『史記』に記された「暦」(13)
―『漢書』本紀の日蝕記録(中間報告)―[暦][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]
前回(『史記』に記された「暦」(12)―漢代の定点(その6)日蝕検証WS―)で予告した『漢書』本紀にある日蝕の西暦を確認する作業をひと通り終えましたので、今回はその中間報告です。
1.この中間報告について
今回行った調査・検証の目的は、『漢書』本紀に記された全ての日蝕記録の調査・検証によって前漢時代の年代を確認することを通して、春秋戦国時代の年代比定の検証をするために必要な「前漢時代初期の確実な定点」を得ることでした。いうなれば、通説の年代比定の確かさを自らの手で確認することによって、「安心して春秋戦国時代の年代比定の検証に臨みたい」という脅迫観念に効く「精神安定剤(前漢時代初期の確実な定点)」を入手することだったのです。
今回の調査・検証によって、疑義があるとおもわれる日蝕記録がいくつか見出されましたが、それにもかかわらず前漢時代の年代比定(帝王の在位期間・年号など)がおおむね間違っていないと確認できたことで、調査の目的は達成できたと考えています。
この中間報告は、春秋戦国時代の年代比定の確認作業へと活動を移行するにあたって、「今回の作業結果の検証」並びに「疑義があると思われた日蝕記録の解明」に資するため、今回行った『漢書』本紀の日蝕記録の調査・検証活動とその結果をまとめたものです。
2.総括報告
今回の調査・検証によって正しいと確認できた日蝕記録は全48件中38件(下記に番号を掲げた)で、通説で比定されている年代は、各皇帝紀に確かな日蝕記録が存在していることから、おおむね間違っていないと確認できました(下表「前漢代の年号など」参照)。
《確認できた日蝕記録》(1)(2)(3)(4)(5)(7)(8)(9)(10)(14)(16)(18)(19)(21)(22)(24)(25)(26)(27)(28)(29)(30)(31)(32)(33)(34)(36)(37)(38)(39)(40)(41)(42)(43)(44)(45)(47)(48)
また、昭帝紀「(29)(元鳳元年)秋七月乙亥晦,日有蝕之,既。〈49〉」の日干支「乙亥」は「己亥」の誤写の可能性があることも見出しました(先達が既に指摘しているかも)。
表 前漢代の年号など(表はクリックすると拡大できます)
疑義があると思われた日蝕記録は、次の10件でした。
(6)二年春…夏六月丙戌晦,日有蝕之。《高后紀》
(11)〔文帝〕四年夏四月丙寅晦,日有蝕之。《文帝紀》
(12)(三年)二月壬子晦,日有食之。《景帝紀》
(13)(四年)十月戊戌晦,日有蝕之。《同上》
(15)(中二年九月)甲戌晦,日有蝕之。《同上》
(17)四年春三月,…。〔中五年〕十月戊午,日有蝕之。《同上》
(20)二年冬十月,…春二月丙戌朔,日有蝕之。《武帝紀》
(23)(元朔)二年三月乙亥晦,日有蝕之。《同上》
(35)(建昭五年夏六月)壬申晦,日有蝕之。《元帝紀》
(46)(元壽二年)夏四月壬辰晦,日有蝕之。《哀帝紀》
3.『漢書』本紀の調査方法
中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文獻資料庫」史>正史>漢書>本紀 凡十二巻より原文のコピーを得て、語句「日蝕」及び「日食」を検索することによって日蝕記録を抽出した結果、語句「日有蝕之」が46ヶ所、語句「日有食之」が7ヶ所、合わせて53ヶ所見つかりました。そのなかに、記された日蝕・日食について「詔」中で言及している日蝕(つまり、語句として二度集計された日蝕記録)が5ヶ所(文帝紀1、元帝紀2、成帝紀1、哀帝紀1)あり、それを除いて『漢書』本紀に記載された日蝕記録は48件としました。その48件の日蝕記録に対して、登場順に番号を付して識別することにしました(『史記』に記された「暦」(9)―漢代の定点(その3)―参照)。
4.検証手順
検証は次の手順で行いました。
(一)「ステラナビゲータ11(StellaNavigator11)」(アストロアーツ社(Astroarts Inc.))(以下「SN」と略す)を用いて、『漢書』本紀の日蝕記録は前漢の首都長安で観測されたものと想定し、長安の緯度経度を「東経108度57分、北緯34度16分」、時刻系は長安の地方平均太陽時(LMT)、日蝕時の離角(∠地球・太陽・月)を「1.0以内」と設定して、「紀元前206年~紀元後9年」の日蝕を抽出(算出)する(『史記』に記された「暦」(11)―漢代の定点(その5) 前漢代の日蝕―を参照)。
(二)国立天文台>暦計算室>日月食データベースによって、上記のSNの日蝕データに「現象区分(皆既・金環・金環皆既・部分)」と「サロス番号(括弧()内)」を補う。
(三)『漢書』本紀武帝紀に「元光元年秋七月癸未,日有蝕之。」とある暦日(JDN:1 672 710)の日蝕(1973年に臨沂銀雀山2号墓から出土した竹簡にある暦が元光元年のものであることを決定づけた日蝕)のSNのデータ(紀元前134年8月19日13:31 0゚06 '皆既日食(62))と整合するように、Microsoft Excelで作成した「HY式日蝕検証WS」(以下「WS」と略す)の既定値(デフォルト値)を設定する。
【(三)で設定した既定値(デフォルト値)】
❶長安(前漢の首都)の経度:東経108度57分(この設定で『漢書』本紀武帝紀の日蝕記録(22)「元光元年秋七月癸未,日有蝕之。」の地方平均時(LMT)西暦-133年8月19日13時31分の時のUT(世界時:グリニジ地方平均時)は西暦-133年8月19日6時15分12秒となります。)
❷推算に用いる朔望月:29.53058886日(当時の朔望月が不明なのでJ2000.0のデータを用いました。)
❸JD(ユリウス通日)の上元(-4712年1月1日正午)の想定月齢:20.914830285
(❷❸を定めるとJDから月齢の概算値を求めることができます(この月齢の推算方法を「HY式」と称しています)。上記❷❸の既定値でSNのデータ西暦-133年8月19日13:31(JD:1,672,709.7606)の月齢が0.000000000になります。というより、そうなるように上元月齢を20.914830285に設定しました。)
❹JD(ユリウス通日)の上元(西暦-4712年1月1日正午)の年干支:戊子 (干支番号24)
❺JD(ユリウス通日)の上元(西暦-4712年1月1日正午)の日干支:癸丑 (干支番号49)
(❹・❺を定めるとJDから年干支・日干支が求まります。❹・❺の既定値でSNの日蝕データ「西暦-133年8月19日13:31」(『漢書』本紀の日蝕記録(22)武帝紀「元光元年秋七月癸未,日有蝕之。」)の年干支が丁未(43)に、日干支が癸未(19)になります。)
(四)前漢の帝王の在位期間や年号などについて、通説を(Wikipedia「漢」などから)把握する。
(五)『漢書』本紀にある日蝕記事(『史記』に記された「暦」(9)―漢代の定点(その3)―参照)に該当しそうなSNデータを抽出して、その日干支をWSによって年代や日干支などの整合性を確認する。
(六)『漢書』本紀にある日蝕記事と日干支が一致したSNのデータと日時が一致するJDを確認する。そのJDの月齢が朔(新月)に適合しているか確認する。
(この確認は、WSのJD入力欄(セルC9)に算式「=R12」(セルR12は「JD(天文時:正午=0時)」の表示欄)を入力して置き、「西暦(観測地点の地方時)」の年・月・日・時・分の表示欄(C12,E12,G12,I12)を見ながら、「西暦(世界時:UT)」の年・月・日・時・分・秒の入力欄(R11,T11,V11,X11,Z11,AB11)を入力していき、「西暦(観測地点の地方時)」の年・月・日・時・分の表示欄がSNのデータの日時と一致したところで、その日時のJD(セルR12)の表示とその年干支・月初干支・日干支(セルC13~H13に表示される)及び「JD(天文時:正午=0時)」に表示されるJD(セルR12)を読み取る(コピー&ペーストする)方法によりました。)
(七)詳細報告(6.「『漢書』本紀の日蝕記録」)に、(六)で得られたデータ(「西暦(観測地点の地方時)」の年・月・日・時・分、)を転記するとともに、Excelのsheet「前漢の年号など」に当該日蝕の「サロス番号」「JD」「西暦年月日時分」を転記する。
5.留意されたい事項
この調査・検証は、『漢書』本紀の日蝕記録そのもの検証が目的ではなく、漢代の年代比定(通説)の確認のために『漢書』本紀の日蝕記録を用いているものなので、「『漢書』本紀の日蝕記録が『事実としてありえない』と断定できない限り、『ありうる可能性がある』場合は肯定する」という姿勢で臨んでいます。そのため、日蝕記録の検証としては詰めが甘いとのご指摘をうけることが多々あります。
月齢については、「HY式により推算した月齢」を単に「月齢」と表示しています。また、月齢は小数点以下1桁で表示するのが慣行ですが、この検証においてはこの慣行に従っていません。JDについても小数点以下4桁まで扱っています。
干支の項目で「月初〇〇(番号)」とある「月初」とは、太陰太陽暦の朔日ではなく、西暦(太陽暦)の月表示における「その月の第一日」を指しています。〇〇がその月の第一日の日干支です。
6.検証結果(詳細報告)
検証結果の詳細は下記の「『漢書』本紀の日蝕記録」をご覧ください。
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《凡例》
各日蝕記事の行頭にある括弧()つき番号は、『漢書』本紀に登場した日蝕48個を年代順(本紀に登場する順)の通し番号です。日蝕記事で年号何年や在位何年目などの表記が括弧()で囲われている場合(例:高帝紀下(3)「『(九年)』夏六月乙未晦,日有食之。」)は、省かれた年号何年や在位何年目などを、その文章の前(直前に限らず)から補ったことを示します。文章の途中を一部省いたことを示す「〔中略〕」なども「…」のように簡略化しました(『史記』に記された「暦」(9)―漢代の定点(その3)―を参照)。また、各日蝕記事の末尾にある括弧〈〉つき番号は、『漢書』本紀の各帝王紀における段落番号です(原文参照時にご利用ください)。
「SN」とあるのは、長安で起きた日蝕を「ステラナビゲータ11(StellaNavigator11)」(アストロアーツ社(Astroarts Inc.)を用いて算出し、国立天文台〉暦計算室〉日月食データベースによって「現象(皆既・金環・金環皆既・部分)の区分」と「サロス番号(括弧()内)」を補ったものです。
「WS」とあるのは、当該日蝕の年月日・時刻をMicrosoft Excelで作成したワークシート(「HY式日蝕検証WS」)でシミュレートして年干支・日干支・月齢・JDを求めたものです。干支名(例「甲子」など)の後ろの括弧()付き番号は干支番号です(「甲子」が0番です)。JDは、UT(世界時:グリニジ地方平均太陽時)の正午起算です(天文時:XXX.0が正午でXXX.5が正子))なお、当報告に「月齢」とあるは、実際の月齢ではなく、全て「WSによる推算月齢」です。
年干支と日蝕日干支の間に記されている「月初干支」とあるのは、西暦(太陽暦)での月初(一日)の日干支です(太陰太陽暦の月朔日干支ではありません)。日干支は暦法とは独立なものですが、年干支は暦法に従属するものですので、西暦(太陽暦)の年干支は太陰太陽暦の年干支とは基本的に異なります(両者の年干支が一致する期間もあり得ます)。
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『漢書』本紀の日蝕記録
高帝紀上〔太祖・髙皇帝(劉邦)前206~前195年、前202年即位〕
(1)三年冬十月,甲戌晦,日有食之。〈50〉
SN:紀元前205/12/20 09:17 0゚22' 部分日食(77)
WS:西暦-204年12月20日9時17分、丙申年(32)月初乙卯(51)甲戌(10)、月齢:0.558274751、JD:1,646,900.5842。
判定:◎(日干支も一致している。)
(2)十一月癸卯晦,日有食之。〈50〉
〖推定〗
WS:西暦-203年1月18日8時37分9秒60、丁酉年(33)月初丙戌(22)癸卯(39)、月齢:0.562310474、JD:1,646,929.5565。
判定:〇(該当する日蝕がSNにないが、次に示す通り、日蝕記録に矛盾はない。)
記録(1)「三年冬十月甲戌(10)晦」における朔(月齢0.0)の時刻はJD:1,646,900.0259(=(1)のLD:1,646,900.5842-(1)の月齢0.558274751)であり、これに1朔望月を加える(「三年冬十月」+1朔望月=「三年冬十一月」)とJD:1,646,929.5565となり、これが「(2)十一月癸卯晦」の朔時刻で、紀元前204(西暦-203)年1月18日8時37分9秒60、丁酉年(33)月初丙戌(22)癸卯(39)、月齢0.562310474であり、日干支も一致している。
高帝紀下
(3)(九年)夏六月乙未晦,日有食之。〈32〉
SN:紀元前198/08/07 08:00 0゚02' 金環日食(71)
WS:西暦-197年8月7日8時0分、癸卯年(39)月初己丑(25)乙未(31)、月齢:29.527104869(-0.003483991)、JD:1,649,321.5307。
判定:◎(日干支も一致している。)
恵帝紀〔恵帝(劉盈)前195~前188年〕
(4)(七年)春正月辛丑朔,日有蝕之。〈27〉
〖推定〗
西暦-187年2月21日6時30分、癸丑年(49)月初辛巳(17)辛丑(37)、月齢:1.324530529、JD:1,652,807.4682。
判定:〇(SNには該当する日蝕はないが、次に示す通り、日の出あたりに起きた日蝕とすれば、日干支も一致し、日蝕記録に矛盾はない。)
記録(4)と(5)の日干支から推測すれば、紀元前188(西暦-187)年2月21日の日の出あたりに起きた日蝕を記録したのかもしれない。とはいえ、この日付では月齢が1.3ほど(離角は約15.85度※、この前日が新月)なので、日蝕記録としては前日のほうが相応しいかもしれない。というのは、新月は現地時間で西暦-187年2月19日22時42分40秒57、癸丑年(49)月初壬午(18)庚子(36)なので、観察できない時刻であり、翌朝(日の出を仮に6:30とすると)2月20日6時30分、癸丑49年月初辛巳(17)庚子(36)、月齢0.3245305、JD:1,652,806.4682。翌々日とすると、西暦-187年2月21日6時30分、日干支辛丑(37)、月齢:1.324530529、JD::1,652,807.4682です。
※朔望月を29.53058886日とすると1日で約12.2度(=360度÷29.53058886日=12.19074911度)太陽から離れる(1日当たりの離角が約12.2度)と考えられる。部分日食が起こる限界は交点(黄道と白道の)を中心として±約17度、皆既日食が起こる限界は±約11度で、月齢1.3245305の離角は約16.15度(12.19074911度/日×月齢1.3245305日=16.14701901度)なので、かろうじて部分日蝕が生じたかもしれません。
(5)(七年)夏五月丁卯,日有蝕之,既。〈27〉
SN:紀元前188/07/17 15:24 0゚06' 皆既日食(62)
WS:西暦-187年7月17日15時24分、癸丑年(49)月初辛亥(47)丁卯(03)、月齢:0.042419563、JD:1,652,953.8390。
判定:◎(日干支も一致している。)
この「夏五月丁卯」を「月初(一日)」と仮定すると、恵帝七年春正月朔から五月朔までの月数は4ヶ月。朔望月を29.53058886日と仮定すると、4ヶ月の日数は118.1224日(=29.53058886日*4ヶ月)で、60日+58.1224日である。
(4)の正月朔の干支辛丑(37)に58.1224日を加えると60日+35.1224日であるから、記録(5)の日干支丁卯(03)とは合わない。よって、この日蝕記録(5)の「夏五月丁卯」は「晦(月の末日)」の可能性が高い。
(4)の「春正月辛丑朔」から(5)の「夏五月丁卯晦」までを5ヶ月とすると、その日数は147.6529日(==29.53058886日*5ヶ月)で、これは2*60日+27.6529日であり、辛丑(37)に27.6529日を加えると、60+4.6529日となり、下記のように記録(5)の日干支「丁卯」(03)と一致する。
正月(29日)+二月(30日)+三月(29日)+四月(30日)+五月(29日)=147日、両端を数えているので1日減らすと、「春正月辛丑(37)朔」から「夏五月丁卯(03)晦」まで146日。辛丑(37)+146日=183日=3*60+丁卯(03)であり、日干支が整合する。
なお、この計算は、章法四分暦では大月(30月)・小月(29月)が交互に来ることを前提にしています。漢が当初用いたとされる『顓頊暦』も“古六暦(こりくれき)※”の一つであり、“古六暦”はみな「章法」(19年間に7閏月を置く)の「四分暦」(太陽年を365+1/4日=365.25日とする)です。
※古六暦(こりくれき)は、中国暦の中で漢代に伝わっていた黄帝暦・顓頊暦・夏暦・殷暦・周暦・魯暦という帝名や国名を冠した六つの古暦の総称。(Wikipedia「古六暦」より抜粋)
高后紀〔高皇后(呂雉)前188~前180年〕
(6)二年春…夏六月丙戌晦,日有蝕之。〈3〉
判定:?(下記のSNのデータとことごとく日干支が一致しない。日蝕記録の日干支丙戌(22)に近い日蝕もない。)
紀元前188/07/17 15:24 0゚06' 皆既日食(62)丁卯(03)←上記の日蝕記録(5)です。
紀元前187/01/11 19:52 *0゚11' 金環日食(67)丙寅(02)
紀元前187/12/31 19:52 *0゚46' 部分日食(77)庚申(56)
紀元前185/05/17 02:58 *0゚10' 金環皆既日食(54)壬午(18)
紀元前184/05/06 07:15 0゚45' 金環日食(64)丙子(12)
紀元前184/10/30 02:26 *0゚01' 皆既日食(69)癸酉(09)
紀元前183/10/19 19:40 *0゚13' 皆既日食(79)戊辰(04)
紀元前182/03/16 01:14 *0゚36' 部分日食(46)乙未(31)
(7)七年…春正月…己丑晦,日有蝕之,既。〈8〉
SN:紀元前181/03/04 15:38 0゚06' 皆既日食(56)
WS:西暦-180年3月4日15時38分、庚申年(56)月初丙戌(22)己丑(25)、月齢:0.543855265、JD:1,655,375.8488。
判定:◎(西暦も日干支も一致している)
文帝紀〔太宗・文帝(劉恒)前180~前157年〕
(8)(二年)十一月癸卯晦,日有食之。〈14〉
SN:紀元前178/01/02 13:51 0゚13' 部分日食(48)
WS:西暦-177年1月2日13時51分、癸亥年(59)月初壬寅(38)癸卯(39)、月齢:0.898939609、JD:1,656,409.7744。
判定:◎(日干支も一致している。)
(9)三年冬十月丁酉晦,日有食之。〈20〉
SN:紀元前178/12/22 12:13 0゚23' 金環日食(58)
WS:西暦-177年12月22日12時13分、癸亥年(59)月初丙子(12)丁酉(33)、月齢:0.463817734、JD:1,656,763.7064。
判定:◎(日干支も一致している。)
(10)(三年)十一月丁卯晦,日有蝕之。〈20〉
〖推定〗
西暦-176年1月21日6時30分、甲子年(0)月初丁未(43)丁卯(3)、月齢:0.695034429、JD:1,656,793.4682。
判定:〇(暦上の日干支は一致する。観測できない蝕甚時刻(0時57分)だが、日の出頃に部分日蝕が観測されたのかもしれない。年の誤記ではない。)
(9)「三年冬十月丁酉晦」の紀元前178/12/22 12:13のJD: 1,656,763.7064に1朔望月(29.53058886)を加えるとJD:1,656,793.2370「(三年)十一月丁卯晦」、紀元前177(西暦-176)年1月21日0時57分4秒80、甲子年(0)月初丁未(43)丁卯(03)、月齢0.024281214となるが、日干支は一致するものの上記の時刻では日蝕は観測できない。同日の日の出時刻を仮に6:30頃と仮定すると、西暦-176年1月21日6時30分、日干支は変わらず丁卯(3)、JD:1,656,793.4682、月齢:0.6950344=離角8.5度(月行12.19074911度/日×月齢:0.6950344=8.472990度)なので、皆既日食が起こる限界±約11度以内なので、日の出頃に部分日蝕が見られたかも知れない。
もし「(三年)」ではなく「(四年)」と仮定すると、閏月が入らなければ13ヶ月、入れば14ヶ月となる。13ヶ月の場合は、1,656,763.7064+383.8976552=1,657,147.6041、西暦-175年1月9日9時45分42 秒24、乙丑年1月初癸丑49辛酉57、日干支は合わない。14ヵ月の場合は、1,656,763.7064+413.4282440=1,657,177.1346、西暦-175年2月7日22時29分37秒44、乙丑年1月初乙酉21辛卯27、これも日干支は合わない。
(11)〔文帝〕四年夏四月丙寅晦,日有蝕之。〈67〉
判定:?(文帝「四年夏四月」は日蝕記録(9)の翌年の紀元前176年であると思われるが、暦から想定した日蝕日時の日干支が日蝕記録の日干支丙寅(02)と一致せず、日干支丙寅(02)に日干支が一致するSNのデータが存在しない不可解な日蝕記録である。)
日蝕記録(10)「(三年)十一月丁卯晦」から日蝕記録(11)「四年夏四月丙寅晦」までの月の経過は、その間に閏月が無い場合は、次のように17ヶ月となる。
❶(三年)十二月晦、❷(三年)一月晦、❸二月晦、❹三月晦、❺四月晦、❻五月晦、❼六月晦、❽七月晦、❾八月晦、❿九月晦、⓫(四年)十月晦、⓬十一晦、⓭十二月晦、⓮(四年)一月晦、⓯二月晦、⓰三月晦、⓱「四年夏四月丙寅晦」
(10)(三年)十一月丁卯晦の朔時刻(JD: 1,656,793.2370)に17朔望月(29.53058886×17=502.0200106)を足すとJD: 1,657,295.2570であり、その暦日と時刻(LMT)は西暦-175(紀元前176)年6月6日1時25分53秒72、乙丑年(1)月初甲申(20)己丑(25)、月齢: 0.4638400であり、日蝕記録の日干支丙寅(02)と一致しない。
閏月が有った場合は、次のように18ヶ月となる。
❶(三年)十二月晦、❷(三年)一月晦、❸二月晦、❹三月晦、❺四月晦、❻五月晦、❼六月晦、❽七月晦、❾八月晦、❿九月晦、⑪後九月晦、⑫(四年)十月晦、⑬十一月晦、⑭十二月晦(四年)⑮一月晦、⑯二月晦、⑰三月晦、⑱「四年夏四月丙寅晦」
(10)(三年)十一月丁卯晦の朔時刻(JD:1,656,793.2370)に18朔望月(29.53058886×18=531.5505995)を足すとJD:1,657,324.7876であり、その暦日と時刻(LMT)は西暦-175(紀元前176)年7月5日14時9分56秒64、乙丑年(1)月初甲寅(50)戊午(54)、月齢: 0.4638405であり、日蝕記録の日干支丙寅(02)と一致しない。
【寄り道】《『顓頊暦』は「十月年始」》
上記の(10)と(11)の暦日をもとに、『顓頊暦』が「年を十月から数え始め九月で終る暦である」ことを確かめてみます。
今「年を正月(一月)から数え始めた」と仮定すると、「(三年)十一月丁卯晦」より「四年夏四月丙寅晦」に至る月の経過は、「①十二月晦・②“四年”一月晦・③二月晦・④三月晦・⑤四月晦」の5ヶ月なので、(10)「(三年)十一月丁卯晦」に5朔望月を加えると(11)「“四年”夏四月丙寅晦」です。よって、(10)のJD1,656,793.2370+147.6529443(5朔望月)=(11)のJD1,656,940.8899(「“四年”夏四月丙寅晦」)です。このJDは西暦-176年6月16日16時37分15秒36、甲子年(0)月初己卯(15)甲午(30)で、この日干支は日蝕記録の日干支丙寅(02)とは約1朔望月も離れています。また、『顓頊暦』は閏月を九月の後に置く(「後九月」)ので、「(三年)十一月丁卯晦」から「“四年”夏四月丙寅晦」の間に閏月が入って6朔望月になることはありません。すなわち、「年を正月から数え始めた」という仮定からは矛盾が導かれたので、「『年を正月から数え始めた』のではない」(仮定の否定)となります(背理法)。
つまり、『顓頊暦』は「年は十月からから数え始めた」(通説)が正しい(可能性がある)と考えられます(これは「顓頊暦は十月年始」という実証済の事柄を論理的に確認しただけです)。【寄り道終わり】
さて、日蝕の日干支の一致が確認された(9)「三年冬十月丁酉晦」から「(11)四年夏四月丙寅晦」までの間に閏月(「後九月」)が無かったとすれば、その間の経過は「①(三年)十一月丁卯晦・②十二月晦・③一月晦・④二月晦・⑤三月晦・⑥四月晦・⑦五月晦・⑧六月晦・⑨七月晦・⑩八月晦・⑪九月晦・⑫(四年)十月晦・⑬十一月晦・⑭十二月晦・⑮一月晦・⑯二月晦・⑰三月晦・⑱夏四月丙寅晦」なので、(9)から(11)までは18ヶ月です。よって、(9)のJD1,656,763.7064+531.5505995(18朔望月)=JD1,657,295.2570となり、このJDは西暦-175年6月6日1時25分52秒80、乙丑年(1)月初甲申(20) 己丑(25)なので、この日干支も日蝕記録の日干支丙寅(02)と一致しない。
(9)「三年冬十月丁酉晦」から「(11)四年夏四月丙寅晦」までの間に閏月「後九月」が有ったとすれば、その間の経過は「①(三年)十一月丁卯晦・②十二月晦・③一月晦・④二月晦・⑤三月晦・⑥四月晦・⑦五月晦・⑧六月晦・⑨七月晦・⑩八月晦・⑪九月晦・⑫「後九月」・⑬十月・⑭十一月晦・⑮十二月晦・⑯一月晦・⑰二月晦・⑱三月晦・⑲夏四月丙寅晦」となるので、(9)から(11)までは19ヶ月である。よって、JD1,656,763.7064+561.0811883(19朔望月)=JD1,657,324.7876となり、このJDは西暦-175年7月5日14時9分56秒64、乙丑年(1)月初甲寅(50)戊午(54)なので、この日干支も日蝕記録の日干支丙寅(02)と一致しない。
(当然のことですが、上記のように(9)から計算し始めても(10)から計算した結果と同じになります。)
さらに、月が「四月」ではなく「五月」の誤記だと仮定し、閏月「後九月」が無かった(19ヶ月)場合は、上記の19ヶ月と同じで、日干支戊午(54)が日蝕記録の日干支丙寅(02)と一致しません。また、閏月「後九月」が有った場合(20ヶ月)は、(9)のJD1,656,763.7064+590.6117772=1,657,354.3182となり、西暦-175年8月4日2時53分58秒51、乙丑年(1)月初乙酉(21)戊子(24)なので、この日干支も日蝕記録の日干支丙寅(02)と一致しませんし、日蝕が観測できる時刻でもありません。
ちなみに、次の景帝(劉啓)〔紀元前157~紀元前141年。前7年・中年7年・後3年〕の日蝕記録(12)に至るまでのSNの日蝕データ(下記)で、日干支が日蝕記録(11)の日干支丙寅(02)と一致するものは、紀元前162/08/29 00:05 *0゚27' 金環日食(71)丙寅(02)だけですが、紀元前162(西暦-161)年は、文帝十八年か十九年〔文帝(劉恒)紀元前180~紀元前157年〕なので、「〔文帝〕四年夏四月丙寅晦」という日蝕記録(11)とはあまりにも離れすぎています。
紀元前178/12/22 12:13 0゚23' 金環日食(58)←日蝕記録(9)です。
〇紀元前177/01/21 0:57 丁卯(03)SNのデータに無し←日蝕記録(10)です。
紀元前177/06/16 23:31 *0゚53' 皆既日食(63)甲午(30)
紀元前176/06/06 12:03 0゚26' 皆既日食(73)己丑(25)
紀元前175/05/26 20:45 *0゚59' 部分日食(83)癸未(19)
紀元前175/10/21 01:42 *0゚50' 部分日食(50)辛亥(47)
紀元前174/10/10 18:00 0゚27' 皆既日食(60)乙巳(41)
紀元前173/04/04 10:04 0゚30' 金環日食(65)壬寅(38)
紀元前173/09/29 01:41 *0゚36' 金環日食(70)庚子(36)
紀元前172/03/24 23:43 *0゚33' 皆既日食(75)丙申(32)
紀元前171/08/08 13:52 0゚47' 部分日食(52)戊午(54)
紀元前170/02/02 21:13 *0゚24' 金環皆既日食(57)丙辰(52)
紀元前170/07/28 22:30 *0゚29' 皆既日食(62)壬子(48)
紀元前169/01/23 02:01 *0゚07' 金環日食(67)辛亥(47)
紀元前169/07/17 13:04 0゚38' 皆既日食(72)丁未(43)
紀元前168/01/11 02:07 *0゚46' 部分日食(77)乙巳(41)
紀元前168/06/07 23:26 *0゚36' 部分日食(44)壬申(8)
紀元前167/05/28 09:19 0゚19' 金環日食(54)丁卯(3)
紀元前167/11/20 21:58 *0゚49' 皆既日食(59)癸亥(59)
紀元前166/05/17 16:20 0゚18' 金環日食(64)辛酉(57)
紀元前166/11/10 11:19 0゚28' 皆既日食(69)戊午(54)
紀元前165/05/05 16:59 0゚60' 金環日食(74)乙卯(51)
紀元前165/10/30 02:25 *0゚39' 皆既日食(79)癸丑(49)
紀元前164/03/26 07:25 0゚23' 部分日食(46)庚辰(16)
〔国立天文台:-163/09/19 部分日食51〕紀元前164(-163)年9月19日6時30分、月齢0.0255171、丁丑(13)
紀元前164/10/19 14:26 0゚54' 丁未(43)
紀元前163/03/15 23:16 *0゚01' 皆既日食(56)甲戌(10)
紀元前162/03/05 16:37 0゚44' 皆既日食(66)己巳(5)
紀元前162/08/29 00:05 *0゚27' 金環日食(71)丙寅(2)
紀元前161/08/17 05:21 *0゚30' 金環日食(81)庚申(56)
紀元前160/01/12 22:28 *0゚45' 部分日食(48)戊子(24)
紀元前160/08/06 21:46 *0゚48' 部分日食(91)甲寅(50)
紀元前159/01/01 21:54 *0゚06' 金環日食(58)壬午(18)
紀元前159/06/28 05:20 *0゚54' 皆既日食(63)庚辰(16)
紀元前159/12/21 23:12 *0゚29' 金環日食(68)丙子(12)
紀元前158/06/17 20:50 *0゚01' 金環皆既日食(73)甲戌(10)
景帝紀〔景帝(劉啓)前157~前141年。前7年・中年7年・後3年〕
(12)(三年)二月壬子晦,日有食之。〈19〉
判定:?(景帝三年は紀元前155年と思われるが、SNの日蝕データには『漢書』本紀の日蝕記録(12)の日干支壬子(48)と一致するものがない。)
以下は景帝元年(紀元前157年からのSNのデータ)です。
紀元前157/06/06 01:23 *0゚31' 部分日食(83)己巳(5)
紀元前157/10/31 10:27 0゚41' 部分日食(50)丙申(32)
紀元前156/04/26 12:27 0゚59' 金環日食(55)癸巳(29)
紀元前156/10/21 01:09 *0゚08' 金環皆既日食(60)辛卯(27)
紀元前155/04/15 19:22 *0゚00' 金環皆既日食(65)丁亥(23)
紀元前155/10/10 08:33 0゚25' 金環日食(70)乙酉(21)
紀元前154/04/05 05:44 *0゚01' 皆既日食(75)壬午(18)
紀元前154/08/30 19:29 *0゚59' 金環日食(80)己酉(45)
紀元前153/08/18 21:10 *0゚19' 部分日食(52)癸卯(39)
紀元前152/02/13 03:13 *0゚49' 金環皆既日食(57)壬寅(38)
紀元前152/08/08 04:11 *0゚01' 皆既日食(62)戊戌(34)
紀元前151/02/02 09:21 0゚26' 金環日食(67)丙申(32)
(13)(四年)十月戊戌晦,日有蝕之。〈25〉
判定:?(景帝四年は紀元前154年と思われるが、SNにある紀元前152/08/08 04:11 *0゚01' 皆既日食(62)戊戌(34)は、日干支戊戌(34)だけは一致するが、『漢書』本紀の「十月戊戌晦」とは月が適合せず(太陰太陽暦「十月晦」は太陽暦の11月か12月にあたるはずで、太陽暦8月8日は太陰太陽暦では「六月」か「七月」にあたるはず)、また日蝕が観測できる時刻(04:11)でもない。)
紀元前155/04/15 19:22 *0゚00' 金環皆既日食(65)丁亥(23)
紀元前155/10/10 08:33 0゚25' 金環日食(70)乙酉(21)
紀元前154/04/05 05:44 *0゚01' 皆既日食(75)壬午(18)
紀元前154/08/30 19:29 *0゚59' 金環日食(80)己酉(45)
紀元前153/08/18 21:10 *0゚19' 部分日食(52)癸卯(39)
紀元前152/02/13 03:13 *0゚49' 金環皆既日食(57)壬寅(38)
紀元前152/08/08 04:11 *0゚01' 皆既日食(62)戊戌(34)
紀元前151/02/02 09:21 0゚26' 金環日食(67)丙申(32)
紀元前150/01/22 09:17 0゚14' 金環日食(77)庚寅(26)←日蝕記録(14)です。
(14)七年冬十一月庚寅晦,日有蝕之。〈30〉
〔同年立太子記事:(紀元前150年)夏四月乙巳,立皇后王氏。丁巳,立膠東王徹※為皇太子。(※膠東王徹は後の武帝(劉徹))〕
SN:紀元前150/01/22 09:17 0゚14' 金環日食(77)
WS:西暦-149年1月22日9時17分、辛卯年(27)月初己巳(5)庚寅(26)、月齢:0.594327411、JD:1,666,656.5842。
判定:◎(日干支も一致している。また、同年夏四月にある立太子記録も西暦と整合している。)
(15)(中二年九月)甲戌晦,日有蝕之。〈44〉
判定:?(中二年は紀元前148年、記録(14)と記録(16)の間に起きた日蝕は次の通り。甲戌(10)に近い日干支の日蝕はない。)
紀元前150/06/19 04:42 *0゚51' 戊午(54)
(〔国立天文台:-149/07/18 皆既日食82〕丁亥(23)〔長安LMT:西暦-149(紀元前150)年7月17日23時25分27秒38、辛卯年(27)月初庚午(6)丙戌(22)、月齢:0.000000038、JD:1,666,833.1734〕)
紀元前149/01/11 10:12 0゚50' 甲申(20)
紀元前149/06/07 19:03 0゚16' 金環日食(54)壬子(48)
紀元前149/12/01 04:27 *0゚44' 皆既日食(59)己酉(45)
紀元前148/05/27 22:21 *0゚37' 金環日食(64)丙午(42)
紀元前148/11/20 21:54 *0゚09' 皆既日食(69)癸卯(39)
(16)三年…秋九月,…戊戌晦,日有蝕之。〈47〉
SN:紀元前147/11/10 11:25 0゚14' 皆既日食(79)
WS:西暦-146年11月10日11時25分、甲午年(30)月初己丑(25)戊戌(34)、月齢:0.745539880、JD:1,668,044.6731。
判定:◎(日干支も一致している。)
(17)四年春三月,…。〔中五年〕十月戊午,日有蝕之。〈54〉
判定:?(下記の如く検討したが、該当する日蝕が見つからなかった。月順が正常なので、十月正始を変更したように見えるが、次の記録(18)と整合しないので、「(中)五年」の脱漏と考えられる。)
日蝕記録(16)「三年…秋九月,…戊戌晦」(翌月が「四年十月」)から「〔中五年〕十月戊午」の前月末(九月晦)までの月の経過は、閏月(「後九月」)がない場合には次のようになる。
①四年十月晦、②十一月晦、③十二月晦、④一月晦、⑤二月晦、⑥三月晦、⑦四月晦、⑧五月晦、⑨六月晦、⑩七月晦、⑪八月晦、⑫四年九月晦(翌月が五年十月)
ここで⑫四年九月晦の日干支がわからないので、⑫までの12ヶ月を日蝕記録(16)に加えてみると次の通りです。
(16)のJD1,668,044.6731+12朔望月354.3670663=1,668,399.0402。日干支の計算は、戊戌(34)+12朔望月354.3670663=四年九月晦のJD1,668,433.0402。干支の数60で割ると余りが13.0402です。つまり四年九月晦の日干支は丙子(12)で五年十月朔の日干支は丁丑(13))。日蝕記録(17)の日干支戊午(54)とは一致しません。
では、この間に閏月(「後九月」)が有った(13ヶ月)とすると、次のようになります。
(16)のJD1,668,044.6731+13朔望月383.8976552=1,668,428.5708。日干支の計算は、戊戌(34)+13朔望月383.8976552=417.8976552。干支の数60で割ると余りが3.8976552です。五年十月朔の日干支は丁卯(3)で、やはり日蝕記録の日干支戊午(54)にはなりません。
さらに、これを月日数で確かめてみます。閏月(「後九月」)が有った場合、小の月から始めると、①四年十月晦(29)、②十一月晦(30)、③十二月晦(29)、④一月晦(30)、⑤二月晦(29)、⑥三月晦(30)、⑦四月晦(29)、⑧五月晦(30)、⑨六月晦(29)、⑩七月晦(30)、⑪八月晦(29)、⑫九月晦(30)、⑬四年後九月晦(29)(この翌月が五年十月)
この場合、小の月(29日)が①③⑤⑦⑨⑪⑬の7ヶ月で203日、大の月(30日)が②④⑥⑧⑩⑫の6ヶ月で180日、合計383日です。日干支の計算は、日蝕記録(16)の日干支戊戌(34)+383日=417日、これを60で割った餘は3(五年十月月初の日干支番号)。干支番号3の日干支は丁卯で日蝕記録(17)の日干支戊午(54)とは一致しません。また大の月(30日)から始めると大の月(30日)が①③⑤⑦⑨⑪⑬の7ヶ月で210日、小の月(29日)が②④⑥⑧⑩⑫の6ヶ月で174日、合計384日です。これは小の月から始めた場合に比べて一日増えただけですから、これを60で割った餘は4(五年十月月初の日干支番号)。干支番号4の日干支は戊辰でこれも日蝕記録(17)の日干支戊午(54)とは一致しません。
また、日蝕記録(16)と日蝕記録(18)の間に起きた日蝕は次のように四つでありますが、いずれも日蝕記録の日干支戊午(54)と日干支が一致しません。
紀元前146/04/06 17:41 0゚56' 部分日食(46)乙丑(1)
紀元前145/03/26 05:21 *0゚19' 皆既日食(56)庚申(56)
紀元前145/09/19 05:12 *0゚46' 金環日食(61)丁巳(53)
紀元前144/03/15 23:43 *0゚41' 皆既日食(66)甲寅(50)
(18)〔中〕六年冬十月※,…。秋七月辛亥晦,日有蝕之。〈65〉〔※ 正しくは「中七年冬十月」〕
SN:紀元前144/09/08 05:48 *0゚08' 金環日食(71)
WS:西暦-143年9月8日5時48分、丁酉年(33)月初甲辰(40)辛亥(47)、月齢:29.471490863(=-0.0591)、JD:1,669,077.4390。
判定:〇(日干支も一致している。)
《留意事項》日蝕記録(18)が「〔中〕六年」ならば記録(19) 紀元前143年の二年前、すなわち紀元前145年のはずであるが、記録(17)の「〔中〕五年」を脱漏した余波を受けて、正しくは「〔中〕七年冬十月」とすべきところを「六年冬十月」と誤った、と考えられる。
(19)後元年…五月,…。秋七月乙巳晦,日有蝕之。〈67〉
SN:紀元前143/08/28 15:460゚19' 金環日食(81)
WS:西暦-142年8月28日15時46分、戊戌年(34)月初戊寅(14)乙巳(41)、月齢:29.519702320(=-0.0109)、JD:1,669,431.8543。
判定:◎(日干支も一致している。)
《傍証記録》
三年春正月,詔曰:「〔中略〕。」甲子,帝崩于未央宮。〈77〉
Wikipedia「景帝(漢)」によれば、景帝の在位期間は紀元前157年7月14日から紀元前141年3月9日とされている。『漢書』の後三年春正月甲子(景帝崩御)が紀元前141年3月9日に違いなければ、後元年春正月は紀元前143年で間違いない。
武帝紀〔世宗・武帝(劉徹)前141~前87年〕
(20)二年冬十月,…春二月丙戌朔,日有蝕之。〈10〉
判定:? (該当する日蝕が見つからない不可解な記録である。)
《判断根拠》武帝の在位初年(紀元前141年)を含め漢書武帝紀における次の日蝕記録(21)までの間に起きた観測できないもの含む日蝕(下記)には、日干支が日蝕記録(20)の日干支丙戌(22)と一致するものはなく、日干支の誤写と考え得るものもなく、また日蝕記録(20)の日干支の近くに起きた日蝕もない。
紀元前143/08/28 15:46 0゚19' 金環日食(81)乙巳(41)
紀元前142/01/24 04:26 *0゚37' 部分日食(48)甲戌(10)
紀元前141/01/13 03:43 *0゚06' 金環日食(58)戊辰(4)
紀元前141/07/08 14:25 0゚30' 皆既日食(63)乙丑(1)
紀元前140/01/01 05:17 *0゚35' 金環日食(68)壬戌(58)
紀元前140/06/28 02:01 *0゚19' 金環皆既日食(73)庚申(56)
紀元前139/06/17 06:12 0゚36' 部分日食(83)甲寅(50)
紀元前139/11/11 20:56 *0゚30' 部分日食(50)辛巳(17)
紀元前138/05/07 19:53 *0゚54' 金環日食(55)戊寅(14)
(21)三年春,…九月丙子晦,日有蝕之。〈17〉
SN:紀元前138/11/01 08:46 0゚10' 金環皆既日食(60)
WS:西暦-137年11月1日8時46分、癸卯年(39)月初丙子(12)丙子(12)、月齢:0.739759754、JD:1,671,322.5626。
判定:◎(日干支も一致している。)
(22)元光元年秋七月癸未,日有蝕之。〈32〉
SN:紀元前134/08/19 13:31 0゚06 '皆既日食(62)
WS:西暦-133年8月19日13時31分、丁未年(43)月初乙丑(1)癸未(19)、月齢:0.000000000、JD:1,672,709.7606。(UT:西暦-133年8月19日6時15分12秒)これが1973年に臨沂銀雀山2号墓から出土した竹簡にある暦が元光元年のものであることを決定づけた日蝕です。
判定:◎
(23)(元朔)二年三月乙亥晦,日有蝕之。〈61〉
判定:?(SNに該当するデータが見当たらない。)
年号「元朔」は「紀元前128年~紀元前123年の6年間とされており、「元朔二年」の西暦は紀元前127年または紀元前126年であろうが、この2年間を含めた上記日蝕記録(22)と下記日蝕記録(24)の間の期間において起きたであろう日蝕(見えない日蝕を含めて)のうちで、日干支が一致するのは「紀元前132/02/01 19:33 *0゚50' 金環日食(77)」だけある。が、この日蝕は「三月」以前の日付なので当該日蝕記録(23)ではありえない。また、誤記されたと考えられ得る日干支もないので、「(元朔)二年三月乙亥晦」の日蝕記録は、❶「三月」は「二月」の誤写、かつ❷「前年が閏年で「後九月」があった」場合以外にはありえない日蝕記録と思われる。なお、❶かつ❷の場合であり得るか否かは、「顓頊暦」と照合してみなければわからない。かりに記録が月を間違えていたとしても、現地時間19:33の時刻では見えない日蝕であっただろう。
紀元前133/02/13 19:40 *0゚14' 金環日食(67)辛巳(17)
紀元前133/08/08 03:37 *0゚44' 皆既日食(72)戊寅(14)
紀元前132/02/01 19:33 *0゚50' 金環日食(77)乙亥(11)
紀元前131/06/19 00:20 *0゚02' 金環日食(54)戊戌(34)
紀元前130/06/08 03:02 *0゚36' 金環日食(64)壬辰(28)
紀元前130/12/02 04:43 *0゚05' 皆既日食(69)己丑(25)
紀元前129/11/20 21:39 *0゚31' 皆既日食(79)癸未(19)
紀元前128/04/17 00:06 *0゚39' 部分日食(46)辛亥(47)
紀元前127/04/06 15:07 0゚11' 皆既日食(56)乙巳(41)
紀元前126/09/19 15:56 0゚31' 金環日食(71)丙申(32)
紀元前125/02/15 08:24 0゚57乙丑(1)
(〔国立天文台:-124/03/15 皆既日食76〕甲午(30))
紀元前125/09/07 23:02 *0゚07' 金環皆既日食(81)庚寅(26)
紀元前124/02/03 13:36 0゚22' 部分日食(48)己未(55)
紀元前123/01/23 12:42 0゚20' 金環日食(58)癸丑(49)
紀元前122/01/12 16:52 0゚52' 金環日食(68)丁未(43)
(24)元狩元年五月乙巳晦,日有蝕之。〈83〉
SN:紀元前122/07/09 07:59 0゚01' 金環皆既日食(73)
WS:西暦-121年7月9日7時59分、己未年(55)月初丁酉(33)乙巳(41)、月齢:0.772882025、JD:1,677,051.5300。
判定:◎(日干支も一致している。)
(25)(元鼎五年)夏四月,…丁丑晦,日有蝕之。〈131〉
SN:紀元前112/06/18 08:59 0゚04' 金環日食(64)
WS:西暦-111年6月18日8時59分、己巳年(5)月初庚申(56)丁丑(13)、月齢:0.552118911、JD:1,680,683.5717。
判定:◎(日干支も一致している。)
《特記事項》『太初暦』の改暦
日蝕記録(25)と(26)の間の太初元年(紀元前104年)に『太初暦』の改暦があり、『顓頊暦』の「十月年始」を「立春正月年始」(冬至を十一月に固定する「夏正(寅月正始)」に改め、また、「後九月」とされていた閏月を、中気のない月を閏月とする「歳中閏月法」に改められた。
(26)(太始四年)冬十月甲寅晦,日有蝕之。〈217〉
SN:紀元前 93/12/12 15:18 0゚10' 金環皆既日食(79)
WS:西暦-92年12月12日15時18分、戊子(24)月初癸卯(39)甲寅(50)、月齢:0.943398096、JD:1,687,800.8349。
判定:◎(日干支も一致している。)
(27)(征和四年)秋八月辛酉晦,日有蝕之。〈238〉
SN:紀元前 89/09/29 15:51 0゚03' 金環皆既日食(81)
WS:西暦-88年9月29日15時51分、壬辰年(28)月初癸巳(29)辛酉(57)、月齢:0.028638343、JD:1,689,187.8578
判定:◎(日干支も一致している。)
昭帝紀〔昭帝(劉 弗陵)前87~前74年〕
(28)(始元三年)十一月壬辰朔,日有蝕之。〈25〉
SN:紀元前 84/12/03 11:29 0゚15' 金環日食(60)
WS:西暦-83年12月3日10時29分、丁酉年(33)月初庚寅(26)壬辰(28)、月齢:0.847340191、JD:1,691,078.6342
判定:◎(日干支も一致している。)
(29)(元鳳元年)秋七月乙亥晦,日有蝕之,既。〈49〉
SN:紀元前 80/09/20 13:29 0゚03' 皆既日食(62)
WS:西暦-79年9月20日13時29分、辛丑年(37)月初庚辰(16)己亥(35)、月齢:0.034663771、JD:1,692,465.7592。
判定:〇(この日干支「乙亥」は、「己亥」の間違い(誤写)ではないかと思われる。)
もし、この日蝕を前年の紀元前79年のものであるとすれば次になる。
SN:紀元前 79/09/10 03:46 *0゚23' 皆既日食(72)
WS:西暦-78年9月10日3時46分、壬寅年(38)月初乙酉(21)甲午(30)、月齢:0.262736340、JD:1,692,820.3543。これは見えない日蝕であり、日干支(甲午)も「乙亥」とは似ていない。
宣帝紀〔中宗・宣帝(劉詢)前74~前48年〕
(30)(本始四年)十二月癸亥晦,日有蝕之。〈31〉
SN:紀元前 68/02/13 17:12 0゚37' 金環日食(68)
WS:西暦-67年2月13日17時12分、癸丑年(49)月初辛亥(47)癸亥(59)、月齢:0.376495622、JD:1,696,629.9140。
判定:◎(日干支も一致している。)
(31)(神爵四年)冬十二月乙酉朔,日有蝕之。〈98〉
SN:紀元前 56/01/03 06:37 *0゚17' 金環皆既日食(79)
WS:西暦-55年1月3日6時37分、乙丑年(1)月初癸未(19)乙酉(21)、月齢:0.938960980、JD:1,700,971.4731。
判定:◎(日干支も一致している。)
(32)(五鳳三年)夏四月辛丑晦,日有蝕之。〈111〉
SN:紀元前 54/05/09 14:21 0゚12' 皆既日食(66)
WS:西暦-53年5月9日14時21分、丁卯年(3)月初癸巳(29)辛丑(37)、月齢:0.874106263、JD:1,701,827.7953。
判定:◎(日干支も一致している。)
元帝紀〔高宗・元帝(劉奭)前48~前33年〕〈32〉
(33)(永光二年)三月壬戌朔,日有蝕之。
SN:紀元前 42/03/28 05:23 *0゚02' 金環日食(77)
WS:西暦-41年3月28日5時23分、己卯年(15)月初乙未(31)壬戌(58)、月齢:0.503932731、JD:1,706,168.4217。
判定:◎(日干支も一致している。)
(34)(永光二年)夏六月…戊寅晦,日有蝕之。〈43〉
SN:紀元前 40/07/31 12:32 0゚18' 金環日食(64)
WS:西暦-39年7月31日12時32分、辛巳年(17)月初戊申(44)戊寅(14)、月齢:0.414772458、JD:1,707,024.7196。
判定:◎(日干支も一致している。)
(35)(建昭五年夏六月)壬申晦,日有蝕之。〈67〉
SN:紀元前 39/07/20 13:42 0゚28' 金環日食(74)
WS:西暦-38年7月20日13時42分、壬午年(18)月初癸丑(49)壬申(8)、月齢:0.096317249、JD:1,707,378.7682。
判定:?(不可解。上記SNデータなら日干支が一致するが、この年だと「永光五年」である。)
年号「建昭」は、紀元前38年から紀元前34年までの5年間とされているので、建昭五年は紀元前34年ころと思われるが、下記のように、建昭年間で月と日干支が日蝕記録(35)と適合するのは、上記日蝕しかない。
紀元前 39/01/25 01:58 *0゚06' 皆既日食(69)丙子(12)
紀元前 39/07/20 13:42 0゚28' 金環日食(74)壬申(8)
紀元前 38/01/14 17:54 0゚32' 金環皆既日食(79)庚午(6)
紀元前 37/05/30 03:12 *0゚04' 皆既日食(56)壬辰(28)
紀元前 37/11/23 04:28 *0゚50' 金環日食(61)己丑(25)
紀元前 36/05/19 22:03 *0゚32' 皆既日食(66)丙戌(22)
紀元前 36/11/12 05:58 *0゚16' 金環日食(71)癸未(19)
紀元前 35/11/01 17:47 0゚01' 金環皆既日食(81)丁丑(13)
紀元前 34/03/30 01:42 *0゚41' 部分日食(48)丙午(42)
紀元前 33/03/18 01:48 *0゚05' 金環日食(58)庚子(36)
成帝紀〔統宗・成帝(劉驁)前33~前7年〕
(36)(建始三年)冬十二月戊申朔,日有蝕之。〈30〉
SN:紀元前 29/01/05 15:10 0゚17' 金環日食(60)
WS:西暦-28年1月5日15時10分、壬辰年(28)月初甲辰(40)戊申(44)、月齢:1.078531740、JD:1,710,834.8293。
判定:◎(日干支も一致している。)
年号「建始」は紀元前32年~紀元前28年2月までの5年間とされているが、SNではその間の日蝕は次の通りであり、紀元前 29/01/05 15:10 0゚17' 金環日食(60)が該当する日蝕と考えられる。月齢が1.078531740であるのは、蝕甚(食の最大)時刻は前日の西暦-27年6月19日2時29分47秒(月齢0.000004020)なのだが、この時刻では日蝕は観測できないので、翌日となったのであろうか。
紀元前 32/03/07 05:46 *0゚48' 金環日食(68)甲午(30)
紀元前 32/08/31 22:23 *0゚35' 金環日食(73)辛卯(27)
紀元前 31/08/21 00:08 *0゚08' 金環日食(83)丙戌(22)
紀元前 30/01/16 01:21 *0゚55' 部分日食(50)甲寅(50)
紀元前 30/08/10 00:18 *0゚44' 部分日食(93)庚辰(16)
紀元前 29/01/05 15:10 0゚17' 金環日食(60)戊申(44)
紀元前 29/12/24 21:29 *0゚30' 金環日食(70)壬寅(38)
紀元前 28/06/19 10:15 0゚02' 皆既日食(75)己亥(35)
(37)(河平元年)夏四月己亥晦,日有蝕之,既。〈37〉
SN:紀元前 28/06/19 10:15 0゚02' 皆既日食(75)
WS:西暦-27年6月19日10時15分、癸巳年(29)月初辛巳(17)己亥(35)、月齢:0.323071149、
JD:1,711,365.6244。
判定:◎(日干支も一致している。)
(38)(河平三年)秋八月乙卯晦,日有蝕之。〈43〉
SN:紀元前 26/10/23 15:27 0゚12' 皆既日食(62)
WS:西暦-25年10月23日15時27分、乙未年(31)月初癸巳(29)乙卯(51)、月齢:0.152660876、
JD:1,712,221.8411。
判定:◎(日干支も一致している。)
(39)(河平四年)三月癸丑朔,日有蝕之。〈48〉
SN:紀元前 25/04/18 13:29 0゚15' 金環日食(67)
LMT西暦-24年4月18日13時29分、丙申年(32)月初丙申(32)癸丑(49)、月齢:0.887183271、
JD:1,712,399.7592。
判定:◎(日干支も一致している。)
(40)(陽朔元年)春二月丁未晦,日有蝕之。〈54〉
SN:紀元前 24/04/07 13:26 0゚24' 金環日食(77)
WS:西暦-23年4月7日13時26分、丁酉年(33)月初辛丑(37)丁未(43)、月齢:0.518033618、
JD:1,712,753.7571。
判定:◎(日干支も一致している。)
(41)(永始二年)二月…。乙酉晦,日有蝕之。〈93〉
SN:紀元前 15/03/29 07:43 0゚03' 金環日食(58)
WS:西暦-14年3月29日7時43分、丙午年(42)月初丁巳(53)乙酉(21)、月齢:0.384475714、JD:1,716,031.5189。
判定:◎(日干支も一致している。)
(42)(永始)三年春正月己卯晦,日有蝕之。〈97〉
SN:紀元前 14/03/18 16:05 0゚25' 金環日食(68)
WS:西暦-13年3月18日16時5分、丁未年(43)月初壬戌(58)己卯(15)、月齢:0.366020505、JD:1,716,385.8675。
判定:◎(日干支も一致している。)
(43)(永始四年)秋七月辛未晦,日有蝕之。〈105〉
SN:紀元前 13/08/31 05:27 *0゚26' 金環日食(83)
WS:西暦-12年8月31日5時27分、戊申年(44)月初辛丑(37)辛未(7)、月齢:0.372365469、JD:1,716,917.4244)。
判定:◎(日干支も一致している。)
(44)元延元年春正月己亥朔,日有蝕之。〈106〉
SN:紀元前 12/01/26 09:03 0゚25' 部分日食(50)
WS:西暦-11年1月26日9時3分、己酉年(45)月初甲戌(10)己亥(35)、月齢:0.087040025、JD1,717,065.5750。
判定:◎(日干支も一致している。)
哀帝紀〔哀帝(劉欣)前7~前1年〕
(45)元壽元年春正月辛丑朔,日有蝕之。
SN:紀元前 02/02/05 08:20(79)
WS:西暦-1年2月5日8時20分、己未年(55)月初丁酉(33)辛丑(37)、月齢:1.046541418、JD:1,720,727.5446。
判定:〇(日干支も一致している。)
HY式月齢推算によれば、このSNのデータの日蝕の前日(西暦-1年2月4日)が朔(新月の時刻を含む日)だと思われる。この朔=月齢0.0(0.000000099)の時刻は、西暦-1年2月4日7時12分58秒.83、己未年55月初丁酉33庚子36、JD:1,720,726.4980となっていて、観測可能な時刻である。
「太初暦」の前の「顓頊暦」(“古六暦”の一つ)は章法四分暦で、その太陽年(回帰年:太陰太陽暦では「冬至から次の冬至まで」の日数)は「四分暦」の太陽年は365+1/4日=365.25日、この日数は実際の季節の循環日数の平均値約365.24219日よりも長いため、実際の季節よりも暦の方が遅れる。また、下式①(「章法」はY=19,M=7(19年に7閏月を置く、すなわち19年=235ヶ月))により計算すれば、章法四分暦の朔望月は約29.530851日であり、この朔望月は、実際の朔望月の平均値約29.530589日より長いため、実際の月の盈虧(満ち欠け)の周期よりも暦の方が遅れる。つまり、章法四分暦は、季節・盈虧両者ともに実際より暦の方が遅れるので、もし「太初暦」が「顓頊暦」時代からの「暦の遅れ」を継承していると仮定すれば、実際に前日に起きた日蝕を翌日のものとして記録する(十二月晦の日蝕を正月元旦のものと記録する、すなわち暦の方が進んでいる)という事態は起こらないと考えられる。邪推すれば、この日蝕記録は縁起を担いで翌日(元旦)のものを記録したのではないだろうか。
太陽年=(12+M/Y)×朔望月……①
「章法詩文暦」の朔望月=太陽年(365+1/4日)/(12+7/19)=(1,461/4)/(235/19)=(1,461/4)×(19/235)=(1,461×19)/(4×235)=27,759/940=29+499/940日=29.53085106382980…日
(46)(元壽二年)夏四月壬辰晦,日有蝕之。〈43〉
判定:?(日蝕記録(45)の翌年なら紀元前1(西暦-1)年のはずだが、全て日干支が一致しない。)
紀元前 02/07/02 01:45 *0゚58' 戊辰(4)
紀元前 02/07/31 10:20 0゚56' 皆既日食(84)丁酉(33)
紀元前 01/06/20 20:15 *0゚19' 部分日食(56)辛酉(57)
紀元前 01/12/14 23:06 *0゚46' 金環日食(61)戊午(54)
AD 01/06/10 11:17 0゚04' 皆既日食(66)丁巳(53)
AD 01/12/04 00:35 *0゚09' 金環日食(71)甲寅(50)
平帝紀〔平帝(劉衎)前1~後5年〕
(47)(元始元年)夏五月丁巳朔,日有蝕之。〈8〉
SN:01/06/10 11:17 0゚04' 皆既日食(66)
WS:西暦1年6月10日11時17分、辛酉年(57)月初戊申(44)丁巳(53)、月齢:0.782381145、JD:1,721,583.6675。
判定:◎(日干支も一致している。)
(48)(元始二年)九月戊申晦,日有蝕之。〈21〉
SN:02/11/23 08:46 0゚08' 金環皆既日食(81)
WS:AD 2年11月23日8時46分、壬戌年(58)月初丙戌(22)戊申(44)、月齢:0.126920554、JD:1,722,114.5626。
判定:◎(日干支も一致している。)
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