コラム

2023年9月13日 (水)

「蕨手文」の証言 ②―上田市周辺の「複合・蕨手文」―

 「蕨手文」の証言 ②上田市周辺の「複合・蕨手文」[コラム]

 吉村八洲男さまから、多元的古代研究会の会誌「多元 No177 SEp.2023」に掲載された論稿をご寄稿いただきましたので掲載いたします。私事にて掲載が遅れましたことをお詫び申し上げます。

 なお、多元誌と当ブログでは、段組みや縦横書き等、表示上多くのことが異なります。それに伴って、論稿の原文・写真サイズ等を編集しています。また、ブログでは山田が独断で注記を加えております。それらのことをご承知おきください。

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「蕨手文」の証言 ②

上田市周辺の「複合・蕨手文」

上田市 吉村八洲男

1.初めに

 前号(注1)6月例会(注2)で、全国で上田周辺だけにある『6枚の「蕨手文・瓦」』追及の重要性を指摘した。『「蕨手文・瓦」はいつの時代を示すのか?』

 今回は「蕨手文」から推論を試み、九州(「王塚」)と「上田」との密接な関係を論断したい。我々は認識すべきと思われる、『王塚古墳築造の一族が、上田へ進出した!』

 

2.「蕨手(わらびて)文」について

 最大公約数的ではあるが、「蕨手文」を以下のように理解する。

 「の」の字形、さらにそこに直線部分を持つ文様の総称で、形状が「蕨(手)」に似る事からこう名称付けられる(日本だけの用語だが)。文様は単独形を基本とし、左右(上下)方向へ「対」に又は「連読」して描かれ、蕨手が同時に左右を向いている「双頭形」としても描かれている。基本とする文様形状の類似から、「葵(き)文」「渦巻文」なども「蕨手文」の範疇に含めて良いと思われる。

 この文様は、人類始原期から、東アジア一帯で、身近に使用された文様である(近世にも使用例がある)。日本でも縄文期・弥生期・古墳期を通じ出土する。「土器」「剣の装身具」などに刻まれるが、「剣の柄」の形状を「蕨手」にデザインした例もある。中国では「西周」以後の「瓦の歴史」でも重要な位置・役割を果たしている。「(軒丸)瓦文様」として使用される例が多いからで、中国を代表する「雲文様」も「蕨手文」の変化形・発展形と考えられているようだ。

 この文様の発生時期・意味・歴史などについては諸説がありここで言及しきれない。

 だが一つの肝要事がある。それは蕨手文様史上ある画期が九州「王塚古墳・蕨手文壁画」に認められる事だ。「王塚古墳・壁画」にしか認められないある重要事があるのだ。

 それが、「蕨手文形状(の変化)」である。これが「王塚古墳」を中心とした「6世紀古墳壁画」だけに明瞭に現れる。発見した考古学者はそれに驚き、「王塚古墳」の「蕨手文」を「複合蕨手文」と名称付け、独自な様式と認定し「分類」も試みる。

 「の」の字形蕨手文、「対」と思える2種の「蕨手文」を「Aタイプ外向き」と「Bタイプ内向き」とし、計「三分類」としたのだ。

(出典:「描かれた黄泉の世界 王塚古墳」 柳沢一男 新泉社 から)

① 『複合蕨手文様』 「の」の字形
図1
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②『複合蕨手文』 Bタイプ「内向き蕨手文」
図2
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③『複合蕨手文』 Aタイプ「外向き蕨手文」
図3
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 「それまでにない日本独自の蕨手文様」と判断された理由を説明する。

 中国「蕨手文・雲文」などでは、文様は「線」で描かれる。基本形は、一本の線で描かれる(「雲文」瓦は、分割線で区切られた中に基本形・派生した文様を持つ)。

 それに対し「王塚・蕨手文様」では、「一つの蕨手文様」作成に「複数の蕨手(線)」が使われる。さらにその「線」を使い「面」も造られているのだ。

 それがそれまでの「蕨手文」とは全く異なっていた。「画期」とされる所以なのだ。

 「王塚・壁画」の「外向き蕨手文(図3)」で確認してほしい。まず「緑色(線)」で「蕨手」が2個描かれ、さらに「赤色・黄色」を使い「蕨手(面)」が描かれる。

 「複数の色による線(面)」から一つの「蕨手文様」が造られているのだ。「蕨手文」が重なっているのである。

 この特徴ある文様作成法は、分類された『内向き蕨手文(図2)』、『「の」の字形蕨手文(図1)』でも同じであった(だから「複合蕨手文」と判定されたのだ)。

 もう一つ奇妙な事にも気づいた。この「複合蕨手文」は、北九州で「6世紀」築造の「古墳」にしか認められなかったのだ。「外向き複合蕨手文」は「6個」(9個説もある)の「古墳」から、「内向き複合蕨手文」に至っては「王塚古墳」にしか認められなかったのだ(後に「金官伽耶」王墓から「外向き蕨手文」が認められるが)。

 だが、それ以上の追及はなされなかった。「複合蕨手文」は「王塚古墳」を中心とした「6個の古墳」にしか残らない貴重な文様とされ、それが定説となっている。

 

3.真田(上田市)の「蕨手文」

 真田町「出早雄(いずはやお)神社」境内にある「5社」と呼ばれる5個の「神社型小石祉」を観察していた時だ。奇妙な文様が「5社」石祉の特定位置に刻まれている事に気がついた。

真田町本原「出速雄神社」内・「5社」 図4    特定位置(斜線部)図5Photo_20230913144501

豊受皇大社 図6         金毘羅社 図7     正八幡社 図8Photo_20230913144801

 驚くことに古い苔むした「神社型小石祉」すべてが「神社名」を持ち「神」を持ち崇拝を受けていた。私は当たり前としていたある重要事に再度気づかされた。『「神社型小石祉」は、往時、「神社」だったのだ!』

 小石祉となった理由は様々であろう。体制変化による神の変化が最大理由だろうが、建築物の劣化・事故、自然災害による散逸などがすぐに想像された。

 「合祀(ごうし)」からは神々の共存が許されたとも思えた。散逸していた神々・神社が「小石祉」となり、再度神社境内に集められ祀られたと思量された。

 だから確信したのだ。「石祉」が「神社」だったなら、特定の位置(場所)にある「文様」には「特別な意味」がある筈だ!

 その位置は「懸魚(けぎょ)」と呼ばれ、現代神社(建築)でも「最重要」とされる場所である。ここに「神紋」を置き、信仰の姿を示すのが普通と思える。

 私は結論した。「神社型小石祉」が神社だった時、「神社神紋」もこの位置にあった。「小石祉文様」は、往時の「神社」の信仰の姿を示している!そして思った。これら多くの「小石祉」に、ある特定する「文様」が認められた時、文様に代表されるある「信仰」を、この神社は持っていた、と。

 そして何回か真田町の神社を訪れ気が付いた。「これは『外向きタイプ・複合蕨手文』ではないか?」。調べ廻った真田神社境内の「小石祉」には、「出早雄社」と「類似する文様」が数多く残されていたのである。

横尾社 図9     戸沢社 図10          実相院 図11
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 共通する特徴が解る。『「対(左右に)」となる蕨手が、外方向へ、複数本描かれている』のである。「外向き・複合蕨手文」の特徴そのままだった。類似の文様も次々と発見された。「真田町・神社境内」の「小石祉」の「定位置(懸魚)」には、多くの「外向き複合蕨手文」がデザインされていたのである。

 とにかく私は驚いた。真田町の神社を片っ端から探し回ったものだ。

天満宮 図12        三峰社 図13    誉田足玉神社 図14
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 驚くことに、「真田町・神社」からは「16個」の「外向き複合蕨手文」が確認された。ない筈の「複合蕨手文」が、「真田町(上田)」にはあったのだ!!

 「王塚古墳・壁画・外向き複合蕨手文」が「真田町・小石祉・外向き複合蕨手文」へと変化する過程は容易に予想できた。

「王塚古墳・壁画」 図15    「真田町・神社型小石祉」 図16
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 私は手を広げ上田地域を中心に千曲川中流域を探し廻った。そして、続々と発見したのだ。 「50個(以上)!」、とんでもない合計数だったのだ!

 念のため、「上田市」での「外向き複合蕨手文(の一部)」を提示する。

(はなぶさ)神社 図17 東條建代神社 図18  堀川神社 図19
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 「50個以上の文様」はすべて「写真採録済」だ。すべてをこの紙上で提示したいのだが、スペースがない。「石祉」所在場所(神社)を、地域地図に落とし込む。

「外向き複合蕨手文」を「懸魚」に持つ石祉(神社)所在略図 図20
図20
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4.終わりに

 この略地図は様々な教示を与えてくれる。更なる「考古資料」と考え併せると主張とする「ある歴史定説の再考」が暗示されると思えるが、それへの言及は次号となる。

 ただ、確定させてほしい。九州以外には認められない「外向き複合蕨手文」が、上田周辺には「50個以上」残っている事実だ。その理由は、説明されるべきであろう。

 だが私にとって、上田の「謎の蕨手文・瓦」解明が可能となった事が喜ばしい。

 「王塚・壁画」では、「内向き」・「外向き」が対になって表示・使用されていた。上田「謎の蕨手文・瓦」は「内向き蕨手文」である。だとしたら、「50個」の「外向き蕨手文」を「懸魚」に使った人々が、「内向き蕨手文」を「瓦」に使い「蕨手文・瓦」を造ったと推量出来ないだろうか。貴重な「内向き蕨手文」を「瓦・寺」へ使い、進出してきたと思えるのだ。「謎の蕨手瓦」は「6世紀の瓦」と結論される。

(終)

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注1 前号 ‥‥‥ 次のブログ記事として掲載しています。
「蕨手文瓦」の証言―「磐井の乱」はなかった2023年829()

注2 6月例会 ‥‥‥ 多元的古代研究会で催された6月例会で、「青木村 「8点瓦の証明」」と題する発表で使ったスライドをご寄稿いただいており、次のブログに掲載しています。吉村さまからこのスライドのご寄稿に際し、「説明記述はありません」とのコメントを頂いております。
「多元の会」6月例会で使った「スライド」―青木村 「8点瓦の証明」―2023年913()

「多元の会」6月例会で使った「スライド」―青木村 「8点瓦の証明」―

「多元の会」6月例会で使った「スライド」―青木村 「8点瓦の証明」[コラム]

 吉村八洲男さまからこのスライドのご寄稿に際し、「説明記述はありません」とのコメントを頂いております。発表は口頭でなされているため資料の写真が主です。これもブログに掲載した方が良いと判断しました。スライドの画像のスクリーンショットを掲載しています。ご了承ください。

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2023年9月 2日 (土)

「多元」月例会(令和5年7月)―青木村「蕨手文瓦」の証言―

「多元」月例会(令和5年7月)―青木村「蕨手文瓦」の証言[コラム]

 吉村八洲男さまから届いていた「多元の会」の令和5年7月例会の論稿を遅ればせながら掲載いたします。複合蕨手文を古墳に使った一族が上田へ進出した説明がされる次号が待ち遠しいですね。

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多元」月例会(R5・7)

青木村「蕨手文瓦」の証言

上田市 吉村八洲男

 *「瓦・8点」の内、「蕨手文軒丸瓦・軒先瓦・丸瓦・女瓦」を持参しました。私論考をご理解される時、どうか参考にしてください。

 

1.初めに

 「多元誌」7月号(No.176)で、上田市に隣接する青木村「子檀嶺(こまゆみね)神社」での「蕨手文瓦(瓦当)を含む8点瓦の確認」を報告(注1)しました。「瓦8点」(注2)が示す重大さ・『8世紀「信濃国分寺」の補修用に焼成された瓦ではなく、「東山道」経由で関西(?)から搬入された瓦でもない』・に改めて気が付きます。

 

2.「青木瓦8点」の詳細

① 「瓦8点」が神社へ至るまでの由来

 宮司・「宮原満」氏から説明を受けました。古来からの歴史を持つ地域の名社である事、「神社(里宮)」の位置が変遷を重ねた事、「社宝」が多く「土器」なども多く寄贈されていた、などでした。そして「8点」瓦の詳細ないきさつが昭和17年作成の「神社昇格祈願書」に書かれている、と言われました。

 私は「神社昇格書」を調査しました。そこには『9点の「瓦」が「農民」から寄贈された』と明記されていたのです。その際の写真も添付されていました。写真には今回確認された8点中「4点の瓦」が写っていました(もう1枚は紛失したという)。「瓦」に書かれた「9」という数字の意味が分かりました。「9点の瓦」が寄贈されたから、と判断されました。「8」「9」と「瓦」へ記して「瓦の数」を主張・確認したのです。だが、神社の所有中にそのうちの1点が紛失したようです。だから私が確認した時には「8点の瓦」となっていたのです。

 さらに「昇格書」には、「中挾(なかばさみ)」地区での神社所有地が複数記載されていました。広大な「農地」が点在していたのです。現在(江戸期古地図でも)、「中挟地区」には「こまゆみ」という「字(あざ)名」が残っています。「この地に神社があった」事は確実と思えました。「往時、そこに「神宮寺」を持っていた」という宮司の記憶・伝承が裏付けられたのです。「子檀嶺神社は、「中挟地区」に神宮寺を持っていた」のです。「農民」により、そこから「瓦」が出土したのです。「瓦」表面に書かれた「中○」とは、「中挾」ではないかと予想されました。「画数」が多いため、判読不明になっているのです(「赤外線調査」が必要です)。

不明と思える「数字・漢字」ですが、追及すると逆に「瓦」の真実、資料性が証明されます。「8点瓦の資料性」は確定的と思えました。この「瓦」は、『「中挾」地にあった「神宮寺跡」から「農民」により「9点」同時に発見され、そして「鑑定」後に「子檀嶺神社」に奉納された(返された)』のです。「神社昇格祈願書」はそう断言します。

② 8点瓦への「岩石分析」

 私は8点瓦を「岩石分析」する事としました。「真田での鉄滓」発見時にお世話になった地質学者「山辺邦彦」氏に依頼しました(氏については紹介済です)この論考では「蕨手文瓦」・「軒前(先)瓦」の「分析表」を提示します。残る「分析表・解説」などは、このブログ内に添付しますので、ご参照ください。
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 特徴的な「文様」を持つ2点の瓦だが「分析」からも驚くべき差異が見られた。「軒先瓦」(右)が異常で特殊な成分を持っていたのである。それが「火山ガラス」成分で、しかも少なからず含まれていたのだ。この成分は他の7点瓦には含まれない「特別な成分」だった。川辺氏は言った。

 『私の長年の研究生活でも、この成分を持つ粘土(「瓦」の成分)には遭遇した事がない。少なくも上田(長野県下でも)では見ていない。これを除く7点瓦は、多少の差異はあっても「流紋岩・そこからの由来土」と推定されるから、この「火山ガラス」成分の異常さが際立つ。シラス台地(又は類似地)の粘土由来が想像される。火山灰・火砕流が含まれやすいからだ、その候補としては「九州」が予想されるかも』。

 どうやら8点瓦中でも「軒先瓦」は特別な意味を持つ瓦と言ってよいようだ。「文様」だけでなく「成分」も特殊なのである。留意すべき「瓦」と思えた。

 続いて、氏は貴重な感想を述べられた。

 『「8点瓦」はすべて「須恵器」と言っていいほどに焼き固められている。瓦表面の「黒色」からは「1200度」前後の高温で焼かれた瓦と想像される。これは「須恵器」焼成温度でもある(「平窯」の内の「穴窯」で焼成された?「ダルマ窯」なら8~900度)。

 また、「成分分析」からは、「原料土」に「水簸(すいひ・みずぶるい)」を行い、「瓦用」に改良したかと思える例があった。長石・石英(を含む土・成分)の極端な偏在がそれを示す、そこからは「須恵器」作成に習熟した人々がこれらの「瓦」を造ったと想像される。

 そして「原料粘土」出土地が特定される瓦では、「立科町芦田坂山付近・土」使用が確認される』。

 そこは「千曲川流域」ではなく山間部である。予想外の場所だった。「信濃国分寺」創建以前の「瓦」(「須恵器的な瓦」も含め)の存在はまだこの地では確認されていない。貴重な資料となると思えた。そしてそれは、「初期仏教・初期瓦」へのある予想・推定へと繋がっていく・・・「青木8点瓦」分析からは、驚くべき推定が生まれたのだ。

③ 観察

 青木「瓦」で奇妙な事が確認された。「8点」中「4点」の瓦に「組み合わせ」があると思えたのだ。偶然からの「8点の瓦」ではないと予想された。確認が必要であろう。
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Photo_20230902134702

 両者の「接合」は、疑われてよいと思える。全国でも貴重な例と思えた。

 「信濃国分寺」関連論考をまとめた「信濃国分寺・発掘50年誌(国分寺資料館発行)」中に、発掘された「蕨手文瓦」の接合技法を予想した図が載せられている。次図だ。
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 「丸瓦」部分と推定される「瓦」が未発見のため「予測図」としたと思えるが、青木のケースと似ている事に驚く。

 青木「8点瓦」中では、「「蕨手文瓦」と「丸瓦」」に「接合」関係を認めてよいと思えた。両者には「接合・組み合わせ」があったのである。

 参考までに確認した8点瓦中、「蕨手文瓦」と「丸瓦」を重ねてみた。下図である。
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 下に置かれる黒色の瓦が「蕨手文瓦」で、その上に「丸瓦」を重ねた。ほぼ重なっていると見て取れよう。

 それぞれの「瓦」が持つ本義からも、「丸瓦」の先端に「蕨手文瓦」が接合されていたと思える。「瓦定説」に貴重な例として取り上げられてよいと思えた。

 青木「蕨手文瓦」にはさらに驚きの事実がある。

 「瓦」直径が「19.2」cmある事で、上田・坂城での既出土瓦の直径(5枚共に「17.8cm」)を大きく上回る。日本中に「7枚」しかないのだからその中での最長となる。「瓦定説」では、「直径大の瓦」⇒「直径小の瓦」(注3)が言われている。そこからは、青木「瓦」の古さが疑われてよいのである。上田「蕨手文瓦」よりは古いのではないだろうか。

 さらに「回転台(ろくろ)」を使用してこの「蕨手文瓦」が造られたか、とも観察された。これも貴重な例と思える。

 さて、もう一組の「瓦組み合わせ」を推測してみたい。
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 観察の結果、「軒先瓦」と「女瓦(平瓦)」のカーブが一致したのである。「まさか」と私は思った。再三確認したが間違い・誤解はなかった。『両者は「接合」されていた』と思えた。「軒先瓦」に残る「上部のざらつき(破断面)」もその結論を支持していた。

 驚くことに青木では、この二つは、別々の「瓦」である、でも「接合されていた」と観察されるのだ・・・「まさか!」。

 「瓦定説」は、そう言っていない。

 「宇瓦(吉村註・軒先(前)瓦のこと)は日本で独自に考案されたもので、それ以前は軒先にも女瓦が葺かれていたと考えられる」「(・前略・)斑鳩寺ではこの時、はじめて文様をもつ宇瓦を採用する。ここで用いられた宇瓦は、瓦当文様を笵押しするのではなく、一つひとつ手彫りする」(「古瓦の考古学」有吉重蔵編 ニューサイエンス社 2018 から)

 つまり、「女瓦」の先端部から「軒先瓦」が派生・生成するとし、最古の「宇瓦」は「斑鳩寺」(法隆寺)だと言うのだ(下図の「宇瓦」例を参考に)。
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 青木の瓦はどうなるのだ!

 誰がどう見ても、「軒先瓦(宇瓦)」は「女瓦」とは別個に存在している。そして観察からは、「軒先瓦文様」が「笵押し」されたとも推測されるのである。「手彫り」ではないのだ。

 「瓦定説」からは、青木瓦はどう説明されるのだ?

 青木瓦は、「斑鳩寺」創建より「古い時代」に造られた、と私は推量する。勿論「信濃国分寺」創建(8世紀)より遥かに古くなる(「多元」誌の私論考(注4)をご覧ください)。

「瓦定説」への見直しも必須となる。それとも青木瓦は「定説」の範疇に入らない特殊な瓦だと言うのだろうか。

 最後に既・出土の上田「蕨手文瓦」と青木「蕨手文瓦」との関係について追述する。

 両者の関係は、『「蕨手文軒先瓦」が、「丸瓦」とどう接合されていたか』で簡略に判断できると思える。そこで、上田・坂城「蕨手文瓦」の裏面「接合部」を示す。Photo_20230902135501
 既に示した青木「蕨手文様瓦」「裏面接合部」と比較してほしい。目視でも「瓦の厚さ」が均一でないと解る(しかも凸凹している)。さらに、「接合部分」が広すぎたり、狭すぎたりしているとも解る。均等に「瓦裏面」に設置されていない。「瓦」とその「接合部分」の観察から、上田「瓦」の「作成技術の未熟さ」が読み取れるのだ。

 青木「瓦」が上田「蕨手文瓦」を生んだ、と断定してよいだろう。上田・坂城「蕨手文軒丸瓦」は、青木「瓦」から技術的な影響を受けたと思える。

 

3.終わりに

 「謎の瓦」と言われてきた上田「蕨手文瓦」だが、正しい作成時代はいつだろう。

 青木「瓦」は『8世紀「信濃国分寺」築造』どころかそれ以前の「瓦」か、と推定して来た。だがこれ以上の論議は「水掛け論」になりかねないとも思える。

 私は「瓦」に残る「蕨手文様」への追及が解決の「鍵」となると思っている。上田の「蕨手文」は、九州「王塚古墳・壁画」との緊密な関連を主張すると思っているからだ。

 「王塚古墳壁画」の「蕨手文」は、日本でも「王塚」にしかない独自な「複合蕨手文様」、と「考古学」からは言われている。もしそれが「上田」にあったなら・・・

 『古墳を築造した一族・「蕨手文」を使った一族が、上田・「科野」へ進出した』、のではないだろうか(次号で説明します)。そして「蕨手文一族」の進出が証明された時、『果たして「磐井の乱」があったのか』が次の大問題となるのだ。

 上田・「科野」での「60もの考古資料」は言っている。『上田へ「蕨手文一族」が進出して来た』、『「磐井の乱」はなかった、「磐井事件」があったのだ』と。

(終)

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注1 青木村「子檀嶺(こまゆみね)神社」での「蕨手文瓦(瓦当)を含む8点瓦の確認」を報告‥‥‥ 次のブログ記事をご覧ください。
科野からの便り(32)―「蕨手(わらびて)文様瓦の発見」編―2021年919()
なお、「初期瓦」と「仮設寺」2022124()でも論及しています。

注2 「瓦8点」 ‥‥‥ 詳細は次のブログ記事をご覧ください。
「初期瓦」と「仮設寺」2022年124()

注3 「直径大の瓦」⇒「直径小の瓦」 ‥‥‥ 瓦の大きさの変遷において、左側(大きい方)が右側(小さい方)より古いことを表すためにこの論稿では記号「⇒」を用いている。

注4 「多元」誌の私論考 ‥‥‥ 当ブログ(sanmaoの暦歴徒然草)の右欄にあるカテゴリーcategory 中の上から7番目にある「コラム」を選択すると吉村さんの寄稿論文を掲載したブログ記事が抽出表示されます。そのうち多元的古代研究会会誌「多元」に掲載されたものは次の通りです(掲載日の新しい順)。
「蕨手文瓦」の証言―「磐井の乱」はなかった―2023年829()
神科条里と「番匠」②―条里と「国府寺」(「多元No.174 Mar.2023」掲載)―2023年37()

2023年8月29日 (火)

「蕨手文瓦」の証言―「磐井の乱」はなかった―

「蕨手文瓦」の証言「磐井の乱」はなかった[コラム]

 吉村八洲男さまからご寄稿いただきました「多元」令和5年7月号に掲載された論考を掲載いたします。7月号とあります通り、だいぶ前にご寄稿いただいていたのですが、私事の都合でブログ更新を怠り、このように著しく掲載が遅れてしまいました。吉村八洲男さま、並びにその論稿の掲載を楽しみにされていた皆様に心からお詫び申し上げます。掲載が遅れたものは、これ以外にもご寄稿いただいております。順次掲載する予定ですので、よろしくお願いいたします。

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「蕨手文瓦」の証言

「磐井の乱」はなかった(「多元」令和5年/7月)

上田市 吉村八洲男

1.初めに

 「磐井の乱」と「蕨手文」とを結び付けた James Mac(阿部周一)氏の秀逸な論考(注1)「古田会ニュース・209号」で紹介しました。氏は、6世紀中期築造とされる「王塚古墳・壁画」に描かれる「蕨手文」と、6世紀初め「磐井の乱」とを結び付けた驚愕の新見解を主張されました。「乱」とは九州王朝内の権力争いの事で、「磐井の君」を倒し(殺害し)新たに「九州王権」支配者となったのが「物部氏」であるとし、そのシンボル(部族を象徴する印章・神紋)が「蕨手文」だとしたのです。この事件を「近畿王朝勢」「日本書紀」が「磐井の乱」と表現し、最大限利用した、と主張されたのです。

 この論考が発表されて数年後(一昨年)です、私はこの論考の正否を決める「考古資料」を、上田周辺・「科野の国」で確認しました。具体的に言うと「蕨手文軒丸瓦(瓦当)」を含む8点の瓦、地域神社に残る「蕨手文石祀」、関連する「考古資料」です。

 それら「考古資料」がすべてMac氏説を支持している、と私には思えました。『「磐井の乱」はなかった、だが「磐井事件」があったのだ』と断言していると思えたのです。

 これからそのいくつかを紹介します。「科野の国」に現存する「考古資料」と、そこからの推論に是非御理解を頂きたいと思います。これらの「証拠」が、Mac氏説だけでなく、古田先生『「磐井の乱」はなかった』説の正しさを証明すると思えるのです。

 

2.上田の「蕨手文・瓦」

 驚く事に「科野」には、全国にない貴重な「蕨手文」資料がありました。それが「蕨手文軒丸瓦(瓦当)」で、上田周辺で「7枚」確認されています。「信濃国分寺跡(僧寺跡2尼寺跡1窯跡1)」・坂城「込山廃寺跡・土井の入窯跡」・須坂「左願寺跡」で発掘されていました(その内2枚が「信濃国分寺資料館」に展示されています)。Photo_20230829123201

 「考古学」からは、複数の「軒丸瓦」に残る「蕨手文様」が確定されていたのです。

 となると文様考古資料が「複数」存在するのは「王塚古墳・壁画」と「上田周辺・蕨手文瓦」だけとなります。この事実からは、両者の関連が考えられます。日本中探してもこの両地にしかないのですから、それが当然でしょう!

 が残念な事に、上田地域「複数資料(蕨手文瓦)」の存在は全く留意されて来ませんでした。ある決定的な理由(判断)があったからです。

 『「蕨手文瓦」とは、「信濃国分寺」創建以後に焼成された瓦だ!』こう解釈されて来たのです。この地域の仏教文化は「聖武天皇の詔による信濃国分寺創建に始まる」、と無条件で信じ込まれて来たのです。国分寺創建は8世紀です。ですから『上田「蕨手文瓦」は、『「6世紀」に築造された「王塚古墳」とは無関係』と断定されて来ました。

 こうして考古学者は、8世紀創建「信濃国分寺」関連から「蕨手文瓦」解釈を試みます。ただその時、上田のみで発見された事がネックになります。それは「他とは比較・研究が不可能な瓦」を意味するからです。郷土史家が苦しむ原因でした。

 例えば8世紀以降創建された寺院の「軒丸瓦(瓦当)」は、全国ほぼすべてが「蓮華文様」です(「古代瓦様式の定説))。「蕨手文瓦」ではありません。ですからやはり「比較しようのない例外的な文様瓦」となるのです。ただ上田周辺「蕨手文瓦」」すべてが「千曲川左岸」からの出土でしたから「国分寺」と何らかの関連が予想されました。

 しかし確たる結論は出ませんでした。こうしてこの上田周辺「蕨手文様(瓦)」は、「蕨手文に似ているが解釈は不能、全国にない奇妙な文様」とされ、『正式な地位(歴史解釈)が付けられない不審な「瓦」』とする判定・評価だけが確定するのです。

 ですから「蕨手文瓦」へは「珍説・珍解釈」が多出します。地域性が強い(ローカルで)稚拙な文様と推定されます。そして豪族(又は職人)達が、思い付くまま(手慰み)に、「信濃国分寺」「補修」の為焼成した「瓦」とされ、これらが定説となります。

 同時に「信濃国分寺(僧寺が中心)跡」出土「瓦」へは考古学から詳細な研究が進みます。そして「760頃の信濃国分寺創建」が確定します。「東大寺形式の瓦」が大量に出土し「瓦の組み合わせ」も確定した事が要因でした(東大寺瓦形式6235タイプ「軒丸瓦」と6732タイプ「軒先瓦」、「複弁蓮華文」瓦当・「複合唐草文」軒先瓦など)。

 ところが最近寺域に残る「瓦窯跡」にある瓦の分析から、「信濃国分寺創建」と無関係と思える古い様式の「瓦(「7世紀?」)」の混在が確認されました。各種「単(素)弁蓮華文瓦」・各種「軒先瓦」などで、「蕨手文瓦」もその仲間とされます(「尼寺」周囲からも発見された)。「文様・製法」に明らかな違いがあると確認されました。

 矛盾するこの二種「瓦群」の存在を整合させるため、「国分寺(僧寺)」創建に際し「先行建物」が造られたか、と言う推定になります。その建物(寺?)に「創建瓦」より古い形式の各種「瓦」が使われたという推測です(全国の「国分寺創建時の不審」解釈にこの論理が使われます)。そしてこれが新しい定説になりつつあるのが現状なのです。

 疑問が多い「信濃国分寺」創建に関しようやく新しい推定が始まったと私には思えます。それはそれで喜ばしい事なのですが、肝心の上田周辺「蕨手文瓦」への歴史的評価は放置されたままでした。

 

3.青木村での「蕨手文瓦を含む8点瓦」の発見

 一昨年私は、上田市に隣接した青木村・田沢地区・「子檀嶺(こまゆみね)神社」で「蕨手文瓦」を含む「8点の瓦」を確認しました。

 瓦は、「蕨手文軒丸瓦(瓦当)」・「軒平(前)瓦」・「丸瓦(男瓦?)」・「女瓦」、さらに他の瓦が4点、計「8点」ありました。以下です。

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 この青木「蕨手文瓦を含む8点瓦」への「観察・岩石分析からの推論」は貴重なものでした。「定説」にはない驚きの推論が生まれたからです。列挙してみます。

 「瓦」が神社に至った事情・根拠がはっきりしていて、疑う余地がない。

 地質学者の「瓦・岩石分析」からは「土・瓦・窯」への注目すべき推定が生まれた。特に「8点瓦」中の「軒前瓦」は「九州」由来かと推定された。

 「瓦」観察から「8点」中の「4点」に「組み合わせ」が推定された。そこから『「8点」は同一寺(神宮寺)の瓦で、多数発見の瓦を代表した瓦』、と予想された。

 青木「蕨手文瓦」と既出土上田周辺「蕨手文瓦」とを比較した結果、「青木瓦はより古い時代の瓦」と推定され、青木瓦が上田周辺瓦へ影響を与えたと思える。

 これらの「発見瓦」からの推論は、定説である『東山道からの「蕨手文瓦・搬入説」』を否定するものでした。後ほど、この詳細は発表します(長くなりこの論考頁には収まりません)。

 

4.「蕨手文瓦」が示す時代

 青木村の「蕨手文様(瓦)」発見からは衝撃的な推論が生まれます。

 説明しましょう。青木村は「信濃国分寺」からは10数キロ離れています。そこは「千曲川右岸」であり、標高も高くなります。ですからそれまでの「蕨手文瓦」とは明らかに異なります。左岸にある「信濃国分寺」との関連は推論できません。更に、青木「蕨手文瓦」が上田「蕨手文瓦」より古いとも推定されました。

 これらから「信濃国分寺創建前に仮の建物があった」説は成り立たないのです。

 理由は簡単でしょう。青木村に、上田から10数キロ離れた青木村に、「蕨手文瓦」があったからです。上田と青木に「創建準備の建物」を造る事などあり得ません。

 ですから上田に『「蕨手文」を使った創建準備の建物を造る』筈などないのです。

 これは子供でも解る論理でしょう。

 「蕨手文瓦」は、「信濃国分寺」を「補修」する為「豪族(職人)」が「思い付きで作った瓦」でもありません。「信濃国分寺創建以後の瓦」説も成立しないのです。

 繰り返します。「信濃国分寺創建」と「蕨手文瓦」には関係などないのです。「蕨手文瓦」時代の方が古いのです。「蕨手文瓦」のあった場所に、次の時代「信濃国分寺」が創建されたと考えられるのです。

 そして青木「蕨手文瓦」の発見は、もう一つの推定を生みます。「蕨手文瓦」を「信濃国分寺」と結びつける必要はありませんでした。ですから、上田を中心とした「科野」各地から「蕨手文瓦」が発見されている、と解釈されます。

 再確認して下さい。なんと「科野」各地の「廃寺跡」から「蕨手文瓦」が出土しているのです。須坂「左岸廃寺跡」・坂城「込山廃寺跡」がそうです。青木「神宮寺」からの発見も同じではないでしょうか。

 「蕨手文瓦」のすべては「軒丸瓦」です。ですから当然、「寺」と結びつきます。8世紀「信濃国分寺創建」以前に、「科野」には「仏教」が伝来していたと推論出来るのです。「蕨手文瓦」は、その寺(X寺)に使われた瓦と思えます。

 

5.終わりに

『「蕨手文(瓦)」が示す時代』を具体的に考えなくてはなりません。何時でしょう?

 そしてその「答え」は、「科野(上田が中心)」の「蕨手文考古資料(群)」に残されている、と私は信じています。今回は「蕨手文瓦」について紹介しました。続いて次回は「50点」は残る「蕨手文(神社)石址」に言及します。

 6世紀にしか残らない筈の「蕨手文(「複合蕨手文」)」が、半端ない数で「瓦」や「石祉」に残っているのです。郷土史家は言及していません。だが「王塚古墳」に「蕨手文」を残した一族の『「科野」進出』を推論してよいのではないでしょうか。

 そして思います。「乱」があったならこの進出は不可能だろう、と。「60もの蕨手文」を「科野」に残せないからです。果たして「乱」があったのか、それが疑われる「蕨手文考古資料群」の遺存・分布なのです。「磐井の君」と、「蕨手文一族」とは別勢力ではないか? Mac氏論考は正しいのではないだろうか?

 私は上田地域に「蕨手文」を使った一族は、「6世紀」北九州に「王塚古墳」を築造した一族だと思います。彼らが「科野」に進出し、仏教を広め、「ある寺(X寺)」を創建したと信じています。「磐井の乱」は起きていない、だが「磐井事件があった」とも信じています。「九州勢」同士で王権を争った、と信じているのです。

(終)

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注1 James Mac(阿部周一)氏の秀逸な論考 ‥‥‥ 阿蘇溶結凝灰岩の使用停止と「蕨手文様」を持つ装飾古墳の発生と終焉

2023年5月 2日 (火)

「磐井の乱」と「蕨手文様」―東京古田会ニュース・令和五年4月号掲載論考-

「磐井の乱」と「蕨手文様」東京古田会ニュース・令和五年4月号掲載論考-[コラム]

 2023/04/26、吉村八洲男さまよりご寄稿いただいたのですが、私事で手付かずになって掲載が遅れてしましました。申し訳ありません。なお、本文中へのリンクの貼り付けは山田が独断で行っています。
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「磐井の乱」と「蕨手文様」(東京古田会ニュース・R5・4)

上田市 吉村八洲男

1.初めに

 先月号掲載の新保高之氏による『磐井の乱 架空説を考える』を拝読し、力をいただいた。新保氏はこの論考で、『「日本書紀」編者が、九州王朝内で起こった権力闘争事件に関わる史料を悪盗用し、九州王朝の権力者を近畿天皇家が討滅した記事に仕立て上げたのではないか』と主張された。「磐井の乱」への新見解と思えた。

 この「磐井の乱」について、古田先生がその解釈に関し大きく論考を変えられた事は周知の事であろう。先生は最初の頃(「失われた九州王朝」「古代は輝いていた」などで)、「磐井の乱」とは『大和王朝「継体」のクーデター、「継体の乱」であった』と断言され、さらに「磐井の君」がなした業績(「九州年号」制定や律令の施行など)を推論し、改めて「九州王朝」の存在を主張されたのである。多元視点からのこれら新解釈に接した時の感銘は、今でも私には鮮明だ。

 だが、後の著作「古田武彦の古代史百問百答」に至り、「乱」への解釈は一変する。『「磐井の乱」は、「日本書紀」の作り事、架空の出来事だった』とされ、「磐井の乱・架空説・造作説」とも言える論理を展開されたのである。「磐井の乱」自体が「日本書紀」作成者による「机の上の作文」だとされたのだ。解釈を大きく転換されたと私には思えた。

 先生のこの変化に私は戸惑った。一時は「磐井の君」が消えた、九州王朝説にも疑問が出たとさえ思った位だ。

 これ以後、この問題に正面から取りくみ論考した「多元論者」は少ないようだ(だから「磐井の乱」解釈には「一元歴史観による解釈」が大手を振っている)。

 それに対し、新保氏の論考は新鮮であった。まず古田武彦氏の主張の変化やそれへの論考を丁寧に掬い取り、整理説明されたのだ。そしてそれらを比較・検討され、冒頭での新解釈に至ったと私には判断された。

 だから説得力を持っていると思え賛意を表するのだが、同時に古田氏「磐井の乱・架空説」への新たな追求・論考を我々に促しているとも思えた。

 

2.「架空説・造作説」と「考古」

 古田先生は最終的には「乱・造作説」に至ったのだが、変化に至った論拠は明白だった。主たる理由は、「考古的な裏付けがない」事だったのだ。

 「磐井の乱」があったなら、舞台となる「北九州」の「考古」には明白な変化が残っている筈だ、とされたのだ。考古からの「証拠」が残るとされたのである。ところが「土器の形式やデザイン」「神護石」などには全く変化がなく、「鶴見山古墳」の「石人・石馬」へも別解釈が可能であった。だからこれらの「考古」判断から、体制には大きな変化はなかったと推論され、『「考古」に裏付けられない「磐井の乱・実在論」はあり得ない』と結論されたのである。結果、前論を翻したような論考に至ったと思える。

 しかし私は思う。本当に「考古(資料)」がなかったのだろうか、と。「土器・神護石・石人石馬」だけが「考古(資料)」ではないだろう。他にも「考古(資料)」はあるのだ。だから再度の「乱」見解の際、先生が結論を急がれてしまったようにも見えたのだ。

 私は九州には、変化を証明する別・「考古(資料)」がある、と判断する。そしてその九州「考古(資料)」は主張する。『「磐井の乱」は「継体の乱」ではない、そして「架空の事件」でもない』と。

 「乱」について再確認しよう。「日本書紀」からの定説では、「磐井の乱」とは「北九州勢力」と「近畿王朝」とが争った事件とする。そしてこの二大勢力が争ったのだから、「土器・神護石」などの「考古」には当然変化が出た筈だ、と先生は予想されたのであろう。

 だが、実はもう一つの解釈が許されると思う。それは『「磐井の乱」とは「九州王朝」内の権力争いだった』とする解釈だ。

 体制内の「別・九州勢力」による「磐井の君・殺害事件」・「磐井体制へのクーデター」と解釈するのである。そしてこの「磐井事件」を近畿王朝が利用したと考えるのだ。「近畿王朝」がこの「事件」を「磐井の乱」と名付け、「日本書紀」で漢籍を使った勇壮な物語にした、とするのだ(これらの推論が、新保氏見解と同じなのだ)。

 「磐井の乱」を「磐井殺害事件」と解釈するのだが、留意すべきは、この新解釈をしても『九州「考古」には瞠目すべき「変化」がなかった』事で、新解釈にもやはり不利な点と思える。

 「近畿勢」との対立を想定した時でも、北九州には「考古の変化」はなかったのだ。それを「九州王朝内の争い」とすると、「九州」という狭い範囲が舞台だから「考古(資料)変化」は一段と見出だしにくくなると思える。もし見出せなければ再び「乱・架空説」に戻るのだ。だから新解釈を試みる時、「考古(資料)」の提示は必須の条件となろう。

 繰り返すが、「変化」を主張する「別・考古資料」が実在すると私は推定する。気づかなかっただけ、と思う。そしてその「考古」への推定から、『「磐井の君殺害事件」は「九州王朝」内の権力争い、実在の事件だった』と結論されるのだ。

 

3.「磐井事件」への「考古」アプローチ

 きっかけは、「James Mac(阿部周一)」氏のブログ「古田史学とMe」上の論考(2018・5・31)阿蘇溶結凝灰岩」の使用停止と「蕨手文古墳」の発生と終焉を知ったからである。

 James Mac氏はそこで、二つの「考古資料(判断材料)」を提示された。タイトル名にある「阿蘇溶結凝灰岩」と「蕨手文古墳」である。詳細はブログ記事をお読み頂ければと思うのだが、簡潔にここで紹介させて頂く(文責は吉村です)。

 「阿蘇溶結凝灰岩(灰色岩)」を使った「石棺」は、5世紀中ごろから近畿地方を中心とした古墳に残されていた。使われた原料石は、熊本県(「氷川」・「菊池川」が中心)産出と判断されていた。

 それがある時期(6世紀前半から6世紀終末)、「近畿」で見られなくなる。中断する。

 この中断期間を挟み、7世紀になり、同じ「原料石」を使った「石棺」の利用が再開される。

 これは考古学では著名な一連の出来事であり、研究者はその変化(中断・再開)の理由を様々に解釈して来た。結局は、「不明」と結論されるのだが・・・

 さて九州には「蕨手文様」「壁画」を持った古墳がありその特徴も認められていた。

 「600」もの「装飾古墳」中、「蕨手文様」古墳はわずかに「8個」、しかも「終末期」のみの出現であった。「7個」が「水縄山山地周辺」・「筑後川」流域にあり「肥後(熊本県)」にないのも不審に思われていた(所在地の偏在)。そして「蕨手文古墳」の出現は、6世紀初期「日ノ岡古墳」からで6世紀末の「重定古墳」が最後であった。

 これは前述した近畿地方での「石棺」利用(石材産地を含め)とは対称的と思える事績だ。ここに着目したJames Mac氏は、「阿蘇溶結凝灰岩」と「蕨手文古墳」という二つの「考古資料」を「磐井の乱」と関連付け、瞠目すべき秀逸な論考を展開したのである。

 『「阿蘇溶結凝灰岩灰色」を使用した石棺が、近畿で造られない「6世紀前半」から「6世紀終末」までの「約六十年間」は、「筑後」において「蕨手文古墳」が出現し、そして造られる「60年間」と重なる。そしてそれは、「磐井の乱」が起きた時代とほぼ同時期の出来事だ』と考察したのである。驚嘆すべき指摘であった。

 熊本産「石棺」利用勢力と、筑後「蕨手文様」利用勢力とを対比させたのである。「蕨手文」を持った勢力により、「阿蘇溶結凝灰岩(灰色)石棺」勢力が追われた期間があり、それが「磐井事件」からの期間と重なっている、と推定したのである。

 私は、「蕨手文様」勢力が「石棺」利用勢力を追放し、王権を奪った、と推量した。「体制内権力争い」の「痕跡」を「考古資料」から指摘したものと思えた。著名な数々の「考古資料」が明らかな「考古の変化」を示している、それがJames Mac氏の論考を裏付けているとも思えた。『「磐井事件」の実在』が証明されたと感じたのだ。 
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「王塚古墳・蕨手文」
 さらにJames Mac氏は、文献からもこの推定を裏付けた。

 「磐井殺害事件」により、連綿と続いて来た「倭国王権一族」は「九州王朝王者(の座)」から追われ「雌伏」させられるのだが、その痕跡が「日本書紀」に残るとされたのだ。

 「推古紀」」の以下の記事が根拠であった。

 「(推古)十五年(607年)春二月庚申朔。(中略)戊子。詔曰。朕聞之。曩者我皇祖天皇等宰世也。跼天蹐地。敦禮神祇。周祠山川。幽通乾坤。是以陰陽開和造化共調。今富朕世。祭祀神祇。豈有怠乎。故群臣共為竭心宜拝神祇。

 文章の大意は、『「昔(曩者)は」「吾が皇祖天皇は天下を治めていた(宰世也)」。そして今、自分がそのような立場に立った(今富朕世)。・・・』と思われる。この「推古」の言葉から、「昔」と「今」の間に「宰相」ではなかった時期があったと読み解いたのである。

 確かにそう書かれている。

 更に、「推古天皇」が述べた「昔(の時代)」をこう推定した。「日本書紀」、「垂仁天皇廿五年(丙申前五)」の記述からである。

 「(前略)我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇。(中略)今富朕世。祭祀神祇。豈得有怠乎。」と書かれていた文章の後半には『「推古天皇」の言葉と同一』と言える部分もあった。だからこの「垂仁天皇」の言葉を意識して「推古」が「詔」を発したと推定したのである。

 James Mac氏は、「垂仁天皇」から「推古天皇」の間、「倭国王権・一族」が「雌伏していた(させられていた)」とした。この期間が「王権」を追われた期間であろう、「推古」がそう言っている、と主張したのである。

 さらにこの「事件」を引き起こした「首謀者(一族)」も推定する。

 「壁画」に見られる「蕨手・盾・靫・太刀文様」は、「戦闘」を宗(むね)とした一族にふさわしい「文様」であろう。そう考えた時「蕨手古墳」の近くには、戦闘集団と言われている「物部一族」が依拠した「浮羽町」がある事に気づく。

 James Mac氏は、「物部一族」がこの事件の首謀者であろうと推定した。彼らが「磐井の君」を殺害し、「九州王朝」の実権を握ったとした。「蕨手文・古墳」は彼らが築造した古墳で、それを築造する権力を持った事が、体制内で権力が移動した「証拠」だとしたのである。「倭国王権・一族」は「蕨手古墳」が築造されていた間、「雌伏」させられたとしたのだ。

 「ない」とされて来た「考古(資料)」は実在する。それこそが『「磐井の乱」はなかった。が、「磐井事件」があった』事を証明している、こうJames Mac氏は主張したのだ。

 

4.「蕨手文様」と上田(又は

  James Mac氏の論考は革新的だった。氏の「論証」は実在する「考古(資料)」で組み立てられていた。謎とされた「磐井の乱」も、この「多元的新解釈」で解明されると思えた。

 実は、このJames Mac氏論考で取り上げられた「蕨手文様」が、「科野・上田地域」には存在していた。「蕨手文」の「軒丸瓦」があったのだ(「6個」が確認されていた)。「蕨手文」は、上田だけに「考古(資料)」として残っていたのである。日本中探しても、その密集は「九州」と「上田」にしかない。だから、その関連は当たり前であろう。

 私はJames Mac氏の論考に教示され、第一回「古代史セミナー」で、『「上田・蕨手文様軒丸瓦」と「磐井の乱」』についての論考を試みた。この文様を「手慰み・思いつきによる文様」としてきた「定説」には大きな不審があり、改めて九州との関連を見直すべきだ、と主張した(ただ残念ながら反応は全くなかった)。

だがJames Mac氏論考が発表されてから数年を経た一昨年、その「論考の正しさ」を証明する出来事に遭遇した。私自身が「蕨手文・軒丸瓦」「軒先瓦」「男瓦」を含む「8点の瓦」を発見したのである。
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「蕨手文・軒丸瓦」

 そしてそれを調べれば調べるほど、James Mac氏論考を裏付ける推定が次々と生まれた。推定通りだったのだ。これには驚ろかされた。

 James Mac氏論考は、発表後に出土した「考古資料」からの推定を「予言した」ものと思えた。この事実が氏の主張の正しさを物語る、そう私は判断した。

 James Mac氏の論考した「磐井事件・解釈」が正しいと私は改めて思ったのだ。

 

5.終わりに

 追及の結果、「上田地域」からは重要な「蕨手関連考古(資料)」がいくつか確認された。「蕨手文」についても、その意味・来歴への新たな推定が可能となった。そこからは、「上田地域」には「蕨手文様考古(資料)」があふれているとも判断された。

 古代からと思える「物部氏」関連の「地名」もいくつか確認出来た。彼らが信仰した「高良社」の密集も確認できた(上田だけで6社!)。そして、発見「瓦」への推測からは、「寺(仏教)」への貴重な試論が生まれてくる。

 最大の収穫は、「物部氏」に加担し協力した、ある「一族」への推定が生まれた事だ。そしてそれが「なぜ蕨手文様だったのか」への推定とも繋がる・・・

 私の推論は、独りよがりになりつつある。求められれば、発見「瓦」を持ち込み説明したい。それへの「鑑定」・他を通し是非とも皆様のご批判をお聞きしたいのである。

(終)

2023年4月10日 (月)

「しなの(科野)」語源考―「多元の会」月例会・令和5年4月―

「しなの(科野)」語源考
「多元の会」月例会・令和5年4月―[コラム]

 吉村八洲男さまより、多元の会で発表された論考をご寄稿いただきましたので、掲載いたします。文中のリンクは山田によるものです。

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「しなの(科野)」語源考 (多元月例会・R5・4)

上田市  吉村八洲男

1.初めに

 機会を与えて頂き、感謝いたします。既に「国分寺・尼寺論」に始まり、「条理」「真田の鉄」「青木の蕨手文瓦」、と何回か皆様にお聞きいただきました。今回も同じように顰蹙を招きかねない話題・推論なのですが、今迄の回数に免じてお許しください。

 「上田」と言うとすぐに戦国期・「真田一族」を想起します。ありがたい事なのですが「古代史」分野に限ると「マイナス」面が非常に多いと感じます。「真田一族の家系・祖先」を追及しても「中世」で止まります。古代へと歴史を遡れないのです。

 しかし考え直して下さい。「黒曜石産地・星糞(ほしくそ)峠」と「上田」は、十数キロしか離れていません。つまり「星糞峠・和田峠」の麓は「上田」なのです。「峠」に隣接する旧石器・縄文時代「男女(おめくら)」遺跡とも離れていないのです。

 これからの話題、『「上田」は古い時代からの歴史が推量される珍しい地域だ』をご理解ください。私は「しなの・科野」とは「上田」の事で(これに間違いはない!)、「始原期の古代史」と密接に繋がる地、と思っています。「上田」の古代(始原期も含め)へ更なるご理解を頂きたい。

 

2.遺伝性疾患・「アミロイドニューロパチー」の意味する事

 この遺伝性の病気については、古賀達也氏が「洛中洛外日記・1720話」〔肥後と信州の共通遺伝性疾患分布〕で取り上げられ、「2050話」〔古代の九州と信州の諸接点〕でも再論されています。

 見逃してしまう話題ですが、この病気の存在は、歴史判断を左右しかねない重要な問題を内包していると私は判断しています。「しなの」論と密接に関係します。

 まずこの病気について簡単に説明してみます。

 この病気は「常染色体の優性遺伝」による疾患、つまり「染色体の突然変異」が引き起こす疾患で、「親から子へと50パーセントの確率で遺伝」するのが特色のようです。内科医であれば知らない人がいない程の有名な病気と言います。驚くことに、特殊とも言えるこの「遺伝性疾患」が、「長野県」と「熊本県」に集中して出現します(両県の、現在での「集積地」までが特定されています)。

 この医学事実の存在は何を意味するのでしょう。不思議で奇異な事と思えます。遺伝子解析、DNA読み取りなど科学的手法による歴史探求・解釈が行われる現在です。

 この不審への解答がなされるべきと思われます。

 ところが、ピンポインで両県に起こっているこの現象の原因にはまだ答えが出ていないようです。放置されたままです。推定を試みてもいいかとも思えました。

 まず両県だけにある「自然要因」、「生活要因」がその「原因」、とする推定・主張は出ていません。素人目にも、それを原因とする説明はおかしく思えます。

 となると、「人的要因(条件)」が大きく関わっていると考えざるを得ません。「血統」・「血脈」が移動し遺伝した、つまり「人の移動」説が現状の分布を説明する唯一の方法ではないでしょうか。

 「太古から両県には、人の移動・『往来』・があった」。驚きますが、それが答えと思えます。

 

3.歴史に残る両県の『往来』

 驚くことに「歴史」ではすでにこの不審な現象への回答が出されています。

 両県には、古代から人の移動があったとして来たのです。

 始原期の両県の「人の移動」について「上田市誌」では、「(異本)阿蘇系図」・「旧事本紀(国造記)」からの推測が取り上げられています。

 『「神武天皇」の子、「神八井耳(かみやいみみ)命」の子孫「建五百建(たけいおたけ)命」が科野国造になり、その子の一方「速瓶玉(はやみかたま)命」は阿蘇国造になり、もう一方の子「建稲背(たていなせ)命」は科野国造になります。

 「習合」による加筆部分(特に神武天皇部分)があったでしょうが、両県は始原期(創世期)から「人の移動・つながり」があり、しかも「科野(長野)」が先で「阿蘇(熊本)」が後だったとしているのです。

 伝承を記録しただけの信憑性のない文献から、との批判はあるでしょうが、伝承にせよ「長野県」から「熊本県へという「移動」は、記録されているのです。

 だがそこを過ぎて古代歴史解釈は大きく変化しました。大和王権の進展が歴史の進展だ、としたのです。そしてその時、『「熊本県」から「長野県」へと人が移動した』とする解釈が、「定説・主流」になります。「古事記」などを通した「一方通行」とも言える歴史解釈です。

 「神武天皇」・「神八井耳命」に繋がる「物部氏・多(おお)氏・蘇我氏」一族の動向が全国へ強い影響を与えたとされますが、「科野」でも同じでした。特に「多氏(於氏)」の一族が現在に繋がる地名「小県(ちいさがた・上田もその一部)」を決め、諸政策も行ったとしました。「諏訪信仰」との強い結びつきも指摘されました。「河内国」を根拠としたこの「多(おお)氏一族」の流れが「肥後国」にあるとされ、「多氏」が「肥後」と「科野」を結び付けた、と解釈されます。その一族が大挙して「肥後」から「科野」に来たと解釈したのです。

 上田(塩田)「阿曽神社」・その「宝剣(布留御魂剣)」も奈良県「石上神社」から分祀されたとしました。彼らは次には「常陸国」へとその勢力を広げたと郷土史家・歴史家は考えました。「近畿(地方)」が中心、その影響を強く受けたとしたのです。

 これに対し現在では、「鉄」や「蕨手文」の伝来・「八面大王」伝承の究明などから、「北九州」からの「人・文化」の移動を考えます。直近の新聞記事も長野市「塩崎遺跡」で「遠賀式土器」が数百点発掘されたと伝えます。紀元前3~4世紀と判定しました。北九州からの到来は間違いないと思えます。

 だがよく考えてみて下さい。方向は同じでも(「北九州」でも)、それでは『「熊本県」から』という設定された条件をクリアーしていません。

 「北九州」に、遺伝性「アミロイドニュロパチー」疾病は濃厚に存在していないようなのです。

 「長野」と「熊本」、両県の往来を特定する別試案が欲しいと思えます。

 

4.「長野県」から「熊本県」への移動

 「伝承」は交流関係があったと推測しますが、まだまだ不足と言えそうです。

 だが、「科野・長野」から「肥後・熊本」への移動を説明する最高の解決策があります。いやそれこそが、この疾病の持つ特殊な分布を説明する唯一の方法だと私は信じています。それを説明していきましょう。

 上田市の「塩田地区」に「阿曽神社」があります。その発祥は不明、さらに中断(放置)期間が長いとも言われる、ありふれた小さな神社です。しかしそうでしょうか。この神社こそが重要と思えるのです。ここが手がかりなのです。

 ここが「和田家文書」に書かれる「阿蘇辺族」が依拠した地・神社だ、と私は信じています。神社名が暗示するように、ここが「科野」の「あそ・阿蘇」地であったと信じているからです。一連の「和田文書」記載事実の正しさからそう信じます。

 始原期に「阿蘇辺の森」に住んでいた彼らが、やがて列島を南下し、各地に「あそ名称を残したと言われます。その彼らが「科野(上田)・塩田」にも移り住み「あそ・阿曽」を名乗った、やがてその「阿曽」族の一部が「肥後・熊本」の「阿蘇へと移動したと考えるのである。ピンポイントで「肥後・阿蘇」へと移動したと考えます。そう考えると述べてきた問題(現象)へ無理ない説明がつきます。

 歴史伝承の通り「科野・阿曽」の人々が「熊本・阿蘇」の「祖」であったと考え、その移動の際、問題とする遺伝性疾病も「熊本」へ伝わったと推量するのです。

 『「科野」から「熊本」へ移動した』という推定の理由を更に挙げてみます。

 全国にある「あそ」地ですが、「長野」と「熊本」だけにある伝承が残ります。

 それが「蹴裂(けさく)伝承」です。これは「国土創生」譚で、その地方の開拓・開墾を物語る伝承であり、全国には数多くみられます。

 だが「あそ」地を名乗る中では、「長野」と「熊本」にしか残っていません。主人公は「科野」では「鼠」、「熊本」では「建磐建命」です。両者を比較すると(古田先生の「言」を借りれば)『動物が主人公』である「長野」の伝承の方が古いと判断されます。ですから、古形を示す「科野」から「肥後」へと移動した事となります。

 このような「伝承・民話」の世界で限定すると、「科野・塩田」は相当に古そうです。「塩田」の伝承は「苧環(おだまき)形」という古形を取るのが多いと言われます。後世では別話となる民話が「一つの民話」として連続して語られるのです。

 「上田(塩田)」が発祥と言われ「人獣婚姻譚」としても有名な「小泉小太郎(竜の子太郎)」話も「三年寝太郎」話と繋がり、「一民話」として伝わります(太郎が成長して「寝太郎」となる)。そしてそのような形式こそ、「民話の原型」とも言われます。「塩田」の民話は、古い民話が多いとも言えるのです。

 一方、「熊本・阿蘇」の伝承には特徴的なことが少ないと思えます、多くが「建磐建命」を主人公とするありふれた伝承です。「土蜘蛛」を滅ぼし土地を開拓します。その関連伝承が多数です。明らかに両者は異なり「科野」の方が古いと思われます。

 7年ほど前、「阿曽神社」境内から「宝(?)」が偶然発見されました。「鶏の卵石」と伝承されて来た「卵形をした3石」でした。しかし、この3石の出現に私は大変驚きました。「宝」として大切にされた時代の古さが想起されたからです。

 「文化」が進み「鉄」の時代を迎えた時、「石」を宝にする神社・人々がいるでしょうか?あり得ない事です。つまり、「石」を宝にした時代は「鉄」より遥か以前だと判断されるのです。そして「岩石分析」からの推定もそれを支持しました。

 「石の宝」を持った「阿曽神社」の起源は、相当に古いと思えます。

 「3石」にさえ意味があるかと私は思いました。古田先生が、「角陽国」への追及を通し、「3」の持つ意味を考察されていたからだ。

 「3石神社・三笠神社」は全国に今も残ります。福岡「宝満(三笠)神社」のルーツは「3石」だといいます。そして「熊本・阿蘇神社」の創建時の宝も、「3石柱」だったと「三代実録」の記載から説明されています(「阿蘇市誌」から)。

 列島を南下した「阿蘇辺族」の宝は、「3石」であったのかも知れない・・・

 推論への決定的と思える根拠があります。

 「科野・阿曽神社」に向かい、「根子(ねこ)岳」と「烏帽子(えぼし)岳」が聳え立っています。この山々が正面とも言える位置にあり、連なっています。そしてなんと「熊本・阿蘇神社」近くにも、「根子岳」と「烏帽子岳」があるのです。同名称の山が存在するのです。この三地名は「セット」と思えます(「根子」名はやや新しいか、「阿蘇神社」のお土産には「猫」が使われます)。

 同一地名の存在は、偶然ではないと思えます。「科野」から「肥後」への移動を物語るのではないでしょうか。さらに上田盆地には、「たていわ(立岩)」地名さえ残ります。「熊本・阿蘇神社」の主人公、「建磐竜命」を想起してしまいます・・・

 いずれにせよ、「科野」と「肥後」は無関係ではあり得ません。ともに「あそ」地・神社を持ち、同一山名を持ち、伝承を持つからです。そして、「科野・阿曽」の方が古いかと判断されるのです。

 「科野・阿蘇(曽)族」が「火の国(肥後)」へ向かったのではないだろうか?

 

5.「しお・塩」は「しよっぱい」か?

 「まくら」が長すぎました。本題・「上田の塩」・に切り替えます。ただ最初にお願いしておきます、これから話題とする「上田市」は「上田盆地」とほぼ同義だと考えて下さい(平成の合併以前の地域名という事)そこからの推論が重要だからです。

 「上田市」は「千曲川」によりほぼ二分され、片方が「塩田地区」と呼ばれます。

 緩やかな傾斜のある平地とさえ言ってもよい一帯で、「縄文期」からの数々の遺跡から「文化の先進地」だったと考えられています。「地名」も古い独特のものが多く残ります。「塩田」名も「平安期」文献には既にあり、現在とほぼ同一地域を示していたようです。

 しかし、よくよく考えてみると、「塩」があったと言う変な地区名称です。そして、もう片方の「上田地区」(標高がやや低い)には「塩」地名が皆無です。

 太古の上田盆地は海の底であった、だから「塩」が残り「塩田」地名が付けられた、とするのが今迄の説明です。そうだとすると、少ない平地しかなく標高の低い「上田地区」にこそ「塩」地名が残らなくてはいけません。乾燥していく過程で最後まで「水(塩水)」が残るのが「上田地区」と思われるからです。ところが実際には「塩地名」は、「塩田地区」にしかありません。不思議な事でした。

 数年前です。「古田先生」が「しなの」地名について見解を述べられました。「言素論」による「日本語の成り立ち」から「地名」を解釈された時です。

 『「しなの」の「し」は、「ちくし」の「し」であろう。共に「し」は「死」である、その地では、「生き死に」が繰り返されていたと思える。だから「し」が残るのだ。松本にある「ふかし・深志」地名もそこから考えるべきであろう』。

 記憶に強く残りました。「しなの」は、「しなの・科野・信濃」ではない。「し+な+の」であっても不思議ではないと感じたのです。「言素」からの追及が肝要と思えました。「那」は、「水辺の領域」を意味するとも知りました。

 「しなの」とは、「死+那+野」とさえ考えたものです。

 

6.「塩田地区」の「しお・塩」

 そう考えたとき、「上田・塩田地区」の奇妙な地名が想起されます。略図をご覧ください。Photo_20230406155601

 「塩田地区」には、驚くほどの「塩」地名がありました。さらに「上田盆地」以外にも、ここを取り囲むように「塩」地名が点在します。

 そして地区内「塩」地名に、ある特徴的「塩地名」があります。「塩野」名です。部落名(字名)なのですが、同一名称が地区内に二か所あるのです。それぞれを「前山の塩野」と「保野の塩野」と呼び分けます。そして共に「塩野神社」を持ちます、ですから「本家」争いを繰り広げる事となります、「俺の神社の方が古い!」。

 更にそれぞれにある池も、「塩野池」と「塩吹池」と似通い、「塩野川」さえあります。

 「塩田地区」の「塩野(部落)」の「塩野(神社・池・川)」、と三重構造を持つ「塩」地名が、離れて、同時に存在するのです。

 まだ「塩」地名があります。「盆地」はずれには「塩尻」があり、「塩川」もあります。隣接する青木村には「塩野入池」もあります。

 そして、「上田盆地」を取り囲むように「塩崎(長野市)」・「塩原(小諸市)」「大塩(丸子町)」「塩名田(佐久市)」があるのです・・・

 この地(一帯)には「塩」地名が溢れています。「塩(salt)」と考えると、「塩田地区」はひどくしょっぱい地域だったと思えます。三重構造を持つ「塩野」地区などは、「塩の濃厚遺存地」となります。おかしいでしょう。

 だが、上田の「歴史学・学者」は、無条件で『「しお」=「塩・salt」』として来ました。疑いを持つ事はありませんでした。(全国でも同じだったのでしょうか?)

 けれども「地質学」者は違います。「上田盆地」は「地質学」からは注目されていました。「上田泥流(古浅間山が崩壊し発生)」という地質学上の大事件が起こった場所で、その発生時期を巡っては大論争があったからです。

 結論は、「紀元前9000年頃の発生」となったのですが、幸運な事に(?)その際「上田盆地の地質・地層・土壌」は、徹底的と言える程に調査されたのです。

 「上田泥流・紀元前9000年頃発生」説を提唱し、数年かけてそれを確定させた「地質学者」に聞きました。『「塩田地区」に、「塩(salt)」はあったのですか?』

 答えは明確でした。「そんなものは、なかった。話題にすらなっていない。ただ、歴史家たちは「あった」と強く主張している。だから、あったのかも知れないが・・・我々としては、「塩」とは「粘土質の強い土(粘着性がある土壌)」の事と理解している。そうとしか考えられない

 驚きます。「塩田」に「塩(salt)」はなかったというのです・・・しょっぱくなかったと言うのです。地質学者はそう断定していたのです。論争による数多い「調査」結果からそう結論していたのです・・・

 

6.「しお」「しなの」語源考

 私は地名分布への不審と科学者の見解から、「しお」とは、「塩(salt)」ではないと主張します。別解釈をすべきです。その時、古田先生の「言素論」が想起されます。

 「しお」とは「塩」ではなく、「「し+お」ではないでしょうか。先生は、「し」とは「死」であると言われました。そこからの気付きです。

 「し」を「死」とした時、この「し・死」語は「言素で名詞」と思えます。「名詞」は「動詞」と接続し、容易に次の語が生まれます。「死・す」「死・ぬ」がその例です。

 そう考えた時、「し」を持つ類似語例が浮かびます。

 「し+ける」(時化る・湿化る)・「し+なる」(曲る・級る)・「し+げる」(繁る)などなどです(「し+のぶ」(忍ぶ・偲ぶ)もそうかも知れません)。

 明らかに、「し」は「名詞」です。それを「語幹」にして「動詞」が接続し、様々な意味を持つ言葉となっています。「しなの」もそうなのではないでしょうか。

 ただ、「し=死」と限定する事はないとも思います。「し(死)・お・だ」では「ゾンビ」の国になってしまいますから。

 私は、「し」とは「変化」を意味した言葉、と結論しました。

 天気(晴天)が変化する事を「し・ける(時化る)」と言います。直線が変化する事を「し・なる(曲る)」と言います。乾燥しているものが水分を得て「し・ける(湿る)」のです。枯れ枝から葉が生まれ「し・げる(繁る)」のです。先生の言われた「し・死」も、生き物が最後に至る「変化」と思いました。

 「し」という「言素」は、「変化」を意味した言葉だったのではないでしょうか。

 「し=変化」が多い「地」が、「し・な・の」「し・お・だ」ではないでしょうか?

 広大な山野を持ち急峻な地形を持つ長野県ですが、降雨時すべての水は「千曲川・天竜川」に注ぎ込みます。現在でもこれら中心「河川」の変化は、想像以上に激しいものです(江戸期、千曲市では「6m以上」の水位上昇が記録されています)。さらに「火山活動」による地形の変化もあります。これら自然の変化は人間の生活に深刻な影響をもたらし、生存を脅かし続けたと思われます。

 河川流域地は、この変化する「川(筋)」により形成されます。つまり、「変化する水辺(流域地)に形成された場所(野)」が「しなの」と思えます。

 「し・変化する」、「な・水辺の」、「の・野(地域)」が、「しなの」ではないでしょうか。

 「しなの」の語源については定説がありません。様々な予想がなされ、「議論百出」状態です。そしていずれの主張も「一長一短」と思われます。

 江戸期から考察がなされ始めた為、「姨捨説話」からの連想とも言える「級坂(しなさか)」説(山が多く曲がった坂道が多い)が中心ですが(賀茂真淵・本居宣長以来)、「科の木」があるから「科野」であるというおかしな主張さえなされます。「古事記」・「諏訪信仰」と結びつけた「風神」説も、有力です。直近では「河成段丘」説が主張されました(関裕二氏)。いずれも「しな」を「級」と考えます。「しな」語をどう解釈するかで、諸説が分かれます。

 だが、「し」+「な」ではないでしょうか?

 「し」「な」と言う「言素」に立ち返ることが、旧石器時代からの歴史を持つ「しなの」語解釈には必要な事と思われます。長い歴史が「しなの」語を育んできたのですから。

 残る「塩・しお」地名も、「し=変化」からと考えます。「し(変化)+お」となります。

 ただ「お」が問題で、それについては私にもすっきりとした説明ができません。古代の「母音」は今より多いと言われます。ですから「お」表記であっても、いくつかの「お」発音が予想されるからです。

 「ふぉ」「ほ」に近い「お」発音とすると、「穂」を意味すると思えますから、「穂」「(変化が)目立つ・激しい」という意味となります。

 「お」発音のままとすると、「(変化が)ある・広がる」の意味と思われます。漢字での表記は「於・多・尾」などでしょう。

 ただ、どちらでもあまり変わりがないようですね。失礼しました!

 

7.終わりに

 「音」で呼ばれていた「しなの・地域名」ですが、やがて漢字が使用され漢字で表記されるようになります。

 その時人々は、「しな」を一語とし、「科(窪み・穴を意味する)」と表記した様です。古賀達也氏の予想ですが、私も同意します。

 縄文期の黒曜石の採掘は、クレーターを思わせる「窪み・穴」から採石したとするのが至近の定説です。世界でも珍しい「縄文鉱山」からの採掘です。今でも「星糞峠」「虫倉山」斜面には、無数の窪み・穴の存在が確認されています。

 縄文人は、大地・自然を変化させ「採掘場・鉱山」にしたと思えます。「自然」を「しな」させ、「鉱山」に作り変え黒曜石を採掘したといえそうです。

 だから「しな」を「科」と表記したのです。それが、「黒曜石産地・星糞峠」の麓でもあった「上田」を、「科野国」と表記した始まりだったと思えます。

(終)

2023年3月 7日 (火)

神科条里と「番匠」②―条里と「国府寺」(「多元No.174 Mar.2023」掲載)―

神科条里と「番匠」②
条里と「国府寺」(「多元No.174 Mar.2023」掲載)[コラム]
 2023年3月4日、吉村八洲男さまより「多元No.174 Mar.2023」に掲載される論考のご寄稿を頂きました。掲載された「多元」誌が届きましたので掲載したします。これはブログ記事 科野「神科条里」②「条里」と「九州王朝・国府寺」編 を推敲されたものと察しますが、「多元的古代史研究会」の会誌「多元」向けの論稿に相応しく、論理的により洗練されたように感じました。いわば、吉村さんが追及してきた「神科条里」と「科野○○寺」に関する最終結論と言ってもよいものだと思います。論中で拙論を取り上げて頂き、感謝申し上げます。
 なお、本文中への〔〕の挿入とリンクの貼り付け及び挿図位置の変更、並びにケアレスミス「日本書紀・聖武天皇の詔」の「続日本紀・聖武天皇の詔」への校正は山田が独断で行っています。ご了承ください。
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神科条里と「番匠」②
『条里と「国府寺」』(多元174、R5・3)

上田市 吉村八洲男

1.初めに
 前論〔科野・「神科条里」①「条里」と「番匠」編〕で上田地域・「検地帳・類」に「57例(!)」が残る「番匠」語を紹介した。この上田「番匠」語には「一元的解釈からの定説」が全く成立しなかった。それどころか分析からは、古代起因の使用例として残るかと疑われた。そして正木裕氏が発見された「九州年号」が記載された最古の資料(7世紀・「三嶋神社縁起」)からの語義予測、『「番(かわるがわる)に匠」を集める制度』が正しい理解と結論された。上田「番匠」語は、最古の資料にあった「番匠」語からの解釈と一致する用例として残っていると思えた。
 この「番匠」語は「神科条里」・隣接地の「検地帳」に多く残され、発掘による考古からも『「神科条里」は「九州王朝」により作成されたか』と推論される事となる。
 『「九州勢」が「神科条里」を造った』。驚きの予測だが「古田史学会報No.136・168」「古田会ニュースNo.192・200」更に再三の「多元」での私主張と連続すると思えた。

2.阿部周一氏の「番匠」論
 「阿部周一」氏が「古記と番匠と難波宮」(「古田史学会報No.143」)で重要な推論を展開された。
 『「前期難波宮」の造営には多くの「雇民」が動員された、それが「続日本紀」「他資料」から窺える』とされたのである。阿部氏は、「令集解」に登場する数多い注釈書の中から最古の注釈書と言われる「古記」に特に注目された。「古記」は「養老律令」以前の「大宝律令」をも説明する唯一の「注釈書」と言われていたが、それだけでなく「大宝律令」以前の事例にも数多く言及しているとし、その実例もいくつか挙げられたのだ。
 そして、『「令集解」の「古記・注釈」中に、「(前期)難波宮」設立に際しての「番匠」の存在を疑わせる記述部分がある』と読解されたのである。
 『三嶋神社縁起』で発見された「番匠」語の詳細を、「令集解」中にある「古記」註釈から読み解き説明されたのである。不明であった「番匠」語への重要な指摘であった。
 阿部氏は、「番匠」とは「養老律令・賦役令」にある「丁匠(の制度)」がそれに相当すると発見されたのだ。この制度が「大宝令」以前に生まれ、関連する「語」の使用も「孝徳時代から」、とも読解されたのである。
 さらに阿部氏の論考は「番匠」制度の運用にも及んだ。その時(「前期難波宮」造営時)、「近国(西方の民)」から「中つ国(瀬戸内周辺国)」・「遠国(近畿地方の国)」へと「匠」の徴発国が変化している、と読解されたのである。各地から交互に「匠」の徴発を行うこの制度は、「交番制」を意味する。そこからも、「番匠」制度がすでに造られ諸国から「匠」集団を徴集していた、と推定したのである(この「近・中・遠国」判断基準から、この制度の創立者が「九州王朝」だとも判断された)。」
 細部にまで及んだこれらの論考だが、同時に正木氏の先見的な数々の推論を裏付けるものでもあった。阿部氏は、正木氏の論考の正しさを追証し、支持されたのである。
 私も両者の立論には納得させられた。正木氏により「孝徳期に番匠制度が始まった」と推定され(「三島神社縁起」)」、阿部氏により「番匠」の内容・運用までもが確定された(「令集解」から!)のである。「番匠」制度・語は、「九州王朝」が創設したと思えた。そして(だから)、王朝交代後に公式資料から消されていった言葉と思えた。
 そして驚くことに、上田「検地帳・類」に残された「番匠」語には、阿部氏の推定を裏付ける「番匠関連地(国)名」が残っていたのである!

3.もう一つの「番匠」の論理
 「令集解(古記・註)」には、こう書かれていた。
 『「九州」地方(「近国」)からの徴発が最初にありその後「中つ国」として「瀬戸内周辺国」へと移り、最後に「遠国」である「近畿」の人々がその対象となった』
 「番匠」の徴集を説明した重要な部分である。徴集に際し、ランダム(思いつくままに)「匠」を集めたのではないと読み取れた。移動の難易度や「匠」の技能特徴などを考慮して「(徴集)国」を決めた、そして徴集に際しては「ブロック化した国々から」と予想されたのだ(だから「番(かわるがわる)の匠」なのだ!)。
 そう考えた時、『上田「検地帳・類」』に記載されたある「地名」に思い至る。解釈不明とされていた、それらの「地名」に説明がつくのである。それが「国名」を示した「地名」である。それが、「神科条里」想定地・隣接する村の「検地帳」にはっきり残っているのである。
 「笹井村検地帳」には、「はりま(播磨)町・いずみ(和泉)町・するが(駿河)田」、「染谷村検地帳」には「えちご(越後)田」、「新谷村検地帳」には「さぬき(讃岐)田」、「伊勢山村検地帳」には「やまと(大和)町」と記載されているのである。「いせ(伊勢)」名も多く残されていた(合計すると7か国名。さらに「我妻」「びぜん」「たじま」などの国名も離れた他の村から確認される)。
 私には、これらが「番匠」が徴集された「国名」である事に間違いはないと思えた。そして驚くべきことにも気づいたのだ。
 これらの「国々」が「ブロックを形成している」と思えたのだ。ランダムな選択による地名・国名とは思えなかったのだ。「播磨・和泉・駿河・越後・讃岐・大和・伊勢」、私にはこの国名は「近畿・中部」地区に属する「国名」と判断された。これは阿部氏論考にある『遠国の国名』が該当すると思えた。ブロック形成を示すと思えたのだ!
 『「科野・神科条里」で「番匠」と呼ばれた「土地造成の匠」』は、『「遠国(近畿・中部地方)」から徴集された匠たち』であったと推測できるのである。
 「神科条里」に残る「国・地名」は、「令集解」からの阿部氏推論の実証例と思えた。上田「検地帳」に残る「国名」は、更なる「番匠語の論理」を示したと思えた。

4.真田町の「番匠」地名
 前論発表後、真田町・清水潤氏からご教示を受けた。「まんちう村」と表記された地名(前号資料・「不明 7」)に関することであった。この地名は、清水家に伝来する古文書『真田氏給人知行地検地帳』に記載されていた地名だったからである。
 清水氏は、真田の「まんちう(番匠)」とは、一地名ではなく連続する広い地域名ではないか、と指摘されたのである。
 下図に、古文書の該当する部分を表示する。
図1:真田「まんちう(番匠)」(・印は吉村による)
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 やはり「8か所」から「まんちう(中)」地名が確認され、連続しても書かれていた。土地所有者「松尾豊前守」の配下と思える複数の耕作者名(8名)がそこに書かれていた。
 指摘された通りであった。『真田「まんちう(番匠)」』とは、一地点名ではなく「地域」を表す地名でもあったのだ。「真田給人知行地検地帳」からは、そう断言されるのである。
 小冊子作成時に、これらの連続した「まんちう」地名を一つの地名として扱ってしまったと思えた。
 そしてこれはある推測へと繋がる。図2は、現在の「真田町・字(あざ)」図の一部である。そこには「番匠」地名が確認されるのだ(朱線部)。
図2:「真田町・字(あざ)」
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 現在の地名に、「番匠」語が残っていると思えた!今に残っているのだ!
 古代の「番匠」語がそのまま現在の「字(地域)名」となっていると判断された。「まんちう」と書かれた「真田給人検地帳」が両者を繋げていたのだ。
 「真田町史」では、『「番匠」地名の命名された理由は全く不明である』とするが、その説明のままではもうすまないだろう。推論(結論)はすでに出たと思えるからである。
 そして「真田」以外でも、「神科条里」地名に「番匠」語が「町」名と結びついて残っている例がある(資料 25・26・27)。そこからは『「番匠」地名は、広域地を示す時もあった』と判断して良いと思えた。「多数」の「番匠」たちが生活していたからだと推察されよう。
 つまり『「多数の匠」が長期間「科野」の仕事に携わった』と思えた。
 そう考えた時、上田地区でこれに該当する事業は一つしかない。それが「神川」を中心とした「治水(灌漑)・土地造成事業」である。「神川」左部で「吉田堰」・水田を造り、右部でも多数の「堰」や「神科条里」を造った一連の事業である。
図3:神科条里 略図(染谷台)
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 水路造成から豊かな土地を造り生産を確保する、それは進出地支配を完全なものとする事業であろう。「神科条里」は進出者「九州王朝」が作ったと断言できるのである。「番匠」語の論理はそう結論するのである。

5.上田の「国分寺(僧寺・尼寺)」
 さて上田市には「国分寺」が至近距離に二つある。定説は、発掘「寺」遺構の大きなものを「信濃国分寺・僧寺」、小さな方を「国分寺・尼寺」と判断し、「聖武天皇」の「国分寺建立の詔」の具体例だとして来た。
 だが、「信濃国分寺」創建に関する文献は全くなく、主として「考古学」から寺の持った諸問題が取り組まれてきた。
 その結果、「僧寺」の8世紀(760年頃か)建立が証明される。「瓦」への判定・考古が決め手となった。
 そして自動的に、左脇の小伽藍は「尼寺」と判断される。それへの議論・検討は全くなかった。「続日本紀・聖武天皇の詔」が、絶対的な判断基準だったからである。一つが「僧寺」なら、もう一つは後の時代に創建された「尼寺」に決まっているのだ!
 ところで改めて、「伽藍配置図」を見てほしい。「アレッ?」「なんかオカシイなあ!」子供でもそれに気付くだろう。
図4:伽藍配置(奈良時代の信濃国分寺 僧寺・尼寺の伽藍配置図)
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 どう見ても「二寺は同方向を向いていない」のである。「伽藍配置の中心(軸)線」が明瞭に異なっているのだ(皆様もぜひご確認ください)。
 つい見過ごしてしまうが、これは重要な事である。「伽藍中心線の違い」は、作成者の思想の違い、つまり体制の違いを示すと思えるからである。
 確かにおかしい、定説(「僧寺」後に「尼寺」が創建)通りなら、後の時代の「尼寺・伽藍中心線」は「僧寺」の中心線と「平行」な筈であろう。同じ体制下に作られた二寺であり、しかも隣り合わせの二寺である。隣接した「尼寺」を、わざわざと「中心線(方向)」を変えて作る理由など全くないからだ。
 しかし、両寺の中心線は確実に異なる。だから疑問がわいても当然と思える。
 『「尼寺」が先に創建されたのではないか』。つまり、『九州王朝により「〇〇寺」が先に作られ、後の時代にそれが「尼寺」と呼ばれたのではないだろうか』。
 そう疑った時、問題とする「尼寺(〇〇 寺?)中心線」への数多い論考に気づく。
 「神科条里」を発見された白井恒文氏は、その著書中で再三にわたり『尼寺の伽藍中心線は、条里線と一致する』(「上田付近の条里遺構の研究」)と主張されていた。
 資料・測量などを根拠としたこの推定に対し「信濃国分寺発掘団長・斎藤忠氏」も他国の例を挙げ間違いないとされたようだし、最近では「山田春広氏」が航空図・僧寺参道から同様な推定をされている(ブログ・「sanmaoの暦歴徒然草」〔信濃国分僧寺より「〇〇寺」が先に建てられた〕H18・2・27)。
 平成元年発行の「長野県史」にもこの推論は記載されている(「現在版」にはないが)。発見者も、一流歴史家も、在野の研究家も「尼寺中心線は条里線と重なる」と主張したのである。この「一致説」は定説として認められたと言ってもいいであろう。
 だがこれは、「〇〇寺」が条里作成時から条里に組み込まれていた、つまり「〇〇寺」が条里と共に創建された事を意味し示していると思える。
 永らく「考古学」は、こう断言してきた。『条里線と尼寺伽藍中心線は一致するが、国分寺創建問題はそれとは無関係である』。本当なのだろうか?
 「番匠」地名が示した『神科条里は九州王朝によって作られた』結論は、この定説を疑問視、いや否定する。それどころか軽視されてきた「一致説」に脚光が当たるのだ。
 『条里は九州王朝により作られた』のだから当然、『「〇〇寺(尼寺)」もその時に作られた』と断言できるのである。つまり条里(区画)線上にあった「尼寺」とは、九州王朝により作られた「○○寺(国府寺)」だったと推定されるのである!
 「尼寺」は九州王朝により建立された「〇〇寺)」だった、つまり「王朝交代」後にその寺がリメイク(再利用)され「尼寺」と呼ばれるようになった。だから九州王朝が創建した「〇〇寺」は、今も「尼寺(遺構)」として残っている事になる!
 まさに驚天動地の結論となる。だが論理を積み重ねるとそうなるのだ。そしてこう考えると「伽藍中心線の違い」は不思議ではなくなる。「九州王朝が作った寺(〇〇寺)」を否定すべく、次の時代に建立された寺が聖武天皇(大和王朝)の「国分寺・僧寺」となるからである。「中心線の違い」は当然の事となるのだ。
 「番匠」語の発見以来、積み重ねてきた論理は指し示すと思える。『「科野の国・神科条里」には、九州王朝「国府寺」があった!』
 驚くことにこれは今迄なされてきた「多元」研究者の数々の推定を裏付ける展開であり、具体例なのかも知れない。『「九州王朝・多利思北孤」により「六十六分国」がなされ、そこへ「国府寺」を設置した』と研究者は推定していたからである。
 古賀達也氏は一連の「九州年号」研究・「多利思北孤・聖徳太子」研究などから、『二つある「国分寺」への疑問』を指摘し、『告貴元年(594)からの「国分(府)寺」設立』を先駆的に推論されていた。「九州王朝」が、「国府寺」を造っていたと推定したのである。神科条里に見られる「科野・国府寺」の存在はその推論を実証する遺構と思えた(正木裕氏も『九州年号「端正」と多利思北孤の事績』・『盗まれた分国と能楽の祖』などで同様な推論をされている)。
 『九州王朝は、上田周辺を「科野の国」とし(分国し)、そこに「国分(府)寺」を建立した』と結論してよいと思えた。資料にしか残存しなかった「九州王朝・国分(府)」が、上田には「考古(遺構・他)」として遺存しているのだ!

6.終りに
 「番匠」語からの論証は、思いがけない結論となった。『九州王朝により「神科条里」が造られ、「〇〇寺」も創建された。「信濃国分寺・僧寺」以前に「〇〇寺(尼寺)」が作られていた』のだ。
 「論理」の積み重ねによるこれらの推論に対し、「実証」の不足を指摘する諸氏もあろう。既述したように「国分寺」創建関連の文献はほとんどないのだから余計にその指摘が重要となる。それぞれの寺の「創建された時代」への予測・推定には、「考古学」の知見・推測が重要な要素となる。
 「〇〇寺」があった「神科条里」への少ない発掘(7回)の「報告書」では、「土器」(「鬼高期末期の土師器が8割」を占める)・「住居跡・祭祀場跡」の「柱穴」痕などから「7世紀(又はそれ以前)」の遺構ではないか、と推測している。そこからも『「神科条里」が「7世紀」に造成された』判断には間違いはないと思える。
 残るは「〇〇寺(尼寺)」への考古からの判断となる。「〇〇寺で使われた尺・単位」、「〇〇寺の伽藍配置」、「〇〇寺の瓦」などへの推定が重要となる。次号はこれら「〇〇寺の考古学」に関しいささかの論考を試みたい。

(終)

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2023年1月18日 (水)

「多元Skype会」でのご質問―感想―

「多元Skype会」でのご質問
感想[コラム]

 2023年1月16日に、吉村八洲男さまよりご寄稿いただきましたので掲載いたします。
 なお、神科条里略図の位置は、ブログ掲載上山田の一存で変更しています。ご了承ください。

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「多元Skype会」でのご質問

上田市 吉村 八洲男

 過日行われた「多元Skype会」では、貴重なご意見を頂いた。大いに感謝するのだが、いささかの感想も持った。以下にいくつかを述べてみたい。

 

1.「番匠」地名について

 私論考では、上田に残る「番匠」地名への不審を述べた。論旨は本文に尽きるのだが、郷土史家による「番匠」語への解釈が私には不明で、私論はそこを論考した事になる。

 『「番匠」とは「大工」の事を言う』が定説であったが、これに疑問があったのである。

 疑問は二点であった。上田「検地帳・類」にも多用されている「番匠」語の語義(根拠とする資料や用例)と、その説明に多用される「大工」語の語義が不明と思えたからだ。

 「番匠」語への語義説明資料として郷土史家が必ず用いるのが「令集解」(「職員令」「木工寮」に関する記載)であるが、驚く事にそこには「番匠」語は登場しない。「木工寮」部分には「番匠」「大工」語は出ていないのだ。さらに史家は根拠とする他の文献を説明していないと思えた。

 しかし、各地の「検地帳」や地名(「番匠川(大分県)」もある)にはこの「番匠」語が多く残る。「番匠」語とは、出典・根拠が不明なのに中世・近世ではなぜか多用された「言葉」といえそうだ。大和朝廷律令下の役職名にもこの名称はない。それなのになぜ定説では、「大工(だいく)」を意味すると言うのだ?全国でもこの解釈が多用されるのだ?

 「大工」語にも不明な点がある。まず「令集解」にはこの語句への説明がない。現在は「木工匠・大工(だいく)」職を意味するが、古代も同じように使われたとは思えない。『大「工匠」』、つまり「工匠」の「長」としての使用が先と思える。「文献」(「令集解・職員令」では「大」とは「長官」の意)・「棟札」などに残る「小工」表記からも、『「工匠」の「長」』を意味する「大工(匠)」用例があったと窺える。その時の呼び方は「だいこう」であったかも知れない。

 これらを考えた時、「三嶋神社縁起」文からの「正木裕」氏の発見・論考の重要性に改めて気づく。

 「三七代孝徳天王位。番匠初。常色二戊申日本国御巡禮給。・・・」である。

 九州年号と共に表記されたこの「番匠」語には、相応の評価がなされるべきだろう。最古の「番匠」語例と思える。そしてここからは『「番匠」即「大工(だいく)」だ』とは言えないと解る。「工匠」を「番(かわるがわる)」徴集した「制度」が想起されてよいと思える。だから「番匠」には、様々な「職種」があったと思われるのだ。

 となると上田周辺での60もの「番匠」語が、「土地・古代条里水田」造成者として(又は関連語として)使用されていることには注目されてよいだろう。『縁起』中で発見された「番匠」語の用法(制度名?)をそのまま残すかと思えるのだ。少なくとも「大工」職を意味してはいないと思える。定説はおかしいと判断されよう。私には上田での「番匠(職)」とは、「日本書紀」に表現されている「鼠(ねずみ)」語と同じ職種と思えたのだが(「鼠再論(二)」をご覧ください)。

 阿部周一氏の論考、『大和朝「律令制」下では「番匠」語が消え「丁匠」語がそれに該当する』も大きな意味を持つと思えた。同じく「令集解」から『「徴集国」をブロック化して「番匠」制を運用した』と推定した事にも注目される。「番匠」制度の実際(徴集・運用)を示していると思えるからで、「神科条里」での「検地帳に残る国名」がそれに該当するかと思え、阿部氏の論考の正しさを証明すると思えた。

 地方での使用の痕跡は残るが「律令」には明記されていないのが「番匠」語なのである。ここからも大和朝の「番匠」への対処が窺えると思えた。大和朝は「番匠」語を「制度」として残したのかも知れないが、どこかの時点でそれを消したと思える(有名無実化)。

 それなのになぜ上田周辺には「60」もの「番匠」語が残るのだろう(2個や3個ではない)。そして7世紀と思える「条里・寺」が残るのだろう。私にはそれが根本の疑問なのである。

 

2.「免」について

 上田・「「検地帳・類」には、「番匠免」のように「ばんしょう」が「免」と繋がり「成句」となっている例がある。取り上げた57例中の「6」例が該当する。

 この「免」語の用例については、郷土史家の「小池雅夫」氏が既に論考している(小池氏は上田・小県地方の地名研究の第一人者であり、紹介した小冊子の編集にも携わった研究者である)。

 小池氏は、郷土史研究誌『信濃』・22巻10号で「信州上田・小県地方の免地名」と題し、詳細に論考している。そこでの結論めいた表現を借りると、『(検地帳などでの)・・・上田・小県地方における免(めん)の呼称は、(中略)租税免除を意味する用語として使用されている』とし、「年貢割付状」などからは「年貢」の意味もあったか、としている。さらに、『江戸初期において、既に地名化し、単に小名として田畑の一筆ごとの位置を示す必要から記録にとどめられた免地名』とも言い切っている。

 小池氏は、「検地帳・類」・「年貢割付状」等に表記された「免地名」の270例をあげ、その一つ一つの用例をチェック、江戸期の「免」用例は「租税免除」を意味すると推定したのである。

 それもあり、私論でも「番匠免」はこれに該当する例として扱った。

 ただ、それらの田・畑等が「地租免除」となった理由には小池氏の論考も言及していない。私的には、「免(地)」の本来的な発生要因は「神」への「捧げもの」に由来すると理解するので、「免」名が付いた理由は、「Skype会」でのご指摘の通りと思われる。他地域ではこの用例が頻出するかも知れないが、私の論考はあくまで「江戸期」の上田・小県地方の「検地帳・類」からの論考である。すでに結論が出ていると思える、その点にはご理解を頂けたらと思う。

 ただ小池氏の論考で興味深い事は、「免地名」を大別した時、『1.信仰関係免地名 2.村の経費関係免地名 3.その他』とされた事で、さらに上田地域では不思議な「地域差」があるともされている点である。また、「すず(鈴)の免」(神楽の鈴)地名が最多であるとも指摘されている。

 私も「検地帳」を調べ、「ぶたい(舞台)」地名、「まい(舞)」地名がこの地に多く残りそこに地域差があると思っていた。だからこれらは関連した注目すべき地名と思え、「番匠」語が持った地域差とも関連するかも知れないと感じた。そういえば、上田の神社に残る神楽が「浦安の舞」だけなのも不思議な事ではある。

 

3.「神科条里」研究と考古

 「鼠再論(三)」に既述しているが、「神科条里」発見後の研究進展・評価にはいささかの「ズレ」が見られる点を主張したい(長くなります、その点お詫びします)。

 「神科条里」は昭和38年「白井恒文」氏により発見された(古田武彦先生が『「邪馬台国」はなかったを発表される9年前、まだ「多元歴史観」は生まれていない)。

 白井氏の発見は歴史界から驚きをもって迎えられた。当時の「条里遺構」は部分的な発掘に限定され、「神科条里」のように格子状の畦畔が「方6丁(町)」を形成し、水路を伴って台地上に広大に展開する事なぞ予想もつかなかったのだ。そこには古代道や名称付けられた「方」区画の存在が予測され、「寺」さえ組み込まれたかと推測されたのである。受けた衝撃のほどが解ろう。しかも地方でそれらが確認されたのだ!
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 発見からは「歴史地理学」分野が生まれ、「古代道」・「条里」・その他への研究が一気に進むのだが、振り返ると早すぎる発見だったと言えるかもしれない。発見者(白井氏)も研究者も、一元歴史観からの理解・解釈に終始したからである。発見がもたらした真の貴重さを示す「多元歴史観」は、その時点ではまだ市民権を得ていなかったのだ。

 『孝徳天皇による「班田収授の詔」から始まった「条里制」だが、「平城京」に先立ち地方に存在する事などはあり得ない。「律令制」の地方への波及を考えても「8世紀」・それ以降にこの「神科条里」が作成されたと思える

 これが追及の際の暗黙の結論だったのである。条里作成者には疑問は持たれないのだ。

 さて、郷土史家「一志茂樹」氏は長野県の古代史研究を主導した優れた研究者だが、かねてより「神科の地名」に着目、そこから宿願とした「信濃国府」の発見・確定を目指し研究を進めていた。

 白井氏の条里発見を受け、一志氏は永年の研究を一気に「信濃国府」論考として発表する。「神科(染谷台)台地の条里遺構」に「国府」が存在するとしたのである。触発されて長野県下の郷土史家も一斉に各分野から「神科条里」への究明を進める。歴史研究誌『信濃』は、関連研究一色となった。

 そして一志氏・郷土史家は、「神科条里遺構」中に「信濃国府」が存在すると結論するのだ。

 上田市は47年から市内に点在する「条里遺構(水田)」を調査し、続いて昭和57年から5回にわたり正式な調査団による「神科条里遺構」発掘を行う。それが、「創置の信濃国府跡推定地発掘調査」である。タイトルから解るように、「条里遺構」の詳細解明を目指した発掘ではなく、「古代界」最大の謎だった「信濃国府」の存在確認が最大のテーマだったのである(そこにはある種の「ズレ」があったのだ)。

 だが発掘からの結論は、「8・9世紀に作成された条里」とした歴史家諸氏の予想とは大きく乖離する。発掘からの「考古」は、それを否定したからだ。

 「土器」類から説明しよう。

 なぜか「破片」とされた「土器・類」が圧倒的に多く決め手にはならなかったのだが、その8割が「土師器」で、製法・形式分類からは、「7世紀(鬼高期末期)」が主であろうと想定された。石器類もあり、須恵器も少量が確認された。また数点の「土製模造鏡」もあり注目される。

 住居・家屋関係では、掘立柱建物(小屋)祉と思える「四十数棟」が「柱穴」を伴い確認された。重なり合う箇所もあり(永年の使用が窺えるか)、穴中に石が残る大型建物(「柱穴」から)址も複数発見された(性格は不明とされた)。これらはいずれも古来の建築様式(「柱穴を掘りそこに柱を立てる」「(土台)石を使わない」形式)で、やはり「7世紀・又はそれ以前」の築造を示していた。住居跡以外では「祭祀場」跡かと想定される建物が発見される。

 5回に及ぶ「国府」確認発掘で(「神科条里遺構」の「1000分の8」しか調査されていないのだが)調査団は結論する。『この条里は8世紀ではないと思える、つまり「平城京以後」に作成されたものではなく、だから当然「国府」ではないだろう。

 「国府」が存在したと決めるには、余りにも遺構が古すぎたのである。結果、「国府」説は否定される。「発掘調査書」では、慎重ではあるが再三にわたり「条里遺構」は「7世紀の遺構」と表現する・・・。

 こうして「信濃国府」の遺存を信じた多くの研究者達の興味は薄れていく。行政の限られた予算も、「信濃国分寺」調査に主力が置かれていく・・7世紀に「条里制」が存在する事などあり得ないと思われていた時代だ。7世紀を示す「条里の考古」は無視されてしまう。「国府」もないのだ。こうして「神科条里」への関心は薄れていくのである。

 肝心で最大の疑問、『水利のない台地上に「堰」や灌漑用水路を張り巡らせ、地域にも条里水田を造り、そして「寺」さえつくった強大な権力を持つ体制』を追求する事など考えもしないのだ。そんな体制が存在する筈がないからである。

「多元史観」は「市民権」を得ていなかった。宅地化により発掘も困難さを増した。早すぎた発見が「神科条里」への正当な評価を阻み、発掘を不可能にしたと思える。

 こうして『正体不明な地方豪族によりこの条里が作られた』と結論され、説明しきれないまま『条里的遺構』という奇妙な用語が使われだす。「条里」だが「条里」ではない、と言うのだ・・・。

 

4.「〇〇寺(尼寺)」と「神科条里」

 発見された白井氏は、大学では測量も学ばれていた。その経験を活かし条里の研究を進められたのだが、「条里」と「○○寺」との関係をこう説明される。

 『発掘された「国分尼寺」の中心線と磁北とは5°13E、「国分僧寺」の場合は3°15Eの差異が認められる』とし、『「条里遺構」の「中心地帯」は、ほぼ5°E』だから、誤差の2°は仕方ないとしても、とうてい「僧寺」とは一致しない、と。

 こうも述べている。『「条里」のある「千曲川・第3段丘面」は、「尼寺」の発掘現場(「第2段丘面」)からは望見できないのに、「地図」上では(条里南北線が)一致する』(「上田付近の条里遺構の研究」から)。

 やはり、『「〇〇寺(尼寺)」は「神科条里」に組み込まれた「寺」』と結論してよいと思う(この推定が「長野県史」にも記載されていた事は、既述した)。

「条里遺構」への追及がおろそかにされたのと同じように、この重要発見も正当に認知されなかったと思われる。

 同時期に発掘を開始した「信濃国分寺・遺構」だが、文献がなく「考古」「瓦」からの各種研究がそこに集中する。結果、「尼寺」は等閑視され「僧寺の考古」「日本書紀からの歴史観」を援用した当たり障りのない判断・推測しかなされてこない。今でも7世紀創建「○○寺」に、8世紀の「僧寺」からの「考古・歴史」判断が使われているのだ・・・。

 「僧寺」と「尼寺」の中心線の違いはなぜ生まれたのだろう。

 「条里(水田)」にも使われたと思える「尼寺での単位」は何だろう。

 「尼寺」と「僧寺」の伽藍配置・他の違いは何が原因だろう。

 「尼寺」と「僧寺」とが異常なほど(全国一)接近しているがその理由は何だろう。

 「尼寺・尼房」の大きさが「僧寺・僧房」よりも大きく、しかも「日本書紀」叙述とは合致しない。なぜだろう。

     等々は不明なままなのである。

 そして、最近指摘され始めた「瓦・先行建物・たたら跡」への疑問がここに加わる。

 疑問だらけの「尼寺」なのである。「多元史観」からの詳細な説明・推測こそがそれを解決すると思えるのだが。

 

5.終わりに

 土地勘のない方々には奇異に思えるかも知れないが、私は「番匠・条里・寺」が「三位一体」で「科野」の古代を解く、と思っている。「神科条里」・そこに組み込まれた「〇〇寺(尼寺)」は、全国から徴集した「番匠」を使った九州王朝が作ったもの、と信ずるからである。「条里」が7世紀に作られたのなら「寺」も7世紀に創建されたのに決まっている。つまり「九州王朝の寺」なのである。

 私は、「弥生前期」には既に「九州勢」がこの地に進出し始めたと思っている。既述してきたように、「栗林式土器」分布がそれを示すと思っているのだ・・・だから7世紀の条里は、当然な事だとも思っている。

 改めて皆様にもご理解を頂けたらと思います。

(終)

2022年12月31日 (土)

「鼠」再論(二)―「鼠」とは(Skype勉強会資料)―

「鼠」再論(二)
「鼠」とは(Skype勉強会資料)―[コラム]

 これで、鼠再論(一)~(四)の掲載が完了しました。(一)(三)(四)はリンクからご覧ください。
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「鼠」再論(二)

「鼠」とはSkype勉強会資料)

上田市 吉村八洲男

1.始めに

 私論の前に、一枚の写真をご覧頂こう。私の住む長野県上田市の実景である。
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 上写真、手前に映るのが地域中心を流れる「千曲川」、正面に屹立する崖を「半過(はんが)・岩鼻(いわばな)」と呼ぶ。「」は、再構築された山城跡である。

 実は、この写真とこの近辺には「鼠」が溢れている。紹介してみよう。

 崖には不自然な洞穴が数カ所あると確認されるが、上田(塩田)の民話ではこの洞窟は「鼠」が掘ったものだと伝わる。その「鼠」は、「から猫」に退治されるのだ・・・

 〇印の「山城」は、「鼠」の造った「物見台」が始原なのだという(塩田民話とは別伝承の中にある)。「いわばな」の語源は、「岩花・岩端」(山の突端)に由来し「物見台」から中世には「山城」となったと言われ、現在はそれが復元されている。

 「岩鼻」崖の右の平地(「千曲川」の岸)には関所があり、その近辺の賑わいから「鼠」宿場(坂城町を通る北国街道の宿場名・江戸期に隆盛した)が始まった(現在も「ねずみ」名が「字」名として残る)。

 そして、3㎞ 程離れた「坂城神社」には、ここが「鼠族」により創建された神社だと書かれた「由緒書き」が残る。これらは「上田盆地・西側」のことだが、「東側」地域とて無縁ではない。

 上田市の東に隣接する「東御(とおみ)市」に、「祢津(ねつ)」地区・「祢津神社」があるがその地名由来は「鼠」からと言う説が強い。「音」が変化したものという。そして、軽井沢から上田市に到るほぼ直線状の今に残る道路を「祢津街道」というが、これも「鼠(祢津)」地名と関連すると推定されている。

 私の住む上田市の周辺は「鼠」だらけなのである。ざっと数えても6ヶ所がある。その全てが今に残っている。そして、「日本書紀」にだけ「鼠」語が残るのではないと声を大に主張する。

 私は「鼠」に囲まれ、育ち、生活してきた(日本にはこんな所はないだろう)。だから「鼠」問題に感慨を持たざるを得ないのだ。論考対象は「日本書紀」「鼠」だが、「鼠・ねずみ」は私の身近にあるとも言えるからである(全国でも「ネズミ」地名を今に残している所が多い)。

 こんな私の思い入れであるが、それが「日本書紀」「鼠」論考の根拠になり得ないとも承知している。私論に納得して頂けるかどうかはこれからの展開次第なのだ。

 さて、前回の私論(一)では、永年の見解でもあった【「鼠」=「烽燧制」の人々(「烽」・「候」に従事した人々)】という解釈を主張し、彼らの呼ばれ方は「職務内容」を示す「不寝見(ねずみ)」音との類似によるもので、そこから「日本書紀」中の「鼠」語・表現が始まったと述べた。

 ただ、それだけでは「日本書紀・鼠」問題がすべて解決するとは思えず、改めて多元歴史観による新たな「鼠」論・解釈が必要となるとも最後に主張した。

 それを受け、部分的な変更があるやもしれぬ自説を新たに主張したい。ご迷惑とは思うが、再度のお付き合い頂ければと思う。

 

2.「日本書紀」の「鼠(ネズミ)

 さて「日本書紀」には、「鼠」語が9ヶ所出現する。その解釈が古来難問とされて来たのだが、ここではこれからの説明を解り易いものにする為、各「天皇紀」別に「鼠」が含まれる語句・含まれる文章を取り出してみた。からまでとなる。 

  鼠例①景行天皇十二年鼠石窟
   「(中略)茲山有大石窟、曰鼠石窟、有二土蜘蛛、住其石窟。一曰青、二曰白

  鼠例②皇極天皇弐年(643)鼠伏穴
   「(中略)古人大兄皇子、喘息而来問、向何処。入鹿具説所由。古人皇子曰、
    鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行。

  鼠例③孝徳大化元年(645)鼠向難波
   「冬一二月(中略)、天皇遷都難波長柄豊崎。老人等相謂之曰。自春至夏、鼠向難波、
    遷都之兆也。

  鼠例④孝徳大化弐年(646)越国鼠
   「是歳越国之鼠昼夜相連向東移去

  鼠例⑤孝徳大化三年(647)鼠向東行
   「造淳足柵、置柵戸。老人等相謂之曰、数年鼠向東行、此造柵之兆乎。

  鼠例⑥孝徳白雉五年(654)鼠向倭都
   「五年春正月(中略)、鼠向倭都而遷。

  鼠例⑦孝徳白雉五年(654)鼠向倭都
   「一二月(中略)皇太子奉皇祖母尊遷居倭河辺行宮。老者語之曰、鼠向倭都、遷都之兆也。

  鼠例⑧天智称制元年(661)鼠産於馬尾
   「夏四月、釈道顕占曰、北国之人、将附南国。蓋高麗破、而属日本乎。

  鼠例⑨天智称制五年(666)京都之鼠
   「是冬、京都之鼠、向近江移。 

 「景行紀」・「皇極紀」に各1ヶ所、「孝徳紀」に5ヶ所、「天智紀」に2ヶ所、計9回が「日本書紀」に出現する。出現数からは「孝徳紀」5カ所の「鼠」は特別視されていいだろう(年号も「大化」「白雉」両方に跨る)。

 「鼠」語への研究史を振り返ると、「鼠」語が出現している古文献への解釈では大きく2つに大別されていたようだ。「一志茂樹」氏が指摘したように、『「鼠」を「齧歯目」の動物』として扱うか、それとも何かを「鼠」に例えたか、の二用例であると思われる(それについての「一志」氏の見解は、すでに言及した)。

 確かに「日本書紀」での「鼠」語は意味不明と言える。どちらか一方だと決めにくいのだ。だからこそ諸先賢がその解明に挑戦したのだが、そこにはある盲点ともいえる固定観念があったと思える。

 それは、「書紀」での9例が、ある「解釈」によりそのすべてが解明されると信じた事である。その様な「鼠」語解釈がある筈だと信じたのである。

 古文献には様々に解釈された「鼠」語が登場していたが、「日本書紀」では意味(解釈)の統一された「鼠」語が登場・使用されたと信じたのである。だから諸先賢それぞれの「鼠」語解釈が生まれてくる。その結果「鼠」語解釈議論はまさに「百家鳴争」状態となり、だから「鼠」語の理解は一段と困難となっていると思える。

 そこで私は提言したい。

 『9例全てに当てはまる「鼠」語解釈はあり得ない』、と。

 登場した全ての「天皇紀」で「鼠」語が同意(義)を示しているとは思えないのだ。一つの解釈で9例の語句・文のすべてが理解されるとは思われないのである。

 「鼠」語が、古文献では様々な意味で使用されたように、「日本書紀」での「鼠」語も、それぞれの「天皇紀」で異なる意味から使われたのではないだろうか。「天皇紀」毎に「鼠」語を理解して良いのではないか、私はそう思う。そしてこう考えると「鼠」語への理解が一挙に進むのが不思議である。

 

3.「孝徳紀」以前の「鼠」

 これを証明するように「孝徳紀」前の「鼠」語(文例①景行紀、②皇極紀)には、先賢によるほぼ定説化された解釈が成り立っているように思える。

 こう解釈されている(もちろん異論はあるが)。

 鼠例 ① 「景行紀」―鼠石窟―
 景行天皇に服従せず敵対する「土蜘蛛」たちの住む場所を「鼠石窟」と蔑称したのだが、「日本書紀」の「景行天皇・熊襲征伐譚」自体が、九州王朝による九州統一譚を盗作したものと既に「古田武彦」氏により論証されている。

 だから、ここの「鼠」とは、九州王朝による支配に抵抗し、敵対した「先住異部族(土蜘蛛・熊襲)」に対しての言葉で、彼らを『「鼠」が棲むような住居にいる人々』と嘲ったことからと思われる。

 「鼠」語は、小動物として持つ「負」のイメージがそのまま利用され使われている。九州王朝支配に逆らう彼らは討伐されて当然な人々、「鼠石窟」に住む「鼠のような薄汚れ・力のない動物」と書かれている。

 抵抗する反体制派を弱くみすぼらしい小動物「鼠」として描くのだが、同時に民意の支えのない征服されて当然な少数派としても描かれている。文中に「二人」の「土蜘蛛」と書かれるからである。敗者は、初めから少数とされたと思える。

 鼠例 ② 「皇極紀」―鼠伏穴―
 「山背大兄王」が挙兵した時「蘇我入鹿」はその討伐に向かおうとするが、「古人大兄皇子」に『「鼠穴」から出た「鼠」には「死」が待っているだろう』と言われ、出兵を思い留まった際の描写で、その時使われた。だからここでの「鼠」とは「山背大兄王」を示していると思える(この予想通りに「山背大兄王」は討たれる)。

 ここでも「鼠」語は、鼠例①と同じように「負」のイメージを持つ小動物として使用されていると思える。だから、「鼠」と呼ばれてしまった「山背大兄王」は、体制に反した勢力、討たれるべき人々と「「古人大兄皇子」に判定された事になる。又、鼠例①と同じように、この勢力への賛同者の少なさが暗示されているかも知れない。

 いずれにせよ鼠例②も鼠例①と同じ用例を示すと私には思われる。『「体制」に反する人々』を「鼠」と呼称したのである、それが「鼠」語なのだ。「鼠」を、「無能な為政者」と捉える中国古典由来の「鼠」解釈がそれと重なったと思える。例①・例②へのこの解釈は、先賢の共通した理解になっていると思ってよい。

 だから、よく唱えられる『「鼠」とは「九州王朝を示す」』という判断は即断過ぎると言える。この鼠例①、②からは、「「鼠」語は即、九州王朝を示す」とは断定出来ず、そう解釈してはこの文脈では「鼠」理解が成り立たないからである。

 例①では「九州王朝」が征伐した相手は「鼠=熊襲」で、「鼠=九州王朝」ではない。だからその解釈は絶対にありえないと思われる。さらに例②のフレーズだけからは、「山背大兄王」が「九州王朝勢」であったとは即断出来ないだろう(現体制を批判する勢力ではあっても)。

 鼠例①・例②は、「九州王朝」を指し示してはいないのだ。だからすべての「鼠」語が「九州王朝を示す」とは断言出来なくなる。

 では「孝徳紀」鼠例③からの解釈はどうなのだろう。私はここからの「鼠」解釈をそれまでと異なったものにしてよいと判断する。間接的にせよ「九州王朝(その一部門)」を示すとして良いと思う。理由は、原文(日本書紀)への理解からである。そう言っていると思えるのだ。

 

4.「孝徳紀」の「鼠」語例③

 前述したように、「日本書紀」「9例」中の「5例」、つまり半数以上が「孝徳紀」に出現する(鼠例での)。それにまず注目すべきだろう。そして驚くことに「孝徳紀」の「鼠5例」には共通した解釈が可能となる。「孝徳紀」に描かれた「鼠」は、それまでと異なるのだ。

 根拠とするのが「孝徳紀」での最初の使用例、鼠例③への解釈である。この「鼠」解釈を丁寧に行うと見えてくる事があるのだ。読み解いてみよう。

  鼠例 ③ 孝徳大化元年(645鼠向難波
   「冬一二月・・・、天皇遷都難波長柄豊崎。老人等相謂之曰。自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也。・・・」
  (冬一二月・・・孝徳天皇は「難波長柄豊崎」へ遷都した。老人たちは、「鼠」が春から夏にかけて「難波」へと向かって動いたのは遷都の兆しだった、と言い合った。)

 見逃してしまうがここには重要な事実が述べられている。それが今迄と異なる解釈を可能とする根拠となる。

 孝徳天皇は「難波長柄豊崎宮」へ遷都する。一二月の事である。が、その年の春・夏には既に「鼠」が動いていた。ところが、老人たちにはその理由が不明だったと書かれる。「難波方面」に「鼠」が動いていく、程度の判断だったのだろう。

 遷都が実行されようやくその理由が判明する。「鼠」の動きは「遷都の兆し」だったと思い至るのだ。つまり春・夏時では「鼠」の動きが何を意味するのか不明だったと言うのだ。ここから「鼠」語解釈に際しある推論が生まれる。

 当然ではあるが「遷都」がいきなり実行される訳ではない。思い立ったらすぐに移動出来る現在の引っ越しとは全く違うからだ。一定の準備期間が必要になるのだ。場所の選(設)定・担当役職・人員の手配などが決定され、重要な各種工事が順序(工程)に従い進められて行くことになる。

 だから「鼠」の動いた期間とは、これら遷都準備期間のどこかに位置される事になる。「孝徳紀」ではそれが「春から夏」の期間と書かれている。12月に「都」が完成するのだから、「鼠」は「秋・冬」と続いた工事すべてには関与していない。「全工事日程」の前半に「鼠」が動いていた事になろう。

 「遷都」事業は「鼠」から開始されたとも言えるが、それは気づかれない動きだったと書かれている。振り返った時それが「兆し」だったのだ、と老人たちが驚くと書かれている。

 つまり「春・夏」の「鼠」の動きは、「遷都」を予告する動きとは考えられていなかったのである。あちこちで動き回る「鼠」を見聞していたのだろう、「難波・長柄」へ向かう「鼠」の動きだけでは「長柄遷都」を予測できなかったというのだ。

 そして重要なことがここから推測される。数年後には抗争を繰り広げる相手、つまり九州王朝勢ではない「孝徳天皇」(大和王朝勢)の「遷都」準備に「鼠」が動いていた事である。理由は不明だが、そう書かれているのだ。

 そこからは、少なくとも「孝徳天皇」の造営を「鼠」は承知し、理解していたとも読み解ける(指示があったのか)。「遷都」に際しその造営主体者に「鼠」が敵対していないとも解る。助力しているとさえ読み取れる。「日本書紀」にはそう書かれているのだ。

 だから後に鮮明となる両王朝対立の構図はこの例文からは読み取れない。この時の「鼠」は、大和王朝の行った事業に参加・協力していると読めるからだ。ここがポイントと思う。『両王朝の事業に「鼠」は参加・行動している』のである。

 そしてここから、前私論【「鼠」=「烽燧制」に従事した(「烽」・「候」)人々】説が成立しない。なぜなら「烽燧制」は、体制(九州王朝)支配を維持する為の軍事制度だからである。前論で私は、『「鼠」とは「烽」・「候」の人々』と主張した。その時彼らは体制内の人々となる。ところがその「鼠」は、「孝徳天皇」の事業・「遷都」の下準備に協力さえしているのだ。これでは矛盾した行動を採ったといえるだろう。「指示された」と考えられるが、前「私論」の主張のままではこの「鼠」行動を整合的にすんなりとは説明できないのだ。

 更に「烽燧制」は「情報が伝達する道」を意味している。だから、重要な情報(軍事機密も)が届くのは「倭王」の住む「倭京(倭都)」であろう。理由は簡単で、王者がそこにいるからである。だから「烽燧」からの情報は「孝徳天皇」が住む「長柄豊崎(宮)」には届かない。「造都」の手助けはしても、「孝徳天皇」の為に「鼠」が別「烽」(烽燧制)を築いたとは想像も出来ないのだ。

 やはり「鼠」が「烽燧制」を支えた「「烽人」・「候人」とは思えない。「鼠」が、孝徳天皇の「遷(造)都」準備をしていた事が重要な意味を持つのだ。後の時代には敵対したであろうがこの時点では両者は争っていないと思われるからだ。鼠例③からは、『「烽燧制(軍事制度)」だけでは「鼠」像を正しく解釈できない』と判断されるのだ。

 

5.鼠例③が示すもう一つの事実

 鼠例③で使用された「鼠」語から、「鼠」実像に重大な疑問が生まれる。『彼ら「鼠」は、兵士・戦闘員か』という疑問だ。

 答えは明白と思うのだが、いままでの定説はそうではなかった。だからここを明確にする事が「鼠」語・像の理解に際し重要な事となる。

 「孝徳紀」鼠例③では、彼らが遷都の準備をしたと説明されていた。が、そこで戦いを起こしたとは一言も書かれていない。彼らの行動は、遷都(都を造る)の予兆だったと書かれているだけだ(その「都」は、一二月に完成する)。

 ここからは、「鼠」が『戦いという破壊行動ではなく、造都という建設行動』をとっていた、と断定される。「春・夏」の「鼠」の行動は「造都」の準備と言えるのだから、兵士(戦闘員)の行動ではない。「鼠」は兵士(戦闘員)ではないと「孝徳紀」は言っているのである。

 ところが次の鼠例④⑤からは、なぜか定説となっている「鼠=兵士・戦闘員」解釈が生まれている。これでは鼠③での「鼠」像の推定とは合致しない。私には、鼠例④⑤を根拠とした定説への再考が必須と思われる。

 定説は、鼠例④⑤での「越国鼠」の動きを「造柵之兆」と判断する、そこから「鼠は兵士(戦闘員)であろう、柵を造るのだから」と推定されている。

 これが鼠例③からの類推と決定的に矛盾する。戦わず「建設」する「鼠」(例③)と、戦い「破壊」する「鼠」(例④⑤)とは、同じ「鼠」がとった行動とは思えないからだ。

 「孝徳紀」で、しかも「孝徳大化元年」と「二年」に用いられた「鼠」語にこんなにも明瞭な意味・用法の差異が出るのはおかしい。どちらかの解釈が誤っているのではないだろうか。

 そこで鼠例④⑤での「柵」解釈がもう一つのポイントとなる。果たして「鼠」は兵士(戦闘員)と言えるのか、そこから確認出来るからだ。

 鼠例⑤で、「鼠」は「東行」し「造柵」を行っている。それに疑問はない。だが肝要な事はそこでの「柵」語への解釈である。この鼠例⑤での「柵」語への解釈を正確に行う必要があろうかと愚考する。

 今迄はこの「柵」を、敵勢力中の「橋頭保」、つまり敵との戦闘の足掛かりとして築かれた「小さな拠点・砦」と考えてきた。だから「造柵」を行う「鼠」を即「兵士・戦闘員」としたのである。

 しかし「柵」語をそのようにだけ理解していいのだろうか。そんな「柵」もあれば、前線情報を集約し戦闘員・兵站などを補給する「前線基地」としての「柵」もあった筈だ。それは戦闘地域に作られた「広く大きな拠点」でその中には集落・他があり、周囲は「柵」で囲まれていたと思える。

 私論(一)では、中国・漢時代の軍制を例示した。この王朝がそれに影響された軍事組織を持っていたとすれば、この「柵」は最前線にある「砦」ではなく、「燧長」や「候官」が属する砦で、「田制(でんせい・屯田兵制度)」をも持った「砦」と考えられる。「漢の軍制」は「柵」をそのように位置付けているからだ。

 また、諸橋徹次「大漢和辞典」からの『柵』語説明でも、2種類の「柵」解釈が示されている。

 『柵』には、A.「まがき」・「とりで(砦)」などの用法(意味)と、B.「村のやらい(矢来・境界線)」という用法がある。明らかに異なる用法である。

 A.の解釈なら、「柵」は「戦闘に際しての拠点・砦」つまり「小さく、狭い」地点を示すが、B.の解釈なら「柵」は広い地域を取り囲む様にして作られたと思える。

 どちらの意味から使用されたのか「孝徳紀」鼠例⑤の紀述を追ってみる。

 原文には、『「造淳足柵、置柵戸。」』と書かれている。すぐわかろう。『「柵戸」を「置く」』とハッキリ書かれているのだ。だから「柵」を、A.とは即断できないと思われる。「淳足柵」には「柵戸」が置かれていたのである。

 「大漢和辞典」は、この「柵戸(キノエ)」を更にこう説明する。「古、陸奥・出羽・越後に設けた城柵の内に土着させられた民戸。屯田兵。きべ。

 となると例⑤での「柵」語はB.の意味からとなる。「柵」の内側には「農民の戸(家)」が置かれ水田もあったと予想されるからだ。「矢来」でそれらを囲っていた事となる。「柵」語が示した地域は広いと思われ、やはりB.の解釈である。

 「鼠」は、戦場の一拠点としての「柵」(「砦」)を造ったのではなく、広大な地域を占める「柵・柵戸」の一部を築いたと思われる。つまり「造柵」とは、B.の用法(意味)からなのだ。

 鼠例④⑤から、『「鼠」は戦闘員(兵士)だ』と断定してきた今迄の定説を見直す必要があると愚考する。

 「日本書紀」では、すぐ後に「磐舟柵(大化4年)」が紀述される。そこにも同じ表現(「柵戸」)がある(その時は、「越と信濃」の農民がそこに派遣されたと書かれる)。この時も「柵」とは「柵戸」で、B.の用法から使用されている。

 「柵戸」は、「戦いの拠点・砦」には作られない。そこで「生産する」のだから広い「柵」領域内に造成され設置されたと思われる(「城柵内」に、田や建造物があった)。

 このように「柵」語の意味・解釈が違うのだから、当然「造柵」した「鼠」の役割も違ってくる。「鼠」は「柵」で敵と「戦う」のではなく、「柵」でその一部を「建設」すると解釈されなくてはいけないだろう。「鼠」は「兵士・戦闘者」だと断定できないのだ。「鼠」の行った「造柵」とは、「柵」で囲まれた新たな支配地に土地などを「造成」し、支配を確定させる諸事業を行なった事を言うのだろう。

 鼠例⑤から「鼠」を戦闘者(兵士)としてきた定説は見直されるべきと思う。

 鼠例⑤での「柵」が、後者の用法・意味と想像されるもう一つの根拠がある。鼠例⑤の「柵」とは「淳足柵」(新潟県新潟市付近か)の事である。この地域(新潟県)が戦闘地域であったとしたら、体制側は「難波」に「都」を作るだろうか。作らなかったと思える。危険地帯に近寄って「都」を造る必要はないからだ。しかし「都」は「難波」に造成されている。そこからも「淳足柵」は既支配地域に作られた「広い柵」であったと判断してよいと思われる。

 最後に、鼠例③、⑤、⑦に見られる原文上の不思議な類似点を指摘する(「孝徳紀」の「鼠五例」中「三例」という事になる)。そこからは、「日本書紀」はすでに「鼠」像へある結論を示していたと推量されるのだ。

 まず、鼠例③の原文を示す。
 「(中略)遷都難波長柄豊崎、老人等相謂之曰、自春至夏鼠向鼠向難波、遷都之兆也

 そして、鼠例⑤の原文はこうだ。
 「(中略)造淳足柵、老人等相謂之曰、数年鼠向東行、此造柵之兆也

 最後に、鼠例⑦である。
 「(中略)老人語之曰、鼠向倭都、遷都之兆也。」]

 この「三例文」を比べてほしい。あまりにも似てはいないだろうか。同じ表現(法)を用いていると思える。

 まず、「鼠」の行動を「兆し」と読む点で、「三例」は共通している。さらに、読み解く人が「老人」(「世間の人」という事だろう)である点も同じだ。「老人たち」には「鼠」の行動が「すぐには理解されない」と書かれる点が似通うのだ。

 「造都」・「造柵」・「遷都」の三例とも、「老人」は鼠の動きを「兆し」として捉え、理解しているのだ。これは、「鼠」の行動が目立たないからと言えるだろう。彼らは目立たない仕事(職種)をしていたのだ。「日本書紀」の同一紀事(表現)からは、そう理解されるのである。

 そして、鼠例③から⑦に共通するこの事実から、不明とされてきた「鼠」像が解明される。

 

6.「孝徳紀」・「鼠」とは

 「孝徳紀」に書かれた「鼠」の特色を再確認してみる。

 A.「鼠」は孝徳天皇勢力の「遷都」の際には、工期前半に行動していた。
 B.「鼠」は戦闘員・兵士ではないが「柵」建設工事になんらかの関与をした。
 C.「鼠」の仕事は目立たず、後に「兆し」だったと理解される事が多い。

   となる。

 『両王朝で活動する、兵士ではなく、目立たない仕事の従事者』となる。私は具体像として考えてみた。結論は、『彼らは「技術者(匠)」ではないか。

 特に、土地造成関連の技術者(匠)」ではないだろうか』となった。

 この想定なら、「孝徳紀」すべての「鼠」例が説明でき、「なぜ鼠と呼ばれたか」問題も説明出来ると思えた。

 まず、「長柄宮造都」時、春・夏の「鼠」の先行行動を説明しよう。これは建物建設前の整地・土地造成を意味したと思う。完成した建造物にばかり目が行くが、それを可能とする「開拓」・「整地」・「灌漑」・「道路造成」などの一連の土木作業は前工程として不可欠な事業であろう。

 そしてこれら一連の基礎事業は、その目的が気づかれにくい。だからこそ彼らの動きは「兆し」と理解され表現されたのではないだろうか。私には、「造都・遷都」「造柵」時の「鼠」の動きはこうして説明できると思えた。

 「造都・遷都」時、「鼠」の作業(行動)後に事業目的が具体的な姿となり見えてくる。建造物の築造などが行われるからだ。「鼠」の仕事は全工程の前半部分が多いと思われ、だから「鼠」の行動は目立たず「兆し」と言われたと思える。

 そして「造柵」時なら、「柵」予定地の土地造成を行った事となろう。土地を開拓し整地を行い、生産・居住が可能な支配地へと造成していく事業に携わったと思える。「鼠」たちは、支配地での「水田・道」造成も行ったであろう。

 最後の疑問、『なぜ「鼠」と呼ばれたのか』も、彼らの動きつまり仕事(職種)から理解される。

 土地の開発・造成という一連の行動(作業)は「土・水」を扱う。だからその仕事に従事した労働者・集団はどうしても「汚れた」容姿となると思われる。

 この容姿が「鼠」を想起させたのではないだろうか、仕事からの容姿が「鼠」そっくりで、そこからの連想でこの言葉が使われたと思える。「孝徳紀」での「鼠」語の発生(使用)理由と思う。だからその時は「比喩・揶揄」が中心であったと思うのだ。

 「孝徳紀」での「鼠」とは、「九州王朝」に属した「土地造成」の「匠」を「揶揄」した「表現(言葉)」なのである。

 だから、この時の「鼠」語からは「九州王朝」全体への強い「侮蔑」が響いて来ない。この言葉は、汚れた容姿となる特定部門の「匠」を「揶揄」する為に使われた表現だったからと思える。

 「孝徳紀」の「鼠」語は、「揶揄」(軽い「蔑称」)からの言葉で、「九州王朝」を強く侮蔑した表現ではなかったのだ。そしてそれがそのまま「天智紀」にも引き継がれたと思っている。

 

7.消えた「鼠」・残った「鼠」

 さて意外にも指摘されていないが、「孝徳紀」「天智紀」以後には「鼠」(語)が全く登場しなくなる。「天武紀」からは「鼠」(語)の姿は消え、以後の「日本書紀」には全く出現しない。

 「鼠=九州王朝」とする論者が多いのだが、その論考では、この消えた「鼠」語・その理由については全く言及されていない。「天武期」になり「九州王朝」が突如消えた訳ではないのに、なぜ「鼠」語は「天武紀」以後「日本書紀」から消えたのだろう、その理由が説明されていないと思われる。

 矛盾するようだが私は、「孝徳紀」以後も「鼠」語は使われ続けたと信じている。『「鼠」語は存在したが、「天武紀」からの「日本書紀」には登場しない』

 つまり「鼠」語は日常生活では引き続き使用されたが、「日本書紀」には登場しなかったと考えている。

 「鼠」語「内容」の変化、「日本書紀」の編集方針がその要因と考えている。

 「孝徳期」は王朝間の軋轢(あつれき)が目立ち始める時代である、だからその時の「鼠」語は特定部門への「揶揄」で用が足りていたと思える。後に「大和王朝」勢となる人々は、「九州王朝」と表立って対立し相手を「侮蔑」出来る立場ではなかったのだ(「造都」時には助力さえ受けている)。

 が、抗争の時代を迎え、両者間の力関係に変化が生じた。その時「鼠」語の「内容」にも変化が生じたと私は思う。抗争の時代の「鼠」語は、「九州王朝」への強い「嘲笑・侮蔑」を意味する言葉へと変化したのだ。

 「あんな奴ら」「どうしようもない奴ら」を意味した言葉として「鼠」語が多用されるのである(類似した言葉もあったろう)。相手体制への「否定」である。

 このように変化した「鼠」語だったが、「日本書紀」にはその「鼠」語が使われなかったと思っている。その理由はこう説明できよう。

 「鼠」語を使いたいのだが、そうすると敵(相手)王朝を認識した事になってしまう。「九州王朝」を一切認めず取り上げないのが「日本書紀」の方針であろう。それに反してしまうのである。だから「日本書紀」には、変化した「鼠」語を使わなかったと思われる。

 軽い「揶揄」を示した「孝徳紀」「鼠」語が最後となり、それ以後(「天武紀」)には出現しなくなるのだ。

 ただ実際には、この抗争の時代を通して「鼠」語は使い続けられたと私は思っている。対立が顕著になればなるほど、「九州王朝」を「侮蔑・嘲笑」」する強い言葉が必要になる。「鼠」語(類似した言葉)は必須語となり、実生活では使われ続けたと思う。

 やがて、両王朝「抗争」の勝者は「大和王朝」となる。戦いに勝利し「王権交代」がなされた以後は、相手を「鼠と呼ぶ事に遠慮はなくなる。こうして「鼠」語が表面だって各地で使われ始めたと思える。「交代」後の各種文献にも残されて来る。

 「鼠」語とは、「九州王朝」の人々・行為のすべてを「否定」する「侮蔑・嘲笑」語で、新たな支配者により各地で使われた言葉、と私は思っている。だからこそ今も各地に残っているのだろう。

 「鼠」語の残る場所とは過去に「九州王朝」勢が支配し権力を振るった地となろう。

 「交代」後に「それらは、「鼠」の仕業(しわざ)だ・役に立たない事なのだ」と「否定」されるようになったと思う。

 上田周辺・「科野の国」・さらに全国に残る「鼠」語・地名について、こう説明されてよいのではないだろうか。

 

8.終わりに

 解りにくい結論となってしまった。論理展開への反省は多い。だが私なりに「上田近辺(科野の国)」に残る数多い「鼠」語(地名・遺跡)への結論が出せたと思っている。勿論ご意見・御非判はあるだろうが、出せた事にまずは安心している。

 私論考の最初に提示した上田近辺・「鼠」名称への結論はこうなる。

 「鼠」が掘った「洞穴」とは、「鼠」の「採石場」の名残りであろう。その採掘物を使い様々な事業が始まったと思われる。「鼠」が作った「古代道(古東山道)」が「科野の国」中央部を通っていたと思われる。千曲川沿いにはその支道として「祢津街道」が造られ、軽井沢から屋代・長野へと至ったと思われる、「祢津」地は街道の要所と思われる。

 その「道」の脇には「見張り台」が作られ、さらに「関所」も作られていたのであろう。そして彼らの信仰のよりどころとなる「神社」も、「坂城」に造られる・・・「鼠」地名が多く残る「上田」「科野の国」は、実は「九州王朝」の一大拠点であったと思える。彼らが強く勢力を張っていた地であったからこそ次の時代、勝者により「鼠」地名が多く付けられ、今に残っていると思われるのだ。

 「鼠穴」も、「鼠山城」も、「鼠関所」も、「鼠(坂城)神社」も、「祢津(村・神社)」も、「祢津街道」も、こうして現代に残っていると私には思われる。

 すべてが「九州王朝」支配の名残りなのである。次の支配者によりこれらの「鼠」地名がつけられ、私はそれに取り囲まれ育ったことになろう。

 次回〔鼠再論(三)〕は、(二)で述べた『鼠=土地造成の匠』推論と繋がる、ある興味深い事実に言及したい。「上田」が舞台であり「番匠」語も登場する。「鼠」主張の根拠となるかと思われる「資料」へも御検討いただける。

 いくらかの「妄想」が混ざる次回「鼠」論最終回(三)(四)に再度のお付き合いを懇願したい。

(終)

「鼠」再論 (一)―「Skype勉強会」資料―

「鼠」再論 (一)―「Skype勉強会」資料―[コラム]

 「鼠」再論(三)―上田・神科条里と番匠―2022年10月26日(水)「鼠」再論(四)―神科条里と番匠と鼠―2022年10月28日(金)は掲載済ですが、読者さまは「(一)と(二)はどうしたのだろう?」といぶかしく思われていたかもしれません。これは「できれば後日に掲載して」との吉村さまのご要望に応えて私が後回しにしておりました(掲載日は私に一存されていました)。このままでは年を越してしまうので、掲載いたします(忘れていたわけではありません())。まずは(一)です。

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「鼠」再論(一)

Skype 勉強会」資料

上田市 吉村 八洲男

1.始めに

 新庄宗昭氏により『実在した倭京』が出版された。新庄氏はその書中で「倭京=藤原京」説を述べ、「倭京」造成者として「日本書紀」中で「鼠」と表現された勢力(上位勢力を持つ X)を予想された。「日本書紀」の「鼠」とは、「上位権力者 X(九州王朝)」を示す語だとされ、彼らが「倭京」を造成したとされたのである。

 「鼠」語を紹介する。ご承知の様に「日本書紀」には 9ヶ所、「鼠(ネズミ)」語(表記)が出現する。他にはこのような同一語句(動物)の頻出例が少なく、長らくこの「鼠」をどう解釈するかが争われて来た。「景行記」に
1ヶ所、「皇極記」に1ヶ所、「孝徳記」に 5ヶ所、「天智記」に 2ヶ所という出現場所からも特殊な何かが想起されたからである(「孝徳記」5ヶ所の突出は異常と思う。「鼠」語解明にはこれも手掛かりになる)。前論
〔注①〕で定説の紹介は済ませたと愚考し改めての論は重ねないが、当時の学界の解釈は「鼠」を齧歯目(げっしもく)科の小動物、つまり英語での Rat を指すとする考えが大勢を占めていたと承知して欲しい。ほとんどの文献「鼠」例がその解釈で良かったからだ。これに異を唱えたのが一志茂樹氏で、一元史観の立場からではあったが、「鼠」には「不寝見」と解釈される場合があり、特に「日本書紀」の「鼠」は、「柵」や「造都」を行う為の「施設」・「先行設備」(寝ずに監視する・不寝見)を意味する、とされたのである。これは「軍制」と関連させた論考展開で刮目すべき推論と私は判断し、前論の多くを一志氏の紹介にあてた。それが
2年前の論考で、だからそこでの私論の論拠・展開は不十分だったとも思えた。

 それもあり、「多元・Skype 会議」などでは多くの御批判の意見を頂いた。反省もある。が、改めて私なりの「鼠」論を詳細に紹介させて頂きたく再度の挑戦をお許し頂きたい。

 

2.古代の「情報伝達」

 これからの「鼠」論議開始に当たり、皆様と確認しておきたい事がある。それは「狼煙(のろし)」に代表される「煙火」による「情報伝達システム」を古代から人間集団が持っていたかどうかである。あったとしてもそれを断言出来るのかという疑問でもある。

 難問ではあるが、実は既にそれへの結論は出ていると私は思っている。

 中世遺跡(戦国期は特に)に関しては、その痕跡は既に各地で多数が確認されている。卑近な例では「上杉」と「武田」の対立だ。奥信濃での越後勢の動きはいち早く武田勢にキャッチされ、その逐一が「狼煙(砦)」を使って甲斐・信玄へ詳細に報告されていたと言われる。戦場と 150㎞ は離れた領国にいた武田軍・信玄だが、奥信濃の状況を「狼煙」による「情報連絡(伝達)」で常に把握していたと言われる。このシステムの存在が、不利になりがちな戦況を補ったとも言われるのだ。それを証明する砦(山城)の痕跡が「信濃(東信州)」各地にあり、情報を得て「兵・物資」を素早く移動・運搬させた「武田の直道(すぐみち)」の遺存も確認されている。

 幕末期の例に見ると、外国船の出没による「鎖国令」体制の変革が要求された時代でもあり、「情報連絡(伝達)」の必要性が増大したと思える。その際生まれた「狼煙」や「早馬」を使った数々のエピソードは枚挙にいとまないようだ。

 これらは、体制の優劣をきめる「戦い」や時代が変化する際での「情報」の重要性を物語っている。それが全てではないが、流れを決める重要な要素だと思われる。

 さて、古代・弥生時代である。戦いは人間が所属した集団の常だから、「争い」「戦い」はその頃からあったと思われる。緊張関係にあったそれらの集団が各種の情報を伝えていた事に間違いはないだろう。

 だが古代での関連痕跡は判定しにくく、残りにくい。だからこの「連絡(伝達)・その手段」の存在を考古学的に立証する事が困難で、永年不明のままであったようだ。これが「古代では、情報を伝達する必要性がなく、はっきりした手段も持たない」と判断されて来た最大の理由と思われる。

 弥生期Ⅲ・Ⅳ期、軍事的緊張を持つと推定された近畿地方の高地性集落の「焼土坑(焼き穴)」跡を、「狼煙台」・情報連絡の痕跡とする研究もあった。さらに、日本各地(特に高所・山頂)で類似の「焼土坑」が発見され、「狼煙」による伝達・「物見台」としての機能が推定されていたのだが断定には至らなかったようだ。

 だが突破口が出た。佐賀県唐津市湊中野遺跡での発掘である。疑われた遺跡は、生活火力とは異なる「焼土坑(焼き穴)」跡を持ち、生産とは無関係な「高地」にあり傍には長い世代母村と離れた住居があった。そこからは少量の生活品と武器の残存が確認され、目視が可能な距離にある「高地」にも同例(焼土坑他)が発見された.

 これらから「情報伝達」が疑われ、やがてここが「狼煙台」であったと確定・認定されたのである。

 重要な発見であった。しかもそこは「魏志倭人伝」記述から、弥生時代の国々の存在が推定されていた場所だったのである。発見者はこう推定した。「湊中野遺跡は末盧国の情報ネットワークの最先端基地として、大陸・伊都国の双方をにらむ位置に、・・・(中略)・・・おそらく、大陸・伊都国の情報をいち早く末盧国の中枢部へと瞬時に通信していた」

 それ以後、全国各地でこの『煙火を使った情報システム(「狼煙台・物見台」)』の発見・確認が相次いだ(大分県玖珠町白岩遺跡など、枚挙にいとまない)。古代にもこのシステムは確実に存在していたという定説は、だから確定しつつある事と思われる。

 それどころか文献に登場する古地名が実はこの「煙火システム」からの命名がその始原(由来)ではないかと疑われる例さえ確認され、各地の「山城」の始原をここに求める推測も登場しているのが現状と思われる。

 古代から「集団社会」を形成した人間社会は「狼煙」などによる「情報連絡(伝達)」を行なって来た、それは「当然な事だったのだ」と思えて来る。

 「小集団」時には「情報の伝達」範囲は狭く告知が主眼とも思えるが、やがてそれは「広域集団」への伝達に及び、「王朝」時には体制(軍制)に組み込まれた緻密なシステムとして存在していたと想像される。

 

3.文献に見る「情報伝達システム」

 7世末・日本での「情報連絡(伝達)システム」の存在は文献からも確認される。

 日本書紀「孝徳記」にある。「二年・・・(改新の詔)其二曰、初脩京師、置畿内国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬、及造鈴契約、・・・」である。

 また「天智記」の叙述からもそれが解る。

 「天智三年是歳条」に「是歳、於対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国等置防與烽(この年、対馬・壱岐・筑紫国に「防」と「烽」を置いた)」とあるからだ。

 664年の事である。「白村江の敗戦」直後であるから、この記事からは、「対外緊張」により「情報」の必要性が増大し「情報伝達路」の再構築を喫緊の重要事とした、と理解される。だからこそ「防・烽」の設置が行われたと「日本書紀」に書かれたのである。

 ただ『「是歳」・・・』という少ない記事内容から、古代日本では「情報伝達」がさほど重要事ではなく、「烽」制度も 664年頃になって創設されたと誤解されたと思える。

 「日本書紀」は一部の事実は伝えたが、「情報伝達システム」の全容を正しく伝えていなかったのだが。

 詳細に当時の「烽」制度を説明した文献がある。 一つが、「大宝律令」(701)で、その中の「衛禁律(えごんりつ)33 烽候不警条」である。

 『凡烽候不警、令冠賊犯辺、及応挙烽候、而不挙、応放多烽而放少烽者、各徒 2 年、

 烽候謂、従縁辺置烽、連於京邑、烽候相応、以備非常、放烽多少、具在別式、・・・』とある。(まだ続くが以下は略します・違反時の罰則が詳細に規定される)

 「国境」を侵略する「賊」の情報を、設置された「烽」を介し「都」まで連絡するよう規定されている。「賊」に該当するのは「中国の王朝」だけでない。「国境・辺境」を侵す「賊・敵」は幾つか考えられよう。だから、広大な支配地での「烽」システムが確立・存在していなくては、この内容と表現はあり得ない。わずかな「烽」の存在では、「システム」とは言われなく、国防にならないからだ。記述からは既に「烽」システム(伝達システム)は完成・運用されていたと理解される。

 また、『令義解』では、「巻1 職員令 24 兵部省条 」から始まり「巻3・巻5」に関連事項が集中する。「烽」(「烽火」「烽燧」「烽長・烽子」)・「候」(「烽候」)と表現・表記され、それが「職員令・戸令・賦役令・軍防令」などの中で出現しているのだ。

 圧巻なのは『巻5「軍防令」』で、「66」から「76」までのすべての項目が「烽燧制」関連の説明に充てられている。

 「軍防令 67 烽昼夜条」が、短文ながら要点を得た説明となっている。

 『凡烽、昼夜分時候望、若須放烽者、昼放烟、夜放火其烟盡一刻、火盡一炬、(・・・注釈部分なので略す・・・)前烽不応者、即差脚力往告前烽、問知失候所由、速申所在宮司(謂前烽所隷之国司也)

 意訳すると、『「烽」は、昼夜を問わず監視(観察)しなくてはならない、昼は煙、夜は火を定刻に点けろ。「前烽」が答えない時は(烽子を走らせ)確認し、その理由を国司に知らせよ』であろう。「煙・火」に用いる材料・方法なども細かく規定されている。

 これらから「烽」制度の運用概略が解るが、同時に重要な事実が理解される。

 『「烽」制度での変事は、すなわち「国・国司(国守)」の変事である』と言う事だ。大げさに思えるが、「令義解 巻1 職員令 70」にも、「国司」の任務の一つにこの「烽候」業務が挙げられている。だから重要事であった事に間違いはないだろう。

 「情報連絡(伝達)システム」は確実に存在しただけでなく、それは体制を支える重要事でもあったのだ。(この『軍防令』に限れば、典拠したのが「唐・兵部式」であったと解明されている。体制構築には、「唐」の大きな影響があったとも推測されるのだが・・・)

 この事実から、文献にこそ表記されないが古代から「情報連絡・その方法」は存在し、国家の存続さえ決める重要制度でもあったと思われる。

 

4.漢の「烽燧制」

 中國西域を探検した著名な学者たちにより、多くの「木簡」(「敦煌木簡」は「二万三千枚」という)が発見され報告されていたが、「エチナ河(居延)流域」の遺跡・城跡からも「木簡」が多量に発見された。それら「居延での発見木簡」が「労榦(ろうかん)」により、著作で纏められ同時に詳細に考察された。

 (下図は、「漢時代」西域部分図と「エチナ河下流域での烽・燧・候」概略図)

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 それが『居延漢簡考釈 釈文之部』である。この書により、「木簡」から推定された「漢」の「対匈奴」政策、そして「辺境地」での「軍制」・「兵士の生活」への理解が一挙に進んだ。(籾山明「漢帝国と辺境社会」史学社に詳しい・上図は同書から)

 驚いた事にすでにこの時代、「「烽燧制」・その関連政策」が「軍制の一部」として「辺境地」で確実に施行されていたのである。「木簡(漢簡)」究明による「漢の軍制(辺境・西域地での)」への結論だから、そう断言せざるを得ない。

 しかも、この「烽燧」制度の確立による「情報の素早い伝達」が「対匈奴」政策の根幹だったとも言えるから驚く(「烽」も「燧」も「狼煙(のろし)台」を意味したが、「燧」には連続するという意味が強かったとも説明される、これが「飛ぶ火」であろう)。

 「烽燧」で得た情報が「望楼(堠)」・「塞」・「城」・「関」などのネットワークに乗せられ、「都尉府」・「太守」・「天子」へと届けられ「対匈奴」政策が決定されていた事になる。

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 上図はこの本に説明された「漢(辺境で)の軍事組織」である。

 「燧」―「部」―「候」の関係を基本とし、「燧」を底辺とした「三角形(ピラミット状)」の軍事組織と理解されよう。現場業務を行う「燧」の兵士たちを「候(官)」が統率し、そこで得られた情報が「都尉」(文官だろうか)へと繋がって行ったと思われる。

 (これは、前述した日本での文献に登場する「烽・候」と名称・責務が同一で、組織内での階級やさらに組織全体図が類似する(時代や体制からの差異はある)。それには驚く。そこからは中国からの影響が明遼だったと理解されるのだが・・・)

 「燧」の戌卒(じゅうそつ)たちの業務は、『第一に挙げられる・・・「巡回」・「パトロール」』から、『「候望」すなわち「見張り」・「信号」の送付』『文書の逓送』『雑務』と多岐にわたっている。(それら兵制・兵の生活などの詳細は、同書をお読み下さい)

 「候(官)」の主業務は、戌卒の指揮・統率で、巡回によって得られた周辺情報を集約し伝達する事で、両者は「指揮者」と「配下」として現場業務にあたったのだろう。

 漢の支配領域の拡大と「「烽燧制」(「田(屯田)制」もあった)の拡大は表裏一体であったと思われるが、更なる詳細解明からはある別事実も判明する。

 「烽・候」から得た「情報」(「手旗」での「伝達」もあった)は、「道」伝いに「都」へと伝わるのだが、その際の「道」の意義・役割である。

 前著ではこう述べられている。『「道」とはつまり、燧から燧へと文書が送られる道路の事であり、・・・情報伝達の生命線で・・・街道の要所の燧には、「厩」(うまや)が置かれ、乗り継ぎのための駅馬が用意されていた』と言うのだ。伝達に際しては厳しいチェックがなされ「駅鈴」の有無確認もその一つだと言う。(日本とそっくりだ!)

 軍事組織の「最先端・最前線」までは「道」が通じていないようだ。多くの情報が集約化されるが、「文書化」されて初めて「正式情報・連絡事項」になったと説明される。

 つまり「文書」を運ぶために「道」が必要とされたというのである。「正式文書」の為に、「道」・「駅家」・「駅鈴」などが存在したという事になる。それには驚くが、同時にこれらが古代日本の諸制度に酷似している事にも驚く。とすると、日本の「古代道」の意義解明に際し「新解釈・新見解」にもなるかと思える。

 私はこうも思った。「烽燧制」の欠点は一カ所でも敵に「烽」(拠点)が奪われると制度そのものが機能しなくなる事だが、体制はそれを正確に認識していたようだ。だからそんな非常時も考えて「文書」による伝達に重きが置かれたのだろう、「道」・その他が造られたと思われた。

 「道」作成の最大目的は、「信頼すべき情報伝達路の確保」だったのである。それが優先される事で、だから「情報と連絡路」両者は「不即不離」の関係だったと思えた。「軍用の兵と物資の運搬路」と言う簡単な推測では、説明し切れない事実とも思えた。

 日本の文献に見られる「軍制(軍事組織)」との数々の一致は、われわれの常識化した「烽燧制・古代道」知識への再考が求められるとも思われた。

 いずれにせよ古代中国の文化・制度は東アジア・近隣諸国に大きな影響を及ぼしていたと思われる。そう考えた時、「漢」の軍事制度の影響は「古代日本王朝」だけではないとも思えた。

 「日本書紀」「継体紀」にある表記へも、別見解が生まれよう。

 『(八年)・・・三月、伴跛築城於子呑・帯沙、而連満奚、置烽候定邸閣、以備日本。

 (三月に、伴跛(はえ)が城を子呑・帯沙(しとん・さた)に築き、満奚(まんけい)に連ね、烽候(とぶひ)・邸閣()を置きて、日本(やまと)に備えた。)である。

 「日本書紀」のこの部分は、『魏志・張既伝』の記述と酷似するようだが(岩波文庫・注釈による)朝鮮にあってもこの「「烽燧制」は重要なシステムとして古代から機能していたと思える記述だ。(日本での「烽燧制」の正式な廃止は、894年・嵯峨天皇によるとされる。朝鮮での廃止は 1894年(高宗 31 年)と言われるから、近世に迄この制度は遺存していたようだ。)

 「燧制制」は再確認されるべきであろう。

 そしてこの軍事組織(「烽・候」制)へのある理解が、「ネズミ」解釈への決め手になると私は思っていた。

 

5.「烽燧制」への誤解

 古代日本では「情報連絡(伝達)」は当たり前の事だった、だから「文献」に言及される事が少なかったかと推測したが、同時にそこからある誤解も生まれたとも愚考する。

 それが、『「白村江」の敗戦による「対中国・朝鮮」政策の一環としてこの「烽燧制」が造られた』という認識である。つまり、『敗戦により初めて北九州を中心に「烽」が築造された』とするのである。その「情報」がルートを経由して「都」に届けられたとするのである。「烽燧制」の起源を「白村江の敗戦」に求めるのである。

 確かに前述した「日本書紀」の表現だけからはそう推断されよう。一元歴史観からの判断も同様であったと思われる。だが果たしてそう言えるのだろうか?

 「豊後風土記・速見郡条」に、次の叙述がある(「風土記」は、「烽燧制」遺存を伝える貴重な文献と思える)

「 速見郡 郷五所 駅弐所 烽壱所

   昔者 纏向日代宮御宇天皇 欲誅球磨贈於 幸於筑紫 従周防国佐婆津 発船而渡泊於海部郡宮浦時 於此村有女人 名曰速津媛 為其処之長 即聞天皇行幸 親自奉迎 奏言 此山有大磐窟 名曰鼠磐窟 土蜘蛛二人住之・・・不従皇名・・・於茲 

  天皇遣兵遮其要害 悉誅滅 因斯名曰速津媛国 後人改曰速見郡 

 「日本書紀」記述を書き直したと理解されている有名な箇所である。

 「日本書紀」・「景行天皇」(「纏向日代宮御宇天皇」)による「九州親征譚・熊襲征伐譚」が、そのままこの「豊後風土記」に記載されているからである(古田武彦氏が「日本書紀・景行記」記述部分に大きな矛盾・齟齬を見出し、それが実は「九州王朝による九州平定譚を改定・盗作したもの」だったと解明された事が記憶に蘇る)。

 「風土記」のこの文章にも、「鼠磐窟」に「土蜘蛛」が住むと書かれている。「日本書紀・景行記」との一致(再現)が改めて確認されるのだ。

 そして注目すべき事は、ここには既に『駅弐所 烽壱所』と記載されている事である。「豊後国」本文にも、他の全ての「郡」紹介部分にも同じ「駅・烽」の記録が残る。

   「豊後国」・・・「駅玖所 烽伍所」・・・

   「大野郡」・・・「駅弐所 烽壱所」・・・

   「海部郡」・・・「駅壱所 烽弐所」・・・

   「大分郡」・・・「駅壱所 烽壱所」・・・

 「豊後国」のあちこちの「郡」に「駅」と「烽」が存在している。この時代に既に「駅・烽」制度があったと理解するしかないだろう。

 ところが「豊後国」の位置を考えた時、私にはここに「対中国の為の烽」が設置されたとはどうしても思えない。「豊後国(大分県)」は、「中国」・「朝鮮」には面していないからである!更に「豊後国」はそれらの情報が「京」へと至る道でもないのだ。

 ここからは、「烽」「烽燧制」は、「対中国・対朝鮮」のために造られたとは言えないのだ。

(「豊後」でも「情報」は時代により必要とされていた事になる。7世紀末なら 「隼人の乱」を考えてもいい。)

 そして「出雲風土記」にも「烽」表現が残るが、これにも種々の疑問が向けられる。

 確かに本文中、「意宇郡条」と「嶋根郡条」の地名末尾には「烽有」と書かれ、さらに「巻末記」文中には多くの「烽(名)」が具体的に登場している。「馬見烽」・「土椋烽」・「多夫志烽」・「布自枳美(ふじきみ)烽」・「暑垣烽」である。

 が、研究者によると、設置された場所の追求や「烽(名)」の文字表現からも、単純に「都への連絡網上にある」と考えるべきではないと言う。考察からは、「クニ」・地域社会を背景にした「烽」として位置付けられるべきとされるからで「出雲国造」時代との関連さえ考えられると言う(「古代出雲国の烽」石和彦、「烽の道」青木書店
に収録される)「出雲国」の「「烽」も、「対外政策の為に設置された烽」とは断言出来ないと思われる。

 『烽』とあれば、即「日本書紀・天智記」や「律令」との関連を考え、「都」との関連(連絡)を想定してしまう事には疑問を持たざるを得ない。『対外(対中国)政策の為に「烽燧制」が造られた』のではないと私は思う。古代から、それぞれの国(地域に「情報連絡網」はあったと思える。「王朝」はそれを軍事体制の「連絡網」に組み込んだのである。

 ただ、「日本書紀・天智記」に表記された「高安」での「烽」設置には納得させられる所がある。「敗戦」という非常事態に遭遇し、「連絡網」の再構築を急いだと思えるからである。

 そして、この「高安」の位置からある「妄想」が生まれる。

 都は「難波京」(或いは「近江京」)にあったと考えてよいだろう、その時「高安」を経由して都に「情報」が届くようにした、と「日本書紀」に記されたと思われる。つまり「高安」は「ネットワーク」の一部、「情報」の「経由地」だったと理解される。

 その時「高安」の位置を考えるとある事に気付く。「高安」は、「和歌山県」との国境に近い位置である。ここが重要な情報経由地であるならば、北九州からの「情報」は「瀬戸内海沿い」に伝わったと考えざるを得ないのだ!そしてさらに「山陽道」沿いに「正式情報」が伝わって来たとも思えられるのだ。「漢」の例からはそれが順当となろう。

 その時、「瀬戸内海沿い」には起源が不明とされる多くの「山城跡」があると気付く。

 「備後・備中・備前」だけでも、「常城」「茨城」「飛地山城」「鬼ノ城」「大廻・小廻山城」がある。当然、四国」側にもあり、さらに「烽」があったかと推定される場所もそこに加わる。(小田富士雄編「西日本古代山城の研究」から)

 「山城」の多くは、「道・情報連絡(伝達)」の中継地で、「道」を守る「砦」でもあったのではないだろうか。それが起源だったのではないだろうか。

 「古代道」はそれらにより守られ、支えられていたと思える。

 「日本書紀・天智記」にある「情報連絡」記事とは、これらの使用を記事にしたのかも知れない。

 

6.「烽」・「候」と「ねずみ」

 遠回りをしてしまった。論点がぼやけ、主張が不明になっている。本論に戻らなくてはいけないだろう。

 長く主張をしたが、「狼煙などによる情報伝達システム」が古代からあった事、それが「烽燧制」として九州王朝の軍事組織にも存在した事を再確認して欲しい。(「漢」からの影響と思えるが、それ以前の「王朝」からの影響も当然考えられる)

 「烽燧制」における「烽(烽人)」・「候(候官)」は間違いなく存在していたのである。 
そう理解した時、こう思う。「人々は彼らを、何と呼んでいたのだろう?」

 「漢」字表記、「中国」発音のまま呼ばれた、と私には思えない。「倭人」は「倭語」で呼んでいたに違いないからだ。再現は不可能であろうが、手掛かりがあると思える。それが「日本書紀」である。「漢字」表記された本文(「語」)での「倭訓」である。

 『烽』字が含まれた「日本書紀・天智記」での記載を紹介した。そこには、『・・・筑紫国等置防與烽・・・』とあった。この時『烽』には「すすみ」とフリガナが付けられている。そう読まれたと思われた。

 「日本書紀」では難解な文字への「訓読」は別記される事が多いが、この『煤』字にはそれがない。だから、ここにもありふれた読み(呼び方)がなされていたと思えた。

 そしてこの読み方は『烽』の職務内容とも一致する。「煙火」を作り、監視していたからである。

 「すす」という読みは「煙・煤(すす)」由来であったと思われるのだ。

 「烽(烽人)」は、「すすみ」と言われていたのではないだろうか。

 『候』は、どう読まれ、呼ばれていたのだろう。

 「天武記・上」には、こうある。

 『或有人奏曰、自近江京、至干倭京、処々置候、』(ある人が、近江京より倭京に至るまで「候」を置くよう進言した)

 この時「候」(軍職名である)は、「うかみ」と読まれる。つまりこの読み方が「倭語」による読み方と思えた。

 「うかがい見る」という意味と思われ、語幹となった「うか」は他語にも多く使われている。「穀物神」と言われる「宇迦之御霊神」(「倉稲魂命」)名も同じ語幹(「うか」)を持つし「ウケイ(請約・転じて「神意を聞く」意)の古形であったとも言われる。「語源」はインドからと言う説もありその仔細は不明と言うしかないのだが・・・

 「うかみ」が多用された「倭語」である事は、「日本書紀・推古記」での別表記への読みからも解る。

 「(推古九年)・・・秋九月辛巳朔戌子、新羅之間諜者迦摩多到対馬。・・・」である。

 「・・・新羅の「うかみ」者(ひと)、迦摩多(かまた)が対馬に来た。・・・」と読ませるようだ。

 ここでは、「諜報」字に対し「候」字と同訓である「うかみ」と読ませている(この時、「間諜」語は「人」を指している)。

 意味は同じと思われ、「窺い見る人、スパイ」という事であろう。異なる漢字(「間諜」)に「うかみ」読みが与えられている。この読み方が、多く使われたと解ろう。

 この「うかみ」読みが、軍職である「候(官)」が果たすべき役職内容「敵情の探索」「周囲へのパトロール」とも一致する。

 「烽燧制」を支えた「烽(人)」は「すすみ」と呼ばれ、「候(官)」は「うかみ」と呼ばれていたと言えよう。少なくも「日本書紀」ではそう読まれていると思えた。

 そして私はこう考えた。「すすみ」「うかみ」音との類似から、「日本書紀・孝徳記」に出る「ねずみ」とは、九州王朝の「烽燧制」を支えた彼らを指し示しているのではないか?彼等が「ねずみ」なのではないか?

 「日本書紀」では、「ネズミ」が予兆と言える行動をすると書かれる。(「都」の移転や、「柵」の築造を先取りする動きをする)

 これは「「烽燧制・その人びと」を想定すると理解が容易だ。

 都を作る時に、最高司令官である「天子」への「軍事情報の連絡路」の新設は必須な事であろう。予兆するかの「鼠」の動きは「烽・燧」の再編を意味したと思える。

 「柵」についても同様だ。敵地への侵攻基地として「柵」が築造されるのだが、「戦場」は常に変わる。だから戦いの過程では「柵」の位置も「烽」の位置も変化する。

 それが当然であろう。

 これらの再編には、「烽(人)・候(官)」、つまり「鼠」が先だって移動する。彼らは世間が結果を認知する前に動き、各種の手配をしていた訳だ。それが「兆し」として世の中には捉えられたと言う事になる。こうして、「鼠」の動きが「兆し」として「日本書紀」に書かれたのではないだろうか。

 同時に「孝徳天皇(大和朝)」側には、九州王朝を支えた「「烽燧制」・その人びとを冷ややかにみる眼が生まれていたとも思える。彼らを「鼠」と呼ぶ何らかの思考が生まれていたと思えるからだ。「ネズミ」語は良いイメージを持つ語ではないのだ。

 だから「鼠」語の使用理由は、「音」「行動」の類似だけではないだろう。「鼠」語が持つ負のイメージ(薄汚れ、群れ動く)を利用した表現でもあると思える、そう呼ぶことで九州王朝への間接的な批判の気持ちを仮託したと思えるのだ。

 「鼠」語とは「九州王朝」を喩えた語であると永らく言われてきた。これが穏当な理解ではあるが同時に不十分とも思えている。

 「鼠」語とは、九州王朝の軍制・「「烽燧制」・を支えた人々を指し示した語で、そこに体制への批判が込められた言葉だったと思える。

 

6,終わりに

 昨年来「鼠」論議が続くが、ここでは先ず『九州王朝の「軍制」が「鼠」語を生んだ』という私論を主張させて頂いた。

 同時にいままで述べて来たこの「鼠」解釈私論が、直近になり大きく変化した事も報告したい。今はこう思っていないのだ。別見解があると考え、㈡ではそれを主張したいのだ。

 理由は簡単かも知れない。今迄述べて来た「鼠」解釈私論では「多元歴史観」が十分に反映されていないと思われるからだ。

 私は、『「日本書紀」・「鼠」語は「多元の視点(九州王朝の存在)」無くしては解釈不可能』と考えてきた。それなくては「鼠」語への真の理解には迫れないと思っていたのである。そう考えた時、今迄の私論では不十分ではないかと気が付いた。

 「九州王朝」があった、「大和王朝」も生まれ、ある時から「九州王朝」を敵と認識し始める、やがて王朝は交代し「大和王朝」の時代を迎える、そんな「多元」からの視点が今迄の私論と結びついているだろうか。不足していると思えた。「九州王朝」語を取り入れれば、「鼠」問題がすべて解決する訳ではなかったのだ。

 今では、古田学派が到達した「日本書紀」への新解釈、「複都説」・「34 年遡上説」などの論定が「鼠」語解釈に直結するかと思っている。

 ただ、「79 Skype 勉強会」迄にその私論を報告できるかには自信がない。「多元歴史観」が到達した「複都論」が、私の主張する「鼠」解釈論を助けるとは思っているのだが。そして私論の最後に「科野の国・上田」でのある事実が付加出来たらとも思っている。

 未完成ですが、㈠・㈡を通し皆様のご批判を期待します。「ネズミ」解釈論の更なる進展が期待されるからである。

(終)

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注① 前論 ‥‥‥次の論考をご覧ください。

「科野」の「ねずみ」―「多元」 令和23月号202256()

「科野からの便り(8)」「科野」の「ねずみ」編(2)2020126()

「科野からの便り(8)」「科野」の「ねずみ」編(1)2020118()

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