sanmao知恵袋

2021年8月21日 (土)

なんちゃって物理学―銀河はなぜ回転しているのか―

なんちゃって物理学
銀河はなぜ回転しているのか[妄想][sanmaoの知恵袋]

 あらかじめお断りしておきますが、「なんちゃって」がついていますから「物理学」ではありません。物理学を装っている「妄想」です。

 侏儒国民さまのブログもう一つの歴史教科書問題の記事万有引力って何ですか?に次のようにありました。
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ある人は言った。「宇宙は回転するもので満ちている」と。まさに『自転しながら公転する』世界である。逆に言うと回転しないものは存在できなかったという理屈なのだ。すなわち宇宙のあらゆる存在は中心を求めて調和し、一体となって回転運動しているのである。

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 そこで「回転しないものは存在できなかった」ということについて妄想してみました。 

 妄想の結論は「物体は質点ではなく大きさをもっていて、宇宙には二以上の物体が存在するから(回転しないものは万有引力で大きなものに吸収されて存在できない)」となりました。

(1)物体が単に「質点」であったら、物体同士が衝突して合体しても回転は起きない。

(2)宇宙に存在する物体の個数が2であったら、衝突して合体するだけで回転は起きないだろう。

(3)物体の個数が3以上の場合(宇宙はこの状態)には、衝突する運命にある物体がその重心同士が衝突することはない(第三の物体の重力が影響するから)。
中心には衝突しない
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(4)物体は大きさを持っているので、重心を外れた衝突が起きると、合体した物体は回転せざるを得ない(この段階では回転方向はバラバラ)。
だから衝突後には回転する
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(5)このような過程でできた回転する物体同士が衝突して合体していくと、その中で最も大きく重い回転物体が生まれてくる。

(6)この最大質量回転物体の周囲を落ちない速度で公転する物体だけが吸収されずに存在できる。

(7)この最大質量回転物体の周囲を公転する向きは最大質量回転物体の自転する向きと同じになる。その理由は万有引力が距離の2乗に反比例するので、最大質量回転物体の表面側の引力が大きく、それが自転しているのでその向きに引っ張られるからである。
表面側の引力が大きい
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(8)このように公転している物体同士が衝突する場合は、最大質量回転物体の自転方向に力が働いているので、衝突すると合体した物体は最大質量回転物体の自転方向と同一の方向に自転・公転する可能性が高くなる。

(9)以上のことから、最大質量回転物体の周囲を公転するする物体は、最大質量回転物体の自転の向きと同じ方向に自転しつつ公転することになる(可能性が高い、例外もあるだろうが)。
このような姿に落ち着くだろう
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(10)このようなこと((1)~(9))が銀河(島宇宙)全体にも当てはまるであろう。

2021年4月 7日 (水)

日食と年代比定―平易に解説―

日食と年代比定
平易に解説[sanmao知恵袋][][古代史]

 いま連続掲載している「『史記』に記された暦」シリーズを平易に解説してみようと思います(これは私には結構難題です)。解る者だけが解ればいいというのは本意ではないからです。

 章題を見て、その項目についてご存知の方は、是非飛ばしてください。

1.日食(日蝕とも)とはどんな現象か

 一直線上に「太陽―月―地球」と並んだ時、地球から見て月が太陽を覆い隠す現象です。
国立天文台サイト「日食とは」より
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《要点》「月の満ち欠け」という現象において、日食が起きる時の月は「新月」(陽光を反射する面がない真っ暗な状態)です。これは太陽の光が当たらない方を地球に向けているためです。

 

2.日食と暦(こよみ)の関係

 いわゆる旧暦(太陰太陽暦)では一直線上に「太陽―月―地球」と並んだ瞬間を含む日を「月の第1日(ついたち)」としていて「朔(さく)」(「ついたち」とも)と呼びます。旧暦では「新月()」から次の「新月()」までを「ひと月」と数えます。つまり「月の満ち欠け」の周期(およそ29.5日)を「ひと月」として「暦(こよみ)」(カレンダー)をつくります。0.5日という日にちはありませんから、複雑ではない太陰太陽暦は、29日の月(「小の月」)30日の月(「大の月」)を交互に置くことで「月の満ち欠けの周期(29.5)と同期させています(2ヶ月=29日+30日=59日=2×29.5日)。

 

3.暦(こよみ)と日干支の関係

 「ひと月」を「旬」(十日)で別けて(上旬・中旬・下旬)、その旬の中の日を、序数ではなく「十干(じっかん)」で呼んでいました(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸です)。一方、木星が約十二年(正確には約11.86)で天球を一周することから、その木星の位置を示すために十二支が用いられていました(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥です)。この十干と十二支を組み合わせて六十種類の干支というものを用いて、約2ヶ月間(59日<60干支)にわたる日にちを表す方法が考案されて、使われるようになりました(合理的ですね)。日にちを表すのに干支(「六十干支」とも)が何時から用いられたかはわかりませんが、現代まで連綿と用いられています。因みに20214月1日の日干支は「己卯(つちのとのう、きぼう)」でした。51日は「己酉(つちのとのとり、きゆう)」です。この日にちを表す「日干支」は暦法(太陽暦とか太陰暦とか太陰太陽暦とか)に無関係です。どのような「暦」を使おうと、ある暦日の日干支が変わることなど絶対ありません。ただし「日干支」とは違い「年干支」は暦法に従属している事象です(日干支は暦法とは独立事象です)。

 十干と十二支を組み合わせて干支をつくる仕組みは、最初の日を甲・子(十干・十二支とも最初)として、次を乙・丑(十干・十二支とも二番目)として、次々とこのように組み合わせ、十干が尽きたら最初の「甲」と十二支の十一番目の「戌」を合わせて「甲・戌」とします。十二支が尽きたら最初の「子」と十干の三番目の「丙」と合わせて「丙・子」とします。このようにして六十種類の干支ができています(下表)。なお、甲子を番号00から始めているのは、01から始めるよりもPC処理に好都合だからです。また、「え・と(十二支)」の「と」だけが「〇〇△△」のように「の」が入っているのは「慣習」です。現代ではこの「慣習」が薄れつつあるようですが、古文などではこう表現されています。「覚える(暗記する)な」とは申しませんが、無理して覚えようとはしないでください。干支表は「ふむふむ、そうなっているのか」と眺めて飛ばすところです(覚えても「周期表」ほどの価値はありません)。二十二個(十干と十二支)の漢字とその音読みを知っていて見たら干支だと解るならば、それは立派な干支通です()。干支番号込みで干支表を覚える(干支表をつくれるのとは異なる)のは円周率を小数点以下100桁まで覚えるよりもはるかに難しいと思います。干支を見てその干支番号がすべて浮かべば「ひとかどの暦研究者」で、干支番号で干支名がすべて浮かぶようであれば「一流の暦学者」です。自慢じゃありませんが、私は00→甲子、59→癸亥くらいならできます()

【干支表】
00
甲子(かっし,きのえね)
01乙丑(いっちゅう,きのとのうし)
02丙寅(へいいん,ひのえとら)
03丁卯(ていぼう,ひのとのう)
04戊辰(ぼしん,つちのえたつ)
05己巳(きし,つちのとのみ)
06庚午(こうご,かのえうし)
07辛未(しんび,かのとのひつじ)
08壬申(じんしん,みずのえさる)
09癸酉(きゆう,みずのとのとり)
10(こうじゅつ,きのえいぬ)
11乙亥(いつがい,きのとのい)
12(へいし,ひのえね)
13丁丑(ていちゅう,ひのとのうし)
14戊寅(ぼいん,みずのえとら)
15己卯(きぼう,みずのとのう)
16庚辰(こうしん,かのえたつ)
17辛巳(しんし,かのとのみ)
18壬午(じんご,みずのえうま)
19癸未(きび,みずのとのひつじ)
20甲申(こうしん,きのえさる)
21乙酉(いつゆう,きのとのとり)
22丙戌(へいじゅつ,ひのえいぬ)
23丁亥(ていがい,ひのとのい)
24戊子(ぼし,つちのえね)
25己丑(きちゅう,つちのとのうし)
26庚寅(こういん,かのえとら)
27辛卯(しんぼう,かのとのう)
28壬辰(じんしん,みずのえたつ)
29癸巳(きし,みずのとのみ)
30甲午(こうご,きのえうま)
31乙未(いつび,きのとのひつじ)
32丙申(へいしん,ひのえさる)
33丁酉(ていゆう,ひのとのとり)
34戊戌(ぼじゅつ,つちのえいぬ)
35己亥(きがい,つちのとのい)
36庚子(こうし,かのえね)
37辛丑(しんちゅう,かのとのうし)
38壬寅(じんいん,みずのえとら)
39癸卯(きぼう,みずのとのう)
40甲辰(こうしん,きのえたつ)
41乙巳(いつし,きのとのみ)
42丙午(へいご,ひのえうま)
43丁未(ていび,ひのとのひつじ)
44戊申(ぼしん,つちのえさる)
45己酉(きゆう,つちのとのとり)
46庚戌(こうじゅつ,かのえいぬ)
47辛亥(しんがい,かのとのい)
48壬子(じんし,みずのえね)
49癸丑(きちゅう,みずのとのうし)
50甲寅(こういん,きのえとら)
51乙卯(いつぼう,きのとのう)
52丙辰(へいしん,ひのえたつ)
53丁巳(ていし,ひのとのみ)
54戊午(ぼご,つちのえうま)
55己未(きび,つちのえのひつじ)
56庚申(こうしん,かのえさる)
57辛酉(しんゆう,かのとのとり)
58壬戌(じんじゅつ,みずのえいぬ)
59癸亥(きがい,みずのとのい)

 

 4.日食記録と年代比定の関係

 歴史的文書(だけとは限りませんが)には、日食が記されていることがあります(実際に観測できたという記録だけではありませんが)。その日食はたいていは「年月日」(日は日干支で表記)と共に記されています(そうでないと無意味ですから)。「年月日」と言いましたが、現在のように西暦(キリスト教によるイエスの生誕年を紀元とする紀年法)が「事実上の標準(de facto standard)」ではありませんでしたから、時の支配者が定めた「年号」、あるいは「年号」もない時代には時の支配者(「王」とか「公」とか呼ばれる君主)の即位年からの序数(「○○王の何年」のような)で年を表しています。すなわち、これでは西暦何年に当たるのかが不明です。もちろん、即位年とその在位年数が明確になっている歴代王を遡っていけば西暦と対応できそうな気がしますが、それはその史料の記述を鵜呑みにしているだけで、正しいという保証はないわけです。そこで威力を発揮するのが日食記録です。日食は自然現象なので嘘・偽りを書けばバレてしまいます。それが「○○王の何年」が西暦の何年のことなのかを特定する(年代比定する)際の強力なツールとなるわけです。その「何時の日食か」を決定する際に威力を発揮するのが「日干支」です。その当時に用いられた暦によって月名は変わります(ある暦の「正月」が別の暦では「三月」だったりします)が、日食の日に付けられていた「日干支」は暦によらず不変ですから、「○○王の何年何月甲子」とあれば、日食が起きた日の西暦(の年月日・日干支)と日食記録の日干支(甲子)によって該当する日食が特定できるわけです(西暦であろうと何暦であろうと日干支は不変ですから)。

 

5.ユリウス通日(JD)と日干支の関係

 西暦の年月日から何故日干支がわかるのでしょうか。それはユリウス通日(以下「JD」と略します)の元期(上元)-4,712(紀元前4,713)1112時(正午)であり、この日の日干支が癸丑(干支番号49)であるから、ここから何日経ているか(これがJD)で日干支がわかるからです。例えば、西暦2021/2/15(GMT0時=UT)のJDは2,459,260.5です。すなわち、12時にはJDは2,459,261.0になります(その日のうちに迎える整数のJDがJDNで、経過満日数である)。

JD元期の日干支番号49+経過満日数2,459,2612,459,31040,988×6030
これを干支数60で割ると余りが30です。干支番号「30」の日干支名は「甲午」です(「干支表」が必要になるのはこのときだけです())。

 

6.日食が起きた日の日干支を探せる理由

 ある日食が起きた暦日の西暦がわかっている(すなわち、JDも日干支もわかっている)とき、日食の起きる日は「朔(新月)」(1.日食(日蝕とも)とはどんな現象か、を参照のこと)ですから、次の日食も、その前の日食も「朔(新月)」に起きていますので、「月の満ち欠け」の周期(およそ29.5日、この日数を「朔望月」と呼びます)を足すと次の「朔」の日となり、朔望月を引くと前の「朔」の日となります(もちろん、JDも日干支もわかります)。つまり、日食記録の日干支が記されていれば、日食が起きたであろう西暦の暦日の日干支と照合すれば、日食記録が事実にもとづいているならば、およその見当がついてしまうのです。これを、「『史記』に記された暦」シリーズでやっている、ということなのです。

 ちなみに、これまでは、朔望月29.53058886日(J2000.0データ)を用いたのでユリウス元期(JDの上元)の月齢20.914830285と設定していました。この設定だと、西暦-133年8月19日13:31(JD:1,672,709.7606)の月齢が0.000000000になります。この暦日が『漢書』の記録「元光元年秋七月癸未,日有蝕之。」で、これが1973年に臨沂銀雀山2号墓から出土した竹簡にある暦が元光元年のものであることを決定づけた日蝕です。

 平易な解説ができたかどうか、予告通りで全く自信がありません()

2021年2月 7日 (日)

「復元」と「復原」の違い―微妙だが明らかに違う―

「復元」と「復原」の違い
微妙だが明らかに違う[sanmao知恵袋]

 皆さんは「ふくげん」と聞いて、どちらを思い浮かべますか?多くの方は「復元」の方ではないかと思います。では、考古学の分野ではどう使い分けているのでしょうか。下記は、独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所のブログサイト「奈文研ブログ」「(156)復原と復元の違い(201715 09:00) からの引用です(イラストと間隔をあけるための改行は省略)。
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改造前に戻すか 新築か

 「ふくげん」された平城宮(奈良市)の大極殿。今回は、この「ふくげん」という言葉について考えたいと思います。

 この言葉の誕生は近代で、比較的若い言葉です。でも、ひとことに「ふくげん」といっても意味の範囲は広く、漢字も「復元」と「復原」の二つがあります。辞書では、どちらも「もとの姿に戻すこと」(日本国語大辞典)とありますが、どう違うのでしょうか。

 文化財の世界では、「復元」は遺跡で発掘される建物の痕跡(遺構)から、上部構造を考えることを意味します。各地の遺跡で竪穴建物や古代建築が建てられ、近世城郭の天守や御殿なども「復元」されています。いわば、新築の建物に「ふくげん」するのです。

 これに対して「復原」は、文化財建造物の修理の際に用いる言葉です。多くの場合、建物は長い年月の間に増改築や改造が行われています。「復原」は建物の改造の痕跡をもとに、改造前の姿に戻すことを意味します。例えば、屋根が瓦葺(ぶ)きから後世に銅板葺きに変わっていたものを、元の姿に「ふくげん」するといった具合です。

 同じ読みでも、古建築の修理現場では両者を細かく使い分けているのです。

(奈良文化財研究所研究員 海野聡)◇イラスト・岡本友紀

(読売新聞2016年10月30日掲載)

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 「奈文研」のブログでは建物に限って解説されていますが、建物に限らず見つかったものが、元々の状態とはかけ離れた状態(壊れている、一部分しかない等)の場合に「元あった状態」(つまり、元の「完全と思われる状態」)を見せるようにすることが「復元」です。例を挙げれば、壊れた欠片から埴輪や土器を粘土で補って完形にして見せるのが「復元」です。

 「復原」は「変遷」が想定される(「時間」という概念に関わる)場合に、それぞれの時点で「復元」をする必要があるので、「復元」するスキルも必要ですが、なにより手間がかかります。例えば、複数の時代にまたがる遺跡の場合がこれに該当します。建物の礎石や柱穴しかない場合でも、各時代における建物の位置関係を明らかにした上で、各時代における建物等が当時どのようであったか「復原」するわけです。すなわち、「復元」と違って「復原」は「時間」と言う要素が関わっているのです。この「時間軸」の有・無が「復原」と「復元」の違いなのです。

 科学の分野の「学術用語」に「復原性」とか「復原力」とかがありますが、これも「時間軸」がある言葉だから「復原」と言っているのです。バネが元(の位置)に戻る「復原性」(時間が経つともとに戻る性質)とか「復原力」(「力」F=m*α(αは「加速度」=「速度(距離/時間)の微分」))には「時間」という要素が含まれているからです。この「時間軸」を考慮していない説明は、ただ「『復元』と『復原』はそういうものだと覚えろ」とか「『復元』だけつかえばよい」とか丸暗記(受験生にはこれでよいが)を強要しているだけの説明です。

2021年1月14日 (木)

地球の自転の遅れについて―「うるう秒」が必要な理由―

地球の自転の遅れについて
「うるう秒」が必要な理由[][sanmao知恵袋]

 帝堯の業績は「一年は3651/3日」という「太陽暦」(三分暦)を定めたことだという主旨の 帝堯の“三分暦”―昔の人だって理性はあった― を当ブログに掲載したところ、「昔は一年が366日だった可能性はありませんか?」というご質問をいただきました。これはもっともな疑問です。このことを説明していなかったのは私の落ち度でした。

 地球の自転は潮汐作用などで遅くなる(つまり、昔は速かった)というのは事実です。また、遅くなる速度が一定かと言えば、そうでもありません。氷河期などで水が凍ってしまえば、回転は速くなります。そこでその道の権威がどう説明しているかをネット検索してみると、次のようにありました(NAOJ国立天文台のサイトからの転載です。改行は省略。下線は山田による)。

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質問4-4)1日の長さは変化しているの?

地球の自転速度は、長期的には、主に「潮汐摩擦」(潮の満ち引きによって起こる海水と海底との摩擦)によってだんだん遅くなっています。 しかし、数年から20年ぐらいの期間で考えると、地球内部にある「核」の運動の変化や、地球規模での水(海水、陸水、氷河)の分布変化などが原因となって変動し、自転速度は、必ずしも一定の割合で遅くなっているわけではありません。

それでは地球の自転はどのぐらいの割合で遅くなっているのでしょう。

19世紀の約100年間の地球の自転による1日の長さの平均が24時間に等しくなるように定められましたが、1990年頃には、地球は24時間より約2ミリ秒(1ミリ秒は1秒の1000分の1)長くかかって1回転しています。1回転にかかる時間が100年間で2ミリ秒長くなっていることになりますので、もしもこの割合がこれからもずっと続くと考えると、5万年で1秒、1億8千万年で1時間長くなることになります。このことはつまり、1億8千万年後には、1日の長さが25時間になってしまうということを意味しています。

しかし、この割合でずっと地球の自転が遅くなり続けるのかどうかはわかりません。現に、2003年現在、地球の自転を測すると、地球は24時間より約1ミリ秒長くかかって1回転しています。1990年のころと比べると、地球の自転速度は、むしろやや速くなっているのです。

以上のように、地球の自転から決まる1日の長さが正確に24時間ではないため、そのずれが累積したときには調整をする必要があります。この調整のことを「うるう秒」といいます。うるう秒について、詳しくは「『うるう秒』ってなに?」をご覧ください。

(注:厳密には、遠くの星に対する地球の自転を考えた場合、地球は約23時間56分で1回転します。しかし、この項目では、太陽に対する平均的な自転周期である「1日」の長さが重要となりますので、「地球は1日(あるいは、24時間)で1回転する」という言い方をしています。)

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 西暦200011日正午世界時における観測データの一年の長さ(太陽年・回帰年)365.24219040日366日との差は0.7578096日です。時間に直すと18.1874304時間(=0.7578096日×24時間/日)です。1億8千万年で1時間長くなるのですから、西暦2000年から遡ること約327374万年(3,273,737,472年=180,000,000/時間×18.1874304時間)前ならば、一日の長さは366日だったことになります。

 「ヒト属(ホモ属)はおよそ200万年前にアフリカでアウストラロピテクス属から別属として分化しヒトの属するホモ・サピエンスは40万から25万年前に現れた。」(Wikipedia「人類の進化」より抜粋)とされているようですから、帝堯が人類であれば、間違いなく一日の長さは365+α日(但しα<1)であったはずです。

 念のために申し添えれば、地球の公転が現在より遅かった(だから366日以上かかった)という可能性は、太陽系以外からの加速度が無ければ現在の(過去より速くなった)公転速度になり得ないので、これも考えられないでしょう。

 なお、「帝堯の時代は一年が366日以上あると錯覚していたのではないか?」との疑問を抱かれる方がいるかも知れませんので付言しますと、縄文時代には既に冬至や夏至を把握していたので、冬至から次の冬至までの日数(回帰年)を間違えたと考えるのは困難です。昔の人を馬鹿者扱いしてはなりません。

2021年1月 2日 (土)

似ているようで似ていない―うらめしや~―

似ているようで似ていない
うらめしや~[sanmao知恵袋] 

 「うらむ」という日本語(やまと言葉)も、その心の在り様(ありよう)を詳しく表そうとすれば「漢字」を用いざるを得ません。以下、漢字辞典は『新華字典【改訂版】』(北京・商務印書館編集、東方書店、2000225日、ISBN 4-497-20001-9 3587)によります(簡体字は国字に変換しています)。
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yuan4 ❶仇恨((連)―恨).❷不満意,責備:毫无~言.任労任~.[辶文]事不能~他.[怨不得]。P.604

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hen4 ❶怨・仇視((連) 怨―):~入骨髄.❷懊悔.令人懊悔或怨恨的事.遣~.(P.186)

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yun4 怒,怨恨:面有~色.(P.608)

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han4 悔恨,心中感到有所缺欠:~事.遺~.(P.179)

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 上記漢字辞典の説明を意訳してみます。
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怨 ❶仇として恨み骨髄に思う。❷不満があり非難する気持ち。

恨 ❶怨〔と同じ〕仇と見る気持ち。❷人を後悔や怨恨を抱かせること。うらむ気持ちが残る。

愠 怒り、怨恨。

憾 後悔して心に欠けているものを感じる。残念な気持ち。

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 当該漢字辞典によれば、「」は「うらみ」という気持ちを「持っている」ことを表しています。ところが「」は少しニュアンスが異なっていて、「怨」の気持ちを「持ち続けている」ことを表しています。つまり「怨霊」というのは「怨を持っている霊」という意味で、「怨恨」というのは「持ち続けている怨」という意味です。だから、かの半島の某国人の「うらみ」は、持ち続けているので「恨」と表されているのです。

 

 また、デジタル大辞泉では「うら・む」を次のように説明していました。
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うら・む【恨む/▽怨む/▽憾む】

[動マ五(四)]

1 ひどい仕打ちをした相手を憎く思う気持ちをもちつづける。「冷たい態度を―・む」

2 自分の思うようにならない状況に不満や悲しみを持ちつづける。「世の中を―・む」

3 (憾む)望みどおりにならず、残念に思う。「機会を逸したことが―・まれる」

[動マ上二]

1 1に同じ。

「世の中はいかに苦しと思ふらむここらの人に―・みらるれば」〈古今・雑体〉

2 ぐちを言う。

「花散らす風の宿りは誰か知る我に教へよ行きて―・みむ」〈古今・春下〉

3 無念を晴らす。仕返しをする。

「入道相国朝家を―・み奉るべき事必定と聞こえしかば」〈平家・三〉

[補説] 中世までは上二段活用、近世になって四段活用に転じた。

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 なお、漢字ペディアによれば、「うらみ」の強さは次のように順序付けられていました(下線は山田)。
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怨む かたきとしてうらめしく思う。うらみがもっとも強い。「恩」の対。「子どものとき受けた仕打ちを怨む」「怨み骨髄に徹す」「恩も怨みも無い」

慍む 胸に怒りをもってうらめしく思う。

恨む 根深くいつまでも残念に思う。「怨む」の書きかえともするなど、広く用いる。「上司を恨む」「人の恨みを買う」「恨みつらみ」「恨みを晴らす」

憾む 思いどおりにならなくて残念に思う「恨む」よりうらみが弱い。「遺憾(イカン)」「無知を憾む」「デザイン面に憾みが残る」「憾むらくは一言多いことだ」

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 よく政治家が「遺憾(イカン)だ。」と言っていますが、これには「いかん(だめだ・けしからん)」という意味は全くなく、受け取る側には「残念だ」という意味しかありません。「竹島を不法占拠しているのは『遺憾』だ」とか、「尖閣諸島の領海域に不法侵入しているのは『遺憾』だ」、というのは「竹島を不法占拠しているのは『残念』だ」とか、「尖閣諸島の領海域に不法侵入しているのは『残念』だ」と言っているに過ぎないのです。これを「遺憾砲」とか言って揶揄していますが、その正体は「『残念』砲」なので「~砲」という揶揄には値しません(自身の心中のつぶやき『残念』では、相手を撃ってもいませんから)。 

 余談ですが、「うらむ」に近い音感の言葉に「うらやむ」があります。「うらやむ」のは心の病気だそうで、常にわが国を羨んでいるかの半島の某国人は「心が病んでいる」ということです。
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うら‐や・む【羨む】

[動マ五(四)]《「心(うら)病(や)む」の意》

1 他の人が恵まれていたり、自分よりもすぐれていたりするのを見て、自分もそうありたいと思う。「人も―・む仲」

2 他人のすぐれた才能や恵まれた状態を不満に思う。「同輩の出世を―・む」

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 「羨(うらや)ましい」(心の病)がやがて「恨(うら)めしい」(気持ちを抱き続けること)になるのでしょう。きっとわが国に対しては「恨めしい」をたくさん持っているのでしょうね(同情しませんが憐れです)。

2020年12月25日 (金)

長嶋式コーチング―「解る人には解る」ってさ―

長嶋式コーチング
「解る人には解る」ってさ[sanmao知恵袋]

 今や、現役で活躍した頃の長嶋茂雄さんを球場やTVなどで直接にあるいは間接的に見聞きした人は少なくなったけれど、伝説の人なので知っている人も多いでしょう。

 今回は、その長嶋茂雄さんによる指導法「長嶋式コーチング」について考えてみました。 

 「長嶋さんの打撃指導は擬音のオンパレードですが、それは感覚を言葉に置き換えた結果での事ですが、これはかえって科学的という考えがあります。」という意見がありました(下線強調は山田による)。

 この下線を引いた部分「これ感覚を言葉に置き換えたことはかえって科学的」という言葉は、つぎのような例で言えば「打者の感覚の引き出し方のコツ」を伝えるには、このような「擬音」による指導法の方がより適切だという意味のようです。これで「解る人」には「解る」そうです。

 ギューーっとタメてバッっと行け

  私が思うに、これで「解る人」には指導する必要がありません。「解る人」は、この感覚が既に身についているから「解る」のですから。

 「解る」とは、「なるほど、そうだ。」(自身の内にあるもの(意識していないかも知れないが)と同じだ、一致している)という認識だ、と思うからです。

 「指導」というのは「身についてない知らない」ことを「身につけさせる知らしめる行為」だと思います。だから、「ギューーっとタメてバッっと行け」が「解る人」は「長嶋式コーチング」に頷くことができる(解る)でしょう(「天才」は「天才」を知る かな?)。しかし、「解らない人」には無意味「解らない」です。

 古代史の学問の世界にも「長嶋式コーチング」流儀の方がいるようです。

実証を積み上げて論証に至る」(はぁ?⤴
(ブログ記事 「実証」で「仮説」を証明できるか?「学問は実証より論証を重んじる」の息抜き― をご覧ください。) 

 これも「解る人」には「解る」のでしょう(だが、「解らない人自身の内にそのようなものが無い人」には「解らない理解不能です)。

結論

「解る人には解る」というのは「解らない人には解らない」と同値です。「指導」というのは「解らない人」を「解る」ようにすることです。

2020年12月11日 (金)

楊震四知―半可通は恥ずかしい―

楊震四知(ようしんしち)
半可通は恥ずかしい[sanmao知恵袋][読書]

 「四知」と称されている楊震〔注1〕という人の言葉があります。次のように書かれていることがあります。

天知る、地知る、我知る、子(君・汝の意)知る(『後漢書』楊震伝)

 

 問題は「(『後漢書』楊震伝)」とあることです。『後漢書』の原文は次の様でした(下線は山田)。
…………………………………………………………………………………………………………………………

大將軍鄧騭聞其賢而辟之,舉茂才,四遷荊州刺史、東萊太守。當之郡,道經昌邑,故所舉荊州茂才王密為昌邑令,謁見,至夜懷金十斤以遺震。震曰:「故人知君,君不知故人,何也?」密曰:「暮夜無知者。」震曰:「天知,神知,我知,子知。何謂無知!」密愧而出。

〖私意訳〗
鄧騭大将軍〔注2〕は、その(楊震の)賢を聞き、辟(め)して、(彼の)茂才〔注3〕を推挙して、(楊震は)四度官職を移り荊州刺史と東萊太守(東萊郡は現在の山東省東部の煙台市〔注4〕一帯)になった。その東萊郡の道中の昌邑(現 山東省濰坊市〔注5〕辺り)を経るとき、楊震が荊州の茂才として推挙し昌邑県令となっていた王密(人名)が、謁見し、夜になって懷の金十斤を楊震に贈ろうとした。楊震は「私は君(の人となり)を知っているが、君が私(の人となり)を知らないとは何(どうして)だ」と言って断った。王密は楊震に「日も暮れて夜なので(このことを)知る者などいません」と言った。楊震は言った「天が知っている。神が知っている。私も知っている。君も知っている。(なのに)どうして、知る者はいない(など)と言えるのだ。」と。王密は愧()じて退出した。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 「神知(神が知っている)」とあります。『後漢書』楊震伝では「地」ではないのです。

 

 では、誰かがどこかで間違えたのでしょうか。いえ、司馬光『資治通鑑』〔注6〕巻四十九に次のようにありました。
…………………………………………………………………………………………………………………………

孝殤皇帝永初四年庚戌,公元一一零年

春,正月,元會,徹樂,不陳充庭車。

鄧騭在位,頗能推進賢士,薦何熙、李郃等列于朝廷,又辟弘農楊震、巴郡陳禪等置之幕府,天下稱之。震孤貧好學,明歐陽《尚書》,通達博覽,諸儒為之語曰:「關西孔子楊伯起。」教授二十餘年,不答州郡禮命,眾人謂之晚暮,而震志愈篤。騭聞而辟之,時震年已五十餘,累遷荊州刺史、東萊太守。當之郡,道經昌邑,故所舉荊州茂才王密為昌邑令,夜懷金十斤以遺震。震曰:「故人知君,君不知故人,何也?」密曰:「暮夜無知者。」震曰:「天知,地知,我知,子知,何謂無知者!」密愧而出。

…………………………………………………………………………………………………………………………

 つまり、楊震「四知」を「天知,地知,我知,子知」とするのならば、出典は「(『資治通鑑』巻四十九)」とすべきだったのです。

 なぜ、こんなことを調べたかと言えば、宮城谷昌光『三國志読本』(文藝春秋、文春文庫、20170510日、ISBN 978-4-16-790856-0)に、そのように書いてあったからです(種明かし)。原文に当たって確認できました(宮城谷昌光氏、恐るべし)。
 書き忘れました。「そのように書いてあった」ではわかりませんね。45ページに次のように書いてありました。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
〔前略〕
 ひとこと断っておくと、「天知る、地知る」は『後漢書』ではなく、これは『資治通鑑(しじつがん)』のほうの表現でして、『後漢書』は「天知る、神知る」となっています。ただ、私はやはり「天知る、地知る」のほうが好きなんですね。
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注1 楊震 …… 『後漢書』卷五十四「楊震列傳第四十四子秉 孫賜 曾孫彪 玄孫脩」には楊震について次のようにある。

楊震字伯起,弘農華陰人也。八世祖喜,高祖時有功,封赤泉侯。高祖敞,昭帝時為丞相,封安平侯。父寶,習歐陽尚書。哀、平之世,隱居教授。居攝二年,與兩龔、蔣詡俱徵,遂遁逃,不知所處。光武高其節。建武中,公車特徵,老病不到,卒於家。震少好學,受歐陽尚書於太常桓郁,明經博覽,無不窮究。諸儒為之語曰:「關西孔子楊伯起。」常客居於湖,不荅州郡禮命數十年,眾人謂之晚暮,而震志愈篤。後有冠雀銜三鱣魚,飛集講堂前,都講取魚進曰:「蛇鱣者,卿大夫服之象也。數三者,法三台也。先生自此升矣。」年五十,乃始仕州郡。

楊 震(よう しん、54年 - 124年)は、後漢前期の政治家。字は伯起。楊牧・楊里・楊秉・楊譲・楊奉らの父。楊賜・楊敷(楊奉の子)の祖父。楊琦・楊彪・楊衆(楊敷の子)の曾祖父。楊亮・楊修の高祖父。弘農郡華陰県(現在の陝西省華陰市)の出身。『後漢書』に伝がある。城西の夕陽亭に至り、酖を飲んで卒した。(大漢和辞典より)Wikipedia「楊震」より抜粋)

注2 鄧騭大将軍 …… 鄧騭は和帝の皇后だった鄧綏の兄(つまり「外戚」)。皇后鄧綏は、和帝の最初の皇后である陰皇后(曾祖父は陰麗華の兄陰識)が廃された後になった和帝の2番目の皇后。

元興元年(105年)、和帝は死去した。鄧綏は皇太后として臨朝し、劉隆を皇帝に擁立した(殤帝)。その兄の車騎将軍鄧騭と共に朝政を運営していた。しかし延平元年(106年)、殤帝は2歳で死去し、13歳の劉祜が擁立された(安帝)。鄧氏の臨朝は継続し、鄧騭が朝政を運営した。Wikipedia「鄧綏」より抜粋)

注3 茂才 …… 後漢の光武帝(劉秀)の諱が「秀」なので、当時は「秀」という諱を避けて(「避諱(ひき)」という)、「秀才」のことを「茂才」と言った。

注4 山東省東部の煙台市 …… 次の地図をご覧ください(Wikipediaより転載)。
Photo_20201211165201

注5 山東省濰坊市 …… 次の地図をご覧ください(Wikipediaより転載)。
Photo_20201211165202

注6 『資治通鑑』 …… 
『資治通鑑』(しじつがん、繁体字: 資治通鑒; 簡体字: 资治通鉴; 拼音: Zīzhì Tōngjiàn; ウェード式: Tzu-chih T'ung-chien)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂して1084年(元豊7年)に完成した、編年体の歴史書[1]。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。

収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。

この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光当時の史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。Wikipedia「資治通鑑」より抜粋)

2020年9月16日 (水)

sanmao知恵袋 暦(4)―「十干」と「十二支」―

sanmao知恵袋 暦(4)
「十干」と「十二支」[sanmao知恵袋][]

 今回は、「日干支とはどういうものか」〔注1〕というブログ記事が閲覧回数が多い理由に基づいて、「十干(じっかん)〔注2〕「十二支(じゅうにし)〔注3〕について説明します。

 「十干」は、一月(ひとつき)を上旬・中旬・下旬に分けたとき、各「旬」(10日間)の第一日目から順に甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸と呼んだようです。後の時代の「陰陽五行説」〔注4〕によって、「旬」(10日)を5分した二日の組を木(き)・火(ひ)・土(つち)・金(かね)・水(みず)としました。

 わが国では、組になった二日を更に兄()と弟()に分け、甲(木兄=きのえ)・乙(木弟=きのと)・丙(火兄=ひのえ)・丁(火弟=ひのと)・戊(土兄=つちのえ)・己(土弟=つちのと)・庚(金兄=かのえ)・辛(金弟=かのと)・壬(水兄=みずのえ)・癸(水弟=みずのと)ように訓読したようです。

 「十二支」は一月(ひとつき)の呼び名だったようで、第一月目から子月・丑月・寅月・卯月・辰月・巳月・午月・未月・申月・酉月・戌月・亥月でした。ただ、付番されていませんので、正月をどの月にするかを人為的に決められます。つまりに暦(こよみ)を公布する政権によって「正始月」〔注5〕が異なり得るのです。

 「十干」と「十二支」を説明して「(六十)干支」 〔注6〕を説明しないわけにはいきません。

 「(六十)干支」とは、「十干」と「十二支」を組み合わせたものです。次のように順に組み合わせます。

「十干」+「十二支」=「干支」
00 「甲」+「子」=「甲子(かっし)」
01 「乙」+「丑」=「乙丑(いっちゅう)」
02 「丙」+「寅」=「丙寅(へいいん)」
03 「丁」+「卯」=「丁卯(ていぼう)」
04 「戊」+「辰」=「戊辰(ぼしん)」
05 「己」+「巳」=「己巳(きし)」
06 「庚」+「午」=「庚午(こうご)」
07 「辛」+「未」=「辛未(しんび)」
08 「壬」+「申」=「壬申(じんしん)」
09 「癸」+「酉」=「癸酉(きゆう)」
10+「戌」=「甲戌(こうじゅつ)」
11 「乙」+「亥」=「乙亥(いつがい)」
12 「丙」+=「丙子(へいし)」
13 「丁」+「丑」=「丁丑(ていちゅう)」
・・・・・・〔以下、省略〕・・・・・

 頭(「十干」は「甲」、「十二支」は「子」)から順に組み合わせていくのですが、「十干」の方が「十二支」より数が少ないので「酉(ゆう)」で尽きてしまい(09)、「十二支」の11番目の「戌」に組み合わせるものがありません。そこで「十干」の頭「甲」から再度組み合わせていきます(上記10)。そうすると今度は「十二支」が尽きてしまうので頭の「子」から再度組み合わせていきます(上記12)。このようにすると、六十組できたところで次が再び「甲子」となって、組み合わせの種類はそれ以上できません。この組み合わせ原理を知っていれば、ある干支の次の干支は何かがわかります。たぶん、この辺りは皆さんご存知でしょう。

 では、「日干支とはどういうものか」の閲覧回数が多い理由ですが、私は「干支」の訓読が難しい(音読は容易)のではないかと推測しています(自分自身の経験に基づきます())。

 そこで、とっておきの憶え方をご披露します。次の事を実行してください。「十二支」は誰もが知っているという前提です。

(1)「こうおつへいていぼきこうしんじんき」を空んじます(呪文の暗記ものです)。

(2)憶えた(1)を「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」と書けるようにします(漢字の順番の暗記ものです)。
  〔並び順に間違いがなければ、漢字が多少間違っていても識別できれば、問題ありません。〕

 ここまでは基本中の基本で、これができない方はここで諦めてください(薄情者です)。

(3)「きひつかみ」を空んじます(極めて簡単な暗記ものです)。

(4)「十干」を「甲乙)・丙丁)・戊己)・庚辛)・壬癸)」と五分します(単なる作業です)。

 以上によって、貴方は「干支」を訓読できるようになりました。

【老婆心((2)を度忘れしたら)】
 「甲乙・丙丁」は誰でも知っているはずですから、「き・ひ」で分かりますよね。忘れても「子(のえね)」という醤油から「甲乙」は「き」だと思い出せます。「丙丁」を忘れても「午(のえうま)」という迷信から「ひ」だと思い出せます。この辺は皆さん大丈夫でしょう。「戊己」これはちょっと歴史を知ってないと難しい。「辰戦争」はご存知ですよね。敗れた会津藩は陸奥国(現 青森県むつ市)に斗南藩を立てました。正確には「下北で津軽ではありません」の連想で「」(土「つち」)だと思い出せます(斗南藩の位置はブログ記事図書紹介『明治維新という過ち』にあります)。「庚辛」は簡単です。「辛(らい)」から「か」です。「庚(う)」が何か忘れたら「こ」は「か行」だから「か」で。「壬癸」は「生(ぶ)」で「み」(水「みず」)です。これは忘れた時のヒントであり、「き(甲乙)ひ(丙丁)つ(戊己)か(庚辛)み(壬癸)」と暗記できていれば必要ないことです。(1)(2)(3)ができれば「十干」の訓読など恐れることはありません。とはいえ、時々訓読に苦労することがある、と白状しておきます(笑)。なお、古くからの訓読では「え(兄)」はそのまま「十二支」に繋ぎ、「と(弟)」は「の」を入れて「十二支」に繋ぎます(例:乙丑(きのとうし))。現在ではそういう訓読の仕方が次第になくなりつつあるようです(例:乙丑(きのとうし))。

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注1 「日干支とはどういうものか」 …… 次のブログ記事です。
日干支とはどういうものか(1)
日干支とはどういうものか(2)

注2 「十干」 …… コンピュータ処理するには00から付番するほうが便利です(以下同様)。
00 甲 こう、きのえ
01 乙 いつ(おつ)、きのと
02 丙 へい、ひのえ
03 丁 てい、ひのと
04 戊 ぼ、つちのえ
05 己 き、つちのと
06 庚 こう、かのえ
07 辛 しん、かのと
08 壬 じん、みずのえ
09 癸 き、みずのと

注3 「十二支」 …… ご存知のことですが・・・
00 子 し、ね
01 丑 ちゅう、うし
02 寅 いん、とら
03 卯 ぼう、う
04 辰 しん、たつ
05 巳 し、み
06 午 ご、うま
07 未 び、ひつじ
08 申 しん、さる
09 酉 ゆう、とり
10 戌 じゅつ、いぬ
11 亥 がい、い

注4 「陰陽五行説」 …… 
陰陽五行思想・説(おんようごぎょうしそう・せつ)とは、中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽説と五行説、それぞれ無関係に生まれた考え方が後に結合した。陰陽五行説(おんようごぎょうせつ)、陰陽五行論(おんようごぎょうろん)ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされるようになった。 陰陽道などにおいては、占術などに用いられる事もあった。
〔中略〕
「陰陽五行説」とは前述の通り「陰陽説」と「五行説」を組み合わせたものである。『管子』の四時篇の陰陽主運説から発展している。五行と陰陽の結合の発想は易の説卦傳に基づいている。説卦傳における「地」を四方の中央とし、これに陰陽と星辰を加えている[1]。

陰陽説」は古代中国神話に登場する帝王「伏羲」が作り出したものであり、全ての事象は、それだけが単独で存在するのではなく、「陰」と「陽」という相反する形(例えば明暗、天地、男女、善悪、吉凶など。前者が陽、後者が陰である)で存在し、それぞれが消長をくりかえすという思想である。陰陽は形に示すことができないもので、分析すれば千変万化となる[2]。

陰陽は、(+)と(-)のように相対する両極のどちらに属性が高いかによって二分類する考え方である。固定的なものではなく、振り子が一方に振り切れると反対方向に戻るように、そのバランスは常に変化し増減している。

五行説は、治水に功績をあげて舜から禅譲された禹が、治政にあたって天帝から与えられた九種類の大原則(洪範九疇)の第一として、五行(火水木金土)が明記されている。「五」の起源については東西南北の四方に中央を加えたものという考え方(東‐木・南‐火・中央‐土・西‐金・北‐水)と、肉眼で観察が可能な五つの惑星、五星(水星・金星・火星・木星・土星)に淵源があるとする考え方がある。
〔中略〕
五行相生
「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ず」という関係を『五行相生』という。

木は燃えて火になり、火が燃えたあとには灰(=土)が生じ、土が集まって山となった場所からは鉱物(金)が産出し、金は腐食して水に帰り、水は木を生長させる、という具合に木→火→土→金→水→木の順に相手を強める影響をもたらすということが「五行相生」である。
五行相剋
「水は火に勝(剋)ち、火は金に勝ち、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝つ」という関係を『五行相剋』という。

水は火を消し、火は金を溶かし、金でできた刃物は木を切り倒し、木は土を押しのけて生長し、土は水の流れをせき止める、という具合に、水は火に、火は金に、金は木に、木は土に、土は水に影響を与え、弱めるということが「五行相剋」である。
Wikipedia「陰陽五行思想」より抜粋)

注5 「正始月」 …… 「年の始めの月」いわゆる「正月」のことです。十二支のどの月を年の始めとするか決めることを「正始(月)」を定めると言います。
 いわゆる「旧暦」は、漢の時代に「寅月」を「正始」(正月)と定めたのが引き継がれて今日にいたっています。「寅月」を正始とするのを「夏正」、「丑月」を正始とするのを「殷正」、「子月」を正始とするのを「周正」といい、総称して「三正」と呼んでいます。それぞれは周・殷・夏の国名からきていますが、それらの国の暦がそうであったかは不明です(そう思われていた、ということでしょう)。

00 周正 子月正始
01 殷正 丑月正始(魏晉朝「景初暦」)
02 夏正 寅月正始(前漢「太初暦」より)

注6 「(六十)干支」 ……「十干」と「十二支」の組み合わせが六十種類であることから「六十干支」と言い、また単に「干支」とも言います。
00 甲子 かっし、きのえね
01 乙丑 いっちゅう、きのとのうし
02 丙寅 へいいん、ひのえとら
03 丁卯 ていぼう、ひのとのう
04 戊辰 ぼしん、つちのえたつ
05 己巳 きし、つちのとのみ
06 庚午 こうご、かのえうし
07 辛未 しんび、かのとのひつじ
08 壬申 じんしん、みずのえさる
09 癸酉 きゆう、みずのとのとり
10 甲戌 こうじゅつ、きのえいぬ
11 乙亥 いつがい、きのとのい
12 丙子 へいし、ひのえね
13 丁丑 ていちゅう、ひのとのうし
14 戊寅 ぼいん、つちのえとら
15 己卯 きぼう、つちのとのう
16 庚辰 こうしん、かのえたつ
17 辛巳 しんし、かのとのみ
18 壬午 じんご、みずのえうま
19 癸未 きび、みずのとのひつじ
20 甲申 こうしん、きのえさる
21 乙酉 いつゆう、きのとのとり
22 丙戌 へいじゅつ、ひのえいぬ
23 丁亥 ていがい、ひのとのい
24 戊子 ぼし、つちのえね
25 己丑 きちゅう、つちのとのうし
26 庚寅 こういん、かのえとら
27 辛卯 しんぼう、かのとのう
28 壬辰 じんしん、みずのえたつ
29 癸巳 きし、みずのとのみ
30 甲午 こうご、きのえうま
31 乙未 いつび、きのとのひつじ
32 丙申 へいしん、ひのえさる
33 丁酉 ていゆう、ひのとのとり
34 戊戌 ぼじゅつ、つちのえいぬ
35 己亥 きがい、つちのとのい
36 庚子 こうし、かのえね
37 辛丑 しんちゅう、かのとのうし
38 壬寅 じんいん、みずのえとら
39 癸卯 きぼう、みずのとのう
40 甲辰 こうしん、きのえたつ
41 乙巳 いつし、きのとのみ
42 丙午 へいご、ひのえうま
43 丁未 ていび、ひのとのひつじ
44 戊申 ぼしん、つちのえさる
45 己酉 きゆう、つちのとのとり
46 庚戌 こうじゅつ、かのえいぬ
47 辛亥 しんがい、かのとのい
48 壬子 じんし、みずのえね
49 癸丑 きちゅう、みずのとのう
50 甲寅 こういん、きのえとら
51 乙卯 いつぼう、きのとのう
52 丙辰 へいしん、ひのえたつ
53 丁巳 ていし、ひのとのみ
54 戊午 ぼご、つちのえうま
55 己未 きび、つちのとのひつじ
56 庚申 こうしん、かのえさる
57 辛酉 しんゆう、かのとのとり
58 壬戌 じんじゅつ、みずのえいぬ
59 癸亥 きがい、みずのとのい

2020年9月15日 (火)

sanmao知恵袋 暦(3)―「太陰太陽暦」は最新暦法―

sanmao知恵袋 暦(3)
「太陰太陽暦」は最新暦法sanmao知恵袋][暦]

 sanmao知恵袋 暦(1)と暦(2)〔注1〕で「太陽年」と「朔望月」を説明しました。今回は、「太陽暦」と「太陰暦」そしてその二者を統合した最新の暦法である「太陰太陽暦」を説明します。

 「太陽暦」とは、「太陽年」の情報だけを扱う暦法(またはその暦法で造られた暦(こよみ))をいいます。現在日常生活で使われている「グレゴリオ暦」、そして天文学で用いられている「ユリウス暦」がこれです。

 「太陰暦」は、朔望月(月の満ち欠けが)一巡りする日数)の情報だけを扱う暦法(またはその暦法で造られた暦(こよみ))をいいます。イスラム暦〔注2〕がこれです

 「太陰太陽暦」は、太陽年の情報と朔望月の情報、この両方の情報を統合して取り扱う最新の暦法〔注3〕(またはその暦法で造られた暦(こよみ))をいいます。中国暦〔注4〕がこれです。 

 「太陽年」・「朔望月」、この片方の情報しか扱わない「太陽暦」・「太陰暦」の造暦計算(暦(こよみ)をつくるための計算)はシンプルです。「太陽年」・「朔望月」、この両方の情報を統合して扱う「太陰太陽暦」の造暦計算は複雑です。しかし、情報は満載です。

 「太陽年」・「朔望月」のメリットは次のようです。 

「太陽暦」:農耕・採取・狩猟などに必要な情報である季節が「暦月」〔注5〕で判断できる。

「太陰暦」:生物の営みが左右される月の影響が「日付」で判断できる〔注6〕

  「太陰太陽暦」は、「暦月」の「ひと月」が「朔望月」ですから、「太陰暦」のメリットはそのまま含んでいます。問題は、「ひと月」が「朔望月」であるためにずれていく季節を「閏月」を置いて調整しているので、「暦月」では正確な季節がわからない、という点にあります。「暦月」で季節を判断しなくてはならない理由は一つもないわけで、「太陰太陽暦」の暦(こよみ)には次のような季節を知ることができる情報が用意されています。

(1)「二十四節気」とその「雑節」〔注7〕
(2)「七十二候」〔注8〕
(3)「節月」〔注9〕

 「太陽暦」の「暦月」から得られる季節感など「太陰太陽暦」の足元にも及びません。 

 「節月」が「太陰太陽暦」の暦(こよみ)に記されている例として、石神遺跡から出土した現存する日本最古の暦(元嘉暦の具注暦〔注10〕)を紹介します(市 大樹(いち・ひろき)『飛鳥の木簡――古代史の新たな解明』(中央公論新社、中公新書21682012625日、ISBN978-4-12-102168-7 1221)より)。木器(蓋か)として加工されたものなので、削られてだいぶ小さくなっています。
口絵 2)具注暦木簡(石神遺跡出土)
Photo_20200915151901
判読された文字(前掲書80頁より)
Photo_20200915152001
 この暦は「六八九年三・四月の暦であることが判明した。」(同書81頁)のですが(なぜ判明出来たかは後で説明します)、判読できなかった文字を埋めてみました。
私が再現した具注暦
Photo_20200915152201

 六八九(己丑)年の月朔干支と日数は次のものでわかりました。
元嘉暦六八九年の月朔干支と日数
Photo_20200915152301

 「暦月」の三月と四月の日干支と節気は次のものでわかりました。
元嘉暦六八九年の三・四月暦日干支と節気
Photo_20200915152501

 上弦や望の日干支は次のものでわかりました。
元嘉暦六八九年の朔・弦・望とその日干支
Photo_20200915152601

 まず、日干支を埋め、次に日干支から節(「清明」「立夏」)を埋め、その節の日を「節月」の「一日」として「節日」を埋め、判読されている「十二直」〔注11〕から遡って「十二直」を埋めて、その「十二直」が「節月」の「一日」の「十二直」(「清明」なら「破」、「立夏」なら「建」)と整合するかどうかを確認して出来上がりです。

 なぜ、「六八九年の元嘉暦(具注暦)」と判ったかといえば、この遺跡のおよその年代が判っていたことと、暦(暦法)ごとに「月朔の日干支」や「暦月の日数」や「節気・中気の日干支」が違うので、既存の暦と出土具注暦を照合してピタリ合ったのが「元嘉暦」だったということです。いや「元嘉暦」であると「アタリ」(予想)をつけていた(真っ先に「元嘉暦」と照合した)のかも知れませんが・・・。 

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注1 sanmao知恵袋 暦(1)と暦(2) …… 次のブログ記事です。
sanmao知恵袋 暦(1)―1年の長さ―
sanmao知恵袋 暦(2)―ひと月の長さ―

注2 イスラム暦 ……閏年は用いない(つまり閏月で季節を調整しない)ので、太陽暦とは1年で約11日、33年で約1年の差を生じます。朔(新月)ではなく、三日月状の細い月が最初に見える日が「月初め(一日)」になります。詳しくは国立天文台暦計算室 暦Wiki「イスラム暦をご覧ください。

注3 最新の暦法 …… 「太陰太陽暦」以後、新しい暦法は開発されていません。造暦(こよみを造る)計算は複雑ですが、自然科学(天文学)に基づいた暦法です。その原理の優秀さは、グレゴリオ暦などその足元にも及びません。「現在行用されている」ことは、その暦法が「優れている」ことを意味しません。

注4 中国暦 …… 上記注1のブログ記事(注記欄)に、代表的中国暦、その太陽年と朔望月をリストアップしてあります。

注5 「暦月」 …… 暦面上の「ひと月」(朔望月による)を言います。「太陰太陽暦」には「閏月」があり(「閏月」のある年は一年が13ヶ月)、このため「暦月」では正確な季節がわかりません。

注6 月の影響が「日付」で判断できる …… 新月(太陽と地球の間に月が入る)の時を含む日が朔(ついたち)ですから、漁労従事者や航海を行っている人々にとって重要な情報(月の位置、満ち欠けの状態、潮の干満)がそのまま「日付」として表されているわけです。

注7 「二十四節気」とその「雑節」 …… 「二十四節気」は十二の「節気」と十二の「中気」からなります。「雑節」は「節気」に関わる日などに付けられたニックネーム的なものです。

【二十四節気】

名称        月  太陽黄経 説明(国立天文台暦計算室 暦Wiki「二十四節気より抜粋)

立春(りっしゅん) 正月節  315°  寒さも峠を越え、春の気配が感じられる

雨水(うすい)   正月中  330°  陽気がよくなり、雪や氷が溶けて水になり、雪が雨に変わる

啓蟄(けいちつ)  二月節  345°  冬ごもりしていた地中の虫がはい出てくる

春分(しゅんぶん) 二月中     太陽が真東から昇って真西に沈み、昼夜がほぼ等しくなる

清明(せいめい)  三月節   15°  すべてのものが生き生きとして、清らかに見える

穀雨(こくう)   三月中   30°  穀物をうるおす春雨が降る

立夏(りっか)   四月節   45°  夏の気配が感じられる

小満(しょうまん) 四月中   60°  すべてのものがしだいにのびて天地に満ち始める

芒種(ぼうしゅ)  五月節   75°  稲などの(芒のある)穀物を植える

夏至(げし)    五月中   90°  昼の長さが最も長くなる

小暑(しょうしょ) 六月節  105°  暑気に入り梅雨のあけるころ

大暑(たいしょ)  六月中  120°  夏の暑さがもっとも極まるころ

立秋(りっしゅう) 七月節  135°  秋の気配が感じられる

処暑(しょしょ)  七月中  150°  暑さがおさまるころ

白露(はくろ)   八月節  165°  しらつゆが草に宿る

秋分(しゅうぶん) 八月中  180°  秋の彼岸の中日、昼夜がほぼ等しくなる

寒露(かんろ)   九月節  195°  秋が深まり野草に冷たい露がむすぶ

霜降(そうこう)  九月中  210°  霜が降りるころ

立冬(りっとう)  十月節  225°  冬の気配が感じられる

小雪(しょうせつ) 十月中  240°  寒くなって雨が雪になる

大雪(たいせつ)  十一月節 255°  雪がいよいよ降りつもってくる

冬至(とうじ)   十一月中 270°  昼が一年中で一番短くなる

小寒(しょうかん) 十二月節 285°  寒の入りで、寒気がましてくる

大寒(だいかん)  十二月中 300°  冷気が極まって、最も寒さがつのる

【雑節】

二十四節気を補う季節の移り変わりの目安として、雑節(ざっせつ)がある。土用、彼岸は入りの日付けを示す。

名称      太陽黄経      説明

土用(どよう) 27°,117°,207°,297°太陰太陽暦では立春、立夏、立秋、立冬の前18日間を指した。最近では夏の土用だけを指すことが多い。

節分(せつぶん)      季節の分かれめのことで、もとは四季にあった。立春の前日。

彼岸(ひがん)       春分と秋分の前後の3日ずつの計7日のこと。初日を彼岸の入り、当日を中日(ちゅうにち)、終日を明けと呼ぶ。

八十八夜(はちじゅうはちや) 立春から数えて88日目をいう。霜が降りることが少なくなる頃。

入梅(にゅうばい) 80°  太陰太陽暦では芒種の後の壬(みずのえ)の日。つゆの雨が降り始める頃。

半夏生(はんげしょう)100° 太陰太陽暦では夏至より10日後とされていた。

二百十日 (にひゃくとおか) 立春から数えて、210日目の日。

注8 「七十二候」 …… 各気(「節」気と「中」気)を更に三等分しています。二十四節「気」と七十二「候」をあわせて「気候」となります。掲載は割愛しますので、詳しくはWikipedia「七十二候をご覧ください。

注9 「節月」 …… 「二十四節気」のうち、「節」(例えば「正月節」である「立春」)を含む日を第一日として数える「ひと月」を言います。地球が真円軌道を平均速度で公転しているものとして計算する「平気法」では節の間隔は約30.44日と一定なので、節月の日数は30日または31日となります。

注10 具注暦 …… 暦注(日時・方位などの吉凶、その日の運勢などの事項)が記載された暦です。

注11 「十二直」 ……暦注の一つで、中段に記されるので「中段」「中段十二直」とも言われます。

 「十二直」は、「建(たつ)」→「除(のぞく)」→「満(みつ)」→「平(たいら)」→「定(さだん)」→「執(とる)」→「破(やぶる)」→「危(あやぶ・あやう)」→「成(なる)」→「納(おさん)」→「開(ひらく)」→「閉(とづ)」の順に配されます。

柄杓の形をした北斗七星の柄に当たる部分(斗柄)が北極星を中心にして天球上を回転することから、これに十二支による方位と組み合せて十二直を配当する。

十二直に用いる月は節月である。節月ごとに、その月の夕刻に斗柄が向いている方位の十二支と、日の十二支とが同じになる日が「建」になるように配当する。実際には、節月の始まりの日に、その前の日の十二直を繰り返す。

冬至の頃には斗柄が北(子)を指す(建(おざ)す)ので、冬至を含む月を「建子の月」という。Wikipedia「十二直より抜粋)

 なお、「方位」の十二支は、北から東回り(時計回り)に子、丑、寅、・・・と12等分します。

0時の方向(=北)、1時の方向()、2時の方向()、3時の方向(=東)、4時の方向()、5時の方向()、6時の方向(=南)、7時の方向()、8時の方向()、9時の方向(=西)、10時の方向()、11時の方向()となります。時刻だと12時制と一致しますが、「方位」は四・八・十六等分になりますので、12等分では表現できない北東は艮(ごん、丑寅(うしとら))、東南は巽(そん、辰巳(たつみ))、南西は坤(こん、未申(ひつじさる))、西北は乾(けん、戌亥(いぬい))を用いて表現していました。

2020年9月14日 (月)

sanmao知恵袋 暦(2)―ひと月の長さ―

sanmao知恵袋 暦(2)
ひと月の長さ[sanmao知恵袋][]

 今、私たちが使っているグレゴリオ暦〔注1〕では、ひと月の長さは、28日・29日・30日・31日と一定していません。人為的な「いきさつ・なりゆき」で決まったものだからです(自然科学的な根拠は全くありません)。

 ここで言及する「ひと月」は、本来そうであった「盈虧(えいき)の周期」(月の満ち欠けが一巡するのに掛かる日数、「朔望月(さくぼうげつ)」)のことです。

 この「新月から次の新月までの日数」(新月が一番わかりやすい)を「ひと月」と言っていました。本来の「ひと月」は然の摂理に基づいて決まっていたのです。以下、この「ひと月」を「朔望月」と呼んでいきます。

 朔望月は、約29.5日と表記されるようですが、実際はもう少し端数があります。
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周期は約29.5日、より正確には29.530589日(朔望月)〔注2〕となります。(国立暦計算室 暦Wiki「月の位相/満ち欠け」より抜粋)

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中国では、「後漢四分暦」まで「朔望月」は29.530851064日(29+499/940〔注3〕で、以後は暦法ごとに朔望月が異なります〔注4〕。なかでも朔望月をはじめとする数値(天文定数)については、梁が採用した祖冲之の「大明暦」が特に優れていました。 

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注1 グレゴリオ暦 …… グレゴリオ暦については次のブログ記事の注1をご覧ください。
sanmao知恵袋 暦(1)―1年の長さ―

注2 29.530589日(朔望月) …… 朔望月は太陽年(回帰年)と同様に一定ではなく、対象暦日の朔望月は次の計算式で求まります。「朔望月」は「太陽年」と同様に「日数」です。

朔望月(盈虧周期)=29.53058886日 J2000.0+(2.30×10^-7)×経過ユリウス世紀数(T)

 なお、「29.53058886日」はJ2000.0の定数、「J2000.0」は、西暦200011日正午現在の天文定数という意味、「10^-7」は10のマイナス7乗、「経過ユリウス世紀数(T)」はJ2000.0から対象暦日までの経過日数をユリウス暦の1世紀(100)の日数36525日で除算した値です。

注3 「後漢四分暦」まで「朔望月」は29.530851064日(29+499/940) …… ただ、「後漢四分暦」の前の「太初暦」と太初暦に日月食と惑星位置計算を増補した「三統暦」は四分暦ではなく、太陽年が365.25016365+385/1539)日、朔望月が365.25016365+385/1539)日でした。

「四分暦」は、太陽年が365.25365+1/4)日なので、「章法」(メトン周期を採用した19年間に7閏月を置く暦法)だと、次の式から朔望月が29.530851064日と決まってしまいます。

太陽年365+1/4={12ヶ月+(暦の周期間中に置く閏月数:7閏月/暦の周期年数:19年)}×朔望月

両辺に19を乗じると、19×(365+1/4)朔望月=235×朔望月(=(19×12+7)

朔望月=(19×(3651/4)/235

両辺に4を乗じると、4×朔望月=4×(19×3651/4)/23519×(4×3651)/235

∴朔望月=19×(4×3651)/235×4)=27759/94029+499/94029.530851063829729.530851064

注4 以後は暦法ごとに朔望月が異なります …… 中国暦は次の通りです(分数表示です)。

乾象暦29.5305422129+773/1457

景初暦29.53059929+2419/4559

三紀暦29.705637229+3217/4559

玄始暦29.530600129+47251/89052

元嘉暦29.53058529+399/752

大明暦29.53059129+2090/3939)、+0.000002(朔望月29.530589日より僅かに多い時憲暦と同等

正光暦29.5305929129+39769/74952

興和暦29.5306047129+110647/208530

天保暦29.5305995529+155272/292635

天和暦29.5307106429+153991/290160

大象暦29.5306274929+28422/53563

(皇極暦)29.5305915229+2090/3939

開皇暦29.53061229+96529/181920

大業暦29.53059429+607/1144

戊寅元暦29.53060129+6901/13006

麟徳暦(「儀鳳暦」)29.53059729+711/1340

大衍暦29.5305921129+1613/3040

時憲暦29.530591360÷(47435.0234086″(太陰毎日平行)3548.3290897″(太陽毎日平行))

宣明暦29.53059524294457/8400

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