「鼠」再論(二)
―「鼠」とは(Skype勉強会資料)―[コラム]
これで、鼠再論(一)~(四)の掲載が完了しました。(一)・(三)・(四)はリンクからご覧ください。
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「鼠」再論(二)
「鼠」とは(Skype勉強会資料)
上田市 吉村八洲男
1.始めに
私論の前に、一枚の写真をご覧頂こう。私の住む長野県上田市の実景である。

上写真、手前に映るのが地域中心を流れる「千曲川」、正面に屹立する崖を「半過(はんが)・岩鼻(いわばな)」と呼ぶ。「〇」は、再構築された山城跡である。
実は、この写真とこの近辺には「鼠」が溢れている。紹介してみよう。
崖には不自然な洞穴が数カ所あると確認されるが、上田(塩田)の民話ではこの洞窟は「鼠」が掘ったものだと伝わる。その「鼠」は、「から猫」に退治されるのだ・・・
〇印の「山城」は、「鼠」の造った「物見台」が始原なのだという(塩田民話とは別伝承の中にある)。「いわばな」の語源は、「岩花・岩端」(山の突端)に由来し「物見台」から中世には「山城」となったと言われ、現在はそれが復元されている。
「岩鼻」崖の右の平地(「千曲川」の岸)には関所があり、その近辺の賑わいから「鼠」宿場(坂城町を通る北国街道の宿場名・江戸期に隆盛した)が始まった(現在も「ねずみ」名が「字」名として残る)。
そして、3㎞ 程離れた「坂城神社」には、ここが「鼠族」により創建された神社だと書かれた「由緒書き」が残る。これらは「上田盆地・西側」のことだが、「東側」地域とて無縁ではない。
上田市の東に隣接する「東御(とおみ)市」に、「祢津(ねつ)」地区・「祢津神社」があるがその地名由来は「鼠」からと言う説が強い。「音」が変化したものという。そして、軽井沢から上田市に到るほぼ直線状の今に残る道路を「祢津街道」というが、これも「鼠(祢津)」地名と関連すると推定されている。
私の住む上田市の周辺は「鼠」だらけなのである。ざっと数えても6ヶ所がある。その全てが今に残っている。そして、「日本書紀」にだけ「鼠」語が残るのではないと声を大に主張する。
私は「鼠」に囲まれ、育ち、生活してきた(日本にはこんな所はないだろう)。だから「鼠」問題に感慨を持たざるを得ないのだ。論考対象は「日本書紀」「鼠」だが、「鼠・ねずみ」は私の身近にあるとも言えるからである(全国でも「ネズミ」地名を今に残している所が多い)。
こんな私の思い入れであるが、それが「日本書紀」「鼠」論考の根拠になり得ないとも承知している。私論に納得して頂けるかどうかはこれからの展開次第なのだ。
さて、前回の私論(一)では、永年の見解でもあった【「鼠」=「烽燧制」の人々(「烽」・「候」に従事した人々)】という解釈を主張し、彼らの呼ばれ方は「職務内容」を示す「不寝見(ねずみ)」音との類似によるもので、そこから「日本書紀」中の「鼠」語・表現が始まったと述べた。
ただ、それだけでは「日本書紀・鼠」問題がすべて解決するとは思えず、改めて多元歴史観による新たな「鼠」論・解釈が必要となるとも最後に主張した。
それを受け、部分的な変更があるやもしれぬ自説を新たに主張したい。ご迷惑とは思うが、再度のお付き合い頂ければと思う。
2.「日本書紀」の「鼠(ネズミ)」
さて「日本書紀」には、「鼠」語が9ヶ所出現する。その解釈が古来難問とされて来たのだが、ここではこれからの説明を解り易いものにする為、各「天皇紀」別に「鼠」が含まれる語句・含まれる文章を取り出してみた。①から⑨までとなる。
鼠例①景行天皇十二年鼠石窟
「(中略)茲山有大石窟、曰鼠石窟、有二土蜘蛛、住其石窟。一曰青、二曰白」
鼠例②皇極天皇弐年(643)鼠伏穴
「(中略)古人大兄皇子、喘息而来問、向何処。入鹿具説所由。古人皇子曰、
鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行。」
鼠例③孝徳大化元年(645)鼠向難波
「冬一二月(中略)、天皇遷都難波長柄豊崎。老人等相謂之曰。自春至夏、鼠向難波、
遷都之兆也。」
鼠例④孝徳大化弐年(646)越国鼠
「是歳越国之鼠昼夜相連向東移去」
鼠例⑤孝徳大化三年(647)鼠向東行
「造淳足柵、置柵戸。老人等相謂之曰、数年鼠向東行、此造柵之兆乎。」
鼠例⑥孝徳白雉五年(654)鼠向倭都
「五年春正月(中略)、鼠向倭都而遷。」
鼠例⑦孝徳白雉五年(654)鼠向倭都
「一二月(中略)皇太子奉皇祖母尊遷居倭河辺行宮。老者語之曰、鼠向倭都、遷都之兆也。」
鼠例⑧天智称制元年(661)鼠産於馬尾
「夏四月、釈道顕占曰、北国之人、将附南国。蓋高麗破、而属日本乎。」
鼠例⑨天智称制五年(666)京都之鼠
「是冬、京都之鼠、向近江移。」
「景行紀」・「皇極紀」に各1ヶ所、「孝徳紀」に5ヶ所、「天智紀」に2ヶ所、計9回が「日本書紀」に出現する。出現数からは「孝徳紀」5カ所の「鼠」は特別視されていいだろう(年号も「大化」「白雉」両方に跨る)。
「鼠」語への研究史を振り返ると、「鼠」語が出現している古文献への解釈では大きく2つに大別されていたようだ。「一志茂樹」氏が指摘したように、『「鼠」を「齧歯目」の動物』として扱うか、それとも何かを「鼠」に例えたか、の二用例であると思われる(それについての「一志」氏の見解は、すでに言及した)。
確かに「日本書紀」での「鼠」語は意味不明と言える。どちらか一方だと決めにくいのだ。だからこそ諸先賢がその解明に挑戦したのだが、そこにはある盲点ともいえる固定観念があったと思える。
それは、「書紀」での9例が、ある「解釈」によりそのすべてが解明されると信じた事である。その様な「鼠」語解釈がある筈だと信じたのである。
古文献には様々に解釈された「鼠」語が登場していたが、「日本書紀」では意味(解釈)の統一された「鼠」語が登場・使用されたと信じたのである。だから諸先賢それぞれの「鼠」語解釈が生まれてくる。その結果「鼠」語解釈議論はまさに「百家鳴争」状態となり、だから「鼠」語の理解は一段と困難となっていると思える。
そこで私は提言したい。
『9例全てに当てはまる「鼠」語解釈はあり得ない』、と。
登場した全ての「天皇紀」で「鼠」語が同意(義)を示しているとは思えないのだ。一つの解釈で9例の語句・文のすべてが理解されるとは思われないのである。
「鼠」語が、古文献では様々な意味で使用されたように、「日本書紀」での「鼠」語も、それぞれの「天皇紀」で異なる意味から使われたのではないだろうか。「天皇紀」毎に「鼠」語を理解して良いのではないか、私はそう思う。そしてこう考えると「鼠」語への理解が一挙に進むのが不思議である。
3.「孝徳紀」以前の「鼠」
これを証明するように「孝徳紀」前の「鼠」語(文例①景行紀、②皇極紀)には、先賢によるほぼ定説化された解釈が成り立っているように思える。
こう解釈されている(もちろん異論はあるが)。
鼠例 ① 「景行紀」―鼠石窟―
景行天皇に服従せず敵対する「土蜘蛛」たちの住む場所を「鼠石窟」と蔑称したのだが、「日本書紀」の「景行天皇・熊襲征伐譚」自体が、九州王朝による九州統一譚を盗作したものと既に「古田武彦」氏により論証されている。
だから、ここの「鼠」とは、九州王朝による支配に抵抗し、敵対した「先住異部族(土蜘蛛・熊襲)」に対しての言葉で、彼らを『「鼠」が棲むような住居にいる人々』と嘲ったことからと思われる。
「鼠」語は、小動物として持つ「負」のイメージがそのまま利用され使われている。九州王朝支配に逆らう彼らは討伐されて当然な人々、「鼠石窟」に住む「鼠のような薄汚れ・力のない動物」と書かれている。
抵抗する反体制派を弱くみすぼらしい小動物「鼠」として描くのだが、同時に民意の支えのない征服されて当然な少数派としても描かれている。文中に「二人」の「土蜘蛛」と書かれるからである。敗者は、初めから少数とされたと思える。
鼠例 ② 「皇極紀」―鼠伏穴―
「山背大兄王」が挙兵した時「蘇我入鹿」はその討伐に向かおうとするが、「古人大兄皇子」に『「鼠穴」から出た「鼠」には「死」が待っているだろう』と言われ、出兵を思い留まった際の描写で、その時使われた。だからここでの「鼠」とは「山背大兄王」を示していると思える(この予想通りに「山背大兄王」は討たれる)。
ここでも「鼠」語は、鼠例①と同じように「負」のイメージを持つ小動物として使用されていると思える。だから、「鼠」と呼ばれてしまった「山背大兄王」は、体制に反した勢力、討たれるべき人々と「「古人大兄皇子」に判定された事になる。又、鼠例①と同じように、この勢力への賛同者の少なさが暗示されているかも知れない。
いずれにせよ鼠例②も鼠例①と同じ用例を示すと私には思われる。『「体制」に反する人々』を「鼠」と呼称したのである、それが「鼠」語なのだ。「鼠」を、「無能な為政者」と捉える中国古典由来の「鼠」解釈がそれと重なったと思える。例①・例②へのこの解釈は、先賢の共通した理解になっていると思ってよい。
だから、よく唱えられる『「鼠」とは「九州王朝を示す」』という判断は即断過ぎると言える。この鼠例①、②からは、「「鼠」語は即、九州王朝を示す」とは断定出来ず、そう解釈してはこの文脈では「鼠」理解が成り立たないからである。
例①では「九州王朝」が征伐した相手は「鼠=熊襲」で、「鼠=九州王朝」ではない。だからその解釈は絶対にありえないと思われる。さらに例②のフレーズだけからは、「山背大兄王」が「九州王朝勢」であったとは即断出来ないだろう(現体制を批判する勢力ではあっても)。
鼠例①・例②は、「九州王朝」を指し示してはいないのだ。だからすべての「鼠」語が「九州王朝を示す」とは断言出来なくなる。
では「孝徳紀」鼠例③からの解釈はどうなのだろう。私はここからの「鼠」解釈をそれまでと異なったものにしてよいと判断する。間接的にせよ「九州王朝(その一部門)」を示すとして良いと思う。理由は、原文(日本書紀)への理解からである。そう言っていると思えるのだ。
4.「孝徳紀」の「鼠」語例③
前述したように、「日本書紀」「9例」中の「5例」、つまり半数以上が「孝徳紀」に出現する(鼠例での③~⑦)。それにまず注目すべきだろう。そして驚くことに「孝徳紀」の「鼠5例」には共通した解釈が可能となる。「孝徳紀」に描かれた「鼠」は、それまでと異なるのだ。
根拠とするのが「孝徳紀」での最初の使用例、鼠例③への解釈である。この「鼠」解釈を丁寧に行うと見えてくる事があるのだ。読み解いてみよう。
鼠例 ③ 孝徳大化元年(645)―鼠向難波―
「冬一二月・・・、天皇遷都難波長柄豊崎。老人等相謂之曰。自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也。・・・」
(冬一二月・・・孝徳天皇は「難波長柄豊崎」へ遷都した。老人たちは、「鼠」が春から夏にかけて「難波」へと向かって動いたのは遷都の兆しだった、と言い合った。)
見逃してしまうがここには重要な事実が述べられている。それが今迄と異なる解釈を可能とする根拠となる。
孝徳天皇は「難波長柄豊崎宮」へ遷都する。一二月の事である。が、その年の春・夏には既に「鼠」が動いていた。ところが、老人たちにはその理由が不明だったと書かれる。「難波方面」に「鼠」が動いていく、程度の判断だったのだろう。
遷都が実行されようやくその理由が判明する。「鼠」の動きは「遷都の兆し」だったと思い至るのだ。つまり春・夏時では「鼠」の動きが何を意味するのか不明だったと言うのだ。ここから「鼠」語解釈に際しある推論が生まれる。
当然ではあるが「遷都」がいきなり実行される訳ではない。思い立ったらすぐに移動出来る現在の引っ越しとは全く違うからだ。一定の準備期間が必要になるのだ。場所の選(設)定・担当役職・人員の手配などが決定され、重要な各種工事が順序(工程)に従い進められて行くことになる。
だから「鼠」の動いた期間とは、これら遷都準備期間のどこかに位置される事になる。「孝徳紀」ではそれが「春から夏」の期間と書かれている。12月に「都」が完成するのだから、「鼠」は「秋・冬」と続いた工事すべてには関与していない。「全工事日程」の前半に「鼠」が動いていた事になろう。
「遷都」事業は「鼠」から開始されたとも言えるが、それは気づかれない動きだったと書かれている。振り返った時それが「兆し」だったのだ、と老人たちが驚くと書かれている。
つまり「春・夏」の「鼠」の動きは、「遷都」を予告する動きとは考えられていなかったのである。あちこちで動き回る「鼠」を見聞していたのだろう、「難波・長柄」へ向かう「鼠」の動きだけでは「長柄遷都」を予測できなかったというのだ。
そして重要なことがここから推測される。数年後には抗争を繰り広げる相手、つまり九州王朝勢ではない「孝徳天皇」(大和王朝勢)の「遷都」準備に「鼠」が動いていた事である。理由は不明だが、そう書かれているのだ。
そこからは、少なくとも「孝徳天皇」の造営を「鼠」は承知し、理解していたとも読み解ける(指示があったのか)。「遷都」に際しその造営主体者に「鼠」が敵対していないとも解る。助力しているとさえ読み取れる。「日本書紀」にはそう書かれているのだ。
だから後に鮮明となる両王朝対立の構図はこの例文からは読み取れない。この時の「鼠」は、大和王朝の行った事業に参加・協力していると読めるからだ。ここがポイントと思う。『両王朝の事業に「鼠」は参加・行動している』のである。
そしてここから、前私論【「鼠」=「烽燧制」に従事した(「烽」・「候」)人々】説が成立しない。なぜなら「烽燧制」は、体制(九州王朝)支配を維持する為の軍事制度だからである。前論で私は、『「鼠」とは「烽」・「候」の人々』と主張した。その時彼らは体制内の人々となる。ところがその「鼠」は、「孝徳天皇」の事業・「遷都」の下準備に協力さえしているのだ。これでは矛盾した行動を採ったといえるだろう。「指示された」と考えられるが、前「私論」の主張のままではこの「鼠」行動を整合的にすんなりとは説明できないのだ。
更に「烽燧制」は「情報が伝達する道」を意味している。だから、重要な情報(軍事機密も)が届くのは「倭王」の住む「倭京(倭都)」であろう。理由は簡単で、王者がそこにいるからである。だから「烽燧」からの情報は「孝徳天皇」が住む「長柄豊崎(宮)」には届かない。「造都」の手助けはしても、「孝徳天皇」の為に「鼠」が別「烽」(烽燧制)を築いたとは想像も出来ないのだ。
やはり「鼠」が「烽燧制」を支えた「「烽人」・「候人」とは思えない。「鼠」が、孝徳天皇の「遷(造)都」準備をしていた事が重要な意味を持つのだ。後の時代には敵対したであろうがこの時点では両者は争っていないと思われるからだ。鼠例③からは、『「烽燧制(軍事制度)」だけでは「鼠」像を正しく解釈できない』と判断されるのだ。
5.鼠例③が示すもう一つの事実
鼠例③で使用された「鼠」語から、「鼠」実像に重大な疑問が生まれる。『彼ら「鼠」は、兵士・戦闘員か』という疑問だ。
答えは明白と思うのだが、いままでの定説はそうではなかった。だからここを明確にする事が「鼠」語・像の理解に際し重要な事となる。
「孝徳紀」鼠例③では、彼らが遷都の準備をしたと説明されていた。が、そこで戦いを起こしたとは一言も書かれていない。彼らの行動は、遷都(都を造る)の予兆だったと書かれているだけだ(その「都」は、一二月に完成する)。
ここからは、「鼠」が『戦いという破壊行動ではなく、造都という建設行動』をとっていた、と断定される。「春・夏」の「鼠」の行動は「造都」の準備と言えるのだから、兵士(戦闘員)の行動ではない。「鼠」は兵士(戦闘員)ではないと「孝徳紀」は言っているのである。
ところが次の鼠例④⑤からは、なぜか定説となっている「鼠=兵士・戦闘員」解釈が生まれている。これでは鼠③での「鼠」像の推定とは合致しない。私には、鼠例④⑤を根拠とした定説への再考が必須と思われる。
定説は、鼠例④⑤での「越国鼠」の動きを「造柵之兆」と判断する、そこから「鼠は兵士(戦闘員)であろう、柵を造るのだから」と推定されている。
これが鼠例③からの類推と決定的に矛盾する。戦わず「建設」する「鼠」(例③)と、戦い「破壊」する「鼠」(例④⑤)とは、同じ「鼠」がとった行動とは思えないからだ。
「孝徳紀」で、しかも「孝徳大化元年」と「二年」に用いられた「鼠」語にこんなにも明瞭な意味・用法の差異が出るのはおかしい。どちらかの解釈が誤っているのではないだろうか。
そこで鼠例④⑤での「柵」解釈がもう一つのポイントとなる。果たして「鼠」は兵士(戦闘員)と言えるのか、そこから確認出来るからだ。
鼠例⑤で、「鼠」は「東行」し「造柵」を行っている。それに疑問はない。だが肝要な事はそこでの「柵」語への解釈である。この鼠例⑤での「柵」語への解釈を正確に行う必要があろうかと愚考する。
今迄はこの「柵」を、敵勢力中の「橋頭保」、つまり敵との戦闘の足掛かりとして築かれた「小さな拠点・砦」と考えてきた。だから「造柵」を行う「鼠」を即「兵士・戦闘員」としたのである。
しかし「柵」語をそのようにだけ理解していいのだろうか。そんな「柵」もあれば、前線情報を集約し戦闘員・兵站などを補給する「前線基地」としての「柵」もあった筈だ。それは戦闘地域に作られた「広く大きな拠点」でその中には集落・他があり、周囲は「柵」で囲まれていたと思える。
私論(一)では、中国・漢時代の軍制を例示した。この王朝がそれに影響された軍事組織を持っていたとすれば、この「柵」は最前線にある「砦」ではなく、「燧長」や「候官」が属する砦で、「田制(でんせい・屯田兵制度)」をも持った「砦」と考えられる。「漢の軍制」は「柵」をそのように位置付けているからだ。
また、諸橋徹次「大漢和辞典」からの『柵』語説明でも、2種類の「柵」解釈が示されている。
『柵』には、A.「まがき」・「とりで(砦)」などの用法(意味)と、B.「村のやらい(矢来・境界線)」という用法がある。明らかに異なる用法である。
A.の解釈なら、「柵」は「戦闘に際しての拠点・砦」つまり「小さく、狭い」地点を示すが、B.の解釈なら「柵」は広い地域を取り囲む様にして作られたと思える。
どちらの意味から使用されたのか「孝徳紀」鼠例⑤の紀述を追ってみる。
原文には、『「造淳足柵、置柵戸。」』と書かれている。すぐわかろう。『「柵戸」を「置く」』とハッキリ書かれているのだ。だから「柵」を、A.とは即断できないと思われる。「淳足柵」には「柵戸」が置かれていたのである。
「大漢和辞典」は、この「柵戸(キノエ)」を更にこう説明する。「古、陸奥・出羽・越後に設けた城柵の内に土着させられた民戸。屯田兵。きべ。」
となると例⑤での「柵」語はB.の意味からとなる。「柵」の内側には「農民の戸(家)」が置かれ水田もあったと予想されるからだ。「矢来」でそれらを囲っていた事となる。「柵」語が示した地域は広いと思われ、やはりB.の解釈である。
「鼠」は、戦場の一拠点としての「柵」(「砦」)を造ったのではなく、広大な地域を占める「柵・柵戸」の一部を築いたと思われる。つまり「造柵」とは、B.の用法(意味)からなのだ。
鼠例④⑤から、『「鼠」は戦闘員(兵士)だ』と断定してきた今迄の定説を見直す必要があると愚考する。
「日本書紀」では、すぐ後に「磐舟柵(大化4年)」が紀述される。そこにも同じ表現(「柵戸」)がある(その時は、「越と信濃」の農民がそこに派遣されたと書かれる)。この時も「柵」とは「柵戸」で、B.の用法から使用されている。
「柵戸」は、「戦いの拠点・砦」には作られない。そこで「生産する」のだから広い「柵」領域内に造成され設置されたと思われる(「城柵内」に、田や建造物があった)。
このように「柵」語の意味・解釈が違うのだから、当然「造柵」した「鼠」の役割も違ってくる。「鼠」は「柵」で敵と「戦う」のではなく、「柵」でその一部を「建設」すると解釈されなくてはいけないだろう。「鼠」は「兵士・戦闘者」だと断定できないのだ。「鼠」の行った「造柵」とは、「柵」で囲まれた新たな支配地に土地などを「造成」し、支配を確定させる諸事業を行なった事を言うのだろう。
鼠例⑤から「鼠」を戦闘者(兵士)としてきた定説は見直されるべきと思う。
鼠例⑤での「柵」が、後者の用法・意味と想像されるもう一つの根拠がある。鼠例⑤の「柵」とは「淳足柵」(新潟県新潟市付近か)の事である。この地域(新潟県)が戦闘地域であったとしたら、体制側は「難波」に「都」を作るだろうか。作らなかったと思える。危険地帯に近寄って「都」を造る必要はないからだ。しかし「都」は「難波」に造成されている。そこからも「淳足柵」は既支配地域に作られた「広い柵」であったと判断してよいと思われる。
最後に、鼠例③、⑤、⑦に見られる原文上の不思議な類似点を指摘する(「孝徳紀」の「鼠五例」中「三例」という事になる)。そこからは、「日本書紀」はすでに「鼠」像へある結論を示していたと推量されるのだ。
まず、鼠例③の原文を示す。
「(中略)遷都難波長柄豊崎、老人等相謂之曰、自春至夏鼠向鼠向難波、遷都之兆也」
そして、鼠例⑤の原文はこうだ。
「(中略)造淳足柵、老人等相謂之曰、数年鼠向東行、此造柵之兆也」
最後に、鼠例⑦である。
「(中略)老人語之曰、鼠向倭都、遷都之兆也。」]
この「三例文」を比べてほしい。あまりにも似てはいないだろうか。同じ表現(法)を用いていると思える。
まず、「鼠」の行動を「兆し」と読む点で、「三例」は共通している。さらに、読み解く人が「老人」(「世間の人」という事だろう)である点も同じだ。「老人たち」には「鼠」の行動が「すぐには理解されない」と書かれる点が似通うのだ。
「造都」・「造柵」・「遷都」の三例とも、「老人」は鼠の動きを「兆し」として捉え、理解しているのだ。これは、「鼠」の行動が目立たないからと言えるだろう。彼らは目立たない仕事(職種)をしていたのだ。「日本書紀」の同一紀事(表現)からは、そう理解されるのである。
そして、鼠例③から⑦に共通するこの事実から、不明とされてきた「鼠」像が解明される。
6.「孝徳紀」・「鼠」とは
「孝徳紀」に書かれた「鼠」の特色を再確認してみる。
A.「鼠」は孝徳天皇勢力の「遷都」の際には、工期前半に行動していた。
B.「鼠」は戦闘員・兵士ではないが「柵」建設工事になんらかの関与をした。
C.「鼠」の仕事は目立たず、後に「兆し」だったと理解される事が多い。
となる。
『両王朝で活動する、兵士ではなく、目立たない仕事の従事者』となる。私は具体像として考えてみた。結論は、『彼らは「技術者(匠)」ではないか。
特に、土地造成関連の技術者(匠)」ではないだろうか』となった。
この想定なら、「孝徳紀」すべての「鼠」例が説明でき、「なぜ鼠と呼ばれたか」問題も説明出来ると思えた。
まず、「長柄宮造都」時、春・夏の「鼠」の先行行動を説明しよう。これは建物建設前の整地・土地造成を意味したと思う。完成した建造物にばかり目が行くが、それを可能とする「開拓」・「整地」・「灌漑」・「道路造成」などの一連の土木作業は前工程として不可欠な事業であろう。
そしてこれら一連の基礎事業は、その目的が気づかれにくい。だからこそ彼らの動きは「兆し」と理解され表現されたのではないだろうか。私には、「造都・遷都」「造柵」時の「鼠」の動きはこうして説明できると思えた。
「造都・遷都」時、「鼠」の作業(行動)後に事業目的が具体的な姿となり見えてくる。建造物の築造などが行われるからだ。「鼠」の仕事は全工程の前半部分が多いと思われ、だから「鼠」の行動は目立たず「兆し」と言われたと思える。
そして「造柵」時なら、「柵」予定地の土地造成を行った事となろう。土地を開拓し整地を行い、生産・居住が可能な支配地へと造成していく事業に携わったと思える。「鼠」たちは、支配地での「水田・道」造成も行ったであろう。
最後の疑問、『なぜ「鼠」と呼ばれたのか』も、彼らの動きつまり仕事(職種)から理解される。
土地の開発・造成という一連の行動(作業)は「土・水」を扱う。だからその仕事に従事した労働者・集団はどうしても「汚れた」容姿となると思われる。
この容姿が「鼠」を想起させたのではないだろうか、仕事からの容姿が「鼠」そっくりで、そこからの連想でこの言葉が使われたと思える。「孝徳紀」での「鼠」語の発生(使用)理由と思う。だからその時は「比喩・揶揄」が中心であったと思うのだ。
「孝徳紀」での「鼠」とは、「九州王朝」に属した「土地造成」の「匠」を「揶揄」した「表現(言葉)」なのである。
だから、この時の「鼠」語からは「九州王朝」全体への強い「侮蔑」が響いて来ない。この言葉は、汚れた容姿となる特定部門の「匠」を「揶揄」する為に使われた表現だったからと思える。
「孝徳紀」の「鼠」語は、「揶揄」(軽い「蔑称」)からの言葉で、「九州王朝」を強く侮蔑した表現ではなかったのだ。そしてそれがそのまま「天智紀」にも引き継がれたと思っている。
7.消えた「鼠」・残った「鼠」
さて意外にも指摘されていないが、「孝徳紀」「天智紀」以後には「鼠」(語)が全く登場しなくなる。「天武紀」からは「鼠」(語)の姿は消え、以後の「日本書紀」には全く出現しない。
「鼠=九州王朝」とする論者が多いのだが、その論考では、この消えた「鼠」語・その理由については全く言及されていない。「天武期」になり「九州王朝」が突如消えた訳ではないのに、なぜ「鼠」語は「天武紀」以後「日本書紀」から消えたのだろう、その理由が説明されていないと思われる。
矛盾するようだが私は、「孝徳紀」以後も「鼠」語は使われ続けたと信じている。『「鼠」語は存在したが、「天武紀」からの「日本書紀」には登場しない』
つまり「鼠」語は日常生活では引き続き使用されたが、「日本書紀」には登場しなかったと考えている。
「鼠」語「内容」の変化、「日本書紀」の編集方針がその要因と考えている。
「孝徳期」は王朝間の軋轢(あつれき)が目立ち始める時代である、だからその時の「鼠」語は特定部門への「揶揄」で用が足りていたと思える。後に「大和王朝」勢となる人々は、「九州王朝」と表立って対立し相手を「侮蔑」出来る立場ではなかったのだ(「造都」時には助力さえ受けている)。
が、抗争の時代を迎え、両者間の力関係に変化が生じた。その時「鼠」語の「内容」にも変化が生じたと私は思う。抗争の時代の「鼠」語は、「九州王朝」への強い「嘲笑・侮蔑」を意味する言葉へと変化したのだ。
「あんな奴ら」「どうしようもない奴ら」を意味した言葉として「鼠」語が多用されるのである(類似した言葉もあったろう)。相手体制への「否定」である。
このように変化した「鼠」語だったが、「日本書紀」にはその「鼠」語が使われなかったと思っている。その理由はこう説明できよう。
「鼠」語を使いたいのだが、そうすると敵(相手)王朝を認識した事になってしまう。「九州王朝」を一切認めず取り上げないのが「日本書紀」の方針であろう。それに反してしまうのである。だから「日本書紀」には、変化した「鼠」語を使わなかったと思われる。
軽い「揶揄」を示した「孝徳紀」「鼠」語が最後となり、それ以後(「天武紀」)には出現しなくなるのだ。
ただ実際には、この抗争の時代を通して「鼠」語は使い続けられたと私は思っている。対立が顕著になればなるほど、「九州王朝」を「侮蔑・嘲笑」」する強い言葉が必要になる。「鼠」語(類似した言葉)は必須語となり、実生活では使われ続けたと思う。
やがて、両王朝「抗争」の勝者は「大和王朝」となる。戦いに勝利し「王権交代」がなされた以後は、相手を「鼠と呼ぶ事に遠慮はなくなる。こうして「鼠」語が表面だって各地で使われ始めたと思える。「交代」後の各種文献にも残されて来る。
「鼠」語とは、「九州王朝」の人々・行為のすべてを「否定」する「侮蔑・嘲笑」語で、新たな支配者により各地で使われた言葉、と私は思っている。だからこそ今も各地に残っているのだろう。
「鼠」語の残る場所とは過去に「九州王朝」勢が支配し権力を振るった地となろう。
「交代」後に「それらは、「鼠」の仕業(しわざ)だ・役に立たない事なのだ」と「否定」されるようになったと思う。
上田周辺・「科野の国」・さらに全国に残る「鼠」語・地名について、こう説明されてよいのではないだろうか。
8.終わりに
解りにくい結論となってしまった。論理展開への反省は多い。だが私なりに「上田近辺(科野の国)」に残る数多い「鼠」語(地名・遺跡)への結論が出せたと思っている。勿論ご意見・御非判はあるだろうが、出せた事にまずは安心している。
私論考の最初に提示した上田近辺・「鼠」名称への結論はこうなる。
「鼠」が掘った「洞穴」とは、「鼠」の「採石場」の名残りであろう。その採掘物を使い様々な事業が始まったと思われる。「鼠」が作った「古代道(古東山道)」が「科野の国」中央部を通っていたと思われる。千曲川沿いにはその支道として「祢津街道」が造られ、軽井沢から屋代・長野へと至ったと思われる、「祢津」地は街道の要所と思われる。
その「道」の脇には「見張り台」が作られ、さらに「関所」も作られていたのであろう。そして彼らの信仰のよりどころとなる「神社」も、「坂城」に造られる・・・「鼠」地名が多く残る「上田」「科野の国」は、実は「九州王朝」の一大拠点であったと思える。彼らが強く勢力を張っていた地であったからこそ次の時代、勝者により「鼠」地名が多く付けられ、今に残っていると思われるのだ。
「鼠穴」も、「鼠山城」も、「鼠関所」も、「鼠(坂城)神社」も、「祢津(村・神社)」も、「祢津街道」も、こうして現代に残っていると私には思われる。
すべてが「九州王朝」支配の名残りなのである。次の支配者によりこれらの「鼠」地名がつけられ、私はそれに取り囲まれ育ったことになろう。
次回〔鼠再論(三)〕は、(二)で述べた『鼠=土地造成の匠』推論と繋がる、ある興味深い事実に言及したい。「上田」が舞台であり「番匠」語も登場する。「鼠」主張の根拠となるかと思われる「資料」へも御検討いただける。
いくらかの「妄想」が混ざる次回「鼠」論最終回〔(三)と(四)〕に再度のお付き合いを懇願したい。
(終)
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