二倍年暦(二倍年齢)

2021年4月 4日 (日)

『史記』に記された暦(17)-魯国の年代確認-

『史記』に記された暦(17)
魯国の年代確認[][古田史学][二倍年暦(二倍年齢)]

1.はじめに

 前回(『史記』に記された暦(16)-「東周朝」と「魯」の対照年表-)、作成した「東周・魯国対照年表」をご覧いただきましたが、今回は春秋時代(東周時代)に孔子の生地「魯国」の都「曲阜」で観測されたであろう日食を株式会社アストロア-ツ(会社案内)製の高機能天文シミュレ-ションソフトウェア「スピラナビゲ-タ(SrellaNavigator)11」(以下「SN」と略す)を用いて、魯国の都の曲阜(現山東省済寧市)の緯度経度を「北緯3536分・東経11702分」とし、「紀元前750年~紀元前255年」の範囲で計算させたデ-タに、国立天文台の「日月食等デ-タベ-ス」(国立天文台>暦計算室>日月食等DB>日月食等デ-タベ-ス)によって日食の日時・現象区分(皆既/金環/金環皆既/部分)・サロス番号を補ったものを拠り所として、文獻「春秋三伝」の日食記録を検証しました。今回は、SNのデ-タ等の掲載は割愛して、検証結果をまとめた「東周・魯国対照年表」を掲載します。なお、「春秋三伝」の日食記録は、(1)「隠公三年二月己巳」から(38)「哀公十四年、五月庚申朔」までしかありませんので、検証したのはその範囲に限られます。
 また、検証には『史記』に記された「暦」(12)-漢代の定点(その6)日蝕検証WS- で紹介した「HY式日蝕検証WS」及びMicrosoft Excelで作ったワ-クシ-ト「JDによる朔干支検索WS」(朔であるJDを起点にその前13ヶ月・後100ヶ月に渡る朔の日干支を表示する)を用いました。
 今回は、疑義のある日食記事についてのみ、それに関係するSN及び天文台デ-タを読者の検証の参考として掲載しました。


2.検証結果(総括)

 次に掲げる「東周・魯国対照年表」をご覧いただけば一目瞭然ですが、38件の日食記録のうち4(記録(10)(15)(25)(27))を除いた34(89.5)は、記録の日干支がSNやWSの朔の日干支と一致していました。すなわち、魯国の君主の年代比定はほぼ間違っていない(間接的に、東周王の年代比定もほぼ間違っていない)と結論して良いと考えています。
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3


3.春秋三伝の日食記録の検証結果(詳細)

 表示は次のようにしています。
(記録番号)日蝕記録〔簡略表示〕
SNデ-タ(天文台デ-タ)WSデ-タ〔日干支(番号)、JD,月齢の順〕
該当するデ-タが無い場合は飛ばして記載しています。例:該当する天文台デ-タが無い場合「SNデ-タ()WSデ-タ」

 ()隱公三年、二月己巳、日有食之。
BC  720/02/22 07:27   0゚28'(-719/02/22 皆既日食 38)、己巳(5)、JD:1,458,495.4853、月齢:0.616358959

()桓公三年、七月壬辰朔、日有食之、既。
BC  709/07/17 15:33   0゚08'(-708/07/17 皆既日食 44)、壬辰(28)、JD:1,462,658.8228、月齢:0.140829699 

() 桓公十七年、十月朔、日有食之。
BC  695/10/10 14:17   0゚17'(-694/10/10 金環日食 42)、庚午(6)、JD:1,467,856.7700、月齢:0.7044126

()莊公十八年、三月、日有食之。〔夜食也。〕
BC  675/04/05 07:47   0゚02'(-674/04/05 皆既日食 57)、丁未(43)、JD:1,474,973.4992、月齢:0.561663968

《留意事項》ここまでは、西暦の月名は記録の月名の同月または翌月となっています。
 現代の“旧暦”(太陰太陽暦)は「夏正(寅月正始)」(寅月が正月、冬至の月(子月)は十一月)となっていますので、冬至の月が12月(2021年は12月22日(JST))となっている西暦は、あえて太陰太陽暦で言ってみれば「殷正(丑月正始)」(丑月が正月、冬至の月(子月)は十二月)なわけです。すなわち、記録(1)(2)(3)(4)は月名が西暦より1ヶ月ほどですが((3)が最小9日、(4)が最大34日)早くなっていますので「周正(子月正始)」(子月が正月、冬至の月(子月)が正月)ではないかと推測されます(その暦が無いと確認できませんが)。

()莊公二十五年、六月辛未朔、日有食之。
BC  669/05/27 07:29   0゚22'(-668/05/27 金環日食 46)、辛未(7)、JD:1,477,217.4867、月齢:0.224410608

《留意事項》この(5)から下記(8)までの記録の月名が西暦の月名より遅くなっています(上記(1)~(4)とは逆)。
(4)と(5)の間に、何らかの理由
(不明)による改暦があったのかも知れません。
 つまり「夏正(寅月正始)」(寅月が正月、冬至の月(子月)は十一月)つまり現代の“旧暦”と同じ)ではないかと推測されます(その暦が無いと確認できませんが)。

()莊公二十六年、十二月癸亥朔、日有食之。
BC  668/11/10 09:10   0゚22'(667/11/10 金環日食 61)、癸亥(59) JD:1,477,749.5569、月齢:0.743950

()莊公三十年、九月庚午朔、日有食之。
BC  664/08/28 15:37   0゚15'(-663/08/28 皆既日食 63)、庚午(6)、JD:1,479,136.8256、月齢:0.075023597

()僖公五年、九月戊申朔〔庚午朔〕、日有食之。
BC  655/08/19 14:55   0゚05'(-654/08/19 皆既日食 44)、戊申(44)、JD:1,482,414.7964、月齢:0.15049347
三伝」のうち『春秋公羊傳』だけ日干支が「庚午朔」となっていましたが、この近辺には、記録の月を変えても年を変えてもこの近辺には「庚午朔」は見当たりませんでした(「JDによる朔干支検索WS」による)。
表1
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()僖公十二年、三月庚午〔正月庚午〕、日有食之。
BC  648/04/06 18:05   0゚16'(-647/04/06 皆既日食 38)、庚午(6)、JD:1,484,836.9284月齢:0.774151394
《留意事項》この記録(9)の月名「三月」が記録(5)~(8)とは異なり、記録(1)~(4)と同様に西暦(4月)よりも早くなっています(もと(「周正(子月正始)」)に戻っています)
(8)と(9)の間に、何らかの理由(不明)による改暦があったのかも知れません。
 また、『春秋穀梁傳』だけが「正月庚午」となっていますが、暦の正始月の違いによるのかも知れません。「子月正始」(冬至月の十一月が正始月)よりも早いのですから、現在までに知られている暦法の中で「十月正始(亥月正始)」が最も早い正始月ですから、「亥月正始」の暦を用いている者による記録がそのまま『春秋穀梁傳』に記されたのかも知れません。ちなみに秦国の『顓頊暦』は「十月正始」でした(漢の初期もこれを用いていました)。

(10)僖公十五年、五月、日有食之。
日干支が記されていませんので、暦がないと特定できません。
 (9)僖公十二年三月庚午の日食がJD1,484,836.9284なので、その三年後の三月はその間に閏月が無ければ36ヶ月後(JD:1,485,900.0296=1,484,836.9284+36×29.53058886)、閏月が有れば37ヶ月後(JD:1,485,929.5602=1,484,836.9284+37×29.53058886)です。次に掲げるのがその「JDによる朔干支検索WS」です。普通に考えれば西暦-645年(紀元前646年)ですが、BC  646/09/08 23:01では月が合いません。よって、月が合うのはBC  645/02/04 01:12なのですが、「僖公十五年」は「僖公十六年」の誤りとすることになります(そこまでは日干支が記されていないので踏み込めません)。
表2
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BC  648/09/30 02:20 * 0゚58'(-647/09/29 金環日食 43)、丁卯(3)、JD:1,485,013.2721、月齢:29.464957094(-0.0656318)
BC  647/03/27 06:33   0゚58'(-646/03/27 皆既日食 48)、乙丑(1)、JD:1,485,191.4478、月齢:0.9265295
BC  647/09/19 08:08   0゚12'(-646/09/19 金環日食 53)、辛酉(57)、JD:1,485,367.5138、月齢:29.3395574(-0.191031419)
BC  646/09/08 23:01 * 0゚04'(-645/09/08 皆既日食 63)、乙卯(51)、JD:1,485,722.1339、月齢:0.062041150
BC  645/02/04 01:12 * 0゚49'(-644/02/03 部分日食 30)、甲申(20)、JD:1,485,870.2249、月齢:0.500069072
WS:-644年7月29日17時36分11秒.30(-644/07/29 部分日食 35)、庚辰(16)、JD:1,486,046.9084、月齢:0.000000032〔SNに無く、天文台にあったので、朔時刻をWSで求めたもの。〕
BC  645/08/28 16:32   0゚50'(-644/08/28 部分日食 73)、庚戌(46)、JD:1,486,076.8638、月齢:0.424835941
BC  644/01/23 02:31 * 0゚09'(-643/01/22 金環日食 40)、戊寅(14)、JD:1,486,224.2798、月齢:0.187863863

(11)文公元年、二月癸亥〔朔〕、日有食之。
BC  626/02/03 10:45   0゚17'(-625/02/03 金環日食 40)、癸亥(59)、JD:1,492,809.6228、月齢:0.209603639

(12)文公十五年、六月辛丑朔、日有食之。
BC  612/04/28 06:38   0
03'(-611/04/27 皆既日食 38)、辛丑(37)、JD:1,498,007.4513、月齢:0.654436501

(13)宣公八年、七月甲子、日有食之、既。
BC  601/09/20 15:50   0゚13'(-600/09/20 皆既日食 44)、甲子(0)、JD:1,502,169.8346、月齢:0.224740574

(14)宣公十年、四月丙辰、日有食之。
BC  599/03/06 05:02 * 0゚02'(-598/03/05 金環日食 59)、丙辰(52)、JD:1,502,702.3846、丙辰(52)、月齢:0.2241411

(15)宣公十七年、六月癸卯、日有食之。
WS:-5917141150分()、癸卯(39)、JD:1,505,389.6682、月齢:0.224141094
SNにも天文台にも無いが「十七年」は「十八年」の誤りとすれば、朔日の日干支などに矛盾はない。
 “古六暦”は19年に7閏月を置く「章法」の暦であるとされている。19年に7閏月を置くと235ヶ月(=19年×12ヶ月+7閏月)である。つまり、章法暦の1年は平均すれば12.36842105ヶ月となる。記録(14)宣公十年から(15)宣公十七年までは七年なので、およそ86.57894737ヶ月(=17年×12.36842105ヶ月/年)なので、閏月は2回又は3回あったことになる(86.57894737ヶ月=12ヶ月/年×7年(84ヶ月)+2.57894737ヶ月)。また、(14)宣公十年から(15)宣公十七年までの間に暦法が変わっていないとすれば、四月朔から六月朔まで2ヶ月であるから、(14)宣公十年四月(朔)から(15)宣公十七年六月(朔)までは88ヶ月または89ヶ月となる(=86ヶ月+2または3ヶ月)。この辺りに癸卯朔で日食があったというのが記録(15)である。
 ところが、朔が癸卯(39)になるのは、(14)宣公十年、四月丙辰の後には、❶28ヶ月目(JD:1,503,529.2411、月齢:0.22414109435、西暦-596年)と❷91ヶ月目(JD:1,505,389.6682、月齢:0.22414109429、西暦-591年)の二ヶ所のみである。❶は宣公十二年、❷は宣公十八年に当たる。記録(15)の日干支に間違いが無く、どこかで日食が観測されたと仮定すれば、❷が自然であるとしてこのように推定した。
表3
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(16)
成公十六年、六月丙寅朔、日有食之。
BC  575/05/09 13:49   0゚10'(-574/05/09 皆既日食 48)、丙寅(2)、JD:1,511,532.7506、月齢:0.9440442

(17)成公十七年、十二月丁已朔、日有食之。
BC  574/10/22 07:53   0゚19'(-573/10/22 皆既日食 63)、丁巳(53)、JD:1,512,063.5034、月齢:0.1462225

(18)襄公十四年、二月乙未朔、日有食之。
BC  559/01/14 13:45   0゚12'(-558/01/14 金環日食 61)、乙未(31)、JD:1,517,261.7478、月齢:1.0070276

(19)襄公十五年、秋八月丁巳、日有食之。
BC  558/05/31 04:53 * 0゚13'-557/05/30 部分日食 38)、丁巳(53)、JD:1,517,763.3784、月齢:0.6175725
天文台のデータとは1日ずれがある。

(20)襄公二十年、十月丙辰朔、日有食之。
BC  553/08/31 11:37   0゚17'(-552/08/31 金環日食 55)、丙辰(52)、JD:1,519,682.6589、月齢:0.409852150

(21)襄公二十一年、九月庚戌朔、日有食之。
BC  552/08/20 11:50   0゚26'(-551/08/20 金環日食 65)庚戌(46)、JD:1,520,036.6680、月齢:0.0518136

(22)襄公二十一年、十月庚辰朔、日有食之。
WS:-5519190342.88、庚辰(16)、JD:1,520,066.1986月齢:0.051813608
SNにも天文台にもないが、記録(21)の1ヶ月後の日食だから、(21)のJD1,519,682.6589+朔望月29.53058886≒(22)のJD1,520,066.1986である。このJDは日食記録の日干支庚辰と一致している。朔時刻からすればサロスから予測したものであろうか?

(23)襄公二十三年、二月癸酉朔、日有食之。
BC  550/01/05 07:26 * 0゚03'(-549/01/05 金環日食 42)、癸酉(9)、JD:1,520,539.4846、月齢:0.848469654

(24)襄公二十四年、七月甲子朔、日有食之、既。
BC  549/06/19 14:06   0゚08'(-549/06/30 皆既日食 47)、甲子(0)、JD1,521,070.7624:、月齢:0.5756480

(25)襄公二十四年、八月癸巳(29)朔、日有食之。
記録(24)の1ヶ月後の日食だから、(24)のJD1,521,070.7624+朔望月29.53058886≒(25)のJD 1,521,100.2930である。このJDは西暦-548年7月19日2時50分、甲午(30)、月齢:0.5756479520
日干支が1日合わないが食甚時刻が3時頃なので、前日に部分日食が観測されたのかも知れない。
 

(26)襄公二十七年、十二月乙卯(51)乙亥(11)〕朔、日有食之。
BC  546/10/13 07:09   0゚10'(-545/10/13 皆既日食 54)、乙亥(11)、JD:1,522,281.4728、月齢:0.5319214
日干支は『春秋公羊傳』の記録〔乙亥(11)〕 が正しいようだ。 

(27)襄公二十七年、十一月乙亥(11)朔、日有食之。
この年に記録(26)以外に乙亥朔は存在しない。また63ヶ月後まで乙亥朔は存在しない13ヶ月後のJD:1,522,665.3705、-544年10月31日4時41分37秒.41の朔の日干支己亥(35)の誤写が唯一の可能性である。(26)と(27)の間に閏月が入り、「十二月」の誤写もあった(つまり「十二月己亥朔」の誤写)と考えることもできる。この可能性の有無は、当時の魯国の暦がわかれば確かめられる。
表4
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(28)昭公七年、四月甲辰朔、日有食之。
BC  535/03/18 14:25   0゚30'(-534/03/18 皆既日食 50)、甲辰(40)、JD:1,526,090.7756、月齢:0.3887362

(29)昭公十五年、六月丁巳朔、日有食之。
BC  527/04/18 10:23   0゚00'(-526/04/18 金環日食 59)丁巳53、JD:1,529,043.6075、月齢:0.1617946

(30)昭公十七年、六月甲戌朔、日有食之。
WS:-524623181117.69、甲戌(10)、JD:1,529,840.9328、月齢:0.161100197
SNには無いが日時・日干支などに矛盾はない。

(31)昭公二十一年、七月壬午朔、日有食之。
BC  521/06/10 09:17   0゚01'(-520/06/10 皆既日食 48)、壬午(18)、JD:1,531,288.5617、月齢:0.7912079

(32)昭公二十二年、十二月癸酉朔、日有食之。
BC  520/11/23 11:41   0゚06'(-519/11/23 皆既日食 63)、癸酉(9)、JD:1,531,819.6617、月齢:0.340608468

(33)昭公二十四年、五月乙未朔、日有食之。
BC  518/04/09 07:22   0゚03'(-517/04/09 金環日食 40)、乙未(31)、JD:1,532,321.4819、月齢:0.1407367

(34)昭公三十一年、十二月辛亥朔、日有食之。〔是夜也。〕
BC  511/11/14 10:08   0゚06'(-510/11/14 皆既日食 44)、辛亥(47)、JD:1,535,097.5971、月齢:0.3806617

(35)定公五年、三月〔正月〕辛亥朔、日有食之。
BC  505/02/16 13:38   0゚16'(-504/02/16 金環日食 61)、辛亥(47)、JD:1,537,017.7430、月齢:1.0382191

(36)定公十二年、十一月丙寅朔、日有食之。
BC  498/09/22 09:06   0゚17'(-497/09/22 金環日食 65)、丙寅(2)、JD:1,539,792.5541、月齢:29.504566239

(37)定公十五年、八月庚辰朔、日有食之。
BC  495/07/22 12:01   0゚09'(-494/07/22 皆既日食 57)、庚辰(16)、JD:1,540,826.6756、月齢:0.5248951

(38)哀公十四年、五月庚申朔、日有食之。
BC  481/04/19 12:48   0゚14'(-480/04/19 皆既日食 50)、庚申(56)、JD:1,545,846.7082、月齢:0.357427745

2021年3月29日 (月)

『史記』に記された暦(16)―「東周朝」と「魯」の対照年表―

『史記』に記された暦(16)
「東周朝」と「魯」の対照年表[][古田史学][二倍年暦(二倍年齢)]

 「東周」〔注1〕の歴代王の在位期間は、通説となっている「夏商周断代工程(夏商周年表プロジェクト)〔注2〕によると次のようになっています(Wikipedia「東周」より抜粋)。
…………………………………………………………………………………………………………………………………

平王(前770年 - 前720年)
桓王(前719年 - 前697年)
荘王(前696年 - 前682年)
釐王(前681年 - 前677年)
恵王(前676年 - 前652年)
弭叔頽(中国語版)(前675年 - 前673年)
襄王(前651年 - 前619年)
頃王(前618年 - 前613年)
匡王(前612年 - 前607年)
定王(前606年 - 前586年)
簡王(前585年 - 前572年)
霊王(前571年 - 前545年)
景王(前544年 - 前520年)
悼王(前520年)
敬王(前519年 - 前477年)
元王(前476年 - 前469年)
貞定王(前468年 - 前441年)
哀王(前441年)
思王(前441年)
考王(前440年 - 前426年)
威烈王(前425年 - 前402年)
安王(前401年 - 前376年)
烈王(前375年 - 前369年)
顕王(前368年 - 前321年)
慎靚王(前320年 - 前315年)
赧王(前314年 - 前256年)
…………………………………………………………………………………………………………………………………

 一方、「春秋三伝」とも最初に「隱公」〔注3〕とあります。隱公は、「魯」の第13代君主恵公の子で、「春秋三伝」に登場するのは魯の君主で、その在位期間は通説では次のようになっています。(Wikipedia「魯」より抜粋、加工)
…………………………………………………………………………………………………………………………………

⑭隠公(息姑)前722-前712 在位11年
⑮桓公(允)前711-前694 在位18年
⑯荘公(同)前693-前662 在位32年
⑰魯公子(斑)前662 
⑱閔公(啓)前661-前660 在位2年
⑲僖公(申)前659-前627 在位33年
⑳文公(興)前626-前609 在位18年
㉑宣公(俀)前608-前591 在位18年
㉒成公(黒肱)前590-前573 在位18年
㉓襄公(午)前572-前542 在位31年、孔子が仕える。
㉔魯公(野)前542
㉕昭公(稠)前541-前510 在位32年
㉖定公(宋)前509-前495 在位15年、孔子が仕える。
㉗哀公(将)前494-前468 在位27年
㉘悼公前(寧)467-前437 在位31年
㉙元公(嘉)前436-前416 在位21年、呉起が仕える。
㉚穆公(顕)前415-前383 在位33年、孔子の孫、子思が仕える。三恒氏から脱却。
㉛共公(奮)前382-前353 在位30年
㉜康公(屯)前352-前344 在位9年
㉝景公(匽)前343-前323 在位21年
㉞平公(叔)前322-前303 在位20年
㉟文公(賈)前302-前280 在位23年
㊱頃公(讎)前279-前256 在位24年
…………………………………………………………………………………………………………………………………

 この東周(周王朝)と魯国の対照年表を作成すると次のようになります。この対照表の「春秋三伝」の日食記録を検証することで東周王朝の年代もほぼ確認できるという理屈になります(歴史上の出来事はつながっていますから)。
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注1 「東周」…… 東周(とうしゅう、[dʒoʊ][1]、拼音: Dōngzhōu、紀元前770年 - 紀元前256年[2])は、中国の歴史上の王朝。洛邑への遷都(中国語版)後の周朝の便宜的な呼称で、鎬京に首都を置いていた時代の周を西周と呼ぶ。東周の時代の始まりは「春秋時代」の開始でもある。
周は紀元前770年に、鎬京(現在の陝西省西安市)から洛邑(現在の河南省洛陽市)に遷都した。これが東周の始まりで、25人の王が即位し、515年間続いた。
申侯の乱により、西周12代王の幽王が亡くなると、諸侯らは元々の太子であった宜臼を王とした[3][4](平王)。即位して二年、鎬京は戦火により破壊され、犬戎が侵攻し略奪されていた。そのため洛邑に遷都した(東遷)。これ以後の周を「東周」と呼び、以前を西周と呼んだ。東周の前半期、二百多年程、諸侯が覇を争った。この時代は歴史書春秋に因み「春秋時代」と呼ばれる。東周の後半期、二百多年は、周の天子の権威が漸失された。この時代を戦国策に因み「戦国時代」と呼ぶ[5]。
平王の東遷の以後は、管轄する領域は大幅に減少し、一つの小国へと成り下がった。戦国時代には徐州相王(中国語版)で、魏の恵王[6]と斉の威王[7]が王号を自称した。続けて、大規模な諸侯が王号を唱えた。秦の恵文王や韓の宣恵王が[8]、その後も燕の易王[9]・宋の康王[10]・中山の王サクが自称した[注 1][注 2][11]。王号自称は周王の権威低下を表した。また、短期間ではあるが斉の湣王と秦の昭襄王はともに帝号を名乗っている[12]。
襄王十七年(紀元前635年)には王子帯による反乱(中国語版)が発生したが、襄王は鎮圧することができず、春秋五覇の晋の文公に救いを求め、鎮圧した[13]。襄王二十年(紀元前632年)、襄王は晋の文公によって河陽で践土の会盟(中国語版)を行った[14]。
定王元年(紀元前606年)には、春秋五覇の楚の荘王が陸渾の戎を討伐した。そして周の九鼎の軽重を問うた[15][注 3][16]。
赧王の時代には、東周の国勢は益々衰え、同時に内部での争いが絶えなかった。周は東周国と西周国に分かれていて、赧王は西周に遷都した[17]。赧王八年(紀元前307年)、秦が両周の道を借りて韓を攻めようとしたが、周人は道を貸さなかった[18][19]。赧王六十年(紀元前255年)には西周国が秦によって滅亡し、赧王も死した[20]。これにより中国の王朝で最も長い790年続いた周王朝は滅亡した。七年後には、東周国も秦によって滅亡し[21]、周王室の祭祀は完全に途絶えた[11]。Wikipedia「東周」より抜粋) 

注2 「夏商周断代工程(夏商周年表プロジェクト) …… Wikipedia(通説)の年代はこのプロジェクトの結果によっている。
夏商周年表プロジェクト(中国語: 夏商周断代工程)は、1996年から2000年の中華人民共和国において行われた、国家規模の研究プロジェクト。第九次五カ年計画の一環。古代中国史の夏王朝・商王朝(殷)・周王朝の三代について、年代測定の手法によって具体的な年代を確定させた[1]。プロジェクトの成果は「夏商周年表」としてまとめられた。
プロジェクトの全貌は、参加者の一人でもある作家(サイエンスライター)の岳南(中国語版)が書籍の形でまとめており、日本語訳も刊行されている[2]。
プロジェクト以前
「疑古」も参照
このプロジェクトが始まる以前に、中国古代の年代は、文献資料でわかっている限りでは、周の共和元年(紀元前841年に相当)までしかたどれなかった。
プロジェクトの経過
プロジェクトは、1995年の秋から準備がはじめられ、1996年5月16日に正式に開始した。このプロジェクトには、約200名の若手主体の学者が参加した。1999年9月に開かれた夏商周断代工程階段成果学術報告会(中国史学会、中国考古学会、中国科学技術史学会、「夏商周断代工程」項目弁公室主催)では、プロジェクトに参加していない学者も含めて、160人強が討論をした。これが、このプロジェクトに大きな作用をもたらしたという。
2000年9月15日の夏商周断代工程項目験收会でその内容が政府によりチェックされ、2000年11月10日に、プロジェクトの首席科学者である李学勤・李伯謙・仇士華・席沢宗4人を中心として、公表された。
2001年11月、夏王朝よりさらにさかのぼって中国文明の淵源を突き止めるべく中華文明探源プロジェクトも始まった。三皇五帝のうち、堯、舜、禹の時期が対象となる。2004年より、本格的に開始され、紀元前25世紀までを目処に研究が行われた。
プロジェクトの手法
夏商周年表の作成には、様々な手法が用いられた。
天文学的な手法
発掘された甲骨文や文献資料において、日食や月食が起きた記事を調べ、天文学的な計算によって、その日食や月食の年月日を算定する。天文考古学。
考古学的手法
発掘された遺跡、特に王侯の墓地を調べる。C14年代測定法を利用して、埋葬されている者のおおよその死没年を算出する。
文献学的手法
文献資料の暦法の違いを精査し、相互の矛盾を発見し、どれが正確なのかを判定する。
プロジェクトの結果
・紀元前2070年頃、夏王朝が開かれる。
・紀元前1600年頃、商(殷)が夏に代わる。
・紀元前1300年頃、盤庚が殷墟(河南省安陽市)に遷都。
・紀元前1046年、周が商に代わる。
・商の帝の盤庚から帝辛までのおおよその年代を確定。
・周の王の在位年を具体的に確定。
批判
プロジェクトの結果に対して反論や批判が提示されている例がある。例えば、周が殷を滅ぼした年についてプロジェクトでは『竹書紀年』(古本)にある紀元前1027年を否定して、『国語』(周語)にある「歳在鶉火」(この年に歳星(木星)が「鶉火」の位置にあった)の記述を元にして紀元前1046年という数字が出された。これに関して、中国で歳星などの五星(すなわち惑星)の存在が認識されたのは戦国時代以後のことであり、殷末周初にかかる記録が存在しない(『国語』の記事は後代の創作である)として、紀元前1027年説を否定する根拠にはならないとする反論がある[3]。また年表の数値に対しては『史記』等の記年記事に依拠し過ぎており、中国史の碩学・宮崎市定が中国上古の紀年がかなり間延びしていることを指摘しており、落合淳思も殷王朝の系譜分析を通じて『史記』に依拠した殷の紀年が長すぎると指摘する[4]。Wikipedia「夏商周年表プロジェクト」より転載)

注3 「隱公」 …… 
隠公(いんこう、生年不詳 - 紀元前712年)は、魯の第14代君主。名は息姑。恵公の子で、『春秋左氏伝』の記載によると、生母は声子。
生涯
恵公が死去すると、恵公の嫡子の允(桓公)はまだ年が幼かったため、魯の国人たちは庶長子の息姑を立てて摂政させ、君主の事務を代行させた。在位11年。隠公は自らを桓公が成長するまでの代行と位置づけて逸脱しなかった。公子翬が桓公を弑しようと提案したとき、これを聞いた隠公は断固としてこれを拒絶した。結果として隠公は公子翬にそむかれて弑された。

隠公が君主を代行していた期間、魯の国力は比較的強かった。隠公は棠の地で魚を見物して礼に合致していないと批判された事件を除くと、行政や軍事の処理は比較的慎重で公正であり、隣国とも修好につとめて、周囲の滕や薛といった小国は魯の国都に朝拝してきた。鄭や斉といった強国ともまた友好関係を結んだ。
家庭
父:恵公姫弗湟

母:声子
弟妹:桓公姫允、姫尾(字は施父)、紀伯姫、紀叔姫 (Wikipedia「隠公 (魯)」より抜粋)

2021年3月28日 (日)

『史記』に記された暦(15)―「春秋三伝」の日食記事―

『史記』に記された暦(15)
「春秋三伝」の日食記事[][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]
 「春秋三伝」〔注1〕にある日食記事を調査したので報告します。こんなことは既に先達によって行われているものですが、精神安定剤として自分自身で行いました。

1.はじめに

 春秋戦国時代の日食記事を検証するために、「春秋三伝」(『春秋左傳』(「春秋左氏伝」)・『春秋公羊傳』・『春秋穀梁傳』)を中央研究院の「漢籍電子文獻資料庫」からダウンロードして、語句「日有食之」及び「日有蝕之」によって検索・抽出しました(詳細は、3.「春秋三伝」夫々(それぞれ)の日食記事をご覧ください)。
 三伝の各々の日食記事は、記載されている日食や記載されていない日食もありますが、最も多くの日食が記載されていた『春秋左傳』をもとにして、春秋時代の日食としてまとめて、年代順に通し番号を振ってあります(2.「春秋三伝」にある日食記事)。その際に各伝バラバラな表示を次のように表示し直しました。
 最初に通し番号を括弧()で示し、次に帝王名とその何年目かを、その次に「春夏秋冬」を省いた月名と日干支(あれば朔などの区別)、その次に日蝕記事(あれば現象の区分)の検証に必要な部分を、最後に出典とその日食記事の通し番号を記載しています。なお出典の記載は次のようにしています。
:『春秋左傳』の「經XX年」とある記事(『左傳』は原典である『春秋』を「經」と呼ぶか)。
:『春秋左傳』の「傳XX年」とある記事(『春秋』の注釈である『左傳』自体の記事をいうか)。
:『春秋公羊傳』の記事。
:『春秋穀梁傳』の記事。
 この「春秋三伝」の日食記事」を『史記』に記された「暦」(13)―『漢書』本紀の日蝕記録(中間報告)―と同様なやり方で検証する予定です。

2.「春秋三伝」にある日食記事

 下記は「春秋三伝」にある日食記事(38件)を簡略化して、ひとつにまとめて通し番号を振ったものです。
()隱公三年、二月己巳、日有食之。《經()、公()、穀()
()桓公三年、七月壬辰朔、日有食之、既。《經()、公()、穀()
()桓公十七年、十月朔、日有食之。《經・傳()、公()、穀()
()莊公十八年、三月、日有食之。〔夜食也。〕《經()、公()〔〕()
()莊公二十五年、六月辛未朔、日有食之。《經・傳()、公()、穀()
()莊公二十六年、十二月癸亥朔、日有食之。《經()、公()、穀()
()莊公三十年、九月庚午朔、日有食之。《經()、公()、穀()
()僖公五年、九月戊申朔庚午朔〕、日有食之。《經()、公()〔〕()
  ※『春秋穀梁傳』だけ日干支が「庚午朔」となっている。
()僖公十二年、三月庚午正月庚午〕、日有食之。《經()、公()〔〕()
  ※『春秋穀梁傳』だけが「正月庚午」となっている。暦の正始月の違いによるものかも知れない。
(10)僖公十五年、五月、日有食之。《經・傳(10)、公(10)、穀(10)
(11)文公元年、二月癸亥、日有食之。《經(11)〔〕(11)、穀(11)
  ※『春秋公羊傳』には「朔」とある。『春秋穀梁傳』の日食記事はここまでである。
(12)文公十五年、六月辛丑朔、日有食之。《經・傳(12)、公(12)
(13)宣公八年、七月甲子、日有食之、既。《經(13)、公(13)
(14)宣公十年、四月丙辰、日有食之。《經(14)、公(14)
(15)宣公十七年、六月癸卯、日有食之。《經(15)、公(15)
(16)成公十六年、六月丙寅朔、日有食之。《經(16)、公(16)
(17)成公十七年、十二月丁已朔、日有食之。《經(17)、公(17)
(18)
襄公十四年、二月乙未朔、日有食之。《經(18)、公(18)
(19)
襄公十五年、秋八月丁巳、日有食之。《經(19)、公(19)
(20)
襄公二十年、十月丙辰朔、日有食之。《經(20)、公(20)
(21)
襄公二十一年、九月庚戌朔、日有食之。《經(21)、公(21)
(22)
襄公二十一年、十月庚辰朔、日有食之。《經(22)、公(22)
(23)
襄公二十三年、二月癸酉朔、日有食之。《經(23)、公(23)
(24)襄公二十四年、七月甲子朔、日有食之、既。《經(24)、公(24)
(25)
襄公二十四年、八月癸巳朔、日有食之。《經(25)、公(25)
(26)
襄公二十七年、十二月乙卯乙亥朔、日有食之。《經(26)〔〕(26)
  ※『春秋公羊傳』の朔日干支は「乙亥」となっている。
(27)襄公二十七年、十一月乙亥朔、日有食之。《傳(27)
  ※これは『春秋左傳』のみにある日食記事である。『春秋公羊傳』の記事と何か関係があるかもしれない。
(28)昭公七年、四月甲辰朔、日有食之。《經・傳(28)、公(27)
(29)昭公十五年、六月丁巳朔、日有食之。《經(29)、公(28)
(30)
昭公十七年、六月甲戌朔、日有食之。《經・傳(30)、公(29)
(31)
昭公二十一年、七月壬午朔、日有食之。《經・傳(31)、公(30)
(32)
昭公二十二年、十二月癸酉朔、日有食之。《經(32)、公(31)
(33)
昭公二十四年、五月乙未朔、日有食之。《經・傳(33)、公(32)
(34)
昭公三十一年、十二月辛亥朔、日有食之。〔是夜也。〕《經・〔〕(34)、公(33)
(35)
定公五年、三月〔正月〕辛亥朔、日有食之。《經(35)〔〕(34)
  ※『春秋公羊傳』には「正月」とある。
(36)
定公十二年、十一月丙寅朔、日有食之。《經(32)
  ※これも『春秋左傳』のみにある日食記事である。
(37)定公十五年、八月庚辰朔、日有食之。《經(37)、公(35)
  ※『春秋公羊傳』の日食記事はここまでである。
(38)
哀公十四年、五月庚申朔、日有食之。《經(38)


3.「春秋三伝」夫々
(それぞれ)の日食記事

3-1.『春秋左傳』(「春秋左氏伝」)の日食記事
 「日有食之」が52件(「日有蝕之」は無し)、同一の日蝕が「經」と「傳」の両方に記述されているものが9件((),(),(10),(12),(29),(31),(32),(34),(35))、記録された日食に対する言及が5ヶ所((),(12),(31)×2,(32))、これら14ヶ所(一つの日食に語句が複数あったもの)を除くと、38件の日食が記録されていました。
(1)(隱公)經三年。春。王二月。己巳。日有食之。〈2
(2)(桓公經三年)秋。七月。壬辰朔。日有食之。既。〈10
(3)(桓公經十有七年)冬。十月朔。日有食之。〈16〉(桓公傳十七年)冬。十月朔。日有食之。不書。日官失之也。〈16
(4)(莊公)經十有八年。春。王三月。日有食之。〈23
(5)(莊公經二十有五年)六月。辛未。朔。日有食之。〈25〉(莊公傳二十五年)夏。六月。辛未朔。日有食之。鼓用牲于社。非常也。唯正月之朔。慝未作。日有食之。〈25
(6)(莊公經二十有六年)冬。十有二月。癸亥朔。日有食之。〈25
(7)(莊公經三十年)九月。庚午朔。日有食之。〈27
(8)(僖公經五年)九月。戊申朔。日有食之。〈33
(9)(僖公)經十有二年。春。王三月。庚午。日有食之。〈38
(10)(僖公經十有五年)夏。五月。日有食之。〈39〉(僖公傳十五年)夏。五月。日有食之。不書朔與日。官失之也。
(11)(文公經元年)二月。癸亥。日有食之。〈58
(12)(文公經十有五年)六月。辛丑。朔。日有食之。〈69〉(文公傳十五年)六月。辛丑朔。日有食之。鼓用牲于社。非禮也。日有食之。〈70
(13)(宣公經八年)秋。七月。甲子。日有食之。既。〈79
(14)(宣公經十年)夏。四月。丙辰。日有食之。〈79
(15)(宣公經十有七年)六月。癸卯。日有食之。〈88
(16)(成公經十有六年)六月。丙寅朔。日有食之。〈105
(17)(成公經十有七年)十有二月丁已朔。日有食之。〈109
(18)(襄公經十有四年)二月。乙未朔。日有食之。〈128
(19)(襄公經十有五年)秋。八月。丁巳。日有食之。〈131
(20)(襄公經二十年)冬。十月。丙辰朔。日有食之。〈137
(21)(襄公經二十有一年)九月。庚戌朔。日有食之。〈137
(22)(襄公經二十有一年)冬。十月。庚辰朔。日有食之。〈137
(23)(襄公)經二十有三年。春。王二月。癸酉朔。日有食之。〈141
(24)(襄公經二十有四年)秋。七月。甲子。朔。日有食之。既。〈144
(25)(襄公經二十有四年)八月。癸巳朔。日有食之。〈144
(26)(襄公經二十有七年)冬。十有二月。乙卯。朔。日有食之。〈152
(27)(襄公傳二十七年)十一月。乙亥。朔。日有食之。〈153
 ※これは日食記録(26)の後、經二十有八年の直前に置かれているから二十七年のはずであるが、(26)が十有二月なので位置が前後している。不審だ。
(28)(昭公經七年)夏。四月。甲辰。朔。日有食之。〈185〉(昭公傳七年)夏。四月。甲辰。朔。日有食之。〈186
(29)(昭公經十有五年)六月。丁巳。朔日有食之。〈201
(30)(昭公經十有七年)夏。六月。甲戌。朔。日有食之。〈204〉(昭公傳十七年)。六月。甲戌。朔。日有食之。祝史請所用幣。昭子曰。日有食之。天子不舉。伐鼓於社。諸侯用幣於社。伐鼓於朝。禮也。平子禦〈204〉之。曰。止也。唯正月朔。慝未作。日有食之。於是乎有伐鼓用幣。禮也。其餘則否。大史曰。在此月也。日過分而未至。三辰有災。於是乎百官降物。君不舉辟。移時樂奏鼓。祝用幣。史用辭。故夏書曰。辰不集于房。瞽奏鼓。嗇夫馳。庶人走。此月朔之謂也。當夏四月。是謂孟夏。平子弗從。昭子退曰。夫子將有異志。不君君矣。〈205
(31)(昭公經二十有一年)秋。七月。壬午。朔。日有食之。〈212〉(昭公傳二十一年)秋。七月。壬午。朔。日有食之。公問於梓慎曰。是何物也。禍福何為。對曰。二至二分。日有食之。不為災。日月之行也。分同道也。至相過也。其他月則為災。陽不克也。故常為水。於是叔輒哭日食。昭子曰。子叔將死。非所哭也。〈213
(32)(昭公經二十有二年)十有二月。癸酉。朔。日有食之。〈214
(33)(昭公經二十四年)夏。五月。乙未。朔。日有食之。〈218〉(昭公傳二十四年)夏。五月。乙未。朔。日有食之。〈218
(34)(昭公經三十有一年)十有二月。辛亥。朔。日有食之。〈231〉(昭公傳三十一年)十二月。辛亥。朔。日有食之。是夜也。〈232
(35)(定公)經五年。春。王三月。辛亥。朔。日有食之。〈238
(36)(定公經十有二年)十有一月。丙寅。朔。日有食之。〈245
(37)(定公經十有五年)八月。庚辰。朔。日有食之。〈248
(38)(哀公經十有四年)五月。庚申朔。日有食之。〈261

3-2.『春秋公羊傳』の日食記事
 「日有食之」が36件(「日有蝕之」は無し)、その日食に対する言及1件(1)を除くと35件の日食記事がありました。
(1)(隱公)三年。春。王二月。己巳。日有食之。何以書。記異也。日食。則曷為或日。或不日。或言朔。或不言朔。曰。某月某日朔。日有食之者。食正朔也。〈2
(2)(桓公三年)秋七月。壬辰朔。日有食之。既。既者何。盡也。〈6
(3)(桓公十有七年)冬。十月朔。日有食之。〈10
(4)(莊公)十有八年。春。王三月。日有食之。〈14
(5)(莊公二十有五年)六月。辛未朔。日有食之。〈16
(6)(莊公二十有六年)冬。十有二月。癸亥朔。日有食之。〈16
(7)(莊公三十年)九月。庚午朔。日有食之。〈17
(8)(僖公五年)九月。戊申朔。日有食之。〈22
(9)(僖公)十有二年。春。王三月。庚午。日有食之。〈23
(10)(僖公十有五年)夏。五月。日有食之。〈24
(11)(文公元年)二月。癸亥。朔。日有食之。〈29
(12)(十有五年)六月。辛丑朔。日有食之。〈34
(13)(宣公八年)秋。七月。甲子。日有食之。既。〈37
(14)(宣公十年)夏。四月。丙辰。日有食之。〈37
(15)(宣公十有七年)六月。癸卯。日有食之。〈40
(16)(成公十有六年)六月。丙寅朔。日有食之。〈44
(17)(成公十有七年)十有二月。丁巳朔。日有食之。〈45
(18)(襄公十有四年)二月。乙未。朔日有食之。〈48
(19)(襄公十有五年)秋。八月。丁巳。日有食之。〈49
(20)(襄公二十年)冬。十月。丙辰。朔。日有食之。〈50
(21)(襄公二十有一年)九月。庚戌朔。日有食之。〈50
(22)(襄公二十有一年)冬。十月。庚辰朔。日有食之。〈50
(23)(襄公)二十有三年。春。王二月。癸酉。朔。日有食之。〈50
(24)(襄公二十有四年)秋。七月。甲子。朔。日有食之。既。〈50
(25)(襄公二十有四年)八月。癸巳。朔。日有食之。〈50
(26)(襄公二十有七年)冬。十有二月。朔。日有食之。〈51
(27)(昭公七年)夏。四月。甲辰。朔。日有食之。〈54
(28)(昭公十有五年)六月。丁巳。朔日有食之。〈56
(29)(昭公十有七年)夏。六月。甲戌朔。日有食之。〈56
(30)(昭公二十有一年)秋。七月。壬午朔。日有食之。〈57
(31)(昭公二十有二年)十有二月。癸酉。朔。日有食之。〈57
(32)(昭公二十有四年)夏。五月。乙未。朔。日有食之。〈58
(33)(昭公三十有一年)十有二月。辛亥。朔。日有食之。〈60
(34)(定公)五年。春。王正月。辛亥朔。日有食之。〈62
(35)(定公十有五年)八月。庚辰朔。日有食之。〈64 

3-3.『春秋穀梁傳』の日食記事
 「日有食之」が12件(「日有蝕之」は無し)、その日食に対する言及1件(1)を除くと11件の日食記事がありました。
(1)(隱公)三年。春。王二月。己巳。日有食之。言日不言朔。食。晦日也。其日有食之。〈2
(2)(桓公三年)秋七月。壬辰。朔。日有食之。既。〈6
(3)(桓公十有七年)冬。十月朔。日有食之。言朔不言日。食既朔也。〈9
(4)(莊公)十有八年。春。王三月。日有食之。不言日。不言朔。夜食也。〈13
(5)(莊公二十有五年)六月。辛未。朔。日有食之。鼓用牲于社。言日言朔。食正朔也。〈15
(6)(莊公二十有六年)冬。十有二月。癸亥。朔。日有食之。〈15
(7)(莊公三十年)九月。庚午。朔。日有食之。〈16
(8)(僖公五年)九月。庚午。朔。日有食之。〈20
(9)(僖公)十有二年。春。王正月。庚午。日有食之。〈22
(10)(僖公十有五年)夏。五月。日有食之。〈22
(11)(文公元年)二月。癸亥。日有食之。〈27

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注1 「春秋三伝」 …… 『春秋』(しゅんじゅう)は、古代中国東周時代の前半(=春秋時代)の歴史を記した、編年体の歴史書である。一方で、儒教においては単なる歴史書ではなく、孔子が制作に関与した思想書であるとされ、儒教経典(五経または六経)の一つ『春秋経』として重視される。『春秋』が読まれる際は必ず、三つの伝承流派による注釈「春秋三伝」のいずれかとともに読まれる。『春秋』は、春秋学と呼ばれる学問領域を形成するほどに、伝統的に議論の的になってきた。Wikipedia「春秋」より抜粋)
『春秋左傳』(「春秋左氏伝」)
『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん、旧字体:春秋左氏傳、拼音: Chūnqiū Zuǒshìzhuàn)は、孔子の編纂と伝えられている歴史書『春秋』(単独の文献としては現存しない[1])の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の魯国の歴史が書かれている。通称『左伝』。『春秋左氏』『左氏伝』ということもある。現存する他の注釈書『春秋公羊伝(公羊伝)』『春秋穀梁伝(穀梁伝)』とあわせて春秋三伝(略して三伝)と呼ばれている。前漢末の劉歆によって、後漢では三伝の中で『左伝』が一番高く評価された。これは撰者の左丘明が孔子の弟子であるためとされた。Wikipedia「春秋左氏伝」より抜粋)
『春秋公羊傳』
『春秋公羊伝』(しゅんじゅうくようでん、旧字:春秋公羊傳、拼音: Chūnqiū Gōngyángzhuàn)は『春秋』の注釈書であり、『春秋左氏伝』・『春秋穀梁伝』と並んで、春秋三伝の一つとされる。『公羊伝』は斉の地に栄えた学問と考えられており、「復讐説」などの春秋学の根幹となる思想を解明した。Wikipedia「春秋公羊伝」より抜粋)
『春秋穀梁傳』
『春秋穀梁伝』(しゅんじゅうこくりょうでん、旧字:春秋穀梁傳、拼音: Chūnqiū Gŭliángzhuàn)は、『春秋公羊伝』『春秋左氏伝』と並ぶ春秋三伝の一つ。正確には経書ではないが、準経書扱いされる書物。十三経の一つであるが、五経には入らない。経学の重要書物。Wikipedia「春秋穀梁伝」より抜粋)

 

2021年3月27日 (土)

『史記』に記された「暦」(14)―『史記』本紀の日食記録―

『史記』に記された「暦」(14)
『史記』本紀の日食記録[][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]

 『史記』本紀の日食記事は、「日有食之」が4ヶ所あり(「日有蝕之」は無し)、その内には下記の日食記録(1)に続く皇帝の言葉中に1ヶ所その日食に言及した箇所がある(上曰:「朕聞之,…。乃十一月晦,日有食之,適見于天,菑孰大焉!…。」)ため、それを除外すると次の3件しかありませんでした。

(1)(孝文皇帝二年)十一月晦,日有食之。422

(2)(孝文皇帝)三年十月丁酉晦,日有食之。424

(3)(孝景皇帝)七年冬,…。十(二)〔月晦,日有食之。443・・・(二)は〔一〕の誤りとして原文で校訂されています。

 これらの日食記事は、『史記』に記された「暦」(13)―『漢書』本紀の日蝕記録(中間報告)―で検証した下記の日蝕記事と一致しています。

『史記』本紀(1)(孝文皇帝二年)十一月晦,日有食之。422
『漢書』文帝紀()(二年)十一月癸卯晦,日有食之。14
SN:紀元前178/01/02 13:51 0゚13' 部分日食(48)
WS:西暦-177年1月2日13時51分、癸亥年(59)月初壬寅(38)癸卯(39)、月齢:0.898939609、JD:1,656,409.7744。
判定:◎(日干支も一致している。) 

『史記』本紀(2)(孝文皇帝)三年十月丁酉晦,日有食之。424
『漢書』文帝紀()三年冬十月丁酉晦,日有食之。20
SN:紀元前178/12/22 12:13 0゚23' 金環日食(58)
WS:西暦-177年12月22日12時13分、癸亥年(59)月初丙子(12)丁酉(33)、月齢:0.463817734、JD:1,656,763.7064。
判定:◎(日干支も一致している。) 

『史記』本紀(3)(孝景皇帝)七年冬,…。十(二)〔月晦,日有食之。443
『漢書』景帝紀(14)七年冬十一月庚寅晦,日有蝕之。30
〔同年立太子記事:(紀元前150年)夏四月乙巳,立皇后王氏。丁巳,立膠東王徹※為皇太子。(※膠東王徹は後の武帝(劉徹))〕
SN:紀元前150/01/22 09:17 0゚14' 金環日食(77)
WS:西暦-149年1月22日9時17分、辛卯年(27)月初己巳(5)庚寅(26)、月齢:0.594327411、JD:1,666,656.5842。
判定:◎(日干支も一致している。また、同年夏四月にある立太子記録も西暦と整合している。)

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太宗・文帝(劉恒、諡号:孝文皇帝)前180~前157
 文帝(ぶんてい前180年11月14日 - 前157年7月6日)は、前漢の第5代皇帝(恵帝の子とされる2人の少帝(前少帝・後少帝)を除外し、第3代皇帝とする場合もある)。諱は恒(こう)。高祖劉邦の四男(庶子)。妻に竇猗房がいる。Wikipedia「文帝 (漢)」より抜粋)

景帝(劉啓、諡号:孝景皇帝)前157~前141
 景帝(けいてい)は、前漢の第6代皇帝。
父文帝と同様に漢の基盤を固める善政を行い、その治世は「文景の治」と賞賛された。また、後漢の創始者である光武帝劉秀と蜀漢の創始者である昭烈帝劉備は景帝の末裔と称した。Wikipedia「景帝 (漢)」より抜粋)

2021年3月21日 (日)

『史記』に記された「暦」(13)―『漢書』本紀の日蝕記録(中間報告)―

『史記』に記された「暦」(13)
『漢書』本紀の日蝕記録(中間報告)[暦][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]

 前回(『史記』に記された「暦」(12)―漢代の定点(その6)日蝕検証WS―)で予告した『漢書』本紀にある日蝕の西暦を確認する作業をひと通り終えましたので、今回はその中間報告です。

1.この中間報告について

 今回行った調査・検証の目的は、『漢書』本紀に記された全ての日蝕記録の調査・検証によって前漢時代の年代を確認することを通して、春秋戦国時代の年代比定の検証をするために必要な「前漢時代初期の確実な定点」を得ることでした。いうなれば、通説の年代比定の確かさを自らの手で確認することによって、「安心して春秋戦国時代の年代比定の検証に臨みたい」という脅迫観念に効く「精神安定剤(前漢時代初期の確実な定点)」を入手することだったのです。

 今回の調査・検証によって、疑義があるとおもわれる日蝕記録がいくつか見出されましたが、それにもかかわらず前漢時代の年代比定(帝王の在位期間・年号など)がおおむね間違っていないと確認できたことで、調査の目的は達成できたと考えています。

 この中間報告は、春秋戦国時代の年代比定の確認作業へと活動を移行するにあたって、「今回の作業結果の検証」並びに「疑義があると思われた日蝕記録の解明」に資するため、今回行った『漢書』本紀の日蝕記録の調査・検証活動とその結果をまとめたものです。

2.総括報告
 今回の調査・検証によって正しいと確認できた日蝕記録は全48件中38件(下記に番号を掲げた)で、通説で比定されている年代は、各皇帝紀に確かな日蝕記録が存在していることから、おおむね間違っていないと確認できました(下表「前漢代の年号など」参照)。
《確認できた日蝕記録》(1)(2)(3)(4)(5)(7)(8)(9)(10)(14)(16)(18)(19)(21)(22)(24)(25)(26)(27)(28)(29)(30)(31)(32)(33)(34)(36)(37)(38)(39)(40)(41)(42)(43)(44)(45)(47)(48)
 また、昭帝紀「(29)(元鳳元年)秋七月乙亥晦,日有蝕之,既。〈49〉」の日干支「乙亥」は「己亥」の誤写の可能性があることも見出しました(先達が既に指摘しているかも)。
表 前漢代の年号など(表はクリックすると拡大できます)
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 疑義があると思われた日蝕記録は、次の10件でした。
(6)二年春…夏六月丙戌晦,日有蝕之。《高后紀》
(11)〔文帝〕四年夏四月丙寅晦,日有蝕之。《文帝紀》
(12)(三年)二月壬子晦,日有食之。《景帝紀》
(13)(四年)十月戊戌晦,日有蝕之。《同上》
(15)(中二年九月)甲戌晦,日有蝕之。《同上》
(17)四年春三月,…。〔中五年〕十月戊午,日有蝕之。《同上》
(20)二年冬十月,…春二月丙戌朔,日有蝕之。《武帝紀》
(23)(元朔)二年三月乙亥晦,日有蝕之。《同上》
(35)(建昭五年夏六月)壬申晦,日有蝕之。《元帝紀》
(46)(元壽二年)夏四月壬辰晦,日有蝕之。《哀帝紀》

3.『漢書』本紀の調査方法
 中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文獻資料庫」史>正史>漢書>本紀 凡十二巻より原文のコピーを得て、語句「日蝕」及び「日食」を検索することによって日蝕記録を抽出した結果、語句「日有蝕之」が46ヶ所、語句「日有食之」が7ヶ所、合わせて53ヶ所見つかりました。そのなかに、記された日蝕・日食について「詔」中で言及している日蝕(つまり、語句として二度集計された日蝕記録)が5ヶ所(文帝紀1、元帝紀2、成帝紀1、哀帝紀1)あり、それを除いて『漢書』本紀に記載された日蝕記録は48件としました。その48件の日蝕記録に対して、登場順に番号を付して識別することにしました(『史記』に記された「暦」(9)―漢代の定点(その3)―参照)。

 4.検証手順
 検証は次の手順で行いました。
(一)「ステラナビゲータ11(StellaNavigator11)」(アストロアーツ社(Astroarts Inc.))(以下「SN」と略す)を用いて、『漢書』本紀の日蝕記録は前漢の首都長安で観測されたものと想定し、長安の緯度経度を「東経108度57分、北緯34度16分」、時刻系は長安の地方平均太陽時(LMT)、日蝕時の離角(∠地球・太陽・月)を「1.0以内」と設定して、「紀元前206年~紀元後9年」の日蝕を抽出(算出)する(『史記』に記された「暦」(11)―漢代の定点(その5) 前漢代の日蝕―を参照)。

(二)国立天文台>暦計算室>日月食データベースによって、上記のSNの日蝕データに「現象区分(皆既・金環・金環皆既・部分)」と「サロス番号(括弧()内)」を補う。

(三)『漢書』本紀武帝紀に「元光元年秋七月癸未,日有蝕之。」とある暦日(JDN:1 672 710)の日蝕(1973年に臨沂銀雀山2号墓から出土した竹簡にある暦が元光元年のものであることを決定づけた日蝕)のSNのデータ(紀元前134年8月19日13:31 0゚06 '皆既日食(62))と整合するように、Microsoft Excelで作成した「HY式日蝕検証WS」(以下「WS」と略す)の既定値(デフォルト値)を設定する。
【(三)で設定した既定値(デフォルト値)】
❶長安(前漢の首都)の経度:東経108度57分(この設定で『漢書』本紀武帝紀の日蝕記録(22)「元光元年秋七月癸未,日有蝕之。」の地方平均時(LMT)西暦-133年8月19日13時31分の時のUT(世界時:グリニジ地方平均時)は西暦-133年8月19日6時15分12秒となります。)
❷推算に用いる朔望月:29.53058886日(当時の朔望月が不明なのでJ2000.0のデータを用いました。)
❸JD(ユリウス通日)の上元(-4712年1月1日正午)の想定月齢:20.914830285
(❷❸を定めるとJDから月齢の概算値を求めることができます(この月齢の推算方法を「HY式」と称しています)。上記❷❸の既定値でSNのデータ西暦-133年8月19日13:31(JD:1,672,709.7606)の月齢が0.000000000になります。というより、そうなるように上元月齢を20.914830285に設定しました。)
❹JD(ユリウス通日)の上元(西暦-4712年1月1日正午)の年干支:戊子 (干支番号24)
❺JD(ユリウス通日)の上元(西暦-4712年1月1日正午)の日干支:癸丑 (干支番号49)
(❹・❺を定めるとJDから年干支・日干支が求まります。❹・❺の既定値でSNの日蝕データ「西暦-133年8月19日13:31」(『漢書』本紀の日蝕記録(22)武帝紀「元光元年秋七月癸未,日有蝕之。」)の年干支が丁未(43)に、日干支が癸未(19)になります。)

(四)前漢の帝王の在位期間や年号などについて、通説を(Wikipedia「漢」などから)把握する。

(五)『漢書』本紀にある日蝕記事(『史記』に記された「暦」(9)―漢代の定点(その3)―参照)に該当しそうなSNデータを抽出して、その日干支をWSによって年代や日干支などの整合性を確認する。

(六)『漢書』本紀にある日蝕記事と日干支が一致したSNのデータと日時が一致するJDを確認する。そのJDの月齢が朔(新月)に適合しているか確認する。
 (この確認は、WSのJD入力欄(セルC9)に算式「=R12」(セルR12は「JD(天文時:正午=0時)」の表示欄)を入力して置き、「西暦(観測地点の地方時)」の年・月・日・時・分の表示欄(C12,E12,G12,I12)を見ながら、「西暦(世界時:UT)」の年・月・日・時・分・秒の入力欄(R11,T11,V11,X11,Z11,AB11)を入力していき、「西暦(観測地点の地方時)」の年・月・日・時・分の表示欄がSNのデータの日時と一致したところで、その日時のJD(セルR12)の表示とその年干支・月初干支・日干支(セルC13~H13に表示される)及び「JD(天文時:正午=0時)」に表示されるJD(セルR12)を読み取る(コピー&ペーストする)方法によりました。)

(七)詳細報告(6.「『漢書』本紀の日蝕記録」)に、(六)で得られたデータ(「西暦(観測地点の地方時)」の年・月・日・時・分、)を転記するとともに、Excelのsheet「前漢の年号など」に当該日蝕の「サロス番号」「JD」「西暦年月日時分」を転記する。

5.留意されたい事項
 この調査・検証は、『漢書』本紀の日蝕記録そのもの検証が目的ではなく、漢代の年代比定(通説)の確認のために『漢書』本紀の日蝕記録を用いているものなので、「『漢書』本紀の日蝕記録が『事実としてありえない』と断定できない限り、『ありうる可能性がある』場合は肯定する」という姿勢で臨んでいます。そのため、日蝕記録の検証としては詰めが甘いとのご指摘をうけることが多々あります。
 月齢については、「HY式により推算した月齢」を単に「月齢」と表示しています。また、月齢は小数点以下1桁で表示するのが慣行ですが、この検証においてはこの慣行に従っていません。JDについても小数点以下4桁まで扱っています。
 干支の項目で「月初〇〇(番号)」とある「月初」とは、太陰太陽暦の朔日ではなく、西暦(太陽暦)の月表示における「その月の第一日」を指しています。〇〇がその月の第一日の日干支です。

6.検証結果(詳細報告)
 検証結果の詳細は下記の「『漢書』本紀の日蝕記録」をご覧ください。

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《凡例》
 各日蝕記事の行頭にある括弧()つき番号は、『漢書』本紀に登場した日蝕48個を年代順(本紀に登場する順)の通し番号です。日蝕記事で年号何年や在位何年目などの表記が括弧()で囲われている場合(例:高帝紀下(3)「『(九年)』夏六月乙未晦,日有食之。」)は、省かれた年号何年や在位何年目などを、その文章の前(直前に限らず)から補ったことを示します。文章の途中を一部省いたことを示す「〔中略〕」なども「…」のように簡略化しました(『史記』に記された「暦」(9)―漢代の定点(その3)―を参照)。また、各日蝕記事の末尾にある括弧〈〉つき番号は、『漢書』本紀の各帝王紀における段落番号です(原文参照時にご利用ください)。
 「SN」とあるのは、長安で起きた日蝕を「ステラナビゲータ11(StellaNavigator11)」(アストロアーツ社(Astroarts Inc.)を用いて算出し、国立天文台〉暦計算室〉日月食データベースによって「現象(皆既・金環・金環皆既・部分)の区分」と「サロス番号(括弧()内)」を補ったものです。
 「WS」とあるのは、当該日蝕の年月日・時刻をMicrosoft Excelで作成したワークシート(「HY式日蝕検証WS」)でシミュレートして年干支・日干支・月齢・JDを求めたものです。干支名(例「甲子」など)の後ろの括弧()付き番号は干支番号です(「甲子」が0番です)。JDは、UT(世界時:グリニジ地方平均太陽時)の正午起算です(天文時:XXX.0が正午でXXX.5が正子))なお、当報告に「月齢」とあるは、実際の月齢ではなく、全て「WSによる推算月齢」です。
 年干支と日蝕日干支の間に記されている「月初干支」とあるのは、西暦(太陽暦)での月初(一日)の日干支です(太陰太陽暦の月朔日干支ではありません)。日干支は暦法とは独立なものですが、年干支は暦法に従属するものですので、西暦(太陽暦)の年干支は太陰太陽暦の年干支とは基本的に異なります(両者の年干支が一致する期間もあり得ます)。
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『漢書』本紀の日蝕記録

高帝紀上〔太祖・髙皇帝(劉邦)前206~前195年、前202年即位〕
()三年冬十月,甲戌晦,日有食之。50
SN:紀元前205/12/20 09:17 022' 部分日食(77
WS:西暦-2041220917分、丙申年(32)月初乙卯(51)甲戌(10)、月齢:0.558274751、JD:1,646,900.5842
判定:◎(日干支も一致している。)

()十一月癸卯晦,日有食之。50
〖推定〗
WS:西暦-203118837960、丁酉年(33)月初丙戌(22)癸卯(39)、月齢:0.562310474、JD:1,646,929.5565
判定:〇(該当する日蝕がSNにないが、次に示す通り、日蝕記録に矛盾はない。)
 記録(1)「三年冬十月甲戌(10)」における朔(月齢0.0)の時刻はJD:1,646,900.0259(=(1)のLD:1,646,900.5842-(1)の月齢0.558274751)であり、これに1朔望月を加える(「三年冬十月」+1朔望月=「三年冬十一月」)とJD:1,646,929.5565となり、これが「(2)十一月癸卯晦」の朔時刻で、紀元前204(西暦-203)年1月18日8時37分9秒60、丁酉年(33)月初丙戌(22)癸卯(39)、月齢0.562310474であり、日干支も一致している。

高帝紀下
()(九年)夏六月乙未晦,日有食之。32
SN:紀元前198/08/07 08:00 0゚02' 金環日食(71)
WS:西暦-197年8月7日8時0分、癸卯年(39)月初己丑(25)乙未(31)、月齢:29.527104869(-0.003483991)、JD:1,649,321.5307。
判定:◎(日干支も一致している。)

恵帝〔恵帝(劉盈)前195~前188年〕
()(七年)春正月辛丑朔,日有蝕之。27
〖推定〗
西暦-187221630分、癸丑年(49)月初辛巳(17)辛丑(37)、月齢:1.324530529、JD:1,652,807.4682
判定:〇(SNには該当する日蝕はないが、次に示す通り、日の出あたりに起きた日蝕とすれば、日干支も一致し、日蝕記録に矛盾はない。)
 記録(4)と(5)の日干支から推測すれば、紀元前188(西暦-187)年2月21日の日の出あたりに起きた日蝕を記録したのかもしれない。とはいえ、この日付では月齢が1.3ほど(離角は約15.85度※、この前日が新月)なので、日蝕記録としては前日のほうが相応しいかもしれない。というのは、新月は現地時間で西暦-187年2月19日22時42分40秒57、癸丑年(49)月初壬午(18)庚子(36)なので、観察できない時刻であり、翌朝(日の出を仮に6:30とすると)2月20日6時30分、癸丑49年月初辛巳(17)庚子(36)、月齢0.3245305、JD:1,652,806.4682。翌々日とすると、西暦-187年2月21日6時30分、日干支辛丑(37)、月齢:1.324530529、JD::1,652,807.4682です。
※朔望月を29.53058886日とすると1日で約12.2度(=360度÷29.53058886日=12.19074911度)太陽から離れる(1日当たりの離角が約12.2度)と考えられる。部分日食が起こる限界は交点(黄道と白道の)を中心として±約17度、皆既日食が起こる限界は±約11度で、月齢1.3245305の離角は約16.15度(12.19074911度/日×月齢1.3245305日=16.14701901度)なので、かろうじて部分日蝕が生じたかもしれません。

()(七年)夏五月丁卯,日有蝕之,既。27
SN:紀元前188/07/17 15:24 006' 皆既日食(62
WS:西暦-1877171524分、癸丑年(49)月初辛亥(47)丁卯(03)、月齢:0.042419563、JD:1,652,953.8390
判定:◎(日干支も一致している。)
 この「夏五月丁卯」を「月初(一日)」と仮定すると、恵帝七年春正月朔から五月朔までの月数は4ヶ月。朔望月を29.53058886日と仮定すると、4ヶ月の日数は118.1224日(=29.53058886日*4ヶ月)で、60日+58.1224日である。
 (4)の正月朔の干支辛丑(37)に58.1224日を加えると60日+35.1224日であるから、記録(5)の日干支丁卯(03)とは合わない。よって、この日蝕記録(5)の「夏五月丁卯」は「晦(月の末日)」の可能性が高い。
 (4)の「春正月辛丑朔」から(5)の「夏五月丁卯晦」までを5ヶ月とすると、その日数は147.6529日(==29.53058886日*5ヶ月)で、これは2*60日+27.6529日であり、辛丑(37)に27.6529日を加えると、60+4.6529日となり、下記のように記録(5)の日干支「丁卯」(03)と一致する。
 正月(29日)+二月(30日)+三月(29日)+四月(30日)+五月(29日)=147日、両端を数えているので1日減らすと、「春正月辛丑(37)朔」から「夏五月丁卯(03)晦」まで146日。辛丑(37)+146日=183日=3*60+丁卯(03)であり、日干支が整合する。
 なお、この計算は、章法四分暦では大月(30月)・小月(29月)が交互に来ることを前提にしています。漢が当初用いたとされる『顓頊暦』も“古六暦(こりくれき)”の一つであり、“古六暦”はみな「章法」(19年間に7閏月を置く)の「四分暦」(太陽年を365+1/4日=365.25日とする)です。
 古六暦(こりくれき)は、中国暦の中で漢代に伝わっていた黄帝暦・顓頊暦・夏暦・殷暦・周暦・魯暦という帝名や国名を冠した六つの古暦の総称。Wikipedia「古六暦」より抜粋)

高后紀〔高皇后(呂雉)前188~前180年〕
()二年春…夏六月丙戌晦,日有蝕之。3
判定:?(下記のSNのデータとことごとく日干支が一致しない。日蝕記録の日干支丙戌(22)に近い日蝕もない。)
紀元前188/07/17 15:24 0゚06' 皆既日食(62)丁卯(03)←上記の日蝕記録(5)です。
紀元前187/01/11 19:52 *0゚11' 金環日食(67)丙寅(02)
紀元前187/12/31 19:52 *0゚46' 部分日食(77)庚申(56)
紀元前185/05/17 02:58 *0゚10' 金環皆既日食(54)壬午(18)
紀元前184/05/06 07:15 0゚45' 金環日食(64)丙子(12)
紀元前184/10/30 02:26 *0゚01' 皆既日食(69)癸酉(09)
紀元前183/10/19 19:40 *0゚13' 皆既日食(79)戊辰(04)
紀元前182/03/16 01:14 *0゚36' 部分日食(46)乙未(31)

()七年…春正月…己丑晦,日有蝕之,既。8
SN:紀元前181/03/04 15:38 006' 皆既日食(56
WS:西暦-180341538分、庚申年(56)月初丙戌(22)己丑(25)、月齢:0.543855265、JD:1,655,375.8488
判定:◎(西暦も日干支も一致している)

文帝紀〔太宗・文帝(劉恒)前180~前157年〕
()(二年)十一月癸卯晦,日有食之。14
SN:紀元前178/01/02 13:51 013' 部分日食(48
WS:西暦-177121351分、癸亥年(59)月初壬寅(38)癸卯(39)、月齢:0.898939609、JD:1,656,409.7744
判定:◎(日干支も一致している。)

()三年冬十月丁酉晦,日有食之。20
SN:紀元前178/12/22 12:13 023' 金環日食(58
WS:西暦-17712221213分、癸亥年(59)月初丙子(12)丁酉(33)、月齢:0.463817734、JD:1,656,763.7064
判定:◎(日干支も一致している。)

(10)(三年)十一月丁卯晦,日有蝕之。20
〖推定〗
西暦-176121630分、甲子年(0)月初丁未(43)丁卯(3)、月齢:0.695034429、JD:1,656,793.4682
判定:〇(暦上の日干支は一致する。観測できない蝕甚時刻(057)だが、日の出頃に部分日蝕が観測されたのかもしれない。年の誤記ではない。)
 (9)「三年冬十月丁酉晦」の紀元前178/12/22 12:13のJD: 1,656,763.7064に1朔望月(29.53058886)を加えるとJD:1,656,793.2370「(三年)十一月丁卯」、紀元前177(西暦-176)年1月21日0時57分4秒80、甲子年(0)月初丁未(43)丁卯(03)、月齢0.024281214となるが、日干支は一致するものの上記の時刻では日蝕は観測できない。同日の日の出時刻を仮に6:30頃と仮定すると、西暦-176年1月21日6時30分、日干支は変わらず丁卯(3)、JD:1,656,793.4682、月齢:0.6950344=離角8.5度(月行12.19074911度/日×月齢:0.6950344=8.472990度)なので、皆既日食が起こる限界±約11度以内なので、日の出頃に部分日蝕が見られたかも知れない。
 もし「(三年)」ではなく「(四年)」と仮定すると、閏月が入らなければ13ヶ月、入れば14ヶ月となる。13ヶ月の場合は、1,656,763.7064+383.8976552=1,657,147.6041、西暦-175年1月9日9時45分42   秒24、乙丑年1月初癸丑49辛酉57、日干支は合わない。14ヵ月の場合は、1,656,763.7064+413.4282440=1,657,177.1346、西暦-175年2月7日22時29分37秒44、乙丑年1月初乙酉21辛卯27、これも日干支は合わない。

(11)〔文帝〕四年夏四月丙寅晦,日有蝕之。67
判定:?(文帝「四年夏四月」は日蝕記録()の翌年の紀元前176年であると思われるが、暦から想定した日蝕日時の日干支が日蝕記録の日干支丙寅(02)と一致せず、日干支丙寅(02)に日干支が一致するSNのデータが存在しない不可解な日蝕記録である。)
 日蝕記録(10)「(三年)十一月丁卯晦」から日蝕記録(11)「四年夏四月丙寅晦」までの月の経過は、その間に閏月が無い場合は、次のように17ヶ月となる。
❶(三年)十二月晦、❷(三年)一月晦、❸二月晦、❹三月晦、❺四月晦、❻五月晦、❼六月晦、❽七月晦、❾八月晦、❿九月晦、⓫(四年)十月晦、⓬十一晦、⓭十二月晦、⓮(四年)一月晦、⓯二月晦、⓰三月晦、⓱「四年夏四月丙寅晦」
 (10)(三年)十一月丁卯晦の朔時刻(JD: 1,656,793.2370)に17朔望月(29.53058886×17=502.0200106)を足すとJD: 1,657,295.2570であり、その暦日と時刻(LMT)は西暦-175(紀元前176)年6月6日1時25分53秒72、乙丑年(1)月初甲申(20)己丑(25)、月齢: 0.4638400であり、日蝕記録の日干支丙寅(02)と一致しない。
 閏月が有った場合は、次のように18ヶ月となる。
❶(三年)十二月晦、❷(三年)一月晦、❸二月晦、❹三月晦、❺四月晦、❻五月晦、❼六月晦、❽七月晦、❾八月晦、❿九月晦、⑪後九月晦、⑫(四年)十月晦、⑬十一月晦、⑭十二月晦(四年)⑮一月晦、⑯二月晦、⑰三月晦、⑱「四年夏四月丙寅晦」
 (10)(三年)十一月丁卯晦の朔時刻(JD:1,656,793.2370)に18朔望月(29.53058886×18=531.5505995)を足すとJD:1,657,324.7876であり、その暦日と時刻(LMT)は西暦-175(紀元前176)年7月5日14時9分56秒64、乙丑年(1)月初甲寅(50)戊午(54)、月齢: 0.4638405であり、日蝕記録の日干支丙寅(02)と一致しない。

【寄り道】《『顓頊暦』は「十月年始」》
 上記の(10)と(11)の暦日をもとに、『顓頊暦』が「年を十月から数え始め九月で終る暦である」ことを確かめてみます。
 今「年を正月(一月)から数え始めた」と仮定すると、「(三年)
十一月丁卯晦」より「四年夏四月丙寅晦」に至る月の経過は、「①十二月晦・②“四年”一月晦・③二月晦・④三月晦・⑤四月晦」の5ヶ月なので、(10)「(三年)十一月丁卯晦」に5朔望月を加えると(11)「“四年”夏四月丙寅晦」です。よって、(10)のJD1,656,793.2370+147.6529443(5朔望月)=(11)のJD1,656,940.8899(「“四年”夏四月丙寅晦」)です。このJDは西暦-176年6月16日16時37分15秒36、甲子年(0)月初己卯(15)甲午(30)で、この日干支は日蝕記録の日干支丙寅(02)とは約1朔望月も離れています。また、『顓頊暦』は閏月を九月の後に置く(「後九月」)ので、「(三年)十一月丁卯晦」から「“四年”夏四月丙寅晦」の間に閏月が入って6朔望月になることはありません。すなわち、「年を正月から数え始めた」という仮定からは矛盾が導かれたので、「『年を正月から数え始めた』のではない」(仮定の否定)となります(背理法)。
 つまり、『顓頊暦』「年は十月からから数え始めた」(通説)が正しい(可能性がある)と考えられます(これは「顓頊暦は十月年始」という実証済の事柄を論理的に確認しただけです)。【寄り道終わり】

 さて、日蝕の日干支の一致が確認された(9)「三年冬十月丁酉晦」から「(11)四年夏四月丙寅」までの間に閏月(「後九月」)が無かったとすれば、その間の経過は「①(三年)十一月丁卯晦・②十二月晦・③一月晦・④二月晦・⑤三月晦・⑥四月晦・⑦五月晦・⑧六月晦・⑨七月晦・⑩八月晦・⑪九月晦・⑫(四年)十月晦・⑬十一月晦・⑭十二月晦・⑮一月晦・⑯二月晦・⑰三月晦・⑱夏四月丙寅晦」なので、(9)から(11)までは18ヶ月です。よって、(9)のJD1,656,763.7064+531.5505995(18朔望月)=JD1,657,295.2570となり、このJDは西暦-175年6月6日1時25分52秒80、乙丑年(1)月初甲申(20) 己丑(25)なので、この日干支も日蝕記録の日干支丙寅(02)と一致しない。
 (9)「三年冬十月丁酉晦」から「(11)四年夏四月丙寅」までの間に閏月「後九月」が有ったとすれば、その間の経過は「①(三年)十一月丁卯晦・②十二月晦・③一月晦・④二月晦・⑤三月晦・⑥四月晦・⑦五月晦・⑧六月晦・⑨七月晦・⑩八月晦・⑪九月晦・⑫「後九月」・⑬十月・⑭十一月晦・⑮十二月晦・⑯一月晦・⑰二月晦・⑱三月晦・⑲夏四月丙寅晦」となるので、(9)から(11)までは19ヶ月である。よって、JD1,656,763.7064+561.0811883(19朔望月)=JD1,657,324.7876となり、このJDは西暦-175年7月5日14時9分56秒64、乙丑年(1)月初甲寅(50)戊午(54)なので、この日干支も日蝕記録の日干支丙寅(02)と一致しない。
(当然のことですが、上記のように(9)から計算し始めても(10)から計算した結果と同じになります。)
 さらに、月が「四月」ではなく「五月」の誤記だと仮定し、閏月「後九月」が無かった(19ヶ月)場合は、上記の19ヶ月と同じで、日干支戊午(54)が日蝕記録の日干支丙寅(02)と一致しません。また、閏月「後九月」が有った場合(20ヶ月)は、(9)のJD1,656,763.7064+590.6117772=1,657,354.3182となり、西暦-175年8月4日2時53分58秒51、乙丑年(1)月初乙酉(21)戊子(24)なので、この日干支も日蝕記録の日干支丙寅(02)と一致しませんし、日蝕が観測できる時刻でもありません。
 ちなみに、次の景帝(劉啓)〔紀元前157~紀元前141年。前7年・中年7年・後3年〕の日蝕記録(12)に至るまでのSNの日蝕データ(下記)で、日干支が日蝕記録(11)の日干支丙寅(02)と一致するものは、紀元前162/08/29 00:05 *0゚27' 金環日食(71)丙寅(02)だけですが、紀元前162(西暦-161)年は、文帝十八年か十九年〔文帝(劉恒)紀元前180~紀元前157年〕なので、「〔文帝〕四年夏四月丙寅晦」という日蝕記録(11)とはあまりにも離れすぎています。
紀元前178/12/22 12:13 0゚23' 金環日食(58)←日蝕記録(9)です。
〇紀元前177/01/21  0:57 丁卯(03)SNのデータに無し←日蝕記録(10)です。
紀元前177/06/16 23:31 *0゚53' 皆既日食(63)甲午(30)
紀元前176/06/06 12:03 0゚26' 皆既日食(73)己丑(25)
紀元前175/05/26 20:45 *0゚59' 部分日食(83)癸未(19)
紀元前175/10/21 01:42 *0゚50' 部分日食(50)辛亥(47)
紀元前174/10/10 18:00 0゚27' 皆既日食(60)乙巳(41)
紀元前173/04/04 10:04 0゚30' 金環日食(65)壬寅(38)
紀元前173/09/29 01:41 *0゚36' 金環日食(70)庚子(36)
紀元前172/03/24 23:43 *0゚33' 皆既日食(75)丙申(32)
紀元前171/08/08 13:52 0゚47' 部分日食(52)戊午(54)
紀元前170/02/02 21:13 *0゚24' 金環皆既日食(57)丙辰(52)
紀元前170/07/28 22:30 *0゚29' 皆既日食(62)壬子(48)
紀元前169/01/23 02:01 *0゚07' 金環日食(67)辛亥(47)
紀元前169/07/17 13:04 0゚38' 皆既日食(72)丁未(43)
紀元前168/01/11 02:07 *0゚46' 部分日食(77)乙巳(41)
紀元前168/06/07 23:26 *0゚36' 部分日食(44)壬申(8)
紀元前167/05/28 09:19 0゚19' 金環日食(54)丁卯(3)
紀元前167/11/20 21:58 *0゚49' 皆既日食(59)癸亥(59)
紀元前166/05/17 16:20 0゚18' 金環日食(64)辛酉(57)
紀元前166/11/10 11:19 0゚28' 皆既日食(69)戊午(54)
紀元前165/05/05 16:59 0゚60' 金環日食(74)乙卯(51)
紀元前165/10/30 02:25 *0゚39' 皆既日食(79)癸丑(49)
紀元前164/03/26 07:25 0゚23' 部分日食(46)庚辰(16)
〔国立天文台:-163/09/19 部分日食51〕紀元前164(-163)年9月19日6時30分、月齢0.0255171、丁丑(13)
紀元前164/10/19 14:26 0゚54' 丁未(43)
紀元前163/03/15 23:16 *0゚01' 皆既日食(56)甲戌(10)
紀元前162/03/05 16:37 0゚44' 皆既日食(66)己巳(5)
紀元前162/08/29 00:05 *0゚27' 金環日食(71)丙寅(2)
紀元前161/08/17 05:21 *0゚30' 金環日食(81)庚申(56)
紀元前160/01/12 22:28 *0゚45' 部分日食(48)戊子(24)
紀元前160/08/06 21:46 *0゚48' 部分日食(91)甲寅(50)
紀元前159/01/01 21:54 *0゚06' 金環日食(58)壬午(18)
紀元前159/06/28 05:20 *0゚54' 皆既日食(63)庚辰(16)
紀元前159/12/21 23:12 *0゚29' 金環日食(68)丙子(12)
紀元前158/06/17 20:50 *0゚01' 金環皆既日食(73)甲戌(10)

景帝〔景帝(劉啓)前157~前141年。前7年・中年7年・後3年〕
(12)(三年)二月壬子晦,日有食之。19
判定:?景帝三年は紀元前155年と思われるが、SNの日蝕データには『漢書』本紀の日蝕記録(12)の日干支壬子(48)と一致するものがない。)
以下は景帝元年(紀元前157年からのSNのデータ)です。
紀元前157/06/06 01:23 *0゚31' 部分日食(83)己巳(5)
紀元前157/10/31 10:27 0゚41' 部分日食(50)丙申(32)
紀元前156/04/26 12:27 0゚59' 金環日食(55)癸巳(29)
紀元前156/10/21 01:09 *0゚08' 金環皆既日食(60)辛卯(27)
紀元前155/04/15 19:22 *0゚00' 金環皆既日食(65)丁亥(23)
紀元前155/10/10 08:33 0゚25' 金環日食(70)乙酉(21)
紀元前154/04/05 05:44 *0゚01' 皆既日食(75)壬午(18)
紀元前154/08/30 19:29 *0゚59' 金環日食(80)己酉(45)
紀元前153/08/18 21:10 *0゚19' 部分日食(52)癸卯(39)
紀元前152/02/13 03:13 *0゚49' 金環皆既日食(57)壬寅(38)
紀元前152/08/08 04:11 *0゚01' 皆既日食(62)戊戌(34)
紀元前151/02/02 09:21 0゚26' 金環日食(67)丙申(32)

(13)(四年)十月戊戌晦,日有蝕之。25
判定:?(景帝四年は紀元前154年と思われるが、SNにある紀元前152/08/08 04:11 *001' 皆既日食(62)戊戌(34)は、日干支戊戌(34)だけは一致するが、『漢書』本紀の「十月戊戌晦」とは月が適合せず(太陰太陽暦「十月晦」は太陽暦の11月か12月にあたるはずで、太陽暦88は太陰太陽暦では「六月」か「七月」にあたるはず)、また日蝕が観測できる時刻(04:11)でもない。)
紀元前155/04/15 19:22 *0゚00' 金環皆既日食(65)丁亥(23)
紀元前155/10/10 08:33 0゚25' 金環日食(70)乙酉(21)
紀元前154/04/05 05:44 *0゚01' 皆既日食(75)壬午(18)
紀元前154/08/30 19:29 *0゚59' 金環日食(80)己酉(45)
紀元前153/08/18 21:10 *0゚19' 部分日食(52)癸卯(39)
紀元前152/02/13 03:13 *0゚49' 金環皆既日食(57)壬寅(38)
紀元前152/08/08 04:11 *0゚01' 皆既日食(62)戊戌(34)
紀元前151/02/02 09:21 0゚26' 金環日食(67)丙申(32)
紀元前150/01/22 09:17 0゚14' 金環日食(77)庚寅(26)←日蝕記録(14)です。

(14)七年冬十一月庚寅晦,日有蝕之。30
〔同年立太子記事:(紀元前150)夏四月乙巳,立皇后王氏。丁巳,立膠東王徹為皇太子。膠東王徹は後の武帝(劉徹))
SN:紀元前150/01/22 09:17 014' 金環日食(77
WS:西暦-149122917分、辛卯年(27)月初己巳(5)庚寅(26)、月齢:0.594327411、JD:1,666,656.5842
判定:◎(日干支も一致している。また、同年夏四月にある立太子記録も西暦と整合している。)

(15)(中二年九月)甲戌晦,日有蝕之。44
判定:?(中二年は紀元前148年、記録(14)と記録(16)の間に起きた日蝕は次の通り。甲戌(10)に近い日干支の日蝕はない。)
紀元前150/06/19 04:42 *0゚51' 戊午(54)
(〔国立天文台:-149/07/18 皆既日食82〕丁亥(23)〔長安LMT:西暦-149(紀元前150)年7月17日23時25分27秒38、辛卯年(27)月初庚午(6)丙戌(22)、月齢:0.000000038、JD:1,666,833.1734〕)
紀元前149/01/11 10:12 0゚50' 甲申(20)
紀元前149/06/07 19:03 0゚16' 金環日食(54)壬子(48)
紀元前149/12/01 04:27 *0゚44' 皆既日食(59)己酉(45)
紀元前148/05/27 22:21 *0゚37' 金環日食(64)丙午(42)
紀元前148/11/20 21:54 *0゚09' 皆既日食(69)癸卯(39)

(16)三年…秋九月,…戊戌晦,日有蝕之。47
SN:紀元前147/11/10 11:25 0゚14' 皆既日食(79)
WS:西暦-146年11月10日11時25分、甲午年(30)月初己丑(25)戊戌(34)、月齢:0.745539880、JD:1,668,044.6731。
判定:◎(日干支も一致している。)

(17)四年春三月,〔中五年〕十月戊午,日有蝕之。54
判定:?(下記の如く検討したが、該当する日蝕が見つからなかった。月順が正常なので、十月正始を変更したように見えるが、次の記録(18)と整合しないので、「(中)五年」の脱漏と考えられる。)
 日蝕記録(16)「三年…秋九月,…戊戌晦」(翌月が「四年十月」)から「〔中五年〕十月戊午」の前月末(九月晦)までの月の経過は、閏月(「後九月」)がない場合には次のようになる。
四年十月晦、②十一月晦、③十二月晦、④一月晦、⑤二月晦、⑥三月晦、⑦四月晦、⑧五月晦、⑨六月晦、⑩七月晦、⑪八月晦、⑫四年九月晦(翌月が五年十月)
 ここで⑫四年九月晦の日干支がわからないので、⑫までの12ヶ月を日蝕記録(16)に加えてみると次の通りです。
(16)のJD1,668,044.6731+12朔望月354.3670663=1,668,399.0402。日干支の計算は、戊戌(34)+12朔望月354.3670663=四年九月晦のJD1,668,433.0402。干支の数60で割ると余りが13.0402です。つまり四年九月晦の日干支は丙子(12)で五年十月朔の日干支は丁丑(13))。日蝕記録(17)の日干支戊午(54)とは一致しません。
 では、この間に閏月(「後九月」)が有った(13ヶ月)とすると、次のようになります。
 (16)のJD1,668,044.6731+13朔望月383.8976552=1,668,428.5708。日干支の計算は、戊戌(34)+13朔望月383.8976552=417.8976552。干支の数60で割ると余りが3.8976552です。五年十月朔の日干支は丁卯(3)で、やはり日蝕記録の日干支戊午(54)にはなりません。
 さらに、これを月日数で確かめてみます。閏月(「後九月」)が有った場合、小の月から始めると、①四年十月晦(29)、②十一月晦(30)、③十二月晦(29)、④一月晦(30)、⑤二月晦(29)、⑥三月晦(30)、⑦四月晦(29)、⑧五月晦(30)、⑨六月晦(29)、⑩七月晦(30)、⑪八月晦(29)、⑫九月晦(30)、⑬四年後九月晦(29)(この翌月が五年十月)
 この場合、小の月(29日)が①③⑤⑦⑨⑪⑬の7ヶ月で203日、大の月(30日)が②④⑥⑧⑩⑫の6ヶ月で180日、合計383日です。日干支の計算は、日蝕記録(16)の日干支戊戌(34)+383日=417日、これを60で割った餘は3(五年十月月初の日干支番号)。干支番号3の日干支は丁卯で日蝕記録(17)の日干支戊午(54)とは一致しません。また大の月(30日)から始めると大の月(30日)が①③⑤⑦⑨⑪⑬の7ヶ月で210日、小の月(29日)が②④⑥⑧⑩⑫の6ヶ月で174日、合計384日です。これは小の月から始めた場合に比べて一日増えただけですから、これを60で割った餘は4(五年十月月初の日干支番号)。干支番号4の日干支は戊辰でこれも日蝕記録(17)の日干支戊午(54)とは一致しません。
 また、日蝕記録(16)と日蝕記録(18)の間に起きた日蝕は次のように四つでありますが、いずれも日蝕記録の日干支戊午(54)と日干支が一致しません。
紀元前146/04/06 17:41 0゚56' 部分日食(46)乙丑(1)
紀元前145/03/26 05:21 *0゚19' 皆既日食(56)庚申(56)
紀元前145/09/19 05:12 *0゚46' 金環日食(61)丁巳(53)
紀元前144/03/15 23:43 *0゚41' 皆既日食(66)甲寅(50)

(18)〔中〕六年冬十月,…。秋七月辛亥晦,日有蝕之。65〉〔 正しくは「中七年冬十月」〕
SN:紀元前144/09/08 05:48 *008' 金環日食(71
WS:西暦-14398548分、丁酉年(33)月初甲辰(40)辛亥(47)、月齢:29.471490863=-0.0591)、JD:1,669,077.4390
判定:〇(日干支も一致している。)
留意事項》日蝕記録(18)が「〔中〕六年」ならば記録(19) 紀元前143年の二年前、すなわち紀元前145年のはずであるが、記録(17)の「〔中〕五年」を脱漏した余波を受けて、正しくは「〔中〕七冬十月」とすべきところを「六年冬十月」と誤った、と考えられる。

(19)後元年…五月,…。秋七月乙巳晦,日有蝕之。67
SN:紀元前143/08/28 15:460゚19' 金環日食(81)
WS:西暦-142年8月28日15時46分、戊戌年(34)月初戊寅(14)乙巳(41)、月齢:29.519702320(=-0.0109)、JD:1,669,431.8543。
判定:(日干支も一致している。)
傍証記録
三年春正月,詔曰:「〔中略〕。」甲子,帝崩于未央宮。〈77〉
Wikipedia「景帝(漢)」によれば、景帝の在位期間は紀元前157年7月14日から紀元前141年3月9日とされている。『漢書』の後三年春正月甲子(景帝崩御)が紀元前141年3月9日に違いなければ、後元年春正月は紀元前143年で間違いない。

武帝紀〔世宗・武帝(劉徹)前141~前87年〕
(20)二年冬十月,…春二月丙戌朔,日有蝕之。10
判定:? (該当する日蝕が見つからない不可解な記録である。)
《判断根拠》武帝の在位初年(紀元前141年)を含め漢書武帝紀における次の日蝕記録(21)までの間に起きた観測できないもの含む日蝕(下記)には、日干支が日蝕記録(20)の日干支丙戌(22)と一致するものはなく、日干支の誤写と考え得るものもなく、また日蝕記録(20)の日干支の近くに起きた日蝕もない。
紀元前143/08/28 15:46 0゚19' 金環日食(81)乙巳(41)
紀元前142/01/24 04:26 *0゚37' 部分日食(48)甲戌(10)
紀元前141/01/13 03:43 *0゚06' 金環日食(58)戊辰(4)
紀元前141/07/08 14:25 0゚30' 皆既日食(63)乙丑(1)
紀元前140/01/01 05:17 *0゚35' 金環日食(68)壬戌(58)
紀元前140/06/28 02:01 *0゚19' 金環皆既日食(73)庚申(56)
紀元前139/06/17 06:12 0゚36' 部分日食(83)甲寅(50)
紀元前139/11/11 20:56 *0゚30' 部分日食(50)辛巳(17)
紀元前138/05/07 19:53 *0゚54' 金環日食(55)戊寅(14)

(21)三年春,…九月丙子晦,日有蝕之。17
SN:紀元前138/11/01 08:46 0゚10' 金環皆既日食(60)
WS:西暦-137年11月1日8時46分、癸卯年(39)月初丙子(12)丙子(12)、月齢:0.739759754、JD:1,671,322.5626。
判定:◎(日干支も一致している。)

(22)元光元年秋七月癸未,日有蝕之。32
SN:紀元前134/08/19 13:31 006 '皆既日食(62
WS:西暦-1338191331分、丁未年(43)月初乙丑(1)癸未(19)、月齢:0.000000000、JD:1,672,709.7606。(UT:西暦-13381961512秒)これが1973年に臨沂銀雀山2号墓から出土した竹簡にある暦が元光元年のものであることを決定づけた日蝕です。
判定:◎

(23)(元朔)二年三月乙亥晦,日有蝕之。61
判定:?(SNに該当するデータが見当たらない。)
 年号「元朔」は「紀元前128年~紀元前123年の6年間とされており、「元朔二年」の西暦は紀元前127年または紀元前126年であろうが、この2年間を含めた上記日蝕記録(22)と下記日蝕記録(24)の間の期間において起きたであろう日蝕(見えない日蝕を含めて)のうちで、日干支が一致するのは「紀元前132/02/01 19:33 *0゚50' 金環日食(77)」だけある。が、この日蝕は「三月」以前の日付なので当該日蝕記録(23)ではありえない。また、誤記されたと考えられ得る日干支もないので、「(元朔)二年三月乙亥」の日蝕記録は、❶「三月」は「二月」の誤写、かつ❷「前年が閏年で「後九月」があった」場合以外にはありえない日蝕記録と思われる。なお、❶かつ❷の場合であり得るか否かは、「顓頊暦」と照合してみなければわからない。かりに記録が月を間違えていたとしても、現地時間19:33の時刻では見えない日蝕であっただろう。
紀元前133/02/13 19:40 *0゚14' 金環日食(67)辛巳(17)
紀元前133/08/08 03:37 *0゚44' 皆既日食(72)戊寅(14)
紀元前132/02/01 19:33 *0゚50' 金環日食(77)乙亥(11)
紀元前131/06/19 00:20 *0゚02' 金環日食(54)戊戌(34)
紀元前130/06/08 03:02 *0゚36' 金環日食(64)壬辰(28)
紀元前130/12/02 04:43 *0゚05' 皆既日食(69)己丑(25)
紀元前129/11/20 21:39 *0゚31' 皆既日食(79)癸未(19)
紀元前128/04/17 00:06 *0゚39' 部分日食(46)辛亥(47)
紀元前127/04/06 15:07 0゚11' 皆既日食(56)乙巳(41)
紀元前126/09/19 15:56 0゚31' 金環日食(71)丙申(32)
紀元前125/02/15 08:24 0゚57乙丑(1)
(〔国立天文台:-124/03/15 皆既日食76〕甲午(30))
紀元前125/09/07 23:02 *0゚07' 金環皆既日食(81)庚寅(26)
紀元前124/02/03 13:36 0゚22' 部分日食(48)己未(55)
紀元前123/01/23 12:42 0゚20' 金環日食(58)癸丑(49)
紀元前122/01/12 16:52 0゚52' 金環日食(68)丁未(43)

(24)元狩元年五月乙巳晦,日有蝕之。83
SN:紀元前122/07/09 07:59 0゚01' 金環皆既日食(73)
WS:西暦-121年7月9日7時59分、己未年(55)月初丁酉(33)乙巳(41)、月齢:0.772882025、JD:1,677,051.5300。
判定:◎(日干支も一致している。)

(25)(元鼎五年)夏四月,…丁丑晦,日有蝕之。131
SN:紀元前112/06/18 08:59 004' 金環日食(64
WS:西暦-111618859分、己巳年(5)月初庚申(56)丁丑(13)、月齢:0.552118911、JD:1,680,683.5717
判定:◎(日干支も一致している。)

《特記事項》『太初暦』の改暦
 日蝕記録(25)と(26)の間の太初元年(紀元前104年)『太初暦』の改暦があり、『顓頊暦』の「十月年始」を「立春正月年始」(冬至を十一月に固定する「夏正(寅月正始)」に改め、また、「後九月」とされていた閏月を、中気のない月を閏月とする「歳中閏月法」に改められた。

(26)(太始四年)冬十月甲寅晦,日有蝕之。217
SN:紀元前 93/12/12 15:18 010' 金環皆既日食(79
WS:西暦-9212121518分、戊子(24)月初癸卯(39)甲寅(50)、月齢:0.943398096、JD:1,687,800.8349
判定:◎(日干支も一致している。)

(27)(征和四年)秋八月辛酉晦,日有蝕之。238
SN:紀元前 89/09/29 15:51 003' 金環皆既日食(81
WS:西暦-889291551分、壬辰年(28)月初癸巳(29)辛酉(57)、月齢:0.028638343、JD:1,689,187.8578
判定:◎(日干支も一致している。)

昭帝紀〔昭帝(劉 弗陵)前87~前74年〕
(28)(始元三年)十一月壬辰朔,日有蝕之。25
SN:紀元前 84/12/03 11:29 015' 金環日食(60
WS:西暦-831231029分、丁酉年(33)月初庚寅(26)壬辰(28)、月齢:0.847340191、JD:1,691,078.6342
判定:◎(日干支も一致している。)

(29)(元鳳元年)秋七月乙亥晦,日有蝕之,既。49
SN:紀元前 80/09/20 13:29 003' 皆既日食(62
WS:西暦-799201329分、辛丑年(37)月初庚辰(16)己亥(35)、月齢:0.034663771、JD:1,692,465.7592
判定:〇(この日干支「乙亥」は、「己亥」の間違い(誤写)ではないかと思われる。)
 もし、この日蝕を前年の紀元前79年のものであるとすれば次になる。
SN:紀元前 79/09/10 03:46 *0゚23' 皆既日食(72)
WS:西暦-78年9月10日3時46分、壬寅年(38)月初乙酉(21)甲午(30)、月齢:0.262736340、JD:1,692,820.3543。これは見えない日蝕であり、日干支(甲午)も「乙亥」とは似ていない。

宣帝紀〔中宗・宣帝(劉詢)前74~前48年〕
(30)(本始四年)十二月癸亥晦,日有蝕之。31
SN:紀元前 68/02/13 17:12 0゚37' 金環日食(68)
WS:西暦-67年2月13日17時12分、癸丑年(49)月初辛亥(47)癸亥(59)、月齢:0.376495622、JD:1,696,629.9140。
判定:◎(日干支も一致している。)

(31)(神爵四年)冬十二月乙酉朔,日有蝕之。98
SN:紀元前 56/01/03 06:37 *0゚17' 金環皆既日食(79)
WS:西暦-55年1月3日6時37分、乙丑年(1)月初癸未(19)乙酉(21)、月齢:0.938960980、JD:1,700,971.4731。
判定:◎(日干支も一致している。)

(32)(五鳳三年)夏四月辛丑晦,日有蝕之。111
SN:紀元前 54/05/09 14:21 012' 皆既日食(66
WS:西暦-53591421分、丁卯年(3)月初癸巳(29)辛丑(37)、月齢:0.874106263、JD:1,701,827.7953
判定:◎(日干支も一致している。)

元帝紀〔高宗・元帝(劉奭)前48~前33年〕〈32
(33)
(永光二年)三月壬戌朔,日有蝕之。
SN:紀元前 42/03/28 05:23 *002' 金環日食(77
WS:西暦-41328523分、己卯年(15)月初乙未(31)壬戌(58)、月齢:0.503932731、JD:1,706,168.4217
判定:◎(日干支も一致している。)

(34)(永光二年)夏六月…戊寅晦,日有蝕之。43
SN:紀元前 40/07/31 12:32 0゚18' 金環日食(64)
WS:西暦-39年7月31日12時32分、辛巳年(17)月初戊申(44)戊寅(14)、月齢:0.414772458、JD:1,707,024.7196。
判定:◎(日干支も一致している。)

(35)(建昭五年夏六月)壬申晦,日有蝕之。67
SN:紀元前 39/07/20 13:42 028' 金環日食(74
WS:西暦-387201342分、壬午年(18)月初癸丑(49)壬申(8)、月齢:0.096317249、JD:1,707,378.7682
判定:?(不可解。上記SNデータなら日干支が一致するが、この年だと「永光五年」である。)
 年号「建昭」は、紀元前38年から紀元前34年までの5年間とされているので、建昭五年は紀元前34年ころと思われるが、下記のように、建昭年間で月と日干支が日蝕記録(35)と適合するのは、上記日蝕しかない。
紀元前 39/01/25 01:58 *0゚06' 皆既日食(69)丙子(12)
紀元前 39/07/20 13:42 0゚28' 金環日食(74)壬申(8)
紀元前 38/01/14 17:54 0゚32' 金環皆既日食(79)庚午(6)

紀元前 37/05/30 03:12 *0゚04' 皆既日食(56)壬辰(28)
紀元前 37/11/23 04:28 *0゚50' 金環日食(61)己丑(25)
紀元前 36/05/19 22:03 *0゚32' 皆既日食(66)丙戌(22)
紀元前 36/11/12 05:58 *0゚16' 金環日食(71)癸未(19)
紀元前 35/11/01 17:47 0゚01' 金環皆既日食(81)丁丑(13)
紀元前 34/03/30 01:42 *0゚41' 部分日食(48)丙午(42)
紀元前 33/03/18 01:48 *0゚05' 金環日食(58)庚子(36)

成帝紀〔統宗・成帝(劉驁)前33~前7年〕
(36)(建始三年)冬十二月戊申朔,日有蝕之。30
SN:紀元前 29/01/05 15:10 017' 金環日食(60
WS:西暦-28年151510分、壬辰年(28)月初甲辰(40)戊申(44)、月齢:1.078531740、JD:1,710,834.8293
判定:◎(日干支も一致している。)
 年号「建始」は紀元前32年~紀元前28年2月までの5年間とされているが、SNではその間の日蝕は次の通りであり、紀元前 29/01/05 15:10 0゚17' 金環日食(60)が該当する日蝕と考えられる。月齢が1.078531740であるのは、蝕甚(食の最大)時刻は前日の西暦-27年6月19日2時29分47秒(月齢0.000004020)なのだが、この時刻では日蝕は観測できないので、翌日となったのであろうか。
紀元前 32/03/07 05:46 *0゚48' 金環日食(68)甲午(30)
紀元前 32/08/31 22:23 *0゚35' 金環日食(73)辛卯(27)
紀元前 31/08/21 00:08 *0゚08' 金環日食(83)丙戌(22)
紀元前 30/01/16 01:21 *0゚55' 部分日食(50)甲寅(50)
紀元前 30/08/10 00:18 *0゚44' 部分日食(93)庚辰(16)
紀元前 29/01/05 15:10 0゚17' 金環日食(60)戊申(44)
紀元前 29/12/24 21:29 *0゚30' 金環日食(70)壬寅(38)
紀元前 28/06/19 10:15 0゚02' 皆既日食(75)己亥(35)

(37)(河平元年)夏四月己亥晦,日有蝕之,既。37
SN:紀元前 28/06/19 10:15 002' 皆既日食(75
WS:西暦-276191015分、癸巳年(29)月初辛巳(17)己亥(35)月齢:0.323071149
JD:1,711,365.6244
判定:◎(日干支も一致している。)

(38)(河平三年)秋八月乙卯晦,日有蝕之。43
SN:紀元前 26/10/23 15:27 0゚12' 皆既日食(62)
WS:西暦-25年10月23日15時27分、乙未年(31)月初癸巳(29)乙卯(51)、月齢:0.152660876、
JD:1,712,221.8411。
判定:◎(日干支も一致している。)

(39)(河平四年)三月癸丑朔,日有蝕之。48
SN:紀元前 25/04/18 13:29 015' 金環日食(67
LMT西暦-244181329分、丙申年(32)月初丙申(32)癸丑(49)、月齢:0.887183271
JD:1,712,399.7592
判定:◎(日干支も一致している。)

(40)(陽朔元年)春二月丁未晦,日有蝕之。54
SN:紀元前 24/04/07 13:26 024' 金環日食(77
WS:西暦-23年471326分、丁酉年(33)月初辛丑(37)丁未(43)、月齢:0.518033618
JD:1,712,753.7571
判定:◎(日干支も一致している。)

(41)(永始二年)二月…。乙酉晦,日有蝕之。93
SN:紀元前 15/03/29 07:43 003' 金環日食(58
WS:西暦-14329743分、丙午年(42)月初丁巳(53)乙酉(21)、月齢:0.384475714、JD:1,716,031.5189
判定:◎(日干支も一致している。)

(42)(永始)三年春正月己卯晦,日有蝕之。97
SN:紀元前 14/03/18 16:05 025' 金環日食(68
WS:西暦-13318165分、丁未年(43)月初壬戌(58)己卯(15)、月齢:0.366020505JD:1,716,385.8675
判定:◎(日干支も一致している。)

(43)(永始四年)秋七月辛未晦,日有蝕之。105
SN:紀元前 13/08/31 05:27 *026' 金環日食(83
WS:西暦-12831527分、戊申年(44)月初辛丑(37)辛未(7)、月齢:0.372365469JD:1,716,917.4244)
判定:◎(日干支も一致している。) 

(44)元延元年春正月己亥朔,日有蝕之。106 
SN:紀元前 12/01/26 09:03 025' 部分日食(50
WS:西暦-1112693分、己酉年(45)月初甲戌(10)己亥(35)、月齢:0.087040025、JD1,717,065.5750
判定:◎(日干支も一致している。)

哀帝紀〔哀帝(劉欣)前7~前1年〕
(45)元壽元年春正月辛丑朔,日有蝕之。
SN:紀元前 02/02/05 08:2079
WS:西暦-125820分、己未年(55)月初丁酉(33)辛丑(37)、月齢:1.046541418、JD:1,720,727.5446
判定:〇(日干支も一致している。)
 HY式月齢推算によれば、このSNのデータの日蝕の前日(西暦-1年2月4日)が朔(新月の時刻を含む日)だと思われる。この朔=月齢0.0(0.000000099)の時刻は、西暦-1年2月4日7時12分58秒.83、己未年55月初丁酉33庚子36、JD:1,720,726.4980となっていて、観測可能な時刻である。
 「太初暦」の前の「顓頊暦」(“古六暦”の一つ)は章法四分暦で、その太陽年(回帰年:太陰太陽暦では「冬至から次の冬至まで」の日数)は「四分暦」の太陽年は365+1/4日=365.25、この日数は実際の季節の循環日数の平均値約365.24219日よりも長いため、実際の季節よりも暦の方が遅れる。また、下式①(「章法」はY=19,M=7(19年に7閏月を置く、すなわち19年=235ヶ月))により計算すれば、章法四分暦の朔望月は約29.530851日であり、この朔望月は、実際の朔望月の平均値約29.530589日より長いため、実際の月の盈虧(満ち欠け)の周期よりも暦の方が遅れる。つまり、章法四分暦は、季節・盈虧両者ともに実際より暦の方が遅れるので、もし「太初暦」が「顓頊暦」時代からの「暦の遅れ」を継承していると仮定すれば、実際に前日に起きた日蝕を翌日のものとして記録する(十二月晦の日蝕を正月元旦のものと記録する、すなわち暦の方が進んでいる)という事態は起こらないと考えられる。邪推すれば、この日蝕記録は縁起を担いで翌日(元旦)のものを記録したのではないだろうか。
太陽年=(12+M/Y)×朔望月……①
「章法詩文暦」の朔望月=太陽年(365+1/4日)/(12+7/19)=(1,461/4)/(235/19)=(1,461/4)×(19/235)=(1,461×19)/(4×235)=27,759/940=29+499/940日=29.53085106382980…日

(46)(元壽二年)夏四月壬辰晦,日有蝕之。43
判定:?(日蝕記録(45)の翌年なら紀元前1(西暦-1)年のはずだが、全て日干支が一致しない。)
紀元前 02/07/02 01:45 *0゚58' 戊辰(4)
紀元前 02/07/31 10:20 0゚56' 皆既日食(84)丁酉(33)
紀元前 01/06/20 20:15 *0゚19' 部分日食(56)辛酉(57)
紀元前 01/12/14 23:06 *0゚46' 金環日食(61)戊午(54)
AD   01/06/10 11:17 0゚04' 皆既日食(66)丁巳(53)
AD   01/12/04 00:35 *0゚09' 金環日食(71)甲寅(50)

平帝紀〔平帝(劉衎)前1~後5年〕
(47)(元始元年)夏五月丁巳朔,日有蝕之。8
SN:01/06/10 11:17 004' 皆既日食(66
WS:西暦1年6101117分、辛酉年(57)月初戊申(44)丁巳(53)、月齢:0.782381145、JD:1,721,583.6675
判定:◎(日干支も一致している。)

(48)(元始二年)九月戊申晦,日有蝕之。21
SN:02/11/23 08:46 008' 金環皆既日食(81
WS:AD 21123846分、壬戌年(58)月初丙戌(22)戊申(44)、月齢:0.126920554、JD:1,722,114.5626
判定:◎(日干支も一致している。)

2021年2月28日 (日)

『史記』に記された「暦」(12)―漢代の定点(その6)日蝕検証WS―

『史記』に記された「暦」(12)
―漢代の定点(その6)日蝕検証WS[][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]

 前回(『史記』に記された「暦」(11)―漢代の定点(その5) 前漢代の日蝕― 2021212日)からだいぶ時間が経ってしまいました。そのわけは、日蝕を検証するためのワークシート(Excel)を作成していたからです。

Hyws20210301xlsx

 なぜこれが必要だったかといえば、サロス周期(6585.3212日)によって同じような日蝕が起きるということから、『漢書』武帝紀に「(元光元年)秋七月癸未,日有蝕之。」と書かれた日蝕によってその前後±6585.3212日にも日蝕が起きているだろうと予測して、調べることができる、と考えたからです。

 武帝紀(元光元年)秋七月癸未の日蝕は西暦-133(紀元前134)年8月29日で、そのJDN,672,710ですから、±6585.3212日すれば同じような日蝕があるはずです。

 「国立天文台データベース」によれば、前掲日蝕は世界時(UT)03:06に始まり(推算月齢は29.423644416)、05:40に蝕の最大(蝕甚:月齢は当然0.0)となり、08:14(月齢は0.10694445)に終わったとあります(推算月齢はWSによる)。蝕甚の時刻はUT 05:40でこのJD1,672,709.7361とわかります。そこから、1サロス周期遡れば(-6585.3212日)JD 1,666,124.4149であり、すぐさま西暦(世界時:UTGMT-151(紀元前152)87215727.36とわかり、JDを入力した瞬間に朔(新月)と確認できるので、西暦を計算する必要もなく、朔(新月、日蝕が起きる必要条件)であることも確認できます。さらに1サロス遡ったら、JD1,659,539.0937で、西暦-169728141456.54とわかります(もちろん朔です)。

 このように作業が簡単になるばかりではなく、経度の入力を行えば(例えば前漢の首都長安の東経10859分)を入力してあれば、日蝕時(UT)における長安のLMT(地方平均(太陽)時)が(例えば前掲武帝紀の「(元光元年)秋七月癸未」なら、12554704が蝕甚(蝕の最大))とわかるので、見える日蝕かどうかも確認できます。

 まあ、このような便利なツールを作っていたわけです。

 今日は、日蝕を検証するためのWSが出来上がったという報告だけです(申し訳ない)。

 次回は、このWSを用いて、前漢代に起きたと『漢書』にかかれている日蝕とその西暦を突合する作業を行います。

2021年2月12日 (金)

『史記』に記された「暦」(11)―漢代の定点(その5) 前漢代の日蝕―

『史記』に記された「暦」(11)
漢代の定点(その5) 前漢代の日蝕[暦][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]

 紀元前134/08/19 13:31 0゚06 '皆既日食(62)とあるのが『漢書』本紀(武帝紀)に「(元光元年)秋七月癸未,日有蝕之。」JDN 1 672 710〔国立天文台データベース:世界時(UT):始03:06、甚05:40、終08:14〕と書かれた日蝕です。誰かの何かの役に立つかもしれないと考え、目的に必要なデータだけでなく調べ上げたすべてのデータを掲載しました。次回はこのデータの中から『漢書』本紀に記された日蝕を特定する作業を行う予定です。

…………………………………………………………………………………………………………………………

観測地点:長安(北緯3416分、東経10857分)
時刻表示:地方平均(太陽)時(LMTLocal Mean Time
日月会合の検索条件:離角1度以内
検索した期間:紀元前206年~紀元後9年

(note)観測地点(長安)の日蝕の「日時」「離角〔注1〕」のデータは 株式会社アストロアーツ社製ステラナビゲータ11によるものです(データA)。「見え方」とあるのは、日食を観測できる地帯で最も良い状態の日蝕(食の最大=食甚(しょくじん))を観測できる地点で見た場合です(観測地点でそう見えるということではありません)。「見え方」と「サロス番号〔注2〕」は、国立天文台暦計算室「日月食等データベース」によっています(データB)。「ステラナビゲータ11」のデータ(データA)の「年」によって国立天文台「日月食等データベース」に登録されている日蝕を検索し(データB)、データAとデータBの「月日」を突合・確認してデータAとデータBを統合したものが下記データです。

 なお、「ステラナビゲータ11」と国立天文台暦計算室「日月食等データベース」が食い違っている場合がありますが、「ステラナビゲータ11」はアルゴリズムに従った計算で求めており、それがほぼ(=食い違っているデータを除外すればすべて)「日月食等データベース」に一致していることを考慮すると、「日月食等データベース」のデータの方に、国立天文台暦計算室で計算した結果を「日月食等データベース」に登録する(手入力したか)際に誤入力があったと思われます。特に「日本で見えない日食」には細心の注意が払われず、誤りが発見される機会も稀ということが誤りを訂正する機会を無くしていると思われます(これは私の独断と偏見によるものであり、事実かどうかは不明です)。

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日時(*は地平線下の現象) 離角  見え方サロス番号

紀元前206/07/07 05:45 013' 皆既日食(62
紀元前205/01/01 08:46 018' 金環日食(67
紀元前205/12/20 09:17 022' 部分日食(77
紀元前204/05/17 06:47 037' 部分日食(44
紀元前203/05/06 21:54 *001' 金環皆既日食(54
紀元前203/10/30 02:34 *041' 金環皆既日食(59
紀元前202/04/26 01:39 *052' 金環日食(64
紀元前202/10/19 19:35 *028' 皆既日食(69
紀元前201/10/08 08:38 037' 皆既日食(79
紀元前200/03/04 18:57 *046' 部分日食(31
紀元前200/09/27 21:58 *058' 部分日食(51
紀元前199/02/22 05:12 *020' 皆既日食(56
紀元前199/08/18 07:26 038' 金環日食(61
紀元前198/02/11 23:14 *039' 皆既日食(66
紀元前198/08/07 08:00 002' 金環日食(71
紀元前197/07/26 17:33 033' 金環日食(81
紀元前197/12/22 04:11 *045' 部分日食(48
紀元前196/12/11 03:31 *013' 金環日食(58
紀元前195/06/06 16:56 014' 皆既日食(63
紀元前195/11/30 04:18 *024' 金環日食(68
紀元前194/05/27 04:28 *006' 皆既日食(73
紀元前193/10/09 18:38 *012' 部分日食(50
紀元前192/04/04 23:03 *047' 金環日食(55
紀元前192/09/29 07:03 019' 皆既日食(60
紀元前191/03/25 02:43 *024' 金環日食(65
紀元前190/03/14 16:05 046' 皆既日食(75
紀元前189/03/03 06:19 *049' 〔国立天文台:-188/02/02 部分日食47〕
紀元前189/07/28 04:18 *036' 部分日食(52
紀元前188/07/17 15:24 006' 皆既日食(62
紀元前187/01/11 19:52 *011' 金環日食(67
紀元前187/12/31 19:52 *046' 部分日食(77
紀元前185/05/17 02:58 *010' 金環皆既日食(54
紀元前184/05/06 07:15 045' 金環日食(64
紀元前184/10/30 02:26 *001' 皆既日食(69
紀元前183/10/19 19:40 *013' 皆既日食(79
紀元前182/03/16 01:14 *036' 部分日食(46
紀元前181/03/04 15:38 006' 皆既日食(56
紀元前180/08/17 18:01 021' 金環日食(71
紀元前179/08/06 23:40 *011' 金環日食(81
紀元前178/01/02 13:51 013' 部分日食(48
紀元前178/12/22 12:13 023' 金環日食(58
紀元前177/06/16 23:31 *053' 皆既日食(63
紀元前176/06/06 12:03 026' 皆既日食(73
紀元前175/05/26 20:45 *059' 部分日食(83
紀元前175/10/21 01:42 *050' 部分日食(50
紀元前174/10/10 18:00 027' 皆既日食(60
紀元前173/04/04 10:04 030' 金環日食(65
紀元前173/09/29 01:41 *036' 金環日食(70
紀元前172/03/24 23:43 *033' 皆既日食(75
紀元前171/08/08 13:52 047' 部分日食(52
紀元前170/02/02 21:13 *024' 金環皆既日食(57
紀元前170/07/28 22:30 *029' 皆既日食(62
紀元前169/01/23 02:01 *007' 金環日食(67
紀元前169/07/17 13:04 038' 皆既日食(72
紀元前168/01/11 02:07 *046' 部分日食(77
紀元前168/06/07 23:26 *036' 部分日食(44
紀元前167/05/28 09:19 019' 金環日食(54
紀元前167/11/20 21:58 *049' 皆既日食(59
紀元前166/05/17 16:20 018' 金環日食(64
紀元前166/11/10 11:19 028' 皆既日食(69
紀元前165/05/05 16:59 060' 金環日食(74
紀元前165/10/30 02:25 *039' 皆既日食(79
紀元前164/03/26 07:25 023' 部分日食(46
紀元前164/10/19 14:26 054' 〔国立天文台:-163/09/19 部分日食51〕
紀元前163/03/15 23:16 *001' 皆既日食(56
紀元前162/03/05 16:37 044' 皆既日食(66
紀元前162/08/29 00:05 *027' 金環日食(71
紀元前161/08/17 05:21 *030' 金環日食(81
紀元前160/01/12 22:28 *045' 部分日食(48
紀元前160/08/06 21:46 *048' 部分日食(91
紀元前159/01/01 21:54 *006' 金環日食(58
紀元前159/06/28 05:20 *054' 皆既日食(63
紀元前159/12/21 23:12 *029' 金環日食(68
紀元前158/06/17 20:50 *001' 金環皆既日食(73
紀元前157/06/06 01:23 *031' 部分日食(83
紀元前157/10/31 10:27 041' 部分日食(50
紀元前156/04/26 12:27 059' 金環日食(55
紀元前156/10/21 01:09 *008' 金環皆既日食(60
紀元前155/04/15 19:22 *000' 金環皆既日食(65
紀元前155/10/10 08:33 025' 金環日食(70
紀元前154/04/05 05:44 *001' 皆既日食(75
紀元前154/08/30 19:29 *059' 金環日食(80
紀元前153/08/18 21:10 *019' 部分日食(52
紀元前152/02/13 03:13 *049' 金環皆既日食(57
紀元前152/08/08 04:11 *001' 皆既日食(62
紀元前151/02/02 09:21 026' 金環日食(67
紀元前150/01/22 09:17 014' 金環日食(77
紀元前150/06/19 04:42 *051' 〔国立天文台:-149/07/18 皆既日食82〕
紀元前149/01/11 10:12 050' 〔国立天文台には該当するデータ無し〕
紀元前149/06/07 19:03 016' 金環日食(54
紀元前149/12/01 04:27 *044' 皆既日食(59
紀元前148/05/27 22:21 *037' 金環日食(64
紀元前148/11/20 21:54 *009' 皆既日食(69
紀元前147/11/10 11:25 014' 皆既日食(79
紀元前146/04/06 17:41 056' 部分日食(46
紀元前145/03/26 05:21 *019' 皆既日食(56
紀元前145/09/19 05:12 *046' 金環日食(61
紀元前144/03/15 23:43 *041' 皆既日食(66
紀元前144/09/08 05:48 *008' 金環日食(71
紀元前143/08/28 15:46 019' 金環日食(81
紀元前142/01/24 04:26 *037' 部分日食(48
紀元前141/01/13 03:43 *006' 金環日食(58
紀元前141/07/08 14:25 030' 皆既日食(63
紀元前140/01/01 05:17 *035' 金環日食(68
紀元前140/06/28 02:01 *019' 金環皆既日食(73
紀元前139/06/17 06:12 036' 部分日食(83
紀元前139/11/11 20:56 *030' 部分日食(50
紀元前138/05/07 19:53 *054' 金環日食(55
紀元前138/11/01 08:46 010' 金環皆既日食(60
紀元前137/04/26 01:03 *036' 金環皆既日食(65
紀元前137/10/20 19:40 *059' 金環日食(70
紀元前136/04/15 15:00 038' 皆既日食(75
紀元前135/04/05 06:11 *037' 部分日食(85
紀元前135/08/30 02:33 *046' 部分日食(52
紀元前134/08/19 13:31 0゚06 '皆既日食(62)【紀元前134(-133)年819日(JDN 1 672 710)の日蝕】〔<国立天文台>UT(世界時):始03:06、甚05:40、終08:14〕
紀元前133/02/13 19:40 *014' 金環日食(67
紀元前133/08/08 03:37 *044' 皆既日食(72
紀元前132/02/01 19:33 *050' 金環日食(77
紀元前131/06/19 00:20 *002' 金環日食(54
紀元前130/06/08 03:02 *036' 金環日食(64
紀元前130/12/02 04:43 *005' 皆既日食(69
紀元前129/11/20 21:39 *031' 皆既日食(79
紀元前128/04/17 00:06 *039' 部分日食(46
紀元前127/04/06 15:07 011' 皆既日食(56
紀元前126/09/19 15:56 031' 金環日食(71
紀元前125/02/15 08:24 057' 〔国立天文台:-124/03/15 皆既日食76〕
紀元前125/09/07 23:02 *007' 金環皆既日食(81
紀元前124/02/03 13:36 022' 部分日食(48
紀元前123/01/23 12:42 020' 金環日食(58
紀元前122/01/12 16:52 052' 金環日食(68
紀元前122/07/09 07:59 001' 金環皆既日食(73
紀元前122/12/03 13:38 056' 〔国立天文台:該当データ無し〕
紀元前121/06/27 15:54 056' 部分日食(83
紀元前121/11/22 03:56 *060' 部分日食(50
紀元前120/11/11 20:01 *014' 金環皆既日食(60
紀元前119/05/07 07:03 048' 金環皆既日食(65
紀元前119/11/01 02:00 *024' 金環日食(70
紀元前118/04/26 22:52 *016' 皆既日食(75
紀元前116/03/06 21:13 *030' 金環皆既日食(57
紀元前116/08/29 21:48 *019' 皆既日食(62
紀元前115/02/24 01:32 *004' 金環日食(67
紀元前115/08/19 12:08 029' 皆既日食(72
紀元前114/02/13 01:38 *037' 金環日食(77
紀元前114/07/10 21:44 *048' 〔国立天文台:-113/08/09 皆既日食82〕
紀元前113/06/29 05:24 *025' 部分日食(54
紀元前113/12/22 23:53 *036' 皆既日食(59
紀元前112/06/18 08:59 004' 金環日食(64
紀元前112/12/12 16:13 029' 皆既日食(69
紀元前111/06/07 10:23 046' 金環日食(74
紀元前111/12/02 04:27 *037' 皆既日食(79
紀元前110/04/28 05:34 *034' 部分日食(46
紀元前110/11/21 15:52 051' 部分日食(51
紀元前109/04/16 22:48 *003' 皆既日食(56
紀元前108/04/06 16:13 027' 皆既日食(66
紀元前108/09/29 23:20 *027' 金環日食(71
紀元前107/09/19 05:11 *029' 金環皆既日食(81
紀元前106/02/14 22:07 *049' 部分日食(48
紀元前106/09/08 21:42 *042' 部分日食(91
紀元前105/02/03 21:40 *012' 金環日食(58
紀元前104/01/22 23:52 *026' 金環日食(68
紀元前104/07/19 17:57 008' 金環日食(73
紀元前103/07/08 22:05 *022' 部分日食(83
紀元前103/12/03 14:21 016' 部分日食(50
紀元前102/11/23 02:44 *020' 金環皆既日食(60
紀元前101/05/17 16:26 013' 皆既日食(65
紀元前101/11/11 09:05 035' 金環日食(70
紀元前100/05/07 04:31 *014' 皆既日食(75
紀元前 99/04/26 23:28 *051' 部分日食(85
紀元前 99/09/20 20:09 *026' 部分日食(52
紀元前 98/09/10 03:53 *018' 皆既日食(62
紀元前 97/03/06 07:57 033' 金環日食(67
紀元前 96/02/23 07:55 007' 金環日食(77
紀元前 95/02/12 10:08 045' 〔国立天文台:-94/01/13 部分日食49〕
紀元前 95/07/10 15:09 041' 部分日食(54
紀元前 94/06/29 18:12 015' 金環日食(64
紀元前 94/12/24 00:08 *004' 皆既日食(69
紀元前 93/06/17 18:50 057' 金環日食(74
紀元前 93/12/12 15:18 010' 金環皆既日食(79
紀元前 91/04/28 04:33 *009' 皆既日食(56
紀元前 91/10/22 04:25 *047' 金環日食(61
紀元前 90/04/17 23:16 *039' 皆既日食(66
紀元前 90/10/11 05:19 *010' 金環日食(71
紀元前 89/09/29 15:51 003' 金環皆既日食(81
紀元前 88/02/25 03:37 *035' 部分日食(48
紀元前 87/02/14 03:14 *002' 金環日食(58
紀元前 87/08/10 12:17 044' 皆既日食(63
紀元前 86/02/03 05:57 *047' 金環日食(68
紀元前 86/07/30 23:53 *029' 金環日食(73
紀元前 85/07/19 02:41 *018' 金環日食(83
紀元前 85/12/13 23:19 *052' 部分日食(50
紀元前 84/07/08 03:01 *056' 〔国立天文台:-83/06/08 部分日食55〕
紀元前 84/12/03 11:29 015' 金環日食(60
紀元前 83/05/28 22:58 *049' 皆既日食(65
紀元前 83/11/22 20:38 *045' 金環日食(70
紀元前 82/05/18 12:44 022' 皆既日食(75
紀元前 81/05/07 05:06 *026' 部分日食(85
紀元前 81/10/01 02:09 *059' 部分日食(52
紀元前 80/09/20 13:29 003' 皆既日食(62
紀元前 79/03/17 17:52 007' 金環日食(67
紀元前 79/09/10 03:46 *023' 皆既日食(72
紀元前 78/03/06 17:49 045' 金環日食(77
紀元前 77/07/20 21:42 *014' 部分日食(54
紀元前 76/01/13 18:49 *046' 皆既日食(59
紀元前 76/07/09 23:32 *025' 金環日食(64
紀元前 75/01/03 07:24 *029' 皆既日食(69
紀元前 75/12/23 23:37 *044' 金環皆既日食(79
紀元前 74/05/19 22:25 *048' 〔国立天文台:-73/06/18 部分日食84〕
紀元前 73/05/08 13:15 027' 皆既日食(56
紀元前 72/04/28 05:09 *049' 皆既日食(66
紀元前 72/10/21 16:00 040' 金環日食(71
紀元前 71/10/10 23:34 *015' 金環皆既日食(81
紀元前 70/03/08 10:57 030' 部分日食(48
紀元前 70/09/30 14:23 047' 部分日食(91
紀元前 69/02/25 10:57 012' 金環日食(58
紀元前 68/02/13 17:12 037' 金環日食(68
紀元前 68/08/10 05:23 *013' 金環日食(73
紀元前 67/07/30 08:39 040' 金環日食(83
紀元前 67/12/25 06:33 *043' 部分日食(50
紀元前 66/12/14 21:56 *007' 金環日食(60
紀元前 65/12/03 02:43 *019' 金環日食(70
紀元前 64/05/28 21:28 *001' 皆既日食(75
紀元前 64/11/22 02:44 *055' 金環日食(80
紀元前 63/10/12 10:56 058' 部分日食(52
紀元前 62/04/08 19:55 *041' 金環日食(57
紀元前 62/10/01 22:18 *005' 皆既日食(62
紀元前 61/03/27 23:53 *013' 金環日食(67
紀元前 61/09/20 12:48 037' 皆既日食(72
紀元前 60/03/17 00:08 *029' 金環日食(77
紀元前 60/08/11 20:19 *057' 皆既日食(82
紀元前 59/03/06 02:17 *058' 部分日食(87
紀元前 59/08/01 02:39 *033' 部分日食(54
紀元前 58/01/25 01:28 *044' 皆既日食(59
紀元前 58/07/21 04:19 *002' 金環日食(64
紀元前 57/01/14 19:06 *003' 皆既日食(69
紀元前 57/07/09 05:23 *042' 金環日食(74
紀元前 56/01/03 06:37 *017' 金環皆既日食(79
紀元前 56/05/30 03:33 *046' 〔国立天文台:-55/06/28 金環日食84〕
紀元前 55/05/19 21:41 *010' 皆既日食(56
紀元前 55/11/12 22:48 *054' 金環日食(61
紀元前 54/05/09 14:21 012' 皆既日食(66
紀元前 54/11/01 23:39 *018' 金環日食(71
紀元前 53/10/21 06:21 *027' 金環皆既日食(81
紀元前 52/03/18 20:27 *056' 部分日食(48
紀元前 52/10/10 22:45 *050' 部分日食(91
紀元前 51/03/07 20:24 *018' 金環日食(58
紀元前 50/02/24 23:51 *027' 金環日食(68
紀元前 50/08/21 14:50 017' 金環日食(73
紀元前 49/08/09 18:42 015' 金環日食(83
紀元前 48/01/04 17:56 *033' 部分日食(50
紀元前 48/07/29 19:14 055' 〔国立天文台:-47/06/30 部分日食55〕
紀元前 48/12/25 04:28 *013' 金環日食(60
紀元前 47/06/19 12:31 031' 皆既日食(65
紀元前 47/12/14 10:21 051' 金環日食(70
紀元前 46/06/09 03:03 *026' 皆既日食(75
紀元前 45/05/28 22:11 *035' 部分日食(85
紀元前 45/10/22 20:29 *036' 部分日食(52
紀元前 44/10/12 04:52 *032' 皆既日食(62
紀元前 43/04/08 05:07 *042' 金環日食(67
紀元前 43/10/01 22:22 *046' 皆既日食(72
紀元前 42/03/28 05:23 *002' 金環日食(77
紀元前 41/03/16 08:42 038' 部分日食(87
紀元前 40/07/31 12:32 018' 金環日食(64
紀元前 39/01/25 01:58 *006' 皆既日食(69
紀元前 39/07/20 13:42 028' 金環日食(74
紀元前 38/01/14 17:54 032' 金環皆既日食(79
紀元前 37/05/30 03:12 *004' 皆既日食(56
紀元前 37/11/23 04:28 *050' 金環日食(61
紀元前 36/05/19 22:03 *032' 皆既日食(66
紀元前 36/11/12 05:58 *016' 金環日食(71
紀元前 35/11/01 17:47 001' 金環皆既日食(81
紀元前 34/03/30 01:42 *041' 部分日食(48
紀元前 33/03/18 01:48 *005' 金環日食(58
紀元前 33/09/11 11:27 059' 皆既日食(63
紀元前 32/03/07 05:46 *048' 金環日食(68
紀元前 32/08/31 22:23 *035' 金環日食(73
紀元前 31/08/21 00:08 *008' 金環日食(83
紀元前 30/01/16 01:21 *055' 部分日食(50
紀元前 30/08/10 00:18 *044' 部分日食(93
紀元前 29/01/05 15:10 017' 金環日食(60
紀元前 29/12/24 21:29 *030' 金環日食(70
紀元前 28/06/19 10:15 002' 皆既日食(75
紀元前 27/06/09 03:35 *014' 皆既日食(85
紀元前 26/10/23 15:27 012' 皆既日食(62
紀元前 25/04/18 13:29 015' 金環日食(67
紀元前 25/10/12 05:00 *008' 皆既日食(72
紀元前 24/04/07 13:26 024' 金環日食(77
紀元前 23/08/22 19:21 025' 部分日食(54
紀元前 22/02/15 20:09 *037' 皆既日食(59
紀元前 22/08/11 20:23 *014' 金環日食(64
紀元前 21/02/05 10:28 042' 皆既日食(69
紀元前 21/07/30 21:19 *056' 金環日食(74
紀元前 20/01/25 01:06 *038' 金環皆既日食(79
紀元前 20/06/20 20:31 *059' 〔国立天文台:-19/07/20 金環皆既日食84〕
紀元前 19/01/14 07:45 *050' 〔国立天文台:該当データ無し〕
紀元前 19/06/10 10:37 043' 部分日食(56
紀元前 18/05/31 03:36 *034' 皆既日食(66
紀元前 18/11/23 17:41 *036' 金環日食(71
紀元前 17/05/19 18:49 058' 金環皆既日食(76
紀元前 17/11/12 01:01 *027' 金環皆既日食(81
紀元前 16/04/09 07:02 037' 部分日食(48
紀元前 16/11/01 16:57 036' 部分日食(91
紀元前 15/03/29 07:43 003' 金環日食(58
紀元前 14/03/18 16:05 025' 金環日食(68
紀元前 14/09/12 03:58 *017' 金環日食(73
紀元前 13/08/31 05:27 *026' 金環日食(83
紀元前 12/01/26 09:03 025' 部分日食(50
紀元前 11/01/15 23:21 *017' 金環日食(60
紀元前 10/01/05 03:19 *024' 金環日食(70
紀元前 10/06/30 19:54 *018' 皆既日食(75
紀元前 10/12/25 02:57 *057' 金環日食(80
紀元前 09/06/19 10:57 047' 皆既日食(85
紀元前 09/11/13 12:23 040' 部分日食(52
紀元前 08/05/10 16:59 053' 金環日食(57
紀元前 08/06/09 01:49 *056' 〔国立天文台:該当データ無し〕
紀元前 08/11/02 23:47 *017' 皆既日食(62
紀元前 07/04/29 20:58 *020' 金環日食(67
紀元前 07/10/23 15:31 055' 皆既日食(72
紀元前 06/04/18 21:31 *022' 金環日食(77
紀元前 06/10/13 04:50 *049' 皆既日食(82
紀元前 05/04/07 00:53 *047' 部分日食(87
紀元前 05/09/02 00:50 *043' 部分日食(54
紀元前 04/08/22 01:33 *005' 金環日食(64
紀元前 03/02/15 20:40 *003' 皆既日食(69
紀元前 03/08/11 02:37 *034' 金環日食(74
紀元前 02/02/05 08:20 001' 金環皆既日食(79
紀元前 02/07/02 01:45 *058' 〔国立天文台:該当データ無し〕 〔国立天文台:-1/07/31 皆既日食84〕
紀元前 02/07/31 10:20 056' 皆既日食(84
紀元前 01/06/20 20:15 *019' 部分日食(56
紀元前 01/12/14 23:06 *046' 金環日食(61
AD   01/06/10 11:17 004' 皆既日食(66
AD   01/12/04 00:35 *009' 金環日食(71
AD   02/11/23 08:46 008' 金環皆既日食(81
AD   04/04/08 17:34 028' 金環日食(58
AD   04/10/03 03:37 *057' 金環皆既日食(63
AD   05/03/28 23:00 *025' 金環皆既日食(68
AD   05/09/22 12:36 026' 金環日食(73
AD   06/09/11 15:25 008' 金環日食(83
AD   07/02/06 19:58 *053' 部分日食(50
AD   07/08/31 16:02 049' 部分日食(93
AD   08/01/27 05:44 *001' 金環日食(60
AD   08/07/21 09:25 050' 皆既日食(65
AD   09/01/15 12:08 056' 金環日食(70
AD   09/07/11 01:46 *037' 皆既日食(75

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

注1 「離角」 …… 日食の場合は、天球上における太陽の中心と月の中心との角距離(太陽―観測者―月のなす角度)のこと。
離角(りかく)とは、位置天文学において、ある点から見た2つの天体のなす角度である。Wikipedia「離角」より抜粋)

注2 サロス番号 …… 複数のサロス(周期は同一)があるので番号をつけて識別している。
サロス周期(サロスしゅうき、Saros)は、太陽と地球と月の位置関係が相対的にほぼ同じような配置になる周期で、1サロス周期は6585.3212日である(約18年と10日あるいは11日と8時間。1日の曖昧さがあるのは、その期間中に閏年が5回入るか4回入るかの違いのため)。単にサロスと呼ぶこともある。1サロスごとに、ある日食または月食から1サロス後にはほぼ同じ条件の日食または月食が起こることから、天文学発達以前は、暦学ないし経験則的にこの性質によって、人類は日食や月食が起こる日を予測してきた[1]。〔中略〕
天文学的には、サロス周期は月と太陽の周期の倍数が同じ(公倍数)になるために起こる。1サロスは以下の時間に等しい[3]。
223朔望月=6585.3212日
242交点月=6585.3575日
239近点月=6585.5375日
19食年=6585.782日
上記の値は、18年11日8時間(閏年の配置によっては18年10日8時間)にほぼ等しく、そのため日食や月食の状況も、同じサロス周期に属する場合は非常に似たものとなるのである。〔中略〕
1サロス周期は223朔望月なので、ある朔(または望)を1番目とすると、そこから数えて223番目までの朔(望)はみな異なる周期に属する。224番目の朔(望)は、1番目と同じ周期に入る。同時進行している223の周期のうち太陽、地球、月がうまく重なって日食や月食となるものは一部の系列しかない。その一部も毎回少しずつ場所がずれていき、やがて食を起こさなくなる。その一方で、今まで食を作らなかった周期が新たな系列となって食を起こすようになる。すなわち、日食の場合で見れば、あるサロスに属する日食は最初に北極(南極)地方で月の影[4]がごくわずかに地球に接する軽い部分食として始まる。しだいに月の影は地球に近づき、北極(南極)地方で中心食[5]が見られるようになり、その後中心食帯は徐々に南下(北上)し、赤道を越えて南極(北極)地方に移動、最後に部分食となって終わる。そのような状態が繰り返し起こって進行するので、日食や月食の発生が途絶えることはない。日食のサロスの系列は、一つにつき食が69〜86回(1,226〜1,532年間)起こるまで持続する。平均すると77回(1,370年間)である。サロス系列の始まりと終わりは部分日食で、系列の中ほどに約48回の皆既食または金環食を含む。
歴史時代に日食を起こしたサロス系列には、ゲオルグ・ファン・デン・ベルグ (George van den Bergh) によって番号が付けられている。2011年7月1日より前には、117から155までの番号を付けられた39本の系列が進行していた。2011年7月1日に156番の系列が南極近海の部分食として発生し、現在は40本の系列が進行している。2054年8月3日の同じく南極近海での部分食を最後に117番が消滅するまでは40本の系列が進行する[6]。Wikipedia「サロス周期」より抜粋)

2021年2月 9日 (火)

『史記』に記された「暦」(10)―漢代の定点(その4)―

『史記』に記された「暦」(10)
漢代の定点(その4)―[][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]

【おしらせ】

「『史記』に記された「暦」(9)—漢代の定点(その3)」—を飛ばして付番していたので、すでに「・・・暦(10)— ・・・(その4)—」として投稿してあったものを「『史記』に記された「暦」()―漢代の定点(その)―」に表題を変更しました。ご了承ください。【お知らせ終わり】

 今回は、先に述べた筋書き(『史記』に記された「暦」(8)―漢代の定点(その2)―を参照ください)が破綻したかという内容です。

 『史記』に記された「暦」(9)―漢代の定点(その)―で、『漢書』本紀に記された22番目の日蝕について次のように書きました。

…………………………………………………………………………………………………………………………

(22)元光元年冬十一月,初令郡國舉孝廉各一人。

夏四月,赦天下,〔中略〕

五月,詔賢良曰:「〔中略〕

星辰不孛,日月不蝕,山陵不崩,川谷不塞;〔中略〕朕親覽焉。」〔中略〕

秋七月癸未,日有蝕之。〈32〉〔これが1973年に臨沂銀雀山2号墓から出土した竹簡にある暦が元光元年のものであることを決定づけた西暦(J暦)紀元前134(-133)年8月19日(JDN 1 672 710)の日蝕である。おそらく癸未は「七月」であろう。

…………………………………………………………………………………………………………………………

 「おそらく癸未は「七月」であろう。」こう即断したのが軽率でした。「」と書いてなかったのは「それなりの理由」があったのです。次をご覧ください。
表2 元光元年(前134年)の朔日の干支(橋本敬造「顓頊暦元と歳星紀年法」より)
2134
 表2の顓頊暦の部分だけを書きだしてみればわかると思います。

《出土木簡(顓頊暦)》                  

元光元年 朔干支 番号 月日数(翌月朔番号-当月朔番号で算出した)

十月  己丑  25  30

十一月 己未  55  29

十二月 戊子  24  30

正月  戊午  54  30

二月  戊子  24  29

三月  丁巳  53  30

四月  丁亥  23  29

五月  丙辰  52  30

六月  丙戌  22  29  干支 番号 翌日 番号  翌々日 番号

七月  乙卯  51  30  癸未 19  甲申 20(晦) 乙酉  21八月朔)

八月  乙酉  21  29

九月  甲寅  50  30

後九月 甲申  20  29

 

 『漢書』武帝紀に「(元光元年)秋七月癸未,日有蝕之。」と書かれたのが、西暦紀元前134(-133)年819日(JDN 1 672 710)の日蝕です。表2の通り元光元年の七月「第1日」が「乙卯」ならば、癸未」の日付は「29日」であり「(七月30日)」ではなかったのです。それゆえ(かどうかは不確かですが)、「晦」とは書かずに「七月癸未」とだけ書いたのではないかとも思われます(暦が二日もズレていた?)。このようなことを確認するためには顓頊暦の長暦が必要なのかもしれません。

 また、付言すれば、表2に「第1日」と記されているのが意味深です。「朔」だとは言っていないのです(専門家は流石ですね)。

 今回は、史料から迫るという部分について早くも目論見が外れたという報告となりました(しょうもな)

 次回は、調査した前漢代の日蝕のデータを紹介する予定です(こちらから迫る方に望みがありそうです)。

2021年2月 6日 (土)

『史記』に記された「暦」(9)―漢代の定点(その3)―

『史記』に記された「暦」(9)
漢代の定点(その)―[暦][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]
【訂正のお知らせ(2021/03/13)】
『漢書 』の日蝕記録を誤って掲載しましたので次の通りに訂正いたしました。
記録(25) (誤)夏四月」 →(正)「(元鼎五年)夏四月」
記録(26) (誤)(元狩四年)冬十月甲寅晦 」→(正)「(太始四年)冬十月甲寅晦 」【訂正のお知らせ終わり】

 『漢書』本紀に記されている日蝕記事をリストアップしました。語句「日有」が46ヶ所、語句「日有」が7ヶ所、合わせて53ヶ所でした。その日食を「」中で言及している箇所が5ヶ所(文帝紀1、元帝紀2、成帝紀1、哀帝紀1)ありますので、『漢書』本紀には48件の日蝕が記録されていることになります。

 次が、『漢書』本紀にある日蝕(日食)の記録です。「()」(半角の括弧)で囲った数字で示したのが48件の日蝕です。「〈〉」で囲った数字は各紀の段落番号で、後で検索しやすくしただけのものですので、特に気にせず無視して頂けるものです。

 前漢の皇帝〔注1〕紀ごとの内訳(高后紀を含む)は、高帝紀3件、惠帝紀2件、高后紀2件、文帝紀4件、景帝紀8件、武帝紀8件、昭帝紀2件、宣帝紀3件、元帝紀3件、成帝紀9件、哀帝紀2件、平帝紀2件、合計48件です。景帝紀8件、武帝紀8件、成帝紀9件に日蝕記事が多い理由は、これまでのところは「不明」と言っておきましょう。
…………………………………………………………………………………………………………………………

高帝紀上〔太祖・髙皇帝(劉邦)前206~前195年、前202年即位〕
(1)三年冬十月,韓信、張耳東下井陘擊趙,斬陳餘,獲趙王歇。置常山、代郡。甲戌日有食之(2)十一月癸卯日有食之。〈50
高帝紀下
(3)(九年)夏六月乙未日有食之。〈32 

恵帝紀〔恵帝(劉盈)前195~前188年〕
(4)(七年)春正月辛丑日有蝕之(5)夏五月丁卯,日有蝕之,既。〈27
〔正月朔の日干支が辛丑、五月朔の日干支が丁卯となっている。五月朔の日蝕は皆既日蝕だったようだ(日蝕が起きるのは朔の時)。〕

高后紀〔高皇后(呂雉)前202~前195年、前180年死去〕
(6)二年〔中略〕春正月乙卯,地震,羌道、武都道山崩。夏六月丙戌日有蝕之。〈3
〔朔ではなく晦の日蝕なので既に暦が一日ずれている。〕
(7)七年冬十二月,匈奴寇狄道,略二千餘人。春正月丁丑,趙王友幽死于邸。己丑日有蝕之。〈8 

文帝紀〔太宗・文帝(劉恒)前180~前157年〕
(8)(二年)十一月癸卯日有食之。詔曰:「朕聞之,天生民,為之置君以養治之。〔中略〕十一月日有食之,適見于天,災孰大焉!〔中略〕 。」〈14
(9)三年冬十月丁酉日有食之(10)十一月丁卯日有蝕之。〈20
(11)四年夏四月丙寅日有蝕之〔後略〕67

景帝紀〔景帝(劉啓)前157~前141年。前7年・中年7年・後3年〕
(12)(三年)二月壬子日有食之。〈19
(13)(四年)十月戊戌日有蝕之25
(14)七年冬十一月庚寅日有蝕之30〔(紀元前150年)夏四月乙巳,立皇后王氏。丁巳,立膠東王徹(のちの武帝)為皇太子。〕
(15)(中二年九月)甲戌日有蝕之44〔景帝中二年は紀元前148年〕
(16)三年冬十一月,〔中略〕
春正月,皇太后崩〔景帝中三年は紀元前147年。景帝の時の皇太后は竇皇后(竇猗房(竇猗))であるが、Wikipedia「竇皇后 (漢文帝)」によれば建元六年(紀元前135年)死去とある。不審だ。〕
夏旱,禁酤酒。秋九月,蝗。有星于西北。戊戌日有蝕之47(はい)とは彗星(ほうきぼし)のこと〕
四年春三月,起德陽宮。
(17)(五年)十月戊午,日有蝕之54
〔月順が正常なので、十月から記す紀年法を変更したように見えるが、次の(18)と整合しないので、「五年」の書き漏れと考えられる。〕
(18)六年冬十月,行幸雍,郊五畤。
春三月,雨雪。
五月,詔曰:〔中略〕
六月,匈奴入鴈門,至武泉,入上郡,取苑馬。吏卒戰死者二千人。
秋七月辛亥日有蝕之65
(19)後元年春正月,詔曰:「〔中略〕
五月,地震。秋七月乙巳日有蝕之。〈67〔景帝後元年は前143年〕
三年春正月,詔曰:「〔中略〕。」甲子帝崩于未央宮。〈77〔前141年3月9日〕 

武帝紀〔世宗・武帝(劉徹)前141~前87年〕
(20)二年冬十月,〔中略〕
春二月丙戌日有蝕之夏四月戊申,有如日夜出。〈10
(21)三年春,〔中略〕九月丙子日有蝕之17
(22)元光元年冬十一月,初令郡國舉孝廉各一人。
夏四月,赦天下,〔中略〕
五月,詔賢良曰:「〔中略〕
星辰不孛,日月不蝕,山陵不崩,川谷不塞;〔中略〕朕親覽焉。」〔中略〕
秋七月癸未,日有蝕之32〔これが1973年に臨沂銀雀山2号墓から出土した竹簡にある暦元光元年のものであることを決定づけた西暦(J暦)紀元前134(-133)年8月19日JDN 1 672 710の日蝕である。おそらく癸未は「七月」であろう。〕
(23)(元朔)二年冬,〔中略〕
春正月,詔曰:「〔中略〕
三月乙亥日有蝕之。〈61
(24)元狩元年冬十月,〔中略〕
五月乙巳日有蝕之。〈83
五年冬十月,〔中略〕127
十一月辛巳朔旦,冬至〔中略〕
(25)(元鼎五年)夏四月〔中略〕丁丑日有蝕之。〈131〔「十一月辛巳旦冬至」なのに「夏四月丁丑,日有蝕之。」というのが不審。〕
(26)元狩太始四年)冬十月甲寅日有蝕之。〈217〉
(27)(征和四年)秋八月辛酉日有蝕之238 

昭帝紀〔昭帝(劉 弗陵)前87~前74年〕
(28)(始元三年)十一月壬辰日有蝕之。〈25〉〔何故、十一月なのか?〕
(29)(元鳳元年)秋七月乙亥日有蝕之49 

宣帝紀〔中宗・宣帝(劉詢)前74~前48年〕
(30)(本始四年)十二月癸亥日有蝕之。〈31
(31)(神爵四年)冬十二月乙酉日有蝕之98
(32)(五鳳三年)夏四月辛丑日有蝕之詔曰:「〔中略〕。」〈111

元帝紀〔高宗・元帝(劉奭)前48~前33年〕
(33)(永光二年)三月壬戌日有蝕之。詔曰:「〔中略〕。乃壬戌,日有蝕之〔中略〕」〈32
(34)(永光二年)夏六月〔中略〕戊寅日有蝕之詔曰:「〔中略〕六月日有蝕之〔中略〕」〈43
(35)(建昭五年夏六月)壬申日有蝕之67 

成帝紀〔統宗・成帝(劉驁)前33~前7年〕
(36)(建始三年)冬十二月戊申日有蝕之〔中略〕30
(37)(河平元年)夏四月己亥日有蝕之,既。詔曰:「〔中略〕」大赦天下。〈37
(38)(河平三年)秋八月乙卯日有蝕之。〈43
(39)(河平四年)三月癸丑日有蝕之。〈48
(40)(陽朔元年)春二月丁未日有蝕之。〈54
(41)(永始二年)二月癸未夜,星隕如雨。乙酉日有蝕之。詔曰:「〔中略〕日有蝕之〔中略〕」〈93
(42)(永始)三年春正月己卯日有蝕之。詔曰:「〔中略〕」〈97
(43)(永始四年)秋七月辛未日有蝕之。〈105
(44)元延元年春正月己亥日有蝕之。〈106 

哀帝紀〔哀帝(劉欣)前7~前1年〕
(45)元壽元年春正月辛丑日有蝕之。詔曰:「〔中略〕。乃正月日有蝕之〔中略〕。大赦天下。」〈37
(46)(元壽二年)夏四月壬辰日有蝕之。〈43 

平帝紀〔平帝(劉衎)前1~後5年〕
(47)(元始元年)夏五月丁巳日有蝕之〔中略〕。〈8
(48)(元始二年)九月戊申日有蝕之。赦天下徒。〈21

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 今回は、『漢書』本紀中に記されている日蝕のリストアップだけでしたが、本日はここまでとします。次回は、このリストにある日蝕が、天文学で推算されているどの日蝕に該当するかを特定することを試みる予定です。 

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注1 前漢の皇帝 …… 次の通り。在位期間は通説(Wikipedia)に従って記しています。
代  廟号  諡号  姓名  在位
1   太祖  髙皇帝 劉邦  前206~前195
2       恵帝  劉盈  前195~前188
3   少帝      劉某  前188~前184
4           劉弘  前184~前180
5   太宗  文帝  劉恒  前180~前157
6       景帝  劉啓  前157~前141
7   世宗  武帝  劉徹  前141~前87
8       昭帝  劉弗陵 前87~前74
9       廃帝  劉賀  前74
10  中宗  宣帝  劉詢  前74~前48
11  高宗  元帝  劉奭  前48~前33
12  統宗  成帝  劉驁  前33~前7
13      哀帝  劉欣  前7~前1
14      平帝  劉衎  前1~後5
(15)         劉嬰  後5~後8

2021年2月 4日 (木)

『史記』に記された「暦」(8)―漢代の定点(その2)―

『史記』に記された「暦」(8)
漢代の定点(その)―[][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]

 前回の 『史記』に記された「暦」(7)―漢代の定点(その1)― では、『漢書』本紀の武帝紀にある日蝕が「晦」(つごもり、朔(ついたち)の前日)に記されていることから、前漢初に用いられた「顓頊暦」が前漢初には既に一日遅れていたことを確認し、その暦の遅れ具合から「顓頊暦がいつごろに制定されたか」推測できるのではないか、と述べました。今回はそれを行う予定でしたが、より理解しやすくするために、「推測できる」とした根拠を先に説明しておこうと思います。 

 まず、「顓頊暦」は“古六暦”の一つであり、“古六暦”の特徴は次の通りです。

(1)一年を365日+1/4日とする「四分暦」である(太陽年はユリウス暦の365.25日と同じ)。

(2)メトン周期(19太陽年=235朔望月で季節と朔が一致)を基にした「章法」(19年間に7閏月を置くメソッド)の暦である。

 さらに、「顓頊暦」を“古六暦”の例外的存在にしている特徴は次のものです。

(3)「顓頊暦」の暦元(暦の「上元」)は「夜半(午前0) ・冬至」ではなく「正午・立春」である。

 上記から、日蝕(新月の時に起きる現象)の日を調べることで次のことがわかります(たぶん)

(4)「朔」で起きる日蝕が「晦」(朔の前日)の出来事としていつごろから記録されるようになったか。

(5)最後の「朔」日蝕の日から最初の「晦」日蝕の日までの経過年数。

(6)経過年数と「章法」の「置閏法」から、その間の閏年の回数(おおよその予想)。

(7)「朔日蝕」の月と「晦日蝕」の月から「閏月」の正確な回数及びその間の朔望月数(わかる「だろう運転」)。

(8)「顓頊暦」の「暦元」の時刻が「正午」なので、「暦」が0.5日以上遅れると「一日」遅れる現象が生じる。すなわち、最後の「朔日蝕」の日の新月の時刻が何時頃だったかによって推測範囲が広がってしまうのですが、「四分暦」のズレ(遅れ)る速度は一定なので、経過年数・経過月数などから、最後の「朔日蝕」の場合の新月の時刻が何時かが大体わかる(はず)。つまり、制定してから最後の「朔日蝕」の日の新月の時刻にまで遅れるのに要する年数がわかる。

 以上のように考えています。どこでこの筋書きが頓挫するでしょうか。

 

 上記のやり方ではなく、単純に「四分暦」(3651/4日)と実際の太陽年(回帰年)365.24219040(J2000.0値)との差でおよその年数は求まる(約128年、次式参照)のですが、より精密に(史書と照合しながら)求めようとして上記のようにしているのです(果たして目論見通りになるでしょうか)。

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「四分暦」の回帰年(①)=365.25日

J2000.0の回帰年(②)=365.2421904日

一年の差(③=①-②)=0.0078096日

一日に達する年数(1/③)=128.0475312年128

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 この推算法だと、「顓頊暦」の制定時期は、「晦日蝕」が『漢書』に最初に現れた年の約128年前となります(少し「粗雑」な感じ)。

 「日蝕(新月の時に起きる現象)の日を調べる」作業量は尨大(Huge)になりそうです。

 そんな理由で、今回は「推測できる」とした根拠の説明だけになりましたが、本日はこれまでとします。

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