論理の赴くところ

2023年2月25日 (土)

倭国一の寺院「元興寺」(妄想編)―詔と創建順―

倭国一の寺院「元興寺」(妄想編)
詔と創建順[妄想][論理の赴くところ][神社・寺院]

 今回は、ある仮定に基づいて、「元興寺」「法興寺」「法隆寺」の創建順を論理的に求めてみます。

 「ある仮定」とは、次の詔に関することです。

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《推古天皇二年(五九四)》
二年春二月丙寅朔、詔皇太子及大臣、令興癃三寶。是時、諸臣連等、各爲君親之恩、競造佛舎。即是謂焉。
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《仮定(妄想)》

 この詔は「九州王朝(倭国)」の天子が出した

 

《仮定の拠り所(妄想)》

 この記事にある「」という語は、欽明天皇十三年(五五二)冬十月条(注①)で既に使われています(初出)。『日本書紀』にはこの記事以外に「佛舎」という語はありません(すなわち「詔」には「佛舎」とあった)。この条で「佛舎。即是謂寺焉」との説明が入るのは、この詔にしたがって諸国が(当然その「国府」に)競って建てた「佛舎」は朝庭が「~」と統一して呼ぶことに決めた(ここで初めて「寺」という語が「佛殿」を意味することになった)ために、「」の説明(「即是謂焉。」)が必要になった。とすれば「寺」が初出する欽明天皇十三年(五五二)十月条は、例えば「神武天皇」の「天皇」のように、遡って使われていると考えられる。さもなくば、推古二年二月条の記事は、時代が繰り下げられているのかもしれません。

 

 さて、推古天皇二年(五九四)》二月丙寅朔の詔が、倭国(九州王朝)の天子が出したとすれば、論理的に次のようになります。

(1)「三寶をせしめよ」との詔に従えば、倭国「第一(No.1)」(「」)の寺院は当然「元興寺」を名乗る。
(2)次の(「第二」)の寺院は興寺」は名乗れないので、仏する意味の「寺」を名乗る。
(3)さらに次の(「第三」)の寺院は元興寺」も「法興寺」も名乗れないので、「()寺」を名乗る。

 この順序を入れ替えると「(漢風)寺号」の説明がつかなくなります。
80_20230225152901※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

注① 欽明天皇十三年(五五二)冬十月条 ‥‥‥ 岩波古典文学大系『日本書紀 下』原文は次の通り。

《欽明天皇十三年(壬申五五二)十月》
冬十月、百濟聖明王〈更名聖王。〉遣西部姫氏達率怒唎唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干巻。別表、讃流通・禮拜功德云、是法於諸法中、最爲殊勝。難解難入。周公・孔子、尚不能知。此法能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提。譬如人懐随意寶、逐所須用、盡依[忄靑]、此妙法寶亦復然。祈願依[忄靑]、無所乏。且夫遠自天竺、爰洎三韓、依教奉持、無不尊敬。由是、百濟王臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉傳帝國、流通畿内。果佛所記我法東流。是日、天皇聞已、歡喜踊躍、詔使者云、朕從昔來、未曾得聞如是微妙之法。然朕不自決。乃歴問群臣曰、西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾有。可禮以不。蘇我大臣稻目宿禰奏曰、西蕃諸國、一皆禮之。豐秋日本、豈獨背也。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同奏曰、我國家之、王天下者、恆以天地社稷百八十神、春夏秋冬、祭拜爲事。方今改拜蕃神、恐致國神之怒。天皇曰、宜付[忄靑]願人稻目宿禰、試令禮拜。大臣跪受而忻悦。安置小墾田家。懃修出世業、爲因。淨捨向原家爲。於後、國行疫氣、民致夭殘。久而愈多。不能治療。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同奏曰、昔日不須臣計、致斯病死。今不遠而復、必當有慶。宜早投棄、懃求後福。天皇曰、依奏。有司乃以佛像、流棄難波堀江。復縦火於伽藍。焼燼更無餘。於是、天無風雲、忽炎大殿。

2023年2月21日 (火)

“高麗尺”と「令大尺」―「改新の詔」と「南朝大尺」―

“高麗尺”と「令大尺」
「改新の詔」と「南朝大尺」[論理の赴くところ][度量衡]
【末尾に唐大尺(隋開皇官尺)の場合を追加(2023/2/22)
誤計算していた「令大尺29.09㎝~29.70㎝の1.2倍の34.908㎝~34.884㎝を「(奈良時代)令大尺29.39㎝~29.70㎝の1.2倍の35.273㎝~35.636」に訂正しました。(2023/2/26)

 服部静尚さんの「改新の詔は九州王朝が出した」旨のYouTube動画が公開されています。

服部静尚@大化の改新の真実①大化の改新とは~一元史観の見方@和泉市コミュニティセンター@和泉史談会@20230214@29:01@DSCN0737
服部静尚@大化の改新の真実②改新の詔には異なる畿内定義が有る@和泉市コミュニティセンター@和泉史談会@20230214@15:06@DSCN0738
服部静尚@大化の改新の真実③改新の詔は律令政治のはじめ@20230214@29:01@DSCN0740
服部静尚@大化の改新の真実④大化年間の詔の評価@20230214@28:39@DSCN0741

 全部を拝見しておりませんが、その講演③の冒頭で度量衡の変遷について興味深い事実説明があり、仮説を思いつきましたので、述べてみたいと思います。

 改新の詔で「田長30歩、廣12歩を段とする」(一段の面積360歩)とあり、大宝律令(701)では「改めて段積250歩とする」とあり、和銅六年(713)の格で「重ねて復た改めて360歩とする」とあります。

 これは、三つは同じ面積であるが、度の単位を変更したことを言っているのだろうと思います。結局、和銅六年にはもとに戻したようです。 

改新の詔30歩×12歩=360歩
大宝律令25歩×10歩250歩(「25歩×10歩」は段積からの推定 

大宝令による「大尺」には次の二説があるようです。
“高麗尺”というものがあり、「令大尺」は“高麗尺”で、「令小尺」が「唐大尺」であった。
「令大尺」と「唐大尺」は同じで、その長さは曲尺の9寸6分~9寸8分で、奈良時代の物差し(正倉院蔵=“天平尺”)は曲尺の9寸7分~9寸8分

“高麗尺”は無かったので、によると、大尺29.09㎝~29.70㎝となります(曲尺は100033㎝)。奈良時代は29.39㎝~29.70㎝となります。 

 なぜこのような、とてつもない異説()がでるのでしょうか?

 この二説を統合する仮説として、南朝にも「大尺」(仮称「南朝大尺」)が存在した、という仮説を提唱したいと思います(「南朝大尺」との命名は古賀達也氏による)。

つまり、正始弩尺24.3㎝にはその1.2倍の「(仮称)正始大尺」29.16㎝が、晋後尺24.5㎝にはその1.2倍の「(仮称)晋後大尺」29.4㎝が存在した、という仮説です。 

この仮説によれば、一歩(いちぶ)大尺五尺ですので、「正始大尺」なら一歩1.458m、「晋後大尺」なら一歩1.47mですので、改新の詔の360歩(=30歩×12歩)は次のようになります。

【「正始大尺」29.16㎝の場合】
30歩(1.458×30×12歩(1.458×12)=765.27504

「晋後大尺」29.4㎝の場合
30歩(1.47×30×12歩(1.47mm×12)=777.92400  (『大尺』=29.63㎝×1.2=35.556㎝、『大尺』 五尺=1.7778m)

 また、大宝律令はこれを25歩×10歩としている(推定)のですから、「大宝一歩」は「改新一歩」の1.2倍でなければ同じ面積になりません。つまり、「一歩=『大尺』五尺」を守るならばこの『大尺』はいわゆる「唐大尺」=(奈良時代)令大尺29.39㎝~29.70㎝の1.2倍の35.273㎝~35.636㎝になります( 高麗尺はこれを誤認したことになります)。つまり、「一歩=大尺六尺」を「一歩『大尺』五尺」に変更した(「30歩×12歩=360歩」を「25歩×10歩=250歩」に変更した)ために、この『大尺』を高麗尺という寸法単位の尺度と誤認したのが説と考えられます(この『大尺』は寸法「尺」度ではなく「里」程の単位)。これによって統一的であった「尺」が寸法の度「大尺」と里程の度『大尺』に分裂してしまったと思われます(これは不都合でしょう)。なので、のちに元通りに戻されたのだと思われます。

【唐大尺(隋開皇官尺 )29.63㎝の場合】(2023/02/22追加)
30歩(1.4815m×30)×12歩(1.4815mm×12)=790.14321㎡ 
25(1.4815m×1.2×2510(1.4815m ×1.2×10)=790.14321㎡
(『大尺』35.556㎝ (=29.63㎝×1.2)、『一歩 』=『大尺』 五尺=1.7778m、この『一歩 』 が「一間」(「大尺」六尺
に相当)。

2023年2月12日 (日)

肥さんの思い出(2)―「無かった」の論理―

肥さんの思い出(2)
「無かった」の論理[古田史学][論理の赴くところ]

 前回(肥さんの思い出(1)―真実に到達する手順―2023年2月12日(日))、肥さんの夢ブログの主 肥沼孝治さん(「古田史学の会」会員)から学んだことの一つとして、中小路駿逸先生の論稿「『日本書紀』の書名の「書」の字について」を紹介していただいたことを述べましたが、それ以前に「『無かった』の論理」も学ばせていただきました(肥さん夢ブログの次の記事です)。いわゆる聖武天皇の“「国分寺建立」の詔”と言われている詔には「「国分寺」という言葉が1つも出てこない」という事実を指摘する記事です。

「国分寺」はなかった!2016年1月30日(土) 

 確かに「七重塔を造れ」ということは書いてありますが、「国分寺」という言葉はありません。すなわち、この「“国分寺建立”の詔」と言われてきた詔は「『七重塔建立』」の詔」だったと肥さんは結論されました(つまり、「既存寺院に『七重塔を建てて』経を納めよとの詔だった」という仮説の提示です)。これで「多元的「国分寺」研究」に弾みがついたのです(詳しくは、左記サークルのブログをご覧ください)。

 また、この「『無かった』の論理」は、史書に寺院の創建記事が無いのは、その史書を編纂した王権の事績ではなかったという仮説の提示へと導きました(「元興寺」も創建記事がありません)。

 「『無かった』の論理」は寺院だけを対象として適用されたのではありません。古代官道にも適用されました。肥さんは上記の「国分寺」はなかった!においても、次のように書かれています(付注は山田)。
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実はこれと同じような経験をしたことがある。

東山道武蔵路の研究をしていて不思議に思ったのだが,

これについての初出記事は「この道を作った」ではなく,

「771年に,コースを変更した」という記事なのだった。

「全国6300キロにもわたる日本古代ハイウェーを建設した」という記事がないのに,

そのコース変更した記事が初出とは,これは「命じた主体を隠している」と言われても

仕方がないのではないかと思う。

そして,私は日本古代ハイウェーは九州王朝が作った軍用道路か?(注①)を書くことになった。

(拙論の中で,東山道武蔵路を作ったのは,側溝出土の土器から7世紀半ばと考えた)

注① 2012年2月10日 古田史学会報108号掲載、並びに 古田史学の会 編『古代に真実を求めて 古田史学論集第二十一集 発見された倭京――太宰府都城と官道』に再掲。
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 この肥沼さんの「日本古代ハイウェーは九州王朝が作った軍用道路か?」に触発されて、「東山道十五国」の比定 西村論文「五畿七道の謎」の例証(2017年4月10日 古田史学会報139号掲載、並びに古田史学の会 『古代に真実を求めて 古田史学論集第二十一集 発見された倭京――太宰府都城と官道』に再掲。)を書くことができました。肥さん、ありがとう。

肥さんの思い出(1)―真実に到達する手順―

肥さんの思い出(1)
真実に到達する手順[古田史学][論理の赴くところ]

 肥さんの夢ブログの主 肥沼孝治さん(「古田史学の会」会員)からは多くのことを学びました。

 まず、第一に挙げなければならないのは、中小路駿逸先生の論稿「『日本書紀』の書名の「書」の字について」を探してご紹介いただいたことです。

肥さんの夢ブログ 『日本書紀』の書名の「書」の字について(中小路駿逸氏)2017年8月19日(土)

 

 この論稿によって「真実なるものに到達するための平凡かつ有効な手順」を知ることができました。私は古田武彦先生の著作を愛読している“一古田ファン”にすぎません(今も)ので、古田先生の研究方法を著書を読んで知っていた(つもりになっていた)のですが、真の意味では「理解できていなかった」のです。

 紹介いただいた論稿を読み、読後感想として要旨をまとめて肥さんに報告しようと思いましたが、コメントで返すには長すぎたので、ブログに掲載して読んでもらったのが次の記事です(なお、当該論文は2017年8月当時はネットで読めましたが、著作権の関係でしょう、現在ではネットでは閲覧できないようです。要旨でよければブログ記事をご覧ください)。

「『日本書紀』の書名の「書」の字について」を読んで中小路駿逸先生の論理の赴くところ―2017年8月19日(土)

 

 論稿のなかで最も印象に残った言葉は、次の所でした(下線強調等は山田による)。
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一 まず、所与の対象―この場合は史料の文辞―を観察しそこに何があり、何がないかを見きわめ、そこにあるものをそこにあるとし、そこにないものをそこにないとする

二 そして、その対象の示すところのものが真か否かは、右のことののちに考える

これが真実なるものに到達するための平凡かつ有効な手順である。

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 論稿のなかでも「そこにあるものをそこにあるとし、そこにないものをそこにないとする」「真か否かは、右のことののちに考える」という所に痛く感銘を受けました。この言葉に倣って試みたのが、平城京の大官大寺」シリーズ倭国一の寺院「元興寺」」シリーズなどで行った読解です。『日本書紀』を鵜呑みにするとかしないとかの話ではなく、そこに書かれていることを書かれているとし。書かれていないことを書かれていないとしているのです。

 それ以外については「妄想」と断って述べています。

 ブログ記事「「元興寺」シリーズ」(「平城京の大官大寺」や「倭国一の寺院「元興寺」」)は、肥沼孝治さんに献辞を捧げたい。肥さん、ありがとう。

2023年2月 3日 (金)

倭国一の寺院「元興寺」(番外編)―「法興寺」から「飛鳥寺」へ―

倭国一の寺院「元興寺」(番外編)
「法興寺」から「飛鳥寺」へ[論理の赴くところ][神社・寺院]

 

最後の「法興寺」

 『日本書紀』において、天武天皇元年(六七二)六月己丑29日〕条〔注1〕以後、「飛鳥寺(あすかでら)」という「寺名(てらな)〔注2〕(和風「山号」)では登場するものの、「法興寺(ほうこうじ)」という「寺号(じごう)」は消えてなくなります。次は『日本書紀』で「法興寺」が最後に登場する件(くだり)です。
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《天智天皇一〇年(六七一)十月甲子朔》
是月、天皇遣使奉袈裟・金鉢・象牙・沈水香・旃檀香、及諸珍財於法興寺佛。
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壬申の乱以後の寺名

 次は、上記条文以降に登場する個別寺院名(固有名詞)を拾ってみたものです(同一条文中に同一寺院名が複数登場しても一件としています)。呼び方(ひらがな)は現代仮名遣いにしています。
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《天武天皇元年(六七二)七月庚寅朔》壬子〔23日〕条:大井寺(おおいでら)所在不明
《天武天皇二年(六七三)三月丙戌朔》是月条:川原寺(かわらでら)
《天武天皇二年(六七三)十二月壬午朔》戊戌〔17日〕条:官職名は漢風「造高市大寺司(ぞうたけちだいじし)ですが、寺名は「高市大寺(たけちおおでら)」です。「〈今大官大寺(だいかんだいじ)、是。〉」という割注がついています。
《天武天皇六年(六七七)二月癸巳朔》是月条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇六年(六七七)八月》八月辛卯朔乙巳〔15日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇九年(六八〇)四月乙巳朔》乙卯〔11日〕条:橘寺(たちばなでら)
《天武天皇九年(六八〇)四月》是月条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇九年(六八〇)七月》秋七月甲戌朔条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇九年(六八〇)七月》癸巳〔20日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇九年(六八〇)十一月壬申朔》癸未〔12日〕条:藥師寺(やくしじ)
《天武天皇十年(六八一)九月丁酉朔》庚戌〔14日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十一年(六八二)七月壬辰朔》戊午〔27日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十一年(六八二)八月壬戌朔》庚寅〔29日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《天武天皇十三年(六八四)閏四月壬午朔》乙巳〔24日〕条;飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十四年(六八五)五月》五月丙午朔庚戌〔5日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十四年(六八五)八月》八月甲戌朔乙酉〔12日〕条:淨土寺(じょうどじ)
《天武天皇十四年(六八五)八月》丙戌〔13日〕条:川原寺(かわらでら)
《天武天皇十四年(六八五)九月甲辰朔》丁卯〔24日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)川原寺(かわらでら)飛鳥寺(あすかでら)
《天武天皇十四年(六八五)十二月壬申朔》丁亥〔16日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《朱鳥元年(六八六)正月》庚戌〔9日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《朱鳥元年(六八六)四月》壬午〔13日〕条:川原寺(かわらでら)
《朱鳥元年(六八六)五月庚子朔】》癸丑〔14日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《朱鳥元年(六八六)五月》癸亥〔24日〕条:川原寺(かわらでら)
《朱鳥元年(六八六)六月己巳朔》甲申〔16日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《朱鳥元年(六八六)六月》丁亥〔19日〕条:川原寺(かわらでら)
《朱鳥元年(六八六)七月己亥朔》是月条:大官大寺(だいかんだいじ)
《朱鳥元年(六八六)八月己巳朔》己丑〔21日〕条:檜隈寺(ひのくまでら)輕寺(かるでら)大窪寺(おおくぼでら)
《朱鳥元年(六八六)八月》辛卯〔23日〕条:巨勢寺(こせでら)
《朱鳥元年(六八六)四月庚午朔》壬午〔13日〕条:川原寺(かわらでら)
《朱鳥元年(六八六)九月》九月戊戌朔辛丑〔4日〕条:川原寺(かわらでら)
《持統天皇即位前紀朱鳥元年(六八六)十二月》十二月丁卯朔乙酉〔19日〕条:大官(だいかん)飛鳥(あすか)川原(かわら)小墾田豐浦(おはりだとゆら)坂田(さかた)・・・大官(だいかん)以外は「~でら」
《持統元年(六八七)八月壬辰朔》己未〔28日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《持統二年(六八八)正月庚申朔》丁卯〔8日〕条:藥師寺(やくしじ)
《持統二年(六八八)十二月》十二月乙酉朔丙申〔12日〕条:飛鳥寺(あすかでら)
《持統八年(六九四)三月甲申朔》己亥〔16日〕条:益須寺(やすでら)
《持統十年(六九六)十一月》十一月己亥朔戊申〔10日〕条:大官大寺(だいかんだいじ)
《持統十一年(六九七)七月》癸亥〔29日〕条:藥師寺(やくしじ)
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 「寺号」(漢風寺号)で登場するのは、登場順で藥師寺(やくしじ)大官大寺(だいかんだいじ)淨土寺(じょうどじ)の3寺だけで、残りは皆「大字」を冠した寺名(てらな)で、唯一の例外は大字・小字の両方を冠した「小墾田豐浦(おはりだとゆら)」(おはりだとゆらでら)で、これも寺名(てらな)です。

 

寺名(てらな)ではない寺院

 藥師寺(やくしじ)大官大寺(だいかんだいじ)淨土寺(じょうどじ)の3寺が寺名ではありませんが、「藥師」や「浄土」を冠した寺院は、「藥師(如来)」や「(極楽)浄土」が仏教用語なので「(漢風)寺号」のままになっていると思われます。

 仏教用語ではない唯一の例外「大官大寺(だいかんだいじ)」は、「高市大寺(たけちおおでら)」を「大官大寺(だいかんだいじ)」と改名して、所在地「高市(たけち)」(高市郡夜部村『扶桑畧記』、高市郡高市里『日本三代實録』)を冠する寺名(てらな)が消滅したためであると思われます。

《天武天皇二年(六七三)十二月壬午朔》
戊戌〔17日〕、以小紫美濃王・小錦下紀臣訶多麻呂、拜造高市大寺司。〈今大官大寺、是。〉時知事福林僧、由老辭知事。然不聽焉。
『扶桑畧記』によれば、天武六年(677)に「高市大寺」から「大官大寺」へ改称したとあります。

 

漢風寺号が消えたのは

 『日本書紀』には天武天皇が「諸寺の名を定む」(「定諸寺名也」)とあり、これはへそ曲がりな私の読み方かもしれませんが、「諸(もろもろの)寺名(てらな=和風寺号)を定む」とも読めます。すなわち、『日本書紀』の記述からは、「(漢風)寺号」を含め複数ある寺院の呼び名を、「和風寺号」つまり寺名(てらな)に天武天皇が統一したと考えられます。

《天武天皇八年(六七九)四月》
夏四月辛亥朔乙卯〔5日〕、詔曰、商量諸有食封寺所由。而可加々之、可除々之。是日、定諸寺名也

 

寺名(てらな)に統一したわけ

 朱鳥元年七月戊午〔20日〕条に、つぎのような興味深い割注があります。

《朱鳥元年(六八六)七月》
戊午、改元曰朱鳥元年。〈朱鳥、此云阿訶美苔利。〉仍名宮曰飛鳥淨御原宮。 

 年号「朱鳥」は漢字を普通に(通例に従って)読めば「シュチョウ」ですが、「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という年号だというのです。たしかに「朱」は「あか」なので「あかみ」(「み」は接尾辞)と読めます(朱(あけみ)さんもいますし)。しかし、年号を音読する通例を破るとはなかなかのものではないでしょうか(現在でも年号は「令和(れいわ)」と音読みしています)。

 「これほどまでにする理由」は次の二つが考えられます。

(一)天武天皇は「和風が好き」だった。
(二)天武天皇は「漢風が嫌い」だった。

 ハンバーグの話ではなく、政治の世界の話ですから、個人の「そっちよりこっちの方が好き」というような話では断じてありません。すなわち、天武天皇の政権にとって、(一)和風を重んじ(二)漢風を軽んじる方が都合良かった、と言うこと以外には考えられません。

 そんな政治的理由があったのでしょうか。

 ありました。唐の力を借りて近江朝を打倒した「壬申の乱」です。倭国内には反唐勢力も根強く存在し続けたはずです。近江朝を倒した調子に乗って「漢風」を尊重していれば、「奴等は唐の回し者だ」というキャンペーンを張られて、反唐勢力の力が増大していく恐れから、「私たちは唐とは関係ありません」というポーズを取ってそのことを宣伝していく必要があったのです(これは私の解釈にすぎませんが)。 

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注1 天武天皇元年(六七二)六月己丑〔29日〕‥‥‥ 「法興寺」という漢風寺号が消えて「飛鳥寺(あすかでら)」という和風寺号で登場するのは「壬申の乱」からです。
《天武天皇元年(六七二)六月辛酉朔》
己丑、天皇往和蹔、命高市皇子、號令軍衆。天皇亦還于野上而居之。是日、大伴連吹負、密與留守司坂上直熊毛議之、謂一二漢直等曰、我詐稱高市皇子、率數十騎、自飛鳥寺北路、出之臨營。乃汝内應之。既而繕兵於百濟家、自南門出之。先秦造熊、令犢鼻而乘馬馳之、俾唱於寺西營中曰、高市皇子、自不破至。軍衆多從。爰留守司高坂王、及興兵使者穗積臣百足等、據飛鳥寺西槻下爲營。唯百足居小墾田兵庫、運兵於近江。時營中軍衆、聞熊叫聲、悉散走。仍大伴連吹負、率數十騎劇來。則熊毛及諸直等、共與連和。軍士亦從。乃擧高市皇子之命、喚穗積臣百足於小墾田兵庫。爰百足乘馬緩來。逮于飛鳥寺西槻下、有人曰、下馬也。時百足下馬遅之。便取其襟以引墮、射中壹箭。因抜刀斬而殺之。乃禁穗積臣五百枝・物部首日向。俄而赦之置軍中。且喚高坂王・稚狹王、而令從軍焉。既而遣大伴連安麻呂・坂上直老・佐味君宿那麻呂等於不破宮、令奏事状。天皇大喜之。因乃令吹負拜將軍。是時、三輪君高市麻呂・鴨茂君蝦夷等、及群豪傑者、如響悉會將軍麾下。乃規襲近江。撰衆中之英俊、爲別將及軍監。庚寅、初向乃樂。 

注2 「寺名(てらな) ‥‥‥ 私は、寺院の所在を示す漢風寺号「山号」に相当する「邑号」ともいうべき和風寺号を、漢風の「寺号(じごう)」と区別して「寺名(てらな)」と呼んでいます。これは学術用語ではありません。このブログ内で使用しているだけのものとご承知おきください。また、この呼び方に倣えと言うつもりもありません(誤解無き様に)。

2023年1月27日 (金)

倭国一の寺院「元興寺」(7)―太宰府にあった傍証―

倭国一の寺院「元興寺」(7)
太宰府にあった傍証[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究]

 この「倭国一の「元興寺」」シリーズの第一回 『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院 ―2023年1月1日(日) で、次のような論理で「元興寺が太宰府にあった」としました。
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葦北津~太宰府~対馬
20230127
 上図が百済人の本国送還のルート(赤線)の想定です。この道中のどこかに百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院である「元興寺」があったと考えられます。なぜ「対馬に至ってから留まりたいと願い出た」のでしょうか。「元興寺が対馬にあった」とも考えられますが、百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院を国境となっている対馬に造営するとは考え難いでしょう。むしろ、対馬(倭国)を離れれば「二度と元興寺でお勤めする機会はない」という切迫した感情が「帰国ではなく在留」を決断させたのではないでしょうか。「対馬に至って」の理由はこれだと私は読み解きました。

 さすれば、結論は決まってきます。「元興寺」は倭国の首都(太宰府)に在ったことになります。倭国一の寺は倭国の首都に造営されるのが当然だと私は考えます。
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 私自身、「この理屈で万人が納得する」とは思えませんでした(ああも言えればこうも言える理屈=論証できていなかった)。今回、「元興寺」が太宰府にあった論理的傍証を見つけましたので報告いたします。

 

寺院の建立場所

 寺院の建立場所に地理的な条件は特にありません。人里離れた山奥にも里村の中にも建てられています。道がない場所でさえ武蔵国分寺のように「参道」で繋いでいます。つまり、建立時の事情にさえ合えば、寺院はどこにも建てられます。
参道を付けた寺院のイメージ
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「元興寺」の曲がった外郭

 次の図をご覧ください。「南大門」から出た外郭が屈曲しています。
「元興寺」の曲がった外郭
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 この外郭の曲がりは以前から気になっていましたが、やっとその理由(わけ)に気づきました。

 参道さえ付ければどこにでも建てられる寺院が、南大門から出た外郭にこのような屈曲を付けなければならない理由はただ一つだけなのです。

 

大路に面した寺院

 寺院が「大路」に面していた場合、まっすぐな外郭に「南大門」を付けると次のようになります。
真っ直ぐな外郭に付いた「南大門」
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 当たり前ですが、これでは交通の妨げになりますので、少なくとも次の位置まで「南大門」を寺地内に下げる必要があります。

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 「元興寺」が太宰府にあった傍証とは、「元興寺」が「大路」に面して建てられていたことを「屈曲した外郭」(「南大門」の位置)が示している、ということです。

 「いや、平城京だからじゃないか。」という反論が成り立つでしょうか。それは成り立ちません。なぜなら、九州(葦北津~対馬までの百済人送還ルート上)に平城京はありません。九州で「条坊都市」と言えるのは「倭京(太宰府)」だけだからです。私は寡聞にして九州の「条坊都市」は「太宰府」しか存じませんが、この百済人送還ルート上で太宰府以外の「条坊都市(遺構)」の存在をご存じであればご教示くださるようお願いいたします。

 

塔の景観を損なう「南大門」

 上図は「元興寺」の伽藍配置(復原図)とは「南大門」の位置に違いがあります。すこしテーマから外れますが、その理由を検討します。

 上図では、寺院の前(すなわち「南大門」の前)に立った人が塔を仰ぎ見た時、「南大門」が塔を覆い隠す状態になります(青色で示した塔の視野角に「南大門」が入り込んでいます)。
塔の景観を損なう「南大門」
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塔の景観を重視した伽藍配置
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 「元興寺」の「南大門」は、塔の景観を重視して位置決めされていると考えられます。大路から寺地に入る位置(「南大門」の前)に立って塔を仰ぎ見る視野の妨げにならない位置に「南大門」が置かれていることがわかります。「南大門」を通り抜けて「中門」との中間地点でも「南大門」が妨げになっていません。つまり、礼拝が終わって「中門」を通り抜けた時にも塔を仰ぎ見る視野の妨げにならない位置に「南大門」が置かれているのです。

 

妄想が暴走

 ここまで解明してみると、次のような妄想の暴走が起きました。

太宰府にあった倭国一の「元興寺」は「七重塔の双塔」ではなかったか?

「高市大寺(藤原京の大官大寺)」も、その前身の「百濟大寺」も「九重塔」でした。「九重塔」があるのに倭国一の「元興寺」が五重塔であったのだろうか。「七重塔」を建てよという聖武詔勅は、倭国一の「元興寺」が「七重塔」であったからではなかったか。妄想は妄想としてとっておきましょう。

 次回は「元興寺伽藍配置」ではなく「元興寺伽藍配置」の仮説を述べる予定です。

倭国一の寺院「元興寺」(6)―「元興寺の伽藍配置」―

倭国一の寺院「元興寺」
―「元興寺の伽藍配置」―[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究]

【訂正のお知らせ(2023/01/27)】
「元興寺伽藍配置」と題する次図は「元興寺伽藍配置(復元図)」の誤りでしたので、図を差し替えました。
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【訂正のお知らせ】終わり



 倭国一の寺院「元興寺」(5)―伽藍配置の復原―2023年1月19日(木)は、次の事実から、倭京(太宰府)の「元興寺」は縦型の回廊をもつ古式寺院の特徴を備えているとし、内郭の縦横比は3:2の比率を持っていたとし、その様式をそのまま大安寺に移したとして、復原を試みたものです。また、それを検討する中で、塔の心々間距離が内郭の縦の長さと同じであったため、塔も道慈の「修造」前はその距離で倭京(太宰府)あるいは平城京(左京六条四坊)に建っていたであろうとしました(「双塔」で「新式」!)。

「法興寺(ほうこうじ)」(飛鳥寺(あすかでら))を平城京に移した「新元興寺」(注1)の伽藍配置が「「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」」であること
② 倭京(太宰府)に存在した倭国一の寺院「元興寺」を平城京に移築した「大安寺」も「新元興寺」と同じ「縦型」であること。
「大安寺」の「南大門」(注2)と「中門」の間が狭いので「古式寺院」(注3)とみられること

元興寺の伽藍配置(復原図)
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一部分、外郭の屈曲を左右対称になるように、修正しています

 縦横3:2の比率がこんなにもドンピシャリと適合するとは、思ってもいませんでした。しかも、内郭(回廊基壇)の外側で当てはまるのは「信濃国分寺」の「〇〇寺」(尼寺)と同じなのですから驚きました。復原に用いた図は、奇しくも森郁夫氏の「わが国古代寺院の伽藍配置」の「挿図9 大安寺伽藍配置図1:2500」(26頁)でした。
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これは国立国会図書館デジタルコレクションからダウンロードできます。皆さん自身で確認できるでしょう。 

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注1 「法興寺」(飛鳥寺)を平城京に移した「新元興寺」 ‥‥‥ 『続日本紀』養老二年(七一八)九月甲寅〔23日〕条に「法興寺を新京に遷す。」(原文「甲寅、遷法興寺於新京。」)とあります。
 霊亀二年(七一六)五月に「元興寺」を倭京(太宰府)から平城京左京六条四坊に大安寺として移築した(「元興寺」が消滅した)ので、養老二年(七一八)九月に「法興寺(飛鳥寺)」を移して「元興寺」を名乗れたわけです(この順序関係は重要です)。次のブログ記事に詳しく述べています。
平城京の大官大寺(2)―「元興寺」が移築された―2022年2月7日(月) 

注2 「大安寺」の「南大門」 ‥‥‥ このもと倭京にあった「元興寺」の「南大門」は、『続日本紀』霊亀二年(七一六)五月辛卯〔16日〕条に「始めて元興寺を左京六条四坊に徙(うつ)し建(た)つ。」(原文「始徙建元興寺于左京六条四坊」)段階では文字通り「南大門」でした。しかし、「702年(大宝2年)第八次遣唐使船で唐へ渡り[1]、西明寺に住して三論に通じて、仁王般若経を講ずる高僧100人のうちの一人に選ばれた。718年(養老2年)15年に渡った留学生活に幕を閉じ、第九次遣唐使の帰りの船で帰国した[1]」(Wikipedia「道慈」より)道慈が「塔院(双塔)」を七条四坊(左京六条四坊の大安寺が面した六条大路を挟んだ南ブロック)に修造した時点で「南大門」が新造されたので、もとの「南大門」を「南中門」と呼ぶことになったものです。

大安寺の「南中門」(元興寺の「南大門」)について、詳しくは次のブログ記事をご覧ください。
“大安寺式伽藍配置”は無かった ―大安寺“南大門”、塑像の証言―2017年7月10日(月)
平城京の大官大寺(1)―南中門の塑像―2022年2月7日(月)
道慈の「修造」については次のブログ記事をご覧ください。
平城京の大官大寺(4)―道慈による「修造」―2022年2月9日(水)

注3 「古式寺院」 ‥‥‥ 「寺地」(寺の所有地)を伽藍地(聖なる施設を配置する区域)として囲う大溝・生垣・塀等を「外郭」(どんなもので囲うかは一定していません)、外郭内をさらなる聖なる区域として囲う回廊・築地塀等を「内郭」と呼んでいます。外郭内が「寺院」で、内郭内が「寺院中枢」です。
回廊等で囲った寺院中枢に塔を置く寺院を「古式」、内郭外に塔を置く寺院を「新式」と呼び分けています。
「古式寺院」には中軸線(中門心を通り内郭を東西に二分する南北線)上に中枢伽藍を配置する「縦型」と、中軸線と直行する東西線上に中枢伽藍を配置する「横型」とがあります。「古式寺院」の内郭は、「縦型」が3:2、「横型」は2:3の縦横比率を採るのがほとんど(例外は少数)です。
 「古式」は、塔を内郭内に配置しているため、南大門(外郭の入り口)と中門(内郭の入り口)の距離が狭いという特徴があります。ほとんど、この特徴で判別可能です。
古式寺院例(縦型「四天王寺」と横型「法隆寺(西院)」)
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2023年1月19日 (木)

倭国一の寺院「元興寺」(5)―伽藍配置の復原―

倭国一の寺院「元興寺」
伽藍配置の復原[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究]

 先のブログ記事 倭国一の寺院「元興寺」(4)―名前のない伽藍配置―2023年1月14日(土)で、つい次のように述べました。
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(前略)①「新元興寺」(平城京に移築した法興寺)が「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」であること、②古式寺院の縦型回廊は縦横3:2の比であることから、「元興寺式伽藍配置」の回廊も縦横3:2の比であると考えられます。ただ、回廊が金堂を囲っていることから、塔(おそらく五重塔)は回廊外の東側に置かれたと考えられます。回廊は当初は単廊で後には複廊となったかもしれません。
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 これでは単なる「憶測」(つまり妄想)にすぎません。事実を確認する必要があります。そこで、倭国一の寺院「元興寺」を太宰府から移築した大安寺(平城京の大官大寺)の遺跡を検討してみると、次のことが判明しました。

(1)元興寺を移築した大安寺の伽藍配置も「新元興寺」と同じ①「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」でした。
(2)大安寺の伽藍配置も、回廊基壇(外側を測定)信濃国分寺遺跡の〇〇寺(尼寺)と同じ②縦横3:2の比(古式寺院の縦型回廊)でした(復原図をご覧下さい)。
(3)大安寺の塔院(東西両塔)の塔心々間距離が縦型回廊基壇(外側を測定)と一致していました。すなわち、大安寺は元興寺をそのまま移築したと仮定すると(後に道慈による「修造(塔の移築)」があったとしても)、元興寺の塔は双塔であった可能性が高い(つまり「塔(おそらく五重塔)は回廊外の東側に置かれた」という考えは間違いの可能性が高い)。

元興寺の伽藍配置の復原図
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 この大安寺の伽藍配置については以前のブログでも検討していました。多少見解を修正しましたが、参考になさっていただければ幸いです。
平城京の大官大寺(3)―古式伽藍配置の元興寺―2022年2月8日(火)
平城京の大官大寺(4)―道慈による「修造」―2022年2月9日(水)
平城京の大官大寺(5)―大安寺式伽藍配置は無かった―2022年2月11日(金)

参考図(信濃国分二寺)〇〇寺(尼寺)がこの「元興寺式伽藍配置」です(塔は不明ですが)
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僧寺の方は「古式縦型寺院
」にみられる3:2の縦横比はありません(創建時期は〇〇寺より時代が降ることを示しています)。
また、五重塔跡(水色)は金堂院の中軸線と同方位ですが、七重塔跡(ピンク色)は「正方位(真北)」なのでこれが「聖武七重
塔」と考えられます。すなわち、僧寺は既存寺院に「七重塔」を建てて国分僧寺にしたと考えられます。
妄想「信濃国分僧寺・七重塔」考―聖武・七重塔はどっち?―2019年7月28日(日)

2023年1月14日 (土)

倭国一の寺院「元興寺」(4)―名前のない伽藍配置―

倭国一の寺院「元興寺」(4)
名前のない伽藍配置[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究] 

 このところ「元興寺」について論じてきましたが、その過程で、今まで悩んでいたことが解決しましたので、それを報告いたします。

 

きっかけ

 肥沼孝治さん(注①)を中心とする「国分寺」の共同研究(名称「多元的「国分寺」研究」)に参加していたころの話です。古代史の専門的知識を持たない私は、テーマを国分寺遺跡の「造営尺度」や「伽藍配置」を絞って調査・研究をしていました。

 そのテーマを選んだのは、森郁夫氏が論文「わが国古代寺院の伽藍配置」の末尾で「ただ鎮護国家を標榜して各国に造営された国分寺の伽藍配置は一定していない。今後の重要な課題である」と記していたことがきっかけでした。

 

一定していない国分寺の伽藍配置

 私たちには、伽藍配置が一定していない原因は当初からわかっていました。『続日本紀』天平13年(741)の年の聖武天皇の“国分寺建立の詔”には「「七重塔を造れ」ということは書いてあるが,「国分寺」という言葉はない。」と肥沼孝治さんがブログで発表した(注②)からです。すなわち“国分寺建立の詔”ではなく「七重塔建立の詔」だったのです。つまり、既存寺院に「七重塔」を建てればよかったわけです。既存寺院の伽藍配置も様々ですし、七重塔を建てる位置も各々異なりますから、「国分寺の伽藍配置は一定していない」結果になるのは当然なわけです。ただ、朝廷から「国分二寺図」が諸国に頒布されていますので、私は諸国国分寺の伽藍配置と「国分二寺図」の関係についてまとめてサークルに投稿(注③)しました。

 

名前のない伽藍配置様式

 諸国の国分寺の伽藍配置を調べていくうちに、「中門から発した回廊が金堂を囲って講堂の両妻にとりつく伽藍配置」の国分寺がかなりあると知りました。ところがこの伽藍配置様式に名前がついていないのです。
名前のない伽藍配置様式(信濃国分二寺の例)
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 私は、接近した二寺がある信濃国分寺が代表例になるのかなと思って、“(仮称)信濃国分寺式伽藍配置と言っていました。

 

正式名称が決まった

 誰もこの様式に名前を付けていないのなら、「早く付けたもん勝ち」です(笑)。

 信濃国分寺よりふさわしい寺院が見つかりました。「元興寺」です。正確に言えば「新元興寺」なのですが、「新元興寺」は解体移築した「元興寺」の伽藍配置をとったはずで、また移築先の大安寺の伽藍配置にも「元興寺」の伽藍配置の痕跡が認められますので、これは間違いないと言ってもいいでしょう。

 

元興寺式伽藍配置
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元興寺は飛鳥に創建された法興寺(飛鳥寺)に起源をもつ。平城遷都後の718年(養老2)法興寺を平城京左京四条・五条の七坊の地に移して元興寺と称し,飛鳥の法興寺を本元興寺と称した。奈良時代の元興寺の伽藍配置は,南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並び,回廊は金堂を囲んで中門と講堂を結ぶ。
(平凡社世界大百科事典 第2版より)
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 ここに「奈良時代の元興寺の伽藍配置は,南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並び,回廊は金堂を囲んで中門と講堂を結ぶ。」とあります。表現の仕方は異なりますが「中門から発した回廊が金堂を囲って講堂の両妻にとりつく伽藍配置」です。

 「倭国一の元興寺」を「わがもの」にするためには、「新元興寺」が「元興寺」を真似て造られるのは必然です。「倭国一の元興寺」の伽藍配置であったから多くの寺院がこの伽藍配置を採ったというわけです。

 

元興寺式伽藍配置の復原

 元興寺の伽藍配置は、移築された大安寺の伽藍配置を見ると、「南中門」(解体された元興寺の南大門)と中門の距離が極めて狭いことから「古式寺院」(正しくは塔が回廊外なので「新式寺院」だが、内郭比が3対2の古式。つまり、過渡期的新式の鏑矢)であったとわかります。また、①「新元興寺」(平城京に移築した法興寺)が「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」であること、②古式寺院の縦型回廊は縦横3:2の比であることから、「元興寺式伽藍配置」の回廊も縦横3:2の比であると考えられます。ただ、回廊が金堂を囲っていることから、塔(おそらく五重塔)は回廊外の東側に置かれたと考えられます。回廊は当初は単廊で後には複廊となったかもしれません。

元興寺式伽藍配置の復元図
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結語

 今後、私はこの伽藍配置を「元興寺式伽藍配置」と呼ぶことにしました。この伽藍配置に付ける様式名には「上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名」である「元興寺」が最も相応しいでしょう。また、この命名は「元興寺式伽藍配置」を採る寺院の創建年代の推定に資する(注④)のではないかと考えています。

(続く) 

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注① 肥沼孝治さん ‥‥‥ 古田史学の会会員。「肥さんの夢ブログ」主。ブログ「多元的「国分寺」研究サークル」の運営主。去年(2022/04/10)ブログ更新停止。
古田史学の会のHP新古代学の扉」の「HP内の検索エンジン」で「肥沼孝治」を検索していただくとたくさんヒットします。古田史学の深化に多大な貢献をされています。私が一番印象に残っているのは次の論稿です。
古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?古田史学会報108号2012年2月10日 

注② 肥沼孝治さんがブログで発表した ‥‥‥ 「国分寺」はなかった!2016年1月30日(土) 

注③ サークルに投稿 ‥‥‥ コメントで投稿したものを肥沼孝治さんが記事として掲載してくれました。
「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―2017年1月10日(火)
 お読み頂くのであれば、コメント版(↑)より当ブログ再掲版(↓)の方が読みやすいと思います。
「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―2021年10月5日(火) 

注④ 「元興寺式伽藍配置」を採る寺院の創建年代の推定に資する ‥‥‥ 国分寺式伽藍配置の前の時代に盛行した伽藍配置ではないかと推測した論考をいくつか書いています。
作業仮説:「伽藍配置の変遷過程」試論―“(仮称)プレ国分寺式”伽藍配置の時代があった―2017年7月30日(日)
「国分寺」伽藍配置の変遷試論(1)―「新式」寺院を更に分類したら―2021年2月11日(木)
これ()は肥沼孝治さんの肥さんの夢ブログにも取り上げて頂いています)。
名前のない伽藍配置様式の怪―“(仮称)信濃国分寺式伽藍配置”― 2021年11月17日(水)

2023年1月12日 (木)

倭国一の寺院「元興寺」(3)―異論の検討(その2)―

倭国一の寺院「元興寺」(3)
異論の検討(その2)―[論理の赴くところ][神社・寺院]

 前回(倭国一の寺院「元興寺」(2)―異論の検討(その1)―2023年1月10日(火))に「次回は「元興寺」の移築先を論じます。」と予告した通り、今回は「倭京(太宰府)に存在した 倭国一の寺院『元興寺』がどこに移築されたか」を考察します。

 

「法隆寺「ナンバー・ワン」」の主張

 「多元No172 Nov.2022 号」に掲載された川端俊一郎氏の論稿「法隆寺「ナンバー・ワン」」から一部を再掲します(全文は 倭国一の寺院「元興寺」(2)―異論の検討(その1)―2023年1月10日(火) に掲載してあります)。
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(I)上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名は「法興寺」の他にはない。日本書紀は蘇我氏が飛鳥に法興寺を造ったと言うが、飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。「ナンバー・ワン」の法興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。その法興寺を解体して遠く大和の斑鳩の里に運び、聖徳太子の法隆寺として組立変身させるのが新しい日本政府の事業となった。また法興寺の跡地には、詔により観世音寺が造られた。
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 この(I)に述べられている論点は次の五つです。

❶ 上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺は「法興寺」である。
❷ 飛鳥に実在するのは「元興寺」の遺構である。
❸ 「ナンバー・ワン」の法興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。
❹ 法興寺は斑鳩の里に移築されて法隆寺となった。
❺ 法興寺の跡地に観世音寺が建てられた。 

 論点❶と❸は、「法興寺」ではなく「元興寺」であると前回で論証しました。

 それを訂正すると次のようになります。

① 上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺は「元興寺」である。
③ 「ナンバー・ワン」の元興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。

 

飛鳥に実在する遺構

 川端氏は、「日本書紀は蘇我氏が飛鳥に法興寺を造ったと言うが、飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。」と断じています。そうでしょうか。
明日香村付近の航空写真(Google Earthに加筆)
Google-warth
水色の曲線が飛鳥川、黄緑の横線の長さが約800mです。

 現在の「明日香村」の範囲ほどには古代の「飛鳥」は広くはなく(注①)飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側に当たる…〔中略〕…平地にかぎれば南北1.6キロ、東西0.8キロほど」(岸俊男など)だったのです。

 「南北1.6キロ、東西0.8キロほど」の(飛鳥川の右岸(東側))「古代の飛鳥」を推定してみましょう。
 明日香村近辺の「寺」は次の通りです。
古代の「飛鳥」の地にある寺院(Google Earth による)
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〇岡本寺(明日香村583)の大字は「岡」なので「飛鳥」ではないと考えられます。縁起には「「飛鳥岡本宮」(注②)ともいわれる旧蹟を伽藍とした」とあり、「もともとは飛鳥岡本宮と呼ばれるところにあった」とも伝えられています。「岡」(大字は「岡」)の本(ふもと)にあった宮なので「飛鳥岡本宮」と呼ばれ、宮の所在は「飛鳥」だったが、「岡」は「飛鳥」ではなかった、と考えられます。
 「岡と岡本は等しい」と主張する人は、「山と山本は等しい」とか「坂と坂本は等しい」とかを主張せねばならないでしょう。「飛鳥岡本」は「(大字)岡」と違う大字に属していて「(大字)飛鳥(小字)岡本」なのです。
飛鳥岡本のイメージ図
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〇橘寺(注③)(明日香村 532)の大字は「橘」なので「飛鳥」ではないと考えられます(飛鳥川の左岸(西側)でもある)。
〇川原寺(現在 弘福寺(ぐふくじ))(明日香村 川原1109)の大字は「川原」なので「飛鳥」ではないと考えられます(飛鳥川の左岸(西側)でもある)。
〇常谷寺(明日香村 1191)は後世の寺。大字は「岡」なので「飛鳥」ではないと考えられます。
〇香爐寺(明日香村 540)創建・由緒などは不詳。大字は「橘」なので「飛鳥」ではないと考えられます(飛鳥川の左岸(西側)でもある)。

 これらを直線(アバウトなやり方ですが)で除外していった結果が次の区域です。
古代の飛鳥に在った寺は「飛鳥寺」(法興寺)のみ
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 ご覧のように「古代の飛鳥」にあったのは「飛鳥寺」(法興寺)の遺構(注④)だけです。それは当然です。平地に造られた寺は所在を示す「山号」にかえて「邑()号」ともいうべき「〇〇寺(〇〇でら)」で所在を示したからです(だから一邑に同じ名の寺はありません。寺の呼び方―山号・院号・寺号―2023年1月 3日(火)をご覧ください)。

 

飛鳥寺は元興寺の遺構か

 川端氏の言う「元興寺の遺構」とは、養老二年(七一八)九月二十三日に法興寺を新京に遷して「元興寺」と称した(注⑤)ため、法興寺(飛鳥寺)を移した平城京(奈良市)の「元興寺」を「新元興寺」(注⑥) と称し、飛鳥(高市郡明日香村)の飛鳥寺(法興寺)を「本元興寺」と称することになった「本元興寺(飛鳥寺(法興寺))の遺構」を意味しているのでしょうか。

 もし、川端氏が「飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。」と言うのが「本元興寺の遺構」のことであるならば、「飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。」という表現は誤解を招きます。「飛鳥に実在するのは本元興寺(法興寺)の遺構である。」が正しい表現です。

 

元興寺は平城京に移築された

 川端氏の「法興寺は斑鳩の里に移築され法隆寺となった。」と断じています。そうでしょうか。

 川端氏が言う「法興寺」とは「元興寺」のことであると既に明らかになっていますので「❹ 元興寺は斑鳩の里に移築されて法隆寺となった。」と読み替えて検討します。残念ながらこれも間違っています。

 『続日本紀』霊亀二年(七一六)五月辛卯〔16日〕条に「始めて元興寺を左京六条四坊に徙(うつ)し建(た)つ。」とあります(原文「辛卯、〔…中略…〕。始徙建元興寺于左京六条四坊。」)。
 また『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』にも「移立元興寺于左京六條四坊」とあります。

 このことに関して、森郁夫『一瓦一説』(P.140)に驚くことが書かれていました。次の通りです。
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大安寺の造営工事は、『続日本紀』に「始めて元興寺を左京六条四坊に徒し建つ」とある霊亀二年(七一六)であることがほぼ確実視されている。ここに「元興寺」とあるのは、『続日本紀』の養老二年(七一八)五月十八日の「法興寺を新京に遷す」の記事によって誤りであることが周知の事実となっている。
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 「周知の事実となっている。」とありますので、「一元史観」の通説(定説)なのでしょう。川端氏も森氏同様にこの通説(定説)に従っていると思われます。正しければ通説(定説)に従うことは間違っていません。しかし、この通説(定説)は「不当な原文改訂」の上に成り立っています。何人も認めざるを得ない間違いが原文にあれば、事実に従って原文を誤りとして改訂することはあってしかるべきです。しかしながら、何の根拠もなく「自説に都合が悪い」あるいは「自説に都合が良い」という理由で勝手に原文を改訂するのは科学的歴史学ではありません。

 

非科学的歴史学の宿痾

 私は「『続紀』や『元興寺伽藍縁起』を鵜呑みにしろ」と言っているのではありません。記録がそうなっているのであれば、その記録に沿って検討してみる。するとそこに矛盾があれば、どこが間違っているかを確かめた上で、原文の間違っている箇所に注を付して、注記中で改訂が必要な理由を明記する(検証可能にする)ことが正しい改訂方法だと思います。日本の古代史学界には改訂の正しい仕方が根付いていないように思われます。

 それはさておき、森氏が「周知の事実となっている。」と述べた通説(定説)が間違っていることを論証しましょう。

 

「元興寺」・「大安寺」・「新元興寺」・「本元興寺」

 『続紀』や『元興寺伽藍縁起』が「元興寺」を移したと記している場所「左京六条四坊」には「大安寺」(平城京の大官大寺)が今も存在します。すなわち、『続紀』や『元興寺伽藍縁起』によれば「大安寺」は元興寺を移築したものになります。この『続紀』や『元興寺伽藍縁起』が「元興寺を左京六条四坊に移した」とする記述が正しいこと(通説(定説)が間違っていること)を論証しましよう。 

 「元興寺」が三寺登場します。混乱を避けるため、「太宰府の元興寺」を単に「元興寺」と、「法興寺」を平城京に移した元興寺を「新元興寺」と、飛鳥に残った「法興寺」を「本元興寺」と呼ぶことにします。

 次は、『日本書紀』・『続日本紀』・『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』などの記録による年表です。

年月日など

元興寺

大安寺・大官大寺

新元興寺

本元興寺(法興寺)

和銅四年(七一一)

 

藤原京大官大寺焼亡

 

 

霊亀二年(七一六)五月辛卯

始徙建元興寺于左京六条四坊

(元興寺消滅)

始徙建元興寺于左京六条四坊

(平城京大官大寺)

 

 

養老二年(七一八)九月甲寅

 

 

遷法興寺於新京

(新元興寺)

遷法興寺於新京

本元興寺)

 ご覧の通り、どこにも矛盾はありません。

(1)藤原京(高市郡)の大官大寺が焼亡してしまった(大官大寺が無くなった)。
(2)元興寺を移して大安寺(平城京の大官大寺)とした(元興寺が無くなった)。
(3)法興寺を平城京に移して「新元興寺」とした(元興寺ができた)。
(4)飛鳥に残った法興寺を「本元興寺」と呼ぶことになった。

ここに「元興寺」とあるのは、『続日本紀』の養老二年(七一八)五月十八日の「法興寺を新京に遷す」の記事によって誤りである」とどうして言えるのでしょうか(アタオカでしょう)。
平城京左京六条四坊の位置
Photo_20230112174101

日本国(大和王朝)の事業

 川端氏はこのように言っています。
その法興寺を解体して遠く大和の斑鳩の里に運び、聖徳太子の法隆寺として組立変身させるのが新しい日本政府の事業となった。

 私はこう言いましょう。
倭国一の元興寺を解体して遠く大和の平城京に運び、①平城京の大官大寺(大安寺)を造り、②倭国一の元興寺(九州王朝の元興寺)を消滅させて、大和一の法興寺を移して大和王朝の元興寺(新元興寺)を手に入れるのが新しい日本政府の事業となった。

 動機はこれなのです。倭国にとって代わった日本国には「元興寺」が必要だったのです。
 法興寺では役不足なのです。その理由は、妄想「元興寺」考―なくせない寺「元興寺」―2018年2月2日(金)をご覧ください。 

(続く)

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注① 古代の「飛鳥」は広くはなく ‥‥‥ 

飛鳥時代当時に「飛鳥」と称されていた地域は、飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側に当たるあまり広くないところ(平地にかぎれば南北1.6キロ、東西0.8キロほど)と考えられている(岸俊男など)。
今日では飛鳥川の上流(橘寺一帯)や下流(小墾田宮・藤原京一帯)、更には飛鳥時代には「檜隈(檜前)」と称された高取川流域地域までを含み[4]、行政区域的には明日香村一帯、あるいは人によってはその近隣までを含んで飛鳥と指し示すこともある。
」(Wikipedia「飛鳥」より抜粋) 

注② 「飛鳥岡本宮」 ‥‥‥ 私見ですが、明日香村(大字)岡にある「飛鳥京跡」は「飛鳥岡本宮」ではないと考えます。飛鳥は狭く大字「飛鳥」と呼ばれる範囲が「古代の飛鳥」だと考えます。
岡本宮(おかもとのみや)は、7世紀の舒明天皇及び斉明天皇が営んだ宮。舒明天皇の岡本宮は飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)、斉明天皇の岡本宮は後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)と区別して呼称される。両者とも奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったとされている。」(Wikipedia「岡本宮」より抜粋)
飛鳥京跡は、6世紀末から7世紀後半まで飛鳥の地に営まれた諸宮を中心とする複数の遺跡群からなる都市遺跡であり、宮殿のほか朝廷の支配拠点となる諸施設や飛鳥が政治都市であったことにかかわる祭祀施設、生産施設、流通施設などから構成されている。具体的には、伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)を中心に、川原寺跡、飛鳥寺跡、飛鳥池工房遺跡、飛鳥京跡苑池、酒船石遺跡、飛鳥水落遺跡などの諸遺跡であり、未発見の数多くの遺跡や遺構をふくんでいる。遺跡全体の範囲はまだわかっておらず、範囲特定のための発掘調査も行なわれている。
飛鳥宮は複数の天皇が代々宮を置き、または飛鳥内の別の地に遷宮をしたことにより、周辺施設とともに拡大して宮都としての機能を併せ持った。これは後に現れるような、建設当初から計画され固定化する宮都(藤原京)への過渡的な都市であったことを示している。」(Wikipedia「飛鳥京跡」より抜粋) 

注③ 橘寺 ‥‥‥ 本尊は聖徳太子で、正式名は「仏頭山上宮皇院菩提寺」というそうです。
橘寺(たちばなでら)は、奈良県高市郡明日香村橘にある天台宗の寺院。山号は仏頭山。本尊は聖徳太子。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、橘寺という名は垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。観音堂は新西国三十三箇所第10番札所で本尊は如意輪観音である。」(Wikipedia「橘寺」より抜粋) 

注④ 「飛鳥寺」(法興寺)の遺構 ‥‥‥ 法興寺中金堂跡に今も残る旧坊(安居院)だけが現存しています。飛鳥寺(法興寺)は、『日本書紀』によれば、崇峻天皇元年(五八八)是歳条に、蘇我馬子が飛鳥衣縫造祖樹葉の家を壊して法興寺を作り始めるとあります(原文「蘇我馬子宿禰、[言靑]百濟僧等、問受戒之法。以善信尼等、付百濟國使恩率首信等、發遣學問。壞飛鳥衣縫造祖樹葉之家、始作法興寺。此地名飛鳥眞神原。亦名飛鳥苫田。」)。推古天皇四年(五九六)四年十一月に法興寺が完成し、大臣男善德臣を寺司に任命し、この日に慧慈・慧聰の二僧が法興寺に住み始めたとあります(原文「四年冬十一月、法興寺造竟。則以大臣男善德臣拜寺司。是日慧慈・慧聰、二僧、始住於法興寺。」)。 

注⑤ 養老二年(七一八)九月二十三日に法興寺を新京に遷した ‥‥‥ 『続日本紀』に次のようにあります。
《養老二年(七一八)九月》
甲寅、遷法興寺於新京。
〖読み下し文〗
養老二年(七一八)九月甲寅〔23日〕、法興寺を新京に遷す。
元興寺は飛鳥に創建された法興寺(飛鳥寺)に起源をもつ。平城遷都後の718年(養老2)法興寺を平城京左京四条・五条の七坊の地に移して元興寺と称し,飛鳥の法興寺を本元興寺と称した。奈良時代の元興寺の伽藍配置は,南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並び,回廊は金堂を囲んで中門と講堂を結ぶ。」(平凡社世界大百科事典 第2版より) 

注⑥ 新元興寺 ‥‥‥ 平城京の元興寺(「新元興寺」)の禅室南面と極楽堂西面の屋根には、法興寺創建当初の軒平瓦が使われています(色が斑(まだら)になっています)。軒丸瓦には段差が付いた玉縁式と段差のない行基式があります。
右手は新元興寺の極楽堂の屋根、左手はその西側に建つ国宝・禅室の屋根
Photo_20230112174801

法興寺の盛衰と三つの元興寺
 平城京の官寺は平安京遷都後朝廷の庇護が弱り次第に衰微していくが、当寺院も同じ道を歩む。そしてその衰退が決定的になったのは室町時代の宝徳3年(1451)10月14日土一揆によって出火し、主要堂宇のほとんどが焼失してしまったことである。焼け残ったのは、五重塔、観音堂、極楽坊のみであった。その後金堂が再建されるがこれも台風により倒壊し、その後一つの伽藍として再興されることなく寺地は荒廃した。そこに町家が次第に進出し始め、元興寺は進出した町家の中に埋もれるように観音堂・五重塔、焼失後仮堂を建て復興に努めた小塔院、極楽坊の三つに分かれ存続することとなった。そして、この三寺の中で東大寺より支援を受けた五重塔を擁した観音堂が元興寺を称した。」(Webサイト 元興寺/1.所在地/(1)法興寺の盛衰と三つの元興寺 より抜粋)
元興寺(がんごうじ)は、奈良県奈良市にある寺院。南都七大寺の1つ。
蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内に移転した寺院である。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、次の3寺院が分立する。
1.元興寺(奈良市中院町)
旧称「元興寺極楽坊」、1978年(昭和53年)「元興寺」に改称。
真言律宗、西大寺末寺。本尊は智光曼荼羅。元興寺子院極楽坊の系譜を引き、鎌倉時代から独立。本堂・禅室・五重小塔は国宝。境内は国の史跡「元興寺極楽坊境内」。世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産の1つ。
2.元興寺(奈良市芝新屋町)
華厳宗、東大寺末寺。本尊は十一面観音。元興寺五重塔・観音堂(中門堂)の系譜を引く。木造薬師如来立像は国宝。境内は国の史跡「元興寺塔跡」。
3.小塔院(奈良市西新屋町)
真言律宗。本尊は虚空蔵菩薩。元興寺小塔院の系譜を引く。境内は国の史跡「元興寺小塔院跡」。(Wikipedia「元興寺」より抜粋)

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