆氏編『考古学講義』(筑摩書房、ちくま新書1406、二〇一九年五月一〇日、ISBN978-4-480-07227-6

カバーと帯
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目次1
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目次2
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目次3
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目次4・はじめに1
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はじめに2
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はじめに3
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上に掲載した写真「はじめに」(山田撮影)のブログ記事に引用した部分には傍線を引いてあります。

 カテゴリ―[読書]は、これまでは少なくとも一読したところでブログに掲載してきました。しかし、今回は「はじめに」に重大な問題提起がなされていたため、それについて一考してみました。

 まず、北條芳隆氏は考古学を「はじめに」の冒頭で次のように定義しています。

…………………………………………………………………………………………………………………………

 物的証拠にもとづいて、過去の人間の活動を復元する営みが、考古学である。

…………………………………………………………………………………………………………………………

つづけて次のように述べています。

・基本は「発掘調査」…出土した遺構や遺物の観察と分析

・研究法は「層位学」と「型式学」

・1990年代までの日本の考古学は主にこれら二つの方法に依拠して研究を遂行してきた

 

 私は「考古学」は素人なので確言はできませんが、「層位学」とは「地層が含む遺物・遺構の時間的な前後関係を中心とする情報を引き出す(Wikipedia)」研究法で、「型式学」とは「考古資料とくに遺物の形態・材料・技法・装飾などの諸特徴によって分類された型式(type)を、年代的な変遷をたどり、地域的な相互比較をおこなって、その遺物(型式)の時間的ないし分布上の位置関係、さらに型式相互の関係性を明らかにしていく(Wikipedia)」研究法ということであれば、絶対年代の特定は他の方法によるしかないものです。どんなに頑張ったところで「層位学」と「型式学」だけでは「相対年代」しか論じられない考古学の研究法です。この点は極めて重大で、1990年代までの日本の考古学は、絶対年代の特定ができない考古学だったということになります。

 そこで北條芳隆氏は新たに開発された分析法として次を挙げています。

・材料分析……金属や玉類

・圧痕分析……栽培植物

・遺伝情報分析……過去の人間(人骨・歯など)

しかし、これを加えたところで絶対年代の特定はできません。ついに絶対年代が特定できる研究法が挙げられます。

・放射性炭素年代測定……C14(アイソトープ)により絶対年代が測定できる

・年輪年代測定……過去の気候変動と年輪の成長とで絶対年代が測定できる

この「放射性炭素年代測定」と「年輪年代測定」こそ、世界の考古学の主流となっていたにも関わらず、1990年代までの日本の考古学が頑として受け入れを拒んでいたものなのです(意図的にです)。

拒んでいた理由は簡単です。これまで考古学が確立した編年が崩れるかもしれないという恐れがあった、これです。そのことは北條芳隆氏の次の言葉で明らかです。

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なにより重要な転換は、日本列島内部の情勢に限定して物事を解釈する見方から脱却し、東アジア地域全体のなかで、あるいは地球的規模で生起した動向に起き据えながら問題を把握し理解する方向性が定着したことである。文化人類学や心理学などの成果を取り込む動きも活発であり、閉鎖系からの開放だといってもよい。先にみた上高森事件の教訓は、この点においてもっとも有効に活かされている。

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北條芳隆氏の言葉通りであれば誠に目出度いのですが、はたしてそうでしょうか。

 まず第一に指摘すべきことは、「(過去の)日本列島内部の情勢」など見てきた考古学者がいるはずなどない、ということです。すなわち、「日本列島内部の情勢に限定して」という意味は「『日本書紀』に書いてあることに限定して」ということなのです。それを「日本列島内部の情勢に限定して物事を解釈する見方」としか言えない(何かに忖度している)こと自体が問題であるといえるでしょう。

 北條芳隆氏の論理は次のように思えます。

(1)新たな分析法が開発され飛躍的な発展をみせた

(2)『日本書紀』の記述に限定して物事を解釈する見方から脱却し、世界史的に問題を把握し理解する方向性が定着した

(3)社会の側から忌憚のない批判が寄せられる環境になった

 

  • (1)について言えば、新たな分析法を考古学界がネグレクトしてきたことへの反省が微塵も感じられない。世界の趨勢にいやいやながら着いて行かざるを得なくなったに過ぎない。
  • (2)について言えば、「考古学」は「歴史学(一元史観の文献史学)」の下女(はしため)の地位に甘んじてきた(『日本書紀』に合うように解釈してきた)反省がないまま(今だに恐る恐るのへっぴり腰)で「定着した」と言えるはずがない。
  • (3)について言えば、外部要因だけであって自ら内部要因を解明して問題点を改善して再発を防止しようとした痕跡が見られない。

 これだけ言うにはそれ相当の理由があるので、それを示しましょう。上高森事件を例にとります。

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 二〇〇〇年秋に発覚した上高森(かみたかもり)事件は、層位学を逆手に取った捏造行為であった。前期旧石器時代に該当する地層中に縄文時代の石器などが事前に埋め込まれ、直後に他者の手で掘り出されるよう誘導された。手口は確かに巧妙であった。

 とはいえ前期旧石器時代の層位に縄文時代の石器が混じったとしても、それを識別できないはずはなかった。型式学が作動するからである。事実、件の出土品は明らかに後の時代の混入だとの指摘は早くからあった。しかしそのような批判は学界全体に届かず、一部の専門的考古学者は、日本列島在住の前期旧石器人は卓抜な優秀さを誇る“旧人”であったに違いないとの見解を表明してしまったのである。

(「はじめに」009頁6行目~010頁1行目)

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 再発防止の観点から見ると次の点が重要です。

「型式学が作動」して「件(くだん)の出土品は明らかに後の時代の混入だとの指摘は早くからあった」のに

・「そのような批判は学界全体に届かず」だったのは何故だろう。

・「一部の専門的考古学者は、日本列島在住の前期旧石器人は卓抜な優秀さを誇る“旧人”であったに違いないとの見解を表明」したのは何故だろう。

これが「内部要因」なのです。「内部要因」つまり「考古学村」が起こした事件なのに、起こした本人の責任だけ問い、世間に対して肩身が狭いことから、①新たな分析法が開発され飛躍的な発展をみせた、②『日本書紀』の記述に限定して物事を解釈する見方から脱却した、③世界史的に問題を把握し理解する方向性が定着した、④社会の側から忌憚のない批判が寄せられる環境になった、だから「考古学」は信頼されてよい、と言っているだけと受け取れるのです。

 「考古学界」という「考古学村」の「内部要因」は果たして究明され、改善のための是正処置(再発防止措置)が取られたのでしょうか。

 北條芳隆氏が執筆を依頼した一三名が、北條芳隆氏の付託に答えられているかどうかが楽しみな一冊です。

上高森事件の「経緯」(Wikipediaより抜粋)
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2000年11月の発覚当時、「捏造」を行っていた藤村新一は民間研究団体「東北旧石器文化研究所」の副理事長を務めていたが、彼が捏造を開始したのは1970年代にアマチュアとして、宮城県の旧石器研究グループ「石器文化談話会」に近づいた時からだった。同会は、日本における前期旧石器の存在の可能性をかねてより唱えていた芹沢長介東北大学教授の門下生・岡村道雄をリーダーとした考古学者らと藤村のような在野の考古学愛好者らから成る発掘調査チームだった。藤村は捏造発覚までの約25年間、周囲の研究者が期待するような石器を、期待されるような古い年代の土層[1](ローム層)から次々に掘り出して見せ、そのことによってグループにとって欠かせない人物として評価され、後に「神の手」と呼ばれるまでになった。また、そうした「考古学的大発見」を町興しや観光につなげたい地元関係者からも歓迎された。

しかし、「発見」された遺物の9割方は、彼自身の手によって表面採集されたり発掘されたものであり、他人の手によって発掘されたものは、彼があらかじめ仕込んでおいたものとされている。彼が掘り出して見せたり、埋められていた石器は、自らが事前に別の遺跡の踏査を行って集めた縄文時代の石器がほとんどであると考えられている。ただし、それらの遺跡は東北地方のどこかのはずだが、完全に追跡され、突き止められるには至っていない。捏造された「偽遺跡」は、宮城県を中心とし、一部北海道や南関東にまで及んでいる。

毎日新聞のスクープで指摘されたのは、宮城県の上高森遺跡および北海道の総進不動坂遺跡だったが、彼のかかわった全ての遺跡について再点検が行われ、彼のかかわった「石器」の多くに発掘時の「がじり」[2]ではありえない傷や複数回にわたって鉄と擦過した痕跡である「鉄線状痕」などが認められた。また一部の遺跡について再発掘が行われ、掘り残されていた捏造石器が発見されるに及び、捏造が確定するに至った。このため、上高森遺跡をはじめ、座散乱木遺跡・馬場壇A遺跡・高森遺跡など、多くの遺跡が旧石器時代の史跡としての認定を取り消されたりした[3]

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2019年5月22日 (水)

渡邉義浩著『漢帝国――400年の興亡』―儒家はどのようにして漢帝国にすり寄ったか―

渡邉義浩著『漢帝国――400年の興亡

儒家はどのようにして漢帝国にすり寄ったか[読書]

 

渡邉義浩著『漢帝国――400年の興亡』(中央公論新社、中央公論新書25422019年5月25日、ISBN978-4-12-102542-5

 この本は、もちろん書名通り「漢帝国」の話ですが、「儒家はどのようにして漢帝国にすり寄ったか」ということが書かれているという印象でした(読む人によって印象が違うとは思います)。

カバーと帯
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