倭国一の寺院「元興寺」(3)
―異論の検討(その2)―[論理の赴くところ][神社・寺院]
前回(倭国一の寺院「元興寺」(2)―異論の検討(その1)―2023年1月10日(火))に「次回は「元興寺」の移築先を論じます。」と予告した通り、今回は「倭京(太宰府)に存在した 倭国一の寺院『元興寺』がどこに移築されたか」を考察します。
「法隆寺「ナンバー・ワン」」の主張
「多元No172 Nov.2022 号」に掲載された川端俊一郎氏の論稿「法隆寺「ナンバー・ワン」」から一部を再掲します(全文は 倭国一の寺院「元興寺」(2)―異論の検討(その1)―2023年1月10日(火) に掲載してあります)。
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(I)上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名は「法興寺」の他にはない。日本書紀は蘇我氏が飛鳥に法興寺を造ったと言うが、飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。「ナンバー・ワン」の法興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。その法興寺を解体して遠く大和の斑鳩の里に運び、聖徳太子の法隆寺として組立変身させるのが新しい日本政府の事業となった。また法興寺の跡地には、詔により観世音寺が造られた。
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この(I)に述べられている論点は次の五つです。
❶ 上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺は「法興寺」である。
❷ 飛鳥に実在するのは「元興寺」の遺構である。
❸ 「ナンバー・ワン」の法興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。
❹ 法興寺は斑鳩の里に移築されて法隆寺となった。
❺ 法興寺の跡地に観世音寺が建てられた。
論点❶と❸は、「法興寺」ではなく「元興寺」であると前回で論証しました。
それを訂正すると次のようになります。
① 上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺は「元興寺」である。
③ 「ナンバー・ワン」の元興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。
飛鳥に実在する遺構
川端氏は、「日本書紀は蘇我氏が飛鳥に法興寺を造ったと言うが、飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。」と断じています。そうでしょうか。
明日香村付近の航空写真(Google Earthに加筆)
水色の曲線が飛鳥川、黄緑の横線の長さが約800mです。
現在の「明日香村」の範囲ほどには古代の「飛鳥」は広くはなく(注①)「飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側に当たる…〔中略〕…平地にかぎれば南北1.6キロ、東西0.8キロほど」(岸俊男など)だったのです。
「南北1.6キロ、東西0.8キロほど」の(飛鳥川の右岸(東側))「古代の飛鳥」を推定してみましょう。
明日香村近辺の「寺」は次の通りです。
古代の「飛鳥」の地にある寺院(Google Earth による)

〇岡本寺(明日香村岡583)の大字は「岡」なので「飛鳥」ではないと考えられます。縁起には「「飛鳥岡本宮」(注②)ともいわれる旧蹟を伽藍とした」とあり、「もともとは飛鳥岡本宮と呼ばれるところにあった」とも伝えられています。「岡」(大字は「岡」)の本(ふもと)にあった宮なので「飛鳥岡本宮」と呼ばれ、宮の所在は「飛鳥」だったが、「岡」は「飛鳥」ではなかった、と考えられます。
「岡と岡本は等しい」と主張する人は、「山と山本は等しい」とか「坂と坂本は等しい」とかを主張せねばならないでしょう。「飛鳥岡本」は「(大字)岡」と違う大字に属していて「(大字)飛鳥(小字)岡本」なのです。
飛鳥岡本のイメージ図

〇橘寺(注③)(明日香村 橘532)の大字は「橘」なので「飛鳥」ではないと考えられます(飛鳥川の左岸(西側)でもある)。
〇川原寺(現在 弘福寺(ぐふくじ))(明日香村 川原1109)の大字は「川原」なので「飛鳥」ではないと考えられます(飛鳥川の左岸(西側)でもある)。
〇常谷寺(明日香村 岡1191)は後世の寺。大字は「岡」なので「飛鳥」ではないと考えられます。
〇香爐寺(明日香村 橘540)創建・由緒などは不詳。大字は「橘」なので「飛鳥」ではないと考えられます(飛鳥川の左岸(西側)でもある)。
これらを直線(アバウトなやり方ですが)で除外していった結果が次の区域です。
古代の飛鳥に在った寺は「飛鳥寺」(法興寺)のみ
ご覧のように「古代の飛鳥」にあったのは「飛鳥寺」(法興寺)の遺構(注④)だけです。それは当然です。平地に造られた寺は所在を示す「山号」にかえて「邑(村)号」ともいうべき「〇〇寺(〇〇でら)」で所在を示したからです(だから一邑に同じ名の寺はありません。寺の呼び方―山号・院号・寺号―2023年1月 3日(火)をご覧ください)。
飛鳥寺は元興寺の遺構か
川端氏の言う「元興寺の遺構」とは、養老二年(七一八)九月二十三日に法興寺を新京に遷して「元興寺」と称した(注⑤)ため、法興寺(飛鳥寺)を移した平城京(奈良市)の「元興寺」を「新元興寺」(注⑥) と称し、飛鳥(高市郡明日香村)の飛鳥寺(法興寺)を「本元興寺」と称することになった「本元興寺(飛鳥寺(法興寺))の遺構」を意味しているのでしょうか。
もし、川端氏が「飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。」と言うのが「本元興寺の遺構」のことであるならば、「飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。」という表現は誤解を招きます。「飛鳥に実在するのは本元興寺(法興寺)の遺構である。」が正しい表現です。
元興寺は平城京に移築された
川端氏の「❹ 法興寺は斑鳩の里に移築され法隆寺となった。」と断じています。そうでしょうか。
川端氏が言う「法興寺」とは「元興寺」のことであると既に明らかになっていますので「❹ 元興寺は斑鳩の里に移築されて法隆寺となった。」と読み替えて検討します。残念ながらこれも間違っています。
『続日本紀』霊亀二年(七一六)五月辛卯〔16日〕条に「始めて元興寺を左京六条四坊に徙(うつ)し建(た)つ。」とあります(原文「辛卯、〔…中略…〕。始徙建元興寺于左京六条四坊。」)。
また『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』にも「移立元興寺于左京六條四坊」とあります。
このことに関して、森郁夫『一瓦一説』(P.140)に驚くことが書かれていました。次の通りです。
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大安寺の造営工事は、『続日本紀』に「始めて元興寺を左京六条四坊に徒し建つ」とある霊亀二年(七一六)であることがほぼ確実視されている。ここに「元興寺」とあるのは、『続日本紀』の養老二年(七一八)五月十八日の「法興寺を新京に遷す」の記事によって誤りであることが周知の事実となっている。
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「周知の事実となっている。」とありますので、「一元史観」の通説(定説)なのでしょう。川端氏も森氏同様にこの通説(定説)に従っていると思われます。正しければ通説(定説)に従うことは間違っていません。しかし、この通説(定説)は「不当な原文改訂」の上に成り立っています。何人も認めざるを得ない間違いが原文にあれば、事実に従って原文を誤りとして改訂することはあってしかるべきです。しかしながら、何の根拠もなく「自説に都合が悪い」あるいは「自説に都合が良い」という理由で勝手に原文を改訂するのは科学的歴史学ではありません。
非科学的歴史学の宿痾
私は「『続紀』や『元興寺伽藍縁起』を鵜呑みにしろ」と言っているのではありません。記録がそうなっているのであれば、その記録に沿って検討してみる。するとそこに矛盾があれば、どこが間違っているかを確かめた上で、原文の間違っている箇所に注を付して、注記中で改訂が必要な理由を明記する(検証可能にする)ことが正しい改訂方法だと思います。日本の古代史学界には改訂の正しい仕方が根付いていないように思われます。
それはさておき、森氏が「周知の事実となっている。」と述べた通説(定説)が間違っていることを論証しましょう。
「元興寺」・「大安寺」・「新元興寺」・「本元興寺」
『続紀』や『元興寺伽藍縁起』が「元興寺」を移したと記している場所「左京六条四坊」には「大安寺」(平城京の大官大寺)が今も存在します。すなわち、『続紀』や『元興寺伽藍縁起』によれば「大安寺」は元興寺を移築したものになります。この『続紀』や『元興寺伽藍縁起』が「元興寺を左京六条四坊に移した」とする記述が正しいこと(通説(定説)が間違っていること)を論証しましよう。
「元興寺」が三寺登場します。混乱を避けるため、「太宰府の元興寺」を単に「元興寺」と、「法興寺」を平城京に移した元興寺を「新元興寺」と、飛鳥に残った「法興寺」を「本元興寺」と呼ぶことにします。
次は、『日本書紀』・『続日本紀』・『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』などの記録による年表です。
年月日など
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元興寺
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大安寺・大官大寺
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新元興寺
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本元興寺(法興寺)
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和銅四年(七一一)
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藤原京大官大寺焼亡
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霊亀二年(七一六)五月辛卯
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始徙建元興寺于左京六条四坊
(元興寺消滅)
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始徙建元興寺于左京六条四坊
(平城京大官大寺)
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養老二年(七一八)九月甲寅
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遷法興寺於新京
(新元興寺)
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遷法興寺於新京
(本元興寺)
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ご覧の通り、どこにも矛盾はありません。
(1)藤原京(高市郡)の大官大寺が焼亡してしまった(大官大寺が無くなった)。
(2)元興寺を移して大安寺(平城京の大官大寺)とした(元興寺が無くなった)。
(3)法興寺を平城京に移して「新元興寺」とした(元興寺ができた)。
(4)飛鳥に残った法興寺を「本元興寺」と呼ぶことになった。
「ここに「元興寺」とあるのは、『続日本紀』の養老二年(七一八)五月十八日の「法興寺を新京に遷す」の記事によって誤りである」とどうして言えるのでしょうか(アタオカでしょう)。
平城京左京六条四坊の位置
日本国(大和王朝)の事業
川端氏はこのように言っています。
「その法興寺を解体して遠く大和の斑鳩の里に運び、聖徳太子の法隆寺として組立変身させるのが新しい日本政府の事業となった。」
私はこう言いましょう。
「倭国一の元興寺を解体して遠く大和の平城京に運び、①平城京の大官大寺(大安寺)を造り、②倭国一の元興寺(九州王朝の元興寺)を消滅させて、大和一の法興寺を移して大和王朝の元興寺(新元興寺)を手に入れるのが新しい日本政府の事業となった。」
動機はこれなのです。倭国にとって代わった日本国には「元興寺」が必要だったのです。
法興寺では役不足なのです。その理由は、妄想「元興寺」考―なくせない寺「元興寺」―2018年2月2日(金)をご覧ください。
(続く)
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注① 古代の「飛鳥」は広くはなく ‥‥‥
「飛鳥時代当時に「飛鳥」と称されていた地域は、飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側に当たるあまり広くないところ(平地にかぎれば南北1.6キロ、東西0.8キロほど)と考えられている(岸俊男など)。
今日では飛鳥川の上流(橘寺一帯)や下流(小墾田宮・藤原京一帯)、更には飛鳥時代には「檜隈(檜前)」と称された高取川流域地域までを含み[4]、行政区域的には明日香村一帯、あるいは人によってはその近隣までを含んで飛鳥と指し示すこともある。」(Wikipedia「飛鳥」より抜粋)
注② 「飛鳥岡本宮」 ‥‥‥ 私見ですが、明日香村(大字)岡にある「飛鳥京跡」は「飛鳥岡本宮」ではないと考えます。飛鳥は狭く大字「飛鳥」と呼ばれる範囲が「古代の飛鳥」だと考えます。
「岡本宮(おかもとのみや)は、7世紀の舒明天皇及び斉明天皇が営んだ宮。舒明天皇の岡本宮は飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)、斉明天皇の岡本宮は後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)と区別して呼称される。両者とも奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったとされている。」(Wikipedia「岡本宮」より抜粋)
「飛鳥京跡は、6世紀末から7世紀後半まで飛鳥の地に営まれた諸宮を中心とする複数の遺跡群からなる都市遺跡であり、宮殿のほか朝廷の支配拠点となる諸施設や飛鳥が政治都市であったことにかかわる祭祀施設、生産施設、流通施設などから構成されている。具体的には、伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)を中心に、川原寺跡、飛鳥寺跡、飛鳥池工房遺跡、飛鳥京跡苑池、酒船石遺跡、飛鳥水落遺跡などの諸遺跡であり、未発見の数多くの遺跡や遺構をふくんでいる。遺跡全体の範囲はまだわかっておらず、範囲特定のための発掘調査も行なわれている。
飛鳥宮は複数の天皇が代々宮を置き、または飛鳥内の別の地に遷宮をしたことにより、周辺施設とともに拡大して宮都としての機能を併せ持った。これは後に現れるような、建設当初から計画され固定化する宮都(藤原京)への過渡的な都市であったことを示している。」(Wikipedia「飛鳥京跡」より抜粋)
注③ 橘寺 ‥‥‥ 本尊は聖徳太子で、正式名は「仏頭山上宮皇院菩提寺」というそうです。
「橘寺(たちばなでら)は、奈良県高市郡明日香村橘にある天台宗の寺院。山号は仏頭山。本尊は聖徳太子。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、橘寺という名は垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。観音堂は新西国三十三箇所第10番札所で本尊は如意輪観音である。」(Wikipedia「橘寺」より抜粋)
注④ 「飛鳥寺」(法興寺)の遺構 ‥‥‥ 法興寺中金堂跡に今も残る旧坊(安居院)だけが現存しています。飛鳥寺(法興寺)は、『日本書紀』によれば、崇峻天皇元年(五八八)是歳条に、蘇我馬子が飛鳥衣縫造祖樹葉の家を壊して法興寺を作り始めるとあります(原文「蘇我馬子宿禰、[言靑]百濟僧等、問受戒之法。以善信尼等、付百濟國使恩率首信等、發遣學問。壞飛鳥衣縫造祖樹葉之家、始作法興寺。此地名飛鳥眞神原。亦名飛鳥苫田。」)。推古天皇四年(五九六)四年十一月に法興寺が完成し、大臣男善德臣を寺司に任命し、この日に慧慈・慧聰の二僧が法興寺に住み始めたとあります(原文「四年冬十一月、法興寺造竟。則以大臣男善德臣拜寺司。是日慧慈・慧聰、二僧、始住於法興寺。」)。
注⑤ 養老二年(七一八)九月二十三日に法興寺を新京に遷した ‥‥‥ 『続日本紀』に次のようにあります。
《養老二年(七一八)九月》
〇甲寅、遷法興寺於新京。
〖読み下し文〗
養老二年(七一八)九月甲寅〔23日〕、法興寺を新京に遷す。
「元興寺は飛鳥に創建された法興寺(飛鳥寺)に起源をもつ。平城遷都後の718年(養老2)法興寺を平城京左京四条・五条の七坊の地に移して元興寺と称し,飛鳥の法興寺を本元興寺と称した。奈良時代の元興寺の伽藍配置は,南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並び,回廊は金堂を囲んで中門と講堂を結ぶ。」(平凡社世界大百科事典 第2版より)
注⑥ 新元興寺 ‥‥‥ 平城京の元興寺(「新元興寺」)の禅室南面と極楽堂西面の屋根には、法興寺創建当初の軒平瓦が使われています(色が斑(まだら)になっています)。軒丸瓦には段差が付いた玉縁式と段差のない行基式があります。
右手は新元興寺の極楽堂の屋根、左手はその西側に建つ国宝・禅室の屋根
「法興寺の盛衰と三つの元興寺
平城京の官寺は平安京遷都後朝廷の庇護が弱り次第に衰微していくが、当寺院も同じ道を歩む。そしてその衰退が決定的になったのは室町時代の宝徳3年(1451)10月14日土一揆によって出火し、主要堂宇のほとんどが焼失してしまったことである。焼け残ったのは、五重塔、観音堂、極楽坊のみであった。その後金堂が再建されるがこれも台風により倒壊し、その後一つの伽藍として再興されることなく寺地は荒廃した。そこに町家が次第に進出し始め、元興寺は進出した町家の中に埋もれるように観音堂・五重塔、焼失後仮堂を建て復興に努めた小塔院、極楽坊の三つに分かれ存続することとなった。そして、この三寺の中で東大寺より支援を受けた五重塔を擁した観音堂が元興寺を称した。」(Webサイト 元興寺/1.所在地/(1)法興寺の盛衰と三つの元興寺 より抜粋)
「元興寺(がんごうじ)は、奈良県奈良市にある寺院。南都七大寺の1つ。
蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内に移転した寺院である。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、次の3寺院が分立する。
1.元興寺(奈良市中院町)
旧称「元興寺極楽坊」、1978年(昭和53年)「元興寺」に改称。
真言律宗、西大寺末寺。本尊は智光曼荼羅。元興寺子院極楽坊の系譜を引き、鎌倉時代から独立。本堂・禅室・五重小塔は国宝。境内は国の史跡「元興寺極楽坊境内」。世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産の1つ。
2.元興寺(奈良市芝新屋町)
華厳宗、東大寺末寺。本尊は十一面観音。元興寺五重塔・観音堂(中門堂)の系譜を引く。木造薬師如来立像は国宝。境内は国の史跡「元興寺塔跡」。
3.小塔院(奈良市西新屋町)
真言律宗。本尊は虚空蔵菩薩。元興寺小塔院の系譜を引く。境内は国の史跡「元興寺小塔院跡」。(Wikipedia「元興寺」より抜粋)
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